小悪魔RPG(3)

 

 

 

 四階から感じられる広さというものは、今までで一番だった。
 面積的には永遠亭に劣るのだろうが、ここには壁とか敷居とか、そんなものが一切存在しなかったのだ。
 私は階段の下から、頭だけ覗かせてその広さの中に、パチュリー様の姿を探した。
 が、何処にも見付からなかった。

 改めて遠い所に来ちゃったな、という気がする。
 全体からは、神殿の遺跡といった印象を受ける。
 床に広がる白い石は、昔は綺麗だったんだろうなーという感じの罅割れてぼろっちい物だった。
 若い頃は美人だった遠縁のおばさんを、久しぶりに見た時の遣る瀬無い感慨を思い出し、これは失礼なことをと思ったが謝らない。

 真鍮のランプが幾つかぶら下がっているが、明かりはついていなかった。
 それでもそこそこ明るい理由は、外周部分が壁ではなく、柱になっているからだろう。
 円柱型の石柱が等間隔に配置されていて、青い夜空が筒抜けだ。
 僅かに内側に傾斜しているその柱は、古い時代には積極的に使っていた建築様式だと読んだことがある。
 こんな遠くからでも判別が付く小悪魔の目は、大した実績と自信を兼ね備えている。

「ふはぁ……」 

 力が抜けて情けないあくびが口から出た。
 感動のご対面に向けて、かなり無理にテンションを上げてきただけに、出鼻をくじかれた感じだ。
 階段を上り切る前には、舌を滑らかにする為に発声練習までしたというのに。
 タ行とラ行は特に重点的に、私興奮するとよくそこで躓く。

『お昼ごはんは、タ、タ……タンメンで宜しいですか?』

 ……嫌な事思い出した。
 この発言で、タタ・タンメンというのが紅魔館にラテンのリズムで二ヶ月ほど流行したんだよ……。

 とりあえずこのまま身を潜めていてもということで、階段から出て床に立ってみた。
 家具や彫刻品の一つもない、本物の廃墟だった。
 というか、ここまで上って来て、初めて行き止まりという状況に直面した。
 石柱やランプに何か仕掛けがないかと、小悪魔ハンドで念入りに調べていたが、途中あまりの数にめげて投げ出した。
 これバグじゃないのかとか疑いを持つ構成はどうなんだろう。
 不良品だ、返品だと騒ぎたい。
 
「あー、ちきしょー!」

 両手を上げて、床に腰を降ろす。
 おお、そうだと思い、目に入ったグリモワールを開いた。
 確かチルノさんの部屋に来た時に、グリモワールには戦闘になるという未来が書かれてあった。
 今回も僅かに先の未来が書かれているかもしれない。
 でも、チルノさんとは戦ったわけじゃ……いや、僅かの間戦闘になったのは事実だし、そこまでなら合ってるのか。

 絵本は、凍りついた勇者の顔と、下から突き上げた無数のツララを場面に捉えていた。
 インパクトのある絵だったが、隣に書かれた文章を見るに、一次的な硬直はすぐに終わって会話に入っている。
 喋る、動く、葛藤する。
 そんな二人の応酬が何頁か続き、塔にいた氷精は遂に改心して、友に会いに地上に降りていった。
 絵本の中の勇者は私よりずいぶんとキザで、また格好良かった。
 
 まだ頁は捲られる。 
 次に勇者は四階を目指し、私がいる神殿跡地とも呼べるところに立つ。
 勇者は宙に浮いた魔王と対峙し――この魔王は女性で描かれているや、ちょっと私の母さんに似てる?――と論戦を繰り広げる。
 話し合いは決裂し、勇者は魔王からの猛攻に耐えつつも、いつか来る反撃の機会を窺っている。
 何頁にも及ぶ激闘の末に勇者は塔から落ちた。 
 勇者は落ちた、塔から落ちた……落ちた……おち?
  
「おぉーい!?」

 落ちちゃったの勇者の方かよ!?
 物凄い自然な流れで落ちたけど、何なのそれ、このお話は魔王が勝っちゃうの!?
 ちょっと勇者、何頁も戦っといて自分から落ちるな「だがな、私はお前の魔法では死なん!」とかこの台詞も格好良いけどいらないよ!
 自分のHPに限界を感じるなよなー! 勇者はアナログ思考で戦えよなー!
 
「ぎゃー、死亡フラグ立ったー!」

 幻滅、勇者に幻滅……。
 この状況から、空を飛べない勇者が助かる術が見付からない。
 すなわち私が助かる術が見付からない。

 次の頁を捲ろうと努力してみたものの、完全にロックがかかっていてビクともしない。
 無茶面白いのに最後の数ページが落丁という本にぶち当たった時に、今の何分の一かの絶望を感じたことがある。
 何分の一かで済んでいるのは、最悪だなーと頭が理解しているのだが、あまりに突拍子の無い結末に笑っちゃう心がいけない。
 この、この! 馬鹿作者!
 勇者がいなくなった残り数頁で、お前は一体何をするんだよ!

 どうしようか、本格的にまずいぞ……!
 何とかしてイレギュラーを起こさないと、飛べない私は地面に叩き付けられて脳みそでろーんになって鴉に突付かれる末路を辿――。

 待って、それは変だ。

 どうして未来が描かれているのだろう?
 そりゃ、私が描いた絵本を元にした世界だから、私が近い未来を想像できるのはおかしくない。
 だけど、絵本の方は私の行動を元にして作ってるんじゃないか?
 私が行動する前に、勝手に進んじゃっていいのか?
 今までだって過去しか開けなかった。
 それが、チルノさんの所で、ほんの僅かな未来が見えだして……今ははっきりと、先の未来が書かれてある。

「意味があるのか……?」

 思えば三階に登る時は、通ってきた過去の部分が全て開かれているわけじゃないかった。
 本の完成は、私の行動より明らかな遅れを見せていた。
 それが急激な速度で完成に向っているのは何故だろうか?
 完成……?
 完成って言葉はどこから?
 そもそも、この絵本、完成はしないはずだ、途中でクレヨンが捨てられちゃうんだから、それ以上描きようが無い。
 あ、いや、クレヨンは新しく買って貰えるのか……じゃあ、続きを描こうと思えば描けるんだな……。 
 だとすると、本も一緒に捨てられたのでは?
 描けないとなると、それが自然だよ。
 いや、それだと、このグリモワールに、小さな私が拒絶を見せたのはおかしいか。
 さっきから頭が痛いぞ、私、新しいクレヨンで……何だ、ちょっとだけ、描いたことあるんだ……何だっけ……クソッ!

 はっとして手を止めた。
 開けない頁を開こうとしてた爪が、真っ白になっていた。
 そんな強い力をかけたいたつもりは全然無かったのに。
 なにやってんだ。
 足掻くにしたって時間が無いんだ、考えて足掻かないと……。
 まず、まずはそうだ、この階に魔王なんていない、勇者が出会った宙に浮く魔王なんてこっちにはいない。
 つまり本の方が間違ってる可能性が高く、私が落ちる未来だって、完全な創作になる可能性が高いと考えていいんじゃないか。

 いいんだろうか?
 
 ……どうせ、解らないんだから、希望は捨てないでおこう。
 とにかく、パチュリー様に会って――会う方法を考えて、話の流れていく推移を見よう。

 この階にいないとなると、パチュリー様は屋上にいる可能性が高いな。
 あとはどうやって屋上まで上るか。
 階段がなくても上に行ければ、方法は問わないわけだ。
 例えば、適当な穴が見付かれば、そこを抜ける事で上にいけるかも?
 今の私の瞬発力を生かして一気にジャンプするのもいいし、それで届かなければここの瓦礫を集めて台にしてもいいし……いや、まずは穴を見つけないと何とも、天井までは結構な高さがあるし、穴の大きさによってはお尻がつっかえる可能性だって出てくるわけで。

「…………」

 天井を眺めるにつれて、その不気味に白い天井を眺めるにつれて、今まで気付かなかった疑問がぽつぽつと胸に降って湧いた。
 魔王は宙に浮いている、それが正しいとすると、私はまだ調べてない死角があるじゃないか。
 それを四階と呼ぶのが果たして正しいかどうか、怪しいものであるが。
 
 床と空の境界だけを意識して、吸い込まれそうな星空に近付いていく。
 風の無いのを確認してから、外周部分の柱にそっと触れて、それから叩いて強度を確認してこれなら安全だと思ったところで、柱に抱きつくような格好でぎりぎりまで外に出て、そこで上を向いた。

 ――いた。

 柱の裏側、塔の外、離れて約二メートル、高さは一メートル上。
 煌々と降る月明かりを浴びて、魔女は当たり前のようにその身を宙に横たえて、黒い表紙の本を読んでいた。 
 憧れた、探した、やっと見つけた。
 あらゆる文句を、たくさんの説得を考えてきたのに、その姿を見た時に何だか胸が詰まってしまった。
 いつもの、本当にいつも通りの姿なのに、決して私の手が届かない位置にいる。
 何も聞こえない。
 毎晩煩いと感じていた紅魔湖の牛蛙の声も恋しいと思うほどの静けさ、耳鳴り。

「あ……」

 どちらの言葉か解らない、だけど、それが切欠で二人の目が合った。
 空中に椅子かベッドでもあるように、魔女は腰の高さを崩さずに、私に振り向いた。

「何よ、遅かったわね」
「……それは、お待たせしました。結構早かったと思うんですけどね」
「楽しかった?」
「楽しいというより必死でしたよ」

 出来るだけ平静を装って返す。
 これがパチュリー様の流れを作る策だと解っていたから、乗ってあげない。
 私は私の中に出来た、夢を、温かい気持ちを、何度も反芻して来るべき論戦に備えようとしていた。

「ずれてるのよね、この世界」

 目を細めて(ああ、いつものジト目で嬉しい)小さな文字を睨むような目を作ってから、パチュリー様は話を続けた。

「どうしてこんなことになっている?」
「ズレのことですか?」
「レミィにも検証してもらったけど、本の中の世界なんだから、あなたはともかく各々はストーリーという運命に従うしかないはずよ」
「はぁ……パチュリー様は登場人物を嘗めすぎですよ。彼女達は思っても見ない力を持って自由に動いています」
「違うわ」

 違わないと言おうとしたが、水掛け論になりそうなので控えた。こんなところで喧嘩をするのはもったいない。
 それより私の気持ちを、どこで言うかが大事だ。
 向こうから問いかけて来ると思っている……悪魔化の話が出れば畳みかけようと準備してるのだが。
 今一つパチュリー様に動きが見られない、何だか別のことを考えておられるような? 

「ねえ、小悪魔?」
「何です?」
「その手に持ってる本は何なのかしら?」

 ちょっと期待したのだが、話は完全に明後日の方向。
 私の右手の本を言っているのだとすぐに察したが、何でそんなことを、訊かなくても解るだろうと言いたかった。

「グリモワールに決まってるじゃないですか」
「何ですって?」
「いい加減にしてくださいよ、これ、パチュリー様が私に持たせたんでしょう?」
「そうよ」
「……さっきから何言って――空中からもそろそろ降りてきて欲しいですね! もう!」
「本物はこんな色なのだけど」

 先ほどまで読んでいた本を開いて、表紙の方を向けて私に見せた。
 ……黒いグリモワール。
 確かに見覚えがある、しかしそれは古過ぎる、色褪せて罅割れた表紙は、私が持っていた夜雀の宿で渡されたグリモワールとは全然違う。
 あちらは黒光りするほど、壮健で精力を感じさせる真新しさだったのに。

「じゃあ、これは……」
「あなたに渡したのは、私のコピー。私の意志を伝える為、それだけに作られた変哲も無い黒い本。それがどうして白い本になってる?」
「し、知りませんよ、ぽろぽろ剥がれていって勝手に白い本になったんですから」
「剥がれたですって?」
「表面がです、表面が。というか元々白い本だったのでは?」
「オセロじゃあるまいし、そんなぺらぺらと黒が白に変わったりしますか」
「だって、実際そうじゃないですか」
「何を隠しているの?」
「隠していませんよ。むしろ隠しているのはそっちでしょう?」
「この世界の最高目的であり第一存在であるグリモワールが、何故こうも軽視され続ける? 繰り返すけどこれは絵本を元にしたお話なのよ」
「じゃあ、私が持ってる白の方が本物なんじゃないですか?」
「ありえないわね、私がこの黒い本を基礎にしてこの世界を作ったのは確かよ」
「――待って、パチュリー様。どうしてその絵本を基礎に出来たのですか? 現実世界にその本があったってことですか?」

 そうだ、現実世界のパチュリー様はこの本と接点を持ってなきゃいけないんだ。
 そうじゃなければ、この本を元にした世界なんて作れっこない……! 

「パチュリー様は現実世界でもその本を持ってるんですね!?」

 身を乗り出して、思わず落ちそうになった。
 我を取り戻し、慌てて柱にしがみつく。
 パチュリー様のいる位置と、これ以上は床がないことと、今は飛べないことを同時に頭に流れてひやっとした。
 もう少しで本と同じ末路を辿るところだった。
 気をつけないと。

「絵本、持ってるんですね? どうして答えてくれないんですか?」
「……」
「ねえ!?」
「……ふん、まあ、私が動けばいいわ。神の力なんて借りなくても、私が本の通りにしてあげる」

 私はぎりっと奥歯を噛み締めた。
 パチュリー様のやってることは最悪だ。
 自分の疑問だけぶつけといて、私の話なんて全く聞かずにとっとと戦闘に入る気だ。
 オレンジの光が広がる、炎の玉がパチュリー様の頭上に浮かんでいた、セントエルモピラー、そいつは既に私にロックされている。
 本当は避けるべきだった。
 落ち着いていればそれも出来た。
 火球は私の振った手で真っ二つに割れ、背後の床を馬車がつけた線のように焦がした。

「素晴らしいわ、小悪魔」
「……どこが」
「半分覚醒しているわね、あながち紙の兵隊達も役立たずじゃなかったようよ」
「話を聞いてくれませんか? 私は話し合いをするためにここまで上って来たんです、こんなくだらない争いをする為じゃない……!」
「くだらない? あなたを悪魔にすることは痴話喧嘩よりずっと有意義なことだわ」
「動機は何なんですか、どうして私を悪魔にしたがるんです?」
「知らないの?」
「表面上だけ知ってます……だけど私はそんなことでパチュリー様が動いたと思えないし、思いたくないです」
「あなたは紅魔館に来た時から、従順で嘘の少ない極めて大人しい性格だった。作られた自分に抑制されて、本来のあなたの性格や力が出せなくなってしまっている、それを正そうとしてあげてるの、いわば悪魔の矯正ね」
「違う……」
「いいから一人で立ちなさい。私の下でへらへら笑っているなんていい迷惑なのよ。いつまで続けるの? 老いるまで? 朽ちるまで?」
「朽ちるまで傍にいられたら私は幸せだと思います」
「ご両親はどうなるの?」
「両親?」
「魔界でずっとあなたが悪魔になるのを待っているのよ? 帰ってあげなくていいの?」
「……」

 私は考え込んだ、パチュリー様は私が望郷の念や責任感に苦しんでると思ってるのか、静かに待っていた。
 だが、もちろん、私は別の疑問を解決しようと頭を働かせていた。

 中途半端すぎる……両親? そんな言い方するだろうか……私が父さんを亡くしているのを知っていて?
 今のは母とストレートに出した方が、間違いなく効果的な流れだ。
 知らないんだ、ではどうして? 悪魔になるのを待っているとか、ここぞとばかりに切り出した言葉は明らかに私を狙ったものなのに。

「帰る方法は私が決めます、母さんもおそらくそれで納得するはずです」

 これでどうだ。
 母さんという単語に反応できるか、それを避けて帰る方法に反応するか、どちらにしろ話のペースは握れる。

「別の方法ですって? 帰還には契約の履行が、あなたが悪魔になることが必要よ?」
「悪魔になる道が、一本だとは思いません。私は力ではなく知恵の悪魔を目指そうと思ってます、それが私が見る悪魔の夢です」 
「……何を言ってるのあなたは?」
「冗談ではありません、私は真剣に、あなたとあなたの愛する図書館で、無限の知識を吸収しようと思ってます。人間が理解不能な超人的な能力を誇るものが悪魔という定義ならば、他人が畏敬の念を込めるほどに知識を蓄えれば立派な悪魔と呼べるのではないでしょうか?」
「青二才に、青い知恵を吹き込んだのがいるようね……」
「どんな夢だって、最初は青い果実から始まったのでしょう?」
「力が怖くて知恵に逃げるの?」
「いいえ」
「怖がることはない、あなたにも悪魔の遺伝子は眠っている」
「変化を怖がってるのではありません。どうせならより良い変化を、私は私から派生した進化を選びたいだけです」
「あなたの血は成功を約束してくれるの……そんな実現不可能な夢物語に飛ばないで頂戴……!」
「あれ?――あ、あの子に言葉を与えたのもパチュリー様ですね?」
「……え?」
「いえ、聞いたことある台詞だったもので」
「なら思い出しなさい。小さいあなたが過ごした日々を、求めた夢を……! あなたはそれらを全部無駄にするって言うの!?」
「子供の私が求めていたのはね、ぬくもりです。母の夢を叶えれば母の目的が無くなれば、昔のように自分を愛してくれると思ってたからなんです。その証拠に幼い彼女が持って帰ろうとしたのは、私の胸のぬくもりでした」

 パチュリー様は何も言わず、黒いグリモワールの背表紙をじっと睨んでいた。
 私はその結果に満足して、今しかないという気持ちで話を続ける。

「強く見える人は、強いフリをしているだけです。誰もが弱さを抱えて誰かとの繋がりを求めてます。主従の絆、憧れの人、友人、夢を追う仲間……私はこの四つの感情を一人の人に対して覚えている幸せ者です。これを捨てるなんてとんでもない。対する強い憧れを失くす様なら、そんなのは私の名前を借りた違う悪魔でしょう」
「優しさや愛で何が買える。力を道徳にする世界があるなら、愛も友情も今よりずっと多く手に入る」
「力で奪い、血で掻き集めた宝石で、天にある月の輝きに勝てましょうか?」
「元より月に価値などない、やがて腐る程度の気分だけ盛り上げて作った出来合えの夢。宝石にも劣り一銭の価値も付かない泡沫の幻想」
「その輝きに惹かれ、月を目指そうとしてたのが我らが紅魔館チームです」
「ずいぶん、舌が回るようになったわね……」
「パチュリー様のご指導ご鞭撻の賜物です」
「ふーん……」

 乗ってきてよ……! と、心の中で短い舌打ちをする。
 過程は悪くない、ほぼ満点をあげていい、それなのに最後で無くなった手応えはパチュリー様が感情を心の底に伏せたからだ。
 まだ言いたい事も訊きたいこともある、それらはパチュリー様の心に触れていないと意味が無い。
 本音が訊きたい。
 感情を隠すというなら、切り札がないこともないが……。
 それはこれから先の生活を考えると、ずっと取っておきたかった私の切り札だから、ここで手放すのは大変惜しかった。

「いいわ、あなたの希望は司書としてこのまま居たい、そういうことね?」
「はい」
「じゃあ、次は私ね。あなたは私の何の役に立つって?」
「私は司書としてパートナーとして、私はあなたのお役に立てる自信があります」
「必要ないわね」
「図書館もにぎやかになりました、今まで通りというわけにはいきません」
「来客なんて放っておけばいいわ」
「本の整理も掃除も私がお役に立てます。来客だって魔理沙さんやアリスさんだけじゃありません、紅魔館のみんなが利用してくれます。お嬢様はアルファベット順の並びなんて完全に無視して本を戻しますし、咲夜さんは気付かない間にごっそり全巻抜き出したりしてますし、放置していればきっとあなたが愛する知識の利便性が失われていきます」
「そうなれば、全員立ち入り禁止にすれば済む」
「……埃っぽい部屋で、掃除も無しに一人でですか?」
「そう」
「それだと私、パチュリー様のお身体が心配でなりません……」

 私のは掛け値なしの本音だった。
 理屈を忘れ、パチュリー様が一人で背中を丸めてる姿を見て、そんなの嫌だという気持ちが溢れた。
 期待していなかったのだが、パチュリー様の表情にも変化があった。
 顔をしかめ、すぐに嘲るような笑いに変えて「でしょうね」と吐き捨てた。

「私の心配があなたが離れられない大きな要因なんでしょう?」
「え?」
「心配してるのね?」
「も、もちろんです。誰だって心配するでしょう?」
「必要ない。私は誰かに私の人生を負担してもらうつもりなんて、全く無いの」
「……? それは喘息時の――」
「あなたが居なくても、誰かを魔法で呼べるような装置を作るわよ。大体、私の百年の時間にあなたが居た方が少ないのよ。それまではレミィだって頻繁に私を――そうよ、レミィが助けてくれるし、あなたが来たせいでレミィが遠慮しちゃって面白くない状態が続いているわ」
「……本音ですか?」
「当たり前じゃないの、私の顔が嘘を吐いてる顔に見えるかしら?」

 見えない。

「あなたが帰ってくれた方がせいせいするのよ。こんなはずじゃなかった、もっと悪魔らしい悪魔を呼ぶつもりだったの。未だにスペルカードの一つも使えない。日がな一日掃除と本の整理をしては、満足気な笑顔を浮かべて、紅茶を持って来る。腹が立つわよ、何やってるのよ、こんな使い魔いらない、実験にもならない、いい加減新しいのが欲しいのよ。その為の悪魔化、解った?」
「……私のことが……お嫌いですか?」

 少し間があった。

「嫌いよ」

 私は冷めた目でそれを見てた。
 これ以上言って欲しくなかった。
 辛かったのだ、私は解っていたから、解っていて全部言わせちゃったから。

「パチュリー様、それは……嘘ですよね?」
「本当よ、どうして?」
「黙っておこうかと思ってました、これは私のあなたに対する切り札でしたから、ずっと持っておきたかった」
「何よ?」
「パチュリー様って精神的に辛い時に、服を右手の爪で摘む癖があるんです。言ってる意味、お解かりですか?」

 動じなかった、ぴくりとも動かなかった、だけどそれは身体の方で。
 目の動きは服の裾を僅かに捉えていた。それで十分だった。 

「今のが本音の罵声なら、話してて辛いと思う必要はありませんよね?」 
「小悪魔めが……」 
「ええ、小悪魔です」
「いつから知ってて、黙ってたの?」
「私が来て、大体三ヶ月ぐらいでしょうか? ラジオの修理をして――ああ、あの時、パチュリー様が開いたのは、本当に外の世界です?」
「ラジオ? 何?」
「今でもあの一件は引っ掛ってるんです、あそこにあなたが私を帰そうとする理由がある気がしています」
「……普通に外の世界だわ。いらぬ詮索はしないことね」

 私は注意深くパチュリー様を観察したが、そこから感情を読み取る事は出来なかった。
 それより、顔色が多少悪くなったように見える。
 あ、光の角度が変わったんだ……ってそんなに速く月が動いている?
 
「お菓子の家に子供を誘い込んだ魔女は、最後には殺される」
「え? ええ、童話の?」
「解らないのに先に返事をするのは、あなたの悪い癖ね」
「……すみません」
「あの、魔女はやり方がまずかった」
「やり方?」
「物理的な施錠なんてなくても檻は作れた。大量の、それこそ無限のお菓子があるのだから、放っといても子供はそこから離れようとしない。いつかはお菓子を与えてくれる魔女に情を持つでしょう、年老いた魔女も一人じゃ心配な年齢にかかってるし、これは丁度いいわと世間知らずの子供を利用してしまうわけよ。現代風お菓子の家」

 急いで吐き出さなければ、死んでしまうような口振りだった。
 じわじわとだが、何がいいたいのか解ってくる……そいつは、零したインクのように私の身体に染みこんでいく。 
 
「……私にとって本が餌であり、図書館がお菓子の家だと?」
「さぁて、そんなことを言った覚えは無いのだけど、世間知らずの自覚があるなら注意した方が良いよ」
「これは私に対する皮肉なのですか? パチュリー様ご自身の後悔なのですか?」
「世間知らず、という部分だけ受け取りなさい」
「そうはいきませんよ!」
「感情的にならないで」
「どっちがですか! こんな遠回しなやり方ってないでしょう!?」
「この程度で怒るなら、あなたの決意も知れてるわね」
「ほら!」
「……ま、そんなわけで、始めるよ?」

 何が始まるのだと訊かぬうちに、辺りがオレンジの光に包まれた。
 アグニシャイン上級か。
 私の斜め上に、パチュリー様の背中に、火の玉が集まっていく。それは生きた虫が光に集まるように見えた。
 星空は完全にそいつらに食われてしまった。

「――貧血も喘息も無い私は、どのくらい強いのかしらね?」

 ゆっくりと伸びた手が私を指した刹那、炎の群れが私を目掛けて襲ってきた。
 私は柱から手を離し、出来るだけ引き付けて炎の誘導を床で切りながら、無人の廃墟を走って逃げた。
 手を出してはいけない。
 私は話し合いに来たと言ったんだ……!

 この階の何処にも身を隠す場所がないのは辛かった。
 しかし、私のスタミナは想像を遥かに超えていて、無尽蔵に思えた。
 パチュリー様が疲れるまで、魔力が枯渇するまで逃げ続けるのも、出来ない未来じゃないと思い始めた。
 
「無駄よ。この条件下なら、私は幾らだってスペルを唱える事が出来る!」 

 だけど、それでも時間を稼げればいい。
逃げてる間は、私が覚醒する事も無いだろう、戦いを避けることはパチュリー様へのメッセージにもなる。

 白くて広い床が、段々と焦げた黒で埋まっていった。
 私は炎に捕まること無く、逃げ続けながら、無垢な白が黒に変質していく色の変化に何故か心奪われていた。
 グリモワールはどうだった?
 黒から白へ変わっていったあのグリモワールは――。

「あなたは勘違いしてるようだけど、あなたの限界を超えて逃げる事は、それだけ悪魔の領域に踏み込んでいるのよ」

 私はパチュリー様の言葉の重要性も考えぬまま、二冊のグリモワールを思い出していた。
 炎は益々酷く私に襲い掛かり、白い袖にも幾つかの穴が開き、黒くただれた。
 一瞬だが、頭にちらつくものがあった。
 クレヨンを持って必死に絵本を描いている幼い姿だった。
 どうして今これが? という疑問よりも早く、それをもう一度思い出すことに集中した。
 燃える音が、焦がす音が、私の思考を妨げる。
 その間も殆ど無意識に走っていた私は、身体と精神が分離したみたいだった。

 再び思い出した過去の世界に色は無く、ところどころ霞んでよれていた。
 その時には、どうしてこの映像が流れたのか解っていたので、半乾きの新聞紙みたいな世界の一点だけに集中した。
 私は座り込む幼い私と、地面に開かれた絵本を斜め上から見てた。
 あぁっ、立ててある本ならば、一瞬で解るというのに……!
 モノクロの世界でも、絶対に見分けられる色を信じて、私は一番下に来る絵本の表紙を必死になって探した。
 
 それで、私の勘違いが解った。
 私は時間の流れを正確に捉えていなかったのだ。
 私が持ってる白い絵本が、現在進行形な意味がようやく判明した。
 あの子を抱き締めた時に私の脳裏に過ぎったものは、あの子の思い出ではなく、僅かに先のあの子の未来だったのだ。  

 ――あの子が描いてる絵本、表紙の色は白だ!

 火の粉を払いながら、距離を取って、少しずつ時間の整理を進めていった。
 切った髪がまだ伸びてなかった小さな私は、毛先を揃える事もしてない私は、クレヨンを捨てられてからせいぜい十日以内の私だろう。
 おそらく新しいクレヨンが来てから、前のが捨てられてから三日以上経った私のはずだ。
 この世界が、この絵本が、最初から現在進行形で描かれていたのから考えるに、新しいクレヨンがあの子の手元になくちゃいけない。
 白い絵本は私に会う前にも、ゆっくりとだが進んでいた。
 それが私に会うことではっきりとしたテーマを持ち、完成へ向けて急加速を始めたんだ。
 あの子が必死に完成を目指していた理由は一つ、時間がなかった、全てを忘れる前に、最後に残したぬくもりが完全に消えるまでに、あの子は物語の完成を急がないといけなかったんだ!

 パチュリー様の猛攻は続き、打ち上げ花火の火の粉を間近で浴びているようだった。
 息が切れることも無く避け続ける私は、確かにどこか狂っている。
 お願いだから、もう少し辛抱して欲しい。
 
 肝心な黒と白の絵本との繋がりだが、これは解らない。
 話が似ている訳も、この話がどうして黒に影響を与えているのかも謎だ。
 私がその白い本のストーリーを知らないどころか、存在すら忘れてしまう理由は、あの子がここで持って帰った私のぬくもりが起因してる物は、全て忘れてしまうように出来ているからなのだろう。
 
 それで、黒いグリモワールの方はどうなったんだろ……捨てられたのか?
 どちらにしろ、あの時点のあの子を、私が持つ白のグリモワールで落涙させられなかったのは当然だと思う。
 白い表紙って珍しくないし……また、ちょろっと描いただけでは愛着があったかどうかも不明だし。
 捨てられたクレヨンの方が、父の形見だったクレヨンの方が、私はよほど愛着を持っていたし、そっちに反応するのは当然だ。
 父の遺品で――描いていたお話……か。 

「……うあっ!?」

 気が付くと後が無かった。
 下には草原の暗い青が見えた。
 考えながらでも炎は捌けたが、先の事を考える余裕はなかったらしい。
 急いで振り向いて、道を探したが……。

「さぁ、悪魔の産声を聞かせて頂戴」 
 
 既に、この通りパチュリー様が前を塞いでしまった。
 右も左も炎が待機している。
 勇者、万事休す、このまま絵本の通りになってしまうのか――別にふざけてるわけじゃなくて、本当に何も出来ない状況である。

「は、ははは……仕方ないですね、勇者の力見せてあげましょう!」

 はったりだ。
 ポーズだけは一人前で格好良い。

「それは嬉しいわ。やっと戦う気になったのね」

 逆効果だった。
 
「じ、じ、実は私、グリモワールの謎を解いちゃったんですよ! 聞きたくないんですか!?」
「時間稼ぎも時と場所を選ばないと見苦しいわ」
「く、くそっ、背水の陣だ!」
「誰の真似なのよ、あんまり調子こいてると殴られるわよ」
「う〜……!」

 ギャグに走ってれば、いきなり突き落とされることもないだろうと思っていたのだが、パチュリー様の目は獲物を狙う女豹のそれだったので、ねっとりとした汗が腋から横腹へ落ちたのを感じた。
 何か策はないのか、小悪魔。
 私がこの世界に賭けるとしたら、白い絵本のことは出来るだけパチュリー様に知られない方がいい。
 それは今助かる策じゃないぞ、小悪魔。
  
「ここがあなたの境界線、ここから先は悪魔のあなた。小悪魔のあなたは、私が覚えといてあげるから安心しなさい」
「そんな優しい声で言わないでくださいよ……」
「あなたと現実のあなたは魂で繋がっている。落ちればそれだけダメージが現実に行く。死にたくなければ私に向ってきなさい」
「落ちたら覚醒しないのですか?」
「するでしょう。でも力を使えるようになるまでには間が短すぎると思う、落下速度って結構なものだし痛いよ?」
「……」
「来なさい、私が悪魔にしてあげる。それとも嬲られて瀕死になってから覚醒するのが好みかしら?」
「……私に飛び降りる度胸は無いと、そうお考えですね?」
「ええ」
「私が覚醒を選ぶくらいなら、死を選ぶと言ったら信じますか?」
「信じないわ」

 助かる道を考えてみた……命綱の無い綱渡りになるなと思った。
 父はいつもこんな恐怖を背負っていたのかと思う。
 そして、落ちたときの恐怖はそれとは比べられるものではないのだろうか。
 私は白のグリモワールの背表紙を死んだって離さないようにと握った。

「このままパチュリー様に従うのも面白くありません」
「ん?」
「最後に悪戯をしましょう。私が飛び降りて死ぬかどうか。パチュリー様はどっちに賭けます?」
「性格悪いわね」 
「悪いけど、本気ですよ」
「……そうか、悪戯といったか。だとすると、あなたは落下中の覚醒を信じているのね」
「もうお忘れですか? 私は覚醒を選ぶくらいなら、死を選ぶと言ったばかりですよ?」
「言葉では何とでも言えるでしょう。捨て身を実行に移すには理性という偉い大きな壁があるものよ」
「では、ご照覧あれ」

 摺り足で後ろに下がる、後ろを見ないで下がる、後30cm……25……20……15。
 身体に走る緊張感と、死の圧迫感は、私の身体から汗を雑巾のように絞り立てた。

「ギリギリで止まる気ね」
「もちろん」
「ふん、それじゃ何の駆け引きにもならないわ」
「止まるのは、足を滑って落ちたように見せないためです。私は自分の意思で格好良く飛び降りたいのですよ」

 風が吹けば落ちそうな地獄の淵で、私の目はパチュリー様だけを捉えていた。
 怖くて仕方が無い、嫌な汗は止まらないし、正直なところ足だって震えていたんじゃないかって思う。
 尋常じゃないと解ったのか、パチュリー様は声を荒げた。

「止めなさい、小悪魔」
「パチュリー様、いいですか? あなたが信じられなくなったものは、この先にある」
「小悪魔っ!」
「思い直しました?」
「違う、こんなのは駆け引きにならない……! あなたが何をしようと私の気持ちは変わらないのよ……! 止めて!」
「残念です。じゃあ、先に下で待ってますね」
「小悪魔っ!!!」

 それ以上待たなかった。
 両足を揃え、とんと後ろに跳んだ。
 精一杯皮肉な笑みを浮かべてやろうと思ったのだけど、パチュリー様の必死な顔を目の前にするとそれも出来なかった。
 消える私目掛けて、パチュリー様が走る。
 伸ばした手が私に届くならば、掴んでも良いと思っていた。
 だけど無理だった。
 決して足が速い方ではないのだ。
 その辺は少し考えてあげれば良かったなと後悔した。

 始め音はなくて、こんなもんかなと思ってたら、その内に風を切る轟音が耳元でしだした。
 背中から落ちていく。
 叫ぶ準備をした。
 口から飛び出しそうな心臓を押さえ、息を大きく吸い込む。
 あいつは来てくれるだろうか。
 本当に私の考えは正しいのだろうか。
 上にパチュリー様が見えた、私を追っている。
 この世界で飛べる人は、パチュリー様とアリスさんの二人だけだった、パチュリー様では届かずアリスさんは町に出ていない。
 私を助けられる奴は――あいつしかいない。
 私はこの話のテーマを信じ、物語であることを信じ、幼い私の無駄な露出と、勇者である私を信じてみる。

 叫べ!
 二人だけ、だけど後一匹いた!
 必ずやって来る! 勇者の叫びが愛馬に届かぬはずが無い!

「――カモーン! ラクトガァーール!!」

 世界に変化は見られない。
 だが遅れて地響きがした、それは勘違いで何かがかっ飛んで来てる音だった。
 地上の彗星は、百万の援軍を見た気分だった。
 この静かな夜に、あらゆる生物の眠りを脅かす異次元の走りを見せてるピンクの馬がいた。
 
 私のペガサスは駆けて来た。
 真っ暗な草原を切り裂いて、何もかもを蹴散らして、最大噴射のロケットで私を助けに来た。
 嬉しかった。
 ありがとうの気持ちが溢れた。
 ラクトガール号のブレーキが遅いもんだから、風圧で塔の二階の壁に皹が入った。
 下で待ってくれるラクトガール号の為に、私は足を下に向けて颯爽と背中に乗ろうと試みた。
 実際は何も出来ずにばたつき、柔らかいこの子の生地に落ちたときには背骨に折れちゃいそうな衝撃が走って悶えた。
 あいつは下降しながら私の衝撃を吸収して、地面すれすれのところで止まった。

「うぅ〜……! よーしよし! いい子いい子ありがと!」

 痛みを我慢して、首を撫でてやる。
 ぬいぐるみの毛先はふわふわしていたが、中身はごわごわしていた。
 ラクトガール号はウインクをして「呼ぶのが遅すぎるんだぜ」と答えてみせた。

 パチュリー様の怒声が聞こえる。
 だいぶご機嫌を損ねたようだ、それは優しさから来る怒りなのだが、降りかかる火の粉は裏腹に熱かった。
 
「走るよ! ラクトガール!」

 一気に突き放す。
 パチュリー様から離れることは出来たが、私は加速の途中で一度落ちて、また拾われた。
 鐙も手綱も無く、掴まる所は首ぐらいなもんで、片手がグリモワールで埋まってるもんだから、前以上に無茶は出来ないと知った。
 背中に続き、お尻も痛い。
 速度を落としてもらい、飛んでくるパチュリー様の射撃に対して直角になるように逃げた。
 とりあえず、グリモワールの次を確認するべきだろう。
 満点の星空の下で、読書とは風流だと思うのだが、実際は頁を開くのも命がけだった。
 馬の首にグリモワールを乗せ、それが落ちないように身体で挟みながら、片手であたりをつけて頁を開く。

 手元がぶれて文字は読めない。
 だけど、物語の進みは絵で解った。
 勇者の愛馬が、高飛びで勇者をキャッチする場面が描かれていた。
 落ちてくる勇者をジャンプで救出って、どれだけ賢くて頑丈なんですか、馬の常識を考えてよ黒王じゃあるまいし。
 突っ込みつつ頁を捲り、それ以上物語が進んでいないのを知って焦った。
 相当描く速度が緩んでいるのを感じている。
 あの子が描き続ける動機が、私のぬくもりが消えていっているのは間違いなかった。
 この世界に白の絵本が影響を与えているとするならば、彼女の描く力を取り戻してやることが出来ればハッピーエンドもあるかもしれない。
 
 パチュリー様が追いついて来た。
 直線的だが、弾速の速いノエキアンデリュージュに切り替える。
 あの子にも、私にも時間は無い。
 ぬくもりを取り戻すには……私が干渉できるとしたら……現在進行形でこの本が繋がっているのなら……。
 私はグリモワールを身体で挟んだまま、右手をポケットに突っ込んだ。
 あの子と関わりの深いこのクレヨンならば、きっと鋼鉄とも呼ばれた絵本の世界にも通用するはず!
 
「よーし、このクレヨン……でえっ?」
 
 ポケットの中に何の感触もなかった、私は左右間違えたのかと思い、左にも手を突っ込んでみたが、やはり何も無い。

「こ、これってまさか」

 落とした?

「こんな時にぃー!?」
 
 とにかく、迫り来るパチュリー様をやり過ごして、クレヨンを探しに行かないといけない。
 落ちた場所は見当が付くが、この速度で引き返しても集中砲火を食らうだけだろう。
 私は自ら十円ハゲと名づけた、草の生えていない円形の広間に向った。
 草むらに落としたら絶対に解らなくなると思い、あの上を狙って左手に持ったグリモワールを落とした。
 こいつなら絶対に傷が付く事は無いし、あそこなら見付からなくなる心配も無いだろう。

「いいよ、ラクトガール! 全力でUターンして塔の下に戻って!」     

 飛んでくる水の玉から僅かに軸を逸らして、ラクトガールは飛んだ。
 慣れた気持ちは全然無くて、やっぱり怖くて痛くてしょうがない加速だった。
 パチュリー様が何か叫んだ気がする。
 罵声か静止か怒声だから気にするのは止めた。

 ほんの数秒で、私が落ちた辺りにやってきた。
 しかし、そこに生えてる草は足が高すぎて、石ころのようなクレヨンがあったとして見えるかどうか解らない。
 しばらく地面スレスレで上から探していたが、パチュリー様が追いついたので、地面に降りないと無理と判断して草原から離脱した。

「ど、どうしよう、ラクトガール!?」

 馬に尋ねて、別に答えを期待してたわけじゃないが、困りに困ってラクトガールに話しかけた。
 ラクトガールは何も言わなかった――というか言えなかったのだが、彼(彼女?)の進行方向に多少の変化があった。
 とりあえずどちらに逃げようが変わりないだろうから任せてみた。
 そうしたら、遠くにオレンジ色の光が見えた。
 空に見えるのは……松明の火?
 明かりだ、明かりがある、それから明かりの下にたくさんの人形の姿、あ!

「アリスさんだ! おーい!!」

 夜になるかなとか言っていたが、こんなベストなタイミングで帰ってくるとは私も運が良い。
 どうも、ぬいぐるみだがラクトガール号はかなり高い知性を持ってるようだ、何も言わなくてもアリスさんの方へ向ってくれた。
 頼りになるなぁ、君。

「あら、こんばんは、やっぱり夜になっちゃったわ――きゃっ!?」

 これでブレーキがまともならなぁ……。
 風圧で飛ばされそうになったアリスさんご一行にぺこぺこと頭を下げながら、私は今の状況の解説を急いだ。
 相当な早口で、且つ後ろを気にしていた私はやたらと振り向いていたので、話が終わり、それがどの程度通じているかは祈るだけだった。

「はぁ、なるほどね」

何だか通じてるらしい。大変助かります。

「それで、アリスさんの人形達にお願いしたいんです! クレヨンを探すのを!」
「了解よ、落ちたのはどの辺り?」
「あの塔の……えーっと南側です、その辺りの草むらにこのくらいのピンクのクレヨンがあるはずです」
「ああ、あれか。ずいぶんと小さいわね、でも任せて、得意よ」

 アリスさんは笑った。
 実際細かい作業で、彼女達の右に出るものはいないだろうと思った。
 これから草の中に入り、ジャングルのような環境でクレヨンを探す人形達であったが、不満な素振りは一人も見せていなかった。

「ねえ、その顔だと」
「え?」
「おいどん、助かったみたいね」
「ええ、おかげ様で!」

 久々にやるか、と叫んだアリスさんはハンモックから降りて、自力飛行に移った。
 人形達は整列し、アリスさんの号令を待っていた。

「針路このままで全力前進! 目標、塔の南側!」

 そこで私はアリスさんと別れた、手を振る暇も声をかける時間も無かった。
 アリスさんはパチュリー様より低い高度を取り、パチュリー様とすれ違った後に塔に向って急いだ。
 私はアリスさん達を信じて、あまり塔から離れないようにしながら、パチュリー様の攻撃をかわすのに専念した。
 ラクトガールが被弾する。
 ぐらついて、私の方を見て「大丈夫だ」とウインクした。
 私は多少抵抗があったがスカートの裾を破って、焦げたぬいぐるみの首への包帯にした。
 結果的にそれは、私がちゃんとした姿勢で馬に乗れることにもなり、回避性能が大幅に向上することになった。

 この服はパチュリー様がくれたもので……大事にしておきたかった。

 二分程度、いや、もっと短かっただろうか。
 塔の下での人形達に動きがあった、ぞろぞろと空中に上がってくる彼女達は、おそらく見付かったぞという私への合図だった。
 私は彼女達の近くへ急ぐ、しかしパチュリー様の攻撃が飛び火しないように直接の接触は避けた。
 アリスさんの方も、よるなよるなと両手を前に出して制した。
 どうやって受け渡すのかと考えていると、私に向って人形達が縦に並ぶように動き出した。
 並んでる最中に、最初の人形がクレヨンらしきものを次の人形へと投げた、それからまた次へ、次へ、それはバックホームへの送球にセンターやショートが中継に入るように見えた。
 正確無比な投球は最後まで続いていき、私に向かってくる時にも全く速度は落ちていなかった。
 眼を見開いて、両手を開いて到着を待つ、だけどクレヨンは指をすり抜けてしまい、慌てて蚊を叩くようにしたら何とかクレヨンを掴めた。
 私が取れたのは、殆どがラクトガールの誘導のおかげだ。
 ただ、今は誉める時間は無くて、私はすぐに次の作業に移らないといけない。
 
(これで、描かなきゃ……!)

 グリモワールを取りに戻る。
 馬上から身体を傾けて、右手でキャッチした時には地面の土を抉っていた。

 腕力に舌打ちしながら、グリモワールを開く。 
 こんな状態で絵なんて描けっこない、どこかで速度を落とさないといけない、それでもまともな絵は期待できないだろう。
 だから単純な図形。
 悪戯描き程度の、だけどはっきりと思いが伝わる図形。
 一つしか頭になかった。
 絵本の進みは、もう殆ど止まっていると言ってよかった。
 私は魔王と勇者が対立している絵に、クレヨンを押し付けるようにして小さなハートマークを、ピンクのハートをそこに描いた。
 私の純心、あの子の純心。
 お願い伝わって、この色で……! 

 夜雀のお宿の上を通過した、騒がしさに何事かとチルノさん達が店から顔を覗かせる。
 塔の横を通り過ぎた、二階から魔女のジト眼が私を、一階の入り口からは永遠亭がぞろぞろと外に出てきた。
 パチュリー様は執拗に私を狙っていた。
 私は弾が掠る度に沸騰しそうな滾りを胸に覚えていた。
 それが覚醒に繋がってるのは理解している、あとは、とにかく私がしっかりして、あの子が絵本の中の私のメッセージを理解してくれるのを、耐えて待たなきゃいけない。
 私に狙いが絞られているおかげで、幸いにも塔の人達には弾が飛ぶことは無さそうなのが救いだった。

 結果として、グリモワールは動いた。
 飛行中にそれを確認できた時には、思わず叫んでいた。
 勇者と魔王の物語は動き出した。私の描いたハートは塗りつぶされ、土の上からグリモワールを取り戻す人馬一体の姿が浮かび上がる。
 あと何頁か分からないけれど、あの子は優しい結末を目指しているのだと私は信じた。
 パチュリー様の火力が落ちる。
 少しずつ白のグリモワールは黒を塗りつぶしていっているのだろう。
 いけると思う反面、進みがやけに遅いのが気になっていた。

 いいや、通じたはずだ……! これ以上私に出来る事は無い。
 きっと疲れて手を休めているだけなんだ。
 頑張って欲しかったが、描くにあたり精神主義だけではどうにもならないこともあるんだろう。
 それでも胸の中では、頑張れ、頑張れとあの子に向って唱え続けていた。
 私の服を塗って……魔女の髪を塗って……どんどん動きは遅くなっていった。
 ついに絵の上に僅かな文を書いたところで、絵本の世界は沈黙した。
 本が石化したみたいにざらついて罅割れていく、終わったのだと私に見せ付けるように……。

「ちきしょおッ!」
 
 胸の中の黒い塊に火がついた。
 何で頑張ってくれないんだ、もうそれしかなかったってのに!
 回避に頭が回らず、背中に大きな一発を貰ってしまった。
 私はそれで地面に落下した。
 大した速度でも高さでもなかったが、破れた袖から流れる血を見るとますます怒りが加速した。
 何やってんだ!
 私は何をやってるんだ!
 単に逆切れじゃないかと分かっていても、何かを殴りつけたいほどの苛立ちは決して消えなかった。
 これが白を失った、本当の自分なんだろうか。
 
 丸から平べったい形になってしまったクレヨンを手に取った。
 パチュリー様から逃げようとすると、草原を走る足は自然と塔に向いた。
 今頃になって後ろを振り返って、ラクトガールの無事を確認した自分に吐き気がした。
 本当に時間がなくなった。
 私は頭から草原に滑り込んで弾をやり過ごし、その後で乱暴にグリモワールを開いた。
 もう何のアイディアもなかったから、そこにもう一度ハートを描いてみた。
 だけど、効果はなかった。
 今は限りのクレヨンは本当にゴミになってしまった。

「……お祈りの用意は出来たかしら?」

 パチュリー様は私に追いついていた。
 それでロイヤルフレアのカードを持って私を見下ろしていた。
 私はただ蟲が這い回るようなむず痒さに必死に耐えて、土を睨んでいた。
 
「受け入れなさい。そんなに苦しまずに済む」
「……嫌です」
「決して悪いようにはならない。ごめんなさい、本当に今だけだから。さ――」

 ひゅうという空気を切る音が聞こえた。
 矢の音だった。
 放物線を描いた矢は、パチュリー様の右に落ちた。

「え?」

 パチュリー様が慌ててそちらを振り返るその隙に、今度は二階から大きなものが降ってきた。
 私にも大きな黒い帽子が見えたと思ったら、そいつは拳を振り下ろして地面を割った。
 その男は片腕にギブスを付けていた。
 腰を曲げた男が立ち上がる、その高さには威圧感があった。

「うかうか寝ていられんでごわすな……」

 パチュリー様が男から距離を取った。
 もう一人、紫の魔女が飛び降りてきて、向こうは二人になる。
 遠くから矢を放った人物も、聞き覚えのある声で私の渾名を叫びながら、こちらに向かって駆けて来ていた。

「なるほど……小悪魔、あなた逃げて仲間を待っていたのね?」

 パチュリー様がジト眼で睨む。
 私にそんなつもりは全く無かった。
 ただ懸命に逃げてると、たまたま塔に来たってだけで……あぁ、でも私のパーティには違いない。
 私なんか放っておいていいのに。
 もう、物語は決まったっていうのに……。

「エイリンが弓を引いた相手に、間違いは無いでしょう」

 輝夜さんもいた、ウドンゲさんも、てゐさんもその後ろに隠れながら。
 たくさんの人形達を連れたアリスさんも夜空から降りてきた、これで多勢に無勢。だけど――。
 
「預言者に牙を剥くか……あなた達雑魚が幾ら集まっても、この世界の私に勝つことは出来ないわ。解ってるんじゃない?」
「要するに私達は勇者さんが立ち直る時間を稼げばいいのだから、勝たなくてもいいのよ」
「そうでごわすな」
「賛成よ」

 私は、ごめんなさいと呟きながら涙を落とした。
 魔王は勇者にしか倒せない、みんなそう思ってるんだ。
 だけど、そのエンディングは私にとってはただのバッドエンドであり……苦労して勝っても何の価値もないんだ……。

「みんな……違うの。私は期待に応えられないよ、どんなに待っても無駄なんだ」
「優しい未来を目指すんでしょう?」
「え?」
「敵をぶちのめすのだなんて、こぁちゃんらしくない戦いでごわすからな」
「ど、どういう……こと?」
「こんな腑抜けた物語に殺伐としたラストは似合わないわ。ねえエイリン?」
「はい! 勝ち負けじゃありません! こぁちゃんが目指す未来に向けて、私達は力を合わせるのです!」

 テンションが高いのが余計惨めに見えた。
 もう幾ら頑張っても、何をやっても、あの子と私が目指したエンディングにはならないんだよ。
 ……水を差すようで、さすがにそれは言えなかったが。
 身体が痛い、苦しい、何だ、私、こんな情けない奴だったのかな……。

「で、どうするの? 全員で私に攻めてくるつもり?」
「いいえ、守るのよ。あなたもこの子も出来るだけ傷つけずに」

 サマーレッドを合図に無言でみんな散った、それは神宝を駆使した、人形を駆使した、弾幕と肉の壁の防衛線だった。 
 私を守る為に、私に近づけさせないように、全員で一つの結界を作っていた。
 総力で攻めればもしやという場面が作れるかもしれないが、彼女達はラインを守る事だけに徹していた。
 サラマンダーシールドを中心に、ウドンゲさんが、魔女が、骨のくっ付かないおいどんさえ前に出て私を守っていた。

 私からかけられる言葉はなかった。
 嬉しかったけど、口を開いたらごめんという誰にも届かない細い呻きしか漏れなかった。
 希望が何も見えてこない。
 このまま覚醒して、みんなには悲惨なものを見せてしまうんだろうって思う。
 私はまだ続いているこの痛みとむず痒さに、少しでも長く耐えて悪夢の到来を伸ばすだけだった。
 
「何やってんの?」

 子供っぽいけど綺麗な声がした。
 私は顔を上げて、予想通りの人物を捕捉して、あなたも来たのかと溜め息を吐いた。

「チルノさん……ミスチーさんとは上手くいってる?」
「そんなこと訊いてる場合かな?」
「ごめん……小悪魔であるうちに知りたくて……」
「ああ、覚醒しそうなんだ?」
「うん……」

 チルノさんは無言で近寄ってきて、私の手から落ちた石のようなグリモワールを拾って、捲り出した。

「あはは、頑張ったけど万策尽きちゃった……」
「何だって?」
「私の悪戯描き程度じゃ、世界は変えられなかったみたい……」

 チルノさんは何食わぬ顔で、絵本を捲っていた。
 捲るたびに紙の表面が砂のようにぱらぱらと地面に落ちていった。
 最期の頁で止まって、そこで眉を顰めた。  

「ねえ、お願いがあるの……」
「何?」
「みんなに覚醒を見せたくないんだ……出来るだけ私を遠くに運んでくれない? チルノさんなら出来るよね?」
「あぁ?」
「私、立てないんだ、でも、みんなの気持ちに少しでも応えたくて、だから、私が誰にも危害を加えないところに逃げれば――」
「このハートマーク、縁取りと中の色が微妙に違うね、これをあんたが描いたの?」
「お願い、もう時間が無いの!」

 ――頬に、いや頭に向ってパンと音が響いた。
 殴られたと理解するより痛みが先に来た、口の中が切れていた、鈍痛がじわじわと歯茎にまで伝わってくる。 
 
「あんたが描いたのって、これ?」

 チルノさんはもう一度訊いた。
 
「はっ! これが悪戯だって? あたいにあんだけ格好良い台詞言っといて、あんたの悪戯は教科書の偉人に髭描いたレベルかい!」

 それは痛みより私に効いた。
 怒りに近い感情が胸に湧いたが、それは今までのような破壊衝動を伴うものではなかった。

「幼児だって紙とペンを見せれば、何も言わなくても一から悪戯書きを始めるさ。それなのにあんたは他所様の世界にちょっかい出しただけ、笑っちゃうね、ちゃんちゃらおかしいっての!」
 
 チルノさんは台詞通り声をあげて笑った。
 私は勝手に口が開いた、それは私がまだ色鮮やかな感情を持ってる証拠だった。

「チルノさんに何が解るんですか! 私の気持ちの何が解るんですか! 私がどれだけ苦労してその絵本にピンクのハートを描いたか、私がどれだけの意味をそこに込めたのか知ってるんですか!?」
「これじゃ、辛子入りコロッケの方がよっぽど驚きがあるって事実を言っただけだよ」
「だってクレヨンは……ほら、こんなのですよ!? こんな小さいので他に何が描けるって言うの!?」
「その発想が小さいってんだ」

 チルノさんは懐から取り出したペンをグリモワールに強く差そうとして、結局、折れ曲がってしまったペンの先を呆れて見つめた。

「念の為やってみたけど、他の物は受け付けないみたいだなぁ。最もそんなのが通用したらちっとも面白くないけどさ」
「面白い? あなたはこんな状況を面白がっていると言うの?」
「当たり前でしょ?」
「あ、あ、当たり前って!」
「こんな小さなラクガキでは誰も震えないよ。もっとスケールの大きい悪戯をしよう。悪戯が求めるのは痛みじゃない、驚きのでかさだ」
「……驚き?」
「いいかい、それをあたいに教えてくれたのは――」

 私の頭の上にチルノさんの手の平が降って来た。
 そしてそれは音が鳴るくらい強烈だった。

「――あんただ!」
「いっ!?」
「目が覚めた? 思い出してよ、悪戯はサプライズ、あたい達はサプライズメーカー!」
「……サ、サプライズ?」
「神気取りは卒業、直接的な干渉なんて考えるな、あんたはこっちの世界の住人だ、こっちから向こうに届けてやれ!」
「え、え、何を?」
「メッセージに決まってるじゃんか、神様に伝えるなら絵本に浮かび上がるくらいのでっかい奴を作るんだ」
「ま、待って、意味が解らないの。私に何をしろっていうの?」
「ヒントはとっくに出してるよ、むしろ、あんたが悩むのはそれを気付いた先にある」
「どこ!? ヒントどこ!?」
「あー、あっちがピンチみたいだ。自分で見つけた方がいいよ、後に繋がるからねきっと。それじゃチルノ二等兵は援軍に行って参ります!」

 直立不動で敬礼を決めると、チルノさんは草原を走った。
 リズム良く腕を振って走る姿からは苦境を感じさせない、チルノさんはこれから起きる何かに期待してるように見えた。
 
「何を……しろって……」

 不思議な事に波が引いていた。
 あれほど私を苦しめていた覚醒の予兆は、零とは言わなくても、かなり控えめになってくれた。
 チルノさんは私の中の何かを埋めてくれた。
 私は自分を恥じた。
 万策尽きたなんて思いを抱いていた自分を恥じた。
 神気取り……確かにそうだった。
 私は世界のシステムを理解してから、グリモワールを通した干渉方法ばかり考えていたんだ。

 システムが見えたから、今更、神気取りなんて馬鹿みたい。
 みんなと私に線を引いて、もう物語は終わったんだよ、なんて何様ってやつだよ。
 私がやってきた戦い方は違った、私はグリモワールなんかに頼らずに世界に一人の勇者として戦って来たんじゃないか!

 立ち上がった。
 落ち着いてみると夜空は綺麗で、涼しい風が出ていた。
 それから歩き出した、当てがあるわけじゃなかったが、もっとこの世界を見ておきたいと思った。
 私がこの世界の一員である事を、私に理解させたかった。
 扇状に広がる防衛戦は、チルノさんの参加で活力を取り戻したらしい。
 高い声がわぁーっと上がっていって、その期待と希望は私の胸にまで響いた。 

 月の下を歩いていて、思うところがあって止まった。
 チルノさんのヒントが何であるか、今ちょっと掠った感じがした。
 それはたぶん、私がこの世界の一員として考えを改めたから気付いたことだったと思う。
 こちらから向こうに届くメッセージ……。
 神様に伝えるなら大きな……。
 私はチルノさんとの会話で気になった部分を、腕を組んで歩きながらぶつぶつと反芻していた。
 外では戦闘中なのも忘れて、自分の世界に篭った。
 きっとグリモワールの視点を持ってた私には解らなかったことなんだ、世界の一員としてちっぽけな存在として神に伝える技って何だろう?
 まだ足りてない……他のヒントは、紙とペンか?
 うーん……。
 私が辺りの風景を見回し、その目が遠くにある十円ハゲを見つけた時に、真っ暗だった頭の中は急な輝きを覚えた。
 紙とペンがあれば……スケールの大きな……神様に伝えるなら……チルノさんがくれた点が線に繋がっていく。
 立ちくらみがしそうに大きな光だ。

「はは、これはちょっとスケールでかすぎ……」

 人が作るのに人ではない視点がいる図形。
 遥か天空から見下ろして、初めて一つの意味を持つ図形。
 神へのメッセージ、それは人類が神に挑んだ最古の悪戯なのかも知れない。

 震えが走った。
 あの人、背景ごと世界を変える気だよ。

 地上絵だ――。

 紙が大地なら、私達がペンになればいい。
 チルノさんは絵本の世界を背景ごと変えて、向こうに届ける気なんだ。
 出来るんだろうか?
 しかも、それにメッセージを込めないといけない。
 ああ、でも私は点と線だけで表現できる世界を知っている、それが三人の――あの子と私とパチュリー様全員に届くものだと知っている。
 考えただけで高揚感があった。
 まるで今までが、この悪戯のための前フリみたいなもんじゃないか……!
 人数がいる……それから道具と――あとは時間の勝負になる!
 
 ノッた!!

 私はチルノさんの名を叫びながら、防衛線に走った。
 チルノさんが振り向いたら、アリスさんの名前も叫んだ。
 駆けつけた二人に、自分がついさっき思いついたことを説明した。
 チルノさんはにやりと笑った後で「穴を掘るシャベルなら、得意とするミスチーから借りな」と言葉を残し、戦線に戻った。
 私はアリスさんから人形を十五体借りて、うち十体をシャベルの運搬に、残りを私の悪戯の下準備に付き合わせた。
 全員に頼み込み、防衛線をゆっくりと東に移動してもらう。
 草が無く、大地が露出している、私達の紙の上へ。

 結構な距離を走り、目的地に辿り着いた私はぎょっとした。
 十円ハゲは直径100m近い円だったのだ。
 これはちょっとでか過ぎと思ったが、逆にこのくらいでかくないでどうするのだと、気合を入れなおした。
 穴を掘る位置に、小さな窪みで印を付けていく。
 始めはそれを爪先で行っていたが、土は柔らかく、数字を書くなら手の方が早く正確だと判断した。  
 爪の間に土が入って真っ黒になったが、気にすることではなかった。

「シャベルキタヨー!」

 蓬莱人形を先頭にシャベル運搬組が帰ってくる。
 中には幾つかスコップもあり、力の弱い人形はこれを持って作業する事に決めた。
 私は先に、目印の穴を全てつけ終わってから、人形達にそれらを掘るように指示した。

「穴は浅くていいよ! 数字による大きさだけに注意してー! 特別に大きくする場所は、あとで私が掘るからね!」

 黒い土はさほど硬くなく、作業は幸先良い滑り出しになると思われた。
 なのに、少し掘ると石がごろごろ出てきて、これを取り除くのは大変な作業だった。
 足でがつんとシャベルを押し込んだ時に、でかい石にぶち当たってたりして手が痺れることも多数あった。
 人形達も同様に苦戦していた。
 石をどうするのか聞いてなかったよと、一々私に訊きに来る人形。
 自分の身体より大きなシャベルに振り回されて、掘った土があらぬ所に飛ぶ人形。
 その土を頭から被って、喧嘩腰に相手に迫る人形。
 それを仲裁に来た人形が持ち場を離れたせいで作業がぐだぐだになったりと、ものの数分で最初の勢いはどこに行ったのやらという感じだ。
 やはり、アリスさんは偉大らしい。
 だからといって、アリスさんを防衛線から外すのは無理である。

 私は防衛線を見た。
 チルノさんが張ったヘイルストームのおかげで、上空からの進入は困難になっている。
 飛行速度の遅いパチュリー様なら尚更だが、だからといってこちら側で唯一空を飛べるアリスさんを外すわけには行かない。
 地対空は豊富だが、空対空にはアリスさん及び彼女の人形達と、自ら浮遊できる輝夜さんの神宝に頼るしかない。
 その人形も私が半数借りてしまっているため、戦力は以前より落ちていた。

 考えるだけ焦った。
 私は掘り続けながら人形達を一喝したが、あまり効果はないようだった。
 精神論は嫌いではないが、この状況が気合だけでどうにかなるとは思えなかった。
 作業量的に――かなり簡素な絵を目指してるとは言え、この進行速度では全てを埋めるのに三時間はかかる。
 いや、死ぬ気でやって二時間。
 これ以上縮めるのは不可能に思えた。

 風は出ていたし夜は涼しいが、それでも汗だくになりながらシャベルを押し込んでいると、誰かの声が聞こえた。
 振り向くと、何処かで見た服装だ。
 私とそれから人形達は一時手を止めたが「手が止まってるよ!」と他ならぬ走ってくる人物に言われてしまったので、慌てて動かした。
 複数のシャベルを背中でがしゃがしゃ鳴らしながら、息を切らして私の傍までやってきたのは、ミスチーさんだった。

「ういっす!」
「う、ういっす?」
「援軍に来たよ! さあどんなどでかい穴を掘るんだい!?」

 人形達は一言も行ってなかったが、どうやら人形達と一緒にミスチーさんも宿を出ていたらしい。
 それで、速度について来られなかったのかスタミナが切れたのか、彼女一人だけ到着が遅れてしまった。
 人形達の首の傾げ方を見るに……全員気付いてなかったというオチじゃないだろうか。
 あ、謝り出した。

 私は照れるミスチーさんに(というか何で照れてるんだ)掘る穴についての説明をした。
 ミスチーさんは「なにそれ不満」といった表情で作業に向ったが、いざ掘り出すとシャベル二刀流の速度は群を抜いて速かった。
 良い援軍を得て、完成予想時間も上方修正できそうだ。
 この時、防衛線から外されたてゐさんが、半泣きで走ってきて私達の作業の手伝いに合流した。
 また不幸な目にでもあったんだろうか……。

 突貫工事というか、本来一日かかっても出来そうにない作業を、月明かりだけで休み無く続けるのである。
 ずっとシャベルを握っている私の手も血の気が失せてきたし、人形達の動きも疲れで鈍くなってきた。
 防衛線の方はまだ大丈夫そうだったが、ヘイルストームがいつ限界を迎えるとも解らない。
 対して無尽蔵に魔力を引き出せる、魔王パチュリー様は余力を残してあしらっているように見えた。
 このまま長引いて、それで覚醒を迎えるならば別に、といった考えなのだろう。

 ある意味、総力戦だ。
 戦っているみんなも、手伝ってくれてるみんなも、一つの目標に向って邁進している。
 疲れを感じるのは仕方ないが、私が疲れたと言うのだけは絶対に避けようと思っていた。
 それは士気に関わる。
 勇者として、期待を背負うものとして――やってることはへたれだが、例え穴掘りでも力尽きるまで弱音は吐かないと決めた。
 
 作業は黙々と進んでいるが、傾いた三日月は地平線に落ちようとしている。
 迫る時間を突っ撥ねる様に、私は何度も激励の声を上げた。
 人形達がどんな気持ちで私の声を聞いていたか分からないが、てゐさんだけは律儀に声を返してくれた。
 あまりに地中の石にぶち当たるんで、シャベルの先が欠けてきた。
 私はミスチーさんから予備を貰おうとしたが、既に予備はみんなに渡っていて無かった。

 落胆は誰にも見せずに小走りで戻る。
 汗が散った。
 あぁ、猫の手でも借りたい忙しさってこういう時に使うんだろうなぁ。
 そう思って横を見ると、馬の手、というか黒い蹄があった。

 ……なんで?

 そいつは振り向いた。
 ピンクの首に黒い包帯を巻いた馬は、もちろん私の愛馬ラクトガールだった。
 農作業中に呼び止められたおじさんのように、朗らかに私に手を振ったラクトガールは二本足で立って土を掘るのを再開した。
 私は自分の置かれてる状況もすっ飛ばされてしまい、呆然とシャベルを突き立てる馬面を見ていた。
 
「どうした、キティ。土を掘る馬はそんなに珍しいかい?」

 珍しいのはお前の存在そのものだ。
 いきなり流暢に喋り始めた馬に、突っ込む言葉も無い。
 キティって――あっ、クソッ。
 首を十回くらい振って、やっとこさ我を取り戻した私は、最期に頬を叩いて作業に戻った。
 付き合うだけ馬鹿らしい、ファンタジーだもの。
 しかし、気になる。
 こいつ、どうやってシャベルを持ってるんだ?
 何だか見たら負けな気がするが、誘惑に勝てなくて横目で流し見た。

「悪くないハンドだぜ」

 見るんじゃなかった、蹄にくっついてた。 
 返ってきた返答も馬鹿にされたようで、苛立ちが募ったが、そんな場合ではないのだと移動しては次の場所にシャベルを立てた。
 他の人形達の反応は淡白だった。
 喋る馬なんて存在しないように作業を続けていた。
 そもそも人形達が喋ってるんだから、ぬいぐるみが喋ることだけに疑問を抱くのはおかしいのかもしれない。
 しかし、てゐさん、ミスチーさんと、一般人が何一つ反応を示さないとは……みんなして肝が据わってるのか、それとも不感症なのかって、この突っ込み前にもやったなぁ……。

「いや〜、これでも生きてた頃はこんなぬいぐるみじゃなくて、ちゃんとした身体があったんだぜ?」 

 聞いてないのに、流れるように自分語りに入られた。
 忙しいんだって、誰もお前の設定なんか知りたくないんだってば、うわ、こっち来たよ、近い、近いです、離れ――。
 偶然を装って私の近くの穴を狙うのは止めろ! ばればれだ!
 うわぁあ、聞こえない、聞こえないー!

「俺、現世への強い執着のせいで、成仏出来なかったんだよなぁ」
「…………」
「家に帰りたかったなぁ……」
「…………」
「その日の晩飯はどうしても食いたかったんだよ、ちぇ、惜しいことした」
「なんじゃそりゃ!?」
  
 突っ込んで目頭を押さえた。
 くそぉ……! こんな時に私の律儀な性格がボケを放置できなかった。
 絶対突っ込んでやらん! お前には金輪際突っ込んでやらんからな! シャベルを突き立てる! 怒りに任せて掘る!
 掘り過ぎて埋める! クソッ! なんて時代だ!

「晩飯に人参グラッセが出てたんだ。メインは肉料理だったんだが。あー、人参が好きだったせいでこんな身体になったの?」
「疑問系ほんとにやめて……反応したくなるから……」
「で、勇者さんは、どのくらい人参が好きなんだ?」
「……緑黄色野菜が好物なのを前提で話しを進められるなんて生まれて初めての経験でむかつく」

 困ったな、どうしてか放置出来ない。
 馬も私も手は休まずに動いているから、効率は落ちてないんだけど……あ、馬が加わった分、逆に助かってるのか。
 ラクトガールとは、今までウインク一つで意思疎通出来てたし、元々相性は悪くないんだろう。
 ついでに命の恩人でもある……。
 そうすると、あまり邪険にして機嫌を損なうのも何かな、という気がしてきた。
 みんなの視線が気になったが、全員穴を掘るのに夢中で、私達を見てる者はいなかった。

「別に、私は人参は好きでも嫌いでもないかな」
「中途半端だぜ」
「普通と言ってよ。ああ、でも子供の頃は苦手だった、苦味ばかり感じてたんだよね」
「甘いものが好きだったんだな」
「って知らないでしょうが君、甘いものは好きだけど。私偏食気味だったから母さんが煩くて煩くて、毎日しつこいくらい人参出されてたな」
「うーん」
「でね、私がこんな感じの渋い顔を作ると、私の父さんが母さんの目を盗んで皿からこっそり人参取ってくれてたんだ」
「母の愛、台無しだな」
「もう時効だからいいのだよ」

 話してると、いい感じに緊張がほぐれていく。
 父さんがフォークで私の人参を刺す時の無表情と、それが母にばれず成功した時の含み笑いを思い出して私は笑った。
 思い出は黒くなった心の油をさらさらの液体に戻してくれて、エネルギーを効率良く燃やしてくれた。
 ちょっとした気持ちの変化が、疲れを後ろに回してくれた。

「……いや、その親父は単に俺みたいな極度の人参好きで、自分の分の人参だけじゃ満足できなかっただけだと思うが」
「君はとっても失礼な上に、空気が読めてない馬だね!」
「言うなよ、自覚ないのに……」
「ないのかよ!? これを機会に頑張れよ!」

 ひとしきり突っ込んでから、頬に当たる風が強くなったのを感じて、瞼に落ちそうな汗を拭き、上を見た。
 上空のヘイルストームが強くなっている。
 無理して強くしないとパチュリー様の突破を許してしまうくらい、みんな疲弊してるんじゃないのか。
 そんな考えは私を不安にさせた。

「例えばなぁ、人参だって実は親父が好物だから、勇者さんの好き嫌い関係無しに、たまたま多かっただけかもしれないぜ?」

 まだ言ってるのか、こいつ。

「そんなわけないでしょうが。ほら、手が止まってるよ! 私語は慎む!」
「シゴは慎み深く生きようしてるんだが」
「意味わかんないよ。それより右側の人形達がちょっと混乱気味だから、そっちの指揮に行ってもらえない?」
「俺は別にハンバーグが好物だったわけじゃないんだよ」
「え?」
「あ、じゃあ……行ってくる」

 シャベルを持って小走りに去っていくラクトガールに、私は待ってと言いかけて口元に手をやった。
 まさか、そんなわけあるもんか。
 確かにあの日のハンバーグの付け合せは人参グラッセだった。
 ハンバーグと同様に冷たくなって、表面のバターが固まった人参グラッセだった。
 でも、ハンバーグの付け合せなんて、そんなもんでしょうに。
 ……そうだよ。

 穴を掘る。
 別に珍しくない。
 良くある話が、私と被っただけ。
 穴を掘る。
 ついさっき、何でもない食べ物の好みの主張が終わっただけ。
 それだけ、本当に……。
 手が止まる。
 何で辛いんだろう。
 せっかく上手くいってたのに。
 くだらないこと言わないで欲しいよ。
 たった一言で私もどうかしてる。
 今の私は作業の完成だけを考えてないといけないのに。
 みんなの為に、あの子の為に、他に考え事なんてしちゃいけないのに!

 どうして、今なの――。
 
 ……立てたシャベルに寄りかかる私に、黒い影があった。
 ピンクの馬は私よりも小さかったが、見た目よりも大きく見えた。

「何で……戻って来たの……?」
「こっちは人数足りてるから、向こうに回れって向こうで言われたんだぜ」
「そうじゃなくて」
「おう?」
「……やっぱり、いい」

 不機嫌で不安定な感情を抑制すると、顔には無表情が残った。
 愛想が悪くなった私の傍で、ラクトガールは懸命に穴を掘っている。
 私も掘っている。
 円の中心に近いところで、私達は何も語らずに、絵の中で一番肝心な部分を掘っていた。
 そのうちラクトガールの手が止まり、止まって夜空を見上げ、探し物が見つかったらまた視線を地面に落とした。

「何掘ってるかと思えば、お前、こんなもの……」

 声色は決して変わってなかったが、敬称がお前に変わっていた。
 一枚フィルターを通していた声が、驚きで素に戻ったようだった。 
 気にしないフリをしてたら、ガンと思い切りシャベルを石に打ち当ててしまい手が痺れた。
 私はもう何だか良く解らなくなった頭で、我武者羅に石を取り除きながら涙声のラインを超えないうちに私の声を絞りだした。

「……さっきから……酷いじゃない」
「ああ」
「ああじゃないよ、帰ったら先にただいまって言わないとダメなんだよ……」
「悪い、ただいま無しで脅かしに行くのは反則だって決まりだったな」

 そんなこと言っても、父さんは約束なんて守る気がないんだよ……。
 私の誕生日の時だって、クレヨンをくれたときだって不意打ちだったのをちゃんと覚えてるんだから。
 驚いて、怒って、すぐに笑顔になって、抱きついて許して、あぁ、やっぱり私は甘かった。
 今日こそ怒ってやらないといけない。
 このしゃっくりが止まれば、すぐにでも口を開いて罵ってやる。
 すぐにでも――。

「……父さん」
「うん」
「何で死んじゃったの?」
「うん……」

 生きてて欲しかった。
 せっかく会えたのに、嬉しいのか、悲しいのか、そんな単純なことが判断できない。
 瞼に落ちる汗を拭う。
 父さんは。母さんに会えば良かった。
 そしたら、こんなのじゃなくて、いっぱい素敵な会話が出来ただろうに。
 
「父さんな」
「……」
「死ぬ気は全く無かった。誇りで死を選ぶ気概なんて持ってない。ただ、落ちてるときにさ、ここで飛んで逃げたら明日から飯食うのに困るなぁって、そう思った所がもう地面だったんだよ」
「……」
「頑丈さには自信あったから、何とかなるはずだったんだけど。まさか、下に石が突き出てたなんて土壇場で運が悪いよな〜」
「父さんは……どうして落ちたの?」
「あ? 遠くのロープが切れそうに見えたから戻ってたら落ちたんだよ。お前の靴の砂利なんて全然関係ないって」
「……本当?」
「嘘吐いてどうすんだ」
「もしかして、父さんは、それを私に伝える為に来たの?」

 父さんは私の言葉に対して、軽く頭を横に振った。

「俺さ、死ぬ間際には妻の名前を叫んだり、走馬灯で娘のことを思い出したりして泣くのかなって思ってたんだ、でも、俺の場合はそれが三人で食う晩飯だった。俺が朝出かける前に母さんに予約しておいた、晩飯のハンバーグと人参グラッセだった」

 父さんは一度も手を休めなかった。
 土に書いた私の印なんて見てるかどうか――もう見る必要もないのだと解った。
 私の手が殆ど止まってたから、私の分まで父さんは倍頑張ってた。

「いい匂いがするから、自分の家に帰ったんだ、そしたら誰も相手してくれないだろ? ああ、死んだんだなって思って、しばらくどうしようかとうろついていたら、母さんとお前が冷めたハンバーグと人参を黙々と食べ出したんだよ、泣きそうな顔でさ――無茶苦茶胸にきたよ。もう誰の好物でもない人参の山が、俺が予約したばっかりに、娘の嫌いな人参が俺の分までいっちまったんだ……なぁ、早く取ってやれよ俺って……美味いって笑うのが俺の役目だろって……そう思ったら、足が地面から離れなくなった」

 父さんは、私に喋るというよりは回想を言葉にしてるだけに見えた。
 私は父さんの独白を耳にしながら、シャベルを手に穴掘りを再開していた。
 今は遠い国と、ボール一杯の人参グラッセの顛末を思い出していた。

「人参はね、余って捨てちゃったよ」
「すまん」
「私が謝るところ」
「すまん」
「あの時、母さんが殆ど食欲無かったから……今なら全部食べれちゃうのに、もったいないことしたね」
「……大きくなったな」
「まあね」
「綺麗になった」
「やめてよ」
「親が無くても子は育つって奴か、もうキティなんて呼べないぜ、レディ」
「それはしばらく会ってない、生きてる人が言う台詞」
「死んでも大して変わらないよ」 

 涙は引っ込んでくれた、今はこの夜空みたいに、私の心は青臭いほど純粋に晴れていた。
 やり直せない箇所を、父が戻ってきて違うと言ってくれたのだ、それがもう嘘でも本当でも構わない、父の気持ちで私の心は晴れたのだ。
 晴れて良かった、会えて良かった……。

 父さんは、私との会話は気恥ずかしいのか、遠慮しちゃってるのか、生前のようなお喋りではなかった。
 黒くて丸い眼は、たまに私を見てすぐに土に戻る。
 父ではあったが、やはり昔の父ではない。
 姿形のせいではないのだけど、二人の間にある年月の溝は深くて、幼い私の代理として私が話してるような感じになってしまうのだ。

「大きくなったよなぁ……」
「二回目だよそれ、私ね、もう父さんとお酒だって飲めるんだから」
「おお……! うぅ、その台詞はかなり効くぜ……!」

 大袈裟に、とても大袈裟に父は泣く真似をした。
 本当に結構効いていて、誤魔化しているんだなって分かる自分がちょっと嫌だった。
 私と父は十数個の穴を掘り終えて、次に移動する間は防衛線の方を見ていた。

「どうして絵本の中にいるの?」
「これにしか入れなかったんだよ。クレヨンの縁じゃないかな……しかし、絵本の中でも道化役なんて、つくづく縁があるよなぁ」
「だったら、父さんが勇者役をやれば良かったのに」
「いやぁ、柄じゃない」
「黒の方の話は、父さんが教えてくれたのを元にしてるんだから、父さんでもいけるんじゃないの?」
「おいおい、よそうぜ、ピンクで長髪の親父なんてビジュアル的に辛いだろう」
「そうかな?」

 私は素直に引いた。
 父が逃げようとしてるのが見えたから。
 父はしばらく口を噤んでから、思い出したという感じで顔を上げると私に話しかけた。

「お前んところの図書館は凄いな。こっちに来た時はびっくりした。魔界の王立図書館でもあんな広さはないぞ」
「……ということは、やっぱり黒の本はこっちの世界に来てるんだね?」
「いや、私がいる場所からじゃ前の本棚しか見えないんだけどな、たまにお前が通ったりするのをわくわくして見てた」
「なんか、やらしいなー」
「どこがだ、実に健全じゃないか」
「図書館に来たのは、いつだか解らない?」
「いつだったかは解らない――が、その時はすぐに拾われて、カバーをかけられて、しばらくして抱き締められて奥の棚まで持っていかれた」
「パチュリー様だね」
「温かくて柔らかかった、お前は実に良い主人に恵まれた」
「……母さんにどやされるよ」
「前言撤回させてくれ」

 たぶんという範囲だったが、私は理解できた。
 あの時、パチュリー様が電波と言う建前で開いた外の世界ってのは、人間達の世界じゃなくて魔界の方だったんだ。
 ピンクのクレヨンもおそらく一緒に来たんじゃないか、その他にも何か流れて来ている物があるかも知れない。
 でも、どうしてそんなことをしたんだろう?
 どうして私に隠してるんだろう?
 それに、あの魔法は確かに失敗していたはずなのだ、それを確認して動いてる、私だってそこまで無茶はしない。

「そろそろ防衛線が危ないな……」

 父さんに言われて、私は空を見ずに作業の進み具合を確認した。
 西側はほぼ完成していた。東側はややきつい、南は頼りなく、北は話にならない。
 一番大事な中央部分は、優先的に私達が完成させていたが、この不揃いさでメッセージを伝えるのには無理があった。
 今度は上空に目をやった。
 晴れているのに夜空に負けじと輝く雹の粒達は綺麗だった。
 その小さな粒が、私の肩に当たった。
 髪に手をやると濡れていて、そこに形を保ってる雹が何個か確認できた。
 雹のコントロールが乱れているんだ……。
 結界として頑張ってくれてる、チルノさんの限界が近いのかもしれない。
 
「頑張ろう、頑張るしかないよ……! さあ、次は北へ!」
「いや、頑張るのはもちろんだが、このままじゃ無理だ。計画の変更が必要だな」
「……変更?」
「点だけにしよう、もう線は引かなくていい」
「そ、それじゃ、何の絵か解らないって! 今だって限界ギリギリの作戦なのに!」
「ちゃんと俺が解ったじゃないか」
「そりゃあ、父さんは――」
「俺の娘が解らないものか、線はあいつに引かせろ」
「……」
「その方が、悪戯は綺麗だ」

 点を整理したあと、線を引いて完成させる予定だった。
 線を引く作業はそれほど困難ではないが、メッセージとして重要な工程だった。
 僅かな時間を惜しんで、それを省いて良いのだろうか。
 ……解らない。
 私が決断に迷っていると、父はシャベルを置いてこちらに歩いてきて、私の肩に手を置いて雹を掃った。 

「凄いことなんだぜ、お前」
「え?」
「支配なんてしなくても、命令なんて出さなくても、お前の為にこれだけの人が動いてくれてるんだ。お前はもう十分に強い」
「強いって?」
「ああ、もう十分に強かった。お前を縛ってる鎖は、僅かに四階を上がったところで自分で断ち切ってたんだ。俺の鍵なんて必要なかった」
「……父さん?」
「もう少しだけ時間をくれ、お前の力を良く見ておきたい」

 芝居じみた台詞は、何かのドラマのような気がした。
 だけどそれは現実で、父さんは目を細めて嵐の向こう側を見ていた。
 嫌な予感がして私は止めようとしたのだけど、父は「待ってろ」と一言で私を制した。
 お別れの雰囲気だった。
 心臓がぎゅって縮んだ。
 夜空の下で輝く雹は、父さんを送るラメ入りの紙吹雪に見える。
 父は私を見つめ、それから黒い包帯を撫でて、笑った――笑ったような気がした。

「これがお前が持ってる一番大きな力だな。これを背負ったまま知恵の悪魔とやらが何処までいけるか試してみるといい」
「うん……」
「それから、お前が笑顔で戻れるようになったら、いつか母さんにも会ってやって欲しい」
「はい……」
「今日言いたかったことは、それだけだ」
「父さん」
「ああ」
「母さんに伝えとくことある?」
「あーっと……せっかくの飯、食えなくてすまんな」
「それはいいね、喜ぶと思う」
「そうか?」
「幸せになれよとか、俺のことは忘れろよとか気取ってたら殴ってたよ」
「思いっきり力じゃねえか、それ」

 私の笑い声だけがした。
 昔から空元気だけが得意だった。
 父さんは円の外に向けてゆっくりと歩いていた。
 何をするのか聞かなかった、ただ、少しでもこの時間が延びてくれるのを祈った。
 私は左斜め後ろから、父さんの邪魔をせずについていった。

「最初にお前を乗せたとき、酷く頼りない娘に育ったものだと落胆していたものだが……」
「ひどい〜」
「落ちてくるお前を救ったときには、全く逆の感想になっていた、わからないもんだね」
「どんな感想?」
「象みたいに重かった」
「それは重力加速度のせいだと思うよ……」
「重くていいんだ、これだけ背負ってるのに重くないはずがない。塔を踏破したお前には十人分のぬくもりが乗っていたのだろう」
「十一人だよ、父さんも入れて」
「そうか、じゃあ、次が勇者にとって十二番目、最後の試練になるのだな」
「知恵の悪魔にとっては最初の試練、私達はここから始まるんだ」
「前向きなんだぜ」
「強がりなんだけどね」
「そうか」
「……ん」
「どうだ、捕らわれの姫は救えそうか?」
「当然、勇者が姫を救えなくてどうするの」
「強がりだな」
「実は、これは本気なんだ」

 攻撃の激しい所へ、西側を越えて円の外に出る私達を、てゐさんが心配そうに見てた。
 雹の壁の向こうに、ピンクのネグリジェが見えた。
 敵陣に肉薄する勢いで、パチュリー様も攻めているのだ。
 ここが攻め時だと判断したのだろう、事実、みんなからは以前ほどの力を感じられなかった。
 私はお腹の底から激励の言葉をあげたが、届かせるには周りの音が大きすぎた。
 悲鳴が聞こえる、誰かが落ちたのか。
 迎撃に動き回る神宝とアリスさんも疲労していて、とてもカバーが足りていない。
 地上から支援する弾は、パチュリー様に届く頃には速度が落ちていて回避は容易だった。
 もう……すぐだと思う。

「隣で見ていられなかったのは残念だが、悪戯の成功を遠くで祈っているよ」
「任せといて、父さん」
「お前の力で、お前の知恵で、閉ざされた魔女の鍵を解いてやれ。その為の時間は俺が作ってやる」
「カッコイイね、でも似合わないよその姿じゃ……」
「何だお前、泣いてるのか」
「無粋だなぁ……失敗しそうだから心配なんだってば……」
「言ったはずだぜ、俺のエンジンは月まで届くって。燃料もお前からたっぷりもらったし、まず安全」
「だよね……」
「お前を空中でキャッチした時から、これは俺の人生のやり直しだって思ってんだ、最後くらい上手く纏めるよ」

 父は強かった、ピンク色の間抜けなぬいぐるみの背中が、今は本当に父さんの背中に見えた。
 私はここに来て初めて「何をするの?」と小声で尋ねた。
 その台詞は白々しくて、ずっと前から計画されていたように聞こえた。
 父さんは月を遠くに運ぶんだと言って夜空を指差してから、お前のことも宜しく言っといてやるよと付け加えた。
 
「時間を稼ぐ為に、パチュリー様を引き離すんだね?」
「ああ、飛行速度だけはとろいみたいだからな。地平線の彼方まで飛ばせば結構な時間稼ぎになると思うぜ」
「パチュリー様に怪我がないようにね」
「分かってるよ」
「……何で突っ込んでくれないかな」
「俺のことは心配するだけもったいないからだ」

 父さんは二足歩行を止めて、四足で地面に立った。
 それから火を噴いて、一メートルほど地面から浮き上がった。
 間抜けな光景だった。
 最初にこれを見て覚えた感想が胸に蘇る。
 叩いたり怒鳴ったり、酷いことしたなって、涙ぐんだままちょっと反省した。

「照れちまって、一つ大嘘を吐いた」

 父さんは言う。
 草むらに風を落としながら。

「最初にお前を乗せたときに、頼りないと思ったって感想、あれは全部嘘だ」

 バーナーが噴き上げて、父の言葉を轟音で隠す。
 父さんはそれを頼りにしていたはずなのに、私には全部はっきりと聞こえていた。

「嬉しくて嬉しくて、つい走り過ぎちまったよ、ごめんな」

 私は父さんに見えない位置で頷く。
 それから父さんの隣に動いて、首筋にそっとキスをした。
 ごわごわのちくちくで、ちっともロマンチックじゃなかったが、そんなものはどうでも良かった。
 父さんらしい感触じゃないかと誇った。

 父さんは何とも答えなかった。

 私はそれで作業に戻った。
 みんなを働かせて、私だけ父を見ているのは辛かった。
 耳を下げて走って来たてゐさんが、真っ先に私を捕まえた。
 なにかあったの? って執拗に聞いてきた。
 不安が募ってるんだなって思って、私は何でもないよと口にした。
 てゐさんはほっとして、表情を緩めた。
 
 それから、てゐさんは照れながら私にお礼を言ってきた。
 エイリン様ありがとうって、あの人が帰ってきて、ウドンゲ様も私に優しくなったって。
 それはそれはとても嬉しそうに口にした。
 私は笑顔で答えようとしたのに、一度鼻をスンと鳴らしただけで、言葉は出てこなかった。
 
 止まりかけの天空の嵐を見上げた。 
 胸の中でテンカウントを数え始めた。
 遠くでみんなの声がする「もたない!」とか「無理よ!」とか在り来たりだけど必死の言葉が聞こえる。
 ヘイルストームが完全に止まり、私達の最後の攻防が始まり、しかしそれも一瞬で崩れた。
 私は父さんを見た。 
 飛行形態で待機してた父の足から、バーナーが花火のように飛び出して辺りを焦がしていた。
 それが一瞬で大きく爆発し、巨大な火の塊になって、父さんは空に向って飛び出した。
 私のテンカウントは、そこでゼロになった。
 パチュリー様の姿が見える。
 ロイヤルフレアのまま防衛線を突っ切る三日月の魔女に、負けじと父さんはエンジン全開で突っ込んだ。
 燃え上がる夜空の色は、私が始めてこの世界にオレンジではなく、純粋なレッドを認めた瞬間だったのかもしれない。
 
 父さんの声がした。

『やり直しなんだ』

 今はもう届かぬ声で、私は頑張れと赤に叫んだ。
 視界は赤のまま大きな風が吹いて、私達を土に引っくり返した。
 熱さは無い、強烈なエネルギーだけを感じる。
 土に爪を立てていると、それが少しずつ遠くなった。
 視界がまともになった時、遥か遠くに、真っ赤な火の玉が揺れているのが見えた。
 私とてゐさんは同時に立ち上がり、火の玉を目で送り出した。
 ミスチーさんが駆けて来る。
 三人とも何も言わず見つめる。
 私だけが三人で違う感想を持っていたのだ。
 やがて火の玉は星になるように夜空に上がり、消えて本当に星になった気がした。

「……なんだっての?」

 ミスチーさんが言う、てゐさんと顔を見合わせる。
 防衛線にいたアリスさん達も、ぞろぞろとこっちに集まってくる。
 今のは、何なんだと全員が揃って同じ顔をしていた。
 私に視線が集まる。
 ずいぶんと溜めてから、私は言ってやった。

「勇者は星になったんだ」

―――――

 私が生まれたときも世界は赤かったって聞く。
 私はお腹の中にいた時間が長く、生まれた時から髪が生えていたらしい。
 父は保育器の中の私を見て、まだ動けない母さんの名前を何度も呼んでいたと、母さんは笑って言っていた。 

「じゃあ、今言った分担通りにお願いします!」

 作業を指示し、最後に頭を深く下げる。
 力ない、それでも精一杯の声をあげて、防衛線を担っていた人達は散っていった。
 シャベルが間に合わないから、殆ど手作業になる、しかも全員に疲労は見えていて、息も荒かった。
 だけど私は休みを与えずに作業をお願いした。
 あの馬は、どれくらい遠くまで飛ばしてくれただろうか……誰もがそれを口にしようとして、口に出来ない理由を持っていた。

 三日月が西の地平線に沈んだ。
 出来れば……と思っていたが、間に合わないのでは仕方がない。
 私は夜のうちに完成を目指して、みんなと声を掛け合いながら土いじりを頑張った。
 スコップを握る手が硬くなって来た、あまりに砂利が入るので脱いだ靴はもう何処にいったのか分からない。
 破れたスカートから露出した脛には、乾いた土がこびりついていた。
 それでも守ってくれたみんなよりマシな方だった。
 ひたむきな仲間達に返してあげられるのは、悪戯の成功という結果だけだ。 
 
 月が沈んでから時間の経過は解らなくなった。
 総力を挙げて掘り進めた絵図は、確実に完成へと近付いていた。
 ここまで来ると、私が何を目指しているのかに気が付く人達も出てきた。
 エイリンちゃんが「月が足りませんよ?」と親切な忠告をしてくれたが、それは必要ないんだと答えた。

 完成しても何だか解ってない連中が多数だった。
 せっかくだからということで、私と私以外に気付いた人も他の人には教えなかった。
 私達の作業が完成したという意味で、まだこの絵図は未完成だったのだから、完成を楽しみに待ってもらうとしよう。
 これがどうなるか、それは天に任せた。

 作業を終えて、全員がほっと息を吐く。喜ぶ元気は誰にも無かった。
 私だけが頭を下げて「お疲れ様でした!」と言った。無理するなと声が返ってきたが、別に無理してたわけじゃなかった。
 無理を言うなら、今すぐにでもここをパーティ会場にして、一人ずつに労いの言葉をかけてあげたかった。

 私は円の中央に寝転がって、パチュリー様の帰還を待った。
 戻ってきたパチュリー様は、やけに冷静な顔で私を見ていた。
 その姿に怒りはなく、私の愛馬の姿も無かった。

―――――

「お帰りなさい」

 私が起き上がる、土も払わずに師を出迎える非礼は勘弁して欲しい。
 他のみんなには、円の外に退いてもらっているので、今この巨大な円は、私とパチュリー様の二人きりの世界になっている。

 パチュリー様は何も言わずに空中にいた。
 私と私が描いた絵図を警戒して下りて来ないのだと判断した。
 服の一部とリボン数個が焦げたり破れたりしていたが、具合が悪そうには見えなくて一つ安心した。
 パチュリー様は私の上を取ったまま、私に話しかけた。

「引篭もって何を作ってるのかと思えば……」
「凄いでしょう?」
「術式? 魔方陣? どちらにしろ魔力の低いものが高いものを捕らえるのには無理があるよ」

 私はわざとらしく首を捻ってから。

「知ってますから、しません」

 とだけ答えておいた。
 パチュリー様は無表情のまま、辺りを見回していた。
 追い詰めた獲物が最後の武器を隠していると、詰めの部分をしくじらないようにと慎重だった。

「解ったわ、地上絵ね」
「鋭いです」
「背景を変えて本の外へメッセージを送った、なるほど良い考えだわ。だけど、どうやらこの絵は完成まで漕ぎ着けなかったようね」
「ええ、見ての通り」
「折角の地上絵も、これじゃ、えくぼかあばたに見えるのが関の山でしょう」  
「……パチュリー様にはこれが地上の絵に見えるのですか?」 
「何?」
「降りてきてもらえません?」
「ネズミでもチーズがないとトラップに飛び込んだりはしない」

 警戒してくれてるのは有難かった。
 私には、もう少しだけ時間が必要だった。
 星の下の暗い地面は、まだ何の変化も見せていなかったけれど、私には近い将来確実に何か起こるという確信があった。
 期待ではなく、確信があったのだ。
 私はその場で爪先立ちをして、両手を天に広げた。
 
「どうしたの? 白旗でも上げたいの?」
「白旗なんてとんでもない、勇者はボスからは逃げられない宿命なのです」
「まだ、勇者ぶってるなんて……」
「呆れないでくださいよ。どうあっても私はこのお話の勇者なのです、だから此処に立っているのが解りませんか?」

 パチュリー様は――浮いてるからこれは的確な言い方じゃないと思うのだけど、空中で立ち尽くしているように見えた。
 自信たっぷりのらしくない私に対して、多少の恐怖を覚えたのだと思う。
 答えを、私の腹の内を探ろうと、険しい視線で私の顔を見ていた。

 私はパチュリー様の睨みとは向き合わず、草原と十円ハゲの境を見ていた。
 おそらく……私のメッセージが伝わったなら、真っ先にそこに変化があると思う。
 幼い私の癖だ、必ず縁取りから始める。
 私は外周部分に目を向けて、パチュリー様は私の目の先を追わず、私の顔から視線を離さなかった。
 
 青くて暗い地面が揺れ、遠いその部分だけ真っ暗になった。
 唐突な変化だが、やけに地味な変化で、それは黒い油溜まりのように見えた。
 私はそれを見て、もう見張る必要はないなと視線をパチュリー様に戻した。
 外周の一部に出来た黒い縁取りは、私のメッセージが神に伝わった事をこの世界で証明していた。 

「どうやら、届いたようですよ」

 パチュリー様は眉を顰め、後ろを振り返った。
 元より暗い夜に、何も知らずに僅かな変化を見つけるのは無理だと思った。
 案の定、パチュリー様は三百六十度見回して、何も見つけられなかったことに怒りを露わにして私に怒鳴った。

「見苦しいわ、小悪魔! 最後の最後まで無策のまま時間稼ぎと言うわけかしら!?」
「そういう抵抗の仕方もあるということですよ」
「あなたの愛馬は立派だった、それがこんな馬鹿を守る為に犠牲になったなんて知ったら嘆くでしょうね!」
「犠牲? 何のことです?」
「いつまでも惚けたフリをしてなさい、間抜けな台詞が小悪魔の最期になればいい!」
「どうも理解していらっしゃらない」

 時間の無駄だとパチュリー様はスペルカードを取り出した。
 私はそのカードを見て、相応しい一枚を引くものだと感心した。
 サイレントセレナ……静かで美しいスペルで、パチュリー様のような私の憧れだったスペル。
 だけど、もうそれを発動する事は出来ないだろう。

「月符:サイレント――」

 大地に線が走る。
 
「メッセージは届いたと言いましたよ?」

 地表が黒に侵食されていく。
 縁取りされた外周から何も無い中央に向って、黒い炎のような太い線が次々と飛び込んでくる。
 パチュリー様が驚いて止まった。
 それが何かの魔法の合図であるかのように、距離を取って障壁を張った。
 魔法……四元素を必要としない魔法は、無から有を生み出す技は、悪魔の悪戯か神の奇跡になるのだろうか。
 だけど、これにはタネがあるのだから、手品に近いのだと思う。
 タネも仕掛けも無くても手品だと言い張る偉い人が紅魔館にはいらっしゃるけど。

 私は中央に立ったまま動かなかった。
 黒い炎は、今は波となり、うねり、石にぶつかり、穴で弾け、音も無く次々と大地を侵略していった。
 大雑把で荒っぽい、時化の時には海がこんな顔をするのだろう。
 微笑んで立っている私を、パチュリー様が呼んだ。
 私は静かに首を振った。
 
「誰も傷つけない悪戯だって私は出来るんです」

 誰に危害を加えるわけでもない。
 恐ろしい、誰にも抗えない力は、悪魔の視点では悪戯の下準備に過ぎないのだから。
 塊を残し重なりながら動き続ける黒は、やがて地表から光を奪っていった。
 私が立つ中央部分が残ったと思ったら、あっという間にそこも黒で埋め尽くされ、黒い服と泥に汚れた肌は闇に取り込まれて、私の真っ赤な髪だけがぽつんと黒に浮かび上がった。 
 パチュリー様は手を伸ばしていた。
 私に手を伸ばしていた、私が落ちたときと同じように、殆ど無意識だったと思うんだけど。
 今度は私はそれを掴めた。
 白くて柔らかい手は、私のせいで砂と土でざらついてしまった。
 今、ようやく自分に気が付いたように、パチュリー様は驚いて手を引いた。
 それを追うようなことはしなかった、今は手を繋げられただけで、私達には十分だったから。 

「よぉく、思い出してくださいね」 

 暗い地上に風が吹く。
 私達が掘った点の上に、一つ眩い明かりが灯った。
 二つ、三つ、四つ、次々と生まれては地上に光を噴き上げていく。 
 その輝きは素晴らしいものだった、風が吹いたのも光が生まれたエネルギーだと思った。
 パチュリー様は呆然とし、私はその輝きに見とれながら、宝石箱にしまっていた在りし日の思い出を取り出していた。

「私と、パチュリー様が最初に出会った日――」

 光の点の間に銀の線が走っていく。
 出鱈目に見えるが、出鱈目ではなくてルール通りに点を線で結んでいく。
 名も無き点に、名前と意味を与える為に、私を、私達を取り囲むように、外周からゆっくりとその図は完成していく。

「あの夏の夜も、勇者は天の頂にいたのです」

 パチュリー様が息を呑むのが解った。
 世界への畏怖と感嘆だったのだと思う。
 何も手を加えぬ自然の輝きは、どんなに飾り立てたツリーにも負けない美しさがあった。
 光は白だけではない。赤いものや黄色いもの、目を凝らさないと見えてこない揺らめく二重光などは芸術と呼べるレベルだった。
 それらの点が繋がり、星座という名前を持てば、何処にいても何処から見ても繋がりの切れぬ光の絆になる。

「星の世界へようこそ!」

 私の声で星の世界が広がっていく。
 白い輝きの点が、中央に向けて集まってくる。
 それらを繋ぎ止めていく銀の糸は、星をネックレスのように輝かしい物に変えた。
 一際大きな輝きはベガだった。
 ベガとアルタイルの間に流れるミルキーウェイは、布を転がしたようにさっと作られた。
 二つの星は白鳥座のデネブと繋がって、夏の夜空に大三角形を作った。
 白鳥座、鷲座の完成は、他の星の動物達に活力を与え、熊や麒麟が喜び、私の愛するペガサスも首を上げて啼いた。
 南に竜が、北に蠍の暴れん坊コンビが生まれ……星の世界は、最後に私が立つ中央を残して止まった。

「もう、ここに何が来るか解りますよね?」
「さあね……。広すぎるし眩しいわ。私に視力だと全体を捉えるのも厳しいよ」

 台詞に割って入るように足元に光が灯っていった。
 私と父さんが掘った穴が線で繋がっていく、父が教えてくれた勇者の姿が完成していく。
 本当は暗い星ばかりなのだが、結ばれた星達は一斉に強い輝きを放ち、主役である事を絵本の世界にアピールした。

「これが世界で最も有名な勇者の姿――」

 勇者が正中に昇る。

「――ヘラクレス」

 地上絵はそれで完成した。
 澄み渡った天をそのまま地上の大鏡に映したような、素晴らしい出来栄えだった。
 幼い私が描いた絵は必ずしも立派ではなかろうが、絵本の中のリアリティはそれを可能にした。
 私は、私とあの子が作った世界を、改めて見回した。
 綺麗だ、遠く手の届かない夜空を縮図にしたものだったが、間近で見れば天よりも迫力がある。

「どうです、私とパチュリー様の記念すべき最初の夜を再現しました!」
「何で自慢げなのよ……しかし、紅魔館にいて仔馬座を忘れるってのはずいぶんお粗末ね」
「駄目出し出来るほど覚えてるじゃないですか。って星は掘ってあるんだけど、星座がレア過ぎてあの子が認識できてないんですよ」

 パチュリー様は右手で服の裾を摘もうして、それを誤魔化すためにすぐに腕組みをした。
 腕組みをして、落ち着かせるように長い深呼吸に入る。
 それから目を閉じて、何度か頷いて、私だけを見るようにして目を開いた。

「大体、どうしてヘルクレス座がまともに立ってるのよ。あれは頭を下にして浮かぶ星座じゃないの」
「だって、それじゃ息苦しくないですか?」

 突込みを入れかけたパチュリー様だったが、息を吸って膨らました頬は鼻で笑って吐き捨てた。
 何でもないようなフリを続けていた。
 広がる星は見てくれなかった。

「ほら、あの日を思い出しますよね?」
「それなりにね」
「右も左もわからない異世界でしたから、パチュリー様の丁寧な案内は私凄い有難かったです」
「そう」
「寂しがってると手を握ってくれましたし、同じ星もたくさん見つけてくれましたし、寝る前には温かいスープを出してくれて、それで――」
「あれは、召喚が成功していつになく機嫌が良かったから、それだけのことよ!」
「どうして怒るんですか?」
「……」

 沈黙に入る前に短い舌打ちがあった。
 私はその顔を見て、照れる話題だから怒ったのではないと思った。
 きっと、一瞬の舌打ちはパチュリー様が隠し続けてきた痛みに繋がっているのだ。

 沈黙は長すぎて、緊張を緩ませようとした私は、みんなの姿を外に探した。
 何時の間にかみんなは、円の近くまで一丸となってやって来ていた。
 そこで遠巻きに星の海を眺めている。
 入って来ないのは私の邪魔をしたくないからじゃなくて、純粋にこの訳の解らない世界が怖いのだろう。
 ミスチーさんが進み出て、爪先でそろそろと黒い世界に触れ出した。
 やめろよ、やめろよ、という雰囲気の中、遂にミスチーさんは星の世界に踏み出すことに成功する。
 すっかり勇者扱いだった。
 地面があるというのを確認しただけなのだが、人類にとってはそれが偉大な一歩であったような讃えられっぷりだった。
 
「……まるで手足のように扱うのね」
「手足?」
「あの人達も、過去のあなたも、あなたと繋がってるみたいに動いているじゃないの」
「そんなことないですけど」
「私とあなたがこの絵に気付くのは解る……だけど、どうして過去のあなたが私達が見た夜空を再現できるのかしら?」
「同じ夜空ですし」
「そうじゃない」
「あ、南中時刻とかは違いますよ?」
「ふざけないで、どうしてこのメッセージを受け取る事が出来て、こんなにも早くこの図が完成したかということを聞いているのよ」
「私の役柄と、この場所がヒントです」
「……勇者?」
「ええ、黒の絵本の中の勇者は、元々父が教えてくれたヘルクレス座に纏わる勇者をモチーフにしているのです」

 パチュリー様が返事をしてくれなかったので、私も黙ってしまった。
 その姿から何か新しいことを考えている感じはないのだが、何かを纏めようとしているような印象は受けた。
 遠くの仲間達は、光の上に立ってみたり寝転がってみたり、それを呆れた顔で見つめてみたりと、それぞれ星の海を満喫してるらしかった。
 私は沈んだ月を惜しむように、西の地平線を見た。

「あなた悪魔でしょう? どうして神話に入れ込むわけ?」
「むぅ、大人達は煙たがってましたが、父は勇者の話はかなり好きだったみたいで、近所の子で知らない子はいないくらいでしたね」
「……」
「あ、子供受けも良かったです」
「訊いてないから」
「父さんが死んでから、私にとってこの物語は忘れられない形見のようなものになりまして……それで、私は父の思い出に縋って勇者の物語を描き始めたのです。苦境に喘いで何もしない私と反対に、絵本の中に強くて立派な勇者の私を作ろうとしていたのです」
「何ですって?」
「もちろん、その物語を紡ぐのは、父さんがくれたこのクレヨンしかありえま――はい?」
「あなたの御父様は……その、亡くなっていらっしゃるの?」
「あれ? そういえば知らないんでしたっけ?」
「おかしいわね、そうなるとつじまじが合わない。お母様はもちろんご存命よね? 最初に聞いたことあるけれど」
「え、ええ」
「…………そうか、騙したな」

 騙したと言われて、びくりとしたが、どうも私に言ったのではないらしい。
 何を黙っているのか、たぶん、あの日のラジオの一件だと思うのだけど、やっぱりパチュリー様は私の両親のことも良く解ってなかった。
 ……まあ、今は置いておこうか。
 せっかくの勢いをここで殺いでしまうのは、間違った選択肢だと思うから。

「まだ、解らないわ。あなたが描いた絵本とこの世界が大きく異なっている理由」
「……うわ、先を越された。パチュリー様が持ってるのは黒の絵本であって、描かれた絵本はもう一つ白いのがあるんですよ」
「もう一つ? 別の絵本がこの世界に影響を及ぼしているとして、それはどうして?」
「白は同じ世界を舞台にした、黒のやり直しの物語だからです」
「どうして?」
「話すとちょっと長いんですが」
「いいわ」
「やり直す動機は物語に起因しています。ヘラクレスの伝説はかけられた呪いにより家族を殺めたことから始まる物語。後世に残した輝かしい英雄譚と引き換えに、その一生は敵を殺し続ける残酷な日々でした。ようやく十二の試練から開放され、迎えた妻と再び望んだものを手に入れても、因果応報といいますか、ヘラクレスは今度は妻に殺されてしまい、天に昇ります」
「…………」
「しかし、ネメアの獅子から始まる試練は、ヘラクレスの冒険によって殺された者達は、全て天に打ち上げられることになっていて……ほら、現に竜座に睨まれていますから、安息の地は天にもなかったわけですよ」
「……当然知っている。それがどうかしたの?」
「私が求めてたのと違うんです。私が欲しかった力とは何かを退けてまで欲しかったものとは、星の勇者と同じく家族のぬくもりでした」

 慎重に言葉を重ねていく。
 言葉の端々に切実さを込めて、自分の傷を曝け出していく。
 
「父がいた時とはこの物語が私に伝えるメッセージがまるで違った。犠牲の上に成立つ英雄譚は酷く悲しいものにしか映りませんでした」
「でも、そんなお話を描いてたのでしょう?」
「描きながら段々と気付いたのです、それでも最上階の魔王を倒せば世界を変えられるんだって思ってました」
「倒せなかった?」
「ええ、ぐだぐだ悩んでいるうちに、この本は母に発見されて取り上げられちゃったんです。魔王を倒すお話なんて非道徳的だって」
「魔界にも信仰があるのね」
「一番辛かったのは本では無くて、父が買ってくれたクレヨンを一緒に捨てられてしまったことですか。思い入れありましたからね」
「……」
「数日後、私は新しいクレヨンを買って貰った事により心機一転して――いや、実際は悩み続けてましたが、黒の物語を最初からやり直そうと考えたんです。それが白のグリモワール。だけど、最初は上手く行かなかった。私はもう父の顔もろくに覚えていなかったし、そんな状態で家族のぬくもりをどう表現していいか解らなかった。父と繋がっていたクレヨンすら失くして、物語にも頼る事は出来なくて……それでも前回をなぞるようにゆっくりと進めていたら、そこで異世界からお呼びがかかった」
「私に、か」
「そうです、あの子は私と会うことでぬくもりを取り戻し、そのぬくもりが消える前に物語の完成を急いだのです」
「なるほど、それでこんな温い結末ばかりになった……」
「見て来たとおりです。この物語に十二の試練はありません。これはへたれな私が出会う、私が勇者になるための、十二のぬくもりの物語です。エイリンちゃん、マリサ、ウドンゲさん、てゐさん、かぐやさん、アリスさん、魔女さん、小さな私、ミスチーさん、チルノさん……それからラクトガール」
「一人足りないじゃないの」
「最後の一人なら、私の目の前にいますよ」

 私の全力を込めた笑顔は、パチュリー様に届いただろうか。

「この夜に三日月が描かれていないのは、あなたが地上に降りたときに完成する絵だからです」
「……どうしてすぐに誰かを許してしまうの」
「私に言っているのですか?」
「笑って罪を赦す事が、美徳だとでも信じているのかしら……私がこれだけやって、まだ絆なんて目に見えないものを信じているのかしら」
「私はパチュリー様に罪なんて感じていませんし、早く戻ってマカダミアケーキに美味しい紅茶を淹れたいなぁ、と思っています」

「でも、絆ですか。いい言葉ですね」 

「例え私が降りても――」
「はい」
「十二の絆の全ては揃わない。犠牲を否定したかった物語は、一頭の犠牲により成立たなくなった」
「ふーん……実は結構いい展開になって来ているのですけどね」
「何ですって?」
「それより、この空に三日月がないのは寂しいです。せっかくの再現なのですよ。パチュリー様どうか降りてきてくれませんか?」

 降りてくるとは思わなかったが、私は流れに沿ってそれを口にした。
 パチュリー様は話の流れを取り戻せなくて、何故小悪魔如きにと渋い顔を作っていた。
  
「そんなに重要かしら、三日月なんて」
「ええ、すべての星の中で一番輝いている夜空の主役です」
「三日月はね、皆が思ってるほど長く輝いてはいないの。夜に西の空に現れたら、あっという間に西の大地に沈むのよ」
「知ってます。それでも、美しく鋭く人を惹きつける輝きだから、印象に残るのではないでしょうか?」
「その輝きでさえ、自らのものではない。真っ赤な天帝の威光を借りてその身を輝かしているだけ。あの輝きがなければ、沈んでいても昇っていても誰も気が付かないほどに地味な存在だわ」
「それを知って、月は神秘の存在ではなくなりましたか? 違いますよね? 月の輝きの素晴らしさは今でも神秘の存在なのです」
「……それに遠いの、とても遠い。あなたが立つ天頂の遥か遠くに三日月は生まれ、何の接点も無く土の下に落ちる」

 パチュリー様は月が消えた空を見上げた。
 それからヘルクレス座に目を落とし「あの辺りよね」と言ってから西を右手で指した。
 右手から出た細いレーザーは、50mは先かと思われる地点に一瞬にして着弾し、そこにコンパスでも使ったのかと思うほど、とても綺麗で均整の取れた三日月を土を焦がすことで描いた。
 星が幾つか巻き込まれて、三日月の輪郭の下敷きになった。

「見えにくいわね……」
「大丈夫、私でもはっきりとは見えません」 
「丸っきり駄目じゃないの」
「ですが、パチュリー様がしたいことは解りましたよ。この図に対する三日月の位置を指し示したのですよね?」
「そうね」
「こうして見ると、確かに遠いですね」
「あれもすぐに沈む。今宵の三日月はとうに沈んだ。あれに価値を見出す必要も、あんなのを必死に追う必要も無い」
「回りくどいけど、良く通じてますよ」
「あなたは天頂で輝いていればいい、すぐに引篭もる月なんかに付き合わなくていい、この先に力と自由がある」
「……確かに月は遠いのですが」
「含みがある言い方をするじゃない」
「ペガサスに頑張ってもらって、こちらに連れてきて貰う訳にはいきませんかね?」
「何よそれ、ペガスス座はこの時期、東側にある星座でしょうが。ペガサスが月を連れて走る伝承なんてのもないわよ」
「ですよね」

 私は可笑しくて笑った。 
 私はもうパチュリー様の反論すら嬉しく聞いていた。
 遠い月を見て、月の位置が完璧だったのを確かめた時から内心ほくそ笑んでいたのだ。
 こんなに上手く騙されるなんて……。
 やはり、パチュリー様は普段のパチュリー様ではない。この話の間にも、裾を掴もうとした事が二回あった。
 パチュリー様の視力が頼りないとは言え、本来ならば昨日の夜にでも気付いている話だっただろう。
 この間抜けな小悪魔が気付いていたのですから。

「そろそろ引っ張るのは止めますか……しかし、上手くいったものです、これで全てが揃いました」
「揃った?」
「パチュリー様の痛みはあとで聞かせてもらいます、先に物語を完成させましょう」
「ちょっと待ちなさい――」
「パチュリー様が、あの子が何故解ったのかと私に問うたのに対し、私が同じ夜空だからと答えたのは、皮肉とか受け流しじゃないんですよ」
「えっ?」
「この場合、同じ、とは、私達が普段見てる夜空は含まれません、天を見上げてください、そしてヘルクレス座を探してください、私が言っている意味が良く解るでしょう」

 パチュリー様は夜空を見上げた。
 それからジト目になって、ヘルクレス座を探そうとしたが、不機嫌そうに私に視線を戻した。

「暗くて探せないのよ、下ばっかり眩しいし……」
「うーん、実際のヘルクレスは意外と暗いですから……ほら、今はあの辺りです」
「ああ、あれね」
「線で結べますか?」
「ええ、もちろん、ここまで解ったら――」

 言葉が不自然に途切れた。
 頭で結んでいく途中で、パチュリー様は気付いたのだろう、私にも解るほど顔色を失っていった。

「逆さま……じゃない」

 一度それを確かめたら、パチュリー様は二度と上を見なかった。
 俯いたが、下にある偽者の星の方が強烈な輝きで、パチュリー様は嫌がって白い顔をしかめた。

「そう、この世界は勇者ヘラクレスの為だけに、ヘラクレスを軸にして星々を180度回転させているのです」
「こんな無駄に凝った仕掛けを……」
「この世界の空と、この地上の図が同じに見えたから、あれだけ素早くあの子は反応できたのですよ。ちなみに月の運行はそのままですね」
「待ちなさいよ、それじゃ、これが私達が見た夜空の再現にならないじゃない」
「いいえ、この図はあってます。違ってるのはパチュリー様が逆向きに認識してるからですよ。私の向きに絵を合わせてください」
「あ――」
「そうです。天球と違い、地上に描いた物は向き次第でどうにでもなる。この絵図は北を北に合わせてなくて、南側を頭にしているのです」
 
 ようやくパチュリー様は私達の空を正しく認識してくれた。
 嬉しい事なのにパチュリー様の顔に喜びは無くて、滅多に見せない悔しさを声を荒げることで表していた。

「何のつもりよ……こんな……!」
「私の最後の悪戯ですよ、驚いたでしょう?」
「確かに私は冷静じゃなかった、だけどそれを表に出してどうしようって!? 私をからかって遊んでるつもりかしら!?」 
「そんな、私がパチュリー様を笑い者にするわけありませんよ。私が笑い者にされるのは良くあるんですけど……」
「じゃあ!?」
「まだ、話は続きます。パチュリー様が西と東を間違えて三日月を落としてくれたのが良かったのです」
「三日月?」
「ええ、東と西の星座は配置が逆転していますから……現在この絵図で、三日月に一番近い星座は何でしょうか?」
「ペガスス座……ああ、あなたはさっきの話をしているのね、ペガサスが月を運んでくるという作り話。だけど、配置が変わってもペガサスが動く理由なんてないわ。神話に頼るならもう少し道理を通すことね」
「えっと、ペガサスが月に近くなったのは大切なところなのですが、実はもっと近い……というか三日月に被ってる星座がありますよね?」

 パチュリー様が目を細める、しかしそれは目で見るという格好だけで、おそらくは膨大な記憶に頼っていた。
 知識の少女が、もう間違える事は無いだろう。

「アンドロメダ……」
「ええ、偶然にもあなたが描いた三日月は、ペガスス座の隣、アンドロメダの真上なのですよ」
「それじゃあペガサスは――」
「飛んで来ます。ペガサスは伝承に従い、鎖に縛られた捕らわれの姫、アンドロメダ姫を助けにやって来るのです」

 パチュリー様の顔は白くなっていた。
 図書館にいるときと同じ、知識と日陰の少女の顔をしていた。
 私は、大丈夫ですかと尋ねたかったが、今言うと嫌味に取られるような気がして言えなかった。

「……私が、アンドロメダ……? LockedGirlの役なの……?」
「ええ」
「だけど……だけど、ヘラクレスとアンドロメダに何の繋がりがあるっていうの……!」
「血の繋がりです。ヘラクレスはペガサスを駆る勇者ペルセウスと、捕らわれのアンドロメダの孫、アルクメネの子なのですよ」

 最後の台詞を言い終えて、私はほっとした。
 どこかで引っ掛って台無しになるんじゃないかと危惧していたのだが、本番に弱いというアビリティが発動しなくて助かった。
 パチュリー様の表情を確認するのも忘れて、私は俯いて小さな息を吐いた。
 その際に、泥のついたスカートが気になって叩いたのだが、土はこびり付いて動かなかった。
 
「来るわけが無いわ……!」

 上からパチュリー様の声がする。

「ペガサス――ラクトガール号のことでしょう? 諦めなさい、あの子は死んだ、黒焦げになってボロのような姿でオアシスに落ちたの!」
「うぅ……詳細を聞くと辛いなぁ……」
「犠牲は無かった事にはならない、ただの登場人物の一人に成り下がった勇者に、二度目の奇跡はありえないわ」
「いやー、私がここまで上ってくるのに、両手一杯に奇跡があっても、足りなかったくらいですよ?」
「あれらは奇跡などではなく、私の失敗が招いた必然だった」
「失敗で必然が招けるなら、成功で奇跡ぐらい何とかなりそうです」
「……本気なの?」
「何を根拠にといったところでしょうが、根拠ならありますよ」
「……例えば?」
「ラクトガールは、これはやり直しだって言ってました。だから、死んではいけないのです。生きて帰ってくる私との約束です」
「まさか、口約束だけなの?」
「私は絆を信じます。彼の死は、この物語が拒んでくれる」
「無茶苦茶よ!」

 パチュリー様は両手で顔を覆い、息を鼻できつく吸って、その手で前髪を持上げたら、それらを捨てるように両手を下に振った。
 感情の整理が出来ていない、剥き出しの弱点を晒しているような怯えが見えた。
 顔付きも変わっていた、服を摘む事も躊躇わなかった。
 ようやくパチュリー様の芯が見える。

「どうして信じられるの! 絆、絆って、もっと見えるものを頼りなさいよ! あなたにはそれがいっぱいあって……違う、これからそんなものは幾らでも出来て、とにかく幻想なんて必要なくなって――!」
「私はあなたの痛みを聞いてみたい」
「痛み! そう、好きにすればいい! 聞きたいだけ聞いていいから終わったら魔界に帰って頂戴!」
「そんなに私といるのが怖いですか? 私が信じられませんか? 私は私の意志であなたの傍に望んでいるのですよ?」
「十分聞いたわ! そんなことは問題にしていない!」
「問題にして欲しいなぁ……」
「小悪魔!」
「はい」
「ラクトガールは死んだの! いい加減夢を見るのは止めて!」
「生きてる限り悪魔だって夢を見ます、私はちっとも悪いことだと思いません。ラクトガールは生きています」
「ああっ……!」
「では、賭けましょうか。来るか来ないか」
「酷い罠ね、期限が無ければ絶対に来ない側が負ける賭けだわ!」
「そうですか、期限は朝まで、朝日が地平線を離れるまでで宜しいですか?」
「私に賭けをする気なんて無い」 
「いいえ、パチュリー様は、私に賭けてみたくなってるのですよ。だって攻撃するのをすっかり忘れてるじゃないですか」
「攻撃は――!」
「出来ますか!?」
「……攻撃は……」
「覚醒する私なんて見たくない、このまま物語の結末を見てみたい、そうでしょう!?」
「……」
「何を抱えているか知りませんけど、今だけ素直になってみましょうよ」
「ラクトガールは……来るの?」
「来ますよ」
「それは、勇者と愛馬の絆?」
「全然、そんなのは問題にならないくらい小さい。私が信じてるのはもっと大きな、引力と言っていいようなとんでもない力です」

 パチュリー様が聞き返す「引力?」と小猫のように愛らしい声で。
 私は大きく頷いた。

「……愛する娘が待っているのに、帰って来ない父親がいるものですか」

 それは私が父に言った最初の罵倒。
 最後に父さんに向けた私の願いだった。

―――――

 パチュリー様は急に大人しくなった。
 訊いてみたいことがあると、それだけ言った。

 絵図で東の方角、実際は西の方角に向けて、私達は歩いた。
 パチュリー様は自分が描いた、未だ色も付かぬ三日月の上に腰を降ろし、私はその左斜め後ろに立ってパチュリー様の背中を見ていた。
 特に会話は無かった。
 しばらくすると話し合いが終わったのかと、みんなが私達の傍に集まってきた。
 私は経緯を簡単に説明した。
 その頃には、地平線の上が薄くなってきていた。

「血を分けた絆……」
「はい?」

 パチュリー様は私と会話をしようとしたのでは無かった。
 呟きだった。
 溜め息にも似ていたかもしれない。
 私は駄目出しか突込みでも来るのかなと構えていたが、それは無かった。 

「小悪魔、勇者の場所から離れていていいの?」
「え、あー、そうですね、後で戻れば大丈夫だと思います」

 顔色の優れないパチュリー様を心配したのか、エイリンちゃんが私に症状を聞いてきた。
 薬なら必要ないからと断る。
 もっとよく効く薬を出してあげるからと加える。
 言った後で、少し失礼だっただろうかと、自分の言動を反省した。

 夜はまだ続いている。
 私は朝日が昇るのを、朝と夜の境にした。
 太陽が地平を離れるまでは、それまでは横車を通して夜と言い張る。
 昨日は濃い霧で朝日は見えなかったけど……今日はそんなことはなさそうだった。
 今までもずっと見えなかった朝日だったとしたら、私はもう一つ、みんなに返せるのかもしれない。
 赤を怖がらなくていい。
 私が乗り越えたハードルを今度は世界で確認するんだ。

 日の出が近いのに晴れている空に、期待と不安が入り混じった声が飛ぶ。
 パチュリー様は煩そうな素振りを見せず、背中を向けて白みがかった地平の彼方を見ていた。
 パチュリー様の中でも、期待と不安が入り混じっていた。
 私の中にあるのは、祈りだけだった。

 境界の空が次第にはっきりと青くなってくる。
 誰も来ないなかで、何人かが焦り、黒い地面で靴を鳴らしていた。
 立ち上がったり座ったり落ち着きが無い人もいた。
 一言も発せず睨むように、西を見てる人もいた。 
 パチュリー様は猫背になって俯いていた。
 二度と光の中に顔を上げたくないというように、その姿勢から微動だにしなかった。

「あっ……」

 最初に声をあげたのは、チルノさんだった。
 みんなが西の空に目を凝らし、それから何だよとチルノさんを睨んだ。
 まだ何も見えなかった。
 殆どの人が空を見ていたから。
 黒い地平線の上に、豆粒みたいな馬がいるのに気付いたのは私とチルノさんだけだった。
 
「ほらっ!」

 二度目の声。
 それでみんなも変化に気がついた。
 遠くを走る、ぬいぐるみの駿馬に。
 ラクトガールの色は変わっていた、逆光か、焦げて真っ黒になったのか、ここからでは解らないけどピンクではなかった。
 それから飛んでいなかった、四足で地面を蹴って走って来ていた。
 羽をもがれたペガサスは、それでもペガサスと呼んでいいものだろうか。

「来てるよ!」

 歓喜の声が上がる、パチュリー様が光へと顔を上げた。
 パチュリー様はラクトガールを見て立ち上がり、みんなの目を気にしながらも、思い切って手を振ってくれた。
 嬉しかった。
 これまでの旅の全てが報われた気がした。
 同じ目的に向って、私達の車輪が音を立てて回り始めたのだ。

「頑張れー! 父さーーん!」

 私は一度だけ叫んだ、二度目は発音が危なっかしくて途中で唾に変えて飲み込んだ。
 父さんの速度が上がった。
 斜行したり、石に躓いたりしてたが、急いでくれていた。
 夜と朝の境に、夜が降りているうちに、父さんは急がねばならなかった。
 それは娘の為であり、自分の為でもあった。

 今までのような速度は出ていなかった。
 それでも小さな点が、あの人だと認識できる大きさになるまで、僅かな時間しかかからなかった。
 焦げた身体で、どれだけの距離は走ってきたのだろう。
 近付いてきた父さんは、黒と焦げ茶とピンクで三毛猫みたいになってた。
 やがて父さんは、土煙と砂利を飛ばしながら、私達がいる円の外で止まった。

 父さんは円の中に入る前に、二本足で立ち直り、蹄についた泥を取って、ついでにネクタイを締めなおすフリを見せた。
 余裕だったぜ、と一目でばれる空元気を見せてくれた。
 駆け出したら泣きそうで、突っ込みの一つも入れてあげられなかった。

『ラクトガール、一着でゴールイン!』

 万歳をしながら足を揃えて円に入ってきた父の声は、私にしか届いていないようだった。
 揃ってない拍手で父は迎えられる。喜んでいいのか気遣っていいのか解らない人達が多数を占めていた。
  
「父さん……」
『どうだい、大丈夫だったろう? 前のような失敗はしないぜ、今度はちゃんと水の上を選んだからな、消火も出来て一石二鳥だ!』
「……って息は?」
『呼吸の必要ないんだよな、ぬいぐるみだから』

 父の話に、そもそも命とは何だろうかという疑問が湧いたが、解けそうもないのですぐに諦めた。
 父さんは早速パチュリー様に近寄っていって――
 
『やあ、捕らわれの姫君、あんたを助けに来たぜ!』

 と話しかけたのだが、やっぱり通じてなかった。
 それよりパチュリー様から私に質問が来た、手紙のことを聞いてと言っていた。
 私は時間を気にしながらも、父さんに「パチュリー様が手紙がどうのこうの言ってる」と言ってみた。
 父さんは呆けた面を五秒ほど持続させてから、なんだそりゃと首を振った。

「……わからない? そう。お母様がお父様の名前を騙って送ったのね」

一番解らないのはパチュリー様の言葉だったのだが、ともかく、明るくなっていく空に時間が無いので話を切り上げた。
 パチュリー様は、四足になってくれないと乗れないわ、と私に指示した後、黙ってしまった。
 私はその言葉を正確に父さんに伝えたら、高飛車な姫君だなぁ、と笑われた。
 だから私は正確にその言葉をパチュリー様に戻そうとしたのだが、そこで父さんに後ろから襟首を掴まれた。

 パチュリー様が、ラクトガール号に横向きになって座る。
 父さんがちょっと役得に見えてきて、嫉妬した。
 私は、ヘルクレス座に戻らないといけなかったのを思い出して、慌てて中央へと走り始めた。
 パチュリー様は意地悪で、私がまだ走っているのにラクトガール号の腹を軽く蹴って、ゴーサインを出した。 
 後ろから追い上げられる。
 先に着いてないと格好が付かない。
 しかし、感動の場面のはずなのに、何故私は馬と一緒に全力疾走しなければならないのか。
 腕を振り、土を蹴りながら、これがへたれの宿命なのかと諦めた。
 勇者の場所から離れていいの? と訊いてきたパチュリー様は限りなく正解に近かった。
 僅かに先に着いて、息を整える間も無く「よ、ようこそ」と無理な笑顔で二人を迎えてみた。
 パチュリー様が降りる。
 降りた場所に、私は片足を突っ張って、パチュリー様が納まる大きな三日月を描いていく。
 これが、ヘラクレスの心臓になればいい。   
 そんな願いを込めて描いた月は、すぐに縁取りされ黄色に輝き始めた。

「これで、フィナーレですね……ちょっと歪みましたか?」
「手作業の温かみが出ていいじゃないの」
「優しいんですね」
「ええ、今だけ。賭けもあなたの勝ちでいいわよ」
「あ、賭けって成立してたんですか? じゃあ、最後まで来るのを信じてくれなかったと」
「いいえ、私は来る方に賭けたかったのだけど、決断が遅すぎて発走時刻に間に合わなかったのよ」
「なるほど、上手いことを言う」
「伊達にあなたの上司じゃないの」

 走る目的を失くしたラクトガール号は、短い足を伸ばして地面に腹這いになっていた。
 誰かが「大変!」と叫び、パチュリー様も含めてみんなが心配しだしたが、私は鼾が聞こえてたので放置しておいた。
 凄く疲れたのだろう。
 怪我の手当てだけ任せて、そっとしておこう。
 私は屈みこんで父さんの耳元で、ありがとう、と囁いた後で考え直し、ありがとう父さん、という囁きをもう一度繰り返した。

「それで、どうするの?」
「……は、どうするとは?」
「だから――」

 続けて発言しようとしたパチュリー様が止まった。
 私もすぐに気付いて、東の空を見た。
 地平線の上は真っ赤だった、大きな太陽が頭を半分覗かせていた。
 誰もが黙って赤い輝きを見つめていた。
 全員が呆けてるように見えた。
 太陽は一気に上がり、私達の元にも光が届いて、その時、誰かの「綺麗」という呟きを合図に、みんなが一斉に騒ぎ始めた。

「初日の出ですね」
「え? ああ、なるほど、そういう意味でね」
「……」
「……」
「……」
「見惚れてるのは分かるけど、私から聞きたいことがあるんじゃないの?」
「あ、ああ、そうですとも。是非聞かせてもらいたいことがですね…………忘れてませんよ?」
「全員に席を外してもらうのもちょっとね……小悪魔、ちょっと此処から離れるわよ」
「はーい」

 ちょっとと言いながら、私達は結構移動した。
 円を出て、私はみんなで作った夜空を振り返った。
 光が差し込んだ場所から、黒い空はグリモワールの時と同じように、ぼろぼろと剥がれて浮かんで消えていった。
 同様に星の輝きも、スイッチが切れたように順番に消えていった。
 その中で月だけが白い身体に身を変えて、明るくなった空に残った。

 私は、パチュリー様の僅かな笑みに満足しながら、二人で草原を歩いた。

―――――

 覚醒の予感が何処かに飛んでいってくれて嬉しいのだが、代わりに今までの疲れと関節の痛みが同時に襲ってきた。
 それでも、フィナーレだからとパチュリー様の左後ろを静々とついて行った。
 あ、右手側はパーソナルスペースだから、並ばずに空けておくと、前の人が心地よく歩けるらしい。
 古い考えだが、小悪魔、こういうのが結構好きだ。
 上手くいく夫婦の位置とか言われている。
 いや、正直なところ、夫婦の位置とかどうでも良くて、草が素足にチクチクするし、いい加減止まらないかなと思っているのですが……。
 みんな太陽に夢中だし、十分聞こえないだけの距離をとってるんじゃないかな。

「ハイキングみたいですね〜、山は無いけど。あ、右のリボン、解けかけてますよ? 結びましょうか?」
「……止まりたいなら止まりたいって言いなさい」
「すみません」
「その前に、山が無いのにどうしてハイキングという妄想になるのよ……じゃあ、ここでいいわ」

 一方的に怒られたが、パチュリー様も止まる切欠を探していたようだった。

「疲れてるでしょう? 適当に座りなさい」

 パチュリー様の言葉に甘え、私は高い草を倒して、その上に腰を降ろした。
 パチュリー様も隣に腰を降ろした。
 世界は赤く、パチュリー様の血色も戻って見えた。
 
「殆ど気付いてるみたいだし……改めて話すことなんてあんまりないんだけど……」
「はぁ……」
「ラジオの電波を建前に繋げた世界は、あなたの思ってる通り魔界よ」
「どうしてそんなことを? それにあの実験は失敗に終わったのではないのですか?」
「確かに実験は失敗だった。視線も通らない針のようなゲートしか開かなかったから、私は諦めて閉じようとしてたわ」
「動機が不明のままですが……実験が失敗したのに、絵本がこちらに届いているのは一体」
「向こう側で私の実験を察知して、ゲートを広げた者がいるのよ」
「……それが、母さん?」
「そうよ、私は今日まであなたのお父様だと思っていたけどね」
「え、どちらか解らないというのならば理解できますが、何故父さんだと思ったのですか?」
「手紙が来たからよ。黒の絵本とピンクのクレヨン達と一緒に」

 やはり、そこに手紙が、と考えていたので別段驚きはなかった。
 気になるのは、その中身に何が書いてあったかだけだ。

「……私はあなたの住んでた街が見たかった、それは確実に私の失敗だったのだけど」
「私が住んでた所を見ようとしてたのですか。な、なんか照れますね……家とかどうでした?」
「だから見えなかったのよ、小さ過ぎて」
「じゃあ、どの段階で物が通るほどの干渉が?」
「解除の光ね、あれは向こうからゲートを抉じ開けようとした光なの。私の解除の直前に向こうから干渉があった。一瞬だけ開いて閉じた世界に驚いたわ。しかも、走り出したあなたの代わりに、見知らぬ絵本が床に転がっているじゃないの。私はあなたがゲートに吸い込まれたものと思った」
「それで懸命になってしまって、喘息を……ごめんなさい」
「ゲートはすぐに閉じて、あなたもしばらくして見付かったのだけど……残った絵本とクレヨンの処理に困った。少なくともあなたには見せたく無かった。あの時の私は、絵本を見せたらあなたが帰ってしまうと思ったのよ」

 喘息については、触れてもくれなかった。
 パチュリー様は変わったが、弱点を見せたがらないのは今でも同じだった。
 手紙が出てこないのも気になったが、パチュリー様が私のことを手放したくないと思っていたのはちょっと誇らしい思いがある。

「私の失敗はあなたに情を覚えたこと。情を覚え、優柔不断な選択を繰り返し、淀んだ感情を胸に秘めたままここまで歩いてきたこと」
「どういう……ことです?」
「クレヨンも絵本も手紙も全部見せて、私はあなたにその場で決断をさせるべきだったのよ。家族の下へ帰るかどうか」
「手紙って何なんですか、それを見せてもらうわけにはいかないんですか?」
「今はここに無いけど、文面なら覚えてるから聞かせてあげる」
「え、ええ」
「――娘をよろしくお願いします 凱旋を楽しみにしてます 父より」
「内容……それだけ?」
「そうよ。これは、暗に早く帰って来いと言っているの。ただし、差出人が存命な人ならばね」
「え? あ、そうか、待ってる人が手紙から消えるんだ」
「ずっと私は誤解していたわ。これはあなたに手紙を見せない限り、成立しない文章だったのよ」
「でも、待ってください。どうして母さんは父の名を騙ったんですか。私が読んだらすぐにばれるのに」
「故人が書くことでメッセージは変わる。頑張れというエールの九割は信じられなくても、一割が光になればいいと思ったのかもね」
「……」
「それに、いつか帰って問いただすぞ、という励みにもなるじゃないの」
「……たぶん、違うと思います」
「何?」
「母はヒールでいたかったんです。今更自分が優しさを見せても娘が困ると思って、私が大好きだった父の言葉に代えたんです」

 優しい母さんは、父さんが死んだ時に一緒に死んだと割り切っていた。
 小さな私にとって母さんとは、厳しい他人でしかなかった。
 だけど、母さんは私の絵本を捨てられなかった……クレヨンだって私が失くしたピンクを何処からか探してきた。
 そうやって私の残骸を集めて、母は今一人で暮らしているのだろうか……。
 家で……。
 悔いているのだろうか。
 父さんの言葉を借りたのは、昔をやり直したい気持ちからなのだろうか。

「戻りたくなった?」
「いいえ……パチュリー様は、それで私を無理やり悪魔化させようとしていたのですね?」
「違うわ。私はね、結局、手紙なんてどうでも良かったの。最後まで自分のことを考えていた。あなたに手紙を見せなかった自分の黒さが嫌だった、それがあなたを手放したくないと言う理由だと気付いて、その醜い考えに腹が立っていた」
「誰かに傍にいて欲しい時は、誰にだってあるでしょう?」
「私は特別よ、誰かがいないと生きられない」
「……」
「手紙を見せる機会は失くしたけど、それなら、あなたが実力で悪魔を勝ち取れば言いと思った。だから、私はあなたに必死に教えたのよ。力の使い方を、スペルの使い方を、だけど無駄だった、あなたは図書館の司書として生きようとしていたから」
「私の選択を、パチュリー様が気に病む必要はありませんよ」
「理由もなんとなく分かっていたの。考えてみればあの日から悪戯もしなくなったし、私の発作を常に警戒するようになってたし、あなたが籠から出ようとしないのは、中にいる私が心配だからに違いなかった」
「籠だなんて言わないでください、紅魔館は――図書館は私達の家です!」
「あなたには、故郷にちゃんと家があるでしょう?」
「パチュリー様が言ってくれました。私は絶対に忘れませんから! 星を見ながら、図書館に戻りながら、今日から私達みんなが家族だって!」
「血を分けない家族なんて、自己陶酔に過ぎない」
「血の繋がりが何よりも濃いのは、過ごした時間と愛情が比例するからです。私の成長を見てくれているパチュリー様なら、いつか血の繋がりにも負けない絆を作り出せます!」
「そうね……」
「ですか――は?」
 
 随分と熱くなっていた私は、そのまま熱血トークを続けようとしていたのだけど、パチュリー様は意外にも冷めていた。
 果ての無い旅にくたびれたような微笑を見せたパチュリー様は、返ってくる返事を予想して最初から諦めてたみたいだった。
 茜色の空に、パチュリー様が長い息を吹きかけた。
 その中に、ピンクの綿毛が混ざっていった。

「憎めと言っても、あなたは私を赦してしまうのでしょう……」
「え、ええと、憎む理由も特にありませんし」
「私の我侭で、あなたにも、この世界にもずいぶんと迷惑をかけてしまった。私の罪は膨らむ一方だわ」
「結果的に誰も不幸にならなかったんです。いいじゃないですか。皆さんだって私と同じ気持ちのはずですよ」
「最後に一ついいかしら?」
「どうぞ」
「本当に戻らなくていいのね?」
「まだ、私は戻れません。母さんが私を見て笑えるようになるまで、その時まで私は私の道を頑張りたいと思ってます」
「……分かった。知恵の悪魔、見せて貰いましょう」

 空中に銀色の鍵が見えて、私は瞼の上から疲れた目をほぐした。
 顔を上げると鍵は消えていた。

 ややあってパチュリー様が、お別れを言ってきなさいと私を押し出した。
 その言葉で、もう元の世界に戻るんだと解った。
 次はないのですかと私が訊く前に、パチュリー様は首を横に振った。

 私は朝日の下を走った。
 円の中では宴会が始まっていた。
 永遠亭が、夜雀が、自慢の酒を持ち出して、滅多にない朝日見と洒落込んでいた。
 喧騒の中に飛び込んでいく。
 私は、酒が飲めなくて寂しそうにしている父さんに、真っ先に声をかけた。

―――――

 帰還は、それほど感動的なものではなかった。
 涙ながらに見送る人なんて誰もいなくて、何だかご近所の人を旅行に送り出すみたいに「いってらっしゃい」とみんなに言われた。
 私も、パチュリー様も「いってきます」と返した、さようならより随分と楽な返事だった。
 また、どこかひょんな所で、彼女達に会えるといいなと思う。

 私とパーティを組んでくれた二人、おいどんとエイリンちゃんには特に深くお礼を言った。
 お互いに持ち物を交換しようということになったので、私はちびたクレヨンと説明書をそれぞれエイリンちゃんとおいどんに渡した。
 嫌がらせのようなグッズしか持ってないのを一応詫びてみたが、全員が半ば開き直っていた。
 私の手に来たのは、何処にだってありそうな石と種だった。
 別れ際に三人で手を合わせて、義兄弟の誓いなんてのも立ててみたり。 

「それじゃ!」

 帰るといっても条件を満たしたら、後は時限性のものらしい。
 私とパチュリー様は時間を持て余して(座って待つわけにもいかないだろうし)二人一緒になって外へと歩き出した。
 去り際に私は、地面に落としたままになっていた自分の絵本を拾い上げて、中身を開こうとした。
 しかし、それは出来なかった。
 歩きながらぼんやりと考えてたら、あの子の意図が掴めた。
 エンドマークを誰にも見せなかったから、この世界は今日まで残ってたんだろう。
 世界がこれからも続いていく為に、手のつけられていない余白は必要なものなのだ。

「しかし……帰還の時まで酷い状態ね、あなた」

 手も足も泥だらけで、靴は履いてないわ、スカートまで破れてるわの私に、パチュリー様は目眩でも覚えたかのように額に手を当てた。
 今更ではあったが、私の外見を憂慮するだけの余裕が出来たという事なのだろうか。
 私は反射的にごめんなさいと頭を下げていた。
 その拍子に、腰に繋いだ酒瓶がちゃぷんと音を立てた。

「それって……」
「あ、こっちは父さんからのお土産です、地酒メフィストフェレス」
「……持って帰れないからね?」
「え!?」
「責任持って飲んで帰りなさいよ?」
「い、今ですか? ここで瓶を一本開けろと言われても、かなり厳しいものがあるのですが……!」
「駄目よ、せっかくの好意を無駄にするものではないわ」
「そんな殺生な! あ、今は栓抜きがないから無理ですね、いやぁ、残念ですねー!」
「はい」
「魔法で開けるのは鍵だけにしてー!」

 空に飛んだ王冠を恨めしそうに睨み、私は酒をラッパ飲みしながら草原を歩く。
 どこの酔っ払いに見えてるだろうか。
 でも、パチュリー様が笑っていたので、ふざけてる甲斐は確かにあったのだ。
 それがどんなに相応しくない帰還の仕方でも、隣に小さな光があったから、それで良かったのだと思う。
 光の中を上がっていくんだなと思った。
 私は土を蹴って、種を埋めた。
 不思議な石は目印にでもなるかなと、その傍に置いた。
 足元の感覚がどんどん無くなっていく。
 羽のように軽くなる身体と裏腹に、競ってくるゲップを抑えるのに私は必死だった。
 酒瓶を見るとまだ三分の一しか減ってなくて、私の酒耐性の無さが現れているようだった。
 格好がつかない。
 お酒の半分が優しさで出来ているといいのに……そんなことを思っていると、横から伸びてきた手が私の酒瓶を奪っていった。
 私が不甲斐ないので父さんが取り返しに来たのかと思ったけど、その手は白かったのでパチュリー様だと思った。
 視界が霞む、ちゃんと顔が見えない。
 その人物は酒瓶に口をつけて残りの酒を飲み出した。
 あぁーあぁーと声にならない言葉で、私が口をつけてますよ、というのを必死に説明しようとした。
 光の中で笑い声がする。
 母さんにも、パチュリー様にも聞こえた。
 髪の長い人だ。私も笑ってみた、ゲップが出て――ゴールはすぐそこだった。 

―――――

 長い旅を終えて、無事勇者は帰ってきました、めでたし、めでたし……と締め括りたいのですが、勇者の苦難はまだ続きます。
 私の目覚めは、紅魔館のお二方がお医者様を連れて帰ってくるのと、完全に一致してました。

 頭だけ出して巨大プリンに包まれた私達二人に、ドアから入ってきた三人の視線が突き刺さります。
 私が状況を纏めるより早く、真っ先にお嬢様が「新しい遊びか!」と怒鳴りながらプリンに飛び込んできました。
 咲夜さんは一頻り照れた後「そういう形の愛もアリだと思うから」と言ってカレンダーで大安吉日を探し始めました。
 月のお医者様は、無言でメスを湯に浸けていました。
 振り返って、大丈夫よ、と言いました。

 私の弁解は誰一人聞いちゃいません。
 レミリア様の妨害や、お医者様の攻撃(?)もあり、生暖かいプリンから私が抜け出せたのは、十分は経ってからです。
 その時に時計を見たのですが、不思議にも時計の長針は僅かしか進んでいませんでした。
 あちらの二日は、こちらの時間には何の影響も及ぼさないようです。
 まるで夢だったみたい、いや、もしかすると本当に私の長い夢だったのではという不安な気持ちになります。
 だけど、ま、夢でもいいじゃないと思ったところで「私は覚えているわよ、小悪魔」と目が覚めたパチュリー様に突っ込まれました。 
 
 ……それから、一週間して。

 覚えてるわよ、と言ったのが何であったのかは、現在進行形で思い知らされております。
 私はパチュリー様のご指導の下、知恵の悪魔になるべく昼夜を問わず本に囲まれて勉強しています。
 自分で言い出したことだと知っていますから、パチュリー様の方も容赦ない。
 レベルに応じた適切なカリキュラムは有り難いのだけど、どことなく楽しそうに追加の本を持ってくるのは止めて欲しい。
 
「どう、進み具合は?」
「あ、はい、今日の分はだいぶ片付きました。これが終わり次第、紅茶の時間に致しますので。もうしばらくご辛抱を……」
「あなた、まさか、今日の分がそれだけだと思っているんじゃないでしょうね?」
「ふえ?」
「これと、これを今日までに。それとこれを週末までに暗記しておきなさい」 

 ドンと音がした。
 薄い二冊の魔道書と、分厚い辞典が目の前に置かれました。
 パチュリー様の輝く笑顔が眩しい。

「こ、こぁー……」
「可愛い溜め息吐かないの。このくらい私なら辞典を含めて今日中に終わらせるわ」
「だって、これだけ済ませるのに朝から夕方までかかったんですよ? これを合わせたら深夜になりますよぉ……」
「だっては言わない! 私が百年かかった道をあなたも百年じゃ困るでしょうが。いつまで私やあなたのお母様を待たせる気なのよ」
「わ、わかってますけど」
「紅茶くらいなら、私でも淹れられるから――こら、手が止まってる!」
「はいぃ」

 私の誓いのせいで、容赦なく厳しい方になってしまわれたパチュリー様。
 しかし、私の疲れ具合を見て、紅茶のカップにレモンを添えてくれたりと、なかなかどうして、気が利く方にもなってしまわれた。
 労働と勉強を両立させる毎日は厳しいです。
 それでも食事や睡眠時間の確保はしてくれていて、逆に徹夜なんかしたりすると、長丁場なのに何を考えているのと怒られたりします。
 私を通して、すっかり自立されてしまったな〜と思う。
 ありがたいことなのですが、私が世話する場面が減っちゃったのは悲しい。

 最近は外に出るようにもなって、だらだらと喋りながら、レミリア様とご一緒に神社の宴会に参加されたりしてるそうな。
 その場合には、ワインを少量、あとは自前の紅茶を持って楽しんでいるらしい。
 喘息の方は、一生付き合っていく覚悟で、時には頼ることも恥ずかしくないという考え方で頑張っておられます。
 冒険の成果は、現実で実を結んでいた。

「はい、紅茶」
「わざわざ、すみません。助かります」 
「砂糖は?」
「あ、自分で入れま――ええと、それじゃあ、三杯で」
「よくこんな甘いの飲めるわね」
「疲れてる身体には甘い物がいいのですよ」
「いいえ、あなたは前から自分のには堂々と三杯入れていたわ」
「う……」
「砂糖をたくさん取ると頭の中身まで甘くなるのかしらね? あと、これが差し入れの梨ゼリー」
「わぁ、ありがとうございますー!」

 薄い黄色で透明なゼリーが、白磁のお皿の上に二つ納まっている。
 甘酸っぱくて美味しそうな色。
 私は両手を合わせてから、小さなスプーンをゼリーに差し込みました。
 透明なゼリーの揺れを見て、私の脳まで揺れたのか、古い疑問が一つ転がり落ちてきた。

「あっ……どうして敢えてプリンでいったんですか? お菓子の家」
「敢えて?」
「お菓子の家のストーリーを皮肉るなら、別にゼリーやビスケットでも良かったのでしょう? 上部のカラメルソースとか無駄だと思うし」
「何を言っているの」
「あれ、可笑しなこと言ってます?」
「洒落? でも、プリンじゃないと駄目よ、プリンがあなたの弱点なんだから」
「じゃ、弱点?」
「そう、誰にだって弱点はある。私が調べた結果、あなたの弱点はプリン。プリンじゃないとあなたの世界に干渉出来ない」
「私、プリン大好きですけど?」
「あなたは甘い物全部好きじゃないの……ってそうじゃないわ、弱点に好きとか嫌いとかは関係ないのよ」
「はぁ……」
「それぞれ決まった物があるのよ。例えば魔理沙の弱点はウナギ。アリスの弱点は唐辛子で、咲夜の弱点はゴーヤ――他には妖夢もゴーヤね」
「食べ物ばっかりじゃないですか」
「アンデッドは火に弱い」
「今更まともなこと言われても、むしろそれが例外に思えてなりませんよ」
「むきゅー」
「で、どうして弱点の調査なんてしてるんです? 人選見てると紅魔館の外の人まで調査してるみたいだし」
「ああ、言ってなかったかしら? 実は宴会そのものが異変みたいなの。誰かが宴会の発生を裏で操ってる感じがするのよ」
「それは知識から判明した?」
「残念だけど妖気ね。知識が通用しないのが悔しいから、ちょっと遊んでやろうと思ってるの」
「遊んでやる……」
「そう、他の連中の口を割って犯人を聞きだしてやろうと思ってね。それで私ばかり弱点を晒してるのはアンフェアじゃない?」
「なるほど、それで他の皆さんの!」
「そういうこと」

 凄い事になった、本日はパチュリー様が本格的に活動なさるらしい。
 でも、戦闘になったらどうするのだろう? 強さに疑いを持つことは決して無いが、体調の方は大丈夫なのだろうか?
 顔色は……悪くない。
 最近は発作も落ち着いているみたいだけど、それでもやっぱり心配だ。

「あ、あの、私も是非お供させて――!」
「駄目よ、あなたにはあなたのすることがあるでしょう?」
「後でやりますから!」
「子供みたいなこと言わないの。心配しなくても無理はしないわ。紅魔館にも途中何度か寄る、薬も持っていく、それでも駄目な時は――」
「……時は?」
「あなたを大声で呼んだら、一目散に飛んで来るんじゃないかしら?」

 そう言ってパチュリー様は笑った。
 胸に堪えた、嬉しい台詞だ、だけど無理な話じゃないか。
 地下図書館まで届く声なんて……門の前で魔理沙が暴れていても気が付かないってのに……。
 私は不安げな顔を作ってパチュリー様の顔を覗いた。
 パチュリー様は私の気持ちを他所に楽しそうにしていた、ウナギと唐辛子とゴーヤを紫の手提げ袋に入れて口を締めた。
 私、いらないのかな。
 本当に何でもないような気がする。
 私がいなくても、どうとでもなりそうな気がする。

「私、なんか……最近駄目ですね」
「どうしたの?」
「パチュリー様の時間を割いてもらって、紅茶まで淹れてもらって、なのに殆どお役に立てないなんて」
「……」

 パチュリー様は、口でへの字を作った。
 不満な気持ちはすぐに解った。
 次いで、愚痴なんてこぼすもんじゃないと後悔した。
 パチュリー様が本を持って歩いて来る、また追加の本なのかもしれない。
 でも、それも自業自得だ……。

「――ぶみゃっ!?」
「目を覚ましなさい。まるで前の私を見ているみたいで気に入らないわ」
「な、な、なんです!?」
「本のタイトルに注目」
「……わっ」
「あなたは私に何を教えたの? ちょっと自分がその立場になったら、弱いフリをして憐憫を誘うのかしら? 誰を頼ることもなく」
「いえ、そ、そういうわけでは……ごめんなさい」
「私と学ぶつもりが無いなら、私と歩むつもりが無いならすぐに出て行きなさい。そうじゃないなら、自分の魅力を信じて頑張りなさい」
「魅力を?」
「誰が好きでもない人に手を貸したりしますか。そうでしょう、小悪魔!」
「は、はい! そうです!」
「私は、私と知識を共有出来る人材を育てるのが夢よ。例えそれが悪魔でもね、幾らでも協力するわ。あなたが私について来てくれるならば」
「う、うわぁ」
「……何よ?」
「そんな歯の浮くような台詞をパチュリー様から聞けるとは思えず、くすぐったいやら、もったいないやらで」

 身をくねらせていると、今度は絵本の背表紙の方で頭を叩かれた。
 悲しみは一瞬で霧散して、頭の痛みに変わった。
 私の頭の痛みは、パチュリー様が元気な証拠なのです。元気だからパチュリー様が突っ込むのです。
 そんな痛みを嬉しさに変える超理論を展開してたんこぶを撫でていると、パチュリー様が呆れながら自分の席に戻った。

「美鈴並にタフな子ね」
「えへへ」
「誉めてな――いや、誉めてるのか」 
「あのぉ、せっかくの機会なので、一つだけ宜しいでしょうか?」
「何よ?」
「私が、その……もし知恵の悪魔になって魔界に戻ったら……その時はまた呼んでくれます?」
「それは技術的に難しいわ。だから、こちらから探しに行く」
「え?」
「座標指定が難しいなら、対象を適当な所に放り込めばいいのよ。私から行く。その時はレミィも連れて行きましょうか。きっと楽しい魔界探索になるわ。待ってなさいよ、イヤだって言っても探し出して、首根っこ捕まえてこっちの世界に連れて帰るからね」
「パチュリー様……」
「今日はずいぶんサービスしたからこれで終わり。あとは一人で勉強を頑張りなさい。私の使い魔に相応しい実力を」
「はい!」

 本の向こうへと去っていったパチュリー様だったが「やっぱりゼリー」と呟いて、席にUターンして来た。
 私は笑いながら、パチュリー様のゼリーをスプーンで突付いた。
 パチュリー様は「はしたない」と私を怒って、私からゼリーを取り上げると椅子を回転させて背を向けた。
 きっと食べる姿をじろじろと見られたくないんだろう、私はちゃんと解っていたけど、頬杖を突いてパチュリー様の背中を眺めていた。

 ……ドアの開く音がする。

 パチュリー様はゼリーを食べ終えて、席を立った。
 私は誰もいなくなった席を見つめて、それからパチュリー様用の椅子を円卓まで片付けに行った。
 戻ってきたら、黒の絵本が、机の端に置かれたままなのを見つけた。
 頁に手をかけたが、それを開くことはしなかった。
 私が埋める余白は別にある。

 栞を挟んであった所から、本を開く。 
 話し声がして、弾幕の音がして……静かになった頃には私のノートが一杯になっていた。
 私は一息入れて、次の頁を目指した。
 真っ白な頁は、私が書くのを待ってたように輝いていた。
 その頁もパチュリー様の教えで一杯にしていく。
 教えようとしてくれてることで一杯にしていく。
 億の図書に出会えた喜びよりも、知識の殿堂に辿り着いた奇跡よりも、最高の師に出会えたことに何より価値があるのだと気付いていた。
 私はまだ、一人だとしゃがんで途方にくれることしか出来ない。
 だけど忘れない、あなたの言葉を、あなたの夢を、私のことを待ってくれてる人がいることを。
 あなたと肩を並べられる遠い日を夢見て、私は今日を頑張る。

 あの子が繋げられなかった仔馬座は……私達の物語で繋げていけばいい。
 いつかそんな絵本を、故郷に持って帰りたい。

 

 

 

 

■作者からのメッセージ

大変長い間お付き合いいただき、有難うございました。
後書きだけ見てくれた人も含めて、お礼を申し上げます。
こぁ萌えだけで書き始めましたが、なんか凄い長さになってしまいました。
好き勝手楽しくやりましたが、少しでも楽しんでいただけるものがあると嬉しいです。

それでは〜。こ、こぁー!



    SS
Index

2006年10月15日 はむすた

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