一日一東方

二〇〇七年 九月二十三日
(風神録・秋静葉)

 


『あの空に手が届きますよう』

 

 

 彼岸花の季節である。
 地面から突き出た茎が、青ずんだ空に紅い花を咲かせる。秋の涼やかな風に揺さぶられる紅い手のひらの群れは、無機質に立ち並んでいる黒い石群をただ漫然と見守っていた。
 墓地に咲く彼岸花は多い。
 あぜ道に咲いているのは鼠や土竜の通り道を塞ぐためである。それと同様、彼らの棲み処を埋めるために彼岸花は咲いている。別に、この冷たい地面の底に眠っている誰かのために咲いているのではない。ただ気が向いたときに、彼岸花は墓地に訪れる誰かの心に、その色を亡き者の慕情と憐憫に重ねてなお鋭く刻み込むのである。
 彼岸の入り、朝から人の影が多い。子連れの影が青い空の真下に現れ、御影石の隣に、しばし佇む。
「あ」
 寄り添う女の子が、墓石の裏に、何かを見つける。
 指差し、とたとたと歩み寄る。母親は、墓前に手を合わせているから気付かない。線香の薄暗い煙がまっさらな空に吸い込まれる。打ち上げられた弔いの狼煙は、空に漂う魂に届くだろうか。あるいは、石に染み込んだ静謐な清水が、土深くに眠る亡骸に染み入るのだろうか。
 どちらでもよい。
 願いはただ、祈りはただ、手を合わせる者の心にのみ要る。
「……あ」
 母親が、まぶたの裏に刻まれた誰かの姿を思い浮かべているうちに、女の子は何処かに消えていた。
 辺りを見渡しても誰もいない。声もなくそびえる墓石と、音もなく揺れる彼岸花が広がるばかりである。
 また大切なものを失ってしまったのかと狼狽し、膝から崩れ落ちる母親の前に、ひとつの影が近付く。差し伸べられた手は、娘よりも大きなものであったけれど、俯きそうになった顔を上げれば、見慣れた顔があることに喜びを感じられる。
「おはようございます」
 上白沢慧音は、母親の手を取り、厳かに黙祷した。

 

 

 女の子が誘われた小道には、彼岸花が咲き乱れていた。
 高い木々はその葉の色を薄らぼんやりと滲ませ、左右には紅い花々の葬列が並ぶ。壮観だった。それらを美しいと思うことが出来る女の子には、確かに、この光景は美しいものだった。
「わぁ」
 感嘆の声を上げる。とたとたと、頼りない歩みは続く。
 目の前に花びらを寄せ、くんくんと香りを楽しむ。匂いに鼻をしかめ、くすくすと笑う。お母さんは朝から押し黙っていたけれど、すこしくらい羽目を外してもいいはずだ。その方が、きっと楽しい。
「ねぇ」
 声が聞こえて、立ち止まった。
 きょろきょろと、彼岸花の海に視線を投げる。
「こっち」
 手招きするような声が聞こえて、女の子は、そちらを向いた。
 その少女は、金色の髪に、紅い紅葉の葉をあしらった髪留めをしていた。ひらひらと舞う紅いスカートが、咲き誇る彼岸花の海に漂い、溶けて消え失せているように見えた。
 綺麗だ。
「初めまして」
「……あ、初めまして!」
 少女に倣い、女の子もぺこりと頭を下げる。スカートの端を摘まみ、一礼する姿がなお綺麗だった。女の子も真似したかったけれど、もんぺだったから無理だった。
「今、ひとり?」
「うん。お母さん、まだあっちにいるんだ」
 指差した方向に、暗く聳え立つ墓石の姿は見当たらない。けれども少女も女の子も、そんな些細なことは気にしない。
 大切なことは、今、この瞬間に出会えたこと。
「じゃ、遊ぼっか」
「うん、いいよ!」
 女の子は、快活に頷いた。きらきらと輝く瞳は、日の光を浴びてなお輝きを増す。
 太陽は、彼岸花の紅、少女の紅葉を、より煌びやかに照らし出していた。

 

 

 彼岸花の紅は紅葉にあらず。
 けれども秋を彩るには格好の紅であることに相違はない。だから、秋静葉は、咲き乱れる彼岸花の姿を紅葉の始まりと解いた。それが正鵠を射ようが的外れであろうが、それを切っ掛けに出会いが生まれたのなら、瑣末なことはどうでもよい。
 ふたりはくるくると彼岸花の海を舞い、泳ぎ、色鮮やかな輝きに酔いしれる。人は彼岸花を見て不気味と思い、凶兆の前兆かと疑い、死を思わせる示唆的な色合いに目を逸らす。だがそれは、彼岸花と墓場と死を連結させることによる錯覚が大きい。だから何も考えなければ、彼岸花はただただ美しいのだ。広がる紅い花びらは、青い空を掴もうとする手のひらのようにも見え、絶望より希望を託す方が相応しくも思える。
「綺麗ね」
「うん、すごく、きれい……」
 ほう、と女の子が息を吐く。静葉は、呆然としている女の子の肩に手を置き、「少し、休もうか」と提案する。女の子も、こくりと頷いた。
 まっさらな地面に座れば、女の子は彼岸花にすっぽり隠れて消えてしまう。静葉は女の子の肩を抱き、よしよし、と頭を撫でてあげる。女の子はむずがゆそうに喘ぎ、静葉の腕の中でむにゃむにゃと眠気を訴えた。
「ねぇ」
「……ん、なぁに」
 ぼそぼそと、か細い声が静葉の耳に届く。眠りに落ちるのはもうすぐだ。
 静葉は尋ねる。
「あんまり、お母さんを悲しませちゃ駄目だよ」
「……うん、わかった」
 寝惚け眼で、きちんと約束する。静葉は微笑む。
 腕の中に、確かな温もりがある。きっと女の子がいなくなっても、その熱はしばらく消えることはない。だから、あまり寂しいと思うことはない。そう信じたかった。
「じゃあ、そろそろお帰り」
「……うん。うん」
 頷く。
「……ごめんなさい」
「いえ。謝らないで」
 楽しい時間を、ありがとう。
 伝えたい言葉は、他にもたくさんあったのだけど。
 静葉の腕の中に埋もれていた女の子は、初めからそこには誰もいなかったとでも言うように、跡形もなく消えて無くなっていた。
 静葉は、かすかに残る熱と重さを確かめるように、何もない空白を強く掻き抱いた。

 

 

 線香の煙は、今日のみならず、明日も明後日も明々後日も、この涙が出るくらいに青く澄み切った空を、くすんだ灰色に染めるのだろう。
 手を合わせる人のまぶたの裏には、今はもう存在しない誰かの姿が映っているのだろうか。
 慧音は、最愛の娘を亡くした母親の背中を見守りながらも、胸の疼きを抑えられずにいた。
「娘がいたんです」
 うん、と慧音は答えた。
「まだちっちゃくて、ちょうど、しゃがめば彼岸花と同じになるくらい」
 お供え物を狙う鴉が、朝だというのに目聡く木の枝に留まっている。
「今日もね、隣に、あの子が寄り添っていた気がしたんですよ」
 はっきりと、声を詰まらせることもなく、静かに語りは続く。
「でも、飽きちゃったんでしょうか。それとも、わたしはここにいるのに、どうしてお墓に手を合わせているの、なんて、拗ねちゃったのかもしれません」
 くすくすと、何処か錆びついた笑いを零す。
「きれいな、花が好きで……」
 そっと、手のひらを伸ばした先に、色鮮やかな彼岸花が咲いていた。
 まるで、女の子が手のひらをめいっぱい広げたような彼岸花の花びらに、そっと、母親の手が重なる。
 太陽の光を浴びた彼岸花は、ひどく、温かい。
 はらり、と涙が頬を流れる。
「ごめんね……」
 それは一体、何に対する謝罪だったのだろう。
 慧音は、ただ、手のひらを合わせることしか出来なかった。
 線香の煙は、屈託のない青空に向かって、薄く、長く伸びている。

 

 

 紅葉にはなりえない、紅い花びらが舞う。
 はらはらと躍る彼岸花の中を、くるり、くるりと、神様が廻る。
 散り急げども、紅の季節は終わらない。
 咲き、散り、紅に黄に染まる葉の美しさを想い、また、刹那の輝きに彩られた、彼岸花を慈しむ。
 彼岸は何処にあるものか。
 願わくはその岸辺には、散りやまぬほどの、紅い花びらが咲いていますよう。
 スカートの裾を持ち上げながら、静かに、深く、秋静葉は一礼した。

 

 

 

 



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2007年9月23日 藤村流

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