一日一東方

二〇〇七年 九月二十八日
(風神録・東風谷早苗)

 


『奇跡の星』

 

 

 海を割るのは大道芸じゃないというのに、せがまれると拒み切れないところが東風谷早苗の人柄である。
 宴の後、早苗はひとり、湖のほとりに佇み、夜の風を浴びている。湖を真っ二つに割った影響から、相当の疲れが身体に染み込んでいる。淡い熱が額に宿り、ほろ酔い程度の胡乱さが胸に絡みつく。ぼんやりと、これまでのこと、これからのことを思うには、理想的な状態だった。
 此処に居るのが、たったひとりなら。
「おつかれさま」
 振り返り際、夜の湖が見えた。
 打ち寄せる波の音は心地よい静けさで、明かりといえば天上に浮かぶ黄金の月くらいなものだから、湖の底は黒く深く、覗き込むものを引きずり込みかねないほどの深淵を秘めている。
 ぞっとした。
「これ、水ね」
「ありがとうございます」
 素直にお礼を言い、霊夢が差し出す枡を受け取る。
 私の酒が飲めないのか、と早苗を無理やり飲ませようとした人妖が一体どれくらい居たか数えるのも面倒だが、ともあれ早苗は飲めるだけ飲んだ。気分が悪くならないよう、自制しながらお猪口をちょいちょい傾けていたのだが、やっぱり、慣れないことはするものじゃない。程無くして頭がくらくら揺らめき、平衡感覚を失って、そのまま横になって動けなくなった。意識が途切れたのは一時間くらいだったが、ふらふらと起き上がったら湖を割れと言われた。あなたの頭を割ってやろうか、と言いそうになった相手が伊吹萃香だったというのは、もう少し暑い季節だったなら気の利いた冗談になったかもしれない。
 今は、ほのかに残る熱があるばかりである。
 水を飲み、少し落ち着いてから、霊夢に話しかける。霊夢は宴会の中心に居ながら、酔っ払っている気配が全くといっていいほど感じられない。酒豪か、身体が馬鹿になっているのか、あるいはそのどちらも正解なのか。
 早苗には、真似出来ないことだった。
「……随分、お強いのですね」
「そうでもないわ、もっとザルなのがうじゃうじゃいるから。ま、鬼や天狗と本気で飲み比べしようもんなら、この湖でも足りないくらいだわ」
 冗談のようで、本気にも取れる響きだった。
 お互い、特徴的な巫女装束に身を包んでいる。霊夢は博麗神社の巫女として、早苗も山の上にある神社の巫女として、宴会に招かれた。いつものように、幹事は霧雨魔理沙である。
 如何なお題目があったとしても、要は皆が集まって酒が飲めればそれでよいのだ。霊夢も早苗も魔理沙にしても、神々や巫女や信仰云々に触れるのは最初の挨拶くらいで、次の瞬間には済し崩しに飲む飲ます飲まれるの流れに移行する。
 早苗は、これが毎日と言わずとも頻繁に繰り返されるのかと思い、少しばかり頭がくらくらした。
「どう、調子は」
「風が冷たくて気持ちいい」
「ん、それは何より」
 何処か誇らしげに、霊夢は微笑む。
 それから、穏やかな時間が過ぎる。言葉が無くても、居心地は決して悪くない。まだ知り合ったばかりなのに、霊夢は早苗を旧知の友のように扱っている。あるいは、誰も彼も、同じような態度で接しているのかもしれないけれど。
 早苗は、博麗神社の営業停止を訴え、そのためか霊夢に負い目を感じていたのだが、霊夢の対応があまりに安穏としているから、早苗もその空気に飲まれてしまった。結局、博麗神社は潰れず、山の神社にも合併しなかったのだが、博麗神社には山の神社の分社があるそうだし、そこから間接的に信仰を得られるのであれば特に問題はない。早苗の脅迫はやはり行き過ぎた行為であり、正道を貫けばよかっただけの話なのである。
 それに気付いたとき、早苗は落ち込んだ。
 今もちょっと落ち込んでいる。
「はぁ……」
「落ち込んでる?」
「そう見えますか」
「別に落ち込んでなくてもいいけど」
 霊夢は淡々と言う。
 早苗はわずかに迷い、結局、思いを打ち明けることにした。霊夢になら、何を告白しても「ふうん」と軽く受け流してもらえるだろうから。
「私、奇跡を起こすことが出来るんですよ」
「うん。知ってる」
「そういう家系だったから、特に何の疑いも無く、秘術を教えられて。別にそれが嫌だったわけじゃないけど、もし好きかって聞かれてたら、やっぱり答えられなかったのかなぁと思って」
「ふうん」
 興味があるのかないのか、柔らかな風に黒髪を流し、霊夢は簡単に相槌を打つ。
 早苗は続けた。長い髪が風に揺られて、背中を小さく叩いている。
「奇跡を起こせるくらいに上手くなって、でも上手くなったところで、崇めてくれるような人は居なかった。私は、それでもよかったんだけど。もう私ひとりの問題じゃないから、神社のことも考えないといけなかった」
「大変ねぇ」
「貴女も、そうなのでしょう?」
 問う。
 自然な流れだった、と思う。霊夢もまた、生まれながらにして、早苗と似たような宿命を背負っていたのではないか。漠然とした感覚だが、早苗はそう直感していた。
「……うーん」
 腕組みをしたり、額を撫でたり、リボンを触ったり。意に沿わない愛の告白に対するやんわりとした否定の文句を考えているような、明日の夕食の献立を考えているような、傍目にはよくわからない悩み具合だった。
 十秒くらいうんうんと唸っていた霊夢も、早苗が至極真剣な表情であることを改めて確認し、んー、と滑らかな頬をかりかりと掻いた。あなたの期待には応えられない。別に愛の告白をしたわけでもないのに、そんな悲しい台詞が聞こえたような気がした。
「私は、そんな特別な人間じゃないわよ」
 平然と言う。霊夢が意図せずとも、その言葉は早苗の胸に刺さった。
 早苗は、自分が特別な人間なのだと思っていたから。
 奇跡を起こし、現人神として崇められ、信仰を集める存在であるために。
 そう在ることが、当然であるかのように。
「……はぁ」
 馬鹿な話だ。
 幻想郷には、軽々しく奇跡を起こせる者が、それこそ溢れんばかりに存在するというのに。
 その中に埋もれた自分は、誰がどう見ても、普通の人間なのだと。
 ようやく、それに気付いた。
「だから、失敗したんですね」
「……あ、うちに脅しかけた話?」
 霊夢がきょとんとしながら言う。その惚けた顔に少し気が緩み、落ち込んでいた心がほんのわずかに起き上がる。それはまるで水泡のように、暗い水の底から月明かりに照らされた湖の水面に浮かび上がり、ぱちんと弾ける。
「ま、確かにびっくりはしたけど。そんなのいちいち気にしてたら、妖怪退治なんてやってられないわよ。一癖も二癖も、ていうか癖がありすぎて何が癖だかわかんないくらい」
「大変ですね」
「他人事ねえ」
 他人事ですから、と聞こえないように呟く。
 話が終わると、しばらく、陸に打ち付ける淡い波の音だけ響く。
 宴は既に終わり、それでもまだ飲み足りない連中は、湖に浮かんだ月と星を肴に杯を傾けている。魔理沙と萃香は肩を組み、傍迷惑な大声で、呂律の回らない歌を熱唱している。足並みの揃わない行進の行く先を見定めていた早苗は、その千鳥足の導く先が自分たちのいる場所だと気付いた。
「来ますね」
「来るわね、きっと」
 うんざりと、うっすらと微笑ましさを滲ませながら、ふたりは言う。
 静かに時を過ごすのも良いけれど、たまには、騒がしいのも悪くない。
 早苗は、満天に広がる無数の星々に向かって、大きく伸びをする。
「魔理沙が言うには」
 その最中に、霊夢は思い出したように言った。
 早苗は、腕を下ろしながら霊夢の言葉に耳を傾ける。空に光る星の輝きは、早苗の瞳にも、ちゃんと映り込んでいる。
「普通の魔法使い、だそうよ」
 自然と、顔が綻ぶ。霊夢は多少苦笑に近いものだったけれど、それでも、笑っていた。
 なるほど、彼女らしい台詞だ。
 ならば自分は、どんな巫女になろう。望まなくても、幻想郷なら普通の自分になれる。奇跡や巫女や現人神の束縛に従う必要はない、ただ、やりたいようにやればよい。
 さあ、何をしよう。
 奇跡じゃなくて、普通でいいんだ。
 普通の女の子がするような、普通のことを。
 東風谷早苗として。
「――――なら、私は」
 もうちょっとだけ、強いお酒を飲んでみようか。

 

 

 

 



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2007年9月28日 藤村流

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