一日一東方

二〇〇七年 九月二十七日
(風神録・犬走椛)

 


『house』

 

 

 姉さん、事件です。
「お手」
「犬じゃないんですから……」
 上司がこんなこと言ってきます。
 勘弁してください。
「あらあら、躾がなっていないのね」
 ふふふ、と古惚けたヤツデの葉を口元に翳し、射命丸様は言う。
 鴉天狗たる彼女は、白狼天狗である私の上司に該当する。射命丸様の命令があれば、よほどのものでない限り快く従い、尽力し、協力する。よほどのもの、という区分けは犬走椛の胸先三寸にかかっているわけだが、今しがた彼女が命じたような行為を嬉々として行うことはない。断じて。
 だって犬じゃないもん。
「じゃあ、ちんちんでもいいわよ」
「どうしろと……」
 悩む。
 射命丸様は若干失望したような表情を浮かべ、じゃあ何が出来るのよと開き直った。千里先を見通せます、と告げたら、もっと私が喜ぶような芸を見せなさい、と酒の肴を探しているような調子で言った。
 妖怪の山の麓、紅葉にはまだ早いが、山の空気は夏から秋に揺れ動いている。哨戒に忙しかった私を呼び出し、何事かと色めきたつ私に下された指令が、お手だった。
「残念ながら、お手、などという命令には従えません。如何な鴉天狗様といえども、私も天狗の端くれ、人に媚びへつらって尻尾を振っている犬と位を同じくするなど」
「堅苦しいわねえ」
 やれやれ、と肩を竦める。
 それが何処か子どもを馬鹿にしたような仕草だったから、私はすこしむっとしてしまった。
 射命丸様は私の表情を一瞥し、くすりと笑う。彼女はよく笑う。強いものは大抵笑顔である、と書いていたのは、何処の文書だったろうか。
「お手なんかしても、狼が犬に先祖返りしたりしないわよ。行為は行為、格は格、種族は種族。犬は犬で生きているし、狼は狼で、鴉は鴉で各々の生活を送っているわ。だからそのどれが上か下かを計るのは、それこそ下郎のすることよ」
「……ご高説感謝致しますが、結局、ぐだぐだ言ってないでさっさとやれってことですよね」
「そう。お手」
 ほら、と手のひらを差し出す射命丸様。ぐっと悶える私。
 八方ふさがり、万事休す。けれども現状を打開するのは簡単である。お手をすればよい。お手。ぽん、と射命丸様の手のひらに、軽く握った私の拳を乗せればそれで済む。何がしたいのかよくわからないが、射命丸様の言うように、格と行為が別物ならば別段思い悩む必要もない。
 だが、お手である。
 犬じゃないんだけどなぁ……。
「……なんで?」
「ん、貴女、白狼天狗でしょう」
「はい」
 素直に頷く。今でこそ獣のような耳も尻尾もないが、昔は全身が白毛に覆われた狼だったのだ。それを誇りに思いこそすれ、卑下することなど有り得ない。
「だから、お手! て言われたら、するかなぁ、と思って」
「しませんよ」
「ちんちん! て言われたら、するかなぁ、と」
「真っ先にそれが思い浮かぶのもどうかと」
「ちんちん!」
「だからやりませんて」
 語気を強くするのはやめて頂きたい。特に後者。
 恥ずかしい命令ばかり下しまくる職権乱用な上司を振り切るための百の方法が知りたかった。でなければ、形式的にお手を行い、この場を切り抜けたい。守るべきだと信じていた矜持や自負は、構ってちゃんの上司と駄弁る怠惰な時間に比べれば、よっぽど薄っぺらいものだった。
 はぁ、と聞こえよがしに嘆息する。射命丸様は、気にした様子もない。
 射命丸様と話すのも嫌いじゃないけれど、一応は目上の方だから、付き合っていると緊張するのだ。向こうはどう思っているか知れないが、こちらはなかなか馴れ馴れしく接することは出来ない。
 難しい距離感である。
「解りましたよ……」
「ちんちん!」
「そっちじゃありません!」
 頑なに拒絶する。
 そも、ちんちんって雄じゃないと駄目じゃないのか。
 そうでもないのかな。
「それから、カメラに撮らないでくださいね」
「ぎく」
「撮る気だったんですか……」
「自分用! 自分用だから!」
 力強く言い訳するも、自分用の意味がよくわからない。あまり気付きたくもなかったから、聞こえなかったことにしよう。
 諦めにも似た表情のままじっとしていると、ふと、柔らかい調子で射命丸様は言った。
 何の根拠もないけれど、垣間見えた彼女の表情が、母が子を見るそれであるように思えて。
「まぁ、貴女は馬鹿にされてると思ってるかもしれないけど、私は犬走椛を可愛い後輩だと思ってるから」
 ね、と微笑みかける。
 だから、お手をさせようというのか、この先輩は。無茶苦茶な理論だ。筋が通っているようで、全く通っていない。傍迷惑も良いところである。
 あぁ、でも。
 こういう好意は、とても簡単で、気が楽だ。
 胸がすっきりする。
「可愛いから、そういうことをさせると」
「そういうこと」
 満足げに頷き、手のひらを差し出す。
 期待にきらきらと瞳を輝かせている射命丸様を前に、今更ながら、もう逃げられないのかと肩を落とす。身から出た錆というには些か業が深すぎるようにも思えるが、一度決めたのなら立ち向かうのが道義である。私は覚悟を決め、おずおずと軽く拳を握る。
「あ、ちょっと待って」
 射命丸様が制止の声を上げる。
 何事だろうと待機していると、彼女の指が、くいくいと地面を指している。その意味を捉えかね、首を傾げていたら、わかってないなぁみたいな顔をされた。何だかよくわからないが、別によくわからないままでもいいような気がする。
「とりあえず、しゃがんで」
 指示に従う。
 嫌な予感はした。
「次に、膝は立てて、その間に両手を……。うん、そんな感じ」
 値踏みするような、舐め回すような目を私に浴びせ、射命丸様は満足げに頷く。
 嫌な予感はした。
 既に手遅れであろうとも。
「あーん、して」
「嫌です」
「それから舌をべろーんと出して、へっへっと荒い息を……」
「嫌です」
「貴女それでも犬?」
「狼です」
 ちぇ、と露骨に残念がる。可愛い後輩に犬の真似事をさせることが愛情表現なのか、この鴉天狗は。
 それがたとえ如何に歪んでいても、天狗であることには変わりなく、尊敬は出来る上司である。だからまぁ、舌は出せないまでも、犬座りくらいは保持してあげた。
 お尻が地面に擦れて、ちょっとひりひりする。
 射命丸様は、興奮を抑え切れない様子で鼻をふんふんさせている。どっちが犬だか。
「これで、いいですか……?」
 物凄く幸せそうな顔で親指を立てられた。
 疲労感だけはたっぷりと、けれどもその底にほんのわずかな安堵、充足感のようなものを抱く。よくはわからないが、ともあれ、本当に無駄な時間を過ごしていたのなら、決して味わえない感覚であることは疑いようもなかった。
 すごく恥ずかしいけど。
 待っている間も照れるから、早いとこ、例の言葉を言って欲しかった。
 あの、傲慢な命令を。
「お手」
 あるいは冷徹さすら感じられるほど淡白に、射命丸様は私に命じた。
 恭しく、本当は特に何を思うでもなく、犬のように座り込んだ体勢で、射命丸様の顔を見上げながら、おずおずと拳を差し出す。
 ぽん、と音がしそうなほどふんわりと、柔らかく、射命丸様の手のひらに乗る。
 心の中で、わんって咆えろ、という囁きが聞こえ、それを全力で阻止しようとして。
「……わぅ」
 漏れた。
 私の中に埋もれていた本能がそうさせたのか、それとも、この場の雰囲気に呑まれたのか。
 いずれにせよ私が漏らした呻き声は、射命丸様を貫くのに十分過ぎるほどの威力を秘めていたようだった。何処か、感無量といった表情をしている。
「も、も……」
「も?」
 何のことか解らず、安易に聞き返す。
 すると、射命丸様ががばっと腕を開き、いきなり私に抱き付いてきた。
「もみじー!」
「ちょっ、あっ、しゃめいまるさま……!」
「やぁ……、今日は、あやって呼んでぇ……」
「あ、ぅぅ……」
 抱きつかれて動けなくなった私は、成す術もなく射命丸様に頬擦りされる。ぷにぷにと柔らかいのは射命丸様の肌も同じで、でもやっぱり髪の匂いをくんくん嗅がれるのは、なんというか、その。
「あー、ほんとに椛は可愛いんだから……。もー、撫でちゃう」
 うりうり、と髪の毛をくしゃくしゃにされる。ちょっと痛い。
 動けない。全く動けない。現状を打破しようと折角お手に乗じたのに、それが全くの裏目に出てしまった。抱き締められる感触も悪くないけれど、これからどうすればいいかわからない。抱き締め返すのも何か違う気がする。かといって、愛でられ続けているのも不自由だ。往々にして愛は縛られるものであると説いたのは別に何処の誰でもなかった気がするけれど、何にせよ、射命丸様に愛されていることはよくわかった。
 はぁ、と搾り出すように息を吐くと、どうしたの、と顔を覗かれる。
 すんごく近い。
 黒い瞳が深く澄み、キラキラと透き通るように輝き、その中心に、私がいる。
「椛ちゃんー」
「ちゃん付け……」
 もうどうでもよくなってきた。
 射命丸様はにこにこしていた。
 いい笑顔だなぁ。
「もっかい、わぅ、て言いましょうか」
「嫌です」
 私は、力強く宣言した。

 

 

 

 



秋静葉  秋穣子  鍵山雛  河城にとり  東風谷早苗  八坂神奈子  洩矢諏訪子
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2007年9月27日 藤村流

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