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  2中 4中 4A 4B 4C 5中 6A 6B EX PH
紅魔郷 ルーミア 大妖精 チルノ 紅美鈴 小悪魔 パチュリー 十六夜咲夜 レミリア フランドール  
妖々夢 レティ アリス リリー ルナサ メルラン リリカ 魂魄妖夢 幽々子
永夜抄 リグル ミスティア 慧音   霊夢 魔理沙   てゐ 鈴仙 永琳 輝夜 妹紅  

花映塚 射命丸 文 メディスン・メランコリー 風見 幽香 小野塚 小町 四季映姫・ヤマザナドゥ   スーさん リリーブラック 幽霊「無名」
文花帖 (射命丸) 鴉 大ガマ  

萃夢想 萃香 香霖堂 霖之助 妖々夢 妖忌 レイラ 上海人形 毛玉 蓮台野夜行 蓮子 メリー
花映塚 ひまわり娘 三月精 (三月精)  

 


 

一日一東方

五月二十日
(永夜抄・リグル)

 


『夜明けまで』

 

 世界には、人間を遥かに超える数の虫が生きている。
 その命が儚くても、それぞれの世界を存分に生きている。
 存在する量が多ければ、朽ち果てる数もまた多い。人間が虫を潰してしまったことで涙しないのは、いくら泣いたとしても滅びる虫の数が涙の量に追いつかないからだ。悲しんでいる間に、またどこかで虫が消える。命の光が消えていく。
 短い命。弱い力。限りない数。
 その存在を、愛しく感じよう。虫を想うことは永遠に悲しみ続けることかもしれないけれど、そこに意味はあるはずだから。手のひらを伸ばし、儚い命を抱いて。
 夜の果て、妖怪は光を放つ。
 自身が燃え盛る火となって夏の虫を誘う。抱き締めてあげよう。せめて寂しくはならないように。
「そこにいるのは、誰」
 問い掛ける。
 霊虫の砦に囲まれながら、リグルは闇に潜む存在を見据える。死したものを冒涜することは許さない。一寸の虫でさえも、一寸の虫だからこそ。
 森を掻き分けながら、一塊の闇が現れる。
 正確には、闇の衣装を身にまとった、一人の少女が。
「……なんだ、あんたか」
「う、ちょっと怖かった……」
 少女の周囲は夜に彩られている。根源も理由もなく、ルーミアとはそういう妖怪だから。
 ルーミアも、リグルを取り囲んでいるのが虫の魂であることに気付いたのだろう。それに触れることは魂を冒涜することだと、充分に理解している。
「そう? だったらごめんね。少し、気が立ってるのかもしれない」
「……虫が、死んだから?」
 静かに問い掛ける。死虫の中心に佇み、自ら輝きを放つ少女の顔は、光とは裏腹に深く沈んでいた。
「今年は、災害が多かったからね。でも、巫女に文句を言っても仕方ない。誰も虫のことなんて気にしちゃいない。虫だって、人間のことなんか関係なく生きてるんだし」
 気軽に吐いた溜息は、予想以上に重かった。
 本当に、虫がそう想っているかは分からない。人に依らなければ生きていけない虫もいる。逆もまた真だ。それぞれが各々に絡み合っている。関係ないと断じることが出来るのは、リグルのような強い生物くらいだ。
 陰鬱な光の中で、ルーミアは顔を上げる。暗く沈んでいるのは趣味ではない。なるだけ楽しく生きたいと彼女は常に思っている。自分がそうだから、親友のリグルにもそう在ってほしいと願う。
 しかし、リグルは時折このように表情を辛く滲ませることがある。
 虫を想うということは、運命を共有することなんだよ、とリグルが前に言っていたのを思い出す。それでいいの、と無邪気に尋ねたルーミアにも、それでいい、とリグルは笑った。
 ――だから。
「ね。その亡霊さんたちは、いつまでここにいられるの?」
「……良くて、夜が明けるまでかな。こないだは夜が長かったけど、今ではもう朝が早いから」
 また、顔が落ちそうになる。
 夜がいくら暗いと言っても、表情まで暗くする必要はないのだ。
 だから、リグルが少しでも笑っていられるように。この追悼の儀式をわずかでも長く続けられるように。旅立ちの運命を、一瞬でも引き伸ばすことが出来るように。
 胸を張って、朝を遮るのだ。
「わかった。それじゃ、私が夜を止めてあげる」
「……え」
 驚きに跳ね上がった顔は、わずかに悲しみが殺がれていた。でも、まだ足りない。
 誰かを想うことは、その運命を共有すること。
 光を放つものと、闇をまとうもの。対極にある存在の運命が交差するというのも、面白い皮肉だけれど。
「だから、リグルはちゃんと笑っていてよ。悲しい顔のまま別れちゃったら、きっと後悔するんだから」
 返事を待たずに、地を蹴って森を抜ける。
 地平線には微かに薄紅色の光が滲んでいる。夜明けは近く、ちっぽけな妖怪一人ではその流れを食い止めることは出来ない。
 ルーミアは太陽の欠片に背を向けて、胸の前で十字を切る。神はいない、信じてもいない。だが、こうすることが正しいと思えた。死に逝くものたちにささやかな祝福を。寂しくはないから。悲しくはないから。
 両腕を肩と同じ高さに保ち、全身で十字を示す。
 リグルが死霊を送る灯火になるのなら、自分は彼らを守る墓標になろう。
 彼らのために流す涙はリグルために取っておいて、ルーミアはそっと別れの歌を口ずさんだ。

「――夜明けまで。
 暗闇にも、ささやかな祝福を。
 小さな命のために、光っている女の子のために。
 影になれ。闇になれ。夜よ続け、いつまでも、いつまでも――。
『ナイトバード』」

 夜が闇によって引き裂かれる。
 自身の闇を操作できる時間はさほど長くはない。リグルたちを朝焼けから守ってあげられる時間も、永遠ではない。いずれ、別れは来る。
 昇ってくる光を遮断し、森に輝く光を囲んでいく。
 自分の視界も闇に染まり、リグルの姿も見えなくなる。
 最後に映った彼女の顔は、よく見えなかったけれど、少し笑っているように思えた。

 

 暗闇の中に光がひとつ。それを中心に踊る亡霊は無限のよう。
 今だけは笑っていよう。悲しむのはいつでも出来るのだし。
 さようならと呟く声は聞こえない。別れはとうに済んでいる。今は、悲しみを後に残さないための儀式。
 永遠に続くかに思えた踊りは、リグルに最も近い虫が消えたことに始まり、ぽつ、ぽつと終わりに近付いていく。
 円を描き、名残惜しそうに誘蛾灯を回っていた虫も、一匹ずつ、確実に居なくなる。
 闇は未だに少女たちを包み込んでいるけれど、もう、これで終わり。
 時は来た。
「――――あ」
 最後の一匹が消滅したと同時に、リグルを取り囲んでいた闇も一瞬して晴れ渡る。上空には橙の太陽と、肩で息をしている金髪の少女。
 自らが放っていた明かりを消して、リグルは、頬に残っていた悲しみの残滓を拭い取る。
 ゆっくりと降りて来る女の子に手を振って、自分でも分かるくらい、元気に笑ってみせた。

 



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一日一東方

五月二十一日
(永夜抄・ミスティア)

 


『歌うたいのバラッド』

 

 愛を歌う、というのは実に恥ずかしい。
 本当は愛を囁く方がもっとこっぱずかしいのだが、ミスティアにそのような経験は無いので実感はしがたい。歌うことが好きで、歌を歌うことが自分の使命だと半ば本気で考えているが、ごくたまに歌いたくなる時もある。
「……はぁ」
 溜息。
 樹齢百年を超える樹の枝に腰掛け、足を組みながら頬杖を突く。視線の先には、お仲間の鳥類が勝手気ままに地面を突っ突いたり適当に囀ったりしている。歌と呼ぶにはあまりに稚拙で、聴く者の心を揺り動かせるとは思えない。
 が、聞いた者の耳には残る旋律だ。目覚めに雀の鳴き声を聞き、夕べに烏の笑い声を聞けば、その歌に振り返らない者はいないだろう。鳥の歌にはその力がある。
「しっかし、私だって喰われたくはないしなぁ……」
 また、溜息。
 右手をかざせば、まだ完全に修復しきっていない傷跡が窺える。五本あるはずの指が三本に見えるのは、目の錯覚ではない。幾度そうであればいいと思ったことか。だが、いくら思い込もうとしても、足りないものは足りないし、時折響く手の痛みが、あれは嘘じゃなかったということを迷惑にも教えてくれる。
 やたらめったら夜が長かった日。ミスティアの一番長い一日。
 端的に言うと、手羽先が喰われました。
「…………」
 死ぬかと思った。
 ていうか、向こうは死んでるじゃん。じゃあ喰うなよ。
 とか思っても、やっぱり喰われるのだった。
 命からがら、蜥蜴の尻尾切りのように指を切り離し、死に物狂いで悪食亡霊軍団から逃げ落ちた。気が付けば、右手首は丸ごと亡霊の腹に持って行かれ、一ヶ月経ってようやく三本の指が生えてくるまでに至る。
 ……冗談じゃねえ。
 前々から常識が通用しない場所だなとは思っていたが、妖怪には棲みやすいところよねふんふーんぐらいにしか考えていなかった。しかし、まさかあんなのと遭遇するなんて夢にも思わなかった。
 それからというもの、なんか妙な巫女とか、変な言葉遣いする魔法使いとか、ちっこい吸血鬼だとか、人間離れした人間と妖怪慣れした妖怪に散々痛め付けられ、その度に雀の涙をこぼす日々を送っている。……今ちょっと面白いこと言ったかも、と思ったところで、賛同してくれる誰かがいないのは寂しいものだ。ミスティアがやたら攻撃を受けるというので、リグルもルーミアも腫れ物を触るような扱いをして来るし。彼女たちも結構被害にあっているから、文句は言えないのだけど。
 全く、溜息しか吐くものがない。
「……むーぬ。雀って食べるとこ少ないと思うんだけどねえ。それよか、蛙の方がなんぼか」
 不意に物騒な思考に陥りそうになった時、森の奥から何やら騒々しい物音が近付いてくる。
 なまじ耳が良いだけに、その声と歩き方から誰が訪れたのかも理解できる。ついさっき、しばらく来ないだろうなと否定していた者たち。
「えと……」
 先頭は、やはりというか、ルーミア。何が楽しいのか無邪気に笑っている。
 続いてリグル。ルーミア程ではないが、こちらもやはり頬が緩んでいる。
 最後はチルノ。こいつだけは来ないと思っていたが、多少捻くれているところがあるから、リグルやルーミアに背中を押されて渋々、と言った具合だろうか。
「あんたたち……。何よ、しばらく来ないみたいなこと言って。来てんじゃん」
 つい、愚痴を吐いてしまう。
 本当に言いたいのはそんなことではないが、自分もあまり素直な性質ではないらしい。
 三人組のうち、最も話が通りやすいリグルが前に出る。いつの間にか、鳥たちは居なくなっていた。よく気が利く。
「うん、まあね。本当は、ミスティアの憑き物が落ちるまではそっとしておこうってのが、大方の見方だったんだけど」
 失礼な話だ。だが、亡霊の姫に憑かれているというのは、あながち間違いではないのかもしれない。めっさ不名誉だが。
「……でも、なんだかんだ言って、私らみんなミスティアの歌が好きだしさ」
「え……?」
 まるで愛の告白みたいだ、とミスティアは思う。
 東方、愛の劇場――とか意味の分からないタイトルが頭を掠めたあたりで、リグルがルーミアに話を振る。
「そーだよ。ミスティアの歌を聴かないと、専門用語で言うところの『こつそしょうしょう』になっちゃって」
「私の歌は骨太ソングか」
 切れ味のあるツッコミにも、ルーミアは首を傾げる。この天然さんめ。
 そして、最後に。
「……あー……」
 頬を掻き、照れ隠しに視線をわざと外したり、不器用に空を仰いだりしながら、それでもチルノは自分の思いを口にする。
「……雀の歌が聞こえないと、朝って感じがしないでしょ? だから、ほら。ミスティアの歌を聴かないと、夜って感じがしないのよね……。うん。分かるでしょ!?」
「なんで切れるのよ……」
 顔を赤くして思いをぶちまける氷精に、失礼とは思いながらも笑みがこぼれてしまう。それを見てチルノはさらに激昂するのだが、これくらいは素直になれなかった代償として大目に見てもらいたい。
 だから、そうだ。
 歌を歌おう。ただ声に身を任せ、頭の中を空っぽにして。
 歌が好きだし、その歌が好きだと言ってくれる。自分が望み、誰かに望まれる、こんなに素晴らしい関係はない。
 ミスティアは枝の上に立ち、欠けた右手を胸にかざす。微かな痛みは綺麗に忘れて、今はただ夜の風にこの声を響かせる。
「一番、ミスティア・ローレライ! 久しぶりのステージ、思い切り楽しんで行ってねー!」
 ノリノリだった。
 お気楽な三人組は、そんなミスティアに暖かい拍手を送る。若干一名、恥ずかしがって適当に手を叩いているだけの妖精もいたが……。
 その硬さを、歌で解きほぐそう。ミスティアは大きく息を吸い、新しい始まりを告げる一声を繰り出した。

「yes, I am――!」

「満漢全席〜」

 ……時間よ、止まれ。
 誰かがそう口にしたかのように、ミスティアのステージを中心とした異界が広がる。
 耳が良いのも考え物だ。幽霊のひそひそ話まで聞こえてしまうのは、いささか行き過ぎというものである。
 つーか、勘弁してくれ。
 なんかしましたか、私。
「ねえねえ妖夢。虫って食べられるかしら?」
「さあ……。斬ってみないことには」
 刃が鞘を走る音に至るまで、ミスティアは聞き逃すことが出来なかった。
 そして時は動き出す。

 歌うたいと、その仲間たちに幸あれ。
 合掌――。

 ちーん。

 



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一日一東方

五月二十二日
(永夜抄・上白沢慧音)

 


『Historical Parade』

 

 上白沢慧音は人間が大好きな人妖である。
 人間の里を守るため、里の外れの一軒屋に居を構えている。里の人々からあれやこれやと相談事を受けることも多いが、全部が全部手を貸してしまうと彼らのためにならないので、軽く背を押す程度に留めている。
 相談の中でも、『都合の悪い歴史を喰ってください』というのが最も多く――。
「で、これがその歴史な訳だな」
 ああ、と苦虫を噛み潰したような顔で、慧音は苦々しく答える。
 慧音の家に訪れたのは、力だけを見れば充分に妖怪よりの魔法使い、霧雨魔理沙。今日は、自称コレクターである彼女に引き取って貰いたいものがあり、慧音が自主的に呼び付けたのだ。
 そもそも、慧音が何故下っ腹を押さえて低く呻いているかというと。
「しかし、お前でも腹を下すことがあるんだな。人間のためだからって、無理しすぎだろ」
「それは分かっているが……。頼まれると断りきれなくてな。しかも、喰ってみなければ身体に合うかどうかは判断できない。我ながら、厄介な身体だ」
 やれやれ、と肩を竦める。魔理沙は、棚に並べられた封印ラベル付きの瓶詰めを順に確認していく。
「まあ、喰い合わせってのもあるからな。霊夢に言わせると、メロンとステーキを一緒に食べると、財布が痛くなるらしい」
「それは……。失礼な話、特定の境遇にある人物にしか適用されないと思う」
「霊夢だしなー。あいつが言うには、買わなきゃタダだとか、庭の外にはみ出した柿は境界線上にあるからして、境界と言えば隙間妖怪のもの、隙間妖怪は迷惑だから退治するとして、それすなわち私のもの、という座右の銘もある」
「長いし、そんなのを座右の銘にしてたら先祖が泣くぞ……」
「あいつは笑ってるから別にいいんじゃないか?」
 魔理沙は、瓶を引っ繰り返しながら気楽に笑う。
 ……訂正。泣くのは先祖じゃなくて巫女の周囲にいる人間――あるいは妖怪なんだろう。
「いろいろあるなぁ……。でも、私にしたって全部持ってける訳じゃないぜ?」
「ああ、それは構わない。棚が満席になりそうだから、幾つか処理してくれればそれでいいんだ」
「ふうん……。お、これなんか面白そうだな。『試験で気まずい点数を取ってしまった中学生の歴史』。つーか、その前に意味が分からんが」
「……詳しく説明するのもあれだから、点数だけ言うぞ。理由は聞くなよ。『69点』」
 赤くなる慧音も慧音だと思うが、深く追求しない。真面目なんだろう。
「あー、確かにアレだな。しっかしそれだけで気後れする中学生もなんか嫌だが」
 目線を次の瓶に移す。立っているのも辛くなったのか、慧音は座布団に腰掛けて外の景色を眺めている。涼風が心地良い五月の頃だった。
「これもアレだな、腹を下しそうだ。『浮気してしまった男の歴史』『隣りの旦那と不倫してしまった人妻の歴史』とか。なんか猥本ばっかりだな」
「違う! ちゃんとまともなのもあるっ!」
「んー、例えばこれか? 『夜な夜な雀を喰らいに来る亡霊の歴史』。……まとも?」
 失言だと認めるのも恥ずかしいので、白々しく沈黙を保つ。
 魔理沙は物色を続けることにした。
「後は自然災害系が多いかね。『洪水の歴史』『夕立の歴史』『占術士の天気予想が外れる歴史』『季節によって夜が長かったり短かったりする歴史』『夕暮れの紅が綺麗すぎて、あの子の顔が赤くなってるのかがよく分からない歴史』……。よし、最後のやつを里の総合掲示板に貼っ付けるぞ」
「やめろっ! それだけはしてくれるな!」
 里の信用が失墜すること請け合いだ。
「冗談だよ冗談。まあ、天災にしろ恋の悩みにしろ、一介のワーハクタクには手が余るよなあ。はっはっはー」
 少々ムカつく笑いではあったが、助けを求めた手前追い出す訳にも行かない。
 魔理沙は瓶を幾つか見比べ、何を持ち帰ろうか検討を進めていたが。
 ……突如、大地が大きく横に揺れた。
「おおっ!」
「く、地震か……! こんな時に……」
 地震そのものの頻度、規模もさほど大きくはないが、たまに発生すると大抵のものは虚を突かれてしまう。そんな訳で、うっかりものの魔理沙は、腕に抱えていた分の瓶と、棚にあった幾つかの瓶をごっそり床に落としていた。がちゃり。
「あー! あー!」
 横に揺れながら全力で喚く。やると思ったが、悪い意味で期待を裏切らない魔法使いだ。
「チ、こうなったら証拠隠滅だ!」
「えーい何もかも無かったことにするな馬鹿たれ! いいから退け、封をすればまだ間に合う!」
 腹痛もなんのその、慧音は裂帛の気合と共に駆け寄ったかと思うと、割れた瓶と護符を掻き集めて修復の呪を唱え始めた。基本的に壊す方の魔法しか覚えていない魔理沙は、威力の弱いノンディレクショナルレーザーで慧音の手元を照らすことぐらいしか出来なかった。
 しばらく経って、慧音がぐったりした表情で立ち上がる。足元には、すっかり元の形に戻った歴史の瓶がずらりと並んでいる。
「おお、凄いな。全く元通りじゃないか。どうしてそんな疲れた顔してるんだ」
「……それは、元通りじゃないからだ。よく見てみろ」
「……んー?」
 腰を屈め、もう一度ラベルと封が施してある瓶を順に眺める。
「こ、こいつは……。『不倫で気まずい点数(69点)を取ってしまった人妻の歴史』。……こんなのあったか?」
 より露骨になってしまった歴史を目の当たりにして、流石の魔理沙も軽く目を逸らしながら質問する。慧音の方は照れる余裕すらないのか、肩を落としたまま力なく返答するのみ。
「歴史と歴史か混ざってしまったんだ。やっぱり、ちょっと遅かったらしいな……。過ぎたことをあれこれ言っても仕方ないが」
「凄いな……。『中学生と浮気してしまった男の歴史』だってよ。目も当てられんな」
「そう言いつつ、心当たりがあるような顔をしているお前の未来が私は心配だ」
「気のせいってことにしとけ。続きましては、『季節によってあの子の顔が長かったり短かったりする歴史』……。凄い体質だな、この子」
「笑うと失礼だぞ」

 

 結局、魔理沙はその三つを持って行った。
 行く先は分からないが、里から妙な噂を聞くことがないというのは吉報だろう。
 ただひとつ気になるのは、魔法の森の外れにある閑散とした店で、例の瓶を見掛けたことがあるということだが……。
 あまり詮索するのも良くないので、慧音はその歴史ごと闇に葬り去ることにした。

 



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一日一東方

五月二十三日
(永夜抄・博麗霊夢)

 


『限りなく透明に近いブルー』

 

 蒼天を仰ぐ。
 季節を問わず青を滲み出している空に、改めて想うことはあまりない。雲が掛かれば淀み、日が沈めば暗くなるだけの背景――というほど、冷めた見方をしている訳でもないが。
 箒を片手にすることと言えば、掃除かあるいは空を飛ぶ補助装置として扱うかのどちらかに限定される。霊夢は魔法使いではないから、当然竹箒は掃除用具としてしか用いられない。
 本堂から足を踏み出して五分としないうちに、霊夢は舌を打つこととなった。
「……たく、どいつもこいつも暇なんだから」
 不穏な気配は後方右斜め三十度角から。
 立派な木の陰の隠れているのが誰なのか、振り向けばすぐ把握できるが、霊夢はそれを怠った。
 神主たるもの、境内の掃除より優先すべきものはない。
 ここは頑なに、先代の言伝を守ることにしよう。
 呟くは初めの言葉、人間が人間のためだけに並べたそれなりに意味のある順列。
「いろは にほへと ちりぬるを……。省略」
 指に挟んだ針に願を込め、勘のみで後方右斜め三十度の木陰に投擲する。背後から小気味良い衝撃が響き、舌打ちと同時に何者かの気配が実体化する。霊夢は振り向かず、ただ箒だけを振る。それなりに強い風は、手を抜くと花崗岩を砂で埋め尽くす。
 近寄ってくる足音に耳を傾けながら、太陽の位置を確認。正午、をわずかに越えたあたり。ようやく覚えた空腹に、腹を押さえてみる。
「ごきげんよう。神主さん」
 その呼称で呼ばれるのは珍しい。声質は不法侵入者の名前を霊夢に告げていたが、それでも単純な興味が勝り、霊夢は掃除の手を止めて彼女の方を振り向いた。
「ごきげんよう、とはまたご挨拶ね」
「ご挨拶よ。あなたには勿体ないくらい。……ところで、お茶くらいは出るんでしょうね? 飲まないけど」
「せめて飲みなさいよ。出さないけど」
 金糸を織り込んだ髪は若干ウェーブが掛かっている。彼女自身の趣味と、彼女の住む館の湿度が関係しているのだろう。片手には何故か固く封の施された本があり、それ一冊だけで書を抱えている者の魔力に匹敵する、と霊夢は判断した。
 洋風の青いドレスは、和で彩られた空間にはそぐわない。だが、どこぞの魔法使いのように溶け込む努力を怠らなければ、彼女にもあるいは縁側で茶を啜る権利が与えられるかもしれない。
 彼女もまた、指の間に針を挟み込んでいた。尤も、ダーツが趣味なのではなくて、先程霊夢が投擲した針を律儀に回収しただけなのだが。
「肩が凝ってるなら、私よりか里の鍼師に看てもらった方が良いと思うけど……」
「そういうんじゃないわ。今日は、霊夢に用があってきたんだもの」
 したり顔で言ってのける。その理由に見当すら付けられない霊夢は、考えるのをやめて掃き掃除に専念することにした。幻想郷の住民は、こちらが話さなければ勝手にあれこれ喋ってくれる。その点は楽でいいが、煩すぎる場合もあるからなかなか調和は取れない。
 さ、さ、と少しずつ擦り切れた花崗岩が竹の指先で磨かれて行く。力を入れすぎると石まで傷付けてしまうから、慎重に掃く必要がある。
「……あなたはすっかり忘れてるみたいだけど、私たちって以前にも会ったことがあるのよね」
 ――ほら、勝手に喋り出した。
 空が青く見えるように、夏が暑く在るように。それは避けられない業であった。
「ふうん。それでー?」
「借りを返しに来たわ」
「カリ……。ガリじゃなくて?」
「どこの誰が甘酢に漬けた生姜なんかを借りて行くのよ。じゃなくて、借りよ借り」
「かり……。ねえ、なんかそういう鳥って居なかったっけ?」
「……あー、確か雁の別称が『かり』だったりすることもあるけど……。って、そうじゃなくて。もしかして馬鹿にしてる?」
 声から判断すると、こめかみが引きつる程度には怒っているようだ。
 霊夢は心外と言わんばかりに肩を竦め、箒の一振りで鳥居前までの敷石を全て掃き終える。どうせ明日も掃除はせにゃならんのだ、あまり丁寧にやるのも馬鹿馬鹿しい。
 神主たるもの、気楽にやれ。
 これは当代からの標語だが、とりあえず未来永劫残して行きたい。というより、幻想郷の標語がこんな感じだから、わざわざ博麗神社に飾っておく必要もない気はするが。
「馬鹿にはしてないわよ。ただ、虚仮にはしてるけど」
「同じよ!」
「お茶でも飲む? 白湯しかないけど」
「じゃあ、白湯よそれは。……たく、あんたと話してると頭が痛くなるわ」
「それはご挨拶ね」
 言って、霊夢は白雲が目立ち始めた空を仰ぐ。首が痛むのは身体が硬いせいではなく、身体の構造上仕方のないことだと判断する。
「ねえ、気付いてる?」
「何がよ」
 やる気のない声。不遜な態度は相変わらずだが、不法侵入がばれる前後の刺々しさは見られない。
 これで無駄な殴り合いをしなくて済むかもね、と胸を撫で下ろしながら、霊夢は当たり前のことを告げる。

「今日は、良い天気よ」

 



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一日一東方

五月二十四日
(永夜抄・霧雨魔理沙)

 


『うたわれしもの』

 

 相談事をされるのは霊夢か慧音ぐらいだと思っていたのだが、本当のところはそうでもないらしい、と魔理沙は対面に腰掛けている三姉妹を一瞥して思った。
 そういや、前も慧音に何かしら頼まれたことがあったっけなあ、とその時のことを思い出しながら、ルナサが切り出した提案を頭の中で反芻する。
「……ボーカルぅ?」
 結果、巻き舌になった。
 ――あなたに頼みたいことがある、と魔理沙の下に現れたのはプリズムリバーの面々。楽器は掻き鳴らしていなかったので煩くはなかったが、生憎とここは相談所ではない。魔理沙はスペルカードをちらつかせながら丁重に追い払った。
 が、リリカの差し出した菓子折りを目の当たりにして、そういうことなら話を聞いてやらんでもない、と鷹揚な気持ちで彼女たちを出迎えたという訳である。
 足の踏み場もないことで有名な魔理沙の家ではあるが、一応来客を迎え入れるだけのスペースはある。池に浮かぶ蓮の葉っぱのごとき足場が、その余裕にあたるのかどうかは意見の別れるところだろうが。
 肝心要の内容はというと、ついさっき魔理沙が巻き舌気味に問い返した言葉とほぼ同じである。
「そう。新しい可能性を見出したい、ということで彼是検討を重ねた結果、ボーカルを招き入れる方向で意見がまとまった」
「そーそー。初めは私たちが歌うっていう案もあったんだけどー」
「メル姉が『私が歌うんだー!』って聞かなくてねぇ」
「なっ……!」
 三女の密告に、次女のメルランが息を止める。肩を竦めるリリカの態度が、部外者の魔理沙から見てもなんか癪に障る。あるいは、わざとそういうふうに仕向けているのかもしれない。
「ちょ、リリカだって『ボーカルを務められるのは私をおいて他にいない』とか言ってたくせに!」
「少なくともメル姉よりマシだと思っただけ。なにあの歌声。曲がりなりにも音楽に携わっているとは思えないわよ」
「くっ……! この娘、ボブカットしてるからって調子に乗ってー!」
「髪型関係ないし……」
 妹たちの遣り取りを他所に、ルナサは訥々と今後の方針を語る。魔理沙も関わり合うと損するだけなので余計な口は出さずにおいた。本当は混ざりたいが。
「他にも、七色の魔法使いや紅魔館のメイドあたりが候補に挙がってたんだけど」
「まあ、メイドは忙しそうだからなんとなく分かるが、アリスは暇だから別にいいんじゃないか?」
「いや、どうも本番に弱そうだったから遠慮しておいた。人形に歌わせるという手もあったんだが、若干本末転倒になりそうだったからこれも無かったことに」
「……だな。どの層を狙ってるのか分からないもんな」
 両者は深々と頷いた。
「あ、そうだ。ミスティアなんか好都合だろ? 夜の森でぴーちくぱーちく喧しいし」
「うん……。私たちも、それは考えたんだけど……」
 いきなりルナサの顔が沈む。平常時でも決してテンションは高くないのに、こうして顔を伏せてしまったらもう表情すら見えなくなる。
「ど、どうしたんだ? あいつのことでなんかあったのか?」
「それが、私たちが現れても『ま、また私を食べる気なの!? 冗談じゃないわー!』とか言って、全然こっちの話を聞かないのよ……」
「……可哀想な奴」
 弱肉強食の悲劇というか、下手に自我を持っていなければこれほど苦しむことも無かったろうに。
 魔理沙は、出てもいない涙を拭う。
「てな訳で、今は野鳥の会の人間たちに保護してもらってる」
「……あるんだな」
「ある」
 力強く答える。わりと何処にでもいるらしい。
 それはともかく、とルナサは前置きして、本格的な交渉に入ろうとする。段々とルナサが敏腕プロデューサーに見えて来て、魔理沙は懐を引き締めた。こういう権謀術数はリリカやてゐの本分だと思っていたが、ルナサの場合はあくまで誠心誠意を持ってぶつかって来るから、難癖を付けたり揚げ足を取ったりすることは出来ないのだ。
 厄介とは思いながら、半ばルナサの熱意に引き込まれつつある。いかんいかん、と喝を入れながら、ルナサの紡ぐ言葉を待つ。
「報酬らしい報酬は無いが、私たちが出来る限りの要望には応えるつもり。その代わり、魔理沙には歌うことでしか味わえない満足感と達成感が得られることを約束しましょう。
 ――どう、やってみる気はない?」
 しん、という静寂。実に理想的な『間』だった。
 罵り合っていた二人も、思わず頬を抓り合った体勢のまま膠着せざるを得ない。
 この間に聞き手はイエスかノーかを判断する。――否、悩み逡巡するまでもなく、もう既に語り部の手に落ちていると言っても過言ではない。
 提示された条件は、現物主義をモットーとする魔理沙(コレクターともいう)にとっては考えられないものだ。しかし、未知を求める魔法使いとしての本能、あるいは体験したことのない感覚を渇望する本来的な欲望が掛け合わされ、正真正銘、嘘偽りのない言の葉によって伝えられれば、魔理沙とて百年を生きる妖怪ではない、首のひとつも振りたくもなる。
 否定する理由を探しても、どれもこれも依頼内容より優先すべきこととは思えない。
 終に、魔理沙は差し伸べられたルナサの手を掴むまでに至った。
「……いいだろう。霧雨魔理沙の名において、プリズムリバー幻樂団との契約を受諾する」
 窓から入り込む涼風が、四人の隙間を通り過ぎていく。
 太陽が灼熱を謳歌する六月の頃、伝説は始まりの合図を告げた。

 

「流るる雨にこの身を打たれ、なおも迷いしこの心。
 行ってしまったあの人に、掛ける言葉は闇の中。
 されど待ちます、たとえこの先に何があろうとも……。
 それでは歌っていただきましょう、霧雨魔理沙とプリズムリバー幻樂団で、『男泣き、恋心』」

『晴れたぁ、月夜にぃ〜、あたしぃは、ひとぉりぃ〜。

 って、演歌じゃねーか馬鹿ー!』


 ばかー、ばかー、ばかー……(エコー)

 



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一日一東方

五月二十五日
(永夜抄・因幡てゐ)

 


『ラピッド・ラビット』

 

 その月は鈍く輝いていた。
 傍目には実物にしか見えない球も、それは紛れもない贋作であった。
 騙すことは悪か。騙されることは悪か。
 違う。
 どちらが悪かではない。勝者と敗者は、生誕した時点で既に決まっている。
「うさぎーおいしー」
 兎が兎の歌を歌う。
 竹林は禍々しい紅に満たされて、散歩するには良い天気だ。
 妖怪ともなれば、恐れるものは退屈のみ。それを紛らわすために散歩しているのだが、ルートもタイムも若干マンネリ化しているため、散歩だけで欲求が満たされることは少ない。
 てゐはよく人間を欺く。理由は恐らく本人にも分からない。他者を騙し欺くのが因幡てゐという存在だと、勝手に思い込んでいるのかもしれない。それは不幸なことだったが、知らなければ幸福だ。
「……ん、人間発見ー! かな?」
 自信はなかった。後ろ姿だけで判断すると確かに年端もない女のように見えるが、年季の入った妖怪にとって、体格や容姿、性別を変えるなど造作もない。
 警戒は怠らない。
 服装からすると、どこぞの館に勤める小間使いのようだ。この歪んだ夜にも怯むことなく、引き締まった姿勢で竹林の奥へ奥へと突き進む。
 あまり、深入りされるのもまずい。
「――お嬢さん」
 聞きとがめずにはいられない、甘く優しい囁きを漏らす。
 大抵の人間はそこで無用心に振り向くか、しばし足を止めてしまう。
 この向こうには、てゐの棲家である永遠亭がある。現在進行中の策謀が邪魔されるとなると、てゐまでとばっちりを喰らうことになる。それだけは避けたい。
「――どこ行くの」
 選択肢は、実のところ二つに限定されていたはずだった。
 停止か逡巡か。しかし、くだんの女性は自らの手で三番目の選択肢を捏造した。
 歩き続けたまま、声がする方へ三本のナイフを投擲する。振り返りもせず、躊躇いもない。そこにいるのは、確実に排除すべき障害だと判断した上での攻撃。
 見事。てゐは拍手を打つ代わりに跳躍し、苦もなくナイフをかわす。
 こうなれば、夜雀を気取って悠長に騙くらかすのは逆効果だ。あれほどの胆力、あれだけの目的意識を持った存在に生半可な策は通用しない。
「やれやれ。力相撲って好きじゃないんだけどなぁ」
 自分にさえ聞こえるかどうかも怪しい独り言に、一筋の線が走る。舌を打ちながら前方に回避、女性の背中を追走しようと大きく足を踏み出す。
 その直後。あるいは、直前だったろうか。
 首筋に宛がわれたナイフは、嗅いだことのない銀の匂いがした。
「女性の尻を追いかけるなんて、とんだ兎もあったものね」
「そんな趣味ないよぅ」
 背後にある気配は透明で、殺気や害意などは感じ取れなかった。子どもが刃の意味するところを知らず、自分の指を切り落としてしまう笑い話にも似て。
 それ故に、この女は首を切ることに躊躇はすまい。てゐは覚悟する。
「私の行き道に、何かあるのか……。と、尋ねたところで答えはしないんだろうけど」
「よく分かるね。ねーちゃん、頭が切れる?」
「ここで暮らしてると、質問通りに答えが返ってくることなんか滅多にないのよ」
「あ、そう」
 女の溜息が、背中越しに聞こえた気がした。
 逃走の機会はそう多くない。真面目にやりあって勝てる相手とも思えないし、不意打ちにしても、先程の瞬間移動じみた動きを見れば、到底不可能であることは想像に難くない。
 なので、てゐは因幡の本分に帰ることにした。
「あまり妙なことを考えないようにね。生きるのが辛くなるだけだから」
「たとえば?」
「たとえば――」
 ナイフが兎の首筋に触れる。が、それはメイドが起こした行動の結果ではなく、てゐが自ら首に押し付けた結果だった。
 引けば切れるのが刃とはいえ、女の手がわずかでも動けばそれは凄惨な結果を招く。が、このメイドに限って手元が狂うということはないだろう。名も銘も知らぬ間柄でありながら、てゐは彼女の手腕を信用していた。
 騙すためにはまず信じることが必要となる。
「――お前」
 女がナイフを引こうとする。その直前、てゐは全身のバネを使い、その後頭部を女の顎に叩き付けた。
「っ――!」
 密着していた状態では攻撃もままならない。が、ナイフを遠ざけ、余分なスペースを作ることで活路を見出す。それなりに危険は伴うけれど、零か一なら迷わず後者に手を伸ばすのが強者である。
 女の呻きに合わせ、背後も見ずに後ろ足を蹴り込む。確かな手応えを感じ、倒れこむ音を聞く直前に疾走する。負け犬の遠吠えも勝ち台詞も吐く余裕はない。
 その際、何本かの竹を根元から切り裂いておく。女が倒れている位置に落下すれば僥倖だ。
 万全とは言い難いが、現段階での最善を尽くして奔走する。
 振り返りはしない。そうすれば、あの女が何事も無かったかのように、笑みを湛えて佇んでいそうだったから。

 

 停止命令が響き、次の瞬間にも時は動き始めていた。
 妖気を帯びた竹の群れが、大地に何本も襲い掛かる。常人ならば大怪我では済まなかったろうが、メイドに限り軽く膝を擦りむく程度で危機を回避することが出来る。
 服に付着した土を払い、轟音に耳を塞ぐ。ナイフには一滴の血も付いていない。
 問題は殺意の有無だろう。あれ一匹を仕留めたところで、主への土産にもならなかった。そこを付け込まれたのだ。自ら凶器に密着する胆力に、十六夜咲夜は人知れず笑みを零した。面白い。楽しみが増えた。
 咲夜は散らばったナイフを回収するため、偽りの月に背を向けた。
 歪んだ月の正体を暴くのは、また次の機会に。
 あの、小憎たらしい兎も。
 次に会ったら、ちゃんと殺そう。

 



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一日一東方

五月二十六日
(永夜抄・鈴仙)

 


『ここにしか咲かない花』

 

 向かい合って座る影はふたつ。一人は正座、一人は軽く足を崩している。
 小さく俯いている相談者は、悩み多き者がそうするように暗く沈んでいた。一方で、他者に悩みとその解決法を乞われる立場の者も、彼らがそうするように小さく溜息を吐いた。
 ――記憶を消してほしい。
 何度言われただろうか。歴史はそう軽いものではないというのに。それを理解していない、あるいは理解していても、目先の感情に囚われて善し悪しすら判断できない者が多すぎる。
 歴史を司る半獣にして人間たちの守護者、上白沢慧音は、対面に座する者が同じ過ちを犯そうとしていることに気付く。
 名は、何と言ったか。大層長い名前だったから一度には思え切れないが、確か鈴仙と言ったはずだ。神妙に固まっている彼女を前に、慧音はその名を呼んだ。
「鈴仙、で良かったかな」
「はい」
 声にも力がない。
 自分がしようとしていることの重みに気付いているのか。悩み躊躇い続けた故の疲労か。
 何にせよ、同情するのは筋違いだと思った。彼女の歴史は彼女にしか背負えない。それが、どれだけ過酷で残酷で無慈悲であるにしろ。
 慧音は、凛とした声で言う。
 窓から吹き込む風はやけに湿っていて、曲がりなりにも心地よいとは言い難い。
「月の兎、ということだが。私もさほど詳しくはないが、戦乱が起こっているそうだな」
 苦々しく唇を噛み締めながら、鈴仙は首肯する。
 彼女にとっては、それこそが否定したい歴史なのだろう。慧音は当たりを付ける。
「でも、もう終わっているかもしれません」
 窓からは月が見えない。もし人間たちが月を征服したのだとすれば、巨大な旗でも見えるだろうか。
 下らない妄想も、自分を責める刃になる。罪悪感と後悔は、鈴仙が生き続ける限り背負わなければならない。そのことは鈴仙も自覚しているけれど、ただ、時には荷の重さに腰を下ろしてしまいたくなることも、ある。
「私は、戦場から逃げました」
 慧音は口を挟まなかったが、鈴仙はそれ以上のことを口にはしなかった。
 詳細を話せば話すほど、その罪は自分の肩に圧し掛かる。いつもは足元に落ちている重荷も、口に出すことで実体化してしまう。忘れたくても、忘れられない。忘れてしまいたいことほど、かすかに頭に過ぎる程度の回想で多大な重力を与えられる。
 ゆえに、沈黙の時間が長くなる。相手に事情を推し量ってもらうための沈黙が、冷え冷えとした部屋に横たわる。慧音は鈴仙の意図を知っているからこそ、自分からは何も言わない。
 鈴仙は、膝の上に乗せた拳が、徐々に汗ばんでいくのを感じた。
 慧音は、組んだ腕の内側――左の脇腹が湿り気を帯びていくのを感じる。この身体は温かいと感じ得るが、鈴仙に至っては外気と同様に冷たいままだろうな、と慧音は目を瞑って思う。
 決して、重たい静寂ではなく、威圧感も完璧に殺がれていた。
 それなのに、鈴仙は怯えている。何故か。
 彼女は、度重なる自己分析の果てに、『過去に脅かされている』という現実に辿り着く。
 永遠亭の生活の間隙に潜む、故郷への憧憬。
 弾幕を張る刹那、打ち落とさんとする相手の年齢を見て、不意に月の仲間たちを想う。
 ――そんな、懐かしいものに。
 愛すべきはずのものに、脅かされている。
 思い出の意味を変えてしまったのは、逃げ出した自分のせい。だから、罰が必要なのだ。主たちはそんなことをするまでもないと口を揃えて言っていたけれど、彼女自身のために、何より彼女の思い出に住む者たちを侮辱しないためにも。
「だから、消してください」
 愛しいものを、忌まわしきものに変えぬために。
 全ての懐かしい記憶を消し去ってくれ、と頭を下げて懇願する。
 慧音はまず、頭を上げてほしい、と告げる。自分は誰かに頭を下げてもらうほど偉くはない。同時に、頭を下げれば何でもしてしまうほど軽率でもない。
 彼女の瞳は総じて暗く沈んでいたが、汚く澱んではいなかった。かすかな光が相貌の奥深くに篭もっており、彼女さえ認めれば、すぐにでもその光を開放することは出来る。
 鈴仙は、過去を消すことでしかそれを得られないと思っている。しかし、それは間違いだと慧音は思う。
「まず、勘違いを正そう」
 え、という躊躇い。反駁する間も与えず、慧音は続ける。
「私は基本的に誰の歴史も消さない。『食べる』にしても、完全に無かったことにすることは稀だ。誰の話を聞いて此処に来たのかは知らんが、訪れる場所を間違えたな」
「そんな……」
「それに」
 ここからが重要なのだが、と肩を落とす鈴仙に前置きする。
 彼女は歴史を軽んじている訳でもないだろう。その重みを知っているからこそ、それに耐え切れなくなったのだし。
 生きているならば、疲れることはある。弱音を吐き、涙を流したくなる時もあるだろう。
 ただ、全てをやり直すのは、今生きている自分を否定することだと、最後には気付いてほしい。
「過去を消したところで、お前の過去は無くならんぞ。矛盾しているがな。
 『逃げた』という記録を削除しようとも、『逃げた鈴仙』が此処にいることは変わらない。お前がやろうとしていることは、臭い物に蓋をする程度の意味しかないんだ」
「だけど!」
 淡々と述べる慧音に、鈴仙が激昂する。長時間の正座で足を痛めたのか、立ち上がろうとして不意に顔をしかめる。
「……だけど、辛くなった時は、どうすればいいんですか……? 忘れてしまいたいことがあったら、どうしたらいいの……?」
 泣きそうな声だった。
 幾度、こんな嘆きを聞いただろう。そのどれもが、自分のために流す嗚咽だった。楽になるために、背負った荷物から逃れるために。
 死んだ猫の歴史を。
 死産した娘の歴史を。
 夭折した息子の歴史を。
 川に流された村の歴史を。
 災害で失われた命の歴史を。
 悲しみから逃れるためだけに消してくれと乞う者たちの歴史を、慧音は全て覚えている。
 ――同じなのだな。
 誰も彼も、忘れたくて仕方ないのだ。
 本当は、忘れ去られる方が辛いはずなのに。
「……忘れることは、容易い。けれど、忘れることに慣れてしまっては、思い出に住む者たちがあまりに報われん」
 当然のことを言ったまで。
 鈴仙は、悲しみを模った表情のままに、固まっていた。
 ――死した者たちへ捧げた祈りは、哀悼する者たちに還る。
 何もかも無かったことになってしまったら、その祈りは、一体どこへ還ればいいのだろう。
 彼らが生き続けた証は、祈りを捧げた者の中に生き続ける。
 それを忘れないでほしいと、慧音は常に語り掛けてきた。
「鈴仙」
「……はい」
「辛かったら、此処に来ればいい。歴史を喰うことは出来んが、疲れを癒すことは出来る。まぁ、偉いことは言えんがな……。正直、私はそのために存在しているのではないかと思うんだよ」
 中腰から、鈴仙は再び正座に帰る。どこか照れ臭そうに頬を掻く歴史喰いを見て、自分の頬がわずかに緩むのを感じた。
 心はまだ重く、刻まれた歴史は過酷だった。
 ただ、鈴仙には続きがある。月だけではなく地上、永遠亭の歴史がこれからも続いていく。
 そこに、救いはあると思った。
「――はい。分かりました。今度は、お団子のひとつでも持って来ます」
「あぁ。期待せずに待っているよ」
 慧音は、唇の端を歪ませて微笑みを作る。
 月は遥か。
 思い出を丸い檻の中に閉じ込めて、鈴仙は、しばし月の兎であることを忘れた。

 

 



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一日一東方

五月二十七日
(永夜抄・八意永琳)

 


『毒よりも優しい薬』

 

 幸せになれる薬がある、と永琳が差し出した試験管を(そもそもその状態で持って来るのは間違っていると思う)、鈴仙はとりあえず叩き落とした。
「……酷いわね、ウドンゲ」
 よいしょ、と地面に落ちた試験管を拾い上げる。何故か硝子は割れておらず、無論フタをしていたので緑色の液体が零れることもなく。
 いい加減、自分はこの異空間に慣れるべきだと思う。地上の民からすれば月も立派な異界なのだが、というか師匠も姫様も物の見事に月人じゃん! と鈴仙は心の中で鋭いツッコミを入れる。
「ていうかですね。幸せは自分の手で掴むためにあるんですよ」
「言うわね」
「とりあえず薬に頼るのは間違っています」
「とりあえずじゃないわよ。私なりに熟考した上で、嗚呼、この薬はウドンゲに使ってこそ相応しいと適当に思い付いたんだから」
「やっぱ適当なんですね」
 脱力する。無駄に長い廊下の真ん中で、一体何をやっているのだろう。人参が食べたい。語頭に朝鮮とか付かない方の。
「大体、色からして怪しいんですよ……。栄養剤だって黄色なのに、なんですかその緑は。向こうが透けて見える透明さ加減がまた嫌な感じですし」
「あぁ、これは鉱石よ」
 鈴仙は、苦々しさを前面に押し出す。耳も力なくへたっている。
 普段なら、教育的指導と称して若干態度が軟化する薬(霧状)を投与するところだが、今回は純粋にハッピーマテリアル(名前)の効果を試したいので、下手に他の薬物を与えるのは好ましくない。
「師匠……」
「そんな顔しなくても大丈夫ー。最悪、死ぬだけだから」
「本当に最悪じゃないですかっ!」
 絶叫。
 人生の先達にしては、少々気が触れていると思う。天才だからちょっとくらい暴走していても許されるだろうが、被害者は激増しているに違いない。
 モルモットの適用範囲が、鼠だけでなく兎や猫、ひいては人間や亡霊その他妖怪にまで拡張されることになるのだから、当たり前と言えば当たり前の話である。研究熱心な薬学者は、誠心誠意他者を犠牲できる稀有な職業なのだ。
「まあ、最悪と言っても百回に九十回あるかないかだし……」
「あ、それなら大丈夫ですねっ。てそんな訳あるかー!」
 物凄い打率だった。
 思わずちゃぶ台を引っ繰り返してしまうところだったが、閑散として廊下には使い捨てられた雑巾くらいしかない。しょうがないのでその何故か牛乳臭い雑巾を床に叩き付ける。その間に怒りのピークは通り過ぎているので、冷静に考えるとかなり恥ずかしい。
 その照れを誤魔化すために、鈴仙は頬に手を当てている師匠に激昂する。
「死ぬって! 死にますって! いやそんな不思議そうな顔されても」
「うーん、でも姫様は死ななかったわよ? あと竹林に棲むもんぺにも」
「そりゃあ、建前上死なないってことになってるから……。って、さっきから実験材料にする目標を間違ってません?」
「そう?」
 可愛らしく小首を傾げる。いい年して、と鈴仙は口に出したら死んでしまうことを独白する。
 もんぺはともかく、自分の主に一服盛るとはとんだ医者である。それでお次は弟子なのだから、彼女にとって主従関係とは何なんだろーと思ってしまう鈴仙であった。
「……で、姫様はなんて言ってました?」
「そうねぇ。確か、『死ぬかと思った』って」
「駄目じゃないですか!」
「ちなみに、もんぺは『殺す気か』と言っていたわ。このあたり、育ちの違いが出てるわよね」
「どうでもいいですよそんなこと! だから、そういう致死的な薬を普通に死んじゃう私たちに投与しないでください!」
「でも、月の兎なら死なない可能性も」
 にじり寄る。
 鈴仙は後退する。
 逃げ場があるか否かが問題ではない。これは生存のための闘争だ。
「死にます」
「死なないってば」
「不老不死の師匠が言っても説得力ないんですよ! ……って、あ」
 十歩ぐらい後ずさった頃、鈴仙の台詞を耳にした永琳の顔に影が差した。
 なんとなく、言ってはならない台詞を吐いてしまったような気がする。すかさずフォローを試みるが、永琳の暗い独白の方が遥かに早い。
「そう……よね。私のような存在には、貴女たちの気持ちは分からないわよね……」
 ふ、と自嘲気味に笑ってみせる。
 ヤバめの空気を敏感に感じ取り、鈴仙はようやくフォローの言葉を挟みこむ。フォローというよりは単に困惑を形にしたような台詞だったが。
「ちょ、師匠……?」
「いいのよ別に……。あぁ、彼方と書いてあなたと読む……。すなわち、それほどに遠い存在ということ」
 ちょっと意味が分からなくなってきた。
 放っておくのもまずいし、どことなく傷付いているような雰囲気を醸し出しているので、一歩ずつ慎重に歩み寄って行く。一気に近寄るのはいけない気がする。野生の勘とかお約束とかがそう言っている。
 ……三歩。
 接近も離脱も鈴仙が主導権を握れる距離。何やら遠くを眺めている永琳に対し、再度交渉を試みる。
「あ、あの……」
「兎は寂しいと死んじゃうんだってね」
 いきなりだった。
 気が触れたかと思ったが、元々ヘンだからあまり大差ないだろ、と哀れみを帯びそうになった瞳を正常に戻す。
「え、えぇと、はい。正しくは、環境の変化や過度のストレスに弱いんで、大事にしてくれるとありがたいなー、というところです。はい」
「じゃあ、注射」
「関係ないですよ!」
 いきなり注射器を構えて突撃してくる永琳。それをマタドールの要領で上手く回避する鈴仙。
 ち、と永琳が舌打ちする。やっぱり罠だったか。心の中のお約束に従って、本当に良かった。
「やっぱり、不老不死って言われて俯いたのは陽動だったと……?」
「とこぞの歴史喰いは引っ掛かったんだけどねぇ。それに、不老不死って今更だし。珍しくも何ともないわ」
 と、やたら豊満な胸を張る。超が付くくらいのエゴイストだった。ある意味、学者の鑑である。それ以外の人間から見ると、とんでもなく汚れているという意味でも。
 永琳は、注射器に入っている緑の液体越しに鈴仙を見る。
「これはね、それぞれがそれぞれの幸せを手に入れられる薬。人によって、それが死であったり異性であったり仲間であったりする。てな訳で、鈴仙の場合は仲間と一緒に暮らしていける妄想を見れると思うのよ」
「妄想かい!」
「失礼ね。幻覚と呼んでほしいわ」
「もっと駄目じゃないですか!」
 咆える。
 と同時に、急加速。ぐんぐんと遠ざかる。
 帰って来てから何を言われようが問題ではない。今はただ脱出することを念頭に。
 ……なんとなく、泣いているような感じがする鈴仙を見送りながら、永琳は溜息を吐く。
 この頃、鈴仙に逃げられる回数が多くなって来た。これでは満足の行く結果が得られない。
 なんとかしなくては、と思いながら、とりあえず自分に打ってみても面白いかしら、と注射器の緑を見て不意に思い至った。

 

 翌日、強くなれる薬がある、と永琳が差し出した試験管を、鈴仙は躊躇いもなく叩き落とした。
 やっぱり割れない。どんな材質なんだろう。
「全く、発情期で気が立ってるのかしら? そういえば最近、胸も張ってきたみたいだし」
 セクハラ上司だった。
 顔面パンチも紙一重で回避される。研究室に篭りっぱなしのくせに、動きだけは素早い。
「ていうかですね。その紅はありえないです。若干どろどろしてますし」
「あぁ、そうなのよ。早く打たないと凝固しちゃうから」
「紛うことなき血液じゃないですか!」
 つっこんだ。
 永遠亭はそれなりに平和であったが、誰にとっての平穏であるかは、まあ、弱肉強食ということで。

「しかも、百人中九十九人が太陽の日差しに弱くなるという……」
「吸血鬼かいっ!」

 



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一日一東方

五月二十八日
(永夜抄・蓬莱山輝夜)

 


『だからその手を離して』

 

 昔々あるところに、お爺さんとお婆さんがいました。
 そりゃあいるだろうよ、という無粋なツッコミは黙殺する。これが昔話の美学です。
 それはともかく、過疎化が進んでるのか二世帯住宅かは知りませんが、二人は表面上仲良く暮らしていました。適当に竹を切って生活できていたんですから、昔の人は楽で良かったですね。
 そんなこんなで、お爺さんは今日も竹をシバキに行きます。
 自分の土地に生えてある竹なら問題ないのでしょうが、現代ほど所有権や土地にうるさい人はそんなに居なかったので、そこらへんに生えてある竹を無断で切りまくっていました。今なら裁判沙汰ですね。年金生活ではロクな弁護士が雇えませんから、当然敗訴です。
 そんな犯罪行為を行っているとも露知らず、お爺さんはどっこらせと竹を切ります。と、その時、竹林の奥から妙に煌びやかな光が放たれていることに気付きました。老眼なので、近くのものは見えなくても遠くのものはよく見えます。それでなくても、業突く張りなお爺さんは金目のものに目がありません。生き馬の目を抜くこの時代、人の先を行かなければ生きていけないのは老人とて同じなのです。
 てな訳で、林を分け入ったお爺さんが見付けたものは。
「……だれ?」
 幼女でした。
 身の丈は成長しきった竹の子と同等か、あるいは少し高いくらい。齢は十に届いていないだろう、と幼女に詳しいお爺さんは思いました。
 その幼女は身の危険を感じ取り、そこらに落ちていた石をお爺さんの額目掛けて放り投げました。しかし、そこは若いころ戦場で慣らしたお爺さんのこと、幼女の攻撃など恐るるに足りません。瞬きひとつすることなく、その石ころを掴み取ります。
 が、異様にその石が光り輝くのを見て、思わず声を詰まらせました。
「こ、これは……。金か?」
「そう。もし良ければ、あなたにそれを譲ってもいいわ」
 お爺さんは、艶やかな黒髪の幼女から目を逸らすことが出来ませんでした。
 ごくり、と生唾を飲み込みます。
「その代わり、私を養いなさい」
「言われなくても……。最初からそのつもりだったさ!」
 ひゃっほーい、と年甲斐もなく飛び上がるお爺さん。還暦を過ぎたとは到底思えない身体能力です。
 そもそも、お爺さんは幼女を発見した時点で誘拐するつもりでしたから、これで双方の合意が成立した訳です。幼女の思惑とは少し違うかもしれませんが。
「まあ、お手柔らかにね」
 なんだか偉そうでしたが、こういう娘を調きょ……教育するのもいいだろう、とお爺さんは思いました。こいつぁ良い娘に育つぜ、と老人らしからぬ言葉遣いをしていたのを聞き、幼女は若干先行きに不安を覚えました。
 結局、いざとなったらブリリアントドラゴンバレッタで証拠隠滅すればいいし、と開き直ることにしました。たかだか爺さんひとり制圧するのに、大した力は必要ないのです。
 お爺さんは知りませんが、この幼女こそ月から落とされた稀代の美女にして罪人、その名も輝夜。後々暴露することになるのですが、その時まで良い夢を見させてやりましょう、と輝夜は冷笑を浮かべてみたりするのです。
 変なのはお互い様、という話。
 お爺さんと幼女が出会ったのも、言わば必然かも知れません。嫌な運命ですが。

 

 ここだけの話、お婆さんは四十台前半で、見る人が見ればかなりの美女でありました。
 いくら気が若いとはいえ、お爺さん相手で満足するはずもなく、あっちこっちで男を作っては家に呼び込んだり遊びに行ったりする始末でした。
 まあ、その相手もお婆さんがそれなりの年齢と知るや、手のひらを返してこの熟女めと罵り始めるのですが、そこはお婆さんも馬鹿ではありません。脅します。こんなことが奥さんにバレてもいいの? と金をふんだくります。後腐れも残しません。プロの手口です。
 前々からお婆さんの悪癖には辟易していたお爺さんですが、そのお金が収入源にもなっているため、あまり強くは言えないのでした。その代わり、お婆さんもお爺さんの幼女趣味には文句を言いません。食事を共にすることは少ないですが、外に出るときは仲睦まじい熟年夫婦を演じ切っています。仮面夫婦です。
 ……来る家を間違ったかしら、と輝夜は何もかも無かったことにしようかどうか迷いましたが、こういう人間ドラマを見るのも面白いと思うことにしました。ぶっちゃけ怖いもの見たさです。さっきからお爺さんと繋いだ手がやけにもぞもぞ動いているのですが、その意味を深く考えないように心掛けます。
「ただいまー」
 どこからか嬌声が聞こえるので、自主的に耳を塞ぐことにしました。お爺さんが声のする襖に耳を当てようとするのを、無理やり引っぺがして話の出来る場所に移動させます。
「なんだい、いま良いところだったのに」
「あんた、ちっちゃい女の子が好きなんじゃなかったの?」
「甘いな……。わしくらいの年齢になると、守備範囲は相当広くなるぜ?」
 親指を突き出して言うことでもありません。
 そもそも、幼女好きということを否定しない時点で膿んでいます。
 ですが、輝夜はそれくらいでめげたりしません。月の世界にはもっと凄いのがいました。
「……で、あの家にはあんたと嫁さんのふたり?」
 外をぶらつきながら、他愛のない会話を続けます。輝夜にとっては何もかも初めて尽くしなので、さりげなく地上の情報を採取する必要があるのでした。
「んあ。娘は何を思ってか京に行っちまったからなあ。何が嫌だったんだか」
 不思議そうな顔をしていますが、間違いなくお爺さんたちのせいに違いありません。
 白々しいにも程があります。
「ところで、嬢ちゃんはどこの子なんだい?」
 来ました。
 ここで「月から」と言うのは早すぎます。なんだこいつと思われて、どこぞの川に捨てられること請け合いです。まあ、竹林にいる幼女を躊躇いもなく拾おうとした時点で、このお爺さんに通常の反応を期待する方が間違っているのでしょうが。
 ともかく、フラグを立てるのはまだ早すぎます。ここは適当に言葉を濁しておきましょう。
「実は……。あんまり覚えてないの……」
 俯きがちに答えます。
「そうかぁ。……いやなに、地主さまの娘だったりしたら、お金ふんだくれるかなあと思ったんだが」
「極悪人ね」
「自分に正直なんだ」
 正直すぎます。
 まさか、地上の人間がこんなのばっかとも思えませんが、気を付けるに越したことはありません。流石は罪人が突き落とされる場所なだけあって、登場人物もパンチが効いています。
 さて、これから輝夜はどんな変人たちと出会うのでしょう。
 お爺さんは本懐を遂げられるのでしょうか。それとも輝夜の貞操観念がそれに勝るのでしょうか。
 そして、お爺さんとお婆さんの愛の行方は?

――『真説・輝夜姫』、続く――

 

 

 あとがき。

 妹紅が書けと言った。
 反省はしているが、改訂はしない。
 大体真実だからだ。
 ……あと、続かないからな。
 終わる。

 

 

 上白沢慧音・著
 藤原妹紅 ・編
               美鈴書房
         初版・某年四月一日

 



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一日一東方

五月二十九日
(永夜抄・藤原妹紅)

 


『天まで届け』

 

 焼き芋が旨い季節だ。
 炎を出せる能力が便利だと思えるのは、たとえば調理をする時である。生で食べても、不老不死の身であればけして死ぬことはない。が、食中毒になって苦しむくらいの余地は与えられているのだ。
 健康に生きるのは難しい。
 死ねない身になって、妹紅はその有り難味を知った。
 竹林の中にぽっかりと空いた広場にて、そこらに落ちて腐った木々や葉を掻き集め、川で釣って来た魚や、森で拾って来た栗や、畑から掘り出して来た芋を嬉々として焼いている。香る味覚に、自然と顔も緩む。
 肌寒さが感じ取れるようになり、人の温もりが恋しくなる。と、ろくでもないことを夢想し、妹紅はほくそ笑んだ。こんな気分に浸るのもいい、年に一回くらいは。
 天まで伸びる竹の群れは光を遮り、熱を拒み、空き地に腰掛ける人の暖かさをも奪っていくよう。
 焚き火の熱と、自身に巡る熱とを掛け合わせて、ようやく人に必要な温かみを勝ち取る。もしこの火が消えれば、また自分も非人間になるのだろう。悲しくも辛くもなく、妹紅は火の中に腐った枝を突っ込んだ。
 地に落ちた小枝を踏み潰す音が聞こえたのは、ちょうどその頃だった。
「慧音」
「些か、邪魔をする」
 硬い口調も慣れたものだ。彼女は誰にでもこのように喋る。信頼の証として言葉遣いを砕いてくれるような、分かりやすい性格はしていない。
 だから、その腕に一人分の肉塊を抱えていたとしても、別段驚くに値しないのである。
「死体?」
 無言で頷く。
 若い男だった。派手な彩色と無駄に肌を露出する服装から判断するに、この辺りの出ではないのだろう。
 肌は土に汚されているが、損壊は少なく、烏や妖怪に喰われていないのが奇跡に等しかった。
 あるいは、たとえ臓物が腹から食み出て、折れた骨が肌を突き破り、眼球でひとつふたつ足りなかったにしろ、慧音が死体を発見したのであれば、ひとつの例外もなく抱え上げていただろう、と妹紅は思う。
「ひとつ、頼まれてくれないか」
 成人一人を支えていても、慧音は苦痛を訴えない。
 だらんと下がった死体の指先が、林に差し込むわずかな光に照らされ、かすかに輝く。
「この男を、荼毘に付してもらいたい」
「食べるの?」
「食わん。お前が食うなら別だが」
「要らない」
 首を振り、焚き火の中に目を返す。
「でも、芋食べてるから後でね。適当に櫓でも組んでて」
「分かった」
 了承し、足元に死体を転がす。目蓋は閉じられており、死の直前に見る絶望や慟哭を映したであろう瞳は、もう誰の目にも映らない。ただ、発見者である慧音は、唯一彼の訴えを目にした。
 死んだことのない慧音には、男が何を伝えたかったのかよく分からなかった。生きたかったのか、死にたかったのか。濁った硝子球のような瞳は、生きた人間のそれとは一線を画していた。
 櫓といえど、精々死体を固体するための台と、死体を覆い隠すための蓋ぐらいしか用意できない。竹を切り、竹を折り、竹を紡いで、死体を包む檻を造る。丹念に、丁寧に。
 火が爆ぜ、鼻腔をくすぐる芋の匂いが辺りに漂う。
 不謹慎と思うが、慧音はその香りで自分の空腹を自覚する。
 竹を握り締めながら、しばし逡巡する。その隙に付け込んだのは、妹紅だった。
「慧音も、食べる?」
 嫌ならいいよ、と言外にそう言っていた。妹紅は慧音の意志を尊重するだろう。慧音もそれを理解しているから、善意の声を無視することは出来なかった。死体を支える礎を組んだところで、竹を置く。
「ああ。少し、頂こう」
 ん、と妹紅が頷いて、焚き火の中から無造作に焼けた芋を掴み取り、銀紙で包んで慧音に放り投げる。表面上は苦もなく受け取った慧音だが、実のところ、熱くて熱くて仕方なかった。
 妹紅が平気で火の中に手を突っ込めるのは、熱くないからではなく、すぐに治ってしまうから。理屈では納得しても、見ている方は熱くはないのかと邪推してしまう。
 それでも、直火で焼いた芋は確かに旨かった。腹が徐々に満たされていくのを感じる。
「美味しいでしょ?」
「あぁ」
 遣り取りは、そう多くない。
 慧音が妹紅に死体の火葬を頼んだのは、これが初めてではなかった。年に二、三回はあるだろうか。決まって外から来た人間の死体を、焼いてくれと頼みに来る。
 男であったり、女であったり、子どもであったり。
 形は人里にいる人間と似ていたが、服装と人相だけは酷く違っていた。
 何故違うのかと考えても、外が酷い有様だからなのか、死んだせいなのか、そのどちらなのかは全く分からない。きっとその両方なんだろう、と妹紅は思う。
「それ、さ」
 死体を見て、妹紅が問う。ちょうど芋を食べ終えた慧音は、銀紙を丸めながら答える。
「指になんか金属が嵌ってるけど、取らなくていいの?」
 素人目にも高価だと分かる貴金属。追いはぎの類なら例外なく掠め取って行くだろうが、これは死体だ。物を言わないのなら、拾った者の好きにしていいはずである。しかし。
「あぁ。そのままにしておいてくれ」
「ふうん。そういうものなの?」
「そういうものだ」
 本当は、知らない。この金属が何を意味するものなのか、全く分からない。
 分からなかったが、そういうものだと思った。妹紅も、慧音の自信ありげな表情に得心がいったらしく、それ以上は何も言わない。
 慧音は地面に置いた竹を捻り、櫓造りを再開する。妹紅は、また焚き火に腕を突っ込んでいる。
 火葬まで、あと少し。
 太陽が、頂上をわずかに通り過ぎた頃のこと。

 

 看取る人が誰もいないというのは、悲しいものだ。
 この男は、誰にも知られずに死んでいった。それはどうしようもない孤独だった。
 ならばせめて、見送る役目くらいは背負ってもいいだろう。
 外から来た以上、無為に歴史を喰う訳にはいかない。男の気持ちは分からないが、その想いと魂を空に還すことくらいは出来る。
「もう、そろそろ?」
「いや、まだ」
 竹で編まれた櫓の前に、二人は立っている。
 一人は号令を待ち、一人は頃合を読んでいる。
 空に薄ら雲が掛かっている。この雲が晴れて、結界を越えた向こう側にも煙が見えるようになったら。
 心地良い風が吹き、葉の擦れ合う音が涼しげに響く。
 ちょうど、太陽に掛かる雲が晴れ、竹に遮られて隙間だらけの空も、白い邪魔者が束の間に居なくなった。
「妹紅」
「うん」
 一言でいい。妹紅は号令と同時に腕を上げ、力ある言葉を吐き出す。
 死とは何だろうと考えて、やはりよく分からないと妹紅は結論付ける。それが、いつか死ぬ時に分かるだろうという、曖昧で、永遠に来るはずのない希望に縋るようなものであっても。

「天まで届け、死の煙。
 『火の鳥』」

 突如として燃え盛る竹の棺から、誰も目を逸らさない。
 慧音は言うに及ばず、妹紅とて、熱さを感じない訳ではない。それでも、肉の焼ける匂い、竹の弾ける音、外へ昇って行く煙の全てが、心に突き刺さって離れないのだった。
 死体など見慣れた。生死など当然のことと受け入れた。それなのに。
 黒とも白とも黄色とも言えぬ、独特の色彩を帯びた煙が、竹林を越えた先の空を覆い尽くす。
 この煙は、月へは届くまい。死んだ者から発せられる煙では、空を覆い隠すのが精々だ。
 だから、もっと高く。煙よ、昇れ。見えるように、向こうの世界にあるはずの空からでも、死の煙がはっきりと見えるように。
「慧音」
 あぁ、と気のない返事が返る。
 二人とも、見上げる空は同じ。立ち昇る煙の行方を見定めながら、妹紅は尋ねる。
「こういう時は、手を合わせた方がいいんだっけ」
「そうだな。気が向いたら、やってくれるとありがたい」
 決して強制はせず、慧音は瞳を閉じ、絶えることなく燃え続ける櫓に手を合わせる。
 彼女のやり方に倣って、妹紅は目を開けたまま、櫓に向けて手を合わせる。
 さようなら、あなたのことは何も知らないけれど。
 どうか、その逝き道が安らかなものでありますように。
 そう、柄にもなく小さな祈りを捧げて。

 

 その日、一人の男が死んだ。
 空に広がった魂の煙は、どこまでも高く、いつまでも消えることなく、昇り続けていた。

 



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