一日一東方

二〇〇八年 一〇月一八日
(地霊殿・キスメ)

 


『インナーズ・ハイ』

 

 

 理由はよく覚えていない。確か、顔が洗いたかったら井戸に行ったのだと思う。寝起きで、顔を洗う前だったから、視界も朧気だった。まぶたを数回擦った程度では、目にこびりついた埃のようなものは拭い去れない。
「ふあ……」
 上白沢慧音の口から、気の抜けた欠伸がこぼれる。真っ白な襦袢は着崩れもしておらず、彼女の実直さを体現しているかのようだ。覚束ない足取りで、朝靄のかかる庭を行く。視界が悪くとも、井戸の位置を見間違えるほど呆けてもいない。慧音は釣瓶を引き上げようとした。
 だが、そこで異変に気付く。
「うん……?」
 妙に、手応えが軽い。
 普通なら、桶とそれに汲まれた水の重さが掌に返ってくるはずなのに、今は綱の重さしか感じられない。もしかしたら、井戸の中で綱が切れて、桶が外れてしまったのかもしれない。厄介なことになった、と慧音は込み上げる欠伸か溜息か判然としない吐息を漏らし、一度井戸の中を覗き込もうとした。
 が。
「おっと、と」
 急に、握っていた綱に重さが加わる。バランスを崩し、井戸を覗き込もうとしていたこともあり、危うく転落しそうになる。すんでのところで踏みとどまったが、若干、心臓の鼓動がうるさい。朝っぱらから、無駄に疲労が溜まってしまった。胸に手を当て、呼吸を整える。
「やれやれ」
 ともあれ、桶に水が汲まれていることを悟った慧音は、そのままするすると綱を引っ張り上げる。昨日よりか多少は重たい気もするが、そのような些細な違いは全く気にならなかった。きっと、綱も滑車も古くなっているのだろうと、近々手入れをしなければと頭の中で休日の予定を組み替える程度だった。
 間もなく、桶が上がっている。
 そうであることを疑わず、慧音は空いた掌を伸ばし。
「――――あ?」
 煌めく眼。
 そこに灯るふたつの光を目の当たりにして、慧音は初めて自分が襲われたことを理解した。

 

 

 記憶は、そこで途切れていた。
 目やにがないということは、既に顔を洗った後だと思うのだが、そもそも洗顔した記憶がすっぱり抜け落ちている。更に言えば、布団に入り直した記憶もない。半身を起こし、すっぽんぽんでないことにひとまず安心する。
「……夢、か?」
 悩む。
 確かに、現と見紛うほどの夢というものは存在する。慧音も実感としてそれを味わったことがある以上、蒙昧な妄想と断ずることは出来なかった。
 けれど、釈然としないものは残る。
「うーん……」
「慧音ー、起きてるー?」
 障子の向こうから、聞いたことのある声が響く。なるほど、と慧音は納得した。それならば、ある程度の説明は付く。ひとつくらい忘れていることがあるような気もするが、そのあたりは追々思い出すだろう。
「ああ、今起きたところだ」
「そうか。じゃ、入るよ」
 なんとなく予想はしていたが、声の主は素足で障子を開いた。彼女の昔を慧音はよく知らないが、あまり行儀のよい振る舞いではないことは確かである。けれどいちいち窘めるのも躊躇われて、それよりか朝食を準備してくれたことの嬉しさが勝っていた。
「妹紅」
「いやー吃驚したよ。寝惚けてたのか酔っ払ってたのかわからないけど、慧音が井戸の前で寝てるんだもの。一応、介抱はしといたけど、どっか痛いとこない?」
「多分、大丈夫だと思う。ありがとう」
「そか。よかった」
 安心した様子で、枕元にお盆を下ろす。味噌汁の出しは昆布だった。どこから調達してくるのかはいまいちわからない。
 割烹着に身を包んだ妹紅が、反対側の枕元に置かれている慧音の帽子を見やる。慧音もつられてお馴染みの帽子を見、別段、目立った異常がないことを把握する。
「それ、井戸の側に落ちてた」
「落ちてた……のか。持って行った覚えはないのだけど」
「桶の代わりにするんじゃない? 見てみたけど、井戸に桶が無かったみたいだから」
「いや、桶は確かにあったと……、いや待て、無かった?」
 違和感に気付く。立ち昇る玄米の薄い湯気に、妹紅の晴れ晴れとした表情が見え隠れする。
「うん。覗いてみたけど、あれはどうも桶が壊れて井戸の底に沈んじゃったんだね。新調しないといけないわ」
「無かった……のか」
 桶が壊れた、そのこと自体は瑣末なことである。形あるものはいつか壊れる、自明の理、この世の理をなぞっているだけに過ぎない。眼前に蓬莱の人の形があるにもかかわらず、万物流転、有為転変の諸行無常を憂うのも、極めて壮大な皮肉ではあるのだが。
 ならば、慧音があのとき感じていた掌の感触は、一体どこにある。
 あるいは、それもまた夢現の類であったのだろうか。けれど、だとすれば妹紅の証言と食い違う。彼女が自分をたばかる理由もない、はずだ。戯れで欺くには、あまり意味のない行為であることだし。
 悩む。
「うぬう……」
「まあ、桶に思いを馳せるのもそれくらいにして、今は朝ごはんにしよう」
「まあ……、そうだな」
 思うことはあったが、考えても答えの出ない問いはある。たまたま、今回は慧音にお鉢が廻ってきたというだけの話。割り切れるものは割り切るべきだ。そうしないと、今度は前に進めなくなる。ごはんも冷める。それはよくない。
 だが、朝ごはんを食べようにも、襦袢のままというのはどこかだらしがない。妹紅に目配せをしても、あまり気にしている様子はない。悩んでいるのは慧音くらいなものだ、と暗に言われているように思えて、そんなに頭が固い方でもないのだがな、と自嘲などしてみる。
「とりあえず」
 つまずくといけないから、帽子だけでも避けておくことにする。
「相変わらず、鋭角な意匠だよね。お弁当箱に使ってるんでしょ?」
「頭が蒸れるだろ」
 つっこみどころが違う気もするが、同じようなことを数十回と言われ続ければ対応も雑になる。
 帽子を掴み、掌に感じる重みに懐かしいものを覚えながら、ゆっくりと持ち上げる。
「よっ、と」
 その拍子に、天井の部分がずれた。
「あ」
 からん、と乾いた音を立て、天井が畳に落ちる。
 それを拾おうとして、その前に、慧音は気付いた。気付いてしまった。おそらく妹紅も気付いただろう。道理で、帽子が重いと思った。これだけ重かったらさぞかし首が凝るだろうなと、普段から肩凝りが酷さに苛まれている慧音の苦悩がまたひとつ蓄積されるであろう事実が、その裏に潜んでいた真実に上書きされる。
 ぴょこん、と浮かび上がる、緑色の頭に見覚えはない。
 何やら恥ずかしがっているらしい少女は、帽子に収まるサイズのちっちゃな存在だった。時と場合によっては、保護欲が掻き立てられることもあるだろうが、慧音はハンカチを被せてちちんぷいぷいで即座に消し去りたい気分だった。
 とりあえず、妹紅は慧音に尋ねた。

「……それ、今日のお弁当?」
「違う」

 

 

 前略。
 新しい家族ができました。

 

 

 

 



黒谷ヤマメ  水橋パルスィ  星熊勇儀  古明地さとり  お燐  霊烏路空  古明地こいし
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2008年10月18日 藤村流

 



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