一日一東方
二〇一〇年 七月二十五日
(星蓮船・聖白蓮)
『ひじりといぬ』
「ただいまー」
ある朝、散歩から帰ってきた聖は、どこからか犬を連れて帰ってきた。
――またか。私は深く嘆いた。
全身が茶色っぽい中型犬で、耳は程よくピンと立っており、ものすごく聖に懐いている。紐に繋がれてもいないのに、聖から離れる様子もなく聖にもふもふされている。
傍から見ると微笑ましいことこの上ない光景だが、飼い犬とも野良犬とも知れない犬をほいほい連れて来ては、犬の遊び相手に指名される私の気持ちも考えず、一方的に引き取ることを決めるのは本当にやめて頂きたい。
「聖。こら聖」
「あーかわいいですねー」
「おいご主人」
手に余る。
早くも犬の目線が私を捉え、黒い瞳を爛々と輝かせて尻尾をぶんぶん振りまくっている。危険が危ない。命の。
「待ちたまえ」
冷静に押し留めても、体勢を低く構えて突っ込んでくる気満々である。籠の中の子鼠も気が気じゃない。
「ナズーリンも、そんなに怖がることはありませんよ。あの子も遊びたいだけなんでしょうから」
「あのな、猫が遊びと称して鼠を甚振る残虐極まりない惨状を知らないご主人でもなかろう」
「あれは遊びですよ?」
しまったネコ科だったこのひと。
「聖! きっとまたどこかで飼ってる犬だろうから、早いとこ人里に返して来るんだ!」
「そうですねぇ、でも迷子になっていたのは確かですし、お腹も空かせているようなので、ひとまずご飯にしてから考えましょう」
「わんっ!」
「この子もそう言ってます」
あほか犬が喋るか、と毒づきかけたが、よく考えれば鼠も虎も好き放題喋っていた。万事休す。
「……わかった、聖がそう言うのなら好きにすればいい。だが私は手伝わないぞ。誰が何と言おうとな」
「ナズーリンは、犬がきらい?」
「今までの会話で私が犬好きだと感じるのなら寺を閉めた方がいい」
「むー……こんなに可愛いのに、ナズーリンは犬がきらいだという」
「ナズーリン……」
「ええいそんな目で見るんじゃない。あとご主人は何故私の頭を撫でた」
「つい……」
私の背では虎の髪に手が届かない。一方的すぎる。むちゃくちゃ嫌そうな顔をしているのに離そうとしないあたり、虎だと思って調子に乗っているフシがある。そのため、容赦なく手の甲を抓って強制的に排除する。
ともあれ、聖は犬を連れて中庭の方に移動を始めた。居住区に招き入れるのは、私や雲山が悲劇的な結末が待っていると踏んでの判断だろう。だったら最初から連れてくるなよと思うのだが、聖の性格がそれを許さなかったということか。
「ムラサ、この子に何か食べるものを」
「え、また連れてきたんですか……」
ムラサも若干呆れ気味である。
それでも、昨日の残り物を全部混ぜたようなわりと詳細不明なエサを犬用のトレイに盛って運んでくるあたり、手際の良さが窺える。
私なら空のトレイで出す。
「わんっ」
「あっ、こら、やめなさいっ、もう」
「へっへっ」
しかしまあ。
犬に舐められすぎだろう聖。頬がわりと大変なことになっているのだが、あんまり気に留めてもいないあたり聖の懐の深さも半端じゃない。
「微笑ましいですねえ」
たしかに微笑ましくはあるが。
「そう思うのなら、ご主人も混ざってくればいいのでは」
「いえ、私は聖が犬と戯れているのを見ているだけで十分です」
「そういう趣味か……」
「え、なんでそんな目で見るんですか」
私の台詞の意味がよくわかっていないようだが、詳しく説明するのも面倒くさい。とりあえず放っておく。
犬の興味は、聖のやわらかほっぺたから正体不明の食べ物に移ったらしく、脇目も振らずにガツガツと貪り始めた。聖も濡れたほっぺたを拭い、しゃがみ込んで犬の頭を撫でている。犬も大人しく撫でられたまま、聖に身を任せている。
これがご主人だと、たぶん組み伏せられて舐め回され続けるであろう。好かれすぎるのも問題である。
その光景を想像していると、ふと、ご主人の横顔に影が差した。
「聖も、犬を飼っていたことがあるらしくて」
若返る前ですけどね、と付け加える。
「同じ時間を一緒に生きてきた犬が、老いて、死んでいくのを見るのは、辛かったそうです」
湿っぽい口調には、無言を貫く。
尻尾に引っ掛けた籠の中では、何も語れない子鼠が鼻を鳴らして動き回っている。
「だから、聖がたまに犬を連れてきても、大目に見てくれませんか」
そう言って、聖に負けずとも劣らぬ慈悲深い笑みを浮かべる。
――やれやれ。
私の態度も悪かったのだろうが、どれだけ聞き分けの悪い鼠と思われていたのか。
「私は、聖の好きにしてくださいと言いましたよ」
「ええ。そうですね」
ええいそこで生温かい目をするんじゃない。
こっちが恥ずかしいわ。
目線を逸らし、犬と戯れている聖に目を向ければ、頭を撫でるだけに留まらず胴体を抱き寄せて激しいもふもふ行為に走っていた。たぶん犬の毛が服に大量に付着しているので、洗濯係のムラサが頭を抱えることは想像に難くない。
「ふふ、ジョセフィーヌったら……」
「聖が早くも犬に名前を付けてます」
「ふふ、聖ったら……」
命蓮寺のツートップがこの体たらくで大丈夫なのか本当に。
恍惚とした表情を晒しているふたりをよそに、犬は食事を続けている。叶うならば全て喰らい尽くしたいとその鋭い眼差し告げていたが、残りわずかといったところで、犬は弾かれたようにトレイから口を離した。
黒い瞳は既に、残飯ではなく寺の正門を見据えていた。
「あ、ジョセフィーヌ」
聖の拘束から逃れようと、うーうー唸りながら身をよじる。只事ではないと察したらしい聖も、なかなか犬から腕を離れようとせず、その感触を名残惜しげに確かめていた。
「聖」
「……はい」
ご主人の澄ました声に、聖はようやく犬を解放する。
「わんっ!」
拘束が解けた途端、犬は石畳を蹴って正門へと駆け出す。開け放たれた正門を一瞥すると、不安げな面持ちで門をくぐる小さな人影が見て取れる。
犬は、世界の終わりみたいに暗く落ち込んでいた女の子に向かって、もうちょっと加減を考えろよと言いたいくらいのタックルをお見舞いする。犬にとっては、これ以上ない愛情表現なのだろうけど。
ここまで来ると、大体の事情は把握できる。
「あっ、もう、やめてよ、きゃっ」
「へっへっ」
「もう……心配したんだからね、ポチ」
「わんっ!」
わりと安直なネーミングだった。
ともあれ、迷える犬も飼い主のところに戻れたようで、ひとまずは良しとしよう。聖は少し寂しそうだが、ご主人もそれを悟っていちはやく声を掛けているようだし。
「さて」
私も仕事に戻ろうか。と思ったが、ご主人と聖が女の子に近付いていくのが見えたので、また妙なことを仕出かさないかと不安になってきた。
体格差から考えて、一度押し倒されたら体勢を入れ替えるのは容易ではないだろうと思われる飼い主に対し、聖は優しい笑みを向ける。
「命蓮寺は、迷える方々の助けになればと考えております」
「あ……はい、それで、ポチがいなくなっちゃったから……来てみたんです。でも、まさか本当に見つかるなんて」
「動物も、道に迷ったときは救われると感じた場所に来るのです。それが、今は命蓮寺であるということですよ」
それは明らかに聖が連れてきたせいです。
どう見ても結果オーライなのだが、星もいちいち茶々を入れない。そのへん、優秀さを発揮する場所を間違えている気はする。
「誰しも、道に迷うもの……犬もまた然り。あなたも、何か困り事があったら、いつでも此処に来て話してみてくださいね」
「はいっ。ありがとうございますっ」
「別に困り事がなくても、たまにジョセフィ……ポチを連れて来てもいいのですよ?」
「あ、……はい!」
ほら女の子も困ってるじゃないか。
あと、ポチはこっち見るな。帰れ。速やかに。
「あ、こら、ポチ!」
「わんっ!」
やばいこっち来た。
女の子もっとがんばれよ。私の命を助けると思って。無理か。無理だな。
「聖ぃー!」
「あらあら」
だめだ根本的なところで役に立たない。ご主人は何だかもうナズーリンと犬が戯れているのを見るだけで十分ですみたいな感じでもうだめだ。
よし、ここは非情だが、掃除係のムラサを犠牲にして屋内に逃げよう。
力の限り三和土を踏み、私は一目散に逃げ出した。
「よし! 何故飛ばなかった私は!」
正面から向かってきたので、前進してから飛翔するという選択肢が削られていた。不覚。そして動揺のあまり段差に足を掛けてこけた。
後ろから、へっへっへっと荒い息を漏らしながらこちらに駆け寄ってくる犬の足音が――――――。
「ぎゃああぁぁ――――ぅッ!」
「あ、ポチ……あんなにはしゃいで」
「あらあら」
「ふふ、ナズーリンったら……」
ナズーリン 多々良小傘 雲居一輪 雲山 村紗水蜜 寅丸星 封獣ぬえ
SS
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