ゆびわものがたり
今日も至って幻想郷は平和であり、それはまた住人の大方が暇を持て余しているということでもある。
すべからく博麗神社も全体的に暇なもんで、うら若き乙女たちが朝っぱらからやることといったら、縁側でだらけてお茶を啜るくらいのものだった。
博麗神社おそらく十三代目巫女博麗霊夢は、縁側に降り注ぐ暖かな陽光へ向かってひとつ緑茶を傾けてから言う。
「あー……」
すぐ右隣で同じようにして日向を陣取っている霧雨魔法店店主霧雨魔理沙も同じようにして茶をしばく。
「あー……」
二人の間に生ずる会話といったら以上の二言程度にしかありえなく、結局の所、今日今現在活動しているこの時が、これ以上ないほどに極まって暇で無駄でどうしようもなくどうでもいい時間帯であるという価値観が結論として出てくるのみである。
そんなとぼけた顔で雲ひとつない晴天の空を見上げ、魔理沙はぼけーっと呟いた。
「霊夢ー……結婚しないかー……」
対する霊夢はもはや仰向けになって縁側を転がりまわる体勢に入っており、その他のことなど大概がどうでもよかった。
「えー……なんでー……めんどくさいわねえ……」
それならばと魔理沙もうつ伏せで縁側に寝転がり、この陽気に黒は失敗だったかななどと糧になることのない反省をするのである。
「いやー……暇だしなー……」
「あー……暇だしねえ……」
ひとしきり転がりまわり頭をぶつけた後にやってくるのはやはり耐え難いほどの余暇であり、じんじんと痛む額をさすりながら魔理沙は半身を起こすのであった。
「そう、暇だからさー……。結婚して夫婦するんだ。昔、ウチの両親が結婚記念日に喧嘩してたことがあってさー……。原因は知らんけど暇しなかったなー……」」
持ち前の薄い当たり判定で額を守り通した霊夢も、そろそろ転がるのに飽きてきた様子である。
「あー……。とりあえず暇よりは面白そうねー。じゃあ結婚しましょうかー……」
「おーう……そうこなくっちゃー……」
以上、意気投合した二人は結婚することにした。
「でも結婚ってどうやるんだ……。つーか何すんだ……」
「任せておきなさい、私が結婚生活ってものを見せてあげるわ」
☆ ☆
博麗霊夢を見知った経験のある大方の人妖は、彼女が如何に物事へ対して無頓着及び無精者であるかを得々と語ることができるだろう。
まあ、その意見は大勢にして正しいのであるが、もちろん霊夢だって全く完全に物事に対して興味が存在しないわけではない。
霧が出たら晴らすだろうし、春先に寒かったら暖めようとするだろう。もちろん夜が終わらなかったら文句を言いに行くだろうし、そう考えると霊夢はなかなかに働き者である。
結局の所、めんどうくさがりではあるが、一度声に出したことは裏技を使ってでも遣り通す気概は有しているわけである。
だから霊夢はたとえ遊びだって弾幕勝負で手を抜く気はないし、子供の頃から鬼ごっこや缶蹴りに負けた記憶もない。
繰り返す。遊びだからといって手を抜く気はないのだ。
もちろん、それが暇つぶしだったとしても、である。
ただ、結婚経験はない。
「とりあえず、わりと本気出してお昼ご飯を二人分作ってみたわ」
博麗神社母屋の和室。
魔理沙が座った眼前のちゃぶ台に巫女服に割烹着を着た霊夢がよそよそと昼飯の皿を並べた。焼き魚を主にした和食であり、なかなかに上出来だと思われる。
「やるなあ霊夢。なんか結婚してるぽいぜ」
「でしょ」
結婚生活といえば要は二人で寝食を共にするということであり、適当に同じちゃぶ台で飯を食ってりゃあそれなりに結婚生活に見えるのではなかろうか。
そんな考えに従って霊夢は昼飯を作ってみたらしい。
「さあ食べなさい魔理沙。そして結婚生活をとくと味わうのよ」
「よし、いくぜ家庭料理」
二人はちゃぶ台を通して対面に座り、いつもやるようにしてごく普通に手を合わせる。
「いただきます」
「いただきます」
食べた。
「ごちそうさま」
「ごちそうさま」
美味かった。
「……」
「……」
以上が博麗魔理沙結婚生活第一回目の食事である。
「どう、魔理沙。未来の結婚生活が見えた?」
えーっと。
「まだまだだなー……霊夢」
「あれ……、な、なにか悪かったかしら」
「いやー、飯を一緒に食うって発想はそれなりに結婚生活的なんだが、もっと……こう、なあ?」
魔理沙の言わんとすることも分からないではないが、やはりそれは抽象的過ぎて上手く言葉に出来ない類のものであったし、そもそもよく考えてみれば博麗神社の飯なんて食い飽きている魔理沙だから、今更多少の捻りが加わろうとも感慨というものがないのであろう。
いや、まあ、魔理沙としてはこれでよかったのかもしれない。というのも、これは暇つぶしであり、魔理沙的には暇つぶしったらやはり暇つぶしでしかなく、本気でひっちゃきになるほどの対象ではないのだから。魔理沙が真剣になりゃあ、はい霊夢、あーん、程度には食事をこなしていたはずである。
「えー。じゃあどうすればいいのよ」
魔理沙は手のひらをひららひさせて笑いながら返した。
「いやあ、まあ、私たちに子供でもいればそれらしくみえるかもなあ。あっははは」
結局、顛末の原因は全てがその認識の違いにあり、またそれは新たな生贄を呼ぶに違いない。
ぽんと肩を叩かれた魔理沙は笑ったままの顔で霊夢を見上げた。
「じゃあ子供つくるわね?」
目はマジだった。
☆ ☆
伊吹萃香の半生を語ろう。
彼女の両親は鬼であったから、当然の如く萃香自身も鬼として生まれ鬼として育った。
生まれは幻想郷であったと聞いているが、それはまた他の長寿仲間達からの情報であり、物心ついた萃香が覚えている光景は幻想郷の外からである。
だからやはり萃香が幻想郷に関心を持つのは必然で、それはある種の先祖がえりというか帰郷本能というか、そういった類のものだったのかもしれない。
興味が不安感を凌駕するのもまた早かった。いや、早かったからこそ、そんな無謀じみた決断が出来たのだろうし、当時の萃香に孤独の本質が理解できていたかは微妙である。だからこそだったのかもしれない。
幻想郷へ旅立つといった朝、真ありがたいことに両親は引き止めてくれた。
今も萃香の左肩には、引きとめようとした両親の手のひらの握力が残っている気がする。
まあ、両親が萃香を心配する理由があんまりにも馬鹿げていたから、志を曲げずに旅立てたわけではあるが。
えぇと、あのとき両親はなんと言ったのだったか。
そして萃香は今日も一人で酒を飲む。
このいくらでも酒が沸いて出てくる嘘臭いひょうたんも、両親に貰ったのだ。
萃香は晴天のお天道様を見上げながら、ぐいっとひょうたんを飲
「あら萃香。丁度いいところでみっけたわ」
もうとしたところで、後ろからがっしりと頭を鷲掴みにされた。
鬼も裸足で逃げ出すほどドスの聞いたこの声は、博麗霊夢に違いない。
背中にたらりと一筋の汗が流れる。
ああ、思い出した。萃香が旅立とうとしたあの時、確か両親こう言っていたのだ。
そう、
「あんたは歳のわりに子供に見える」
☆ ☆
拝啓
鬼ヶ島の父上様、母上様、菊薫るこの季節、如何お過ごしでしょうか。
私、伊吹萃香は新しいおとうさんとおかあさんができました。
季節柄、桃太郎にはお気をつけ下さい。
敬具
☆ ☆
博麗神社。境内は大混乱だった。
「おい霊夢! なんで萃香!」
「なによ魔理沙。私たちの愛の結晶じゃない」
「聞いてない!」
萃香は新しいお父さんとお母さんが罵り合っているのを体育座りで眺めながら、どっちがお父さんでどっちがお母さんなのかなーと考えていた。
「だけどな霊夢、こいつ全然私たちに似てないぜ? 二人の子供っぽくない」
「あー……角生えてるしねえ」
なんとなく思うのは男言葉っぽい口調の魔理沙がお父さんで、家事全般こなせるっぽい霊夢がお母さんというものであるが、しかしそれはバイアスでしかなく、現代的に考えるならばむしろ逆なのかもしれない。
「そうだ、霊夢、お前のリボンを萃香につけてやったらどうだ。そしたら子供っぽく見えるかもしれないぞ。お前の」
「なるほど、やってみるわ」
前の両親はどっちがおとうさんかわかりやすくてよかったなー。へへ。
ああ、いや、そうか、自分を産んだ方がおかあさんだな。まちがいない。
「ねーねー。私を産んだのはどっちのおかあさん? それともおとうさん?」
「おー、角にリボンをつけたら、これは予想以上に」
「慧音にそっくりね」
ああ駄目だこの人たち全然自分の話し聞く気ねえやまあ分かってたけどさ。
萃香は遠い目をして遠い遠い祖国の前両親を想う。
「どう、魔理沙。こうして三人で並んでいたら、家族っぽいんじゃないかしら」
「うーん、萃香の子供っぽさにかかっているなあ。それは」
あの頃は楽しかった。
力強く頼りがいのある父、優しく聡明な母。気の許せる家族に囲まれた毎日が穏やかに流れていた。
「子供っぽさって、我侭とか言う、ってこと?」
「いやまあそれだけってわけじゃないだろうが、一つの子供っぽさではあるな」
もちろん、全く喧嘩をしなかったわけではない。
あの頃の自分は我侭で、ことあるごとに無理を言っては両親を困らせていたものだ。
「それなら大丈夫よ。私は大抵の我侭を叶えてみせる自信があるわ」
「あーまあ霊夢だもんなあ……」
なかでも一番両親を困らせたのは、あれだ、他の家族を見て、兄弟がほしくなったときのことである。
「よーし萃香。なんでも私に、お母さんにいってみなさい。叶えてあげるから」
あの時自分はこういったのだ。
「おねえちゃんがほしいなあ……」
「了解」
え?
☆ ☆
上白沢慧音の半生を語ろう。
彼女は自分がワーハクタクの子なのか、それとも人間とハクタクの間に生まれたダブルの子なのか知らない。
何故なら彼女が物心ついたとき既に親はなく、周りの人間で知っている者もまたいなかったからである。
まあ、育ちの早い生き物が親離れも早いのは自然界の必然で、生まれつき歴史という名の膨大な知識量を有しているハクタクはその最たるものだったのであろう。
つまり、慧音は自分の親が生きているか死んでいるのかも既知でないのだ。
もちろん、今まで生きてきた中で、ある程度の捜索はしてきたのであるが、両親が自分と同じ能力を持っているとした場合、歴史に頼っている慧音の捜索方法は全くの無力である。
結局の所、慧音は両親を見たことがない。
いや、そもそも慧音の元々が人間で、何らかの要因で人狼のようにそこからハクタクへ変化したのかもしれない。
考えにキリがないことを知った慧音が深く絶望した時期もあった。
そんなときである、懇意にしていた村人の、一人の人間の少女からこう呼ばれたのだ。
『慧音さまはお母さんみたいです』
この一言で慧音は自分の歩む半生を決断したといっていい。
ワーハクタク。人間とハクタクの中間。人とアヤカシの中間。ミドルレンジを極めた悩ましい種族ではあるが、それは逆に個性になり得るのだと。
これが、自らの進む道であるのだと。
家族であることに、血統など関係ないのだと。
そう信じたのだ。
だから今日も慧音は村を飛び回る。
額を流れ落ちる汗でさえ気持ちいいと感じてしまう位の気概をもって。
今では、姿を現さない両親に感謝したいほどである。
何故なら、もし慧音の両親が健在で、自分と一緒に位していたのならば、慧音はその暖かさに埋没して、とても人間と妖怪の間に入ろうなどと想っても見なかったろう。
孤独であったからこそ、一人であったからこそ、自分と違う、だけれど近い種族である人間と妖怪、この二種族の間へ至ることになったのである。
もちろん、本当の両親に会いたくないわけではないのだ。
ただ、それ以上に、家族と同等に、自分と親しい人間達が大切だということである。
慧音は村人達が自分を母親として慕ってきたら、なんの躊躇もなく家族の真似事をして見せる。
その役職が姉でも祖母でも、である。
だから慧音は、今、自分の本当の両親が名乗り出てきても、その真偽を見分けることは出来ないだろう。
信じるしかないのだ、その人を。
信じること、それがこの半生で慧音が学んだ大きな大きな二文字だ。
そしてきっと、慧音は盲目になって信じるはずだ。両親を。
ああ、今日も空が青い。
早く村へいかなくては。
「あら、慧音。ようやく見つけたわ」
そんな時、背後から巫女の声が聞こえた。
振り向く暇もなく首根っこを掴まれた。
「私は貴女のお母さん。OK?」
慧音には信じることしか出来ない。
☆ ☆
上白沢慧音を姉として連れてくる、と霊夢が飛び立っていったとき、萃香はしめたと思った。
何故なら上白沢慧音は幻想郷きっての知識人であり、またそれと同時に、同地の数少ない常識人でもあるからだ。
今現在の博麗霊夢、霧雨魔理沙両名を中心とした博麗神社境内には広範囲に渡って意味不明空間が広がっており、萃香では到底捌ききれない。
しかし上白沢なら、あの上白沢慧音ならやってくれる、きっと心臓に鋭く深く食い込むデュアルホーンのように冷静な意見をあの主人公二人に向かって言い放ってくれる。
と、期待した萃香が阿呆だった。
境内。
萃香は、霊夢にすがりつくようにしている慧音の方へ視線をやった。
「母さん! 本当に母さんなんですか!」
「ええそうよ。私と魔理沙が貴女の両親」
「捜したんですよ! いったい今までどこに……!」
「神社で緑茶を飲んでいたわ」
上白沢慧音、完全に博麗の意味不明結界に飲み込まれている。
いや、それともただ二人の悪ふざけにノっているだけなのだろうか。
どちらにしろ、萃香の願いは欠片も残らないくらい派手に砕かれたわけではある。
「お二人にあったら聞きたいと思っていたのです! 私、上白沢慧音の両親はワーハクタクなのですか、それとも人間とハクタクなのですか!」
「巫女と魔女よ」
「馬鹿な! 馬鹿な……っ! 巫女と魔女からはワーハクタクが生まれるというのか! そんなパターンが存在したのか! 道理で今まで見つからなかったわけだ、くそっ!」
心の底から本気で悔しがっている様子の慧音を、しかし霊夢は優しく両腕で包み込んだ。
「大丈夫、慧音。いままで一人にしてしまってごめんなさい。でも、これからはずっと家族みんなで一緒よ。……ほら、貴女がいない間に妹も出来たの」
いや、萃香の方が家族になるの早かったけど。
慧音は妹と聞いて、萃香に向かいバッっと振り向く。
「妹! ……た、確かにそのツノ、そしてそこにリボンをつけるセンス。ああ萃香、お前は私と血を分けた鬼ハクタクだったのか! 今まで散々ツノリボンのことでいじめられたんだろう。お姉ちゃんはよく分かっているぞ。いつでも相談にこい」
分かられた。
そんな喜び一杯の慧音を、霊夢はまさしく母親のように安らいだ笑顔で見つめる。
「慧音、これからは家族四人で暮らしましょう。私たちもそれを望んでいるわ。暇だし」
その裏表無い言葉を聴かされた慧音は二つ返事を返しそうになるがしかし、喉元まででかかった台詞をぐっと飲み込んだ。
「……すみません、お父さん、お母さん。そう言って頂けるのは本当に、本当に嬉しいのです。しかし、私はもう、両親の経済力に扶養され脛をかじって良い年頃をとうに過ぎています」
「馬鹿……そんなこと気にするんじゃないの。いいのよ? 私が暇である限り」
くっ、っと悔しげに首を振る慧音。
「遅すぎたのです、何もかもが。既に私には、かけがえのない存在、離れることの出来ないほど暖かな人間関係を他所で得てしまいました。……彼らを、裏切ることは出来ません」
「あーもーめんどくさいわねえ。そういうのいいからとっとと私たちの子供になりなさいよとっとと」
霊夢が本性表した。
「ですが……っ」
「うるさい。子供は黙って親の言うことに従いなさい」
うわあ。
「ねえー魔理沙―。どうかしら。両親に娘が二人よ? もうこれで、外を歩いたら家族と思われるんじゃない?」
「あー……?」
もうコレに飽きたらしく、そのへんで寝転がっていた魔理沙は気だるげに返事をした。
「そうだなあ」
自分、霊夢、萃香、慧音の順番で、ぐるりと視線を回した魔理沙は、少し考えてから言葉を紡ぐ。
「なあ萃香。もしおまえが、このメンバーが一緒に外を飛んでいるのを見たら、なんなんだと思う?」
……。
……侵略?
「えぇ! 嘘よ! 仲のよい和気藹々とした家族に見えるわよ! たぶん!」
いや、それはないかな。
「だろう? やっぱり私と霊夢が結婚している、と他のやつらに認識させるには何かが足りないんだよ。それがなんだかは知らんが」
「無責任だわ!」
「それに結婚して娘が二人いたら、生活費も四倍かかるぜ?」
「なにそれ訴えてやる! あ、いや、ご飯あげなければ良いんじゃない?」
なんかもう、一体何に向かって何の話をしているのか全く持ってこれっぽっちの意味も不明になってきた。
そんな、結婚してるようにみえるうんぬんかんぬんと話している二人の間に手を上げて割り込んだのは、霊夢に黙れといわれてから律儀に黙って見ていた慧音であった。
「なあ、さっきから結婚しているとかしていないとか言っているが」
口調は戻したらしい。
「二人が結婚しているなら、結婚指輪でも贈っているだろう。それをつけていれば、別に異性だろうが同性だろうが歳が離れていようが、誰が見たって結婚しているようにみえるじゃないか」
そうかあ? と思った萃香をよそに、霊夢と魔理沙は二人して顔を見合わせた。
「それだ」
「それね」
☆ ☆
森近霖之助の半生はもはや語るまい。
彼の歩んできた道は概ねにおいて平凡であったと彼自身思っているし、また、嬉々として人に聞かせるほどの悟りを開いてきたわけでもない。
霧雨の家で下積みをしていたのだって世間で言えば古典的な丁稚であって、今でさえ独り立ちし怪しげな骨董品を扱う店を開いてはいるが、分類的には自営業の三文字で括られ完結するに違いない。
だから霖之助は商売文句以外で自分の人生観を語ることはそれほど多くないし、そうすることで自分の客観を保っているのかもしれない。
そんなものよりも、霊夢がこれまで貯めに貯めたツケを数えている方がよっぽど楽しいのだ。
ただ、霖之助の人生に一片の笑い話もなかったかというとそれもまた違う。
むしろ商売柄、扱っているものがものであるから、その手の小話には事欠かない。
つまり、幾多の小さなドラマが周辺に存在したとしても、それが自身の人生観に影響を与えるかどうかはまたまったく別の問題ということである。
例をとってみよう。
霖之助は棚を探り、一つの小箱を取り出した。
この中には一組の結婚指輪が入っている。
昔、自分に向かって贈られた指輪だ。
全く、柄にもない。
聞いてくれるか、霖之助の昔話を。
そう、あれは、雪がちらつく寒い寒い夜の――
「霖之助さーん! 指輪ある? あ、あるわね! もらってくわ、つけといて!」
ああ、そう、思い出す暇もなく、物語とは失われていくものなのだ。
霖之助はゆっくりと店内の椅子に座りなおし、霊夢のツケを数えるのに没頭した。
☆ ☆
ベルがないので効果音は萃香がやった。
「リーンゴーン」
神父がいないので慧音が十字をきった。
「霧雨魔理沙、汝、健やかなる日も、穏やかなる日も、博麗霊夢と共に歩んでいくことを誓うか」
教会がないので場所は博麗神社だった。
「え? やだよ」
「私もいやかな」
「では、指輪の交換を」
「リーンゴーン」
こうしてめでたく霊夢と魔理沙はどこからみても正に正しい文句なしの結婚を行った。
「はいじゃあ、私たちは一目で結婚してるって分かるから、生活費かかるだけのいらない子供たちは帰った帰った。ああ、勘当ってことでお願いね」
「ひでえやつ……」
ベルの音は爽やかに澄んだ青い空に吸い込まれるようにして響いていた。
「リーンゴーン」
☆ ☆
森近霖之助はもう半生を語ろうなどとは思わない。
今だって意地になって霊夢のツケを計算している。魔理沙の分だって続けて計算してしまおうという魂胆だ。
だってなんか色々由来のある道具とか逸話のある骨董品とか持ってても、結局それは客の手に渡るのであって霖之助にはこれっぽっちも関係のないお話ではないか。そんなところから人生の何たるかを読み取ろうなんて横着にもほどがある。道具から読み取るのは使用目的だけで十分で、だから霖之助は今日もツケを数えるのだ。
あの指輪だって色々お話があったわけだが、人の手に渡った今更となってはそんなことどうでもいいわけである。
まあ、あれはよい指輪だった。なんに使うかは知らないが、きっと彼女達だって大切に使ってくれるに違いない。違いない。
と、香霖堂の扉が開き、明かりが入ってきた。
「霖之助さーん。いるー?」
霊夢だ。
いいタイミングである。丁度彼女のツケを数え終えたのだ。耳をそろえて払ってもらおうじゃないか。
「やあ、霊夢。さっそくだがツ」
「霖之助さん、これいらなくなったから買い取って」
ごとっ、と霊夢が差し出してきたのは、いつか見た指輪箱。
「結婚指輪なんて結婚以外に使えなくて不便よねえ。見積もりお願い。またくるわー」
彼女は一気にまくし立てて、嵐のように去っていった。
「……」
だから今日も霖之助は胃が痛い。
「……はぁ」
舞い戻ってきた小箱をつついて思うのだ。
そう、あれは、雪がちらつく寒い寒い夜のことだった。
霖之助は寒い店内で、ストーブをつける金もなく凍えていた。
突然ドアが開いて冷たい風が入ってきたのだ。
まだ幼い霊夢だった。
『霖之助さん! これ結婚指輪! 霖之助さんに指輪あげる!』
可愛いものだ、と当時の霖之助は思った。
『買い取りよ? 少しはお賽銭の足しになるわよね。魔女の老舗、霧雨の両親がつけてた結婚指輪だもの。ぶんどってきてやったわ』
すぐに撤回した。
ああ怖い怖い。
だからこの店においてある商品に関する小話などあまりしないといったではないか。
しかし、これでまたこの指輪には新たな逸話が付属したわけでもある。
ああ全く全く。
指輪を買い取ったら、霊夢のツケをはじめから計算しなおさなくては。
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Index
発行:2006年9月24日 |
公開:2009年3月15日 うにかた |