一日一東方

二〇〇八年 一〇月二十六日
(地霊殿・古明地こいし)

 


(つぶて)

 

 

 そう言って君は、何事もなかったように笑うのだ。

 

 夢遊病という病があって、自分がそれに罹っていると気付いた頃には、もう取り返しの付かない段階にまで症状は悪化していた。
 夜、眠りに就いて目が覚めると、河原の上に寝転がっている。道端で、他人の家の軒先で、森の中で、外に出ないまでも玄関や廊下で。布団に入ったまま目が覚める、そんな当たり前の習慣がぽっかりと抜け落ちてしまったのは、どれくらい前からになるのか。少なくとも、一年は経っていないと思うのだが。
 夜にあちらこちらへ動き回っているのだから、身体の疲れは当然の如く取れていない。けれども、三ヶ月前まではそれでも何とか生活は続けていた。だが、三ヶ月前から、本格的に身体が悲鳴を上げ始めた。眠れない。眠っても、身体は疲れを癒してくれない。昼間に眠っても身体は勝手に動き出してしまうから、誰かにずっと付いていてもらうしかなかった。そんな体たらくで、仕事など出来るはずもない。
 日常は破綻してしまった。
 けれど、病に理解のある家族を持ち、仕事の仲間も病状が回復するまで待っていてくれる。有り難いことだった。そしてそれ以上に、申し訳なく思っていた。早く治さなければいけない。原因不明と医者が匙を投げた病でも、何か手はあるはずだった。
 そんな煩悶を抱いていた頃、腕のいい医者がいるという噂を聞いた。
 迷いの竹林と呼ばれる場所の奥に、その屋敷はあるという。一人では不安だったが、最近は里の守護者に頼めば護衛を付けてくれるらしい。早速、その護衛とやらに警護を依頼し、私は腕利きの医者のもとに向かった。
 護衛は、灰色の髪をした少女であった。話題作りにと、自分の症状を彼女に話してみると、まだ幼さの残る表情を宿した少女は、外身の年齢にそぐわない落ち着きでもって、私に告げた。
「ふうん。それ、夜伽にでも行ってるんじゃないの?」
 その場は即座に首を振ったが、慌てふためく私の姿を見て笑う、屈託の無い彼女の表情が印象的ではあった。
 永遠亭、と名付けられたその屋敷に辿り着くと、私は一人で中に入って行った。護衛の少女は、何か入りたくない理由があるらしく、私もそれを追及する気にはなれなかった。
 見るからに妖怪と思しき、兎の耳をした少女に連れられ、私は得体の知れない薬品が所狭しと並べられた部屋に通された。医者は、少し遅れて現れた。すらりと伸びた体躯が際立ち、それよりも目立つ赤と青を基調にした服装が、瞳に焼きつく。
 落ち着きもなく、部屋を見回す私に、彼女はまず問診を行った。
「眠っているとき、夢を見る?」
 はい。
「夢の内容と、外を彷徨っているときに起こったことは、一致している?」
 はっきりとはわからない。けれど、おおよそは合っていると思う。
「これで最後。夢の内容を、あなたは覚えているかしら」
 少し迷って、はい、と私は告げた。
 あまり、他言できるような内容ではなかったから、突っ込んだ説明を求められると辛かった。が、彼女は一言「成る程」と呟くと、あらかじめ棚に用意していたらしい薬を、そのまま私に渡した。
「胡蝶夢丸。今日の夜は、それを飲んで眠りにつきなさい」
 それだけでいいのかと尋ねると、彼女は迷いもなく首肯した。
「今のあなたは、夢に囚われている。夢を見るのもいいけれど、夢遊病というのなら、夢も現もそのどちらも真実だわ」
 彼女の言葉は、私が忘却している真理に迫っているようであったが、意味はよくわからなかった。
 最後に、彼女は言った。
「良い夢を」
 私は、謝辞を述べてその場を後にした。

 

 夢の中に漂いながら、私は少女と邂逅する。
「あなたはだれ?」
 球を半分切り取ったような帽子を被り、胸に付いている目玉から伸びる蔦のようなものが、細く少女に絡み付いている。
 私が私の名前を告げると、少女は興味もなさそうに自分の名前を言った。
「古明地こいし」
 河原には、おあつらえ向きに無数の小石が転がっている。そのひとつを拾い上げて、少女は小川の水面に平たい小石を投げる。他愛のない水切りは、五回ほど跳ねて、対岸には届かずに沈んで果てた。
 ちぇ、と舌打ちをする彼女の隣で、私も小石を拾い、水切りをやることにした。小石は速く鋭く回転し、彼女よりも多く水面を蹴り、ついには対岸に辿り着いた。
「わあ」
 彼女が感嘆の声をあげる。
 やり方を教えて欲しいとせがむ彼女に、私は快く応じた。
 初めの夢は、そんな内容だったように思う。

 

 夢の終わりは、案外簡単に訪れるものである。
 こいしと出会い、別れるまで、半年もの月日があったはずなのに、いざ終わるとなると、その月日が一瞬のものであったように感じられる。光陰矢のごとし、という在り来たりな感想しか浮かばない。こいしもまた、そんな思いを抱いているのだろうか。それとも、何も感じてはいないのだろうか。
 こいしは、私と過ごした退屈な日々の果てに、何かを得たのだろうか。
 私を捕らえ、暇潰しに過ぎない遊びを経て。
「気付いたのね」
 河川敷に佇む少女は、少し寂しそうな顔をしていた。だがそれは、彼女がそう思っていて欲しいという、私の我がままが見せた幻に過ぎなかったのかもしれない。
 水切りは、彼女の方が上手くなってしまった。
「何も気付かなければ、ずっと遊んでいられたのにね」
 こいしは私に背を向けて、握り締めていた数個の小石を、力強く小川に叩き付けた。
 飛沫が跳ね、波紋が広がる。舞い上がった水飛沫はこいしの身体を濡らし、朝焼けに煌めいて瞬く間に消え去った。
 こいしが、再び私の方に向き直る。
「無意識の意識は、これでおしまい」
 夢の遊びは病と化して、夢が夢であることを、夢もまた現であったと自覚することで霧散する。
 彼女の笑みは無邪気なのにどこか酷薄で、それでも、この別れを多少は惜しんでくれているのだと、他愛もない願望を抱いていた。

 

「ばいばい」

 

 そう言って君は、何事もなかったように笑うのだ。

 

 

 

 



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2008年10月26日 藤村流

 



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