小悪魔RPG(2)

 

 

 

 二階は濃い。
 それが第一印象だった。 
 一口で発狂しそうな色彩のキノコが、これまた何を間違ったのと聞きたくなるカラフルな壁の隙間からにょきにょき生えている。
 パステルカラーっていうんだっけ。
 子供用のクレヨンを、大人が使ってきちんと壁に描いたらこんな感じかも。
 選んだ色に計画性はないが、色の境界線には異常なまでに拘っていて、食み出たり重なったりしてる部分はない。
 神経質なおばさんが、壁を塗って子供を喜ばせようと何人も集まって、結果、自分達だけで満足しちゃった寒いアート風味。

「はぅぅ……じっと見てると目が悪くなりそう……」
「その前に歩きながら見てると、酔いそうでごわす」

 おいどんが口に手を当てて首を振ったので「吐くなよ、絶対に吐くなよ!」と念を押しておいた。
 言ってからしまったと思ったが、お約束通り、おいどんは窓から外に向けて吐いていた。
 黒い背中から顔を背ける、下に通行人とかいませんように。  
 ここの窓は壁をくり貫いているだけで、ガラスが嵌め込まれたりはしていないので、外と直通。
  
 私までつられて気分が悪くなってきて、何とか持ちこたえようと別の窓から顔を出して、外の風に当たってみた。
 二階だから大したことないだろうと甘く見積もって下を見ると、ざっと5mは越えていた。
 ぶるっと来た、落ちたら死ぬかもという想い。
 飛べない小悪魔は、ただの少女です。

「こぁちゃん! 敵襲でごわ――」

 ごわ、まで発音して、おいどんは窓に戻った。
 正しい選択だ、少なくともこちらに向けてぶちまけるべきではないし、それはあらゆる敵より怖い。

 私が抜き身のグリモワール(というかカバーどこだっけ?)を持って振り返ると、今まで遭遇したことなかった種類の敵がいた。
 二階に来て、敵のメンバーも一新してる〜、とちょっとわくわくしたが、一階でザコ敵と遭遇していないので、塔全体がこんな感じなのかもしれない。
 妖精、毛玉、それから……人形?
 人形? アリスさんの? アリスさんがここのボスなわけ?
 
――あ、ちょっとまって。

 こぁ、今酷い想像しちゃった。
 
 ごめんなさい、アリスさん、不名誉な扱いで大変申し訳ない、でも、それでも、ちょっと確認しておきたいことがあるのですが。
 ……宜しいですか?

「おいどーーん!! この階にお前の友達はいるかー!?」
「いるでごわす。アリスどんが」

 聞いて私は頭突きをした、傍にいた敵に怒りの頭突きをした。
 一発、二発、三発目で飛ばす。
 どうなんだ、まさかマッチョじゃ……おいどんみたいな女装系マッチョじゃないだろうな!?
 悔しい……! 訊きたいが、それ以上怖くて訊けない!

「自然派魔法使いのアリスどんがいるでごわすよ」

 マッチョゲージが上がってるじゃないか……。
 自然派って……アマゾン……いや……そんな、そんなギャランドゥが許されていいのか……。
 落胆しながら敵を打ちのめしていく。 
 私の身体は軽く、振り下ろした本は重かった。
 それが怒りのためなのか、ただ成長したのか私には解らない。
 
 おいどんも戦線復帰したが、いつものような大活躍はみせなかった。
 吐いたせいなのかな? いや、二階は建築上脆そうな雰囲気があるので、手加減してるのかもしれない。
 考えるだけ、どうでもいい情報だった。
 ギャランドゥアリスがやって来れば、風の前の塵に等しい。
 
 侵入者、侵入者とうるさい人形たちは、私の悪魔的ヘッドバッティングの前に逃げ出した。
「アリスに、報告シテヤルー!」との負け犬台詞を置いて逃げていった。
 それを合図に僅かに残ってた敵も、奥に消えていった。
最後に、空気を読んでないファンファーレが高々と鳴って、私のレベルが一つアップした。

「なかなか手強い敵でごわしたな」
「…………」
「そうでごわす。おいどんとアリスどんは同郷の――」
「やーめーてー! それ以上マッチョ確率を上げないでー!」

 おいどんは、怪訝な顔で下がった。 
 叫ぶと喉が渇いた。
 それはコロッケを食べてる頃から急激に上昇し始めた欲求で、今始まったことじゃない。
 だけど、急に我慢が出来なくなった。
 戦闘で汗を掻いたから、そういう面もあるのだけれど、死の少女アリスが忍び寄る恐怖の汗が一番大きい。

「暑い……喉かわいたー」

 この服は暑い。
 これが正規の服装なのだが、ウドンゲさんのミニスカートを羨ましく思った。
 お尻を床に下ろし、だだっこ並に手足をばたばたさせてみた。
 余計に喉が渇いた。
 どうして、こんなにリアリティがあるんだろう……。
 此処はパチュリー様が作った精神世界じゃないの? はれ、待てよ、精神世界か……。
 あはっ! 小悪魔すごいイイコト思いつきましたよ!

「飲んだ気になればいいんだ!」

 コロッケは食べた気になったからお腹が膨れたんだ。
 心頭滅却すれば火もまた涼しい。
 現実世界がそうなのだから、精神世界のここならばより一層の効果が期待できよう。
 思い込め……キンキンに冷えたオレンジジュースを一気に喉に流し込む、その一瞬を思い描き、実際に飲んだと同等のイメージを与えろ!
 頑張れ小悪魔! 君はきっとやれば出来る子!

 腰に手を当てて、さっと立ち上がる。
 上体をやや逸らし、右手をコップが握れる程度に開き、がっと指先まで力を入れて唇の上に導く。
 いける、気分は常夏リゾート! 何度か唾で喉を鳴らして、最後にぷはーっと息を吐けば!

「なにをやってるでごわす?」

 結果、おいどんに八つ当たり。

「そんなに喉が渇いているでごわすか?」
「……うん、うん……ぐすっ……真似じゃ無理だったぁ……」
「仕方ないでごわすな。とっておきでごわしたが……」
「ええ!? 嘘! コロッケみたいにおいどん魔法炸裂ですか!?」
「アリスに会って、お茶でもご馳走になりもうそう」

 空気読め! ミラクル炸裂させて! どうしてマッチョとの遭遇を急がないといけないの!?

―――――

 塔の外周を歩いて進むこと十分。
 その間、三回モンスターに絡まれて、倒して、次のファンファーレを聴きながら広い通路に出たら、そこを通せんぼする形で白い家があった。
 汗で耳に張り付いた髪を指で退けて、まこと馬鹿馬鹿しい塔の家を見上げる。
 自然派魔法使いの名に恥じず、玄関の前に植木があり、花が咲き、窓からの光に蝶が飛んでいた。
 塔の二階の縦幅を目いっぱい使って、三界の床を屋根にして、石造りの家が目の前にどかんと建てられていた。

「なんで……?」
「ごわ?」
「何で、おいどんが……塔の中を知ってるの……?」
「昔は簡単にここまで登れてたでごわす。モンスターもいなかったし、永遠亭組も一階に入ってなかったでごわすからなぁ」

 この塔はマンション待遇かよ。

「うぅ、それにしても暑いぃ……」
「バテバテなら、無理に喋らなくてもいいでごわす」
「じゃあ、最後に、ア、アリスさん、どうして塔の中に住んでいるの?」
「いやー、ただの別荘でごわす」

 塔の中に別荘って、どういった感覚をしてるんだ……しかし、そうか、アリスさんはボスじゃないってことだよね。
 その方が有難いのだけど、それじゃあ二階のボスは一体誰になるんだろう?
 私はもう一度、家を見る。
 カラフルなブロックの世界に、真っ白な家は異邦人みたいだ。
 私達が近付くと、呼び鈴を鳴らすまでもなく上海さんと蓬莱さんが飛んできて私達を出迎え――どうして出迎えが弾幕ですか?

「シンニュウシャだ!」
「シンニュウシャめ!」

 どうやら、二階に上がってすぐの戦闘で人形をしばいて追い払ったのがまずかった。
 すっかり誤解されてる私は、高名な上海レーザーと蓬莱レーザーのコンビネーション攻撃によって壁に追い込まれた。
 他の人形達も進み出て剣を持ち、両手を挙げて早々に降参のポーズの私をぐるりと包囲する。
 そんな状態になってようやくおいどんが前に出て、二人の人形たちに笑って挨拶した。
 遅いよ。

「やぁー、久しぶりでごわすな〜」
「誰? 騙されないぞ!」
「騙されないぞ!」
「おいどんでごわす」
「あ、オイドンだ!」
「わあ、オイドンがいる!」
「どうする?」
「ごめんなさいする?」
「ごめんなさい、間違えてました、アリス呼んでくるね」

 あっさりと謝った二人の人形は、滑舌が良く、関節も滑らかに動いていた。
 こちらの世界で、アリスさんの人形は完全な自律を手に入れてるように見えた。
 上海さんと蓬莱さんは二人とも窓から入っていって、あとは他の人形達と一緒にアリスさんが出てくるのを待つことになった。
 緊張する。
 暑さとは別に、じっとりと滲んだ汗が手に浮かぶ。
 私の非常に分の悪い賭けは、紅魔館にいなくても常に行われていた。

 ドアがイィィィ……って低い音を立てて開いて、その隙間から蜂蜜色の髪がひょいと現れる。
 とても明るい顔は、私を見てにこりと微笑んだ。
 服装も私が知っているのと同じで、腕も足も細く、滑らかな肌をしていた。
 マッチョじゃない! マッチョじゃないよ! やったー!

「あら、こんにちは。初めまして……であってるかしら?」
「こんにちは! 初めまして!」
「初めまして。まあ、おいどん、久しぶりね。元気にしていた?」
「ご無沙汰してるでごわす。見ての通り元気でごわすよ」
「私もよ。ねえ、こちらの可愛らしいレディを私にも紹介してもらえる?」

 レディ!? レディだって、うわ、こっちのアリスさん舌が良く回って社交的!
 ファンになりそう!

「こぁちぁ――こあちゃんでごわす」
「お前台無しだろ!? なんで初対面の人に渾名で紹介するんだよ! しかも噛んだでしょ!? 恥ずかしいなら言うなよ!」
「あはは、仲がいいわね〜」
「いえ、全然仲良くないです! これっぽっちも! あ、小悪魔です、初めまして!」
「……ええ?」

 年齢不詳の緩んだ笑顔がふっと消えて、警戒とも呼べる色がその顔に浮かぶ。
 あ、やっぱり悪魔って正直に自己紹介したら、普通は危険に思われちゃうよね……。

「はぁ、なるほどね。こういう事もあるんだぁ……」
「へ?」
「いいえ、ごめんなさい。喉渇いてるでしょう? 冷たいの出してあげるから、さ、遠慮せずに入って」

 観察するように見ていた目を逸らすと、アリスさんはまたあどけない笑顔を浮かべた。
 一杯に開いた扉の向こうから、涼気が流れてくる。
 幾らかの人形達が団扇を持ち私達を扇ぎ、また幾らかの人形達は、入って、入ってと私の背中を押す。
 涼みたいし、喉の渇きも癒したいのだけど、こんなに無警戒で大丈夫なんだろうか?
 まあ、おいどんの友達なんだから、こっちに危険なことはないだろうが、アリスさんのしてみたら古い友人の友人を無条件に信用して家に入れるわけで、多少の躊躇は見られる場面だよね、と思う。
 こぁだったら人見知りしますよ、特に男性には。
 ありゃ、そういえば、おいどんには初対面から友達みたいな対応が出来ているな。 
 会った時からだよね、エイリンちゃんもそうだ、現実離れしすぎてるから、私ってばやけくそな感情で動いているんだろうか。
 いや――。

「そうだ、あなた、三年前から私の家にサンドバックを忘れていったきりよ?」
「あー、あの時は降った雨が、帰るときには上がっていたから、つい忘れたでごわすよ。すまんすまん」

 サンドバックを忘れるか普通、しかも置き傘レベルの失敗で済ますなっての。
 私は心でそんな突込みをしてるうちに、アリスさんとおいどんは家に入り、違和感の漣は泡となり消えていった。

―――――

 グラスを一息に空けた。
 ストローまで付けてもらったのに、失礼だけど直接口をつけて飲んだ。
 大粒の氷がたくさん浮かぶオレンジジュースは、表面の結露が魅力的で魅力的で、私の喉の渇きっぷりでは我慢出来なかったのだ。

「ぷはーっ!」

 テーブルの向かいに座るアリスさんが、自分のジュースをストローで掻き混ぜながら笑っている。
 透明な氷が割れて、涼しい音を立てた。
 
「おかわりいる?」
「え? あ、でも、いやー、お言葉に甘えて!」 

 椅子を引いてアリスさんが立ち上がる。
 グラスをお盆に載せると、人形を呼んで何処かへ(おそらく台所へ)消えていった。
 こうして一人になると気まずい、じろじろ家具や調度品を観察するのもなんだし、膝の上に手を組んでモジモジとしてみる。
 余所の家に上がった瞬間に感じられる匂いって不思議、すぐに慣れるのだけど、違う家なんだと思うと何気な緊張がある。
 なんだかポケットが嵩張るなと思ったら、新聞紙を入れたままだった。
 後でゴミ箱借りよう。
 
 家の外からサンドバックを打つ音が聞こえだした。
 おいどんの奴ってば旧友との久々の再会を放り出して、水一杯飲んだらサンドバッグ持って外に出ていった。
 この辺りに、ぶら下げる所なんてあったかなぁ? サンドバック。
 積もる話もあるでしょうに。 
 人の別荘で筋肉鍛える魔法使いなんて、神様がうっかり職業を間違えたとしか思えない。
 
「お待たせ〜」
「あーん、すいませーん!」

 笑われるたびに礼儀正しくしようと思うのだが、頬の筋肉が緩んで仕方ない。
 こんな場所で、氷の入った飲み物で御持て成しとは、なんて気合の入ったことだろうと尊敬する。
 魔法で氷を作ってるんだろうか。

「いただきま〜す」

 美味しい。
 グラスをお酒のように煽って、最後はかーっと息を吐く。
 このかーっという言葉が、喉越しをより爽快にしてくれるのだ、と教えてくれたのは確かパチュリー様。
 その割に、パチュリー様はお酒を殆ど飲まれないけど。
 それはお酒に弱いから、ううん、一般的に言うお酒の弱さではなくて、アルコールが気管支を狭めて喘息を誘発させるからです。
 私は喋ってもらった事があるわけじゃないけど、なんとなく知っている。

「氷なんて凄いですね、町は遠いでしょう? 魔法で作るんですか?」

 アリスさんと一緒に戻ってきた人形達が、また後ろからぱたぱたと団扇で扇いでくれる。
 私はその働きを笑顔とお辞儀で労った後、アリスさんに質問してみた。

「あら、魔法で作れたら凄いわねー。残念、私には出来ません。まあ、氷なら無限に貰えるから気にしないで」

 貰える、というのに引っ掛りを覚えたけど、あまり貴重なものではないというのは表情から伝わった。
 貴重な物を遠慮しながら飲むよりはいいよね……。
 わ、いけない、お礼を忘れていた。 

「あの、ありがとうございます。色々とお世話になっちゃって」
「いえいえ、お世話様」
 
 会話が続かない、にこにこ笑ってこっちを見られると、私も曖昧に笑いながら言葉を探すしかない。 
 ええと、なんだ、なんだろう、洒落たことの一つくらい言いたいのだけど。

「え、ええ……と……そ、そこのゴミ箱可愛いですよね!」

 ……自分を呪いたくなった。

「ゴミ箱? ああ、うん」
「藤籠でゴミ箱って、お洒落ですよ〜」
「ありがとう。手作りなのよ、大叔母の」
「へぇー」
「……うん」

 また会話が続かない。
 複数の文字列は浮かぶのだが、これは失礼かな、いや踏み込みすぎ、とか臆病だから口に出せない。
 おいどんは何をやっているの、私を一人にすると人見知りするんだってば、うーん、ゴミ箱から、なんとか会話発展出来ないかしら……。

「あの、もし宜しければ、ゴミ箱お借りしてもいいです?」
「ん?」
「ちょっとポケットにゴミが……」
「あらら、ゴミ箱はゴミを入れる為のものなんだから。私の許可なんてなくても、いつでも大歓迎よ」
 
 照れ笑いで立ち上がり、ゴミ箱のほうへ歩く。

「本当に素直な悪魔さんなのね。集団生活、苦労してない?」 

 頭を掻きながら「まぁ、それなりに」と答えてポケットに手を突っ込む。
 丸めた新聞紙を取り出して、藤籠へ一つ、二つ、三つ……四つ目を籠に落とした時に、石ころみたいなものが一緒になって落ちた。
 先がピンク色で、小指の先ぐらいの丸い物体。
 摘み上げると、そこそこ硬くて、ぐりぐりと指先で回していると指に色が移った。 

「どうしたの、手に持ってるのはクレヨンかしら?」
「へ? あ、そうか、クレヨンか!」
「ずいぶんと、ちびたクレヨンね」
「むかーし、失くしたんですよ、丁度このくらいの大きさで、あれー、こんなところにあったのか、夢みたいだなー」

 夢だっけ。
 軽く落ち込む。

「私、この色大好きだったんです。最後まで使おうと思ってたのに、どっかへ転がってっちゃって……」
「物持ちの良いことね。あなたのおかげで私の中の悪魔イメージがどんどん更新中よ」
「大切な……ええと、上手く思い出せないけど、子供の時は大切な物だったです。あはは、手が大きくなると感触が違いますね」
「そうね、この辺りを走っている、マンモスみたいな色だわ」

 アリスさんが、ついと窓の外へ目を向けた。 
 私も窓の近くまで歩いて、外を見る、南向きの窓から遠くに夜雀のお宿が見える。
 宿の更に向こうで、落とし穴に落ちたマンモスを、ミスチーさんが低空ダッシュから襲い掛かって狩りをしていた。

「うわ、凄い。ああやって、店に出す物を揃えてたんだ、ガッツありますねー」
「健気ね」
「はい? 健気……ですか?」
「ええ、ああして行動で示しているのよ、言葉が足りなかったから、今でも足りないから、行動で示しているの、もう何年にもなるかしら」

 おいどんのサンドバックの音が遠い。
 私は急に部屋が冷えた気がして、唾を飲み込んだ。

「あ、あの、ミスチーさんが何か?」
「詳しい事情は知らないの。私が勝手に想像しただけで、あってると格好良いんだけど、間違ってると恥ずかしいから、話すのは止める」
「えーっ?」
「難しいわね。言葉では通じないから人は行動に出る。家出なんて、そのもっともたるもので、自殺なんかがその最悪な形でしょう? そこまでしても思いを曲解されることは多々あるし、世の中上手く出来てないわねー」
「はぁ……」

 アリスさんはそこで話を区切った。
 気合が乗ってきたのか、外からマスタースパークとかマジックナパームとか技名が聞こえ始めた。
 アリスさんが続きを喋るのかなー、と私はずっと待っていたのだけど、何も話してくれなくて、ジュースばかりが減っていった。
 
「あ、んーと……おいどんの奴、何やってるんですかね。ずーっと、サンドバッグなんて、訪ねに来た方がすることじゃないですよねー」
「ふふふ、実は、サンドバッグを打ちに私の家に来たのかもしれないわよ?」
「まさかー」
「どう、おいどんは役に立ってる?」
「戦闘ではかなりお世話になってます。魔法使いって名乗って魔法使わない人は始めて見ましたけど」
「でしょうねぇ、ファーストコンタクトはかなり衝撃的よね」
「おいどんと、アリスさんは、どんなご関係なんですか?」
「色々と理由は付けられるんだけど、単純な話、家出仲間だわ」
「え? 家出?」
「お前なんか勘当だー、出ていけーって先に言われちゃったから、正しくは勘当仲間なんだけど、自分から家出したことにしてやってるの」
 
 白い歯を見せて、なんでもないよと私に見せるように笑ってくれた。
 過ぎた過去なのだろうか、強がりなのだろうか、経験不足の私には見抜くことが出来なかった。
 勘当って、二人ともなのか……うーん、見えないな、特にアリスさんは、色んな人と上手くやっていけそうな、明るさを持っている。

「勘当の理由、聞きたい?」
「あ、そ、その……いいえ……」
「聞きたいわ、普通聞きたいもの。生き物ってそんなもんよね、私も話したいから気に病む必要はないわ」
「はぁ……いいんですか?」
「おいどんから話してあげる。私からだと恥ずかしいものね」
「ははっ」
「見ての通り、あのナリが原因よ」

 アリスさんが頭の上に手で三角を作る、三角帽子――服装のことだ。
 あれが趣味なら煙たがられるのは仕方ないが、勘当まで行くと行き過ぎじゃないかなって思った。

「まあ、結果的にあの服が体裁悪くて勘当されたんだけど、あれはあれで信念があることだから私はキライじゃないわ」
「あれは、何なんです? 変身願望? 女装癖?」
「コスプレ」
「……」
「あはは、おいどんってね、魔法使いの家に生まれたのに魔法がまるで使えなかったの。こんな話は魔女じゃ有り得ないんだけど、魔法使いってのは才能だからさ、血で生きてる魔女とは違うのよ。だから、生まれた時からおちこぼれ。辛いよね、本人がやる気あっただけに尚辛い」
「だから、戦士みたいな真似をやっているんですか?」
「過去に一度だけ殴る時に魔法が出たそうよ、以来あれが彼の魔法使いの形」
「プロレスかボクシングに見えますけど……」
「そうね、図体がでかくて筋力もあって、それが余計に他のモヤシ連中には目障りだったみたい。ずいぶんと虐められたり虐げられたりしたらしいわ。親からも結構な見捨てられっぷりだって聞いたことがある。それでも自分を信じて頑張っていたけど、いい加減ボロボロだったわね」
「……魔女社会ってそんなに能力重視なんですか?」
「んー、ま、どの社会もそんなもんだ。こんなの諦めた方が楽なんだけど、おいどんは不器用だから諦めきれなかったのね」

 アリスさんはジュースに口を付けた後、私の目を見て「不器用が集まったよね?」と嬉しそうに言った。
 何を指してるのか、分かってしまったような気がして、ポケットの中のクレヨンをぎゅっと握った。

「それで探したのよ。社会を壊してくれる人を」
「壊す?」
「ええ、魔法の全ては才能とブレインだと断言している社会を否定し、それ以外の道を歩んで成功した魔法使いの例を探したの。それで見つけた。魔法は努力とパワーだって言ってくれる人を」
「え? あれ?」
「そこに惚れて、その人物を真似てあんな格好をしているわけ」
「あ!」
「そうよ、魔理沙さん」

 魔理沙さんの名前に思わず腰が浮いた。
 私の世界の魔理沙さんだ。
 それは、アリスさんが「さん」を付けて呼んでることからも明らかだった。

「ど、ど、どうしてですか!?」
「うーん、質問の対象が明らかになってないわよ?」
「どうして私の世界のことを!?」
「絵本で知ったの、少なくともおいどんや私達は」
「え、絵本ー?」
「そっちの世界の情報って、なんだか絵本になって落ちてくるのよね、天蓋からぽーんと」
「うわ、ファンタジーだ……それはまじですか?」
「だって、あなたがいた外の世界に対して誰一人、そりゃ何処の世界だ? って聞き返さないでしょう?」
「ま、まあ、そういうルールかと思ってましたけど」
「ルール?」
「ああ、いえ……」
「ねぇ、これは私の好奇心なんだけど、魔理沙さんってどんな人なの?」
「ええ? 急に言われても、うーん、私にとっては普通に本泥――」
「努力家でとっても強くて格好良くて弱者に優しい正義の魔法使いって聞いたけど、本当?」
「……知らない方がいいと思います。少なくとも今、おいどんに言えなくなりました……」

 歪んで伝わってるなぁ……。
 パワーだって言ったのも弾幕であって魔法を指してるわけじゃないし、それでも、魔法で弾出してるんだから、似たようなものなのかな。

「でも、絵本なんかで、そんなに強く憧れるものですか?」
「その時の感情や年齢によるんじゃない? 漫画に憧れて剣士になったり、プロスポーツの選手になったりもするんだしさ」
「あ、こちらにはプロスポーツとかあるんだ」
「あるある、大食いファイターとかキノコ狩りの魔術師とか」
「……それ、スポーツかなぁ?」
「とにかく、そんな状態だったから、魔法は努力とパワーだってのは、おいどんにはすこぶる効いたのよ」
「ふむぅ……」
「ここから先はおいどんに聞いて。たぶん私じゃ幾ら言葉を並べても伝わらないわ」
「あ、はい、ありがとうございました」
「お礼を言う箇所じゃないって」

 アリスさんがまた笑う。
 今気が付いたけど、アリスさんが笑うと人形達が嬉しそうにする。
 ううん、思い違いじゃない、はっきりどこが、とは言えないけれど、部屋全体の空気が変わる。

「でも、私を選んでくれなかったのはショックだったなー」
「え!?」
「ほら、夜雀のパーティ名簿に、私も載っていたでしょう?」
「あ、そういえば!」
「ねえ、私ってそんなに魅力ない?」
「い、いいえ! 知ってたら当然選ぶんですけど、な、なんかルーレットやってるみたいな、博打的な状況でキャンセル不可と言いますか」
「冗談よ。でも、会いたかったのは本当。まさかこんな優しい悪魔さんだなんて思わなかったけどね」
「誉められてるような、馬鹿にされてるような……」
「このまま、私の話も聞いとく?」
「あ、是非」
「そうね、私はたぶん魔女という括りが嫌いだったのね」
「括りですか」
「知ってるかな? こっちの世界の魔女って殆どが街で暮らしているの。昔試しに住んでみたら便利さから抜けられなくなったのよ」
「うーん、あんまりイメージ湧きませんねー。魔女って森にいそうですもん」
「もちろん森にいたんだけど。過去形で」
「都会ってそんなに便利ですか?」
「便利だけど不自由ね。狭いわ。私の実家なんてベッドの隣にでっかい魔女鍋置いて、ベッドの上からすりこぎでぐるこーんぐるこーんって回してるのよ。パジャマすら臭いが取れないっての」
「うわ、ご近所の人も大変だ……」
「当然、隣近所からガシガシ苦情が来るの。お上は眉を吊り上げて睨んでくるし、調合物もずいぶん制限されてしまって。そんな生活に反逆するようにプライドだけは育っちゃって、魔女が集まるといつも選民思想な愚痴をこぼすのよねー。分からず屋の人間ども! みたいなね、どっちがよ」

 アリスさんは、ずいぶんと早口で捲し立てた。
 感情は篭っていたが口調は尖っていなかった、怒気の中に懐かしい想いが混ざってるのかも知れない。        

「大変だったんですね、そんなに都会の魔女は嫌ですか?」
「嫌い嫌い、大嫌い。だから親と喧嘩ばっかしてた。剣を交えるのが剣豪ならば、鍋を爆発させるのが魔女でしょうが」
「いや、その例えはどうかなぁ……」
「私、反抗期に、父さんが媚びへつらってる偉い人に調合中のキノコと硫黄の化合物をぶつけたの。三日は臭い取れなかった。それで勘当」
「うわぁ……」
「そろそろ出ようって思ってたから、丁度いい機会だった。魔女は都会に住まず森に帰るべきだって」

 なるほど、都会派と自然派の違いがアリスさんのズレか。
 ん、おかしいな、元の世界のアリスさんは都会派って名乗ってるけど、普通に鬱蒼とした森に住んでますよ?
 他に何かズレがあるのかな……。

「……ところが、寂しくて不便なのよ」
「はい? あ、ごめんなさい、聞いてなくて」
「一人都会を出てみたら、今度は寂しさと不便さが一気に襲ってきてねぇ。他の魔女はここで諦めて戻ったんじゃないかなぁ」
「アリスさんは、どうしたんですか?」
「ふふふ、私には特殊な才能があったの。自慢だけど指先が凄い器用で、小さい頃から人形作りが得意だったわけよ」
「ああ、それで!」
「この通り。人形師ってのは私の夢の一つだった、これで夢が叶い、一人の不便さと寂しさも解消されたってわけ。おいで、上海」

 寄って来た人形にアリスさんが頬ずりする。

「こんな高い場所に住める、こんな広い場所に住める。自由な研究が出来る、これこそ私が思い描いた自由な魔女だ」

 人形達に囲まれて、アリスさんは堂々と宣言した。
 紅魔館は図書館だけでもこの家より広いから、広さに対する羨望は湧かなかったけど、それでもアリスさんは格好良くて輝いていた。

「アリスさんは凄いですね」
「そうでもないわ。我侭が過ぎたらこうなるって見本ね」
「……あの」
「ええ?」
「括りが嫌なのに、括りから逃げたのに、その先に何も見えてない人はどうすればいいんでしょうか……?」
「やっぱり、あなたも家出してきたのね?」
「へ? 家出? あ、違います! 家出はされてません、じゃなくてしてません! まだ……うん、大丈夫」
「何を数えているの?」
「あ、何でもないです。本当です、親子仲は良好です、マジであります」
「そう、変ね。その繋がりで三人が集まったのかなって、思ってたのだけど」
「ただ、親子仲は良好ですが、親不孝な気はしています」
「どうして?」
「もう何年も会ってませんし、この先会えないかも知れません……」
「ああ、それで指折り数えてたのね、でも、どうして?」

 これ以上は、この世界とは関係の無い、小悪魔の個人的な事情だった。
 迷ったのだけれど、一期一会の出会いになりそうだったから、素直な気持ちを吐き出してみることにした。

「私、使い魔なんです、悪魔になるまでの修業として、とある館に置いて貰ってるんですけど、逆に悪魔になるまで故郷に帰られません。契約に縛られているんです、破棄は可能ですけど……代償がありますし……」
「へぇ、使い魔なんだ。純粋な悪魔を使い魔にするなんて、よほどの魔術師なのね」
「えへへ、それはもう凄い人です」
「ふぅん……嬉しそうじゃない? 顔赤いし、恋人かしら?」
「ブッ! 何を言うんですか、ま、待ってくださいって、別に顔だって赤くないですよ!」
「実際に赤いけど〜」
「そんなことを言うからですー!」

 からかわれてるのは分かってるんだけど、性格的に突っ込み役に回ってしまう。
 それでも、私の行動を嬉しそうにしてくれると、こっちも嬉しい。
 私は少し緊張が解れて、自分の気持ちを続けた。

「ただレールに沿って動いて来た、修業に関しても半分諦めていた、でも、来てみたらそこが居心地良すぎて……私の夢が解らなくなりました」
「なんとなく事情が分かったわ。あなたが逃げたと例えた場所は、その館なわけだ」
「あ、はい、その通りで……」
「気長に待てばいいんじゃない?」 
「は?」
「だから、逃げたのに、ぬるま湯に浸かってるような毎日が、色々と申し訳なく思うんでしょう? あるって、そういう焦りはみーんな」
「はぁ……」
「あのね、急いでなんとかしようとしても――」
「す、すみません、私には急ぐ必要があるんです。この塔の天辺に着くまでに、ある方を納得させるだけの言葉を持つ必要があるんです」
「ええ?」
「ぬるま湯に浸かっていたいでは、おそらく納得してくれません。その方だけではなく、故郷で私を待ってる人達も納得してくれないと思います」
「じゃあ、懸命になって悪魔を目指せば? それが単純で一番近い道ではないかしら?」
「と、遠いですよ、私怒られてばっかりだし、まだスペルカードの一枚も使えないし」
「……嘘でしょう?」
「それじゃ駄目だから、おそらくこの世界がですね……」

 アリスさんは会話を振り切って、前に出るように両手を突いて椅子から腰を浮かした。
 だけど、途中で思い直したのか、また椅子に腰を落ち着けて、それから透き通る鳶色の瞳で私を熱心に見つめてきた。
 私は困惑気味にグラスの溶けかけた氷に視線を落とした。

「あ、あの?」
「あなた本当に弱いの? 謙遜とか嫌味とかではなくて?」
「え、あ、いいえ。本当に弱いです、おいどんにでも訊いていただければ良く分かるかと」
「失礼になるかも知れないけど、私、純血種の悪魔って今日始めた見たの。伝承通り真っ赤に燃えるような髪をしていて、とても怖かった」      
「……」
「凄い魔力を感じる、弱いなんてちょっと信じられないな」
「……」
「あ、ごめん、きつかったわね……でも、今は怖くないわよ? 優しい悪魔さんって分かったし、それだけじゃなくて素敵な悪魔さんだわ」
「ち、違うんです、髪の色は……」
「え?」
「あの、髪の色はあまり言わないでください……」
「突然、どうしたの?」
「この色、血が滲んでるみたいで、私嫌いなんです……」

 僅かな驚きの後に、アリスさんはぷっと噴出した。
 どれだけ優しくて臆病な悪魔さんなのと、私に何度も笑いかけて「ううん、凄く綺麗な色よ」と何度も首を振った。
 私の腕が引っ張られる。
 そうして、鏡台の前まで引っ張っていって座らさせて「ほら、素敵じゃないの」と私の髪に手を入れて持上げた。
 私はされるがままにさせておいた。
 アリスさんは私の言葉を全く誤解していたが、私は訂正しようとは思わなかった。

「ねえ、本当に帰りたいなら契約を破棄して帰ればいいじゃない。代償なんて召喚者が払うものでしょう?」

 髪を櫛で梳きながらアリスさんが言う。

「このまま小悪魔で帰っても、みんなに笑われちゃうし、何より母さんががっかりしますから」

 私の目の玉は鏡から逃げるように右を向いていた。

―――――

 しばらくそうやっていたら、気持ちが持ち直してきた。
 鏡に映った髪は、遠い過去の色で、今の私は別に赤色が嫌いなわけじゃない。
 人の善意を悪意に取って拗ねていては、子供にも笑われる。

 鏡の中の自分とようやく目が合った。
 赤い目は自信無さそうに、私を見ていた。

「少し荒れてるわね」
「あ、す、すみません、だいぶ落ち着きました」
「いやいや、髪の毛よ? こちらに来てからそういう余裕もなかったでしょう?」

 櫛に付いた数本の髪の毛を摘んで、アリスさんがゴミ箱まで持って行くのを、私は鏡越しに眺めていた。
 アリスさんの指が離れ、髪の毛は他のゴミと一緒になった。

「さっきの話撤回させて、代償云々のやつ」
「はい?」
「後悔はしてないけど、今の私の生活は代償の上に成立ってるからね、家族の縁を捨ててるわけだし。優しいあなたにはお勧めできないわ」
「……町に会いに行ったりしないんですか?」
「勘当されてるのよ? 門の前で喧嘩してふてぶてしく帰るのがオチよ」
「喧嘩でもいいじゃないですか。会いに行きましょうよ」
「そうね、そういう時もいつか来るかも。ん、でも、一番会いたい人は、私の知らない間に死んじゃったから……」

 藤籠を見ながらアリスさんは言った。
 ずっと明るかったアリスさんが、俯いているアリスさんになったとき、私の知る誰かになった。

「人ってさ、何かを捨てて軽くならないと、夢に届くまでのエネルギーが足りないのよ」
「そうですか……」
「それでもさぁ……いや、だからさぁ、なのかな?」
「はい」
「誰かに見せてもらいたいの、全部背負ったまま遠いゴールまで駆け抜ける、そういう人を見てみたいのね」
「……ロケットみたい」
「ん?」
「あれって、捨てた反動で高く昇るから」
「そんなものがあるの?」
「前に作ってました。完成はしなかったけど」

 アリスさんは鏡台に戻り、私の髪に指を通した。
 それから「こうやって会話がずれるのも、あなたが天然のせいかしら?」と言った。
 天然じゃなかったら何だ、養殖になるのかなと思っていると、外からバタバタと大きな音がした。
 おそらく、おいどんが走って来る音だ。
 人形と一緒に部屋に入ってきたおいどんは、湯気が見えそうなほど汗だくで、両手にキノコをいっぱい掴んでいた。

「ふぅ、喉が渇いたでごわす。ああ、使えそうなキノコを適当に見繕ってきたでごわすよ」
「助かるわ、置いておいて」  

 人形達がキノコを回収し、部屋を出てどこかに運んでいく。
 別の人形がおいどんの前に水を差し出し、おいどんはそれを一気に飲み干して、肩にかけたタオルで乱暴に顔を拭いた。

「…………」
「え? なに?」
「いや、おいどんはもう一汗掻いて来るでごわすよ」
「そう? 頑張って」

 おいどんはそれだけ言うと、長い時間外で殴ってたとは思えないほどのしっかりとした足取りで、部屋を出て行く。

「あ、ちょっと、おいどん!」

 振り返ることはなかった。
 呼びかけるのが遅かったのかもしれない。
 あんまり長居するのも悪いので、そろそろ出ようかと思ってたのだけど。
 外でまたサンドバッグの低い音がしだした。

「サンドバッグそのうち壊れたりして……」
「大丈夫よ、特注品だから」
「練習熱心なのはいいけど、愛想悪いですよね、おいどん」
「そうでもないわよ。部屋がすっかり女の子の空気だったから恥ずかしかったんでしょう」
「ええ? そうなんですか?」
「え? そうでしょう?」
「でも、髪を梳いてるだけじゃないですか」
「代表的な女の子の世界じゃないの」
「えー?」
「彼も無骨に見えて繊細な人よ」
「とてもそうには見えないけど、付き合いの長い人が言うんだからそうなんだろうなぁ……」
「サンドバッグ叩いてるのも、昔の決意を新たにするためじゃないかしら。次は負けられない喧嘩になると思うから」
「負けられない……ここのボスって誰なんです?」
「コスプレ好きのもう一人の少女よ。方向は正反対なんだけど。おいどんのライバル。最近はおいどんが負けっ放しだけどね」

 おいどんの逆ということで、一瞬、私の頭にうふふ魔理沙さんが浮かんだ。
 おいどんと足して二で割ったら普通の魔理沙さんになるかなーって考えたが、どう割ってもおいどんの濃さは余りが出た。

「どうしたの? また空想中?」
「え、はい、すみません」
「空想楽しい?」
「いやー、皮肉だと思うのですが、真面目に答えると楽しいですよー」

 何も言ってくれない。
 沈黙に胃がしくしく痛む。

「……おいどん、勝てるかしらね?」

 アリスさんの声は、小さすぎて聞き取りにくかった。
 私が意を汲み取って「きっと勝てると思いますよ」と返したときには、アリスさんはもう椅子から立ち上がって人形達を集めていた。

「出かけてくるわ」
「え!? あ、じゃあ、私、おいどんを呼んできます!」
「いいの。別れの挨拶とか後で負担になっちゃうから」
「い、いや、でもこれだけお世話になって、あ、おいどんだってきちんと挨拶したいと思いますし!」
「いいのいいの。向こうもそのつもりで来たのよ」
「はぁ……」
「さぁて、夜までに戻れるかどうか微妙なラインね」

 差し込む光を身体に絡ませて、アリスさんは窓辺に歩いた。

「街までいってくるわ。買出しを兼ねて」
「お、お気をつけて」
「あなた達もね」

 人形が集まってくる、ニ、三、の数ではなく、十、二十を越える数が次々とアリスさんの下に集まってくる。
 その数が三十ぐらいになったところで、アリスさんはハンモックを持ってきて床に置き、それに座った。
 人形達がえいさ、えいさ、とみんなで掛け声をかけながらハンモックを引っ張り、遂にはアリスさんは地面から浮いた。
 
「力持ちでしょう、この子達?」

 部屋の中で1mほど浮かんだアリスさんが自慢げに言う。

「も、もしかして、街までそれで飛ぶんですか?」
「そうよ」
「……大丈夫ですか?」
「交代制だから、体力は問題ないわ。材質も魔法で強化したコットンロープだし、まあ、落ちたら落ちたでね、その時は自分で飛びますから」
「いや、飛べるなら、自分飛べよという当然の感想が浮かぶんですが……」
「だって、本を読みながら飛べるじゃない。賑やかな方が楽しいし、私の研究の成果を町の魔女に見せびらかせてやれるじゃないの」

 三つ理由を話してくれて、私は頷く。
 単純な話、アリスさんの真ん中に本音があって、それを隠すために前後に二つ理由を付けたんじゃないかって。
 思ったけど、言わなかった。

「グラスとか、全部そのままでいいからね。変に気を遣う必要はないから」
「あ、はい」
「最後にあなたにプレゼント。一枚占ってあげる」

 部屋のランプの下でカードケースが浮いて、一枚のカードが私の目の前に飛んできた。
 一般的な魔法使いらしいことを、アリスさんが始めてしたような気がする。

「タワー?」
「――の逆位置ね」
「はぁ……」
「占いにはイマジネーションが大切よ、好きなようにストーリーを作ってあげて」
「これ一枚で、ですか?」
「ええ、一枚で」

 色んな意味に取れるカードだ。
 仕組まれたカードなんだろうけど、アリスさんが私にこれを引かせた理由が解らない。
 悩んでるうちに、ハンモックが私から離れていく。
 窓まで私もついていって、塔の外に出たアリスさんを不安な気持ちで見つめた。
 慣れてるのか人形達に慌てた様子は無く、乗ってるアリスさんも平然とした顔をしていた。 

「それじゃ、またね」

 ピンクの雲一杯の空にアリスさんが浮かんでいく。
 風は無かった、アリスさんは私の頭よりもっと高い位置に上がると、太陽の方向へ進み始めた。
 私は手を振りながら叫んだ。

「お世話になりました! お疲れ様でしたー!」

 もう手が届かないアリスさんが「天然ね〜」と大きく笑い、人形達も楽しそうにした。
 最後に、それから最後に「グッドラック」という言葉を残して、小さくなってしまった。

 テーブルに戻ると、グリモワールの黒が大きく剥がれ落ちていた。

―――――

「どうしたでごわすか、その本」
「うーん……」

 引っ掻いてもそれ以上剥がれる事は無かった。
 本の表面に不細工なほど大きく、白色の生地が見えている。

「アリスどんはもう行ったでごわすか?」
「う、うん、おいどんに宜しくねって」
「……そうでごわすか」

 嘘を吐いた。ばれてるのかばれてないのか、おいどんは特に感慨も無さそうにしていた。
 既にサンドバッグは地面に落ちていて、どうするのかと思ったが、おいどんはそれを背中に担ぎ上げて歩き出した。

「え? 持ってくの!?」
「世話になったから、捨てるのも忍びない」
「だからって背負ってたら戦えないじゃない。アリスさんに今までみたいに預かってもらっとくとか……」
「それは出来んでごわす」

 あの時のアリスさんの冗談が、今になって重く圧し掛かった。
 本当においどんはサンドバッグを回収に寄ったんじゃないかって。
 そう思うと、寒いほど嫌な予感がした。
 
「……アリスさんが困らないように?」

 声は普通どおりだったと思う。
 だけど、おいどんは答えなかった。
 何も残したくない、そんな表現の仕方も友愛に入るのだろうか。

 道中が続く。
 敵は何度も襲ってきた。
 その度においどんはサンドバッグを降ろし、一緒に戦ってくれた。
 戦闘が終われば、私のレベルばかりが上がった。
 もう、おいどんのレベルが最初から一度も上がってないことに気付いていた。
 それが何のフラグなのかと考えて、馬鹿みたい、と首を振った。
 
 私はアリスさんから貰ったタロットカードを取り出して、その角を壁にくっつけたまま歩いた。
 子供の頃、こういうの良くやった。
 気分転換になればいいなと思った。
 ざりざりという石壁を擦る音と、ブロックの溝から抜け出す時に跳ねる、カッ、カッ、という緩やかなリズムを聞きながら、私は過ぎていく壁の色を頭で数えていた。 
 
(緑、青、黄色、ピンク、紫、茶色、白……)

 気が付くと一つの色を探している――。

(水色、黒、金色……えーっと群青色……銀色、黄緑、藍色……)

 溜め息を吐く。
 とてもメジャーな色なのに見付からない。
 その意味が、私にも少しずつ解り始めていた。
 私は窓を見つけ、外にピンク色のマンモスを探したが、見つける事は出来なかった。
 
「おいどん。もし運命ってのがあってさ、絶対に負けるって――」
「戦うでごわすよ」

 最後まで言えなかった。
 唇を噛んで、今度は空を見上げた。
 陽は高く空も青いけど、ぱっと反転して夜になるのだろう。
 昨日がそうだったように、この世界は明確な意思をもって落日を避けているんだ。
 
 逆位置の塔のカードを壁から外し、お守りだと偽っておいどんに渡した。
 アリスさんからよ、と付け加えて。
 
―――――

 静けさを宿した空間だった。
 鍾乳洞のように厳かで穏やかな広さを持つ青い部屋の隅っこの方に、隠れるようにボスがいた。
 彼女は座っていた回転椅子を蹴り飛ばし、開口一番こう言った。 

「待ちくたびれたわよ」
 
 窓の無い暗くて静謐な空間に、私はその人物を見つけたものだから、飛び上がるほど驚いた。
 ピンク色のネグリジェを着て、長い紫の髪をリボンで二つに分けたそのお姿は、パチュリー様にそっくりだった。
 ここで、咄嗟にそっくりという言葉が浮かんだこぁは、エライなーと思う。
 パチュリー様でも無い人を、パチュリー様と断定してしまっては、パチュリー様の使い魔の名折れですから。 
 ……種明かしをさせてもらうと、第一声が元気が良すぎたので、例え遠くでも判別が可能だった。

「予言も結構いい加減なものね……」

 近付いて見ると、まず目の色が違う。
 続いて肌の色にも病的な白さが無い、あ、目は形も違います、僅かに垂れ目です。
 今、怒ってジト目を作っておられるようですが、本家特有の熱帯雨林で沼の底から睨んでくるカバのような執拗さが感じられません。
 んー、失礼にあたるのか、そうでないのか、ちょっと微妙なラインを攻めてしまった。

「ちょっと、聞いてるのかしら?」

 ずかずかと歩いてきて、持ってる本で私の頭を一撃。
 この、文学少女とは正反対の無遠慮な物理攻撃は、私も本家を思い出せて嬉しいところ。

「……で、あなたが勇者?」
「あの、すみません、私達上の階に用があるんですが、通してもらうわけには行きませんか?」
「別にあなたはいいわよ。勝敗に関係なく後で通してあげるわ」
「え!?」
「私が用があるのは、そっちのでかいのだから」

 二人の視線の先に立つおいどんは、サンドバッグを置いて柔軟体操をしていた。
 真面目なような、暢気なような……。

「えーと、戦いとか、そういう乱暴な事は小悪魔いけないと思うんですよ」
「……ギャグ?」
「今回ばかりは穏便にいかないでしょうか? ライバルさんでしたら、また戦う機会なんていくらでも作れると思うし」
「今日を逃して戦う日など無いわ。どいて」

 人ごみを掻き分けるように、右手で押される。
 私はふらつきながらも、パリュリー様に……ええと、パチュリー様似の人に食い下がった。

「予言に拘ってるんですか? それって凄くつまらないことだと思いません?」
「予言なんて待ち合わせ時刻ぐらいにしかならない。マリサには戦う理由があるんだし、私には受ける権利があるわ」
「理由ってなんですか?」
「因縁よ。……マリサ!」

 太い腕をぐるぐる回しながら、おいどんが振り向く。
 その顔にいつもの優しさが消えていたから、怖かった。

「おいどん、駄目だって! 話し合おうよ!」
「ライバル同士が出会ったのでごわす。言葉はいらんでごわしょう」  
「そういうダサイくせに似合わないこと言ってる奴が、ホラー映画とかで真っ先にやられるんだって!」
「……申し訳ないが、こぁちゃん」
「な、なに?」
「おいどんは、ここがピークでごわす。この日の為に虐めるまでの訓練を身体に課してきもうした。肉体が限界を迎える前に、最高の状態で奴と勝負させて欲しい。どうかお頼み申す」
「何言ってるの、そんなの止まればいいだけじゃない、捨てようよ! 戦うプライドなんかより命の方がずっと重いよ!」
「……お頼み申す」

 おいどんは膝を突いて頭を下げた。
 私は返す言葉が無くて、彼の頭から落ちたウィッチハットを拾った。
 
「解った? どいてくれる?」

 サクランボのような唇が歪んだ。
 勝負の前から勝ち誇ったように、魔女が笑う。
 部外者を挑発する余裕はある、因縁と言っていたが、憎しみと直結する感情ではないらしい。
 憎しみが無くても命の取り合いができるのか。
 嫌だ、エゴでも偽善でもお節介でも構わないから、おいどんに死んでもらいたくはない。
 おいどんは、最近はずっと勝ってないって、アリスさんが言っていたじゃないか。
 今度も負けるんだ。
 それで、階段は私一人が上るんだ。
 泣きながら階段を上がっていくビジョンは、逃げ水のように揺らいで、まだ確定できていない。
 だけど、それは空想じゃなかったはずだ。

「これを」

 私が持った帽子の裏側の白い生地に、おいどんが何かを放り込んだ。
 取り出してみる。新聞紙に包まれたコロッケは、へしゃげていた。

「大事な物でごわすからな」
 
 勝負を前にして、コロッケのことを心配する男の戦う理由を考えてみた。
 知識の塊で魔導のスタンダードを行く魔法使いに、アウトスタイルを貫いた自分が勝利したいという願い。
 それが虐げられてきたおいどんの半生や、一本化された魔法社会を否定して、彼が新しい道を歩むのに必要なことなのだろうかと思う。

 ……魔女の方の戦う理由が解らない。
 パチュリー様だって、本が危なくないなら戦わない。
 一応、おいどんがライバルを名乗っても反論してこないところを見ると、その辺りは認めているらしいので、勝負も決して楽勝というわけではないはずだ。
 彼女にも、この戦いの危険性は十分に解っているはず。
 私に説得の道が残されているなら、そこしかないと思われた。

「ねえ、死ぬかもしれないんですよ?」
「いい加減煩いわ、二人とも覚悟の上なのよ。部外者が口を出さないでくれる?」
「ぶ、部外っ――私だってパーティの一人です!」
「まさか、あなた、サシの戦いに、水を差すつもりじゃないでしょうね?」
「パーティなんだからそれが普通の戦い方でしょう!? 理論ぶらないでくださいよ! こっちにだって正義があります!」
「正義? 多数で弱いものいじめをするのが、あなたが言う正義かしら?」
「弱くなんかない、あなたは十分に強いはずです! おいどんに勝つくらいだから私なんかよりずっと強いはずです!」
「それ、本気で言ってるの?」
「……何ですか?」
「私は知ってるわよ、いいえ、みんな知ってるわ。あなたが幾多の怪物を倒してきた遠い星の勇者だってことくらい」
「そ、それは預言者が間違ってるだけで、私はそんな……!」
「あははっ、それだけの魔力を漂わせてどの口が言うのかしら。それとも、そうやって騙まし討ちした敵の数も勇者様の試練に入ってるわけ?」

 魔女は声高に笑った。
 私は掴みかかりたい気持ちだったが、おいどんの顔を見て怒りを振り切り、そちらに踵を返した。

「……こぁちゃん」
「おいどん負けるよ! きっと殺されちゃうよ! ね、止めよう、こんな勝負止めよう?」
「もう――」
「リーダー命令だよ! こんなところで戦力を減らすなんてもったいないもん! 二人で戦って苦戦してでも三階に上ろうよ!」
「……もう、おいどんは、レベルが上がらんでごわす。三階以降の戦いにはついていけん」
「そんなことない、十分な強さだって! 万が一何かあっても私がフォローに入るし、体力が不安なら先頭だって代わってあげるから!」
「いやぁ、先頭に立って歩けないのは辛いでごわすなぁ……」

 おいどんは寂しそうに首を振った。
 傷付けてしまっただろうか、縋る子供を拒絶するように首を振ることで私を離した。
 
「今しかないという気持ちで生きてきた。これがおいどんの悲願でありパーティの花道になるのなら、ここで散っても止む無しでごわすよ」
「それが嫌だって言ってるんじゃないっ……!」
「ここはおいどんに任せるでごわす。体力と気力を温存して、こぁちゃんは三階に行くでごわす」
「何なのよ、馬鹿みたい、勇者だって辛いんだよ、アリスさんだって絶対泣くよ……」
「何も負けると決まったわけではないでごわしょう。エイリンどんの頑張りが目に浮かぶ、死ぬ気になれば覆る勝負だってある」 
「死ぬ気で戦う奴は大抵死ぬんだ……」
「じゃあ、死なない気で戦ってくるでごわす」

 おいどんに背を向けた。
 運命を受け入れたわけではなかった。
 だけど、流され続けた自分の責任の重さも、また感じていた。
 
「始めるわよ?」
「準備は出来ているでごわす」

 私は二人から離れた。
 ぼそぼそと話し声が聞こえる、すぐに派手な花火が上がって戦いが始まるだろう。
 考えた、たくさん考えた。
 パチュリー様が私に何をやらせたいかを。
 そして物語を通して、二階で私に伝えたいことは何なのかを。
 その部分が解れば、先の見えないトンネルに光の穴を開けられるかもしれない。

 あの方の筋書きとして理想的なのは、おいどんの死だと思う。
 死による私の激昂、そして復讐。
 怒りで箍が外れた私をおいどんの復讐に駆り立て、パチュリー様の幻影とも呼べる魔女を自分の力で屈服させる。
 小悪魔である私を血に酔わせて、パチュリー様の支配からの脱出と、悪魔としての覚醒を急ぐ。
 シンプルだけどパチュリー様らしい攻撃だ。
 現実と違う世界なら物理的な被害はない、その代り対象に精神的な大打撃を与える。
 この辛辣な計画にパチュリー様を駆り立てた理由はまだ見付からないが、これだろうと信じ込める信頼性はあった。
 一階からストーリーを追いなおしてみても、関節的な説教から直接的な行動への流れは別に不自然じゃない。
 不自然……いや……。
 だったら何で説教が二階でまだ……そもそもあれは説教なのか? 

「うぉぉぉー!」

 爆音がした。いよいよ始まったらしい、爆音を追うようにおいどんの掛け声が飛ぶ。 
 抜群の瞬発力だ、一瞬で得意な間合いに詰めた。
 私は固唾を呑んで拳を握った。
 だけど、魔法障壁に阻まれて、食い込んだ拳が致命傷にはならない。
 距離が離れる、ホーミング弾を壁を利用して誘導を切る。
 初回の攻撃が効いていたのか、しばらく強打はなかった、しかし、おいどんもまた近寄れない。
 私は握りこぶしを解き、緊張を緩和させる。
 汗で手の皮が引っ付きそうだった。

 とにかく、不自然なことだ、二階のストーリーでパチュリー様の意に丸々そぐわない部分がある。
 自然派魔法使いのアリスさんの登場だ。
 アリスさんはパチュリー様側のモブではなく、私の立場で考えてくれる人だった。
 うん、やっぱり説教じゃない。
 彼女の話は、私の立場を後押しするような元気付けてくれるようなものばかりだった。
 パチュリー様の計画にアリスさんの存在は入ってないんだ。
 紫の魔女が発した『待ちくたびれたわよ。予言も結構いい加減なものね』というのはアリスさんの時間が計算されてないズレじゃないのか。

 どうして、そうなったのか? 
 私の喉の渇きを、生理現象までが計画に入ってなかったのか?
 しかし、私が一階で無茶な行動を取った時、この世界は狂いなくついてきた。
 そうすると、たまたま私が喉の渇きを訴えた時に、おいどんの旧友が二階に来ていたから、そこで彼の気持ちにズレが生じたのか。
 そうか、もしかすると、イレギュラーな存在を利用出来ればストーリーは変わるのでは……!

 考えてる最中に飛んできた流れ火の玉を、尻尾を鞭の様に撓らせて叩き落した。
 焼き付いた影のように、煤で床が黒くなる。
 本家パチュリー様のアグニシャインには遠く及ばない。
 だけど、魔力を通わせないおいどんの身体で、ひたすらに受け続けるのは拷問に近いだろう。
 
 アリスさんの家で起こった事は全てイレギュラー。
 そう考えれば、アリスさんの家からこの場に持ってきたものも当然イレギュラーな存在だ。
 これで別のイレギュラーを引き起こせないだろうか?
 サンドバッグ、タロットカード、ちびたクレヨン、この三つ。
 タロットカードはおいどんに渡した、ちびたクレヨンは元から私のポケットにあったものだし、現状何か出来そうなことはない。
 じゃあ、サンドバッグか……ってサンドバッグで何が出来るんだよ!
 逆切れしながら、サンドバッグに走る。
 途中無数の流れ弾が襲ってきたが、両手は帽子のコロッケを守っているので、全て羽と尻尾で処理した。
 無茶苦茶な反応速度だ、私やっぱり強くなってる。
 これで、どうして飛べないの。
  
「あった!」

 いくらか魔法弾があたって、焦げたりへこんでたりしていたが、壁にもたれたサンドバッグは裂けてはいなかった。
 鼠色の皮に黒い痣を作り、黙って主人を待つ姿は、置き去りにされた子供のようで可愛そうに見えた。
 私は一度頭を振ってから、サンドバックの周囲を回る。
 普通のサンドバッグだ。
 叩いたりもしてみたが、有効な使い道は思い浮かばない。まあ、当たり前だ。
 いっそ、これを振り回しながら二人の間に突っ込もうかと考えたが、それって直接攻撃と何が違うんだろう。
「サンドバックが勝手に!」なんて理屈で二人が信じてくれるほど馬鹿ならば、とっくに説得に成功している。 

 火符に飽きたのか、今度はノエキアンデリュージュの水球がびしばしと私の背中に飛んできた。
 何発か食らってるうちに、音で弾道予測が出来るようになり、後方の防御はお尻の尻尾に任せてやった。
 どうしよう、サンドバッグは諦めようか。
 焦りで靴を鳴らしながら、私はもう一度だけサンドバッグを調べてみた。

「あれ?」

 サンドバッグの頭部の四隅から伸びて輪っかに通じたロープ。
 これが天井とかに吊り下げる役目を果たすのだと思うけど、弛んだロープは真っ白で全く傷が無かった。
 本体がこんなに傷ついているのに、こんな脆そうな部分が無事なのは、明らかにおかしいんじゃないかな?
 それにロープって……普通はチェーンとか利用するんだよね? 
 どうして?
 どうして敢えて糸を――?

『――大丈夫よ、特注品だから』

 あぁ、ああ、そうだよ! 閃いたよ!
 これは普通じゃないんだ、アリスさんの家にずっと預けてあったんだ。
 その間、酷使された友人のサンドバッグを見かねて、アリスさんが手心を加えていてもおかしくない。
 アリスさんが乗る白いハンモックのように!
 この白いロープは、おいどんの強力なパンチに耐え切れるように、アリスさんの魔法でプロテクトされているんだ。
 実際に、流れ弾くらいなら無傷に抑えている。
 やっぱり諦めるもんじゃない、状況を変えられそうなイレギュラーはあった!
 私はサンドバッグに飛びついて、ロープを素早く八重歯で噛み切ると、輪から外してロープだけを握り一目散に床を駆けた。

「待って! 待って! 二人とも止まって、タイムタイム! タイムー!!」

 帽子を放り出し、両手をグルグル回しながら、私は二人に突っ込んだ。
 両手、両足、尻尾、耳羽、全てを使いながら水泡と水流を落として、私の声が届く、静寂を作る為に頑張った。
 
「タイムだってー!!」

 声が届く、いや声より先に目で私を感知したのだろうが、果たして魔女と魔法使いは止まった。
 
「何よ、また来たの? 反則負けにするわよ?」

 異様な沈黙の中、ジト目で睨まれる、怖かったけど怖くない。
 パチュリー様より怖くない。
 それに発見による嬉しさが上回っていた。

「手は出しません! ちょっとだけ時間をください! 最後においどんと話をしたいの!」

 魔女の眉が呆れた形に変わる。
 おいどんは息を整えた後、私に歩いてきた。

「こぁちゃん、悪いが――」
「お願い、これを握って戦って」

 差し出したロープを、無理やり二本ずつ両手に握らせた。 

「これは……アリスどんの?」
「そう、サンドバッグについていた奴、これを使えば拳で魔法を弾けると思う」
「……いやぁ、しかし」
「魔力強化のアクセサリーだよ。ほら、向こうだってたくさん使ってる。あのリボンは全部そうなんだ」
「……」
「分かってる、何も言わないで。でも条件は同じなんだ、これでやっと敵と同じなんだよ?」
「向こうは自作のアクセサリーでごわしょう?」
「魔力強化のアクセサリーなんて街にだって売ってる、問題あるっていうなら、それを使うあらゆる魔法使いが対象になるよ!」

 おいどんは目を瞑った。目を瞑って拳を握った。
 私は受け取ってくれたのだと、笑顔を見せた、だけどそれも一瞬だった。
 おいどんは私の手を開いて、私にロープを握らせた。
 
「……どうして? どうしてよ!? これで絶対に勝てるってわけじゃないんだよ? 僅かな望みを繋げるだけだよ!?」
「悪いことのような気がする」
「悪いことじゃないよ! 現に向こうだって咎めてこないじゃない!」
「いや、アリスどんに悪い。サンドバッグ用に作ったものを、おいどんが戦闘に利用するのは筋が通らん」
「意気地なし! アリスさんに一番悪いのは、あんたがここで死ぬ事だ!!」
「そうかもしれん」
「だったら!」
「おいどんが死ぬとは限らんし……なぁ」

 おいどんは私にお辞儀をすると、今度は魔女の方に向き直り、待たせて悪かったと言うように一礼した。
 私は遠ざかる背中に小声で言った、勝ちたいんでしょ、凝り固まった常識を否定したいんでしょ、見返してやりたいのでしょう?
 それじゃ死ぬんだってば……これから死んじゃうんだよ……。

「こぁちゃん、おいどんはただ憧れを追ってるだけで……そんな高尚な想いはないでごわす」

 膝を突いた、こんな頑固な奴だなんて知らなかった。
 身体が熱い。
 憧れだけで戦えるわけないのに。
 
「もういいのね?」

 魔女の問いに、おいどんは頷きだけで返した。
 戦闘状態を再現する為に二人が距離を開ける、しかも、先に動くのは魔女の方に決まった。
 思わぬ休憩で僅かに回復を図れたのは、魔女にとっても同じことだった。
 何もかも無駄だった。

 戦闘が始まる。
 同時に出した私の叫びは爆音に飲まれた。
 火傷のただれにも、飛散った壁の血にも、怒りばかりが沸いてきた。
 声も手も届かない、私が物語を歩かされるだけなら、映画にでもして後で見せてくれればいいのに。
 自分を棚に上げ、卑怯なことを考えている。
 本当に回避したいなら、最初三人揃った時に、誰とも戦わず、エイリンちゃんとおいどんの手をとって逃げ出せば良かった。
 それが出来なかった時点で、私は知れてる。
 それでも、パチュリー様に会いたい、元の世界に帰りたい、そんな思いに負けてたくさんの敵を倒してきた。
 嫌だ嫌だと言いながら、ぐずぐずと流され、やってきたことは悪魔と一緒だ。
 
 どうせ、悪魔になっちゃうなら……。
 今、魔女の心臓を抉り出せば、おいどんだけは助かるだろうか。
 私の精神はそれで壊れてしまうんだろうけど、おいどんやアリスさんの気持ちも台無しにしてしまうけど、助かるならそれでもいいかもしれない。
 ふらふらと、立ち上がった。
 はぁ、でも、パチュリー様にそっくりな人を私は殺せるだろうか。

 前に歩こうとすると、白いロープに足がもつれた。

「……あ」

 私はロープの切り取られたサンドバッグを振り返った。
 あれを、どんな気持ちで直してあげたのか、それは容易に分かるのに、別れも無しに飛んでいったアリスさんが分からない。

「アリスさんは、悲しくないんですか……?」

 窓のない部屋で、外に向けて思いを吐いた。
 悲しくないわけがなかった。
 死ぬかも知れない戦いに、友達の背を押したアリスさんは、それだけおいどんを理解しているのだろう。
 そして、無言でサンドバッグを持ち帰ったおいどんは、それに応えているんだろう。
 じゃあ、私だけが自分の好き勝手に、戦うな、とか、死ぬなとか言ってるのか。
 考えてると別の恐怖が湧いてきて、そこから足が動かなくなった。

 吹き飛ばされたおいどんが、大きな音を立てて壁に激突する。
 立ち上がったときには、右腕が折れてぶらぶらしていた。
 白旗揚げちゃってよ。
 私が言うと、まだ左手があるでごわす、とおいどんは笑った。
 もう、何も言わなかった。
 戦いたければ好きにして、死にたければ死ねばいい。
 全部済んだら、私の怒りを聞いて欲しい。
 
 誰に?
 
 身体がどんどん熱くなる、血の流れが速くなっていく。
 怒りと悲しみが手分けして、私の身体から感情を奪っていく。
 パチュリー様、笑わない悪魔があなたのお望みですか。
 悪趣味ですよ、そんなの。

 おいどんの無謀な突撃に対して、魔女は両手を広げてロイヤルフレアの構えだった。 
 利き腕の無い身体では耐えられっこない攻撃だ。
 これが最後の攻撃になるだろう。
 後は、私が灰の前で泣いて、それから全身返り血塗れになれば二階は終了だ。
 長かった、くだらないほどに。時代劇じゃあるまいし、ストーリー決まってるんなら、十分で終わらせろ。
 
「マスタァー……!」

 世界が赤に飲まれていく。
 スパークの発音も空しく、おいどんの姿は見えなくなった。
 全符力を使った広大無辺なエネルギーは、私のところまで届いた。
 赤はやがて白に変わり、巨大な音は少しずつ小さくなり、私の視界に茫漠とした青が戻ってきた。 
 終わったらしい。
 実にあっさりとしたものだった。
 私は勝手に立ち上がり、だらしなく笑いながら、煙の中を魔女に近付いていった。 
 魔力を使い切った魔女に碌な防御手段は無い。
 嫌なことは、すぐに済ませた方がいい。

「まだ、早い」

 だけど、私に魔女が静止を求めた。
 私は無視して歩き続けたが、煙の中に綺麗な色の光を見つけてそこで止まった。

「……何?」

 最初はフレアの残り火かと思った。
 少なくともおいどんは魔法が使えないのだから、こんな光は出せないだろう。
 何の光だ、点滅している蛍みたいな……。

「やってくれたわね……マリサ」

 魔女の呟きを聞きながら、私は目を見開いた。
 私の黒い意識は、目の前の強烈な輝きに霧散した。
 私が我に返ったと同時に、煙の中から、叫び声を乗せた拳が飛び出した。

「スパァァーク!!!」  

 嵐のように、竜巻のように、煙は一瞬で霧散し、どうしてと思う間も無く、熱くて派手な閃光は魔女を捉えようとしていた。
 避ける体力も無いのか、魔女の方は顎を引いてその場で魔法障壁を張った。
 一瞬の出来事だ、ステンドグラスの鮮やかさを持つ多重障壁が、次々と音を立てて砕けていく。
 髪が散る、帽子が飛ぶ、リボンが切れる。
 あと一つ。
 あと一人。
 紫色の髪が広がる中に、おいどんは血の滴る岩のような拳を突き出した。

「……っ!」

 反射的に目を瞑るはずなのに、魔女は目を開いて迫ってくる光を最後まで見ていた。
 おいどんの拳は魔女の眉間を貫く僅か手前で止まり、残った光だけが魔女の身体を抜けていった。
 滴る血が床を濡らしていく。
 窓の無い部屋に出来た風の通り道が、消えた。
 魔女は自分が何故被弾しなかったのか考えるように、目を何度か瞬かせてから「素晴らしい……」と息を吐いた。

「どうして最後まで撃たなかったの?」
「おいどんは本当はここに立っとらん……さっきので負けていた」
「どうして?」
「お守りが守ってくれたでごわす……スパークもこれが無かったらただの拳だったでごわしょう……」

 手を下ろし、一枚のカードを懐から取り出す。
 カードは焼け焦げて、見るも無残に真っ黒になっていた。

「おいどんの完敗でごわす」

 自らの意思で拳を引く。
 黒焦げのカードが床に落ち、立ってるのがやっとの様子で両手を垂らした。

「私はそうは思わない」
「事実でごわす」
「それはただのお守りであって、特別な効力は無いよ」
「いやぁ、それはアリスどんを嘗めすぎでごわすな……」

 いよいよ、倒れかけたおいどんの全身を、魔女が大きなシャボン玉で包む。
 おいどんはシャボン玉の中央に上り、そこで眠るように横になった。
 魔女が屈みこんで、床に落ちたカードを拾った。

「ただのお守りよね?」 

 いきなり話を振られたので大いに困った。

「え? あ、その、それはアリスさんのタロットカードです」
「そういう時は頷いておくものよ、おいどんもあなたも馬鹿正直が過ぎるわ」

 魔女はおいどんの入ったシャボン玉を押しながら私を見向きもせず横切って、部屋の入り口に向おうとする。
 私はその後姿に、慌てて声をかけた。

「そ、それ、本当は私に渡されたもので、私も良く分からないのですが……どうしてこんな?」
「塔の逆位置には、小さく済む危険という意味がある。あなたが使うなら、あなたが使うで良い、と思ってたんじゃないかしら」
「それじゃあ、最初からおいどんに渡せばいいじゃないですか……?」
「馬鹿ね、共犯者を作ったのよ」

 共犯者?
 
「アリスの家、借りるわよ。この展開なら彼女も文句は言わないでしょう」
「え? はい」

 頭が非常に混乱していた。
 どういう展開なんですか、これ。
 せっかくおいどんが無事だったってのに、疑問符ばっかり湧いてきて、ちっとも感動が湧いてこないよ。

「あのー、すみません、まだまだお聞きしたい事が」
「怪我人搬送中、アリスのことなら答えないよ?」
「う…………じゃあ、あなたが戦う動機って、一体何だったのですか?」
「勝ってみたかったのよ」
「え、勝ち続けてるんじゃないんですか?」
「あんなのは勝負に入らない。でも、ようやくあの光が見れたら、今度は勝ち負けなんてどうでも良くなってしまったけれど」
「ようやく?」
「十二年ぶりかな」

 シャボン玉を押しながら、魔女は人懐っこい笑みを浮かべた。
 たぶん、アリスさんが言っていた、一度だけ見せた魔法ってのに、この人は関わってるんだ。
 そういう条件で二人が戦っているとすると……あっ!

「ひょっとして、おいどんは、過去に出した魔法をもう一度出してみたかっただけですか?」
「そうよ、憧れを追っているだけって本人が言ってたじゃない」
「つ、強がりじゃなくて、あれ本当に?」
「そうよ」
「ば、馬鹿だぁ……」
「私はその魔法に負けたことあるから、一度勝ってみたかった馬鹿」
「馬鹿が二人もいるぅ……」
「そろそろ行くよ?」
「そんなことで殺し合いされたら、こっちの身が持ちませんよ〜!」
「御互い切羽詰まってたのよ、本当に切羽詰ってた、夢を二度と見られないんじゃないかって」

 魔女はシャボン玉を押す手を止めて、怒る私を尻目に、おいどんを真剣な眼差しで見た。
 
「マリサも、私も、これでようやく前に進める」
「……もし、殺しちゃったらどうする気だったんですか」
「生死よりも大事なものはあるわ、あなたも本当は知っているはず」
「はぁ……」
「私がもう少し身体が丈夫だったら……こいつと一緒に外に飛び出していたのかな……」

 その瞬間、フォーカスをずらしたように魔女の姿がぼやけた。
 慌てて目を擦った後は、元に戻っていて、魔女は飄々とシャボン玉を押し始めていた。

「もう、行くよ」

 顔には出さないが、魔女の方の疲労も激しいのか千鳥足だった。
 私は部屋を見回して、これを修理するのにどれくらいかかるのかと、いらぬ計算をして嘆息した。
 
「あ、そうだ」
「はい?」
「鍵は開けといたから。この部屋の奥が扉になっていて、その先に階段がある」
「わ、ありがとうございます」
「他に何かある?」
「なにかって?」
「仲間との別れに、何もないってことはないでしょう?」
「そ、そうか、えーっと、どうか、おいどんを宜しくお願いします」
「そうじゃなくて、マリサによ」
「じゃあ、色々とお世話になりました、もう無茶は勘弁してください」
「……」
「……」
「それだけ?」
「う、浮かばないんですよぉ、咄嗟には」 
「ふん、私が部屋を出るまでに浮かんだら言って、じゃなかったら私が捏造しとく」

 捏造ってなんだ、捏造って。
 実は愛してましたとか言われたら最悪なので、私は脳みそをフル回転させて言葉を探した。
 さようなら、違うって、どうかお元気で、そんなキャラでもなかったし、アリスさんに宜しく、うわ、アリスさんに摩り替わった。
 頭を抱えて唸っているうちに、パチュリー様似の背中がどんどん離れていく。
 やがて、これしかないって言葉を見つけたから、私は両手をメガホンにして思いっきり叫んだ。

「魔法使い、ガンバレー!!」

―――――

 おいどんのウィッチハットをどうしようかと思ったのだが、魔女が届けてくれるか、とコロッケだけ抜き取って、私は扉を開けて階段に向った。
 共犯者ってのはつまり、そういうことなんだ、と思い当たったのは、私が階段を上っているときである。

「第三者の介入を望んだんだなー」

 アリスさんは、例えばれたとしても、偶然を装えるレベルを保ったんだ。
 その為には、何も知らない私の来訪は、飛び込んできたラッキーカードに見えたことだろう。
 自由にストーリーを作ってあげてとは、占いの常套文句ではなく、タロットの介入による運命の変更を示唆していたのだ。
 情報で私の感情を操って、カードをおいどんに渡させる。
 それはどのくらいの確率を見ていたのだろうか? とにかくアリスさんの賭けは成功し、タロットに込めた魔力は発動した。 
 後でどれだけ問い詰めても「あら、私は勇者さんにあげたのよ」と言えば、真実そうなのだから絶対にボロが出ない。
 なんとも卑怯で魔女らしいやり方じゃないの。  
 考えついて、ほっとした。
 アリスさんもやっぱり、自由奔放な魔女である前に、一個人として弱さを抱えていたんだ。
 完全無欠なんてものは、幻想なのかもしれない。

 階段にはやっぱり踊り場があって、窓から外の景色が見えている。
 頭を覗かせると日光に髪がちりちりして、炎天下の暑さにうだる思いだった。
 完全だと思っていた草原にも、十円ハゲのようにぽっかりとした空き地があるのが、この高さからなら見えて取れた。
 不思議と外の敵が少なくなった気がする。

 依然として昼は続いていた。
 この天気じゃアリスさんも暑いだろうに、それとも、もう街で涼んでいるだろうか?
 魔法で強化されたハンモックを思い出す。
 おいどんはサンドバッグを叩きながら、ひたすら音でアリスさんの友情に応えていたのかもね。
 そんな風に考えて、そりゃ美化しすぎかと笑った。

「どっこいせっと」

 私はそこで足を休めると、疲れた身体を床に投げ出した。
 最後に訊くのを忘れたなと思う、魔女はあのマスタースパークをタロットの力だと思ってるのか、おいどんの自力だと思っているのか。
 そこんとこ結構大切で、今後にも関わってくるよなー、とか考えてたら床についた指が寒気を感じ取った。
 すぐに気がつけなかったが、お尻もひんやりしている。
 三階からの冷気が下に降りてきているのか。
 そうか、そんな設定にしてたか……。

「さぁて、君の番だ」

 証人喚問開始のため、グリモワールを膝の上に出す。
 今はもう白色の部分の方が多く、黒の部分の方が少なくなっていた。
 黒は湯船の垢のように、表面から浮いている。
 表現がちょっと汚い気がして、スープに南瓜の灰汁が浮かんでるところに思い直した。
 
「うりゃ、もったいぶらず正体を現しやがれ!」

 ブンブンと両手で振って、バンバンと布団叩きみたいにして表面を叩いてやった。
 乱暴に見えるが、そうでもないと思う、何しろこいつが傷つくことは絶対にないのだから。

「ふぅー……」

 最後に粉になった黒を、うそぶきながら吹き飛ばす。 
 上出来だ、白色の……いや、元は白色で、今はちょっと黄ばんだ表紙が現れた。
 タイトルは無い。
 そろそろグリモワールのロックは外れているんじゃないかな?
 私は開けなかった本を無理やり開こうとしたが、残念、爪を傷めただけだった。

「いつっ……どうしてー?」

 足で開こうとしてみたり、窓枠に引っ掛けて引っ張ってみたりしたが、グリモワールはページを開く事を頑なに拒んだ。 
 二階まで終わったのだから、ちょっとくらいいいじゃないの。
 拝んだり、拗ねたりと、まるでペットを相手にしているような感じで戦ったが、これっぽっちも中を見せてくれなかった。
 こなくそー、と階段の手すりに投げたら、跳ね返って不幸にも階段を駆け下りていくものだから、私はあたふたと二段飛ばしで追いかけて、無理しすぎて転落、身体中の痛みに負けずに立ち上がったら、そこはもう一番下だった。

「うがー! おむすび、ころりん、すっとんとん!」

 やけくそになって、昔読んだ童話のそっくりな場面から台詞を抜いて立ち上がる。
 すっとするが、一人のときしか出来ない裏技で、誰かに見られてると明日から渾名が変わるという恐ろしいリスクを背負っている。
 気をつけよう、美鈴さんはそれで悲しい目にあっている。

「お?」
 
 手繰り寄せようとしたグリモワールが、ぱらぱらと捲れていた。
 私はグレイズも可能な小悪魔ダッシュで近付くと、最初の頁をばっと開き、あふぅと声にならない懐かしさを口から漏らした。
 拙いひらがな文字と、落書きにしても酷すぎる絵。
 ストーリーさえ曖昧な記憶にしか残ってないけど、これは、間違いなく私が幼児期に描いた、なんちゃって絵本だ。

『 こあくまRPG☆  わたしこそ しんのゆうしゃ こあくま――』

 顔がにやにやする、恥ずかしさが加速する。
 こんなもの書いてたのか私って。表記は平仮名と片仮名がメインで、たまに簡単な漢字が顔を出している。
 この分だと、一頁目のアルファベットは何かを見て必死に写したんだろうなー。
 ……あ、そうか。
 てゐさんがてうぃさんで永琳さんがエイリンちゃんって表記されてるのは、難しい字を絵本が飲み込めないからだ。
 それでアリスさんは片仮名のままで通って、小町さんは唯一漢字でおーけーなんだ。

 右に視線を移すと二頁目は勇者の紹介だ。
 ページを捲って三頁目は臆病な毒使いと、魔法の使えない魔法使いが、仲間になるところだった。
 あはは、展開超速いし、キャラクターがコンプレックスに溢れすぎだよ。

 四頁目からは挿絵付きで、勇者の格好や仲間達の背丈が明らかになった。
 絵本の仲間達は、おいどんやエイリンちゃん達の姿からは共通点を見つけるほうが難しかった。
 勇者小悪魔の髪の毛は斬新にもピンク色で、空に浮かぶ雲や、外を走るピンクマンモスの毛色と同じだ。
 ピンクを多用しすぎて、この後困った事になる。
 ……道中、愛馬ラクトガールの無駄な露出はあったが、舞台はあっという間に魔王の塔に移った。
 行き違いはあったが勇者達は敵のボスと和解し、無事に二階へと――おや? 毒使いは一階で倒れたんじゃなかったかしら。
 あ、実際に倒れたよね。
 絵本でも挿絵の所が二人に減ってるし。
 んー、変だな、こんなストーリーで書いたかな? 一階のボスと毒使いが和解なんてした覚えは――

「あ、そうか!」

 私達の頑張りで、ストーリーが変わった可能性があるんだ!
 一階の記憶は相当にあやふやで、これだけじゃはっきりと解らないが……ああ、二階のストーリーは印象的で大筋は覚えている。
 それで、私はおいどんを戦わせたくなかったんだから。
 あれは確か、魔法の使えない魔法使いが、立派な魔女と相打ちになってパーティの犠牲になる話だ。
 死を乗り越えて強くなった勇者が、一人三階へと足を運ぶ、そういう筋書きだった。
 結果的に現実の私も一人になったけど、それは死の離別ではなく、怪我の治療という名目の別れ方だった。
 よーし、そこを開けば、ストーリーがどう変わってるか、はっきりするね!
 
 私は大胆に頁を飛ばし、魔女との対決の場面へと急いだ。
 10P……15P……お、近い。
 この次からだ、16P、さあ、白黒はっきりさせようぜ……はっきり……はっき、り、ちょ、また、こ、こあぁー……!!

「いーやーがーらーせーかー!!」 

 開かない、紙の集団が鋼鉄の如き団結力を見せている。
 どれだけお前らは、もったいぶるんだ! 本としておかしいだろ、最初だけ読めるって、以降は課金制かよ!
 ああ、爪が痛い!
 私はもう一度グリモワールを叩き付けようとして、寸前で思いとどまった。
 今度、不幸にされたら敵わない、こいつは一応この世界の核なんだっけ。

 悩んだが、悩んでも仕方なかった。
 上ってるうちに、開くようになるのだろう。
 一つはっきりしたのは、私が作った絵本の世界を、パチュリー様が肉付けしているってことだ。
 登場人物は幻想郷の連中でパチュリー様が味付けしている。
 私が作ったラーメンに、パチュリー様がチャーシューをのせている感じか。
 小悪魔、さすがに例えが悪すぎた気がする……。

 なるほど、預言書もこの絵本がずばりその役目を果たしていたんだな。
 これで、頭のもやもやがずいぶんとすっきりした……気がしたがそうでもないかなと思い直した。
 そもそも、何で幼少期に描いた世界が、ずーっと残ってるのか。
 不思議に思った根を引っ張れば、サツマイモみたいにぼこぼこと不思議がくっついて来たので、一々潰すのも、一々思い出すのも億劫だから止める。
 私は本を右手に持ちながら、三階への階段へ、もう一度足をかけた。
 
「はぁ、勇者が魔王を倒すなんて……これを魔界で描いてたってんだから度胸あるよ……」

 全ての元凶を魔王とし、それを倒すことで無条件の幸せが約束される。
 一切の細かいことを抜きにした、単純明快な理屈が、自分にかかっている暗雲を晴らしてくれると信じていたのだろう。
 私に悪魔社会へのアンチテーゼなんて、大それた気持ちは無かった。
 ただ、今の自分を何とかしたくて……そう、私が勇者であれば、敵は魔王でなくても良かったと思う。

「魔王なんて見たことありませんって〜」

 羽でリズムを取りながら階段を上る。
 私は紅魔館を出ても、こんな強気な台詞が吐けるだろうか。
 解らない。
 あと二階、という焦りで私は爪を噛んだ。
 
『――あるって、そういう焦りはみーんな』

 あと二階、いや、まだ二階あるのか……。
 人の言葉を借りるだけで心はとても楽になった……それがどうして自分の言葉だと簡単にはいかないのか解った。
 自分はやはり何処まで行っても自分に都合の良い存在だ。
 その都合の良い存在の言葉を、自分に信じさせることが出来る、それが夢なのかもしれない。
 おいどんも、魔女も、アリスさんも、自分を酔わせるだけの言葉を手に入れてきたのだろうか……。 
 
 グリモワールを強く抱えた。
 冷気が肌を刺す中、永遠亭の幸せを、魔法使い達の幸せを、私の幸せを祈りながら、三階へ一歩ずつ歩いた。
  
 魔女は最後まで語らなかった。
 おいどんのマスタースパークはタロットの力か否か、それはあの人の中にしかないお話だ。
 本当に肝心な事は、いつも誰かが隠してしまう。
 ……エンドマークのその先に、小悪魔はデーモンの夢を見る。

―――――

 私がいっぱいいる、という表現は別に比喩でも何でもなくて、特に戦闘中は宝石箱でも引っ掻き回したように、私の赤い髪が、柱や、床や、壁に散らばっていた。
 三階は氷で出来た鏡面世界である。
 二階よりはずーっと涼しくて最初はそのギャップに頭痛がしたくらいだが、慣れてみれば恐れていた極寒地獄ではなかった。
 不思議と(他に比べたら些細な不思議だけど)ここの氷はこの温度でも融けておらず、私はそのせいで足元をずいぶん苦しめられている。
 空気混じりの白い気泡が憎たらしい、これでは疲れても腰を落ち着けることも出来ない。
 お尻がぐっしょりと濡れてしまう。
 外周部分だけは石で出来ているので、私は窓に注意しながら外周にもたれかかった。

「うー、嫌なダンジョンだなー……」

 我侭や愚痴をもう誰も聞いてくれないんだと思うと、一人ぼっちの寂しさがきゅうと胸を締め付けた。
 パチュリー様に会いたい気持ちと、もう少し時間をくださいという気持ちが、頭の中で喧嘩を始めたのを仲裁して、私は通路の奥を眺めた。
 ピッケルか何かで乱暴に削り取ったような穴が、幾つも開いていた。
 不規則にぼこんぼこん開いていた。
 集団で氷を刈り取ったみたいな……と考えれば答えは一つしかなかった。
 アリスさん、貰うなんて丁寧な言い方しても、実際は人形達に氷を削り取らせてるんじゃないか。
 でも人形達が削った痕跡は、現在一人の私には微妙に心強く感じた。

「よし、頑張らなきゃ!」

 気合を入れた途端、敵に襲われた。
 ゴーレムとかドラゴンとか、敵のランクもずいぶん上がってしまったけど、氷で出来てるから、見た目ほど強くはない。

 私は壁を蹴って飛び、ゴーレムの胸板を拳で貫通させた。
 そのままゴーレムを踏み台にして、次にドラゴンの長い首をグリモワールで叩き落とす。
 足場の悪さなどものともしない。
 戦闘が終われば重なったファンファーレが鳴り響き、私は息を止め、目を瞑り、その異様な高揚感を胸の底に押さえつけた。 
 畜生、どうしてこんなにレベルが上がらないといけないんだ。
 今、レベル幾つなんだろうと、思ったがステータス画面なんてないので、数えられっこなかった。
 解るのは手持ちの道具と装備品ぐらいか。 
    
E:グリモワール
  ちびたクレヨン
  コロッケ(半潰れ)
  RPG説明書

 うー、勇者様、手持ちがしょっぱ過ぎる。
 変形したコロッケとちびたクレヨンをポケットに大事にしまっておくのは、馬の糞以来の衝撃だ。
 そもそも説明書を持ってる勇者の存在がおかしいのだが。
 
 つるつるの床を慎重に歩いていく。
 長いスカートでよかったと思う、下にばっちり映されたら恥ずかしくて歩けないだろうし。
 二階ではミニスカに羨望を抱いていたが、それは忘れることにした。
 小悪魔は今を生きるのだ。

 目の前に大きな壁が塞がってしまい、外周を沿って進む事は出来なくなった。
 仕方なく折れて、塔の内部の広い部分に進む。
 冬の紅魔湖のように、手付かずのアイスリンクがさーっと広がっていて、スケート靴があれば童心に戻ってはしゃぎたいところ。
 広間にたむろしていた、三匹のドラゴンと四匹のゴーレムを氷に還し、私は中央に立つ氷の柱を前にして一息ついた。

「「ふぅ……」」

 ボスまであとどれくらいだろうか?
 此処のボスは恐らく本名で出てくるはずだ、冬の妖怪も、氷の妖精も、片仮名一色だし。
 雪といえばレティさんで、氷といえばチルノさんが浮かぶけど、じゃあ、チルノさんであってるだろうか?
 今度は何が起きるんだろう……。
 
「「行ってみれば解るか」」 
  
 ??
 さっきから何か変じゃないか?
 私の声が自動的にエコー処理されているような。

「「あー、あー、マイクのテスト中――って誰なのぉ!?」」

 確かに私に声を重ねてる人がいる……!
 もしかして、此処がもうボスルームだったのか!?

「はずれ、ボスじゃないよ」

 な、返答された!?
 って何で心の底まで読まれてるんですか、ボスじゃなかったら、あなたは誰なの!?

「……」

 ここでシカトかよ!
 
「クッ、解ってますからね! いい加減姿を表わしたらどうですか、チルノさん!」
   
 私は中央の柱を指差して、はったりをかましてみた。
 どうだ、小悪魔は悪戯とはったりに定評がある生き物なのですよ!

「はずれ、チルノじゃないよ」

 む、むかつくー!
 突っ込みだけいれやがってー!
 高い子供声が更にむかついて胸を掻き毟りたい気持ちです!

「もう、誰でもいいからさっさと出てきなさい!」
「あーあ、はずれもいいとこだ。もう少し、ましな未来だと思ったんだけどなぁ」 
「は?」
「お姉ちゃん、私はさっきからずっといるよ、気付いてないだけで」
「え? え? 何処に?」

 これは奴さん、氷と同化してるというオチですか?
 そうか、なるほど。
 だったら、中央の柱一番怪しいね、此処ぐらいしか隠れる所無いし、登場するならここが一番カッコイイ!(こぁ理論)
 
「そこに隠れてるのは解ってるんですよ!」
「……信じられない程に間抜け、お姉ちゃんは紅魔館でなにをしてたのさ?」
「な、なにをって司書だけど……って私は妹もいないんだし、お姉ちゃんなんてあなたに呼ばれる由縁はないよ!」
「ある」
「母さんに流産とか死産とかそういうのもないからね!?」
「ない。でも悪くない発想、だいぶ近くなった」
「近い?」
「じゃあ、探さなくても見えるところに出てあげるね」

 足元の空気が変わった。
 人肌より少し高いくらいの、纏わりつくような熱気が靴下から踝から脹脛まで上ってくる。
 私は思わず地面を見て「ひっ」と短い悲鳴を上げた。
 赤くぬめったしわくちゃの頭が見える。
 ぼこぼこと沸騰するように氷が融解して、出来た淵に赤い手がかけられる。
 反射的に私は退いた。
 ひどいなぁという声がする。
 私が映っていた位置に、まだ臍の緒がついた赤ん坊は一人で立ち、けっけっと喃語で私を笑った。
  
「自分から逃げてどうすんの」

 乾燥する、髪が広がる、肉がつく、骨が軋む、見る見るうちに赤ん坊は私の臍ぐらいの背丈までに成長し、真っ赤な服と真っ赤な髪を揃え、血のような目をこちらに向けて私に言った。

「こんにちは、お姉ちゃん」
 
 背中に伸びた翼は、相対的に大きく見えた。
 ……小さな私がいる。

―――――

 赤いサンダルがかつんと音を立てた。
 赤ずくめの中で脛の白さが異様に輝いていた。
 上に真っ赤なブラウスと、下にはフレアの付いたギャザースカートを着せられている。
 私は悲鳴を飲み込む為に奥歯を強く噛んで、歯の間から息を吸い、相手を睨んだ。
 小さな私は、んふふと笑うと、肩の辺りで不揃いになってる髪を撫でつけた。

「聞いてびっくりしたよ、未来の私は図書館に引篭もってるんだって?」

 どうやって会話をすればいいのか迷った。
 小さな私が何を言いたいのか、それは解る。
 たぶん、買出しやお花の世話もしてますーとか、言ったって効果がないんだろう。
 大体、先ほどの経験から判断して、こうして考えてることは相手に筒抜けなんじゃないのか?

「そうだよ」

 そうらしい。同じ私なのにテレパシーの垂れ流しが一方通行なのはフェアじゃないと思う。
 これから嫌な詰問が始まるぞという気配が、上げ潮のように高まってくるが、塀の中に無限の内通者がいる今の状況では、私は白旗作りを急ぐくらいしか出来ない。

「その話、誰に聞いたの?」
「名前は知らないね、紫の髪の人。でも、助かった。まさかこんな未来は想像してなかったから、すぐに修正しないとね!」 

 言葉により刺激された感情を削り取って、胸の奥に押し込んでおく。 
 それでも見えているのか、彼女はいやらしく私を哂った。

「魔界からも悪魔からも逃げて、修業も忘れてずっと小間使いをやってる、そこのお姉ちゃんのことだよ」

 確か私が絵本に描いた鏡の間での決闘では、ただ偽者と剣を交えるだけだったのに……。
 パチュリー様は、そんなに私を図書館から追い出したいのでしょうか……。 

「ほら、この髪を見て? 短いでしょう? あなたが二つ大きな決断をした日の私の姿」
「……何を?」
「えー、本当に忘れちゃったー? 大切な分岐点だよー?」

 からかいの笑いだ、本当に忘れてるわけがないと知っているから、この子は笑えている。
 長い髪を切ったのは、私がした母への最後の抵抗だったか。
 こめかみがジンジンして耳の奥が痛い。
 心が透けて見えるなんて、会話にならないじゃない。

「忘れてはいないよ、けれど」
「いないけれど?」
「……えーっと」
「えーっと?」
「鸚鵡返し止めてくれるかな……」
「我慢してうんうんと首を縦に振るよりマシじゃない?」

 また皮肉――。
 頭の中を撫でられるような、もどかしい痛みが続く。
 網膜が赤に焼かれ、母さんが声もあげず泣いている姿が浮かんだ。

「あー、夕暮れ! あの日は特に綺麗だったねー。畦道を歩く私の顔も生き生きとしてるよ、家に着いたら反転することも知らずにさー」
「それはいいから……」
「自分でばっさりやったんだもんね、そりゃ母さんもショック受けるよなぁ、あはは」
「やめてよ!」
「遅いよ、嫌がるの。いつも諦めて曖昧に笑ってたお姉ちゃんらしいや。ようやーっく我慢できなくて行動に移したと思ったら、あっという間に母さんの泣き顔に折れちゃったのも、この人ならなーって納得だね」
「そ、それは私のことだけど、あなたのことでもあるじゃないの」
「そうだよ。だから修業を盾に夢から逃げちゃった未来のお姉ちゃんに、こうして会いに来たの」
「わたしは――」
「ああ、言い訳はいいって。一度決めたことを守れてないから責めてみただけだし」

 私が決めた事とは何だろうか。
 涙への誓いか、悪魔への夢か、誰かの為に我慢して笑い続けることか。
 それとも、自分を捨てることだったか……。

「誘いに来たの、のらりくらりとかわす優柔不断な小悪魔を、ちゃんとした道に戻してあげる為に」
「……」
「悪魔になろうよ」

 白い手が伸びる、華奢で小さな、私が屈まないと水平にならないほど低かった。

――お前なら、立派な悪魔になれるぞ。

 父の背中が、もう顔は思い出せないのだけど、玄関を出る父の大きな背中が脳裏にぼうっと浮かんだ。
 踵が磨り減った革靴、悪戯をした靴下、よれよれのズボン、下から順に白いシャツまで繋げたところで記憶の糸に鋏が入った。

「心配ない、血が成功を約束してくれてるんだって……!」
「成功って……何なの?」
「みんな期待して待ってるよ。母さんも、友達も、きっと父さんだって、みんなみんなお姉ちゃんを待ってる」
「立派な悪魔になるのが、私の成功なの?」
「そりゃ当然でしょう? あれだけ我慢して従ってきたのに、今更その努力を投げ出して路線変更だなんて、馬鹿だと思わない?」
「わ、私だって紅魔館で頑張ってる。ただ毎日が忙しくて――別に目的を忘れたわけじゃ!」
「全部嘘。お姉ちゃんは、帰られない理由が出来たからわざと残ってる。それは居心地とか、仲間意識とか、破壊衝動への恐怖とか、色々だろうけどね。たださ、最も重要なのは、この世界にあなたを引き込んだ人物は誰かってことだよ」
「……」
「お姉ちゃんが必死に握ってた手は、向こうから勝手に離したんだ。一番大きな理由はもう消えてるんだよ」

 後頭部をガンと殴られた思いだった。
 引き摺られるように屋敷を案内されている、私と、私を繋ぐパチュリー様が見えた。

「義理立てなんて、一片も必要ない、むしろ彼女は一人立ちを望んでいる」

 そうに違いない。それは解っている。

「さあ、悪魔になろう? 楽しいよきっと」

 楽にはなれるだろうか。 

「大丈夫、悪魔の遺伝子はちゃんとお姉ちゃんにも眠ってるんだから、違和感なんてすぐなくなるよ」

 睨まれたまま動けない。白蛇が私の手に噛み付こうと迫ってくる。
 毒を私に回そうとしている。舌が……回らない。

「お姉ちゃんが立つ場所は、こっちだ」

 私の指が絡まる瞬間に、私の声がした。

『――エイリンちゃんの席は、あっちだ』

「あ……うっ……」

 僅かに声が出た、震える白い指先を弾いて、私は何とか後ろに下がって、氷に尻餅をついた。
 目の高さが、相手と同じになる。
私、こんな無責任な台詞を口にしていたのか。
 エイリンちゃんと私が逆だったら、文句の一つでも言ってただろうに。
 優しいし、芯の強い子だった。
 ……私はそんなに強くない……例え望まれていても剣は取れない……けれど……。
 それでも、あの子や――それからおいどんと同じように、強く憧れる人はいる。

 氷の床に、おせっかいで我侭な私の笑顔が揺れていた。
 私はその笑顔に手を伸ばし、無様に氷を爪で掻いて、今度はそこに幻が映らなくてもいいように本当に笑った。

(待っててくださいね、パチュリー様……!)

 立ち上がる。
 お尻はびしょびしょだったけど、手も冷たくて仕方なかったけど、出来るだけ格好よく、そして元気良く立ち上がる。
 私はこっちからパチュリー様に手を伸ばそう。
 それで伸ばした手を邪険に払われてもいい、例えバッドエンドしか残ってなかったとしても結構だ。
 この塔に足を踏み入れた時から、私は決めていた。二人で、帰るんだって!

「あれ? おっかしいなぁ……」

 立ち上がった私を見て、彼女は少し自信を失くした様に、小首を傾げた。
 憎らしさが募る。

「うるさいぞ、過去の私。とっとと消えて!」
「お姉ちゃん、あのね、私は正しい道を示しているだけで悪意なんてないんだよ……?」
「消えてって言ってるでしょうが! もう、ぜーったいにあんたなんかに惑わされないから!」
「惑わされたのは私になんだよ。私はお姉ちゃんそのもの、消えることなんて出来ない」
「じゃあ、何処かへ行って!」
「そんなこと言わないで。ずっと待ってたんだよ、この機会を、悪魔になりたくて待ってたんだ」
「本当はあなただって怖いんだ! 悪魔なんかになりたくないんだよ!」

 私が手を向けると、小さな私は、はっとして下を向き、隠すように震えを止めるように白い指先を手の平で覆った。
 汚れた悪魔の笑みが崩れて、演技の下の素顔が見えた。
 
「こ、これは、ちょっと寒かっただけで、違うんだよ。だって、私はずっとそのために笑って笑って我慢を重ねてきて――」
「言わなくても知ってる、言い訳なんていらない」
「ねえ、お願い、話を聞いて、私、未来の私から否定されて、未来に希望をもてなくて、なのに、こんな生活を続けないといけないの?」
「嫌なら変えてしまえば……あれ?」
「そうだよ、変えられないんだよ、歴史になっちゃってるんだから。ここから戻ったら私、今日のこと忘れてまた繰り返しちゃう」
「そ、そうなの?」
「嫌々でも、私は悪魔というゴールを信じてたんだ。だから頑張れてるんだ、それをしょうもない理屈で勝手に夢を捨てないでよ」
「……」
「お姉ちゃん?」
「……駄目だよ、やっぱりそれも誘いなんでしょう?」
「ねえ、どうしたの? 何か言ってよ?」
「へ?」
「どうして黙ってるの?」

 どうしてって、さっきから喋ってるじゃないか、私。

「ねぇ……ねえってば!」

 小さな私は両手を前に出して、何か触れるものを探している様子だった。
 目が、あの子の目が私を見ていない。 

「聞こえない、何も聞こえなくなった……! お姉ちゃん考えて! 私に近付いて!」

 がりがりと頭を掻き毟って叫ぶ。
 短い髪を振り乱しながら、親でも捜すようにして辺りを見回している。
 可愛そうに思えるが、一体、何が起きたんだ。
 
「どこ、どこに消えたの!?」
 
 私とあの子の気持ちが離れてしまったからだろうか。
 地形すら見えていないのか、彼女はあさっての方向に歩き始めた。
 幾ら敵でも、これはちょっと可哀想だ。
 しかし、合理的に考えれば、全く助ける必要はなくて、むしろこのまま接点がずれて過去に戻ってくれた方が、私としては安心出来る。
 私が力による悪魔化を望まない以上、接点はずれる一方だろう。
 でも――。

「ねえ、お姉ちゃん!」

 このように呼ばれると、不憫に思ってるだけに心が痛い。
 N極がS極に引っ張られるように、私の足は彼女の方に歩いていた。
 迷子の子供や、道に迷う人を見ると、逐一親切にしてしまう自分の性分が恨めしい。
 
「うぅー……! 痛い、ぎりぎりする、嫌だ、まだいやぁ」

 悩んだ時間が、彼女の苦しみを大きくしたかと思うと悔やまれた。
 私は手を伸ばし、彼女の手を両手で握ろうとした瞬間――彼女がぐらりと揺れて床に倒れた。

「ちょっと……! 大丈夫!?」
「お姉ちゃん! お姉ちゃんっ! 返事してよぉ……! 思い出して……私の声を……私の……心、お姉ちゃん……」
「ここだよ、ほら、ここにいるよ?」
「痛いよ、怖いよ、帰りたくない、やめて、返し、てぇ、うぅ……!」 
「え? ねえ、落ち着いて!」
「それ返してよぉ……捨てないでよぉ……!」

 さすがに様子がおかしいぞと気が付いた。
 ただ、過去に戻るだけで、こんなに苦しむだろうか?
 目も見えていないし、声も聞こえていないようだ、ただ言葉と涎を垂れ流して氷の上をのた打ち回っている。
 心臓に釘でも刺したように激しく痛んだ。
 その穴からピンクに吹き出る血が頭に流れ込んできた。

「しっかり! ねえ、聞こえる? 私ならここにいるよ!」
 
 抱きかかえて身体を揺さぶる。氷と涎に濡れた頬は、張り付きそうなほど冷たい。
 せめて声を届かせたい、震えを止めてやりたい。
 敵を相手に私は何をやっている、この子より私の方が狼狽してるんじゃないか、そんな感じが拭えない。
 それでも必死に呼びかけた。

「お姉ちゃん……」
「そ、そうだよ! お姉ちゃんが見える!?」
「……返して……お願い、いい子になるから……」
 
 全然解らない、何を返せと言ってるんだ。
 必死に過去の記憶をめぐらせる。
 ほとんどぼやけていた、自分が今まで意識して過去を突き放していたのを、思い知らされる。
 もっと限定的に、ピントを絞って、髪を切ったあたりだけに。
 夕焼け、髪の毛……赤?
 赤を嫌う悪魔……この絵本はどうして、完成しなかったんだっけ? 
 私は膝を利用して小さな私を片手に抱えなおし、氷の床に置いたグリモワールを取って、彼女の両手に抱えさせた。

「これかな!? これを取り上げられたの!?」 
「……うぅ!」
「絵本だよ、あなたが描いていた絵本!」

 反応が変だった、求めるどころか、鈎針が口を引き裂いた魚みたいに暴れて本を退けた。
 この反応を見て、彼女の苦しみに絵本が関わってることに感づいた。
 そうなると、あと持っているものは一つしかない。
 
「こっちだね!?」
「う……あ……?」
「クレヨン! あなたが好きだったクレヨン!」

 失くしたと思っていた。
 返してと言うのならば、誰かに捨てられていたのか……ぼかす理由もなく母さんしかいなかった。

「クレヨン……」

 発音は小さいが今までのどれよりも正確だった。
 私は答えが合ってることに安心して、彼女にちびたピンクのクレヨンを持たせ、指を上から押さえ、ぎゅっと握らせてあげた。
 震えが少しずつ収まる、虚ろな目にも光が戻ってきた。

「お姉ちゃん……?」
「解る? 見える?」
「これ、どうしたの? 何でお姉ちゃんが持ってるの?」
「わかんない、気が付くとポケットに入ってた」

 彼女は抱えていた卵が潰れてないか心配するように、じわじわと指を広げ、中にあるクレヨンの無事を確かめると顔を綻ばせた。
 例え花を持たせても――あらゆる宝石を持たせたって、こんな扱いはされないだろう。
 私がこのクレヨンを見つけた時の何倍も彼女は驚いて、喜んでいるのが解った。 

「それは……捨てられてたの?」

 私から質問する、距離はまた近くなっていて、意思疎通は声で簡単に行えた。
 彼女は両手を皿にして丸いクレヨンを転がしていたが、私の質問にもちゃんと答えてくれた。

「ううん、これは私が失くしちゃったやつだ。この子も帰る場所をなくして寂しいだろうに……」 
「あなたは、このクレヨンで絵本を完成させたかったの?」
「自分のことなのに覚えてないの?」
「恥ずかしながら、昔過ぎて……」
「そうなんだ」

 小さな私は身動ぎし、私の胸に顔を埋めた。
 敵対していたとは思えないほど、無防備で、愛らしい顔を見せていた。
 本当はこの子が追い求めていたのはクレヨンなんかじゃなくて……そう思うと、心臓が息も出来ないほど締め付けられた。
 私は両手で彼女の頭を抱えると、思いっきり胸に押し付けた。
 
「苦しいよ」
「ごめん」
「私どけようか?」
「いい、もう、あんまり時間もないんでしょう?」
「うん……」
「あ、ごめんね、苦しいんだっけ……」
「やっぱ、暖かいからいいよ」
 
 熱が記憶を伝播し、胸で混ざっていく。
 万華鏡のように移ろう世界の真ん中に、ちびたピンクのクレヨンが見えた。
 個性という角を削り取って、母に社会に合わせ、どんどん丸く小さくしてしまった自分。
 全てが剥がれ落ちた先には、彼女の純心が眠っているだろうか? それとも玉葱のように、そこには何も残ってないのだろうか?

「ねえ、絵本を描くのって楽しかった?」
「うーん、楽しいっていうよりは、父さんのクレヨンで何かを形にしたかったんだ。だったらあれかなって思ったんだけど……モチーフが悪かったのかなぁ……どうも失敗っぽいや」
「し、失敗?」
「思い出に頼りすぎたのかもね、でも、描きたいことが見付かったから、今度は楽しく描けると思うよ」

 失敗と言われてショックを受けたが、それ以上にモチーフとやらが気になった。
 しかし、それがこのお話の勇者のこととは限らないし、そうであっても未来を知ってしまえば、私は絶対にそれに頼るか挫けるかするだろうから、訊くのは止めにしておいた。
 
「あー、お姉ちゃんに言ってやりたいことを、色々と用意してたのにー」
「うん?」
「触れ合ってみるとやっぱり自分で、こんな馬鹿には言うだけ無駄な気がしてきたよ」
「その言葉は、そっくり自分に返るんだよ?」
「へんっ、やれ、愛だの優しさだの響きの良いオブラートを見つけて悪魔を否定しちゃったのに、新しい夢一つ見つけてないじゃないの」
「だったらあなたは何になりたい?」
「私が?」
「ええ」
「私、まだ子供だよ?」
「だから聞いてみたいの」
「……そっか、そうだね、だったらお姫様なんていいかも」
「お姫様か……」
「うん、みんなに慕われるお姫様がいい」
「お姫様ね、よーし!」
 
 張り切って、膝の裏と背中に手を当てる。
 え? という戸惑いの声を掻き消すように、私は彼女を持上げてスッと立ち上がった。
 長く赤いスカートが、それらしく彼女を飾り立ててくれた。思ってたよりだいぶ軽く、ちょっと嫉妬した。    

「……なんと、お姫様抱っこだね」
「女の子の夢だよね」
「あはは、いいね、これ。あ、白馬の王子様はそっちには来なかった?」
「さっぱりです」
 
 湖の孤島に飛んでくるなら、ペガサスの方が相応しい気がする。

「人生は絵本みたいにはいかないんだね〜」
「だから本は楽しいんだよ」

 彼女は「どうかな……」とだけ答えると、それきり黙ってしまった。
 持上げたまま、氷の床を歩き出す。
 私が滑ってこけたりして頭でも打ったら大事なので、出来るだけ慎重に、だけど逞しく、不安がらせないようにして歩いた。

「どうしよう……帰りたくない……」

 涙声だった。

「私もお姉ちゃんと星が見たかったな……」
「見れるよ、まだ大丈夫だって」
「ねえ、これ持って帰ってもいい……?」
「あ、それは、こっちからお願いしようと思っていたところだよ」
「ありがとう、大切にするね」
「うーん、クレヨンを大切にするってのは、どういう結果に対して与えられるのかしら?」
「最後まで、満足のいく絵を描いてあげることじゃない?」

 年少時代、特別絵を描く事が好きなわけじゃなかった。
 クレヨンの色が写って、ぐちゃぐちゃの現代美術みたいになった私の手の平が見えた。
 何をそんなに熱中していたのだろう……。
 夏の日に部屋を閉め切って、汗だくになりながら絵本の完成を目指している私は、異常な熱をはらんでいた。

「私にもお姉ちゃんみたいな、お姉ちゃんがいると良かったのに」
「自画自賛だよね。でも、私も妹が欲しかったよ」

 窓辺まで歩いていく。

「もうすぐ夜だね……」

 私の腕の中で小さな私が呟いた。
 太陽は煌々としていた、風も穏やかで雲もゆっくり進んでいた。
 だけど、北東の空に見えるはずも無い宵の明星が見えた。
 ドラ焼みたいにへしゃげている。

「忘れちゃうのかな、全部……」
「あなたが忘れても、私は絶対に忘れない。今日この日、出会ったことは決して無駄にしない」
「また、口だけ威勢がいいんだから……」
「自分に言い聞かせてるんだよ、この気持ちを忘れるな、忘れちゃ駄目だぞって」
「父さんがいた頃の、母さんに似てるや」

 宵の明星の輝きが強くなる。
 白い三日月が、晴天にくっきりと姿を表わした。
 
「ごめん、父さんのことは良く覚えてないの……」

 小さな私は首を振って私を許した。

「私、お姉ちゃんを信じるから。こんなところでバッドエンドは勘弁してよね」
「任せて、大抵のことは凌いでみせるよ」

 腕にかかっていた力が小さくなっていく。
 私は出来るだけ下を見ないで、ピンクの雲を眺めていた。

「落ちちゃいそうだ、クレヨン」
「握って、大丈夫」
「駄目だよ、やっぱり持って帰られないんだ……お姉ちゃん、取って」
「あなたが持って帰るの、それはあなたの物なの……! お願い、握って……!」
「あはは、お姉ちゃんの物でもあるじゃん?」
「違うよ……違うんだって……!」
「理解してるよ」
「……」
「ねえ、今ね、クレヨン一つで何が出来るかなって考えたんだけど」
「うん……」
「どんなに好きな色でも一色じゃ駄目だ――」

 台詞はそこで終わった。
 私はいよいよ我慢できず、腕の中の私を見た。
 唇を噛んで必死に嗚咽を堪えている私が、私を見上げていた。    

「私、クレヨンより、もっと大切な物を返してもらった」   
 
 唇から覗いた声は痛いくらい細い。

「だから、クレヨンはお姉ちゃんにあげる」

 目尻に涙が溜まる、零してはならないと私は瞬きを忘れた。 

「何もかも忘れちゃうんなら……お姉ちゃんのぬくもりは最後に取っておくよ……」 

 世界に月が顔を見せた時、ピンクのクレヨンが床に跳ねた。
 腕の中には彼女の濡れた心だけが残っていた。
 瞼を落とす。
 私の涙は誰にも抱えられず、氷に落ちて一人で消えた。

―――――

 黄色い月は昇らずに、西の空にライトの様に浮かび上がった。
 散らばる星々に、知った星座を探しながら、一つ見つけるたびに私は溜め息を吐き、あの子にこれを見せてやりたかったと切に思う。
 世界が変わっても軸がずれるだけで、頭上の星には、見知った数多くの星が残っている。
 遠い地に来た者は、今まで見えなかったものの発見に喜び、今まで見えていた星を旧友のように嬉しく思うのだ。
 パチュリー様に手を引かれ、庭を散歩してる時にも、私は南中するヘルクレスを指差して叫んだ。
 
(同じ星があります!)

 憧れは二つあった。真っ赤で堂々としたお屋敷に、出不精だけど何でも知ってる大図書館。
 私のパンデモニウム。
 あの時繋いだ手は、ずっと素直に気持ちを伝えてきてくれたのに。
 今はとても遠くなった、パチュリー様も、私の父さんも、母さんも、あの子も……。
   
 父は立派な人ではなかった……社会的にはという意味でだが。
 奇術師とは名ばかりの、力に任せた脱出劇なんかをお仕事にお金を稼いでいる人だった。
 父が持つ燃えるような赤い髪は、悪魔にとって力の象徴であり、それゆえに多くの者から妬まれたりしていた。
 何であんな奴に、と周りから馬鹿にされていた気がする、私は真っ赤になって父を庇ったし、母さんも一緒になって怒ってくれた。
 立派な人ではなかったが、人を楽しませるのが好きな良い人だった。

 父は家族のバランサーだった。
 大黒柱という表現がこれほど似合う人も無いと思う。
 母は優柔不断な……水炊きにしようと材料を揃えにいって、帰って来たらおでんになってるくらい優柔不断な人だった。
 父はそんな母を適当に引っ張る役目で、何の根拠も無いが決断が早く、母は決断に困ると大抵父を利用した。
 私の性格は母に似て、赤い髪は父さんから貰ったことになる。
 
 朗らかで馬鹿みたいに喧嘩が強くて、喜怒哀楽の激しいお酒の大好きな私のパパは、いつか家を出て、そして帰ってくることは無かった。
 その日は羽を鎖で括って、綱渡りするショーだった。
 父を妬んでいた裏方が、綱に切れ目を入れていたらしい。
 その朝も父さんは、私が入れた靴の砂利に大袈裟に驚いて「立派な悪魔になれるぞ」と頭を撫でて誉めてくれていた。
 その晩は冷たくなったハンバーグを――父の好きだったハンバーグを、帰ってきた母と二人で食べた。
 みんな笑顔のままで、明日を信じていたのに、家族というものが唐突な終わりを告げた。
 私は悪魔だから神が嫌いで、特に運命の神というのが大嫌い。
 死んだ事じゃない。
 そんな言葉を父さんの最期にしたら、母さんには何も残らない。

 今でも、父の死には納得のいかないところが多い……。
 
 母さんは、自分が最後に聞いた言葉を遺言として、それを守る事で心のバランスを保とうとした。
 父の死への反発もあったのかもしれない、そのせいで母は私の教育に狂った。
 私を立派な悪魔にさせることに狂った。
 私は母に引き摺られて、何度か抵抗し、最後に髪を切った所でそれを止めた。
 泣かれた。
 初めて母の涙なんて見た。
 私は自分がしたことに恐怖を覚えて、ついで自分がこの人に嫌われたら生きていけないことを察した。
 膝を突いて畳みにお漏らしをするほどに、母の涙が怖かった。
 二人で続けてきた演技は、張り詰めた糸のようになっていて、私が鋏を入れることでぷつんと切れてしまったのだ。

 私が笑ってると母が笑うから、母が笑うことを、私のバランスにした。
 あの子と母さんはこれから何年も、切れたままの糸で演技を続けなければならない。

「大丈夫かな……」

 月を見ながら呟いた言葉は、白々しいものだった。
 帰らないといけないなと思う。
 破壊衝動に包まれた悪魔の凱旋――もしかすると母は、私に殺されることを待っているのか。
 それは誰にとってのハッピーエンドだろう?

 窓の縁に座る。
 風は無い。
 高さに恐怖はあったが、あの時感じたのとは比べられるものではなかった。
 母さんは一人で夜を明かしているのだろうと思うと、怖いだろうか、それとも安堵だろうか、と考えてしまう。

 黄色い三日月はパチュリー様。
 冷たくて優しい、私にぬくもりと居場所を取り戻してくれた人。
 紅魔館のみんなは、私の第二の家族。
 私が出て行くなら、お別れ会くらいはしてくれるかな。
 急に目頭が熱くなった。
 その時は泣いていいんだろうか、笑ってた方がいいんだろうか。
 私のバースデーに小さなケーキを用意してくれた人が二人、母さんは苺のショートで、パチュリー様はモンブラン、嬉しかった、両方とも凄く嬉しかった、どっちがと訊かれたって、そんなの答えられっこない。

 冷たい夜空にさよならをして、私は窓から降りた。
 タイムリミットは近いのに、何の結論も出せない。
 ぬくもりも、図書館も、司書の仕事も、パチュリー様も、母さんも、私も、順序なんてつけられない。
 モンブランと苺のショートが出されたって、私は三十分くらい悩む。  
 どっちも欲しいんだ、大して力も無いのに、何もかもを欲しがるのは駄々をこねてるに過ぎないって解ってても。

 氷の道を歩く。
 
 夢とは何だろうか。
 いつかビリッと来るものだと思っていた――。

―――――
 
 分厚い氷に囲まれた、洞窟のような場所をひたすら歩いた。
 曲がり角を曲がるたびに、ぱっと開けた視界を期待するのだけど、その度に暗闇に裏切られた。
 しかも緩やかな傾斜がついているようで、油断すると滑ってこける。
 あの世とこの世の境の黄泉比良坂がこんな感じだろうかと例えようとして、もっと適切な表現が頭の中に見付かった。
 最近読んだ外の世界の文学に、こういう表現がある。
 国境の長いトンネルを抜けると、そこもトンネルだった。
 何事も油断するな、という啓蒙らしい。

 暗い道が続けば、終点に暗い部屋を予想するのだが、ラッキーにも外れていた。
 暗くないと言い切れはしないが、その部屋には簡素な光源が幾つかあって――要するにそれは蝋燭なのだけど、溶けた蝋の中には羽虫の死体が幾つかあったりなんかして、氷で作られた美しい部屋と裏腹に生活臭を感じ取れる不思議な空間だった。
 そんな氷の部屋で氷の椅子に座り、蝋燭の明かりで分厚い本を読んでいる人は、私の方をチラリと見ると、挨拶でも挑発でもなく、こんな言葉を吐いたのだ。   

「お菓子な家へようこそ」
 
 どっかで聞いた謎の台詞である。
 オカシなウチへようこそ。
 
「チ、チルノさん……だよね?」

 返事は無い。
 私はその姿に動揺していた。想像してたのと全く違ってたし。
 背は高く、肌は白くて、氷のように輝く髪が背中に下りていて、出るとこは頑張って引っ込む所は思慮深いという、とてもチルノさんとは思えないスタイルの人が、光の下で知性の瞳を輝かせて本を捲っている。
 服装と氷の羽が違ってたら、これがチルノさんという感想は絶対に湧かないだろう。
 ……まあ、それでもマッチョ魔理沙とか考えたら、かなり良い方向に進化したのでは、と思うのだけど。

「ふむ、ずいぶん変えてきたんだね」

 惚けた顔で立つ私に、一冊の本が床を滑ってくる。
 
「台本だよ」
「だ、台本、ですか?」
「あたいにはもう必要ない。さあ、あんたが持つグリモワールと比較してみてよ」

 グリモワールを床に置いて、本を見やる。
 何かの精神攻撃じゃないだろうかと、疑いの眼差しを向けたが、中身は何だという思いが勝っていて、結局手に取った。

「預言書?」

 真新しい台紙、紫の紐で閉じられた中身。
 タイトルに預言書とあるが、とてもそんな威厳は無い。
 マジックが滑るきゅっきゅっという音が聞こえてきそうなほど、ついさっき作られた感が出ていた。
 チルノさんを見る。
 彼女は私などいなかったように、椅子に座って身体を捻り、この部屋に唯一付けられた窓の方を眺めていた。
 椅子からずいぶん離れた位置にある机は、一人で寂しそうに見えた。

 原本か写本か知らないけど、とにかく預言書を開いて中身を確かめることにした。
 中身は私が書いた絵本のストーリーに、パチュリー様が人物を乗っけてる格好になっている。
 驚きは無い、それより最後まで読めるほうが意外だった。
 グリモワールのようにロックはかかっていない。
 最後の頁まで行けば、勇者により魔王は倒されて、捕らわれの姫は無事助け出され、世界に平和が戻ることが解る。
 
 ……?
姫?

 私は、用のなくなっていた説明書を取り出した。
 そこにも、ちゃんと「捕らわれの姫を助ける目的」と書かれてあった。
 私の絵本にそんな目的は無かったよね?
 パチュリー様は屋上で一人二役でもやる気だろうか?
 さもしい芝居だなぁ……失礼。

「だいぶ変わってるでしょ?」

 チルノさんから声がかかる。

「す、すみません、まだ比較出来てません」

 早くしてと言うと、チルノさんはまた窓の方を向いた。
 私はチルノさんにとって、ありふれた夜空にも負けるほどつまらない客なのだろうか。
 グリモワールの方は最後まで開くことは出来なかったが、私が歩いてきた三階までの道程と、それからチルノさんとの戦いが書かれていた。
 おいどん達の結末も変わっていた。
 安堵した、私が流れに逆らってきた道は、過程としてちゃんと残っている。

「読めた?」
「あ、はい! ありがとうございました、おかげで色々と解りました」
「元気いいね……」
「それだけが取り柄だと、もっぱらの評判です!」
「三階では何が起きるって?」
「えーと、これから此処でチルノさんと戦いがありまして……た、戦い!?」

 私の驚きと同時に、大きな物体が足元を掠めた。 
 圧倒的な重量感のそれが氷だと気付いたら、私は短い悲鳴を上げた。
 ツララの出所すら解らない、敵がその気になってたら私今ので脳みそぶちまけて死んじゃってる。
 チルノさんは椅子に座ったまま、無表情に慌てる私を見ていた。

「ま、ま、ま、まっ……」
「ま?」
「ま、待ってください、これだけ和やかに会話出来てるのに、どうして闘う――」

 言い終わらないうちに地面から犬歯のような無数の氷が突き出てきた。
 
「ひぃえ!?」

 八方が氷に塞がれた。
 あと十センチでもずれていれば、私の腕や羽は串刺しになっている。
 ラスボスの手前のボスはやたら強いって法則を思い出して、私は頭がくらくらした。
 こういう反則的な強さのボスには、意外な弱手があったりするものだが…………あ、そうだ!
 その為に、あれを温存してきたんだ。
 私は邪魔な氷をペキペキ折りながら、上着のポケットに手を突っ込んだ!

「こ、このコロッケが目に入らぬかぁ!」

 三階まで大切に温存してた私達の秘策が、ついに火を噴いた!
 チルノさんは蛇に睨まれた蛙のように、立ち竦んでいる!
 コロッケの効果は抜群だ!

「手も足も出ないようですね! さあ、このコロッケをぶつけられたくなかったら、大人しく四階に通すことです!」
「……」
「ふふふ、黙ってても無駄です、あなたの弱点は丸見え! ミスチーさんがこの為に、わざわざコロッケを用意してくれたのですから!」
「……ミスチーが?」
「イエス、ミスチー!」

 一瞬ほころんだ顔も、私の返事に眉を顰めた。
 チルノさんは小さく舌打ちすると椅子に戻って、また窓の外を眺め出した。
 
「せこいこと考えるようになったね、あいつも」

 氷が粉々になって、床に戻っていった。
 チルノさんから、完全に戦意が消えた。
 まさか、本当にコロッケが弱点だったんだろうか?
 私としては、その、死亡フラグ的な流れを戻すために半ばやけくそで突き出した物だったのですが……。

「通っていいよ」

 騙し討ちのような雰囲気も見られない。
 そんなことするなら、最初の一撃で仏に返してしまえば良かったわけだし……。
 私は素直に頭をぺこりと下げて、チルノさんの様子を窺いながら、おずおずと部屋の奥に進んでいった。

 ……しかし、気になる。

 オレンジの光を横目に通りすがると見せかけて、コロッケをチルノさんの背中にじりじりと近づけてみる。
 全く拒否反応は無い。
 チルノさん、さっきから何で窓の外ばっかり見てるんだ。
 六十年に一度の流星群とか、そういうのかしらん? ここからじゃ、良く見えないのだけど。

「あの、そんなに楽しいですか、外」
「楽しい?」
「え?」
「楽しいなんて感情は、しばらく無かったなぁ」

 良く解らない。
 そもそもこちらに振り向いてさえくれない。
 楽しくないというわりに、窓からちっとも離れないじゃないか。
 私はターコイズブルーの瞳を遮らないように、そろそろと右に出ると、邪魔をしないように静かに外を覗いてみた。
 
「あっ」

 夜中だというのに提灯を掲げて、マンモスと戦ってる妖怪が外にいた。
 小さくて明かりばかり目立つが、今更、誰だと言う気にもならない。

「ミスチーさんだ」

 言ってしまった。
 そういえばこの窓、アリスさんの所と同じ、南を向いている。  
 この方角以外の窓から見下ろしても見えなかった、ミスチーさんは、いつも同じ場所で狩りをしているんだろうか?

「夜でも狩りするなんて、働き者ですねー」
「……早く行ったらどうなの? それともあたいが珍しい?」
「まあまあ、珍しいかも」
「ん、あんた、ミスチーに似てる」
「えぇー?」
「えーって何よ、嬉しがりなさいよ」
「何でチルノさんが、不機嫌になるんですか。それで、どこが似てます?」
「頭悪そうなところ」
「えー!?」

 というか、それを私に嬉しがらせようとするのは、明らかにおかしいだろ。
 しかも、会話中だというのに、足は私の方に向けるが顔は窓の外を眺めているという失礼さ。
 成長してツンツンレベルが上がったのか。

「馬鹿はいいよ。毎日が楽しそうだ」
「その言葉を録音して持って帰ってご本人に聞かせてみたいです……まあ、窓の外のミスチーさんを見てたってことでいいんですか?」
「あたいが外を見たら、よくミスチーがいるってだけさ」
「ミスチーさんとはお友達で?」 
「親友だったよ」
「だった?」
「何があったかとか訊かないでよ?」
「私そんなに無神経じゃありませんよ。で、何かあったんですか?」
「……」
「……」
「正直な所、これだという何かは解らない」
「はぁ」
「ただ、なんとなく離れなくちゃいけない気がした、これ以上いたら、ミスチーの方が苦しいだろうって」

 私はチルノさんを避けて、ミスチーさんの戦いを見ていた。
 行燈の光を、頭に被ったでかい卵の殻が照り返す。
 あれはヘルメット代わりなんだろうか、私はひよっことですという自虐アピールなんだろうか。

「あたいもミスチーも、あんたと同じで悪戯が好きな子供だったの」
「え? え?」
「あー、あたいはあんたのプロフィールから読み取ってるだけだから、違ったら随時訂正してくれると助かるな」
「プロフィール、台本にそんなものが?」
「台本じゃなくて、ストーリーの展開をスムーズに行うために、上にいる魔女が残していった書置きみたいなもんだよ。ただ、人選は失敗だったね。ミスチーを間に立てられたら、あたいは何も出来やしない」

 チルノさんの話を聞きながら、私はみょんなことに悩んでいた。
 さっきから、大切なことを忘れてないかな……。
 いや、コロッケじゃなくて、ミスチーさんだよ、うーん、なんだっけ……。

「ミスチーとは互いに悪戯しあうような仲で、いがみ合って、毎日喧嘩ばかりしてたけど、それでもこいつ無しの生活はつまんないなーと思う不思議な引力があってさ、青痣作りながら二人でマンモスを追いかけてたんだ」
「どうしてマンモスなんですか?」
「純粋に丁度いいレベルの標的だったからね。全力でぶつかれて、皮や肉はお金にもなるし、なによりやってて楽しいし、いつか、お金をためてミスチーは店を出すんだって言ってたから、そんな夢も面白いかな〜、って便乗させてもらってた」
「じゃあ、ミスチーさんの夢は……」
「叶ったよ」

 微笑んで、チルノさんは宿の方を指差した。
 赤提灯が灯る、静かなお宿。
 客の入りはどうなんだろうか、今もミスチーさんは狩りに出ているということは、店主不在でも大丈夫なくらいに、客が来ないんだろうか。
 なんでまた、こんな人通りの無い場所を店に選んだんだろう。

「本当にミスチーさんの夢は叶ったんですか?」

 チルノさんは「あんた、人の話聞いてたんか」とでも言いたそうな目で私を睨んだ。
 私は私で別のことを考えながらだし、チルノさんは窓の方に視線を戻しちゃうし、それでお互いに話の接ぎ穂は無くなっちゃって、初対面にありがちな窮屈な沈黙が長く続いた。どうしよう。

「あ、あの、年の差を感じさせない友達関係って素敵ですよね」
「何? 突然」
「ほら、ミスチーさんの方が、チルノさんよりだいぶ子供っぽく見えますし。や、実年齢は存じ上げませぬが」
「年齢差は殆どないよ」
「そうなんだ。じゃあ、外見年齢を気にしない友達関係って素敵です」
「気にするよ」
「はへ?」
「昔はあたいもあいつと同じくらいの背丈だった、だから上手くやれてたんだ」
「あれ? では、どこでこんなに差が?」
「背格好だけじゃなくて、力も同じくらいだった……種族的にあたいの方が成長が早かったんだ、そんなの知らなかったんだけどさ……」

 相変わらず私の方は向いてくれない。
 だけど、言葉の節々に、親密さというか、私に寄りかかってる弱さみたいなものがあった。

「フェアじゃないんだよ。かけっこも槍投げも、勝ったり負けたりだったのに、何をやってもあたいが勝ちっぱなしになった。あたいが出来ることをミスチーは倍かかっちまう。あたいの方が背が高い、手が長い、だから仕方ないんだけど……つまんないだろ。いつか追いつくからねーって、あいつが笑って言ってたのを、ずっと信じてた、口では無理無理って馬鹿にしながら、心では早く追いついてって、ずっと待ってた、だけど駄目なんだ、あいつあれ以上成長しないんだ、大人になってもずっとあの体型なんだよ……」

 外から飛んできた羽虫が火に焼かれ落ちた。
 蝋燭の揺れは、チルノさんの怯えに重なった。
 部屋の温度が少し上がった気がする。
 氷が軋む音がした。

「横を向けば丁度あいつの顔があったのにさ、ミスチーから見たらそれが肩になって、胸の高さになって……どんな気分だったんだろう」
「ミスチーさんは笑ってたんですか?」
「あたいは何もしてないのになぁ……ミスチー、牛乳と小魚も毎朝食べてたのに……」
「笑ってたんですか?」
「あ〜、しつこいな」
「ねえ、チルノさん、考えすぎだと思うんですよ。相手の笑顔を考えすぎていらない解釈をしてるような気がするんです」

 窓から目を離し、チルノさんは私を見据えた。
 凪のように静かな目は、嵐の前の静けさだろうか。 
 私を竦ませることで、曝け出してしまった神聖な部分に刺さろうとしてる棘を拒んでる様子だった。

「気がするってなにさ」
「ミスチーさんは本当に楽しくて笑ってたんだと思います。チルノさんに気を遣ってたわけじゃないと思うんです」
「ずっとミスチーといたあたいが、一度会っただけのあんたより妥当な判断が出来てないって?」
「時間と理解は正比例するとは限らない。私と私が出会った人達の経験談です」
「ふん、それで?」
「え?」
「だから、そこまで言うからには、証拠とか説明とかあんだろ?」
「お、お〜けぇ、れっとみーしー……」

 耳元で「ないのかよ」と私を責める声も聞こえたが、私は既に昨日の出来事を思い出すのに精一杯だったから流した。
 部屋には氷の軋む音しかしなくなった。
 記憶を遡る作業中に聞く氷の音は、小さな時計の――それはもうたくさんの時計の針が動き出す音に似ていた。
 ミスチーさんまで遡るついでに、私はアリスさんの言葉も思い出した。

『言葉が足りなかったから、今でも足りないから、行動で示しているの、もう何年にもなるかしら』

 なるほど、私も同じ気持ちだ、たぶんミスチーさんはチルノさんにマンモス狩りを見せているんだ。
 その理由は何だろう?
 それを私が「ミスチーさんは、チルノさんを呼んでいるんですよ」と理屈付けるのは簡単だし、意味が通らないわけじゃない。
 でも、それじゃ駄目だと思う。
 幾ら私が力説したって、アリスさんが言っていた勝手な想像の範囲から抜けられない。
 やはりミスチーさんの言葉が欲しい。

 私は宿屋に泊まった夜まで遡って、ミスチーさんの言葉を追っていった。
 
『でかい、ちゅうくらい、ちいさいの、ですかー。なかなかバランス取れてますよ?』

 これが最後の言葉、だけどもっと前。
 でかいのと小さいのでバランス取れているという言葉は、チルノさん達のコンビに掠ってる気もするが……。
 この程度は気にしない方がいいな、もっとストレートなメッセージがある。
 私はピンと来る言葉だけを探せばいい。

『ほらほら、次は誰にするのー?』

 ……。

『落ち込むのは待っておくれよ、勇者さん。そうは見えないかもしれないけどさ、こいつ、町じゃちょっとした有名人なんですよ?』

 ……むぅ。 

『心配いらねえっす、御機嫌っす』

 ……君、ギャグばっかりだな。

『痛いっ、痛いよレイムっ!?』

 なんか、えらく不安になってきたよ、このまま思い出していってシリアスな場面なんか本当に出てくるの?
 そもそも宿屋にそんな場面なんか、これっぽっちも無かったような、あっれ?
 
「ねえ、トンチでも考えてんの? 暇潰しなら出て行ってくれない?」
「……あ、あわてない、あわてない」 

 くそう、チルノさんに可愛そうな馬鹿を見る目を返された。
 美人にやられるとやたら悔しい、元に戻ったら、こんな屈辱は三倍返しの誓い……!
 とにかく、後戻りは出来なくなったよ。
 記憶から適当な言葉を探してきて、ややこしい理屈をつけて言い包めるかと思ったが、こちらのチルノさんやけに知的だし、たぶん言い包められるの私、どうするコマンド!?

>思い出す
 思い出す

 くっ……!

『あ、キャンセルは一回のみだからね、それ以降、選んだ仲間は強制的にパーティに入るよ』

 そんなこともあったなぁ……。
 それで濃いメンツになっちゃったんだけど、今思えばあの二人で良かったのかなぁ……って真面目に探そうよ私。

『チルノは駄目。先約済みで仲間に出来ないよ』 

 単に私の勘違いだったら赤っ恥だな……お?
 チルノさんの名前が出てきた。
 そうか、チルノさん一人だけ、仲間に出来ないのに名簿に入ってたんだ。
 先約済み……つまり、ミスチーさんの連絡網なんだから、ミスチーさんが予約してるのだろう。

 これかな?

 他の人の仲間になって欲しくないほどの絆。
 これならば、チルノさんに訴えられるだけの、強い言葉になりそうな予感がある。
 しかし、これで合ってると思う反面、馬鹿そうじゃないよ、と叱責する声も聞こえる。
 神経衰弱の最後の方で悩んでいる人を見るもどかしさ。

『7.チルノ(予約済み)』

 私は、何か大きな勘違いをしてないだろうか。
 この言葉だけで考えてるから、揃わないカードが出てきてるんじゃないか?

 言葉に行動を組み合わせてみよう。
 ミスチーさんはチルノさんに帰ってきて欲しいから、二人で過ごした日々を思い出させるように、殆どチルノさんの情に期待して、この部屋の窓から見える位置で長い間狩りを続けてきた。私はそう思っている。
 アリスさんも、たぶんチルノさんだってそういう解等に辿り着いてると思う。
 これが、思い込みだとしたら……どうだ。

 私はチルノさんの視線に気付いてたけど、腕組みをしたまま目を瞑った。
 名探偵みたいにずばっと答えはでないけれど、小悪魔に野次馬とおせっかいをさせたら超一流。
 落ち葉の隆起に、さては焼き芋と穿り返せば、野鼠の死体が出てきてトラウマ。それでも希望は捨てないの。
 
 チルノさんの言葉を借りてみよう。
 あの人の昔語りにミスチーさんが出てる場所がある。答えがあるとしたらそこに違いない。
 
『フェアじゃないんだよ。かけっこも槍投げも、勝ったり負けたりだったのに、何をやってもあたいが勝ちっぱなしになった。あたいが出来ることをミスチーは倍かかっちまう。あたいの方が背が高い、手が長い、だから仕方ないんだけど……つまんないだろ。いつか追いつくからねーって、あいつが笑って言ってたのを、ずっと信じてた、口では無理無理って馬鹿にしながら、心では早く追いついてって、ずっと待ってた、だけど駄目なんだ、あいつあれ以上成長しないんだ、大人になってもずっとあの体型なんだよ……』

 音声を脳内再生してるとびりっと来た!
 やったという感触、台詞の中で伸ばしている手が見えた歓喜!
 短い手が、誰かの手を捕まえようとしている。
 焦るな、見逃さないことだけを考えろ。
 一字一句、小さく発音しながら、口の中で潰していく。
 何処かに絶対にあるはずだ……気になっていた影と結ばれるものが……!

『いつか追いつくからねー』

 ――!
 
「チルノさん!!」

 目を開き叫んでいた、隣の人物が耳を塞ぐほどに。
 
「な、なにさ?」
「ミスチーさんは追いつくって言ってたんですか? それは何度もですか?」
「何の話だよ?」
「答えてください、お願いします!!」
「言ってたよ、だけどあの子は追いつけないんだ、知ってて言ってるんだから……強がりも度が過ぎると嫌がらせだね」

 とんでもない、追いつく気は十分にあったから、ミスチ−さんは真面目にその台詞を吐いてたんだ。
 チルノさんの言葉の中でミスチーさんは必死に手を伸ばしていた。
 今だってきっと変わらない。
 予約済みとは、そういうことなんだ! 

「チルノさん、ミスチーさんが毎日マンモスを追いかけてるのはどうしてだと思います?」
「さぁね」
「狩場をあの辺りにして、毎日狩りをしているのは、チルノさんに昔を思い出させる為だからと思っていませんか?」
「……ん」

 鼻で笑って相手していた奴が、突然妙なこと言い出したとチルノさんの私を見る目が変わった。

「逆効果なんです、ノスタルジーに浸らせては、チルノさんの足を凍らせるようなもんです」
「何だって?」
「だけど、伝わりませんでした。まさに逆効果になってしまった。チルノさんは二人で駆けてた昔を思い出して、遠い思い出と今の自分のギャップに苦しんでいるんです」
「あたいは……そんな別に……」
「違うんですか?」
「……どうしてミスチーの気持ちがあんたに解るのさ?」
「ミスチーさんは前向きですよ。情という他人任せの確率に縋っていたわけじゃない。予約とは条件を満たせば100%起こる確実な未来です。少なくともミスチーさんの中ではそうなんです」
「ちょっと……!」
「あ、そうすると、別れた時から勘違いは始まってますね。別にミスチーさんは気を遣って笑っていたわけじゃなくて、彼女の笑顔は最後まで純粋だった。ところが、チルノさんが勝手に勘違いをして離れてしまった。ミスチーさんはそんなつもりは全く無かったから、突然離れていった友に困惑するばかりだったでしょう」
「そのくだらない出鱈目を今すぐ止めろ! あんた何が目的だ……!」
「強いて言うなら、お二人のハッピーエンドでしょうか?」
「ふざけんな!」

 怒号と共に、氷の椅子が砕けた。
 私の首に、氷の切っ先を突きつけてチルノさんは吼えた。

「ハッピーエンドだって!?」
「ええ」
「あんたの妄想があたいの百年の悩みを溶かせるとでも言うのか!?」
「すぐにでも」

 氷を握る手に力が入る。
 私の首筋から垂れた生暖かい感触が脳に伝わった。
 
「殺そうか……!?」
「大抵そういう台詞を吐く人は駄目です。子供から抜け切れていない、しかしこの場合はそれが救いになると思います」
「悪魔が口だけで生きてるってのは本当らしいね!」
「ミスチーさんは嫌いですか?」
「……」
「武器を引いてください、力で勝負しようとするからおかしくなる。あなたの悪戯はどうでした?」 

 怒りに尖っていた目が、何かを探すように下を向いた。
 チルノさんは氷の刃を粉にして宙に散らし、それで瞬時に氷の椅子を再生すると、そこに俯いたまま腰掛けた。
 腕を組んで、それから私に問いかける。

「……聞かせて」
「ありがとうございます」

 首の血はシャツに垂れていた。
 真っ赤な血はすぐに固まって、常に私の表面を塞いでくれる。
 チルノさんから包帯が差し出されるのを、いらないけどなと思いながら、私は首の周りに巻いた。

「あの、すぐに治りますよ。私って再生能力は高い方だから」
「そっちの心配はして無いよ」
「解ってましたけど」
「続けて」
「そうでした。ミスチーさんはパートナーが対等じゃないから、チルノさんが出て行ったという結論に至ったのです」
「対等じゃないだって?」
「そう、だから毎日チルノさんの前で狩りをしているのですよ。自分の成長を見てもらう為に――と、その前に、ミスチーさんが持ってる、夜雀の連絡網、というのはご存知でしょうか?」
「ん、ミスチーの友達帳かな?」
「友達帳? ええ、まあ、それです。それにこんな言葉が書いてありました、チルノ予約済みと」

 チルノさんは少し考えてから「なんだそれ?」と答えた。
 私は十分考える時間を与えてから、口を開いた。

「……ミスチーさんのチルノさんに追いつきたいという気持ちは本音だと思います。すみませんが、これを前提条件にしてください」
「別にいいけど、それは何度も聞いたことあるしさ」
「予約日というのは、ミスチーさんの成長を見て、チルノさんがこれなら帰ってもいいかな、そう思ってくれる日のことなのです」
「頑張りを評価して戻ってくれるだなんて、ミスチーは何だってそんなことを信じられる?」
「いいえ、大切なのは頑張ることではなく追いついたという結果です。対等に戻ったと思えばチルノさんは地上に降りてくるはずなのです」
「そんな勝手な話――」
「その通り、これだけではミスチーさんの考えは勝手です。大体にして、心でどんなに信じようとしても、裏付けが無ければ疑いが残るでしょう。それが十割の確信に変わったのには理由があります。他ならぬチルノさんのメッセージがあったからです」

 眉が上がり、口を開きかけたチルノさんを手で止める。
 私は顔を近づけて、言い聞かせるような、今までよりも強い調子で話を続けた。

「チルノさんはここで時間を止めている」
「は?」
「力競う事も知を競う事も忘れ、誰も来ない塔でぼんやりと送る日々は待ちぼうけに違いありません」
「だから……?」
「ミスチーさんはあなたといる間に埋まらなかった差は、あなたが足を止めている間に埋まると信じているの。止めている? そうですよ、止めているんです、あなた自身がこの塔に引篭もって成長を止めてしまった。それをミスチーさんはメッセージとして受け取ったんです」

『ほら、追いついてみな!』

「……高い塔に篭る親友は、私を待ってくれてるんだと信じた」

 チルノさんは動かない。
 その顔は反応してくれなかったが、氷の羽には霜のようなものが浮かんでいた。  

「不仲だったわけでもない、遠慮してたわけでもない、だからチルノが出て行ったのは私がしょっぱいから、何くそ、今に見ておれ、すぐにぎゃふんと言わせてやる……代弁するとそんな感じでしょうか?」
「そんなの勘違いだ。一方通行な予約なんて成立しない!」
「いいえ、双方向の予約です。無言のメッセージはあなたの優しさ、だったらあなたはもっと遠くに逃げれば良かった」
「そうかも……しれないけど……」
「そろそろ解りましたか?」
「何がよ?」
「あなたはノスタルジーに悩まされる必要はないんです。ミスチーさんが望んでるのは過去の二人じゃない。未来のあなた達だ」

 チルノさんは椅子に座ったまま逡巡した。
 しばらくそれは端整な顔立ちだったが、戸惑いと間違ってたかという恐怖は彼女の顔を子供に変えた。 
 お菓子を貰い損ねた子供のように、単純な計算で躓いた子供のように、今にも癇癪起こして泣き出しそうな顔で床を睨んだ。
 時計は無い、時間は解らない、月も動かない。
 やがて縮んで太っていく蝋燭が、二人の沈黙と、彼女の悩みの大きさを表しているようだった。
 
「だけど、だけどおかしいじゃないか……!」
「おかしいですか?」
「面白かったよ、新しい意見だったと思うさ! だけど、あんたのも妄想に過ぎないじゃないか!」
「私はそうは思いません」
「大体、ミスチーは結果を出せてない! 大切なのは結果って言ったのはあんただろう? 確かに前よりだいぶ強くなってるが、あたいと対等だなんて胸を張って言えるレベルじゃないじゃないの!」
「私はミスチーさんが勝つと思います。やってみます?」
「はっ!」

 チルノさんは馬鹿にした声を上げる。
 ここでの暮らしを待ちぼうけと揶揄した時にも彼女は黙っていた。
 今の声は、怒りでも嘲りでもなく、状況を受け入れられない心の反発なのだろう。
 認めてしまえば……無駄にした時間に、別の苦しみが付属してしまうと思っているのだ。

「ものは考えようと言いまして」
「……」
「あなたはミスチーさんに何も悪いことをしていません。むしろ実際に何年も待ってあげていたのだから、誉められるべきなのですよ」
「……そんなわけないだろ!」
「結果はもうすぐ出ます」
「何度でも言ってやる! 待ってったって永遠に結果なんて出ないんだ! ミスチーは種族的にあそこが限界なんだよ!」

 パーティの一人を思い出して、ふぅ、と私は溜め息を吐く。
 限界だと口にするのは、限界を作りたい連中だと思っていたが……経験上、逆みたい。
 ミスチーさんが勝負に勝つ時は、本当にすぐそこに来てる。
 力ばかりで考えて、私の言葉を信じられなかったチルノさんにはお気の毒としか言いようがない。

「うぅん、あんまり時間を無駄にするわけにも行きませんね……」
「何さ?」
「私はそろそろ行きましょうか?」
「……はん、すぐにでも悩みを溶かすってのは、やっぱり只のはったりかい」 
「こうも意固地な人を相手にしては私だって難しいのです。考える時間はまだまだありますから、頑張ってくださいね」
「……」
「気が向いたら、いつでも赤提灯の下へどうぞ」
「諦めておくれよ」
「あ、いけない」

 忘れてたフリをしながら、片手でポケットの中の最後のコロッケを取り出す。
 変形して、包装もちょっと濡れてて、冷めまくりのコロッケですが、こいつはミスチーさんのお手製です。
 チルノさんへの破壊力はきっと抜群でしょう。

「はい、ミスチーさんの手作りコロッケです。冷めないうちにどうぞ」
「最初から冷めてるじゃないか……ってあれだけ言っておいて、最後には情に訴えるのかい?」
「あはは、ミスチーさんの愛情が、あなたの百年を溶かすことを祈っていますよ」

 心にも無い言葉ではなかったが、だけど、それはちょっぴりいじわるだった。
 所詮、私も小悪魔である。

「ふん……」

 今でも悪戯が大好きだ。

「ミスチーのコロッケは甘すぎるんだよ……」

 チルノさんが、包装紙を両手で持つ。
 悪い顔はしてなくて、これは食べてくれるなと期待が持てたので、私は氷の床を出口に向けて歩いた。
 最後の証明だ。
 ミスチーさんが情に期待するなら、懐かしくも美味しい自信作のコロッケを作ってくるはず。
 しかし違う……あれに入ってるのはそんなものではない。
 
「覚えといてくださいよチルノさん、それが私達が愛した悪戯というものです」

 あっ、という小さな声が上がる。
 私の話をちゃんと聞いていれば、中身がどんなのか検討がついたでしょうに。
 チルノさんが今どんな顔をしているか大変興味を惹かれたが、振り向くと急に格好悪くなる気がしてやめた。

「な、なんだ……これ……!」

 マンモス用の落とし穴を見て、チルノさんが気付かないといけない事は別にあった。
 あなたの抜けた戦力を埋める為、落とし穴に頼ってるミスチーさんは決して無様なんかじゃない。
 力以外にも、経験から覚える知恵だって立派な成長なのだ。
 ここからじゃ見えない宿屋の中で、ミスチーさんは一癖も二癖もある旅人を相手に知恵を磨いてきたのですよ。  
 私に口で負けそうになったチルノさんが勝てないのは道理、私だって宿屋にいた時は散々にからかわれてしまったのですから。

 チルノさんがミスチーさんから学べることはたくさんあるのです。
 
「ちき……しょお……! ミスチー……やりやがったな……!」

 今あなたが感じてる辛さは、悪戯という知恵と童心の化合物。
 それに例えようがない嬉しさが溢れてしまうのは、あなたの失くしてたパーツが見付かったからです。
 しっかりと噛み締めて泣くといいです。
 今だけ刺激物のせいに出来ますから。

「じゃあ、コロッケの感想、よろしくっ!」
 
 後ろに向けて手を振った。
 新聞紙を握り締めて、戸を叩くチルノさんの未来が容易に想像出来た。
 チルノさんは出迎えたミスチーさんに対して、渾身の憎まれ口を叩くだろう。
 それからお酒を飲んで、店のメニューにケチをつけて、明日からはそこにカキ氷が書き加えられる。
 二人の夢が始まるのだ。

 鼻を啜る音を、私は聞こえなかったフリをして歩いた。
 長居して、チルノさんの口からありがとうって言わさせたくない。
 こっちに来て、みんなから色んなものを貰いっ放しだったから、一つくらい、ここらで返しときたい。

 心がすっとした。悪戯をしたのは何年ぶりだろうか……まだ、私にはこの気持ちが残ってたんだなと思う。
 それを忘れないようにして……せいぜい、今のうちに再会の言葉でも考えておこう。
 私も……あなたも……。

 この温かい気持ちを、宝石箱に入れて、歩く。 

 宿の麦茶は美味しかったけど。
 私はやっぱりあなたと飲む紅茶が一番好き。
 だから欲しいの、力ではなく、二人を幸せに出来る知恵が……。  

―――――

 悪戯なんて二度としない。
 そう誓ったことが二度あるのはおかしくて、更に二度目の誓いを今日破ってしまったのだから、君は実に馬鹿だなという話になる。
 生きてる限りそんな誓いをたくさん立てるのだろうか。
 でも、生きてる限り何度だってやり直しはOKじゃないか、今度はもっと上手くやればいい。
 そんな言い訳でも、誰かを幸せに出来るかも知れない。

「あれ? 階段すぐ近くにあったんだぁ……」

 登りの階段はすぐに見付かった。
 チルノさんの部屋を出た後は一本道で、こうやって考え事をしながらでも何の障害も無く辿り着けた。
 階段の一段目から石造りに戻っていて、ここで氷の世界とはさよならということになる。

 悩ましい氷の床だったが、いざ別れを告げるとなると、石造りと比較してビジュアル的に惜しいなという気分になった。  
 だから、踏み出す前に後ろを振り返ってみた。
 冷たく暗い通路が続く。
 チルノさんの部屋は既に遠くて、そこにいようがいまいが気配を感じることは出来ない。
 ミスチーさんの悪戯に誘われてもう下に降りたとすると、あの部屋の家具は寂しいことになるなぁって思う。

 ここで出会った人はみんな寂しさを心に伏せていた。

 父さんが死んだ時、私はもう悪戯をしないと誓った。
 寂しさも凄かったが、死因を考えた時の怖さはもっと凄かった。
 裏方が入れたロープの切れ目なんて存在しなくて、父さんは私の砂利でバランスを崩して落下したんじゃないかって思った。 
 父さんなら、鎖を引き千切ってでも飛ぶことが出来たんじゃないだろうか……それをせずに奇術師としての誇りを貫いたのは、あくまでショーはルールに乗っ取ったものであり、自分のミスで落下したという事実があるのでは……。
 もしかして、みんなして優しい嘘を吐いているんじゃないか? 子供相手だと思って責めないでいてくれてるんじゃないか?
 私はその思考の泥沼に一人で嵌り込んだ。
 それで、一人で震えていた。
 母さんにも言えずに。
 最後まで、裏方という人の名前は私の耳に入ってこなかった。
 父さんがその程度でバランス崩すわけがないと思う、だけど可能性が1%でもあるなら、それは私を恐怖させるのに十分だった。
 そのうち、それどころじゃなくなって、その痛みも忘れてしまうのだけど。
 ああ、それが一番怖くて寂しいことなのかな……。

 私がその悪戯に責任を感じるならば、悪戯を止めるのではなくて別のやり方があった。
 せめて残された母さんに、あの人が背負いすぎて駄目にならないように、私は私らしさで荷物を取り除いてあげないといけなかった。
 髪を切れば、母を悲しませると解っていたのに。
 切った時に、ざまあみろ、という気持ちを覚えたのが悔しい。
 あの涙は……父から貰ったクレヨンを捨てられ、父から貰った髪を切った娘が、不憫で仕方なかったんじゃないのか。
 三日後に、母が買ってきた新しいクレヨンを、私は曖昧な笑顔で迎え入れることになる。
 あれは床に叩きつけるべき物だった。
 母が伸ばした最後の手を、私はそれと気付かずに我慢して振り払ってしまったのだ。

「母さん……」

 アンテナの感度が悪い。
 
 紅魔館に勤めて、三ヶ月ほど経った時、私が庭でラジオを拾ってきた。
 外の世界からやって来た壊れたラジオ。
 図書館に持って帰ったら、パチュリー様は好奇心で復元し始めた。
 そいつは、アンテナという部分で世界中の声が拾える、とびきりの代物らしい。
 一応外見はそれっぽく直って、あとは実際に外の電波が欲しいということになった。
 パチュリー様は図書館に大掛かりな魔方陣を描いて、電波を求めて異世界へのささやかなゲートを開いた。

 危険な作業だったが見返りは0だった。
 何事も起きなかったので、パチュリー様はつまらなそうに鼻を鳴らすと「アンテナの感度が悪い」と一言残して、ラジオを持って魔方陣の傍を離れた。

 私はその時、眠っていた悪戯心がむくむくと起き上がってしまった。 
 何も起きなかったイベントに少しくらいサプライズを、と思ってしまった。  
 私は魔法陣に飛び込んで、パチュリー様の魔方陣解除の光に紛れて、図書館の奥へと走ったまま本棚の向こうに隠れた。
 得意の隠れんぼ。
 異世界に吸い込まれたように見せかけたのだ、パチュリー様ならすぐに私を見つけて叱りつけるだろうと思ってわくわくしていた。
 声を殺して笑いながら待っていた。 

 アンテナの感度が悪い……。

 私はもっと早く理解するべきだったのだ。
 パチュリー様は弱点を隠したがるから、私がちゃんと知っておかなければいけなかった。
 小声で私を呼んだパチュリー様は、次に大声で私の名を叫び続けた。
 静かで知的な方だと思っていたから、そんな大声にびっくりしちゃって、私は本棚の影で身を硬くした。
 大声が掠れるまで気付かなかった……。
 喘息だなんて知らなかった……。
 
 あの濁った呼吸音は、今でも慣れない。
 透明な息に鑢をかけて出されるのは、命を削ってる音なのだ。
 座り込み両手を突き、息をする事だけに神経を集中させてるパチュリー様の丸まった背中を、私はひたすらに擦り続けた。
 発作が収まっても、パチュリー様は一度も私をお叱りにならなかった。
 痛くて苦しくて、私は二度目の誓いを立てた。
 
 クールで自信家で、それを支えるに相応しい知識と強さを兼ね備えた人が、私がいなくなったくらいで慌てる理由が解らなかった。
 それを知りたかったんだと思う。
 私は僅かな表情の変化や仕草から、パチュリー様の感情を読むことを始めた。
 上下関係よりも個人の願いを優先したものだったが、やってみたら読書よりもずっと面白くて、ずっと多くのことを学ぶ事が出来た。
 私はますますパチュリー様が好きになって、図書館の暮らしが好きになった。
 本棚の一つ一つに、世界と知恵が詰まっている。
 パチュリー様は私が題目を聞いただけで、内容を諳んじてくれた。

 思ってたほど静かな時間は与えられなかったけれど。
 事件が起きるたびに、私は大慌てだったけれど。
 演技じゃない日々は楽しかった。
  
 アンテナを真っ直ぐに伸ばせば――何故、笑っていたのか解る。

 誰かが何もかも揃えてくれるわけじゃない。
 子供じゃないんだから、私から掴みに行かないといけない。
 卵は温まってる。
 忙しいなんて、みんなそうだろう。
 まだ小さなこの卵を、いつか私が痺れるくらいの大きな夢に育ててやる。

 四階へ続く階段を、踊り場で足を休める事も無く、私は上っていった。
 胃に走る緊張感は、遠足を前にした子供みたいだった。
 嬉しいのに、迫る時間が怖い。

 大丈夫。
 一度争ってしまっても戻れる。
 輝夜さんとエイリンちゃんの絆だって消えていなかった。
 おいどんは憧れの強さで、魔女との勝負に勝ち、アリスさんは信念と勇気で夢を掴んだ。
 ミスチーさんは悪戯でチルノさんを呼び戻し、二人で一つの夢を追い出した。
 それから、小さな私が見た夢も忘れない。

 憧れがある、夢がある、あの人がいる。
 無限の図書館と、最高のパートナーの下で、私が目指すのはラプラスの魔。 

 

 

 

 

■作者からのメッセージ

ここまで読んでいただき、まことにありがとうございました。
大変長くて申し訳ないですが、ラスト(3)の方に続きます。



  SS 
Index

2006年10月15日 はむすた

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル