一日一東方
二〇〇八年 一〇月二十四日
(地霊殿・お燐)
『いつか、あなたと巡り会えたら』
「付いてくんなよ」
振り返り際、お燐は後ろを付いて来る女の子に冷たく言い放つ。灼熱地獄の跡地にて、十にも満たない人の子どもが、何かを訴えるようにお燐を見つめている。
いつものように、怨霊を手懐けたりお仕置きしたりしながらのんびりと見回りをしていたのだが、ほんの三十分ほど前から、女の子が付いて来るようになった。何処から現れたのかもわからない。唯一、お燐にわかることと言えば、女の子が既に死んでいるものだということくらい。
しかし、怨霊の類にしては怨念が弱い。人の形を明確に取っているあたり、亡霊の線が硬いか。おおかた、何かの手違いでこちらに迷い込んできた類だろうと思うが。
お燐は、ひらひらと手を振る。
「帰んな。ここは、おまえみたいに綺麗な亡霊がいるような場所じゃないんだ」
説得しても、頑として動かない。にっちもさっちも行かない状況に、お燐は鬱陶しげに頭を掻く。
死体を勝手に持ち去る悪癖のある彼女であるが、こうも汚れのない霊は、食べるのも連れ去るのも気が引ける。必ずしも、死んでいればいいというものでもない。死体以上、怨霊未満の輩がいちばん手を出しにくいのだ。
だから、あまり構いたくはなかった。
「……だから、付いてくんなって」
それから十分ほど歩き回っても、女の子は飽きもせずに付いて来る。若干、透けているようにも見えるし、ただ顔が青白いだけのようにも見える。こざっぱりとした麻の生地を纏い、草履もまだ新しい。
棺の中が目に浮かぶ。きっと、女の子の行く道が穏やかであるよう、家族か親類が新調したものなのだろう。
眩暈がする。
「だったら、寄り道なんてするなよ。具合が悪くなるだろう、見ている方が」
女の子は答えない。
死体や霊と会話が出来るお燐でさえも、語る気のない、あるいは語る言葉を忘れてしまった者の声は、聞こうと思っても聞こえないのだ。
「しゃーないな……」
立ち止まるお燐の裾を、女の子が小さな力で引いている。言いたいことがあるのなら、その口で言えばいいものを。結局、いくら待っても、女の子が何か意味のある言葉を告げることはなかった。
への字に曲げた口の隙間から、溜息を無理やり吐き出す。
あまり、この手段は取りたくなかったのだが。やむを得まい。
困ったときは人に聞く。
我らが主、古明地さとりの意見を聞こう。
「出産おめでとう」
「似てないですよ全然」
「冗談よ」
心が読めるのだから、事の次第は解っているはずなのに、さとりは挨拶代わりにいつもそんなことを言う。椅子に腰掛け、膝の上に黒い猫を乗せているのも変わらない。動物屋敷と化した地霊殿は、あちこちにペットの特等席がある。昔、さとりの膝はお燐の特等席だった。今、その場所が別の猫に取られていることを、今更悔しいとも思わないが。
くい、と袖を引かれる。
下を見ると、女の子が構って欲しそうにお燐を見上げていた。
「どうしろと……」
「撫でてあげればいいじゃない」
さとりは事も無げに言う。
「……こう?」
言われた通り、女の子の頭を撫でる。霊といえども、霊を感知することが出来るのなら、霊に触れることも出来る。女の子はむず痒そうに身をくねらせ、それでも、どこか気持ちよさそうに顔を綻ばせている。
「猫みたいね」
「いや、へこへこ付いて来るところは犬そっくりかと」
「懐かれたわね。ペットにでもすればいいんじゃない」
「さとり様じゃないんですから……」
さとりは、含んだ笑みをこぼすのみである。ちょっと怖い。
結局、さとりがお燐に助言らしきものをすることはなかった。面と向かって、ああしろこうしろと言うような性格じゃないにしろ、何か指針のようなものはくれるだろうと信じていただけに、お燐の落胆も大きい。
「はあ……もう帰りますね」
「あらそう」
去り際の、項垂れたお燐の背中に、さとりは一言だけ告げる。
「でも、やっぱりお母さんみたいだわ。あなた」
やるべきことは解っていた。
この女の子を、地上の三途の河に送る。
きちんと家族に見送られたのなら、余計な寄り道などせず、行くべき場所へ向かわなければならない。
「にしても、空も飛べない霊なんてねえ」
やれやれと、女の子をおんぶしたまま、地上に向けて洞窟を飛んで行く。
背中に感じられる重みは、死体のそれよりも随分と軽い。肉体の縛りに囚われていないのだから当たり前だが、他にも何か大切なものが抜け落ちているような、妙な感触がある。
怨霊は、その怨みの強さの分だけ、重く出来ている。
持っていた全てを前の生に置いてきて、何の未練も持たずに死んだ者の霊なら、この女の子のように、酷く軽いのかもしれないが。
比較も何も出来ないから、想像するよりほかなかった。
「おまえは、空に帰るんだよ」
もう二度と、変なところに迷い込むんじゃないよと、お燐はなるたけ優しく語り掛ける。
相変わらず、帰される言葉はなかったけれど。
肩に触れる女の子のほっぺたが、少しだけ強く押し当てられたような気がした。
幸い、灰色の空は眩しすぎる太陽の光を遮ってくれた。
三途の河。
赤い髪をした死神が、巨大な鎌を肩に引っ掛けて、うつらうつらと舟を漕いでいる。ふと、お燐も自分の髪を撫でる。女の子はお燐の裾を引いている。初めて会った時よりも、幾分か強く。
「ほら。行きな」
女の子を促しても、どうすればいいのか解らないと言いたげに、お燐の顔を見上げるばかりである。
あるいは、どうすればいいのか解っているくせに、駄々を捏ねているだけのようでもあった。
「おまえはもう死んだんだ」
どうしようもない現実を突きつけると、少しだけ、泣き出しそうな顔をする。
死んだことさえ解らないほど、無邪気な存在でもない。だから、女の子がお燐に擦り寄ってきたのは、本当にただ迷子になって困っていたからであって。お燐が火車であることも知らず、あそこが灼熱地獄の跡地であることも知らず、ただ助けて欲しいと裾を引いていたのだ。
もう二度と、父や母に会えないことは知っていた。
だからせめて、早く行きたかったのだ。三途の河を越え、閻魔より審判を下され、再び輪廻の輪に還れるように。
「えらいね」
お燐は、女の子を頭をくしゃっと撫でる。女の子は、やはりむず痒そうに身をくねらせて、それでも気持ちよさそうに微笑んでいた。
「時間だよ」
女の子の背中を叩き、ようやくこちらに顔を向けた死神のもとへ、小さな霊を見送る。
ふらふらと、霊に相応しい頼りのない足取りで、女の子は死神が腰掛ける舟に向かう。
耳を澄ませば、賽の河原にて石を積む、幼子の歌が聞こえてくるようで。
耳を塞ぎたいところだったが、お燐は腰に手を当てて、女の子の短い道程を見守っていた。
おつかれさま。
死神が、そんなことを言う。
女の子は小さく頷き、お燐の方を振り返って、初めて口を開く。
ありがとう。
音は聞こえないが、耳には届いた。お燐は口をへの字に曲げて、意地の悪い笑みを浮かべる。
「なんだい」
ちゃんと、自分の言葉を言えるんじゃないか。可愛い顔をして、最後まで本音を口にしないだなんて、とんだ悪餓鬼である。
死神と女の子は、河を渡るために必要なお金のやり取りをしている。多分、女の子の徳なら十分に足りるだろうから、自分が心配することでもない。お燐は三途の河に背を向けて、どんよりと曇った空を仰ぎ、自分がいるべき場所に帰って行く。
帰り際に、どこからか死体でも見繕って行こうかなどと、不謹慎なことを考えながら。
鈍行にも似た速度のままで、暇な火車は地上を走る。
ギリギリ、六文だね。
ああ、心配は要らないさ。
ちゃんと送ってあげるよ、お代は頂いたからね。
親と、親戚と、友達と。
あとは、あーそう。
あの、でっかい猫の分とを合わせて。
キスメ
黒谷ヤマメ
水橋パルスィ
星熊勇儀
古明地さとり
霊烏路空
古明地こいし
SS
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