一日一東方
二〇〇七年 九月三十日
(風神録・洩矢諏訪子)
『かえるのうた』
ある日、洩矢諏訪子が大蝦蟇の池に素足をぴちゃぴちゃと浸して暇潰しをしていたら、池の底からぶくぶくとそれはそれは大きな蝦蟇が姿を現した。
まあ大蝦蟇の池なんだから大きな蝦蟇が居るのは当然のことなので、諏訪子はあまり驚かずに「おはよー」と挨拶をした。蝦蟇も喉を鳴らしてそれに応える。
だが、大蝦蟇の表情が何処となく優れないことに気付き、諏訪子は「どうしたのー」と気楽に問いかけた。蛙には表情筋がないのに何故解るのかと言えば、それは諏訪子が蛙の姿をした神様だから当然のことである。今でこそ小柄な女の子の肉体をしているけれど、いざとなったらその身をぬとぬとの蛙に変えて然るべき対応をするとかしないとかそのあたりは謎の粘液に包まれている。
大蝦蟇はしばしぐぇこぐぇことその巨大な喉を鳴らし、諏訪子に重い口を開いた。
「実を言うと、この界隈の蛙が虐待に遭っているのですよ」
音声は想像上のものである。
諏訪子の頭に届けられた声色は非常に陰鬱で、早いとこ対処しなければ自決も辞さないという覚悟を決めているようにも思えた。幻想郷の蛙が絶滅するかもしれない、そんな危機感を抱えながらこれから先の生を過ごすより、いっそのことみずからの手で――と考えるのも、無理からぬ話だった。
当人は別にそんなこと思っちゃいないのだが、それはそれ、そう簡単に他人の心は読み切れないというところであって。
「よぉし」
諏訪子は立ち上がる。
大蝦蟇はその突き出た眼球を諏訪子に向け、何事かを喉を鳴らす。げこげこと、求愛の響きにも似た鳴き声を聞き、諏訪子はぽっと頬を染めた。
やだもー、としばらくちらちらと大蝦蟇の雄々しい肉体を観察していたのだが、大蝦蟇が慌てて誤解であることを言い繕うと、何だか残念そうに唇を尖らせた。
閑話休題、こほんとひとつ咳払いをして、諏訪子は神奈子と違いすっきりとした胸を力強く叩いた。
「この洩矢諏訪子。あなたの願い、しかと聞き届けました」
大蝦蟇は、自信満々に請け負う諏訪子に感謝の念を送った。
諏訪子はにこにこと笑っていた。
犯人は湖にいる。
大蝦蟇から情報を引き出した諏訪子は、満を持して霧の湖にやってきた。
きょろきょろと辺りを見渡しても、それらしき妖精の姿は見当たらない。向日葵を抱えていたり、トリオ漫才をしていたり、誰かを探していたりする妖精はいるものの、見た感じ寒そうなのは確認出来ない。氷精だからすぐにわかる、と大蝦蟇は言っていたが、はてさて。
「ねー」
そこいらを忙しく飛んでいる妖精に声を掛ける。
緑髪の妖精は一瞬びくッと身を震わせたが、相手が初めて見る存在だと知ると、ほっと安堵の息を漏らした。
諏訪子は首を傾げる。
「ん、なに、誰かと間違えた?」
「ぁ、いや、そういうわけじゃなくて」
彼女はふるふると首を振って曖昧に否定する。しかしその否定している内容がよくわからない諏訪子は、何やら困惑している妖精にずいぃっと擦り寄った。妖精がおろおろするのと裏腹に、なんだか早苗に似てるなぁとキャラを全面否定するような不謹慎なことを考える諏訪子だった。
「んん、それは、私にも言えないこと?」
「うぅ、それは、その、初対面だから……」
目を白黒させて、おたおたする姿が可愛らしい。早苗も昔こんな感じだったよなぁ、などと郷愁の念に駆られながら、諏訪子は上目遣いに妖精の顔を覗き込んだ。
「私は、ちょっと訊きたいことがあるの」
「う、うん。私に答えられることなら」
明らかに動揺を隠し切れていない様子だったけれど、押し殺そうとしている感情を故意に裏返す必要もない。可愛いなぁ、と諏訪子はにやにやと質問した。
「このあたりに、なんだか冷たい妖精がいるって聞いたんだけど」
「……いる、かなぁ」
「いるよ」
「そ、そうかな」
口ごもる。
ほとんど密着した状態にもかかわらず、妖精は諏訪子からも諏訪子が被っている帽子の目からも瞳を逸らしている。隠し事は苦手な性格と見た。脂汗を掻いていないだけ立派だが、やせ我慢は身体によろしくない。ここらでひとつ、諏訪子は彼女を苦しみから解放してあげることにした。
「ね、教えてくれる?」
「え、な、なにを」
とぼける妖精を前に、諏訪子はにやりと笑う。
「氷精の居場所」
「うっ」
声が詰まる。
諏訪子の読みは正解だった。この妖精を辿れば、蛙を虐めていた氷精に辿り着く。あーとかうーとか言いながら何とか取り繕おうと試みる妖精の姿は実に健気で、もうちょっと小柄なら守矢神社に連れ帰って早苗の妹にしているところだった。
しばらくわたわたしていた妖精だったが、これ以上はどうもこうもならないと判断し、かくんと肩を落とした。
「はぁ……、もう、しょうがないなぁ……」
「そ。しょうがないしょうがない」
諦めるのは悪いことじゃないよ、と慰めにもならない慰めの言葉をかける。
諏訪子の圧力に屈した緑の妖精は、観念したようにぽつぽつと語る。おろおろしている姿も可愛らしいが、ひとつひとつ丁寧に言葉を紡ぐ姿もよく映えた。
「……実は、チルノちゃんが何処にもいなくて」
「チルノって言うんだ、その子」
「うん。ちっちゃくて猪突猛進なんだけど、夏は重宝するの」
褒めているのか貶しているのか判然としない。
妖精は続けた。
「朝から探してるんだけど、ずっと見つからないんだよ。おかしいな……、誰にも会ってないみたいだから、ここじゃないのかな……」
首を傾げる。
氷精の繋がりが絶たれそうな危機に直面し、諏訪子はすかさず助け舟を出した。諏訪子としても、チルノに会わなければ何もせずに終わってしまうのだ。そうなると、大蝦蟇の前で神様として大見得を切った意味がない。
「他に出没しそうなところは?」
「うーん……。ここんとこ蛙の虐め過ぎで大蝦蟇さんに狙われてるみたいだから、あそこには行かないように言い付けてるんだけど……」
悩み過ぎ、大きく皺が寄った妖精の眉間を、諏訪子は人差し指で突く。
すべすべした。
「はゃぅ!」
虚を突かれ、大の妖精が中空でじたばたする。
期待を裏切らない妖精の動きに和み、諏訪子は満足げに頷いた。
この子なら、安心だ。
「よし。それじゃ、大蝦蟇の池に行けば早いよ」
「えぇ……。でも、行くかなチルノちゃん……」
「行く。親の言い付けは守らない性格だよ、その子」
「うぅ……、まだ会ってもいないのに見破られてるよチルノちゃん……」
チルノの力と性分を思えば、この妖精の苦悩もおのずと知れる。どちらも妖精なのだから勝手気ままに生きて行けばそれでいいのだろうけど、妖精にも人格はある。馬が合う、肌が合わない。いろいろと、具合が良いとか悪いとか、そんな瑣末に思えることが妖精と妖精を繋ぐ線になり、あるいは人間、妖怪とを繋ぐ糸になり得る。
例えば、そう、妖精と神様を繋ぐことさえ。
「そうと決まったら、ささっと行くよー!」
「あっ、ちょっと待ってー!」
湖の霧を切り裂くように、諏訪子は翔る。その後ろを妖精が追い、灰混じりの空に不恰好な線が引かれる。
もうすぐ、お昼になろうとしていた。
大蝦蟇の池に舞い戻った諏訪子が見たものは、大蝦蟇に頭から飲まれているチルノの下半身だった。
状況的に終わっている。
「きゃあぁぁぁ――!」
大妖精の叫びを聞き、チルノらしき足がじたばたと蠢く。大蝦蟇が諏訪子を一瞥し、心持ち誇らしげに瞬きをした、ように見えた。諏訪子は苦笑いする。
大蝦蟇のお昼ごはんと化したチルノは、諏訪子に顔を合わせる間もなく消化されようとしている。傍目からすれば、妖精のようにきゃあきゃあ叫び出すのが通例だろうが、蛙の姿をした神様である諏訪子にはわりと日常的な光景であるので、さして気持ち悪いとも思わなかった。
しかし、大妖精はそうも言っていられない。
「ち、ち、チルノちゃん!」
動揺も困惑もありながら、友人の危機に心を奮い立たせて大妖精は大蝦蟇に立ち向かう。
チルノの脚を膝から抱え込み、大蝦蟇の巨大な腹に足を掛けて思いッ切り引っ張る。けれども大蝦蟇の吸引力もひとかどのものであり、チルノのスカートが脱げそうなくらい強く引っ張ってもびくともしない。しかも大妖精の目線からは大蝦蟇の口の中が垣間見え、大蝦蟇の長く太い舌がぬろぬろとチルノに絡みついている地獄絵図が窺えた。えらいことである。
はぅ、と大妖精の力が一瞬抜け、またちょっとチルノが引きずり込まれる。
徐々に飲み込まれていく恐怖に耐えているのは、チルノだけでなく大妖精もまた同じだろう。それを思えば、大蝦蟇が同胞である蛙の虐待に心を痛めていた気持ちもわかるし、復讐したいという感情も頷ける。だからこそ諏訪子は敢然と立ち上がったわけで、妖精たちと蛙たちと、そのどちらに非があるかという議論を行う気にはなれない。初めはチルノが悪かった、でもそのチルノにも友達はいるのだから、一方を切れば丸く収まるということにはなるまい。
諏訪子は悩んでいた。
「あーうー……」
「も、もうちょっとだから……! だから、我慢してチルノちゃん!」
「ぬ、ぬるぬるー……」
「いやあぁぁ! 舌が、舌がこっちまで来てるぅー!」
実に混沌としていた。
大蝦蟇は大蝦蟇で平然と喉を鳴らしているように見えるけれど、実際は大妖精の存在に大きく心を揺さぶられている。大蝦蟇から感じられる思念を分析するに、どうやら好みのタイプらしい。
知らんわ。
「まったく、私に色目使ってたくせに……ぶちぶち……」
見当違いの愚痴をぶつぶつと呟いている間にも、事態は前に後ろに進行している。
諏訪子は第三者の立場に飽き始めていて、それぞれの事情はありながら、みんなが愉快に遊んでいるのが何だか気に食わなくなって来た。なんで混ぜてくれないんだ、いや、混ざりたいなら、自分から行かないと駄目だ。そうと決まれば、話は早い。
「よし!」
諏訪子は腹を決めた。
服に描かれた蛙が笑う。自嘲か嘲笑か、あるいは自分を鼓舞する笑みか。その答えはただ諏訪子の中に、ただ面白おかしく遊びたいという神様の気紛れに従う。
鉄の輪が、腕時計のように諏訪子の手首に絡まる。
「せぇ……のっ!」
大きく両腕を広げ、鳥が力強く羽ばたくイメージで、鉄の輪を腕から放り飛ばす。
未だに綱引きを続けている大蝦蟇たちに向けて、鋭い弧を描きながら二個の鉄輪が舞う。しゅるしゅると滑空する鉄輪の音を聞き、振り返ると、大蝦蟇も大妖精もぎょっとする。チルノは相変わらずじたばたしていた。
猛進する鉄の輪の向こう側に、両腕を大きく振り上げる諏訪子が見えた。それと同時に、鉄の輪の軌道が上方に修正される。理想的な着弾地点を見定めた諏訪子は、狙い澄ましたかのように瞳を凝らす。両腕を左右に広げ、身体の前方で×を描くように鋭く交差する。
「行けぇっ!」
大妖精は、咄嗟に大蝦蟇から脚を離した。
大蝦蟇もチルノを吐き出そうとしたが、なかなか深いところまでチルノを飲み込んでいたから、一気に戻すことが出来なかった。げぇこ、と喉が鳴ったくらいである。
それが死線となった。
「――――!」
大蝦蟇のお腹に、鉄の輪が深く重く、強くめりこむ。
遠く、諏訪子が勝利の拳を握り締めていた。
ぐぇ、と嗚咽とも鳴き声とも言えない音が漏れ、程無くして、大蝦蟇は物凄い勢いでぬるぬるべとべとのチルノを吐き出した。
「チルノちゃん!」
と、大妖精が感動的に手を差し伸べる余裕もなく、落下する途中に鉄の輪が脳天を直撃したチルノは、頭から池に落ちてぶくぶくと沈み始めた。水面に浮かび上がる水泡と、手を差し伸べたまま儚げに佇む大妖精はとても画になった。
諏訪子は満足げにうんうんと頷く。
「チルノちゃん!?」
一も二もなく池に飛び込む大妖精が、友達思いの優しい子であることは明白だった。
一方、本来的な意味からチルノを食べようとした大蝦蟇と、同胞である大蝦蟇に攻撃を仕掛けた諏訪子が極悪生物であるかどうか、それを善悪二元論で判断することは叶わない。
大蝦蟇はチルノを痛い目に合わせることが出来、大妖精もチルノを助けることが出来た。諏訪子も大妖精の力になることが出来た。形だけ見れば、きれいに丸く収まっていると言えないこともない。
「酷いですよ、全く……けほけほ」
「いやぁ、ごめんごめん」
喉を押さえながら、大蝦蟇が諏訪子に愚痴る。諏訪子は特に悪びれる様子も無く、けれども大蝦蟇は何も言わない。諏訪子の優先するものが、たまたま大蝦蟇との約束より上に来てしまっただけのことだ。しょうがない。しょうがないのだ。
が。
「なら、しょうがありません」
「ん。しょうがないしょうがない」
頭の後ろに手を組み、諏訪子は池の底を覗き込んでいる。
大蝦蟇は言う。臆面もなく。
「あの娘の代わりに、貴女を食べてもよろしいですか」
淡々と、長い舌をべろんと出す。準備は万端、と言いたいらしい。
諏訪子はふと顔を上げ、ようやく池から顔を出した大妖精とぬるぬるチルノに小さく手を振ってから、小さくちょろんと舌を出した。
「だーめ」
蛙の姿をした神様なのに、その舌は、あんまり長くもなかった。
秋静葉
秋穣子
鍵山雛
河城にとり
犬走椛
東風谷早苗
八坂神奈子
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