楽園の素敵な巫女に桜咲く(1)

 

 

 

炬燵の上で湯気だけを立派に立ち上らせるどんぶりに、私は手を合わせて感謝する。

「いただきます」

丼を前にして、涙が一つ明かりの下に落ちる。
何も泣く事はあるまいと思うが、これが最後の米だと思うと感慨も一入。
涙を拭って丼に箸を立てる、いや、箸も立たぬ雑炊だった。
元々、一合にも満たぬお米を雑炊にし、スライスした里芋で粘りを出して何とか繋ぎにしたものだ。
それを丼に入れてるのだから無理もないだろう。
お米に繋ぎ。
荒業だ。
それでも、盛大に湯気が立ち上れば、そこにご馳走があると錯覚できる。
熱ければ喉に少しずつしか通らず、食べる事に時間がかかり、食後の満足感も高い。
更に多少の悪食ならば、加熱することで何でも殺菌できて問題ない。
一石三鳥、貧乏の知恵。
さぁ、食べよう。
可哀想な胃の腑にささやかな安らぎを。
最後に温かいお茶を流し込んで、空になった大きな丼を前に置けば、少しはお腹も張るでしょう。

ん、そういえば野菜も残り少ないな、蜜柑が一箱の半分残っているだけか。
腐りかけのがあったから、周りに移らぬよう早めにアレから食べよう。
明日の朝ご飯は熟れた蜜柑のバター焼きかな。
よーし、昼も夜も蜜柑で満漢全席だ。

「って何でこんなに惨めな生活してるのよ私ー!?」

思わず「蜜柑のバター焼き」を受け入れそうになって全力で否定する。
蜜柑って果物だよ野菜でもないよ。
危ない、危ない、素敵な巫女がこんな貧乏生活してては、ちっとも素敵じゃない。
しかも、何かこの貧乏生活が様になってるのが癪に障る。
蜜柑のバター焼きが少しだけ旨そうな気がしてる自分を戒めた。
質素な生活は望むところだが、三食蜜柑で食い繋ぐって何処の遭難生活だ。
極めて早急にこの困窮から脱出する策を練らねばならない。

私も毎年こんなにテンパってるのではなくて、特に今年が異常なのである。
いやはや、完全に計算が狂った。
まだ冬にも入らぬのに、切羽詰ってるのには理由が二つあり、一つは幽々子でもう一つは天気だ。

『あの、すみません、差し支えなければ裏山で紅葉狩りしたいのですが、許可をいただけませんか?』

ニ週間前、みょんな庭師が懇切丁寧に私に頼み込むものだから、ついOKしてしまった。
幽々子が相手でも紅葉狩りなら何も困る事は無いはず。
秋はまだ不揃いで、緑の葉に、黄色い葉、橙のとバラバラなのだが、本人達がしたいって言うのだからほっとけばいい。
裏山が別に私の所有物だという訳でも無し。

結果、幽々子が山の秋を食い尽くした。

後で平謝りの庭師が言っていたが、当初は本当に紅葉狩りの予定だったらしい。
どうかこれで勘弁をと、妖夢が蜜柑箱三つ持ってきたので、その時は許してやった。
後から自分で山に入ってみて後悔した、木の実や茸だけでなく、動物たちまで逃げ出してしまっていて食料は微塵も残っていない。
二度言うが深く後悔した。

山は大変残念な結果になったが、私にはまだ生命線の宴会があった。
これまでも、ショバ代だの何だのいって、彼女らが持ってきた食料をある程度回収して生きてきたのだ。
私は宴会を嫌がってるように見せかけて、あれはあれで感謝している。
ところが、この天気。
梅雨なんかとうに過ぎてるだろうに、ぐずついた、はっきりしない、何時洗濯すればいいのか皆を困らせる天気が一週間。
宴会をやるかやらないか、どうするのか、結局夜になってやらないわ、という嫌がらせのような日々が続いた。
宴会の準備して待ち続ける私は完全に道化だった。
それでも自分からお願いしますとは言えなかった。

嗚呼、母さん、私に銭一つ札一つあるならば、すぐに餅屋に走ることでしょう。
お米が食べたいです。
お酒が飲みたいです。
楽園にも冬が訪れます。
何とかして冬を凌がねばなりません。
だけど、素敵なお賽銭箱は私の期待に全く応えてくれません。
現在、レコード更新中でして、何がって五円玉より大きなお金が賽銭箱に入った事ないのが、そろそろ三年になるらしいですよ。
五十円玉なんて贅沢いいませんから、あの鈍い輝きの十円玉をまた見てみたいです。
神様、死んでしまった素敵な賽銭箱のこと、たまにでいいから思い出してあげてください。

「考えてて私が可哀想になってきた……」

そもそも、何で私こんな糞貧乏な神社を切り盛りしてるのかしら。
何時とはなく、私は気が付いたらこの神社で巫女を続けていた。
巫女とは神社に住み込んで、異変から幻想郷を守るべきだという事を、何となく知っている。
それは、誰から教えられたんだろう?
……。
まぁ、いいわ。
どうせループするし。
とりあえず、考えが行き詰った時には、だ。

「寝る。明日から頑張ろ」

夜に何が出来るわけでもなし、明日の朝、動けばいい。
そういう考えの積み重ねで、私はじりじりと追い込まれてきた気もするが、そういう性分だから仕方が無い。
そもそも、巫女とは規律を守り、規則正しく早寝早起きするものだから、これでいいはず。
あ、宴会あるときは例外ね。

霧のような雨が降る外を少し眺めてから、布団に包まって冷えないうちに寝た。

―――――

その夜、変な夢を見た。

桜の木の下で幼い私が膝を抱えて泣いている。
しとしとと雨まで降っている中で泣いている。
すぐ其処が家なのだから、家に入ればいいのに入らない。
そのまま泣いている。
しゃっくりの様な嗚咽がずっと続く。

はて、この夢は以前にも一度見た事あるような……。

私は自分の小さな頃の記憶というのにまるで自信がない。
だから、これが本当にあった事なのか、私の頭の中の作り話なのか解らない。
そもそも、どうして私はこんなに記憶がはっきりしないのだろう、と考える。
一年位前にも同じ事考えたなー、と思い出して考えるのを止めた。

そのうち、私と同じくらいの背丈の子供が私に駆け寄ってきて、泣く私に問いかけてくる。
次第に二人の口調は強まり、子供同士の激しい言い合いが始まる。
その子に腕をつかまれて無理やり立ち上がらされる。
お、思い出してきた。
一度ではない、これは何度も見た事がある。

『だったら楽園を見に行こう』

お馴染みの台詞の後、私は腕を引っ張られて仕方なく走り出す。
そこで唐突に夢は終わりを迎えるのだ。
例に漏れず、今日の夢もここで終った。

―――――

秋の陽射しまだ暖かく、朝の光とても柔らかく。
朝ごはんの蜜柑を食べ終わって、ひもじい腹のまま外に出た私は、お手水で両手を清め、柄杓で左の手のひらに水を受けて口をすすいだ。
立てかけておいた竹箒を求めると、止まっていた赤蜻蛉が私の指に触れるを待たず、すぅっと秋空に吸い込まれていく。
空は気持ちいいくらい晴れている。

「ふわわぁぁ……うぅ、朝は冷えるわねぇ」

そんな婆臭い台詞を吐きながら箒を握り、静かな境内を掃き進めた。
冷たい空気に頭が馴染んで来たところで、昨日の考えを纏める事にした。
考え事をするときは朝の掃除か、休憩のお茶かどちらかが適任だ。

そういや、夢の中の私は何が悲しくて泣いていたのかしら。
んー、修業でも辛かったか。
私は努力は大嫌いだが、小さい頃の私は何故か修業だけは頑張ってた気がする。
気がするだけで、事実かどうか不明だし、もちろん頑張ってた理由なんてとんと解らない。
頑張ってたから何か辛い事でもあったのだろう、それで泣いてたんだな、そういう事にしとこう。

「夢の事考えてる暇あったら、現実の問題を対処していかないとね」

誰もいない境内で好き放題欠伸をした後で、赤貧問題に向かい合う。
現在、努力嫌いな私としては出来る限り努力をしないで、お米が無いという難題の解決にあたりたい。
『努力しない』を念頭に置いて、今朝、蜜柑を食べながら考えた策がある。
巫女という職業的特権を生かして、無心をするのだ。
努力をせずに赤貧から逃れるためには、他人から巻き上げるのが一番だと経験が語る。

それは所謂たかり、せびり、であり、お金もしくはお米を頂戴よと民家を回るのだ。
その際、携帯型賽銭箱を持って回ればよい。
貴方の信心をお賽銭として希望しますである。
出張賽銭箱。
これなら無心とて、神の使いに他ならない。
ぶっちゃけ先日、因幡てゐが新聞を賑やかした『賽銭詐欺』からのインスパイアであるが、本職の私がやるのだから、これは正当な行為。

「問題は信心深いやつなんて、この幻想郷にいない事か」

元々信心深いやつがいれば、神社は大賑わいなわけで、賽銭箱も素敵に小銭に満ちている。
そうでないから困っているのだが……。
今回のターゲットは慎重に吟味しないといけないわ。
血の気の多い奴は駄目、喧嘩になるとやばい。
今の私が、食料のために弾幕ごっこをやると、それはもはや遊びじゃなくなる。
『だったら人が殺せる陰陽玉を見せようかぁ!』になってしまう。
殺人はまずい。
まだ早い。
出来るだけ穏やかに話が出来る奴、そして、そこそこ蓄えがありそうな奴を探さねば。

「それなら、慧音かしら」

うん、彼女なら安全だ。
歴史の先生をしてるって話だし、収入もありそう。
常識もあるし、話も通じる、信仰心だって0じゃなかろう。
だけど、満月の夜だけは勘弁な!

思いついてから行動までが早いのは私の取り柄で、早速支度をして私は神社を飛び出した。
上白沢慧音がいる人里目指して。

―――――

上白沢慧音はワーハクタクという妖怪なのだが、人里で暮らしている珍しい妖怪だ。

彼女は村外れのボロ屋を教室代わりにして、小さな学校を開いている。
自宅でやればいいのにと思うのだが、本だらけでそんなスペースは無いとか。
彼女は子供達からは先生として頼られているが、大人達からは里の用心棒として頼られている。
満月の時以外は極めて人間に近い容姿なので、人間からも親しみを覚えやすいのだろう。
以上の理由から、半獣であるにも関わらず、結構、里では人気者なのである。
何かあったら慧音を頼れ、というくらい。

そんな風に人間社会の輪にすっかり溶け込んでいる彼女だが、帽子のセンスだけは我々には理解し難い。
博士帽の様なものを上にぐいと引き伸ばし、尖らせた頂点にリボンを結わいつけた、妙な帽子が常に頭に乗っかっている。
あれを外したところを、まだ見た事が無いのだけど。
何が入ってるんだあれ。
弁当?
まさか、あそこまでが頭だったりはしないよな。
……嫌な想像して自己嫌悪に陥る……。

「……っ……さむぅ……!」

ああ、この巫女服なんとかならないのかしら、腋がすーすーして仕様が無い。
しかし、試しにこの間、腋の開いてない服を着て暖まっていたら、魔理沙に全力で止められた。

『霊夢! やって良い事と悪い事の区別もつかないのか!?』

私が脇を塞ぐのは相当に悪い事だったらしい。
魔理沙の顔が真っ青だった。

人里が見えてきたのをきっかけに、高度を下げる。
やはり、地表に近いほうが多少なりとも風の冷たさが違う。
低空飛行で簡素なバリケードを越えて、人里に入り、地面に降り立つ。
稲穂はもう刈り取られていて、地面に黄金の絨毯を作っている。
その寒々とした景色に、一層身体が冷えるのを覚えた。
羊の毛が刈り取られてるのを見た時、こんな気分だったか。

畑に人も少ない。
収穫は済んだらしい。
これなら、慧音から米が期待できそう。
畦道を歩いて、外れにあるおんぼろ小屋に向う。
元々は農具を仕舞ってあった小屋らしい、それを慧音が懸命に掃除して改造して机と椅子を運び込んで、小さな教室に仕立て上げた。
近づくと、小屋の中からカツカツというチョークの音が聞こえ、その後に良く通る慧音の声が聞こえてきた。

「よーし、それじゃ少し早いが終わりにする。皆、気をつけて帰るんだぞー?」
「はーい」

え?もう授業終了しちゃうの?
慧音、あんたサボってんじゃないわよ。
いけないわ、まだ終ってはいけない。
だって、私はちゃっかり給食にあずかるのを楽しみにしてたのだから。
いいえ、本当言うと、子供達からのお賽銭だって期待してたの!
……人としてどうかと思う。
神よ、止まらない私をお許し下さい、全て貧乏が悪いのです。

「「先生さようなら〜、皆さんさようなら〜!」」

終わりの挨拶が聞こえてきた。
急がねば銭が逃げる。
無言で小屋に近づいて、引き戸に手をかける。
戸がガタガタと激しく音を立てるが、全然開かない。
立て付け悪過ぎる……ってかどうやって開けるってのよ。

「何をやっているのだお前は……?」

僅かに開きかけた隙間から、慧音のじと目と私の目が片方だけ合った。

「……見て解らない?」
「鬼のような形相の強盗が戸を開けようとしてるように見える」
「先生大丈夫!? 強盗なの!?」
「大丈夫だ」
「いいから、これ開けてよ」
「その戸はな、立て付け悪いから戸全体を軽く持ち上げてから、横に引くんだよ」
「ほぉ……? のあっ!?」

試しにやってみると、思った以上に戸が勢い良く開いて、私の身体が傾いた。
傾いた体を持ち前の運動神経でカバーしてバランスを取る。
開いた扉の外で、斜め65度で決めポーズを取る私を子供達の目が一斉射撃。

「あ……こ、こんにちは」
「先生! 巫女だ!」
「凄い本物だ! 腋出してるよ腋!」

腋で判断するな腋で。
教室の中は既に生徒が総立ちであり、六人の子供が餌を前にした子犬のように目を輝かせながら、私に走りよってくる。
あっという間に、絣の着物の子供達に包囲されてしまった。

「すっごーい! 巫女なんて初めてみたー!」
「絶滅してなかったんだー!」

私はレッドデータアニマルか。

「もう、調子狂うわね、慧音。とりあえずこの子達何とかしてよ」
「ほぉ、大人気だな霊夢」

教壇の前で慧音がにやついている。
どうやら助ける気は更々無いようで、寧ろこの状況を楽しんでいるようだ。

「うわっ、何これ。賽銭箱?」
「ね、ね、先生! 触ってもいいかな!?」
「ああ、いいぞ」
「いい!? さらりと許可出すなー!!」
「わーい!」

「止めなさいっての! 腋は駄目、だからってわき腹もやめろ、足撫でるな服引っ張るな変なとこ触るなぁ!」

足元に集った子供達が、ぴょんぴょん跳ねながら私をまさぐる。
少しは遠慮せんかい!

「ところで霊夢。こんな所まで一体何のようだ?」
「あんたこの状態で、私に会話さすの!?」

子供がへばりついてきて話どころではない。
服から零れた陰陽玉に、子供たちの興味が移ったところを見計らって、子供たちを振りほどいて教壇の慧音に近寄る。

「楽園の素敵な巫女がお賽銭募集に来たのよ! さぁ、入れなさい!」
「お賽銭箱が神社から歩いてきたよ、嫌だなぁ……」
「入れないと罰当たるわよ?」
「だ、そうだ。どうするみんな?」

私の背後の子供達に慧音が問いかける。
しばらく陰陽玉をいじって大人しかった子供らが、凄い勢いで教壇に迫り囲む。
寄せては返す波のような生き物だな。

「入れる入れる!」
「五円玉でいいんだよね?」
「え!?」

六人分、六枚の五円玉が空の小型賽銭箱に吸い込まれ音を立てる。
ああ、この銭の弾ける音、久方振りに聞いたわ。
子供ってお金持ち〜……。

「あ、ありがとう……」
「ご利益あるかな〜?」
「あるある、神社のご利益は怪しいが、困窮の巫女を救っただけで十分人助けだ」

事実なので言葉に詰まる。

「それじゃ、先生。また明日〜!」
「ああ、気をつけてな。皆で固まって帰るんだぞ」
「はーい!」

子供達が帰って行く中で、私は賽銭箱だけをじっと見つめていた。
信じられん。
賽銭率十割ヒットだ。
神社建てる場所間違えたかしら。
賽銭箱を振る、ちゃりちゃりという音に思わず笑みがこぼれた。

「どうだ霊夢。子供は強かろう?」
「………」
「霊夢?」

感動に打ち震えて言葉が出てこない、楽園だ、ここが楽園に違いない。

「そ、そんなに金に困っていたのかお前?」
「はっ!? な、なにかしら慧音」
「笑顔引きつってる、引きつってる」
「あ、そうだ慧音。あんただけ賽銭入れてないじゃないの」
「おお、そうだな」
「はい、入れて」
「ふむ、しかしお前なら現物支給の方が嬉しいだろう」
「?」
「ご飯だよご飯」
「おおおおぉ!」

思わずサムズアップ。
慧音が教壇の下の手提げ鞄から、藍染の弁当包みが現れる。
大きくて長方形のそれは、上下に二つ重なっていた……二つ!?
つまりそれは、一つを前もって私の為に準備してくれたって事!?
なんて素晴らしいのワーハクタク!
歴史を知る半獣には、そこまで読めてしまうのね!
ラプラスの魔とは貴方の事よ!

「私の昼の弁当を、お前に半分分けてやろう」
「有難う、遠慮なくこっち頂くわね」
「は? 違う違う!」

私が弁当箱を抱えると、慌てて慧音が止めに入った。

「一つは妹紅の分だ。そっちは手をつけないでくれ」
「妹紅ぉ〜?」
「そうだ、あいつ放って置くとすぐ痩せるからな」
「あんた、相変わらず過保護ねー、まだあの不死鳥娘守ってるの?」
「お前なんて、毎度、幻想郷そのものを守ってるじゃないか」
「むぅ、言われてみれば……」

だけど、言われてみても、実感の無い話だ。
気が付くと身体が動いて、思うまま飛び回ってるうちに異変を解決してしまう。
例えばこんな切迫した赤貧状態でも、異変が起きれば、やはり私は動くのだろう。
そこに私の意志は入っているのか?
しかも、毎度大した異変でもないし、私がやらなくても、誰か別の人がやりそうな気もするのだが。

「何で考え込む?」
「……ん? 私って無償で何馬鹿な事やってんだろとか」
「馬鹿じゃないだろう。感謝してる奴はしてるし、ほらお賽銭も貰えただろう?」
「お賽銭?」
「子供達はお前の活躍を知っているからこそ、お賽銭を惜しまなかったんだ」
「何で子供が私の活躍なんか知ってるのよ? 文々。新聞にすら載ってないってのに」
「そりゃ、私が歴史を教えているからに決まっている」

お前かよ。
無性に照れくさい。
歴史に載る程の活躍をした心算も無いのに。

「代々幻想郷を守ってきた博麗の巫女は有名だからな。人々の間では昔話とか紙芝居にもなってるよ」
「嘘っ!? 私、有名人!?」
「あー、お前は……いろんな意味で……有名人だ……」
「どうしてそこで声が細くなるのよ」

あれ、代々って事は?

「ねぇ、ちょっと待ってよ」
「うん?」
「代々ってことは、あの神社にも先代の巫女がいたわけよね?」
「ああ、そうだな」
「私、その人の顔も知らないんだけど?」
「そんな事は無いだろう。先代とは何処かで必ず会ってると思うが……」
「覚えが無いわね、大体、彼女は何処へ消えたのよ」
「何処だろう?」
「解らないの?」
「先代の巫女と付き合い無かったからな、お前と違って神社から殆ど出てこなかったし。顔も良く覚えていないが異変があると飛んで来た」
「……正義の味方みたいね」
「実際そんなものだ」
「その人、幾つくらいの人だったの?」
「年齢はお前と同じくらいじゃなかったか? それ以降、異変らしき異変がなかったので歴史に残っていないな」
「ふーん、若かったのねー」

会話が続くかと思ったのだが、慧音は言葉を返さず不思議そうに首を捻った。
それから下から覗きこむように、私の瞳をじーっと見つめてきた。

「お前、目が似てるな……」
「誰と? 先代と?」
「あ、いや、すまない。私の気のせいだろう。違う里の事だったし」
「気のせいでいいから、話なさいって」
「話せと言われても難しいのだが。少し不幸が続いた、気の毒な子が遠い村にいてね」
「その子の目と私が似てるって?」
「いや、やはり気のせいだ。誰かに引き取られたと聞いたから、今は何処かで幸せに暮らしているのだろう」

慧音は水筒からコップにお茶を注いで、それを生徒の机の一つに置いて、椅子を後ろに引く。
木製の椅子が教室の床を擦って音を立てた。

「とりあえず、座ってくれ」
「ありがとう」

弁当の包みを解いて蓋を開けて、その蓋の裏をコップの横に並べると、次々とおかずを移していく。
本当に半分くれるらしい。
それにしても、こういうの似合ってるな、この娘。
いいお嫁さんになれるわよ。

あら、具沢山のお弁当。
ご飯なんて胡麻塩がかかっているばかりか、中央に赤くて酸っぱい宝石が埋め込まれている。
豪華過ぎだ、もったいない。
玉子焼き、プチトマト、キャベツ、大根おろしにブリの照り焼き、うわぁ……
弁当のおかずは二品までというのが博麗の掟なのに。
なんと、中央には幻の大陸料理海老フライが。
有り得ない!
何処の宮廷料理だこれは!
解った! どっきりだ! 私を騙して楽しんでいる連中が教室に隠れているのね!?
何処よ! カメラはどこよー!?

「……さっきから首がねじ切れんばかりに回転してるが、大丈夫か?」
「け、慧音、落ち着いて! これはスキマ妖怪の罠よ!」
「……あ……うん、ほら、お茶飲んで落ち着こうな」
「あ、あり、ありが、んぐんぐっ……ありがとう!」

落ち着いて状況を確認する。
弁当からは何とも美味しそうな匂いがしている、蝋で作った偽物ではない。
注意深く辺りを見回しても、スキマ妖怪の姿も無い。
……これは、罠じゃないのか?

た、食べちゃうよ?
エビフライからいっちゃうわよ?
誰も止めないのね?

――ぱくっ

「ん………んんんっ!? んまーいっ!」
「それは大袈裟過ぎるな、お世辞ならもう少し上手くやってくれ」
「美味い、本当に美味しい! 海老がしゃっきりぽんっと舌の上で踊るわ!」
「表現が良く解らない」
「慧音! 明日から私のお弁当を毎日作って頂戴!」
「おいおい、人が聞いて誤解するような事言うな」
「はぐはぐ、うーっ最高!」
「私が作るのは妹紅の弁当だけだ」

あんたが言うと誤解の方向が当たりっぽくて怖いわよ。
頬を染めるな。

「あんたって、いつもこんなもの食べてるわけ?」
「いや、今日は特別だ。妹紅の誕生日だからな」
「へぇ、あいつあれだけ長く生きてて、自分の誕生日覚えてるの?」

私なんて、十年前の記憶ですら怪しいのに。

「まるで覚えてないぞ」
「何それ」
「覚えてないから、昨年、今日を誕生日にしたんだ」
「生まれた日を勝手に決めていいわけないでしょうが」
「良くはないが、節目として誕生日はあった方がいいだろう」
「必要かしらねー?」
「長く生きてると一年の大切さを忘れる。幾つになっても一年一年を大切にしないとな」

誕生日か、誕生日ねぇ……子供の頃は楽しみだったな誕生日。
確か、私の誕生日は、春だった気がする。

「あっれ?」

気がするって、おい。
ちょっと、どうしたの私。
本当、やばいんじゃないの?
自分の誕生日も正確に覚えてないわけ?
貴方の誕生日は何時ですか? と訊かれて季節で答えるほど私の頭は春じゃないのよ。

「妹紅の奴がな、誕生日をそれはそれは楽しみにしてるんだ」

訊いてもないのに、慧音さん家の妹紅自慢が続いている。
口を挟むのも躊躇われたので、私は私の事を考えた。

「誕生日の一週間も前から気の無いそぶりで、何度も訊いてくる。もうすぐ誕生日だね、とか、誕生日別に祝わなくてもいいよ、とか」

何で私は誕生日を忘れてしまった?
記憶がはっきりしないと、誕生日まで忘れてしまうものなのかしら。

「そんな事言わなくても、私が忘れたりするわけないのに。はは、それとも、素直に祝ってくれと言うのは案外難しいのか」

しかしそれは、子供の頃は覚えてないから今の歳が解らないと言うようなもので、とても合点がいく理由ではないだろう。
誕生日が待ち遠しかったのは記憶にある。
外には桜が咲いていたから春だ。
桜が咲く季節に、誕生日に私は何かを待ち侘びていた。
何を?

「いや、私も素直じゃないな。妹紅を祝う事は私にとっても嬉しい事だ、本当は私の方が楽しみにしていたり」
「……」
「霊夢? どうした、顔色が悪いぞ?」
「うーん、センシブルな巫女は、色々な事が気になってね」
「はぁ?」
「慧音、私の小さい時の事覚えてない?」
「覚えてるも何も、私達が出会ったのは永夜の晩が初めてじゃないか」
「そりゃそうだわ」

私は何時の間にか弁当をかきこむ手を休めて、真剣に考えていた。
気にならないと言えば嘘になる。
記憶を探ろうとすると、ある時を境に途端に手ごたえが無くなるのだ。
その先は海のようにぼんやりと広がる領域で、何処か懐かしくて暖かくて、だけど、最後にはとても大きな波が全てを流してしまう。
その波はぞっとするほど冷たい。

「どうして、解らないんだろう?」
「何だ、昔の事が思い出したいのか?」
「思い出したいというより、思い出せないと、どうにも気持ちが悪いのよ」
「なら、鈴仙に頼んでみたらどうだ?」
「……あ、うどんげね。何で彼女に?」
「退行催眠ぐらい出来そうだぞ、あいつ」
「ほぉ、なるほど、あの兎は催眠が得意だっけ」

私の対面に座っていた慧音が立ち上がると、教室の奥へ歩いていって窓の前で止まる。
その窓は、くり貫いた長方形に無理やり窓枠をはめ込んだ急場しのぎの窓だった。
それを半分だけ開けた。

「不思議な事に、どうやっても半分しか開かないのだ、この窓は」

それは、設計ミスとしか言いようが無い。

「どうやら、そろそろ時間だな」
「何が?」
「稲わらの野焼きだよ。民家に煙が行かないように、風を見て行われるから、丁度今からだ。今日授業を早めに切り上げたのはこの為さ」
「何かまずい事でもあるの?まさか火がこっちまで来るわけじゃないでしょう?」
「防火線があるので火はここまで来ない。だが、煙はそうはいかないぞ。ここにいると燻製にされる」
「……ここも民家じゃないの?」
「ここは町外れだから仕方ないさ、元々が農具置き場だし。さあ、私も妹紅の所へ行くとしよう」
「早く言いなさいよそういうの。弁当がまだ残ってるじゃないの」
「手伝ってやろうか?」
「お断りだ!」

ご馳走は一口につき百回は噛んで食べようと、心に決めていたのだが仕方ない。
海老よ、私の腹の中で生きろ。
プチトマトよ、私の血となり肉となれ。
君たちの事は忘れない。

お祈りを捧げながら全てを平らげるまで慧音も横で待ってくれた。

「ご馳走様でした」
「はい、お粗末様」

―――――

蓋の裏のご飯の最後の一粒を噛み締めてる時には、煙はすぐそこまで迫っていた。
私と慧音は煙に追われる様に、急いで戸締りをすると空へ飛び出した。
空中で、慧音が手提げ鞄の中から、米が入ってる皮袋を取り出して私に向かって放り投げた。
授業の月謝の一部らしいが、なんと、これを恵んでくれるらしい。
この時ばかりは慧音が神に見えたので、素直に拝んでおいた。
……嫌がられた。
良かった、これで三日はいけるわ。
そのまま私達は上空で別れ、慧音は妹紅の庵へ、私は竹林へ向った。

鬱蒼とした竹林の奥に永遠亭はある。
これに辿り着くのは正攻法ではやや難しく、楽な方法を求めるならば竹林ではなく空中を見る事。
運がいいと、輝夜と妹紅が殺り合ってる。
おーけー、ばっちりいたわ。あの下が永遠亭ね。

私はうどんげに用があるのだが、本来の目的である賽銭収集も忘れない。
特にうどんげは素直な性格で騙されやすいので、賽銭にかなり期待がかかる。
チルノ覚えておきなさい。
これが一石二鳥よ。

門を無視して永遠亭に降り立つ。
素敵な巫女の到来を、たくさんの兎達が弾幕で歓迎してくれたので、お払い棒で感謝の気持ちを表した。

「みんなありがとう! さあ、弾幕の次は五円玉を投げましょう! 素敵なお賽銭箱はこちら!」

誰も立ち上がらなかったのは至極残念である。

―――――

「……てゐが服引っ掛けちゃって」

捜し求めたうどんげは、縁側で服の継接ぎをしていた。
ピンクの服に裏から同色の布をあて、丁寧に針を通していく。

「素敵なお賽銭箱に、お賽銭入れる気ない?」
「ない」
「うん、後で交渉しよう。それじゃあ、他に頼みがあるのだけど」
「今、手が離せないのよ。もう少し待ってくれる?」
「待つのは嫌いじゃないけど、お茶の一つくらい出して欲しいなー」
「てゐー、そこにいるー? 霊夢にお茶出してあげてー」

角の柱からうどんげを覗いていたてゐは、耳をビィーンと尖らせて驚いた後、何処かへ消えていった。

「てゐがあんたの言う事聞くのって珍しくない?」
「私が直してるのあの子のお気に入りの服だから」
「弱み握ってるわけだ」
「だから、今だけね。言う事聞くのも」

会話が止まり、竹林に風が吹いた。
乾いた葉擦れの音が、四方八方から私たちを包む。
そんな中、うどんげが服を直してるのを見ると、とても心が落ち着く。
懐かしいとすら感じる。
私は、何処かで似たような経験があるのか?

「あの子も、もう少し落ち着いてくれるといいんだけど……」

突然、強烈な既視感が走った。
この言葉、何処かで聞いた。
何処で?誰から?
暖かい場所で服を直してもらって、まるで魔法のようなその手つきに感動して。
だから、それは誰だ……
とても綺麗な人で、かなり厳しい人で、でも最高に優しい人だ。
顔が……出てこない……。

――とくんっ

心臓が大きく波打った。
送り出された、懐かしい、暖かい想いが全身を駆け巡る。
長い黒髪を肩の辺りで纏めていた、とても綺麗な人。
何とか顔を思い出したい、誰なのかはっきりさせたい。

不意に心臓が涙が出そうなほど圧迫された。
息が詰まる。
冷たく大きな波が襲う。
積み上げようとしてた記憶の砂は、形になる前に跡形も無く崩された。
私に残ったのは雪を掴んでいるような冷たさ、虚しさ。
どうして!?

「れーせーん、お茶もってきたよー」
「はい、ご苦労様」
「そ、それ直りそう?」
「あはは、心配しなくてもこのくらい」

模範的な団欒の一時を過ごす二人に対して、冷たい水の底に落とされたままの私が邪魔な異物のように感じた。
なんて私らしくない。
無重力の巫女が、何をそんなに脅えている。

「よしっ、出来たよ!」

うどんげが立ち上がり、ピンクの服を高く掲げる。
てゐが服ごとうどんげに飛びついて、二人とも倒れた。

私はお盆からお茶をひったくり、喉に流し込む。
熱さに舌がやけたが、お茶の味が解らない。
唇を湿らせた後、膝を乗り出して、うどんげに話しかけた。

「うどんげ、それが終わったら頼みを聞いてくれる約束よね!?」
「え? あ、聞くだけだよ?」
「あなた退行催眠出来る?」
「退行催眠って……いきなりどうしたの?」
「出来るの?」
「で、出来ますけど……はぁ……」
「れーせん、そういう時は出来ないって嘘吐けばいいのにー」
「うー、私、嘘吐くの苦手だなー」

私も嘘は苦手だし嫌いだ。
魔理沙ぐらい解りやすい嘘ならば、別にいいのだが。
そういえば、私と魔理沙、うどんげとてゐ、それぞれ対照的な性格をしているのに不思議と仲が良いわね。
……って脱線しちゃったわ。

「お願い、私に退行催眠かけて過去を思い出させて」
「え、ええ?」
「お願い!」

そのまま両手を床に突いて、頭を深く下げた。
頭を下げるなんて何年ぶりだろう。
だけど、このまま胸にしこりを残したままというわけにはいかない。
重りを背負ったままでは、空も気侭に飛べぬ。

「……」

ちらりと上目で探ると、あのてゐですら、あんぐりと口を開けていた。
そんなに珍しいかしら……。

「解ったから霊夢。とりあえず私でいいならやってあげる。だけど成果の程は解らないよ?」
「有難う」
「てゐ、人間が使うお金の五円玉もってきてくれる?」
「あいさー」

五円玉で催眠やるのか。
無茶苦茶原始的じゃないの、大丈夫かしら。
月の文明はそんなレベルなのか。

「それじゃ先にざっと説明するね。これからやるのはヒプノセラピーの一種なんだけど、答えたくない質問には絶対に答えないで」
「どうして? というか答えたくないとか、そういうの有りなの?」
「大有りよ。催眠中でも顕在記憶はちゃんと残っているの。催眠の信頼性はそこにあるのよ。好きなことだけを選んで引き出せばいいの」
「ふむ……」
「それと、貴方が何故過去を忘れたのか理由は知らないけど、無理にこじ開けると貴方の精神に支障をきたす恐れがあるから注意して」
「解った、出来るだけ深入りしないようにはする」
「後は、催眠状態に入ったら私が質問で誘導する、霊夢はそれに答えるだけでいいから」
「了解よ」
「じゃあ、そこの角に座って、柱に背中を預けてくれる?」

言われた通りに移動する。
私が座ったところで、てゐが戻ってきて、うどんげに五円玉を渡す。

「目が覚めた後も、少しぼんやりするけど、気にしないでね」

私の前に、うどんげが膝立ちになる。

「五円玉の穴の向こうの、私の赤い瞳を見つめて。いい? 今から妖力込めるよ?」

キン!と赤い光が彼女の瞳から発せられた。
眩しさは感じない。
赤い光は網膜に吸い込まれて、世界が全て赤くなる。

「身体の力を抜いて楽にして、そう、水の上に浮かんでいる感じ」

水どころか羊水に浸かっている感覚だった。
ゆらゆらと、ゆらゆらと……。
うどんげ凄いわ。
見直したよ。

「遡りたい時間の記憶を些細な事でいいから思い出して。思い出せない場所は深く考えなくていい」

周囲から一切の音が失われ、心臓の鼓動だけが響く。
瞼がどんどん重くなる。
身体が沈み込む。
背中の感覚も無くなった。
意識が少しずつ彼方へ引っ張られる。
あれは……。

「霊夢、何が見える?」

「博麗……神社……」

―――――

私が誰かに手を引かれて、神社の階段を登っている。
私は背格好から察するに童女というよりは幼女だろう、三つにも満たないのではないか。
隣の人は、二十歳に満たないくらいで、こちらは結構お姉さん。
手を引いてる人も私も、紅白の巫女服を着ていた。
二人の姿は歳の離れた姉妹のようだった。

見慣れた赤い鳥居が、幼い私にはとても高く聳え立ってるように見えた。
鳥居の下を潜ると、雨に湿気た桜の花びらが五、六枚飛んできて、一つが私の鼻の上に止まった。
白い手が私に伸びてきて、私の鼻の上についてた桜の花弁を摘むと、それを私に見せて微笑んだ。
そこで、急に目の前の景色が閉じられる。
そして、新しい場面に変わった。

どうやら、次の場面は秋の暮れらしい。
木枯しの吹く中、私は修業をしていた。
それは、巫女らしい修業ではなくて、神楽や舞いなどはまるで出てこない、戦闘訓練に偏った修業だった。
幼い子に対してちょっと酷いのではないかと思うぐらいの内容だったが、きりりと前を向いて、一心不乱に打ち込む私に迷いは見られない。
私の相手になってくれているのは、さっき手を引いていた巫女さんだ。
これは先代の巫女だろうか?
私も針、お札、陰陽玉を駆使して頑張るのだが、さすがに軽くあしらわれていた。
まあ、子供だから仕方ないでしょう。
数多い擦り傷、打ち身が、修業の激しさを主張していた。
巫女さんの方は子供相手だからなのか知らないが、動きがどうもぎこちなくて、それが少し気になった。
戦闘が得意な方ではないのかもしれない。
また唐突に景色は終わり、次の場面に飛ぶ。

部屋の中。
炬燵に入って温まる私の右隣に、先程の巫女さんが座っている。
巫女さんの手には私の巫女服と裁縫道具が握られていた。
ああ、これは、私が思い出したかった場面だ。
今日感じた既視感は、ここだ。
だとすると、この人こそ私が思い出したかった人物か。
私は先代の巫女の記憶を追っていたのだろうか。
幼い私は炬燵に潜ったり出たり、先代に擦り寄ってみたりで、嬉しくてはしゃぎたい気持ちを全身で表していた。

けれど彼女は、腰の辺りでじゃれ付く私を邪険にする事は無かった。
優しい眼差しを私に落としながら、笑顔のまま慎重に針を進めていく。

暖かい。
懐かしい。
気持ちいい。
私はこの笑顔を探しに来たんだ。

鋏が糸を切る、パチンという音が私の上で響いた。
もう破れた箇所は、何も無かったように綺麗に修復されている。
顔を輝かせて、私は服を手に取った。
ここでようやく幼い私と今の私の心が同調した。

映画のダイジェストのように、次々と場面が変わっていく。

規律正しい生活と、厳しい修業の日々が続く。
偶に暖かい団欒がある。
その冬は落ち葉で焼き芋を焼いた。
積もった雪で兎を作った。
お餅の入った汁粉を二人でふーふー言いながら食べた。
使い終わったカレンダーの裏を落書き帳代わりにして、クレヨンで埋め尽くされるまで、母のいる風景を描いた。
経済的に逼迫した状況ではあったが、母は料理や裁縫にも長けていて、私に貧しさを感じさせないように出来る限り工夫してたと思う。

木枯しの中でも修行は続き、私は日増しに実力を付けていった。
一日に教わった全てをスポンジのように吸収していった。
その日の終わりに、『良く頑張ったわね』と優しく頭を撫でられるのが、大好きだったから。

やがて、春が来た。

まだ少し肌寒いのだが、炬燵はもう出ていない。
外には気の早い桜がちらほらと花を咲かせ、同胞が一斉に花を咲かせる満開の時を待っている。
私は卓袱台の前に正座をしていた。
やけに目に落ち着きが無いのだが、理由が解らない。
白い包み紙で包装された小さな箱を持って、先代の巫女が部屋に入ってくる。
立ち上がって私が駆け寄る。
包み紙に毛筆で、誕生日おめでとうと書かれているところを見ると、これは私の誕生日の光景らしい。
小さな箱の中身は大きなリボンだった。
特別大きな赤いリボン。
目の細かい櫛で髪を梳いた後、彼女はそのリボンを私の頭に結んでくれる。
私は鏡の前に走っていく。
頭の上に綺麗な赤のフリルが乗っていた。
その場で一回転。
リボンの向こうに流れる髪が尻尾のように踊る。
彼女は私を見つめながら『やっぱり大きすぎたかしら?』と愉快そうに笑う。
私はその頭に不釣合いな重みが、自分の成長のように思えてとても嬉しかった。
お礼を言いながら、彼女の胸に飛び込んだ。

『母さん、有難う!』

母さん?
産みの親なのか?
いや、それは少し若すぎる。
父の記憶もないし、血は繋がってないだろう。
だけど、この人が育ての親に違いないとは思う。
博麗神社に来る前の記憶は無いが……。

その日から私に宝物が出来た。
それ以降の記憶の映像には、常に頭にリボンが乗っかっている。
風呂に入る前に母さんにリボンを解いてもらい、朝起きると締めてもらう。
とても大切な私のルールだった。

何時もと変わらぬ日々が、また何ヶ月も過ぎた。
修業の内容が、戦闘訓練以外のものも混じってきた。
生活力を身につける訓練だろうか?
川で魚を取る勉強、魚の下ろし方から干物の作り方まで。
山で木の実や山菜を探す訓練、食べられる茸かそうでないか。
里に出て他の食料とお米を交換してもらったり、お米や芋でお菓子の作るといった趣味の領域まで。

何だか食料調達に比重が偏ってる気がする……。

だけど、傷の治し方、熱の冷まし方、掃除、洗濯、料理、炊事、母の教えは多岐に渡った。
私は戦闘訓練よりは、これらの教えの方がずっと好きだった。
山も川も、親子で行けば遠足に来たようで楽しかった。
そういえば、母と何処かに出かけるときは、いつも素敵な日本晴れだ。

その頃、母の外出が増えた。
『異変を解決に行ってきますね』と言って二週に一度ほど、空高く飛んでいく。
母は空を飛ぶときに、まず宙に浮かんで風を待つ。
風が来ると、風に流されるまま、ふわふわ飛んでいく。
あれでちゃんと目的地につけるのかな、と私はいつも心配しながら母に手を振って見送る。。
根がおっとりしている母は、鳥が風に乗るというよりは、たんぽぽの綿毛が風に浮かぶといった形容が相応しい。
ユーモラスな姿で飛んでいくのだ。
私の見送りに応えて、右手を振り返しながら。

秋が過ぎ冬が過ぎ……一年回って春に戻る。
変化はまた春に起こった。

一人の人間が、赤い鳥居の下を潜って境内に上がってきた。
この時期に珍しくも参拝客なのかと、私は箒を置いて鳥居の下へ向った。
母は食器を洗っていて、外にいなかったので、私が出迎えたのだ。
その人は、立派な白い顎鬚と、頭に黒い山高帽みたいなのを被り、服は黒一色のローブだった。
その黒いお爺さんの後から、小さな女の子が石段を走って上がってくる。

(あ……この子)

夢で見たあの子だ。
あの夢より、ずいぶんと幼いが、雰囲気がそっくり。
カンの強そうな瞳と、気が勝った表情、スカートを穿いていなければ男の子かと思うような。
肩の辺りまで伸びた金色の髪を、春風に攫われた桜の花弁が飾り立てる。
この女の子が退行催眠で出てくるとなると、夜に見た夢は実話なのね。
女の子の背丈から見るに、時間的には、これからずっと先になるのか。

お爺さんは私に『ここが博麗神社かね?』と訊いた。
私が答えると、ふむ、と顎鬚を弄りながら、母がいる家の中へ入っていった。
女の子も付いていったのだが、お爺さんに玄関で追い返された。
こんな酷い事は無い、という表情で女の子が戻ってくる。
この子、気持ちが顔に出過ぎて面白い。

『お前も素敵な巫女か?』

不躾にそんな事を訊かれた。
素敵かどうか知らないが、巫女であるには違いないだろうと、私は頷いてやった。
女の子は、その答えに満足したらしく、私から離れて適当に遊び始めた。
それから私も境内の掃除を再開して……

(霊夢……霊夢……!)

あれ?
何だか、雑音が入ったわ。
この場の誰の声でもない掠れた声が、空から響き渡った。

『霊夢! 返事して!』

ああ、この声は鈴仙。
そういえば、あいつ誘導するとか言いながら、何もしてくれないじゃないの。
まあ、記憶は勝手に進んでるし、このままいけばいいのかな。

『霊夢! 返事して! 大丈夫!?』

煩いな、ようやく此処まで遡ってきたのよ。
邪魔しないでよね。

『仕方ない、強行突破するわよ! てゐ押さえてて!』

その言葉から数秒後に、世界に急激な変化が訪れた。
ガラスに亀裂が生じたような白い粉の線。
木材が軋むような音を立てながら、白い線が辺りに一斉に引かれて……。
やがて私の体の何倍もある大きな手が、白い線を割って出てきた。

「な、なによそれー!?」
『あ、ようやく聞こえた! 今助けるからね!』
「は? 何早とちりしてるのよ、私は別に大丈夫だってば」

私の主張は完全に無視されて、巨人の手は私を掴んで空に引き上げる。
幼い私の姿が、米粒のように小さくなっていく。
意識が夢から消えていく。
もったい……ないな……。
こんなに暖かい世界を……どうして……。

どうして、忘れていたんだろう……。

―――――

「ん、うーん……?」
「れーせん! 霊夢気が付いたよ!」
「本当!? よ、よかったぁ!」
「んあー?」

だらしない声を上げて目を覚ますと、そこは永遠亭の廊下だった。
口からは涎が一筋、顎まで垂れている。
全く年頃の娘がはしたないと、母さんがいたら怒られているところだ。

「おや?」

そうだ、先代はどうしたのだろう?
あれから、何処に消えたのだろう?
私が覚えている記憶の範囲では、神社には常に私一人しかいなかった。
もしかして、彼女の身に何かあったんだろうか?
例えば……考えられる最悪の場合が死だけど……。
死んだなら神社いなくて当然だ。
墓に入ってるのだから。
もしかすると、私は彼女の死が原因で、記憶を閉ざしてしまっているのではないだろうか?
結末が知りたい。

まさか、あの若さで寿命は無いだろうし、戦いで死んだと考えるのが普通の発想なのだと思う。
博麗の巫女ならば、強大な妖怪を相手に戦い、命を落とすことだって珍しくない。
先代に育てられた私が、先代の遺志を継ぎ楽園を守っている。
立派な美談じゃないの。
死んでしまったのは悲しいが、彼女の想いと技は私に受け継がれているのだ。
死に様を想い出せば悲しいだろう、泣くかも知れない。
だけど、そこで終わり。
それですっきりする。

……はずだ。

何故だろうか。
もっとどす黒い不安が、胸の中を這いずり回って仕方が無い。

「やっぱり、まだ、ぼんやりしてるみたいね、霊夢」
「え?あ、はい」
「れーせん、催眠失敗したの?」
「失敗どころか想像以上に深くかかってしまって……ずいぶんと昔に執着があるみたいよ貴方」
「執着が?」
「うん、夢から中々剥がせなかった」
「確かに、凄く大事な記憶だった……」
「思い出せたの?」
「途中までは。あんなに暖かい想いはずっと忘れてたわ、私」
「良かったわね」

身体がぎゅっと締め付けられるような、名状し難い高揚感に包まれている。
ただ、その気持ちに浸れば浸るほど、何故忘れてたのか? という不安が私を煽る。
これは完全な記憶じゃない。
不完全な記憶の器。
割れた盆をくっ付けても、中に入っていた物は、何も見えてこない。

「ねぇ、もう一度催眠をお願いしたいのだけど」
「え!? だ、駄目よ危険だって!」
「何がよ?」
「霊夢、話が出来ないほどに夢に執着し過ぎて危ないんだよ。そうだなぁ、明日もう一度落ち着いてからやるならいいけど」
「そっか……うん、それじゃ、お願いするわ」

でも……。
この先を見る覚悟は、私に出来ているのか?

―――――

家に帰り、夜が来ると、久しぶりに一升瓶を開けて飲んだ。
気分を晴らすための行動だったが、悪酒を飲んだように身体ばかりが重くなる。
襖を開けて外を見上げる。分厚い雨雲が垂れ下がっていて月は見えなかった。
また、宴会は中止か。
そろそろ満月も近いはず、お月見と宴会は秋の定番なのにねー。
酒を切り上げて布団に潜り込んで明かりを消す。

寝付くまでには、ずいぶん時間がかかった。
布団の上で何度も寝返りを打った。
そのたびに、幼い私を思い出した。
現在の自分の像と、過去の自分の像が、離れすぎているのは何故だろう。
どうして、私は自堕落な巫女になってしまったのだろう?
努力は決して報われないなんて、いつからそう考えるようになったのか。
疑問はぐるぐると回り続け、やがてバターのようになって、頭にへばり付く。

無理に、母の笑顔だけを思い起こした。
そうでもしないと、眠れそうになかったから。

―――――

今日の晩も、昨日と同じ夢を見た。

母の夢ではないのが意外だった。
今日起こった出来事で、印象深い事は圧倒的に母の事だったのに、どうして、私が泣いている夢なんかをわざわざ見せるのか。
融通の利かない夢だなぁ、と思いながらも特に何も出来ず、ぼーっと見てた。
が、ちょっと様子が違った。
夢がいつものところで終らない。
手を引かれるまま、私達は裏の山に入っていく。

この時分の私がどの程度強いのかは知らないが、子供が夜に山に入るなんて、妖怪に「食べて」と言ってるようなものだ。
それとも手を引く女の子が案外強いとか?
……。
こいつら二人とも空飛べてないじゃないの。
さほど強いとも思えないなぁ。
何となく比べてみると、気の強そうな女の子も幼い私も、催眠で見た夢の中の記憶よりずいぶん成長してる。
八歳くらいかな?
うわ、それって私、尋常じゃないくらい記憶がないって事だ。
十年どころか六、七年前も、覚えてないんじゃないの。

草を踏み倒し、枝を引き絞り、両手を草の汁と木の脂でべとべとにしながら、二人は迷いなく真っ直ぐ進む。
道を外れて、かなり獣道に突撃してるところを見ると、目的地の方角は解るが、辿り着く道は解らないといった変な状況らしい。
強引に道を作っていくやり方は、余り自然に優しい行軍でもない。
妖怪は襲ってこなかった。
代わりに尖った枝が、鋭い草が、肌が露出してる首や手の甲に蚯蚓腫れを作っていく。
森が雨を防いでくれたが、時たまうなじに大きな水滴が落ちて来て、肝が冷える。

二人は、段々と高い場所に上っているようだ。
幼い私が何度も『もうやめよう、帰ろう』と口にするのだが、黒いスカートの女の子は絶対に退かなかった。
帰ろうと言う私に対抗して、その子は一度だけきつく言葉を吐いた。

『お前の為の楽園だ。出来るなら最高の場所で見てやりな』

―――――

――ちゅんちゅん……ちちちっ

「……中途半端なところで目が覚めやがったわ」

鳥の鳴き声で目が覚めた。
解らない事が増える一方で、目覚めから頭が周章狼狽する。
大して飲んでもないのに、二日酔いで頭が痛い。
楽園って何かしらね、ガキの発想にはついていけないわ。
どうせ、しょうもない事なのでしょうけど。
あれ、しかしあのガキ、どっかで……。

朝一番に私は神社を飛び出して、朝食も取らず永遠亭に向う。
先に記憶の件を片付けてしまわないと、どうにかなりそうだった。
とにかく、はっきりさせてしまおう。
泣くなら泣く、笑うなら笑うで、終わりにしよう。
結末を知らないと何も手につかない。

―――――

「おはよー」

今日はうどんげが話を通してあるのか、兎達の迎撃は無かった。
薄暗い竹林の中へ、葉を擦りながら私は飛び込んでいく。
早朝の永遠亭は静まり返っていた。
誰も出迎えに来ない。

「うどんげー! いないのー!?」

ようやく、屋敷の中から声が一つ返ってきた。

「霊夢!? え、もう来たの!?」

中で何かをひっくり返したような音がした。
怒鳴り声と、うどんげの悲壮な叫びが聞こえる。
……また静かになる。

「うぅ、何もこんなに早く来る事ないじゃないー、師匠に怒られちゃったわよー」

頭をさすりながら、うどんげが永遠亭から出てきた。
着替えも済んだらしく、いつものブレザー姿だ。

「で、何であんたが早起きすると、永琳が怒るのよ?」
「えー? 一緒の部屋で寝てるんだけど」
「ま、毎日?」
「ううん、仕事が忙しい時とか偶に」

お前、師匠にべったりだな……。
あんなのと寝床を共にして大丈夫なのか……。

「安心して。私は貴方達の『師弟遊戯―ラブゲーム―』に触れるつもりは一切無いから」
「はあ?」
「それよりさ、昨日の約束」
「ああ、うん。前と同じ場所でいいかな?」
「ええ、何処でも」

場所を移動して、昨日と同じ体勢をとる。
今日はうどんげは自分のポケットから五円玉を取り出して、私の前に構えた。

「しかし、これはもうセラピーでも何でもないよね。霊夢が勝手に記憶を追い掛けちゃうし」
「何かまずいの?」
「ううん、師匠に訊いたら、身体的には問題ないって」
「精神的には?」
「やばくはないと思うけど、思い出したくないときは、すぐに帰ってきてね」
「解った。じゃあ、昨日の続きから頼むわ」
「あ、始まりは私がどうこう出来ないから。貴方が思い浮かべたところが始まり」
「了解」

頭の中で昨日の続きを思い浮かべる。
五円玉の向こうでうどんげの赤眼が光ったと思ったら、すぐに私は眠りの淵に誘われた。
簡単だな……このまま面倒な事全てが……簡単に……終われ……ば……

―――――

場面は、例のお爺さんが神社から出てくるところから始まった。

女の子が老人を見上げて質問を浴びせるが、老人は年老いた顔に一層の皺を刻んで難しそうな顔をしたまま何も答えなかった。
そのまま二人は帰っていった。
一応お辞儀して見送っといた。
結局、何だったの?

そのうち母が出てきて、修業が再開された。
何があったのか、もちろん私は母に尋ねたのだが、曖昧な微笑しか返ってこなかった。

また一ヶ月ほどして、老人と女の子がやってきた。
過程も結果は全く同じで、母に訊いても何も答えてくれず。
私もいい加減諦めて、修業に打ち込む事にした。
修業が終っても、まだ話が続いているらしく、私が暇そうに境内を竹箒で掃いていると、女の子がまた話しかけて来た。
私は人見知りしたが、女の子はお構い無しに、私を遊びに引き擦り込んだ。
子供同士打ち解けるまでに、少しの時間も必要なかった。
それが四回、四ヶ月続いた。
そこからぱたりと来訪は止んだ。
遊び相手が来なくなるのは寂しい。
最後の日、お爺さんが神社から出てくると、両手に紐で綴った豆腐くらいの厚さの紙の束を抱えていたのが、強く印象に残っている。
相変わらず難しい顔をしていた。

その年も暑い夏が来た。
まだ7月の初めだというのに、降り注ぐ陽射しは真夏のものだった。
厳しい太陽の下での修業を終えて、昼ごはんを求めて家に戻ると、母が氷の入った素麺を出してくれた。
驚いた。
うちには氷室なんて無い。
人里まで降りて氷を買ってくるならともかく、神社に突然ぽんっと氷が出てくるはずがない。
私の疑問に、母は笑って答えてくれた。
母は、冬を結界の中に封じ込めて、夏に自在に取り出す事が出来るらしい。
それは大規模なものではないが、小さな物なら問題なく冷凍出来るというのだ。
俄かに信じがたい話だが、素麺の後、デザートに冷凍蜜柑が出てきた事を考えると本当なのだろう。
子供の私には、ただ『母さん凄い!』としか感想が出てこなかったが、今考えると、これはとんでもない技術だ。
やり方を学んでおけばよかった……。
これさえあれば、我家の食卓事情も大幅に改善されたでしょうに。

やがて、秋の頃。
山に出て初めての実践訓練が始まった。
母が適当に交戦的な妖怪を引っ張ってきて、母は妖怪と戦闘を行わず私に流す。
初めは膝が震えたが、すぐに余り強くない悪霊の類だとわかった。
お札で次々と成仏させていく。
自分の強さに感動した。
修業という努力が報われてることが嬉しかった。
ひょっとすると、もう母と本気で戦ってもそこそこやれるのでは? と自惚れた。
それは、実際自惚れだった。

繰り返し繰り返し、ニヶ月も同じ事をするうちに、私は少しずつ慢心した。
私はもっとやれるはず。
こんな作業は、私にもったいないわ。
母が妖怪の誘導に出てるうちに、私は勝手に山の奥へ入った。
いける。
一人でも妖怪相手に十分戦えた。
母はあんまり手伝ってくれなったし、元々一人のようなものだったのだ、とますます自信が増長した。
遠くで母が私を呼ぶ声がしたが、もう少し自分を試してみたかった。
四方から襲い来る妖怪を、次々と消滅させていく。
しばらくして、ふと、敵の攻撃が止んだ。
満足したので、戻って母に怒られるかと振り返る。

背中に強烈な衝撃を感じた。

軽い私はあっさり飛ばされて、木の幹に叩き付けられた。
胃液が逆流して涎のような唾を垂らす。
どうやら反射的に結界を展開して骨が折れなかったのは幸いだが、つい身体を走る痛みに目を閉じてしまい、目を開いた時には見た事が無いほど大きな妖怪の腕が迫っていた。
何とか身を捻って紙一重で避けたが、奴の爪が掠って千切れたリボンが宙に舞う。
妖怪がもう一度腕を振り上げる、体勢は最悪で次は避けられそうもない。
その時、母が飛んできた。
風を舞い上げ枯葉を散らし、空気を切り裂いて降ってきた姿は、まるで雷鳴だった。
私と妖怪の間に立ち塞がった母は、肩で息をしていた。
母はまず私の無事を確認し、それから迫り来る妖怪を見据えた。
そこからは一瞬だった。
蜘蛛の巣と見間違う程の多重結界が、容赦なく妖怪を引き千切った。
結界が砕け、何枚ものガラスが一度に割れるような音が山に響く。
私が泣こうが、血を流そうが、よほどの事が無い限り助けてくれない母が、一度だけ見せた本気だった。
母の手の中で焼け焦げた符の臭いが、何時の間にか母が見知らぬ鬼に摩り替えられた思いがして、怖かった。

その後、母に同じく鬼のように怒られたが、怒られてる最中は寧ろほっとした。
ああ、良かった、ちゃんと私の母さんだったんだって。
リボンは少しだけ先が破けたぐらいだったので、その日のうちに元のリボンに修復された。
良く見れば、今でも継接ぎを確認できると思う。
催眠から覚めたら見ておこうか。
しばらく、山から妖怪の気配が一切消えて、ちょっと修業に困ったりした。


冬が来て母が風邪をひいた。

私は物凄い狼狽した。
母が私の世界の中心だったのだ。
母は常に強く、何時までも私を諌めてくれる存在だと思ってた。
それまで、倒れるなんて思っても見なかったのだ。
心細いったらありゃしない。
修業も手につかず、何度も母をこっそり覗きに行っては、障子越しに怒鳴られる始末。
それでも、昼に卵粥を作って出した時には、物凄く喜んで私を誉めてくれた。
母は次の日には元気になり、貴方の卵粥のおかげよ、ともう一度私を誉めてくれた。

―――――

私が此処に来て、三年目の春が来た。
母との別れは皮肉にも、私の誕生日にやってきた。

別れの理由は、途轍もなく理不尽で納得し難いものだった。
私を一人前にさせるために、母は神社を出るという。
もう帰ってこないという。
それが博麗の掟なのだという。
そんなものは聞いた事がない。
初耳以前に、理屈的にもどうもおかしい気がする。
だけど、母の目は冗談を言ってる風にも見えなかった。

当たり前だが、私は母を止めようして抱きついた。
その時、母が少しふらついた。
あれ、こんなに軽かったかな?
母は一歩後ろに下がって、私を抱きしめてくれた。
目の前の母の胸に直接語りかけるように、私はあらゆる言葉で気持ちを伝えた。
何処にも行かないで欲しい。
一緒にいて欲しい。
私を置いていかないで。
母は頷くだけだった、偶に細い声でごめんなさいと呟いた。
私の肩を持ちやんわりと離そうとするので、私はもっときつくしがみ付いた。

何で私を置いていくのだろう。
どうして気持ちをわかってくれないのだろう。
親子じゃないの。
離れる必要なんて何処にもない。
神社なんかどうでもいい、一人前の巫女なんてなりたくない。
ただ、母の傍にいられれば何処だって良かった。
母は観念したように大きく息を吐くと、膝を折り、私と目線を合わせてこう言った。

『解りました、貴方が一人でも挫けずに頑張り続けるなら、母さんは貴方の誕生日に贈り物を持って戻って来る事にします』
『本当?』
『母さんが嘘をついたことがありますか?』
『ど、どうだっけ?』
『あらあら、ひどいわね』

母さんの笑顔には、無理に作ったという陰りが見えた。
小指と小指が絡みあう。
散りゆく桜の下で二人は指を切った、必ずまた帰ってくると。

『一年目の誕生日には境内を見渡しなさい。母さんが霊夢に満開の桜を贈りましょう。
 二年目の誕生日には両手を広げてごらん。母さんが霊夢に暖かな春風を贈りましょう。
 三年目の誕生日には夜空を見上げてみて。母さんが霊夢に素敵な楽園を贈りましょう』 

私の頭を抱えて、母さんは私の耳元で囁いた。
母さんは泣いていた。
全身を震わせて泣いていた。
悲しみで彼女は痩せてしまったのだろうか。
そんなに悲しいなら、どうして私のそばから離れるんだろうと私も泣いた。

『霊夢は今日から博麗を継ぐのです。この楽園の巫女です。幻想郷を守る素敵な巫女。なのに泣いていてはちっとも素敵じゃありませんよ』

幻想郷の何が楽園なのか、ちっとも解らない。
この母の胸だけが私の楽園なのに。

『母さんだって泣いてるよ……』
『私はもういいの、霊夢に楽園の素敵な巫女の座を譲ったのだから』

だけど、この涙が本物なら。
母さんは必ず私に会いに来てくれる。
博麗の掟なんて、母さんが吹き飛ばしてくれる。
そう、信じて。
母と別れた。

母が神社を出た瞬間、太陽が隠れ、辺りが暗くなる。
太陽を隠した雲の、銀の縁取りが輝いていた。
巫女の袴が空に舞う。
鳥居の傍まで走り、階段を駆け下りながら見送った。
もし、私が飛べたなら、何も持たず母の元へ飛んでいくだろう。
石段を全て降りた頃には、母は影絵のように暗く小さくなっていた。
母を呼びながら走った。
草むらを走り、川に出て、川を沿って走り、その頃には母の姿を見失っていたが、まだ走った。
森に入る時、木の根に躓いて盛大に転んだ。
両手で土を握り締めて、涙をこらえる。
涙の後に泥が付着して、口の中では砂利の味がした。

……一年。
一年だけ頑張ろう。
一年頑張って母に帰ってきてもらうんだ。
素敵な巫女になって、それからはずっと一緒にいてもらうんだ。

土を握り締めたまま立ち上がり、博麗神社の方角へ振り返る。
一年経って帰ってきたら、二度と母を離さないと誓って。

 

 

 

 

■作者からのメッセージ

p読んでいただき、有難うございました。
長々と申し訳ないですが、(2)へ続きます。



SS  
Index

2005年11月21日 はむすた

PC用眼鏡【管理人も使ってますがマジで疲れません】 解約手数料0円【あしたでんき】 Yahoo 楽天 NTT-X Store

無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 ふるさと納税 海外旅行保険が無料! 海外ホテル