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  2中 4中 4A 4B 4C 5中 6A 6B EX PH
紅魔郷 ルーミア 大妖精 チルノ 紅美鈴 小悪魔 パチュリー 十六夜咲夜 レミリア フランドール  
妖々夢 レティ アリス リリー ルナサ メルラン リリカ 魂魄妖夢 幽々子
永夜抄 リグル ミスティア 慧音   霊夢 魔理沙   てゐ 鈴仙 永琳 輝夜 妹紅  

花映塚 射命丸 文 メディスン・メランコリー 風見 幽香 小野塚 小町 四季映姫・ヤマザナドゥ   スーさん リリーブラック 幽霊「無名」
文花帖 (射命丸) 鴉 大ガマ  

萃夢想 萃香 香霖堂 霖之助 妖々夢 妖忌 レイラ 上海人形 毛玉 蓮台野夜行 蓮子 メリー
花映塚 ひまわり娘 三月精 (三月精)  

 


 

一日一東方

五月三十一日
(萃夢想・伊吹萃香)

 


『鬼さんこちら』

 

 博麗神社に入り浸っているのは、何も人妖ばかりではない。
「ねえ」
「何よ」
 しゃっくり混じりに問い返す声は、実に頼りない。探るまでもなく、その原因が彼女の腰元にぶら下がっている瓢箪にあると分かる。
「帰れ」
「酷いわね……。仕舞いにゃ祟るわよ」
「祟りは幽霊の本分よ。あんたは列記とした鬼なんだから、とっとと散る」
 しっしっ、と猫や鳥を追っ払うのと同じ要領で手を振る神主に、厄介払いされた鬼は頬を膨らます。
「いいじゃんよー。どうせ客も来ないんでしょ?」
「来る」
「来んの?」
「多分」
「そりゃまた大胆な憶測で」
「分かりやすく言うと、あんたがいるとその萃める能力とやらで宴会が始まっちゃいそうな気がするのよ。あんたは楽しけりゃそれでいいかもしれないけど、こっちは準備やら後片付けやらで大変なのよ」
「……ぅん、んぐっ」
「飲むな!」
 殴る。わりと容赦なく。
 だが、後頭部を祓い串の先で攻撃されても、つんのめるだけで瓢箪の中身をぐびぐび行っちゃうくらい、伊吹萃香という鬼は酒が大好きだった。否、酒を酷く好むのが鬼だと表現した方が適切か。
「全く、暇さえありゃあうちに来るんだから……」
「なんか落ち着くのよねえ、此処。魔理沙の家だとこうは行かないわあ……ああふぃ」
「欠伸すんな」
 蹴り出す。縁側から。
 燦々と降り注ぐ太陽光線の下に晒されながら、受け身も取らずに酒を呷り続ける伊吹萃香。その執着心にだけは感心するものがある。
「つーか、あんた魔理沙の家に行ったことあんの?」
「正しくは、私の欠片というか残滓というか」
「ちなみに、単細胞生物は細胞分裂で際限なく増えて行くらしいわね」
「……喧嘩売ってる?」
「安物買いの銭失いって知ってる? なんでもかんでもそういうふうに解釈すると、人生損するわよ」
「人じゃねーもん」
 開き直る鬼の頭に、もう一発肘鉄を落とす。
 ぶべっ、と瓢箪の首を喉に支えさすものの、それでも吸引する力が弱まることはない。それが伊吹クオリティ。
 正直、あまり見習いたくない。
「あんたと漫才やってる暇ないのよ。ほら、縁側も境内も掃除せにゃならんのだから、さっさと塵芥になってこの世と言わず三千世界から消え去りなさい」
 霊夢の目は限りなく本気だった。
 彼女の場合、真剣と適当の境界が非常に判り辛い。というか、萃香の見立てではおそらく存在していない。であるからして、いつでも本気に、どんな時でも適当に事を荒立てたり纏めたりする人物なのだ。
「もしかして、私のこと嫌い?」
「少なくとも、ペットにしたいとは思わないわね」
「そうかなあ? 可愛いと思うよー、飯ごうに紛れ込む米粒大の伊吹萃香とか」
「きもい」
 言い切る。
 ここで褒めると、図に乗って実行に移しかねない。そうなったら、二度と炊きたての米が食べられなくなる。気持ち悪いし。こんがり狐色に炊き上がった伊吹萃香。間違いなく夢に見る。
 ……というか、それでいいのか。鬼。
「それとも何かい? あんたが掃除でもやってくれるっての? だったら、少しばかり日当たり良好な縁側の席に座れる、乙な権利を譲ってあげないでもないけど」
 我ながらナイス提案だと思う。
 が、萃香は庭の敷石に胡坐を掻きながら、唇で綺麗なへの字を描く。理想的だった。
「えー、面倒くさーい」
「どの口がそのような戯言を吐くか」
「ひっひゃるなー」
 人差し指で萃香の口を無理やり拡張させ、釣り針のごとく頬の内側から釣り上げる。
「ひひゃいひひゃい!」
「あんたに与えられた選択肢は、是か否か。実質はその二つしか与えられていないの。つーか、やれ。楽させろ」
 本音が出た。
 内心とんでもねえ巫女だなと思う萃香だが、嘘を付いていないだけ好感は持てた。頬は痛いが。
「もう一度問う。やれ」
 既に命令と化していたが、逆らうと口裂け女みたいに『私きれい?』とか吹聴して回らないといけなくなるので、仕方なく全力で頷くことにした。
「よろしい」
「ぷへぁっ!」
 意外に鋭い指針から解放され、砂利の上に落下する。腰が痛い。
 服に付いた砂を適当に払い、縁側からこちらを見下ろしている霊夢を見据える。
「……ったく、しゃーないわねえ。しっかし一介の鬼を使役するたあ、あんた並大抵の頭してないよ」
「まあ、ね。天才だし」
 言い切る。誇張も、謙遜すらなく。
 ……もはや何も言うまい、と萃香は諦めた。そういう人物なのだ、博麗霊夢という存在は。
 気を取り直して、それっぽく腕を天に掲げる。特に理由もないのだが、実にそれらしい。
「そんじゃまあ、行きますかー。
 えーと、なんだ。ゴミよ萃まれー、れれれのれー」
「なんじゃそら」
 霊夢の冷たい突っ込みにもめげず、精神を統一する。
 萃香の前には巨大な葛篭。適当に掲げた腕の先に萃まるのは、木の葉やら埃やら空き瓶やら。
 風が流れるように、静かに萃められていく。音のない台風というものがあるのなら、例えばこれが一つの形なのかもしれない。
 ちょうど人間ひとりほどに膨れ上がった塵かすを、もう一段階凝縮させる。みき、ばき、と穏やかでない破砕音が響き渡るも、霊夢は全く気にしない。塵だし。
 一抱えほどに纏まった塵の塊を、葛篭に景気よく放り込む。
 萃香は、これでどうだと言わんばかりに霊夢を見返す。霊夢は、のんびり縁側に腰掛けていた。
「ん、終わった?」
「ご苦労さんの一言も無いんかい」
「ご苦労さーん」
 後付けも甚だしい。心もこもってないし。
 だが、ここで逆上するのは、鬼として見っともないことこの上ない。あくまで慎重に、冷静かつ正々堂々と逆襲するのが鬼というもの。
 萃香はにたりと口の端を歪ませ、気持ち悪そうにこちらを眺める霊夢を睨み返す。
「ふうん。そういう態度を取るんだ、霊夢は……」
「私が諸手を上げて喜んでも気色悪いでしょ」
 自覚はあるらしい。
 萃香は閉じかけた葛篭の蓋を開ける。
「褒めろとは言わない。ただし、労働の報酬くらいあってもいいはずよね?」
「私の肩を揉む権利を……」
「それも労働! じゃなくて、気兼ねなく宴会させろと言ってるの!」
「あんたの頭の中にはそれしか無いんか」
「無いわよ!」
 言い切る。
 霊夢も心なしか可哀想な視線を送って来るが、気にしたら負けだ。
「あなたは気付いていない……。私がその気になれば、葛篭に放り込んだ塵をもう一度ばら撒けるということに」
「な……! それは面倒な……!」
 驚愕している。
 が、本来は霊夢がやるはずだった仕事である。元の形に収まるだけの話だ。卑怯も何もない。
「ふっふっふ……。どうする、もう一度掃除をする? それとも宴会を認める?」
「むむむ……」
 腕を組み、煙を吐きかねない調子で考え込む博麗霊夢。
 ずぼらな霊夢のこと、渋々ながら萃香の提案を承諾するだろう。萃香は確信し、意気揚々としていた。
 が、甘く見ていたのはどちらだったか。
 縁側に立ち、祓い串を肩に構える霊夢のさめざめとした表情を見、萃香はしばし言葉を失った。
「れ、霊夢……?」
「――あんたは気付いていない」
 台詞をぱくる。
 元々は紫の決め台詞なのだが、二人にとってそんな瑣末なことはどうでも良かったのであった。
 今、この場を収拾することさえ出来れば。
「境内の掃除なんか、してもしなくてもどっちでも良いってことに」
「仕事しろー!」
 基本的に、適当な巫女さんだった。

 縁側から飛び降り、塵をばら撒こうとする萃香の眉間に祓い串と針を打ち込む。
 飛散する萃香の欠片、逃げられると面倒なので結界に落とし込む霊夢、と空高く舞い上がっていく萃香の残滓。

 もし、目の前をタンポポの綿毛が飛んでいたら、よく見てみるといい。
 その先っぽに、萃香が居るかもしれない。

 



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一日一東方

六月十日
(香霖堂・森近霖之助)

 


『森近霖之助の事件簿』

 

 僕はその箱の前で立ち竦んでいた。
 動けない。
 行動を再開するために必要なのは、状況を把握することだ。順を追って考えよう。

 朝の九時。時計は間違いなくその時刻を指している。
 太陽の傾きから見ても、最低昼を回っているということはない。
 口から漏れる欠伸は、先程まで僕が惰眠を貪っていた証だ。覚醒して間もなく、僕はこの箱が置いてある部屋に向かった。顔も洗い、歯も磨いた後であれがないことに気付いたのだ。誰に会う訳でもないのだから、自分の納得のいく格好をしていればいいのだが。
 もし、問題があるのなら。
 箱の中身が、消え失せているということ。それ以外にない。
 これは、箱の形をした一種の結界である。破壊は困難で、移動も面倒。唯一、備え付けられた南京錠を開けることで、その中身を拝むことが出来る。
「面白い」
 不意に、そんな言葉が口を突いて出て来た。
 伊達に、何年も引き篭もりをやっていない。自称、眠れる安楽椅子探偵の実力をお見せするとしよう。

 魔理沙から譲り受けられたこの金庫は、大事なものを仕舞っておく以外に何の役割もないように見えた。魔理沙は集めるだけ集めて満足してしまう性質なので、簡単に要らないと押し付けて来たのだ。
 これが存外に大きく、縦横奥行きがそれぞれ三尺ほどもある。が、光沢のある材質は異様に軽く、中身が空なら魔理沙一人でも持ち運べる程度だった。
「だが、中身はあった」
 僕が昨晩入れておいたものは、数が集まれば相当の重量になる。男二人掛かりでようやく、と言ったところか。魔術の手助けもあれば女性一人でも可能だろうが、この部屋は結界に囲まれている。何者かが侵入すれば自動的に拒絶し、警報が鳴り響くように出来ている。専門家の霊夢が言うのだから、確かなものなのだろう。
 もう一度、箱の内部を確認する。何もないことを理解して、次に部屋の概観を。
 部屋と言うよりは物置に近い風体だが、窓はひとつある。陽光は、中心に配置してある金庫にあと一歩届かない。急造りの棚には整理し終えていないガラクタが所狭しと並んでいて、魔理沙が見たら自分の悪癖を棚に上げて説教して来そうな感じではある。
 踏み込まれた形跡は――尤も、心得のない僕には、細かい違和感など察しようもないのだが――ほとんどない。窓も施錠されているし、そもそも物置に入る時だって鍵を開けて入って来たのだ。二重、三重に張り巡らされた結界を、敵は難なく潜り抜けてみせた。躊躇いもなく、金庫の中身だけを狙って。
「容疑者は……」
 考えてみて、むしろ怪しい者ばかりであることに気付く。
 霊夢に魔理沙、咲夜とレミリア、紫に妖夢、その他諸々。前半はともかく、後半はもう人間ではない。というか半分生きていない子までいる。前々から分かっていたことではあるが、何でもありだ。
 確実なのは直に会って話をすることだが、最も怪しい紫は、呼んでも来ないし呼んでもないのに来る。軽々と嘘を吐けるような者はそう居ないだろうが、嘘を言わずとも人を騙すことは出来るし、詭弁を吐かずとも策を弄することは出来る。つまり、何も言わなければ良い。黙秘されたら、僕にはどうすることも出来ない。言葉で解決出来ないのなら、僕の打てる手は何も残っていないことになる。
 困った。
「参ったな。あれがないと、どうも据わりが悪いんだが」
 やや熱くなって来た顔面を、冷めた手のひらで拭う。前髪を乱暴に掻きあげて、居心地の悪い環境に身を置く。
 開業時間まで後一時間を切っている。悲しい話、店を開けたところで来る客などは高が知れている訳で。店を空けたところで、大した損害もないだろうと言うのが大筋の見方である。何を言っても霊夢は店の品物を勝手に持って行くし、魔理沙も手癖が悪いし、前述の通り僕に出来ることなど限られているのだ。
 しかし、受けに回っていても何も解決しない。取られたものは諦めが付くにしても、訳も分からず盗まれたものには未練が残る。後で返してくれるという保証もないことだし。
 再び思考の海に身を投げ出して、上がり始めた部屋の温度に顔をしかめる。
 表の方が何やら騒がしい気もするが、いつもの手合いだろうから気にしない。
「ふむ。ここが踏ん張りどころか」
 疑問点は、おおまかに二つ。

 一つ。
 なぜ、あれを盗んだのか。
 あの品は、ある条件に該当する人物にしか効果を現さないものだ。すなわち、あれを求める必然性のある者こそが真犯人。
 また、あれの用途は僕にしか分からない。使い道も最近見付けたばかりなのだ。あれの真の価値を知り、なおかつ必要としなければならない類の者――。

 二つ。
 なぜ、品物だけを盗んだのか。
 そもそも、現場を密室にする必要すらないのだ。
 鍵を外すにしろ壊すにしろ、元通りに施錠させた状態に戻すメリットはない。犯人がこの物置に隠れている、という可能性も無いではないが、透明にでもならない限り人の隠れるようなスペースはない。
 密室には、罪をなすりつける意味合いも含まれている。犯人は、どうしても自分が盗んだという事実を隠したかった。それと同時に、錠を破壊するといった強引な手段を避け、頭を使えば誰にでも出来るような密室を作り上げた――。
 そう、考えることも出来る。

 あるいは、現場を密室にしなければならない理由があったのか。
 犯人が能力を使えば、必然的にそうなってしまうのだとしたら。
「これは……。少し、見えて来たかな」
 とはいえ、根拠のない空想に過ぎない。僕にはまだ、犯人の喉元に突き付ける刃を与えられていない。それはそうだ、僕は香霖堂というしなびた店の主で、難事件を溜息混じりに解決する探偵でも何でもないのだから。
「それでは、暇人は仕事に戻ろうか。と」
 組んだ腕を元に戻し、ひとまず金庫の鍵を閉め直す。金属の擦り合う不協和音は一瞬で、その後に小気味良い和音が重ねられる。新品そのもの、乱暴に弄くった様子は全くない。やはり、この鍵は触れられてすらいないのだ。
 店先の方が、いつになく喧しい。そういえば、開店時間を半刻ほど過ぎている。まさかこんなに早い時間に誰かが来るとは思わなかった。慌てて店の玄関に向かう。
 陽光が指し示すシルエットから、その人物が何者であるかはすぐに理解できた。あえて客と呼ばなかった僕の判断力も、なかなかのものだと思う。  鍵を開け、勢いのままに扉を開け放つ彼女。三角の黒い帽子は、今日もやはり鋭く尖がっている。
「やっほー香霖! 今日も眼鏡かー?」
 意味が分からない。
 魔理沙は、僕が眼鏡を掛けていないことを知ると、すかさずチョキの構えのまま僕の目を突いて来た。ミサイルさながらのピンポイント攻撃に、飛び退いて裂けるのが精一杯だった。
 外した直後、ちっ、とあからさまに舌を打つ。そんなに知人の目を潰したかったのだろうか。
「……これは、どの国の挨拶だい?」
「いや、な。もしかして目に見えない眼鏡を掛けてるのかと思ってな」
「掛けていたとしても、レンズが割れて大惨事だが」
 そうか? と訝しげに呟き、今度は人差し指一本で目を突いて来る。今回は余裕があったので、魔理沙の指をチョキで挟んでみせる。
「ちなみに、人差し指とはこういうことをするためにあるのではない」
「そうか。『さし』違いだな」
「分かっているなら、左に構えた人差し指を解くことをお勧めする」
 ははは、と魔理沙は笑い、僕も意地の悪い笑みを返す。
 やけに殺伐としているが、僕と魔理沙の間で意味のある挨拶が交わされたことは少ない。春になると彼女の脳も温かくなって来るのか、突拍子もない挨拶をすることが多い。それは霊夢にも言えることだが、どちらも頑として否定する。当たり前かもしれない。
 殺気が入り乱れる挨拶に疲れたのか、そこらの棚に腰掛ける魔理沙。それは売り物だと何度言っても聞かない。仕方ないので、こちらは勝手に開店の準備を済ませてしまうことにする。

 ……と、その前にひとつだけ。
 僕は、室内にも拘らず、深々と帽子を被っている魔理沙の方を向き、

「ところで、魔理沙。ずっと帽子を被っていると禿げやすくなるっていう噂、聞いたことないかい?」

 罵声と轟音をも辞さぬ覚悟で、致命的とも言える爆弾を投下した。

 

蛇足な解決編

 



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一日一東方

六月二十六日
(妖々夢・魂魄妖忌)

 


『道しるべ』

 

 お客が来た。
 こう言っては何だが、香霖堂に客人が訪れるのは珍しい。若干二名はとても顧客などとは呼べず、紅魔館の彼女もそう頻繁に訪れる訳ではない。
「いらっしゃい」
「少々、邪魔をする」
 現れたのは、袴姿の老人だった。
 傍らに霊魂が浮かび上がっているところを見ると、いつか訪れたあの半人半霊の少女と何か関わりがあるのかもしれない。
 腰元に鞘を挿し、佇まいは一介の剣客を思わせる。この点は、あの少女とかなり趣きが異なる。彼女はまだ、剣士というより庭師と呼んだ方がしっくり来る。
 彼はこちらにひとつ会釈をし、陳列されている商品を順繰りに眺めていく。
 外では、いつの間にか雨粒が零れ落ちていた。
 梅雨の季節は鬱陶しい。品物の保存状態にも気を遣う必要があるし、雨宿りを口実にうちの店に居つく人間が多くなる。とはいっても、人数が増える訳ではなく、その頻度が高くなるという意味だが。
 手元に置いた文庫に視線を落とし、お客の動向には気を配らない。彼にしても、店主からじろじろ観察されるのは、気分が良いものではないだろう。
 だから、僕が彼に何かをするのは、彼が話し掛けてきた場合のみである。
「店主殿」
「はい」
 要求に対する返事はひとつ。
 本を閉じ、引き出しを閉め、客人に正対する。
 椅子から降り、腰元の刀を丁寧に取り外す彼の横顔をただ眺める。
「これを、引き取っていただきたい」
 差し出されたのは、一振りの刀。
 漆塗りの鞘に収められたままの刀は、高価なものではあるし、そして相当の業物であることも分かる。
 他に、武器を持っているようにも見えない。あったとしても、懐刀くらいだろう。
 彼は、自身の持つ唯一の武器を、この寂れた骨董品店に置き去りにしようとしている。
 その理由を問う。老人の目に一切の迷いが無かったとはいえ、僕にはこの刀にまつわる歴史を知っておかなければならない。長い時を老人と共に歩いて来た、その相棒を引き取る身分なればこそ。
 外は雨が降っている。ちょうどいい鎮魂歌だと思った。
「それは、どうして」
 相手の言葉を掴み取る程度には弱く、雨音に掻き消されない程度に強く。
 そんな配慮も、僕より遥かに年かさのある彼には、無用のものであったようだ。
「いや、なに。これはもう、私には不要なものでしてな」
 顎に伸びた、白髪の髭を撫で付ける。軽やかな笑みは、年月を重ねた者特有の重みを感じさせない。
 いともあっさり、老人は己の心情を吐露した。おそらくは重く深い言の葉なのだろうが、それを軽く思わせてしまう老獪さがあった。
 使い古した中古品を売り払うように、彼はその刀をぞんざいに突き出す。
 だから、そうした彼の仕草の中に、刀へのわずかな未練を見てしまうのは、僕の錯覚なのだろう。
「それに、この刃は人の血を吸いすぎた」
「……ご冗談を。こちらの品からは、血の匂いを感じません」
 鞘の色も、返り血によりてくすんだものではない。
 刀の身を案じ、刃の光を損なわぬために作り上げられた、ただそれだけの鞘だ。そこに収められた剣が、血生臭い香りを漂わせているはずがない。
 僕がそう断じると、彼は自嘲気味に微笑む。試されたのだろうかと、訝しんでみる。
「矢張り、お分かりになるか」
「ええ。剣術に関しては無知と自負しておりますが、生憎と物を見る目は確かだと思っております故」
 言って、鞘と刀を受け取る。その重みが、彼の人生を幾分か反映しているのかと思うと、とてもじゃないが乱暴に扱うことは出来なかった。両手で支えるひとつの凶器は、素人が掲げるだけでありふれた 骨董品に成り下がってしまう。僕がすべきことは、出来るだけ早くこれの使い手を見付けること、それ以外にない。
「それでは、僭越ながらこちらの品、預からせてもらいます」
「お頼み申し上げる。今しばらくの休息を、それに与えてやってほしい」
「畏まりました」
 雨の音は、先ほどより勢いが増したように思える。
 鳴り止まない鎮魂歌は、果たしてこの刀に与えられたものか。それとも――。
「……刀とは、物を斬るためにあるもの」
 ぼんやりと、独り言のように吐き出される。
 僕は刀を棚に置き、しばしその独白に耳を傾ける。
「鞘とは、刀を制するためにあるもの」
 剣客であり、達人であり、おそらくは半人半霊である彼も、時の流れに従う内は徐々に老いていく。
 老いとは、すなわち硬直である。
 歩いて来た道を引き返し、いつか選んだ分かれ道を決め直す余裕はなく、己がこれと信じた道をひたすらに突き進むより他ない。
 いつか、その身が朽ち果てる時まで。
「ただ、それだけのものだ。ならば、私にはもう、道しるべは要らない」
 いずれ果てる身だ、と晴れた表情が物語っていた。
 あまり共感は出来なかったが、彼の言いたいことの一片は理解出来たように思う。
 老人は、よろしく頼むと言い残して、この雨の中に舞い戻ってしまった。
 別れを惜しむ暇もなく、詳しい事情を尋ねる時間すらない。
 一期一会、という諺が脳裏をよぎる。が、今回の邂逅はそのような単純なものでもないだろう。
 彼は、血を吸い過ぎた刀だと評した。
 使い手である彼がそう言うのならば、部外者の僕がどう感じたところで、それは確かなことなのだと思う。
 いわく、妖刀は人を誘う。
 半人半霊が携えていた妖刀ならば、それが誘うのは同じ半人半霊なのではないか。
 幻想郷も、意外に狭い。
 いつしか雨音は尻すぼみに小さくなっていて、誰かのために鳴り響いていた鎮魂歌も、その侘しさを薄れさせていた。
「――お邪魔しますー」
 まだ幼さの宿る声を、扉越しに聞く。
 道しるべとは、必ずしも地面に突き刺さっている訳ではない。
 たとえば月も太陽も、星の位置も草木の隆盛も、うちに並べられている幾つもの品物でさえ、道を示すしるべに成り得る。
 さて、いま扉を引き開けた少女は、一体何を道しるべとしているのだろう。
 その答えはとうに分かっているが、出来うることならば、あの老人のように刀から手を離す時が来るようにと願う。
「あ、おはようございます。今日は良い天気ですね」
 外は、いつの間にか晴れ渡っていた。随分と気紛れな道しるべである。
 そうかい、と僕は静かに頷いて、少女が挿している二本の刀を眺めていた。

 



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一日一東方

七月一日
(妖々夢・レイラ)

 


『幸せであるように』




 レイラ・プリズムリバーの朝は早いが、それは彼女自身の性質というよりも必要に迫られてせざるを得なかった行動と言っても間違いではない。
 プリズムリバーの屋敷は広かったが、そこに住むのはたった四人。
 昔は両親や従者もいたけれど、それらを失った今は姉妹四人が静かに暮らしている。
 ――否、静かではない、か。
 私は息を吐く。それは決して嘆息や溜息の類ではなく、ただ朝が来たことの喜びに吐く息に過ぎない。
 生を謳歌する。
 今、ここにある幸福を享受する。
 おそらくは、それ以上の幸福などないし、それ以上を求めてはならないのだと、私はいつからか思うようになった。
 うーん、と背伸びをして、カーテンを開ける。
 絶え間なく降り注ぐ太陽の真下に、不自然な格好で宙に浮かんでいるリリカ・プリズムリバーの姿を確認する。
 ――はぁ。と、今度こそ溜息を漏らす。
 リリカ姉さんの表情は、部屋の主に見付かったことの失望と、この朝に私と出会えたことの喜びが綺麗に入り混じっていた。水の上に油を垂らしたかのように、上手いこと分離している。
 プリズムリバーの三女、ことあるごとに他人を出し抜こうと考えている彼女は、二階にある私の部屋の窓、その向こう側に確かに浮かんでいた。
 思えば、不思議な光景である。
 その事実に驚愕する権利を私は所有しているけれど、それを行使する気にはなれない。
 まして、彼女たちは幻影と言えども愛しい姉であることには違いなく、愛していることも、おそらくは愛されていることも確かだろうと思っている。
「……や、やぁ。いい朝だね」
 窓を開けると、気まずそうに顔を歪めている姉と遭遇する。
 全くの偶然だろうから、私には責める気などない。
 でも、意地悪はしてみたくなる。愛しいから。
「そうね。リリカ姉さん」
 微笑む。
 気を良くしたのか、ふわふわと漂いながら、スズメの喝采に紛れて自分の行為を正当化しようとする。
「こんな素敵な朝は、思わず愛しい妹の部屋を覗いてしまいそうになるよねぇ」
「まぁ、リリカ姉さん以外にはこんなことされた覚えはないけど」
「……でも、お父さんは二度くらいあったんじゃないかなぁ」
「責任転嫁は、良くないわよ」
 それはそれ。これはこれだ。
 完全に否定しないのは父の名誉のためにどうかと思うが、真相は闇の中だから気にしないでおく。
 少しばかり厳しい目を見せると、リリカ姉さんはバツの悪い顔をして、素直に引き下がる。騒霊――ポルターガイストの類――だとあの女性は言っていたが、つまりは幽霊のようなものなのだろう。空を飛べるのは楽だし、壁を擦り抜けられるのは確かに便利だと思うが、地に足が付いていないのは困りものだ。
 浮きやすいものは、己の存在を見失いやすい。
 こういうのを、存在に耐えられない軽さ、というのだそうだ。その時はよく分からなかったが、今もよく分からない。ただ、今をもってしても姉たちがここに居座っているということは、自分が考えるよりも、この姉たちは随分と腰が重いようだ。




「おはよう」
「おはよう、ルナサ姉さん」
 階段の途中で、ルナサ姉さんと出会う。彼女は他の二人と違い、普段から地に足を付けて歩いている。人間であった時のことを忘れないために。
 いつか忘れてしまうことだしても、無駄なことではないと彼女は言った。
 私は決まってそうだねと繰り返し、この頑固な姉を柔らかく眺めるのだった。
「今日はまた、随分と早いね……。ここ、寝癖」
 右の頭頂部を指し示す。慌ててその箇所を押さえると、ルナサ姉さんは静かに笑う。
「う、それもこれも、リリカ姉さんのせいよ。勝手にひとの部屋覗くんだから」
「無理もないでしょう。可愛がっていた妹が、部屋に入れてくれなくなったんだから」
 微笑みの中に、わずかな寂しさを感じ取る。
 だけれども、私とて譲る訳にはいかない。いくら大切な姉とはいえ、隠しておきたいものは数多くある。愛しいからこそ隠し通したいものだってあるのだ。
「うぅ、それこそ仕方ないじゃない。姉さんだって、見られたくないもののひとつやふたつ、絶対にあるでしょう?」
 果たして、自分たちは階段の途中で何を喋っているのだろう。
 ふと疑問に思ったが、今更質問を取り下げる気にはなれなかった。まして、その問いが相手を確実に黙らせる威力を持った一撃ともなれば。
 ルナサ姉さんは少し悩んだ後、自信ありげに佇む私に向かって、
「ないよ、そんなの」
 いとも簡単に、その牙城を突破した。
 顔色を確認する。いつも通りの透き通った肌に、水面に糸を通したかのような眼――というか、透き通っているのは幽霊だからか。糸目は生まれつきにしろ。
「なっ……」
「そんなに驚くこと? でもまあ、寝顔を見られるのは確かに恥ずかしいけどね」
 照れくさそうに頬を撫でる姉は、確かに本音を語っているように見えた。
 はは、と私も苦笑いを返し、予想以上に真っすぐな姉を尊敬した。
 ついでに、いつかその寝顔を拝んであげようとも思った。




 リビングに辿り着くと、天井のランプにメルラン姉さんが引っ掛かっていた。
「……あぅ」
 思わず竹槍で突っ突きたくなる衝動を抑えながら、ルナサ姉さんが救出するのを待つ。
 こうなると、存在に耐えられない軽さどころの話ではない。どっかの妖怪みたく、岩と紐とで身体を括り付けないといけないのではなかろうか。悩む。
「……むにゃむにゃ。う、うぅ……。めるらーん・ぷりずむりばー……」
 意味が分からなかった。
 ただ、今にも変身するようなポーズを取るのはやめてほしい。ルナサ姉さんが恥ずかしがってる。
 ――ああ、そうか。
 この人は、自分のことより身内が見っともないことするのが恥ずかしいんだ。
 またひとつ、知りえなかった一面を得る。ずっとそれを束ねていけば、そのうち一冊の本にでもなるかもしれない。ルナサ姉さんは、絶対に反対するだろうけど。
 床に下ろされたメルラン姉さんは、しばし背泳ぎしたり匍匐全身したりトランペットを吹いたりしていたけれど、朝餉の匂いに釣られてゆっくりと目を覚ました。
「く、は……。ふぁぁぅ、眠い……」
「おはよう、メルラン姉さん」
 優しく声を掛ける。
 真正面にいる私を何故か見失う姉の視線が、ようやく私のそれと合致する。
「誰それ……?」
 記憶喪失になっていた。
 さっき夢の中で自己紹介してたくせに。
 メルラン姉さんは、幽霊なのにやたらぼさぼさな髪の毛を更に掻き上げながら、
「わたしの名前は、るなさ・ぶりずむりばー……。夜になると、清純な長女の顔を脱ぎ捨てて、従順なメス奴隷の毛皮を着込」
「外力『ストラディヴァリウス』」
 ごしゅ。
 と、メルラン姉さんの腹部に、巨大なヴァイオリンが落下する。
 私は何も見なかった。
 でも、ヴァイオリンはそういうふうに使うもんじゃないと思う。
「……むぅ。……なにか、長い夢を見ていたようだ……」
「おはよう、メルラン」
 そして何事も無かったかのように挨拶を交わす長女と次女。
 何でもありか。
「あ、おはよー。レイラもおはよー。今日は良い天気だねえ、全く憎たらしいくらい、ごふぉげふっ!」
 激しくむせた。
 どうも後遺症が治まっていないらしい。
 凄い姉妹だ……。私も、何故かその一角に収まってるんだけど。
「とにかく、ご飯にしましょう。準備は出来てるから」
「やっほう姉さんー! おはようございまーす!」
 調子の良い声は、リリカ姉さんのもの。料理をルナサ姉さんに任せきりにしているあたり、持ち前のずるさが前面に出ている。でも、ルナサ姉さんは小さく溜息を吐くだけ。大人だと言えば聞こえはいいが、実際はとうの昔に諦めただけの話。
「ほら、メルランも早く立つ」
「う、うん……。おっかしいなあ、どうしてこんなに胃が痛んだろ、ぐふぅがふっ!」
 血痰を吐きそうな勢いだった。
 それでも何となくギャグに思えてしまうところが、メルラン姉さんの凄さだと思う。
 不幸とも言うが。




 食卓も相変わらず騒がしい。
 玉子焼きに何を掛けるかで暴れ、フォークとスプーンの使い方で口論になり、食事中に眠りこけたメルラン姉さんの額にフォークが刺さり、メルラン姉さんのサラダを掠め取ろうとしたリリカ姉さんの手の甲に爪楊枝が刺さり、場を収めようとしたルナサ姉さんの悪評を呟いたメルラン姉さん(熟睡中)の後頭部にパイプオルガンが落ちた。というか、もうヴァイオリン関係ないし。
 そんな中、私だけが平然と朝食を楽しんでいる。
 正確には、騒然としたこの雰囲気を堪能していた。
 お隣さんから苦情が出そうなくらいに騒がしい只中にあって、微笑を浮かべながらスプーンを動かすのもどうかと思う。ルナサ姉さんも「変なやつだな」と笑っている。でも、それでいいんだ。
 楽しいから。私が望んだことだから。
 いつか、この楽しい日々も終わりを告げる。
 それが分かっているから、この騒がしい日常も愛しいと思える。
 無くしたものを慈しむように、私は生を謳歌する。
 三度は手に入らない幸福を抱いて、静かに、喧しくも楽しい日々を生きていく。

「えーい! あんたたちってのは、死んでもゆっくりご飯が食べられないの!?」
「死んでないもーん」
「ZZZ……」
「あー、もう!」
「……あははっ」

 生きて、いくんだ。






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一日一東方

七月五日
(妖々夢・上海人形)

 


『繰り人形の夜』



 名も無き人形がある。
 一体、二体、三体四体五体……。二十に達した時点で、数えるのをやめた。
 その全てがこちらを睨み返していて、正直気味が悪かった。相手方には私を睨んでいる気などないのだろうが、生気のないヒトガタはそれだけで死体を思わせる。
 死体の眼は未練の象徴。
 成すべきことを成さず、果たすべきことを果たせなかった無念の慟哭が、その瞳に埋め込まれている。
 故に、呼吸すらしない人形の瞳を見るだけで、人間はそこに恐怖を催してしまう。
 無理もない話だ。人間は、想像力が豊かすぎる。
 私は、無数に並べられた人形たちを前に、腕組みをして考え込んでいた。
 悩む。どれを――否、誰を引き取るべきか。
 無論、全てでも構わない。ただ、その場合は多少なりとも邸宅内での動きが不自由になる。
 私個人の自由を採るか、人形たちの自由――解放を採るか。
 難しい。が、心躍る選択ではあった。
「ゆっくり、決めてくれればいい。焦らずとも、人形は逃げない」
「ええ。初めから、そのつもりよ」
 老人は、安楽椅子に深くもたれていた。
 閑散とした店内に、私と、店主である老人が独り。湿気った空気に侵されていないのは、倉庫に仕舞い込まれていた人形くらい。
 ――ひとつ、頼まれて欲しい。
 外界の知人から便りが来た。近々店を閉めるつもりだから、人形を預かってほしいと。
 私も、その人間とは懇意にしていたし、ベースになる人形が欲しいと思っていたので、その提案は渡りに船だった。
 だが、あまりにも予想外。規格外の逸材。
 彼女たちは、良くも悪くも理想的な器だ。
 ただの玩具として生きるには身重で、魔法使いの手足として動くには身軽すぎる。要は、使い捨てになるか否か。持ち主の手から離れた人形たちは、すなわち後者になる運命しかない。
「凄いわね」
 返答は求めない独り言を呟く。老人も、パイプをふかしたままぴくりともしない。
 耳を澄ませば、彼女たちの声が聞こえて来る。
 慟哭、絶叫、嗚咽、怨嗟、苦悩、狂喜。
 悲しいのか、嬉しいのか。
 分かっているから。あなたたちのことは、痛いくらい分かっているから。
『わたしをみて』
『わたしをあいして』
『わたしをだいて』
『わたしをこわして』
『わたしをこわして』
『こわして』
『こわせ』
『こわせ』
『ころせ』
『ころせ』
「――ッ」
 ……どいつもこいつも、手前のことしか考えていない。
 人形に与えられた魂は、主人たちの魂を投影したものが多い。愛が足りないものは人形に愛を求め、拠り代を求めるものは人形を生け贄として扱う。自殺願望があるものは人形を壊し、他殺願望があるものも人形を壊す。
 よく見れば、腕がもげた人形、瞳がこぼれた人形、足が足りない人形も少なくない。
 彼女たちを見て感じるものが、同情なのか嘲笑なのか。当の私も判別がつかない。
 だが私とて彼女たちと大差ない存在なのだから、同類として彼女たちを求めるのも当然の話と言えよう。
 そのときに漏れた笑いは、確かに喜びから発露したものではあった。
「決めた」
 ん、と老人が首を向けた。ギシギシと軋みながら動くその様が、寿命の近付いた繰り人形を思わせる。
 薄暗い店の更に奥、頑丈に施錠された倉庫の棚、上下にわたり並べられたる数十のヒトガタたち。
 その中から、私は一人の人形を引き寄せた。
 全身に紅いフリルをまとわりつかせた、小さな体躯。
 訴えかけて来るものは、特にない。強いて言うなら、『わたしは上海』と自分の名を口にしていることくらいか。誰も彼もが手前の願望を押し出しているのに、彼女だけは確固たる意志を持っていた。
 こういう人形は、私が手を加えなくても勝手に成長する。私はその背を押すだけ。
 自己主張の強い人形には辟易していたところだ。出来得るなら、私は静かに暮らしたいと考えている。この彼女――上海と言うらしい――が、新天地における最初の同胞であることを期待する。
 どれもこれも、私が勝手に希望していることだ。
 だが、彼女はそれに応えてくれるだろう。だからこそ、私は上海を選んだ。卑怯かもしれないが、人形の本分にはきちんと沿っているから、何の問題もない。
「それか。少々、扱い辛いかもしれんが」
「そうでもないわ。触ってみた感じ、素直な子みたいだから」
「なら、いい。一応、名は教えておこうか。彼女は――」
「――いえ。それは、とうに知っているわ」
 そうか、と言った老人の顔が緩んでいた。
 用事は済んだので、私は一言二言だけ残してその店を去る。老人は特に何も言わなかった。残った人形の行き先も、残された自分の逝く先も何もかも。
 遠ざかるボロ屋敷を、最後に振り返る。ここからでも、人形たちの怨嗟が聞こえて来そうだ。
 傍らに抱いた上海人形の瞳を見つめ、不意に目を細める。
 ――夜は、近い。
 徐々にくすんでいく人形屋敷から目を逸らし、私は私の帰るべき森へ、焦ることなく足を進めた。




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一日一東方

七月四日
(妖々夢・毛玉)

 


『ケサランパサラン』



 ふわり、ふわりと漂う毛玉。
 白く、柔らかい毛に覆われて、風に舞い、空に浮かんでいる。
 重力に従い、徐々に降下していくかと思えば、釣り針に引っかかったように急上昇することもある。
 自由奔放。
 春夏秋冬、月日星雲全ての真下に在り、誰にも縛られず、何にも寄り添わない。
 これらには、無重力、無神経という言葉が最もよく似合う。
「……くしゅ」
 幻想と現想の狭間に位置する、空を飛ぶ不思議な巫女がくしゃみをする。
 それに呼応して、彼女の真上を飛んでいた毛玉が、風に逆行した。
 小さい鼻をすすり、箒を振りかざしながら不意に空を仰ぐ。燦々と降り注ぐ太陽光線を恨みがましく見詰めるその瞳に、無秩序に広がった毛玉の粒が映っていた。


「よっと」
 地を蹴り上げて、空を掴む。
 掌は空気を握り締めるだけで、目的の品を掠め取ることも出来ない。チッ、と軽く舌打ちをしながら、片手をついて着地する。
「はっ」
 休む暇もなく、ジャンプ。両足を踏ん張っても、一定の高さから越えることはない。
 それを知りながら、なお上へ。
 箒を使っては、意味がない。わずかな気流でさえも吹き飛んでしまう脆弱な存在だから、人間の手で奪取する必要がある。それに、そんなちっぽけなものだからこそ、掴み取る価値がある。
 万全を期し、両手で挟み込む。魔理沙の手は空中で拍手を打ち、その隙間から白い綿毛を放出していた。
「……上手くいかんなあ」
 左手で受け身を取り、起き上がり際に手の汚れを叩き落とす。
 腰に手を当てて、ずれた帽子を据わりの良い位置に戻す。
 魔理沙の庭には、いつくもの毛玉がいる。バッタやボウフラのような大発生は稀だが、存在のために季節と時刻を選ばない彼らは、湿り気の多い陰気な森の中にも彼方の昔から存在している。
「大人しく、研究材料になりやがれっ、ての! たぁっ!」
 勢いよく、眼前に飛び込んできた一センチ大の毛玉に貫手を放つ。
 だが、些細な空気の流れでも、彼らは充分に推進力を得ることが出来る。ふわり、と魔理沙を嘲笑うかのように彼女の魔の手を潜り抜け、緩慢な下降と急速な上昇を一定のリズムでこなしながら、晴れ晴れとした青空へと舞い昇っていく。
 馬鹿にされている、と解釈した直後、物凄い勢いで地団駄を踏む。
「あーっ! 腹立つなー、もー!」
 彼女の身体が立ち昇る熱が、更に毛玉を遠ざける。
 彼らに知性はないけれど、空気を理解する程度の能力は持ち合わせているのである。


 舞い上がる埃も、湖上の空を舞う毛玉と思えば憎悪も沸かない。
 遥か昔から存在しているものだと考えれば、今更敵愾心も抱かない。
 ただし、それが人為的なものでなければの話だが。
「パチュリー様ー! こんなの手に入れましたー!」
 やかましい。耳を塞ごうにも手は塞がっている。今は魔導書を読むのに忙しい。
 喧騒の首謀者が誰かは分かっているから、黙って扉が開くのを待つ。私書室には魔女が一人、それから慌てて駆け込んできた門番が一人。
「……指示代名詞だけじゃ、意味が分からないわよ」
「あ、すみません。これですこれ。毛玉、かと思ったんですけど、どうも違うみたいなんですよね」
「……まあ、毛玉とも言うけど」
 浮遊した埃が喉に舞い込み、くぐもった咳を誘発する。
 美鈴が若干気まずそうに佇んでいるが、反省するくらいなら初めから牛歩で登場してほしい。
 彼女の掌には、ひとつの毛玉が乗せられている。
 タンポポの冠毛のようであり、猫の毛を束ねたようでもある。幻想郷中に氾濫している毛玉である可能性が最も高いが、そもそも毛玉の正体すら明らかにされていないため、それっぽい物体の総称として『毛玉』という語が用いられているに過ぎない。
 パチュリーは、目線を毛玉から紙面に移す。
 毛玉については、十数年前に一通りの調査が終わっている。
 放置された彼女は、不安そうに言葉を紡ぐ。
「あの」
「何よ。特に気にすることでもないわ。捨て置くなり仕舞い込むなり、魔法使いに売り付けるなり好きになさい。目立った害も益もないから」
「はあ。でも、これってケサランパサランの類じゃないんですか?」
 紙をめくろうとした指が止まる。
 門番も、意外にものを知っている。尤も、ケサランパサランに関しては、民間伝承の域を超えていないが。
「これ、持っていると幸福になれるんですよねっ」
 幸せそうに問うて来る彼女を見ていると、即座に否定するのも気が引ける。
 というより、幸福の象徴を手にしている、という事実に幸福を覚えているようだ。彼女がそう捉えているのなら、わざわざ希望を押し潰す必要もないのだが。
「そう、とも限らないけどね」
「……え」
「ケサランパサランというのは、そうね。そう信じ切ったものだけが手にすることが出来る、一種の幻想と言ってもいい。だから、そんなものはいない、なんて私の口から言えないわ。
 だって、あなたはそれがケサランパサランだって信じているんでしょう?」
「え、と。……違うんですか?」
 怪訝な瞳で、パチュリーを見詰める。
 魔女は肩を竦めて、読書を再開した。
「さて、ね。私にも、分からないことはあるわ。少なくとも、あなたがそれを手にして幸せだと思っているのなら、たとえそれの正体が何であったとしても、あなたにとってそれは幸福の証なんでしょう」
 彼女は、未だに首を傾げていた。
 やがて、彼女の中で決着が着いたのか、感謝の言葉を残して私書室から去って行った。最後の言葉に戸惑いが無かったことから推測するに、彼女はあれを箪笥の奥にでも仕舞って置くのだろう。
 パチュリーは、薄暗い部屋の天井を仰ぎ、近付けすぎた目を乱暴に擦る。
 世界は美しい。
 世界は、見る角度によってありとあらゆる形に変わる。
 ただの冠毛が、夢を叶える媒体になる。
 十字に重なった棒切れが、吸血鬼を滅ぼす因子になる。
 染みの付いた丸い月が、兎の住まう楽園になる。
 夢を見ることが許されているなら、少なくとも夢が無くなることはあるまい。
 だから、この部屋に潜んでいる大量の埃でさえも、彼女の幸せを密かに願っているのかもしれない。
「……はぁ」
 出所が分からない溜息を吐いて、パチュリーは次の頁をめくった。




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一日一東方

七月二日
(蓮台野夜行・宇佐見蓮子)

 


(てのひら)



 夢を見た。
 遠い昔の記憶を掘り返して、過去の過ちとか己の愚かさだのを省みる。
 しかしそれすらも私の一部に過ぎないから、私は私を変えることなど出来ない。
 代替出来ない。
 私は私のままで、分不相応に綺麗な夜を見上げることしか出来ない。


 小さな身体に、大きな空。
 泣きながら歩く山道は、幼い足にはあまりにも辛い。
 諦めて、切り株に座る。
 今頃、お母さんはどうしているんだろう。
 お父さんは、探してくれているのだろうか。
 分からなかった。分からなかった。
 空を見上げても、そこに月と星があることしか分からなかった。


 年に一度、家族でキャンプに行った。
 慣れた山だった。けれど、それはあくまで開放されている場所のみに過ぎない。
 自然は常に悪戯好きで、自然から乖離した人間たちはその魔の手に気付かない。
 誘われていることも知らず、私はふらふらと山の中に入り込んでしまった。
 愚かだ、と思う。浅はかだとも思う。だが、そうしなければならないと感じた。
 当たり前だが、縦横無尽に生え揃った樹木の群れは圧巻の一言だった。目的もなく歩けば、浅黒い肌に幾線もの傷が走る。軽い痛みに遮られることなく、私は、山の奥へ奥へと進んでいく。
 夢を見ている私は傍観者。だから手を伸ばしても届かない。
 両親は去りゆく背中に気付くことはないし、この先に起こる後悔を回避する術もない。
 唯一残された希望は、夢が覚めればこの記憶も曖昧に霞んでしまう、ということくらいか。
 過去の私は、何も知らずに枯れた山を散策する。
 誰に誘われているとも知らず、それが自分の意志だと勘違いして。


 橙色の闇が降りてくる。
 私は気付かずに歩いている。無邪気に、何の躊躇いもなく。
 ――不意に、立ちどまる。
 誰かが手招きしているような気がした。姿も影も形も、声も足音も薫りすらしない。けれども、そこに何かがいる。私などでは知覚出来ない存在が、確かにあることだけは理解出来た。
 あるいは、立ちどまらなければ。
 その先にある闇の中に、嬉々として入り込むことが出来ただろうに。
 恋い焦がれている幻想世界への片道切符を、私はその場の恐怖のみで破り捨ててしまった。
 無くしたものはいずれ見付かることもあるが、自ら捨てたものは二度と手に入らない、と口にしたのは誰だったか。まあ、思い出せずとも構わない。片道切符が手に入らないのなら、往復のパスを手に入れるだけだ。
 足を止め、枯れ木だらけの山の中に独り佇み、耳鳴りのするような静寂に身を竦ませる。
 そうだ。
 常々不思議に思っていたのだけど、あの時の私が何故不思議に思ったのか。好奇心に駆り立てられた足を停止させた、根本的な原因。
 ――何も聞こえない。
 カラスの鳴き声も、落ち葉が風で擦り合う音も、枝葉を踏み締める音も風の音も。
 何も、聞こえては来ない。
 後になって知ったのだけど、こういうものは結界というそうだ。
 天然の結界は存在しない。自然が形作るのにしろ、そこには人工的な意志が介在する。必ずだ。
 なればこそ、やはりあの場所には誰かがいたのだ。
「……ぁ」
 声など、出さなければいいと思った。
 そんな些細な呟きだけで、その結界は脆くも崩れ去ってしまったのだから。
 カラスの鳴き声が、より大きく耳に響いて来る。
 獣道は人道にあらず。
 酷薄な自然の中心に取り残され、橙から変化した藍色の闇が、少しずつ私に覆い被さって来た。


 野良犬の鳴き声も、狼の遠吠えにしか聞こえなかった。どちらしろ、十にも満たない私にとっては天敵なのだが。
 不気味だった。
 常に光が溢れていた街の中で、闇を意識することはない。ありとあらゆる闇が排斥された世界はとても清潔で、夜の存在など忘れてしまいそうだった。
 なのに、一歩外に出ればこの有様だ。
 ――無力だった。
 自分が、どうしようもなく矮小な存在なのだと自覚した。五感の全てが私を否定する――自然には逆らうな、と。
「……ぅ、ひく……」
 泣いた、と思う。
 声を出すのはまずい、と子どもながらに感じていたけれど、押し潰されそうな程の悲しみに耐えることまでは出来なかった。誰もいない、真っ暗闇。向き合おうにも、この黒色はあまりにも深すぎる。闇に目が慣れることはあっても、その全てを把握することなど不可能。人間は、闇から遠ざかりすぎた。
 無論、当時の私にそこまで考える余地はなく、向こうの山に木霊することがない程度に啜り泣くに留まっていた。
 幸い、秋の肌寒さは私を殺す程ではなく、キャンプ用に長袖を羽織っていたのも功を奏したらしい。
 ただ、完全な闇の中で夜を明かすのが初めてだった私には、目をつぶることすら恐ろしくてたまらなかった。
 切り株の上で、翳る空を見上げる。
 何気ない行為の果てに何もないと分かっていても、何かせずにはいられない。
 歩けば迷う。迷いは躊躇いを招き、焦りは破滅を誘う。動かない、という選択肢が最も妥当だった。
 その時、私は空を見るしかなかった。
 街灯などひとつもない空の果てに、星の輝きと、月の煌きを知る。
「――――――あ」
 その感動を、私は忘れないだろう。
 私は、夜を見た。そこに輝く星を知った。
 限りなく低い視点から、遠い夜空を仰ぐ。
 このちっぽけな視界では捉え切れないほどの蒼穹が、目の前にある。手を伸ばしても届かず、目に見えてもその輝きは遥か過去のもの。
 世界は丸い、と誰かが言った。
 ああ、それは確かに。だけど、もしかしたら。
 本当に丸いのは世界じゃなくて、空の方なんじゃないか――と、私は思った。
「……きれい」
 ぽつり、遠い言葉を口にする。
 心から吐いた言葉が、星に届くことはない。地面をただ這いずることしか出来ない自分には、恒星が放つ輝きを眺めることしか出来ない。
 無力、ではあったけれど、無様ではない、と信じたかった。
 いつか、この手はあの星を掴めるのだろうか。
 あるいは、あの星のように輝きに満ちた、道しるべになり得るような幻想を。
 私の、この手のひらで。
「……九時」
 もうそんな時間か、とその時は思った。何故、時刻が分かるかなどとは考えなかった。
 無限に広がる空は、私に構わずくるくると回り続ける。それでいい。手が届かないからこそ尊く、迷いがないからこそ美しい。
 名残惜しそうに、過去の私が立ち上がる。
 流れ星は流れない。その代わりに、涙が流れることもなかった。
 恐怖が拭い去られることはなかったが、それは私の勝手だ。夜はただ暗い闇を従えているだけで、私に危害を及ぼそうとしている訳ではないと分かったから。
 走り出す。
 脇目も振らずに、帰るべき場所へと帰る。不思議と、両親のいる場所は理解出来た。
 前を向いていても、この視界に星々は映る。
 家に帰れば、この夜を体験することも無くなる。だが、忘れまい。ずっと覚えていよう。出来るなら、私が空を掴む日まで。
 走り続ける。
 両手を前後に振りかざして、来るべき未来に向けて精一杯駆けて行く。
 その背中を、未来の私が見送っている。
 主導権は、過去の私から現在の私に戻る。本来なら、あの私が両親との再会を果たし、叱られながら抱き締められる様相が目に浮かぶはずなのだが、実際はそうじゃない。
 ただ、満天の星があるだけだ。
 あの日、私が掴もうとした。
 ――綺麗だね。




 日の出と共に起きることが出来たら、どんなに楽か知れない。
 だが、それでは人間として生きている意味がないようにも思える。難しい話だ。メリーに言わせれば、目覚まし時計をもうひとつ増やせということなのだが。
 ぼやけた視界は目やにのせい。気持ちの悪さは口にたまった雑菌のせいにして、私はひとつ欠伸をした。
 適当に顔を洗い、やや丁寧に歯を磨く。大学に行く準備をしなくていいということは、すなわち何もしなくていいということだ。
「ふあ……」
 シャツとショートパンツ姿のまま、ベッドに腰掛ける。寝苦しかった夜もようやく終わりを見せ、薄着のままだと風邪をひきそうなほど。だが、基本的に楽をしたがる私は、こうして薄着のままで夜を明かしてしまうことが多い。
 夢、を見た気がする。内容は、いつものように詳しく覚えてはいない。
 窓から差し込む日差しの色は、毎度のように美しく輝いている。寝起きの目にはあまり優しくないが、それを浴びるだけで、身体は自然と覚醒を促してくれる。便利な身体だ。
 よいしょ、と背筋を伸ばして、枕元に置いていた携帯電話を取り出す。
 特に用事がある訳ではないが、とりあえず友人に向けておはようメールを打つ。メリーはもうとっくに起きている頃だろう。果たして、どんな内容が返って来るのか。少しばかり心を躍らせながら、送信ボタンを押した。





 おはよう、メリー。
 良い夢は見れた? 私はあんまり覚えてないけど、きっと良い夢だったわ。
 何故かって、そりゃあこんなに良い天気なんだもの。
 世界はね、私たちが思ってるよりずっと優しく出来てるのよ。厳しく見えるのは、私たちが気に掛けていなかっただけ。
 ――だって、世界は丸い、ってよく言うじゃない?





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一日一東方

七月三日
(蓮台野夜行・メリー)

 


『くるみ』



 他人の写真を呆と眺めていても、目に映るのは歪み果てた幻影だけ。
 世間様では心霊写真と言うらしいが、人間の心にも光が当たり出した昨今において、このようなトリックは簡単に見破れてしまう。心霊写真、という言葉を聞くことも少なくなった。ただ単に、民衆の興味が別の方向に移っただけかもしれないけど。
「……どう? なんか見える?」
「あんまり、見たくはないんだけどねぇ……」
「うわ、やっぱり見えるんだ!」
 驚愕の声に、思わず苦笑する。
 大学の講義も終わり、後は帰宅するだけという身分にありながら、私は未だに閑散とした講義室に留まっていた。
 不安げな表情のまま隣りに立っているのは、私によく相談事を持ち掛ける友人。
 私が、秘封倶楽部などという如何にも怪しげなサークルに身を置いているのをいいことに、ことあるごとに周囲で起こった不可思議な事件の解決を求めて来る。無論、大概は気のせいか人間的な陰謀なのだが、たまに、ごくたまーに本物が隠れていることがある。
 だから、困る。
 たまたま最初に看破した怪奇譚がマジモノだったもんだから、この娘もあれやこれやと聞きに来るようになったのだ。
 私の自由時間は、蓮子半分この娘半分と言ったところである。全然自由じゃない。
「はぁ……」
「あ、なに? 悩みごと?」
 話くらいなら聞くよ、と耳をそばだてる友人。本当に心配しているようだから、まさかあなたのことで悩んでいるとも言えない。悪気がなければ何をやってもいい訳ではないが、人間関係は円滑に回ってくれた方がいい。
 仕方なく、溜息を飲み込む。
 蓮子との待ち合わせ時刻まで、残り三十分。それまでには、どうにかこうにか解決を見ることが出来るだろう。誰にとっての最善策かは不明だが、とりあえず私のためでないことは確かだ。
「何でもない。何でもないから……その、男の幽霊? なんか心当たりないの?」
「う……ん。実はね――」
 写真は、その友人が大学の正門前で撮ったものだ。人間に焦点を当てたものではなく、空間そのものを切り抜いたひとつの風景画である。
 その、ちょうど正面に男の影はあった。
 この娘には、誰かが立っている姿がぼんやり見えるそうだが、私の目には極めてくっきりと、無精髭を生やした白衣の若者が映っている。ついでに言うと、男だけではなく、彼を取り巻く空間が不自然に歪んでいることも確認できる。
 正門の前にはT字路があり、人や車の往来が非常に激しい。講義開始のベルが鳴るか鳴らないかの瞬間は、信号機や横断歩道という概念を無視する学生が殆どだ。
 故に、事故も多発する。
 まばらに歩いている学生たちを羨むかのように、男の目は大学の研究棟を見上げていた。
「――何年か前に、大学の正門前で酷い事故があって。玉突き事故だったんだけど、いちばん初めにスリップしたトラックが、信号待ちしている医学科の学生さんを轢いちゃって、それで――」
「ストップ。……その辺りで、やめた方がいいわね」
「え……。でも、まだ話は半分くらいだけど」
 いいのよ、と女の子を手で制する。
 写真に浮かぶ、男の影が揺れていた。
 冥界にも、現世の声は届いてしまうらしい。これ以上男の古傷を抉るのも何なので、直接会って話をした方が早い。正門前に幽霊が出る、という噂が立ったことはないが、何かの切っ掛けで怨念が湧いて出て来ることも少なくない。
 死んだものが生きているものに干渉するのは、厳密に言うと悪いことではない。が、その行為が一方通行であり、相手の意を汲んだものでないのなら、それは否定されなければならない。
 残念ながら、現世はそういう仕組みになっている。ここは黙って引き下がってもらおう。
 長椅子から立ち上がり、写真を黄昏の光にさらす。
「うーん……」
「どうしたの? 気分でも悪くなった?」
「いや、こいつ綺麗な顔してるなぁ、と思って」
 流石に、この台詞までは女の子に理解されず、しばらく性質の悪い沈黙が続いたのだった。


 大学の正門前からでも、待ち合わせの場所は充分に見て取れる。蓮子だって大学に在籍しているのだから、ここにいれば彼女とすれ違うこともあるだろう。
 排気ガスと排気音、学生たちの剣呑なざわめきを上手く聞き流しながら、例の写真が撮られた場所に移動する。信号の真下、斜め四十五度の奥行き。写真と照らし合わせて、改めてその場所を注視する。
 思えば、サークル活動の際は常にここを通っているのに、どうして一度もその幽霊の姿を拝むことが出来なかったのか。私くらい空間の歪みを見るのに長けた人間なら、せめて一回は寒気を覚えてしかるべきなのに。
 きっと、三回忌だか七回忌だか十三回忌なんだろう。その辺りの時期には、冥界の縛りも緩くなるとかならないとかいう話だし。……我ながら、適当極まりないが。
「……いた」
 百聞は一見にしかず。
 幽霊は、その本分に従って地面から二十センチほど浮いていた。顔色は、驚くほど悪い。人魂が浮かんでいないのは、この男が魂の具現化した姿、いわゆる亡霊のような存在だからだろう。
 一歩一歩、彼の射程距離に近付く。正確には、空間の歪みが見て取れる場所へ。
 今の私は、空間と空間の歪みをレンズとして、向こうの世界にある存在を眺めているに過ぎない。だから、霊を祓ったり結界を張ったりすることは出来ない。話すことが出来るかも曖昧なところだが、やってみないことには始まらない。私は、恐る恐る声を掛ける。
「あの。幽霊さんですか」
 アホな問い掛けだ。
 男は唇を震わせていたが、喉が動いていないところを見るに、言葉を発することは出来ないらしい。
 だが、声は通じている。ならば、いくらでもやりようはある。
「こっちの人に、あなたの声は通じませんよ」
 俯く。何か伝えたいことがあったのか。
 だが、その半分はおおよそ理解しているから、あまり問題ない気もする。
「車。気を付けないといけませんよね」
 男の顔が上がる。その綺麗な面差しが私を射竦めて、確かに、笑ったような気がした。
 唇が動く。
 好意的に解釈するなら、
『生きているときに、あなたと会いたかった』
 と、いう感じだろうか。……夢ぐらい見させてくれ。
「なんでこっちに来たのかは知りませんけど、早いとこ帰った方がいいですよ。あっちの世界も結構暖かいと思いますし。多分」
 確証がない訳ではない。実際、あの桜の周りは暖かかった。気のせいかもしれないが、嘘も方便だ。
 男は、一、二度唇を動かした後、忘れ物を思い出したかのような気軽さで、歪んだ空間の更に奥へと消えて行った。それに伴い、空間も正しい形に戻る。ポケットから写真を取り出せば、こっちの心霊も綺麗に消滅していた。世の中、なかなか上手く出来ているものである。
 肩を竦めて、男が見上げていた研究棟を一瞥する。
 あんな堅苦しい建物でも、恋い焦がれてやまない人種がいるのだ。明日からは、もう少し真面目に研究してみようか、と柄にもないことを考える。
 しばらく交差点の前で呆としていると、校舎の方から先程の友人が走って来た。心配するなと言っておいたのだが、やっぱり心配になったらしい。
「はぁ、はっ……。だ、大丈夫!?」
「うん、まあ。少なくとも、今のあなたよりは」
「なんか、一人で喋ってるみたいだったから……」
「あー……」
 確かに、冥界との交信と言っても差し支えはない。が、認めてしまうのもなんとなく癪ではあった。わざわざ変人アピールをすることもあるまい。
 適当に言葉を濁して、事件が解決したことを伝える。
「えっ、と……。それじゃあ、もうあれはいないってこと?」
「多分ね。轢死した幽霊なら、とりあえず交通整理でもしとけば安心していなくなるでしょ」
 右手で自分の肩を揉む。あっちの世界と関わるのは、興味深いけれどもかなりの精神力を使うことになる。
 彼女は、私の言っていることが分からないのか、ぽかんと口を開けたまま塞げなくなっていた。そんなに奇妙なことを言った覚えはないのだが、はてさて。
「え……。車に、轢かれた、って? 誰が?」
「だから、何年か前に死亡事故があったって言ったじゃない。学生が車に轢かれて死んだって」
「死んでないよ」
 なぜか、底冷えのする口調だった。
 この娘は特にそういう意識はないように見えたが、私にだけはやけに冷たく響いた。
 聞き返す。
「……いや、玉突き事故。あったんでしょ?」
「あったよ。でも、事故にあった人は奇跡的に生き延びたの」
「生きてた……の?」
 初耳だ。
 だけど、彼女は最初から言っていた。まだ話は半分くらいだと。
「うん。だけど、頭を強打したせいで、ずっと植物状態になってるんだって。まだ大学に籍があるみたいだから」
 語り続ける彼女の言葉と、自分が体験した事実を総合する。
 結果など、最初から分かっていたことだ。
「――――――そう」
 呟いた言葉は、自分でも重たく感じられた。彼女はその意味を図りかねているようで、私の手のひらにある写真を遠目に眺めているだけ。
 私は、用済みになった写真を彼女に返し、待ち合わせ場所に足を進める。
 その際、もう一度だけ交差点を振り返る。信号機の向こう側に大学の校舎が橙色に輝いている。
 もし、事故があったのなら、そこに献花がされているだろう。もし幽霊がいたのなら、私が気付けなかったはずはない。怨念や未練が、そこに渦巻いているからだ。
 だとしたら、あれは幽霊ではなく、生霊の類だったのかもしれない。
 そして、彼は冥界の向こう側に消えて行った。此岸でなく、彼岸に。
 魂の消滅は、肉体の破滅に繋がる。繋ぐ糸が断たれれば、操り手のいなくなった風船は、あっと言う間に空へと舞い上がって行く。
「……お人よし、だったのねぇ」
 今際の際に、生きている者たちへ警告を残しに現れた。恨んでもいいだろうに、祟ってもいいだろうに。
 だが、最期に彼が笑ったように、後悔なんてなかったのかもしれない。死を受け入れて、その上で何をすべきかを考えていたに違いない。
 帽子を外し、無造作に頭を掻く。
 こうなったら、私も逃げられやしないではないか。
 ――明日から、交通整理でもしてみようかしら。
 などと、柄にもないことを想ってみる。
 考えてみると、それは存外悪くないことのように思えた。
 黄昏の色も少しずつ薄くなり、幽霊たちの闊歩するという、静かな夜が降りて来る。




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一日一東方

七月六日
(花映塚・ひまわり娘)

 


『花 −memento mori−』



 妖精に聞いてみたことがある。
 どうして向日葵を持っているの。
 妖精は少し首を傾けて、咲き頃の向日葵を太陽に掲げながら、優しく答える。
 これは、献花だから。


 移ろいやすい季節にあって、朝からずっと晴れ渡っていた空に雲が掛かるのは仕方のないことだ。
 それでも、若い向日葵の花は太陽がある方へ首を傾げる。
 日輪の輝きに憧れているのか、生まれる前から太陽に焦がれていたのか。
 真偽は誰にも分からないけれど、献花を捧げる妖精は、きっと両方だろうと思った。


 墓石がある。
 悲しみに俯いた人たちが、お別れにと花を捧げる。
 種類は様々、色は鮮やか。いずれ枯れ果てるものだとしても、それは生の輝きを表しているよう。
 すすり泣く声が聞こえる。おそらく、泣いているのは全ての人間。
 寺に住む、本来は無関係の住職も、隣りに住んでいただけの老人も、一度きり、遊んだだけの友達も。
 あの空も、流れていく雲も、何故かは分からないが、晴れ渡る空から照りつける太陽も。


 悲しいね、と巫女は言った。
 悲しいよ、と妖精は言った。
 確認に過ぎない言葉も、慰めにはなる。とうに過ぎ去った儀礼も、色褪せた献花も、魂ごと磨り減った御影石も。
 掛けてくれる言霊と、一輪の献花があれば、その魂は癒されるのだと思う。
 行くの、と巫女が尋ね、行くわ、と妖精が答えた。
 どこに、とは聞かない。それはきっと、どこでもないだろうから。
 行き場を失った魂が彷徨うように、彼女たちもまた世界に漂う。
 意味などなく、目的など既に消え去った。
 慰めと癒しを求めていた気もするけれど、あの日に昇った魂はとうに満ち足りていたから、妖精がすべきことは何もない。
 ただ、魂の成れの果てではなく、妖精としてすべきことがあるのなら。
 また、悪戯でもするんでしょう、としたり顔で質問する巫女。
 ええ、悪戯でもするんでしょう、と笑いながら回答する妖精。
 人間として生きていた頃に、出来なかったことをやる。
 記憶はなくとも、自我はある。それだけで、事を成すには充分だ。
 姿形は違えども、やるべきことは変わらない。いつもと同じく、妖精の本分に従うのみ。
 遊べや遊べ。
 どうせ、空は輝いている。
 いつかは雨が降るだろうが、それまでは太陽が見守ってくれる。
 茎から折れた、献花としての向日葵も、ずっと太陽を見詰めている。
 気を付けてね、と当たり前のように言われ。
 気を付けるよ、と不思議そうに言い返す。
 鳥居の奥に去り、恨めしそうに空の青を睨む彼女に背を向けて、妖精は空に舞い上がる。
 魂のように、綿毛のように。
 守るべき法もなく、破るべきしきたりもない。
 やりたいことをやり、生きたいように生きる。
 死してなお果たしたかった夢を、死した後に果たそうとする。
 笑えや笑え。
 ずっと、空は輝いている。


 無縁仏には、二つの種類がある。
 ひとつは、親戚も友人もなく、本人の氏名や住所さえ分からないもの。
 もうひとつは、葬られてから長い時が経ちすぎて、もはや誰が眠っているか分からないもの。
 どちらにしろ、誰かが墓の下にあるのは確かなのだけど、花も供物も捧げられず、水もなく、夏の日には乾き、夕立に濡れ、秋の風に晒されては、冬の雪に埋もれて見えなくなってしまうのは、やはり悲しいものだ。
 石は石。死体は死体。魂は天に昇っていったのだから、地面に溶けて消えたものを慈しむ道理もない。
 そう、割り切ることが出来たなら、本当に楽なのだけど。
「広いわね」
 払い串を肩に掲げ、巫女はうんざりと呟いた。
 魔法の森と、紅魔の湖の境目にある、誰もから忘れ去られた霊園。
 一年に数度、巫女はここに訪れる。その行為は虚しくとも、悲しいのだから仕方がない。
 捧げるものは、わずかな供物とささやかな祈祷しかないのだけど、冬の終わり、春の始まりに訪れたときには、季節外れの献花が、ありとあらゆる無縁仏に添えられていたことを覚えている。
 石の数は、ゆうに百を越える。ひとつひとつの墓石に、平均して四本。蒲公英に向日葵、秋桜に桔梗、菊に紫陽花。
 悪戯にしては、気が利きすぎている。
 雪融けの雫が湖の水かさを増やし、数個の無縁仏を飲み込んでいる。ご丁寧に、花束はそれらの足元にも括り付けられていた。
 まあ、いいか。
 親切な奴らがいたものだと、納得すればいいだけの話。
 暇を見付けては、勝手に祈りを捧げている自分も、そいつらと大した違いはない。
 息を吸い、一面に広がる擦り切れた石群を見据える。小さく腕を上げ、払い串の先端を、低い位置に留まっている太陽に捧げる。

「雪融けに 消える水面の 御影石
 空に伸びゆく 日輪と共に」

 りん、と首に下げていた鈴が鳴る。鳶の鳴き声がそれに重なり、不意に空を仰いでしまう。
 果てなく広がりゆく空に、季節外れの向日葵が咲き誇っているのを見た。
 目を凝らしてみれば、何のことはない。
 眩しいくらいに光り輝いている、太陽そのものだった。




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一日一東方

七月七日
(三月精)

 


『トリニティ・ゼロ』



 博麗神社、その母屋の屋根の上に、三人の妖精が腰掛けている。
 彼女たちは、時に自分たちの数序詞が『匹』と呼ばれることに大変怒りを覚えている。そこいらのカエルやアブラムシじゃないんだから、きちんとした人格を認めていただきたい。
 だが、人間と同じ『人』というのも何だかねえ、とか我が侭なことを考えたりもしているのである。
「……つまんないわねぇ」
 右から、金の髪と小さなリボンが目立つサニーミルク。
「あなたは、いつもそればっかりね」
 真ん中に、長い黒髪を傘で覆い隠しているスターサファイア。
「頭が温かいんでしょう」
 左端に、心なしか冷めた口調で解析する、お嬢様然としたルナチャイルド。
 言い様によっては、三人共が我が侭なお嬢様のようなものなのだけど。
「沸点が低いとも言うわね」
「だから、常温でも脳みそがこぽこぽ沸騰するのよね」
「ぶくぶくー」
「……あんたら」
 好き勝手言い放題の妖精たちに、サニーミルクは容赦なく蹴りを放つ。ドロップキックを助走無しで執行できるのは羽根を持つ妖精の特権だが、こういうアクロバティックなことに使うために羽根がある訳ではないんだろうなぁ、とスターサファイアは考える。無論、避けた飛び蹴りは残ったルナチャイルドに着弾する。出来の良い避雷針だ。
「ああぁッ! 避けるし!」
「ルナは喰らったからいいじゃないー」
「良くないッ! 滞りなくあんたも喰らえーっ!」
 指を鳴らし、光の屈折を調整する。
 同時に、サニーミルクの姿が一瞬のうちに透過する。しまった、とスターサファイアが思うより先に、首元に柔らかくも強く圧力が与えられる。
「く、チョークスリーパーか……!」
「へっへー。タップもロープも不可能だよ。味方もいないしねー」
 例によって、避雷針は屋根の上で伸び切っている。
 役に立たないわね、とスターサファイアは自分が仕出かしたことを棚に上げつつ、口から魂が零れそうになるのを必死で押し留めた。
 妖精は魂が昇華した存在だとかいう話なので、特に魂がある訳でもないのだが、こういうのは何でも思い込みである。エクトプラズムみたいな。
(あ……。三途の川に、七色の虹が掛かってる……)
 何かしら不吉な概念を理解したと同時に、スターサファイアは締め上げてくる腕を渾身の力でこじ開け、そのまま思い切り噛み付いてやった。がぶ、とチーターがシマウマの太ももに噛り付くように。
「あっ……。い、いだだだだだだッ! 痛いー! 痛いってば、ばかーっ!」
「あぐぐぐ」
「おいこら、咀嚼すんなぁーっ!」
 傍から見れば、微笑ましいじゃれ合いに見えたであろう妖精たちの喧騒も、勝手に屋根を使われている家主にとって迷惑千万であって。
 ルナチャイルドが失神した以上、屋根の上で繰り広げられる喧騒を消すものは誰もなく。
「……やかましい」
 うだるような暑さの中、畳にうつ伏せている巫女が苛立たしげに愚痴っていた。


 黄泉平坂の幻影を垣間見たスターサファイア、その必死の抵抗が実り、サニーミルクも地獄のホールドを解除せざるを得なくなった。まあ、じゃれ合うのは好きでも、痛いのは願い下げなのである。
「あ〜、いたたたた……。全く、痕が出来たらどうするのよぅ……」
「クスリを打っちゃったことにすれば」
「もっと駄目じゃん!」
「あら。だったら、私がサニーに絞められた痕も、『本懐が遂げられずに思い余って……』ということなってしまうわ」
「う……。で、でも、絞め痕は割りと早く消えるし……」
「遺書には、『サニーにSM用の荒縄で絞め殺されました』って書いておくわね」
「書くなッ! しかもSMて! というか、他殺なのに遺書が書いてあるっておかしいでしょ!」
 激昂するサニーミルクを見て、スターサファイアはきょとんと首を傾げる。
 その後、得心が入ったとばかりに微笑ましげに囁く。
「あぁ、サニーって頭良いのね」
「馬鹿にしてんのかー!」
 切れた。
 出来の悪い子どもに掛けるような、生暖かい台詞だということに気付いたらしい。
 だが、そんなことなど初めから分かっているスターサファイアは、さっきから昏倒し続けているルナチャイルドを揺すり起こすことにする。ここらで体の良い――じゃなくて役に立つ仲裁役を呼び起こしておかねばならない。サニーミルクをからかうのも面白いが、それが過ぎると今度はしばらくむくれてしまう。
「ほら。ルナも起きて」
「う、うぅ……ん。あら、おはよう……」
 目を擦りながら、ルナチャイルドがゆっくりと身体を起こす。
 屋根の端っこで頬を膨らませているサニーミルクを確認し、ため息を吐く。
「また、やったのね」
「ええ。だって面白いんだもの」
 にこやかに答えるスターサファイア。改めて掛ける言葉もなく、肩を竦めるだけのルナチャイルド。
「やり過ぎないようにしときなさいな。あの子、むくれたら長いし」
「分かってるわ。でも、弄れるときは弄っておかないと、ちょっと勿体ないでしょう?」
 意地悪く、それこそ妖精の本分に沿った無邪気な笑みを浮かべ、ルナチャイルドからサニーミルクへ視線を移動させる。ちょうど、サニーミルクが興味深げにこちらを観察していたところだったので、両者の視線が上手いこと絡み合う。
「……っ!」
 弾かれるように、目を背ける。
 自分が怒っているということを、改めて示したかったようだ。無論、スターサファイアは彼女の怒りが冷や汗という結露となって零れ落ちているのを知っている。
 だから、少しだけ笑ってしまう。
「あらあら」
「……生娘じゃないんだから」
「妬いてるの?」
「……正月じゃないんだから」
 くすくすと、スターサファイアは楽しそうに微笑む。
 その笑みが、何かを企んでいるようで、何も悩んでいないようで――。
 ともあれ、こいつを敵にするべきじゃあないな、と今更ながらに思うのだった。


「ねえ、いい加減に機嫌直してぇ」
「何を気色の悪い声なんか出して……。別に、怒ってる訳じゃ」
「……分かりやすく怒ってるじゃない」
「それに、やっぱりサニーはリーダーなんだし、いつでも元気でいて貰わないと困るのよ」
「リーダー、ね。……うん、そうよねぇ、やっぱり私がリーダーじゃないとねー」
「……ちなみにリーダーとは、リードを括り付けられたペットという意味もあって」
「しょうがないわねー。私がいないと、二人とも締まらないんだから!」
「その意気よー!」
「……締まるのは、首輪とリードの方じゃないのかしら……」





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