Kick the Earth,Shake the Moon. ―― 冬
冬の訪れを知り、魔法の森には小さな魔女が踊る。
凍りついたかのような硬い大地に、闊達なステップが刻まれる。冷え切った夜気に、快活な息遣いが風を呼ぶ。
森の深奥、月光の細く射し込む開けた場所に、白と黒を帯びた少女が妖精のように踊っていた。ごてごてと達磨みたいに着膨れしてるくせに、軽快そのものの足運びで。
毛糸の手袋越し、少女はパートナーに指を絡めている。だが向かい合うは人にあらず、それはちょっと大ぶりの箒。
少女は箒を逆さに握り、振り回し、その柄先で冷たい大地をがりがりと削っていた。この非道な処遇に、パートナーたる箒は文句のひとつも吐かずに付き合っている。
奔放きわまりない輪舞を照らし出すのは、頭上遥か、中天に浮かぶ望月の皓々たる輝きだった。いつもは緑の濃いこの森だが、時候も冬に至れば幾分かは風通しが良くなる。いささか湿度が控えめとなるのに加えて、月明かりもよく透るのだった。緑の天蓋の隙間を貫いて、冴え冴えとした月光は、少女の足元に思いがけず濃い影をにじませている。
金色の照明の下、少女は冬色の大地を蹴る。右へ左へすいすい滑り、時にくるりと円を描く。
帽子の鍔が落とす影の下、そのヘイゼルの瞳はきらきらと生気に輝き。顎先まで包む臙脂色のマフラーの上、その口の端はきゅっと吊り上がって、傍らに深いえくぼを作っていた。
ひりつくような寒気にちょっぴり引きつり気味の、だがしたたかなまでの笑顔。
月に見守られながらの舞踏は、やがて閉幕に向かう。歩調を徐々に落としていき、そして最後にドレスの裾をふわり優雅に摘み上げながら、少女はステップを締めくくった。
不意に降りた静寂の中、少女の手の中で箒がくるんと半回転。房が地を掃き、柄先が天を指す。
「よし、完璧」
少女は満足げに笑むと、とどめとばかりブーツの踵で地面をかつ、と蹴りつけた。彼女の立つ大地には、箒で引っかき刻まれた太い線が縦横に走っている。
夜空の月も照覧あれ――その線が構成するは、一軒の家を中心に据えた巨大な魔法陣だった。家屋や周囲の樹木をも図形の一部に組み込んだ、なかなか壮大にして緻密な、それは召喚術の陣。
少女は円陣の外に立つと、空を、月を仰ぎ。それら全てを我が胸に掻き抱こうとするかのように、大きく腕を開いた。にやりと、どこか業を感じさせる魔性の笑み。
「さあ、時は来たれり、だ。――我は開拓者、我は我が名の下に道を拓き、地を均し、汝にこれを捧ぐ。……とまあ、細かいことはいいから、とっととこっちへ来いってんだ」
乱暴なことこの上ない、だがれっきとした呪力のある言葉を並べると、小さな魔女は右手の箒を高々と掲げた。
そして朗々たる声で召喚対象の名を呼んだのだ。
「いざ来たれや! 愛しの温泉ちゃん!」
冬を迎えるにあたり、居宅の地下に温泉脈を召喚、床暖房に活用するのは、もはや霧雨魔理沙にとって年中行事であった。
地勢を入れ替えてしまうのだから、大掛かりなことこの上ない術であり、実行に際しては満月の夜を選ばなければならないなどの条件が課せられ、さらに多大な準備とキノコとが必要となった。喚んだら喚んだで、春にはまた元の場所へ送還してやらなければならない。でないと今度は暑くてかなわなくなる。
このように、なにしろ手間の掛かる作業だったが、しかしそんな骨折りも惜しくないと思えるほどに床暖房の魅力とは偉大なものなのだった。
故に、魔理沙は喚ぶ。
月が激しく揺れ動いた。
そう見えたのは、観測者たる魔理沙の立つ大地が揺動したからだろう。召喚術の起動を何よりも如実に物語る震動だった。召喚陣の中、地下の空間がごっそり別のものと入れ替わっているのだ。
揺れは無秩序かつなかなか強烈なもので、森の木々は一様に枝をざわざわと震わせた。安眠を妨害された鳥たちが泡食っていっせいに飛び上がり、ぴぎゃぴぎぃという悲鳴と羽音を夜空に響かせる。
にわかに騒がしくなった森の中心で、事の元凶たる魔理沙はと言えば、どうしたことかこれもびっくり顔でいる。最前までの余裕が失せた顔色で、箒を杖にどうにかこうにか踏ん張っているような有り様だった。
地震の発生はこの召喚術につきもので、だからもちろん、あらかじめ身構えていた彼女なのだが、
「いや、これ、強すぎない……?」
これほどの激しい揺れは、過去にないものだった。魔理沙は狼狽のあまり、危うく腰を抜かしかけてさえいた。
空中へ退避しようにも、強く不規則な揺れはその準備動作さえ許してくれない。半ばへっぴり腰となって箒にしがみつく、とてもご近所様やブン屋などには披露できない格好で、揺れが収まるのをじっと待つしかなかった。
そうやって一時間ほどもこらえていたように思えたのだが、実際にはほんの数分のことだったのだろう。ゆっくり、ゆっくりと震動は弱まっていき、やがて森には元通りの平静が戻った。
よみがえった静寂に、ふぃ、と魔理沙は安堵の息をつく。手は、額ににじんだ汗を無意識に拭っていた。背筋も冷たいものでびっしょりとなっている。
「たまげたぁ……えらく揺れたもんだな」
もう一度、深く深く息を吐いたときだった。
「ちょっと、そこの野良!」
無防備な背中へいきなり鋭い声をぶつけられ、ほとんど飛び上がらんばかりとなる。
反射的に身構えながら振り返ってみれば、そこにあるは馴染みの顔。同じ森に住むご近所さん。
「……よう、都会派虚弱魔法使いじゃないか。どうした」
取り繕うように笑みを浮かべながら、だがその声はちょっとばかりかすれてしまっていた。
「あんなめちゃくちゃしておいて、『どうした』ですって? あと虚弱じゃないから」
魔理沙のものよりやや明るい色調の金髪を月明かりに濡らして、アリスはひどく険のある顔つきでいる。その傍らには一体の人形が滞空し、アリスに同調するかのようにこくこくとうなずいていた。
「また温泉脈を召喚したんでしょ? 今回はまた派手に揺らしてくれて……うちの人形棚が大変なことになるところだったじゃない」
「ああ、喚んだぜ。厳しい環境に労力を惜しまず立ち挑む、それが人間のあるべき姿だからな」
言葉を交わしている内に、魔理沙はようやく一時の動揺から立ち直りつつあった。こうやって責められても、木枯らしに吹かれたほども堪えていない顔を作れるくらいまでには。
アリスは形の良い眉を、いっそう不機嫌そうにひそめた。
「美談化するな。――誰も喚ぶなとは言ってないわよ。ただね、こんな私の家にまで影響を及ぼすような大魔法、使う前にはちゃんとひとこと断れって、前に言いつけたでしょ?」
「だったな。……そんなわけでアリス、召喚したぜ」
「事後に断るな」
「なんだよもう……こんな寒い夜に、もしかしてわざわざ文句言いに来ただけか? 暇な奴だなあ」
魔理沙としては、いつまでもこんな木枯らし吹く夜気の中にとどまっていたくなかったのである。それにしたって、彼女の言はどう好意的に解釈しても、火に油を注ごうとしているようにしか思えないものだった。
効果は覿面で、たちまちアリスの体から目に見えるほどの怒気が立ち上りだす。髪先が静電気でも帯びたかのように逆立ちはじめ、碧い瞳が剣呑な色合いを帯びていった。
「できれば苦情だけで済ませたかったんだけどね……弾幕、お望みみたいだから。やってあげようじゃないの」
怒りに駆られながらも、その指先の動きはあくまで繊細だった。不可視の糸に操られ、傍らの人形がどこから取り出したのやら、ちっちゃな剣と盾を構えた。
殺気立った切っ先を向けられて、魔理沙も咄嗟に箒を構えかける。が、動いた拍子、濡れた肌着が皮膚とこすれたのである。べちゃ、と背中一面に貼りつく感覚。その冷たさ、不快感に、彼女は顔をしかめた。
思う。今夜は、これ以上の汗かきはごめんだ。
手袋で覆った左の掌をひらひらと、やる気なさげに振って見せる。
「あー、そう気色ばむなよ。わざわざ足を運んでいただいたんだ、このまま追い返すのも無体かと、そう思っただけだ」
「既に十分すぎるほど無体な言動してたじゃない。……なによ、お茶でも出してくれるって言うの?」
「まあ、うん、そうだな。とにかく上がっていけよ。お茶ついでにその身で床暖房の魅力を思い知るがいいぜ」
面倒を避けるために思いつきで並べた言葉だったが、口に出してみるとこれが案外悪くない考えに思えた。ここで百の言葉を紡ぐよりも、床暖房を体験させる方がよほど相手の冷えた心を融かすには有効ではなかろうか。なにせ床暖房はそれだけの力を秘めているのである。たぶん。
客観的には不自然なくらい軟化したように見える魔理沙の態度に、アリスは戸惑ったらしかった。顔色こそ変わっていないが、傍らの人形が困惑したように剣先を揺らしている。
ややあって、怒りを引っ込めることに決めたらしい。人形が、武器を収めた。
「合意に達したみたいだな。平和とは尊いものだぜ」
「焚きつけた当人が言うかしら」
「焚くのは風呂だけで十分ってことだ。術の準備とかで汗かいたから、お茶の前に流させてもらうぜ。お前は床にでも転がっててくれ」
「風呂はいいけど……あなたの家に転がれるような床なんてあったっけ」
ふたりは霧雨邸へと目を向ける。役目を終えた魔法陣の中心、魔理沙の小さな我が家は先刻の揺れにも動じた様子なく、静かに佇んでいた。
「でもいいわよねえ。元々散らかってるから、さっきみたいな大揺れがあっても大して変わらないんでしょ?」
「ほっとけ」
しかし、確かにさっきの揺れはひどいものだった。温泉脈召喚に伴うものとしても異常な、例年のものを凌駕する規模の震動だった。
もしかして、術式に何か手違いがあったのかな――ふと、魔理沙はそんな可能性に思い当たった。自分ではいつも通りやったつもりなのだが。
まあ、揺れも疾うに収まり、より以上の変異は発生していない。ならば気にすることもないように思えた。これはきっとあれだ、冷たい汗の不快感が、良くないことを考えさせるのだ。風呂に入れば、余計な考えも一緒に、きれいに洗い流せることだろう。
努めて景気の良い声を出し、歩き出す。
「それじゃ、行くか。お前も床暖房なしじゃ生きられない体になってしまえ」
「はいはい……けどほんと、自堕落に過ごすための手間は惜しまないわよね、あなたって」
返ってきたアリスの声に、既に憤りの響きはない。いつものすまし顔となってついてくる人形遣いと人形の気配を背中で感じながら、魔理沙は傍目に見えないくらい小さく肩をすくめた。
何をいまさらといった類の話であるが、魔理沙の家はたいそう散らかっている。
それはもう、床に寝転がれる場所どころか、足の踏み場を見出すだけでも至難というレベルの混沌ぶりである。まさしく大地震に見舞われた直後であるかのような光景は、しかし恐るべきことに、たったひとりの少女によって生み出されたものなのだ。
初めて訪れた者ならまず間違いなく驚き呆れるものだが、いま玄関に立ったふたりは、幸か不幸かそんなものにはとうの昔に馴れっことなっていた。色々と麻痺してしまっているのである。だから、扉の向こうにどのような混沌がぶちまけられていようとも、どう思うものでもなかった。何をいまさら、なのである。
「……」
だのに。
扉を開けたふたりは、そのまま足を踏み出すことも忘れて凍り付いてしまったのだ。
そこには、思いがけずすっきりとした空間があった。では混沌とはしていないのかと問われれば、そういうわけでもない。むしろ桁の違う怪異が待ち構えていたのだ。
扉の向こうには、冷ややかな岩質で構成された洞穴が、あった。
長い逡巡の末、ドアノブを握っていた魔理沙は、
「……間違えました」
とりあえず扉を閉めることにした。
それからまじまじと扉の表面を見つめ、間違いなく我が家の入り口であることを確認すると、もう一度開いた。
やはり、冷ややかな空気で満ちた洞穴が、暗い口腔を開いていた。
ずっと果てなく伸びているように見える闇、その深淵から冬の夜気よりも重く冷えた空気が流れ出てきて、頬を無遠慮に撫でていく。
「……なんじゃこりゃ」
なんで我が家の通路が、洞窟風にリフォームされているのか。
ふと脇に目をやれば、アリスが不可解そうな表情と共に、ゆっくりと怒気をよみがえらせつつあった。
「ねぇ。これって、新手の嫌がらせ? 怒るべきポイントがいまいちよく分からないんだけど、ご教授願えるかしら?」
「いやもう怒ってるじゃないか! 待て、正直、私にもよく分からんのだ。何が起こったんだ……」
数時間前、家を出たときには、もちろんこんな様にはなっていなかった。その数時間の間に、何があったのか。心当たりなど魔理沙には――
「思い切りあるわな……」
常になく激しい震動を伴った、あの召喚術。
他に関連付けられそうな要因などなかった。「より以上の変異」は、既に、こんなところに発現していたのだ。
「つまるところ」
呆然となる魔理沙の隣、アリスが無慈悲に端的に、状況を言い表した。
「召喚、失敗したみたいね」
「それで。あなた、いったい何を召喚したのよ」
「……温泉脈?」
明らかに違う。
いや、もしかして間違ってはいないのだろうか。目の前にあるのは、実は枯渇してしまった温泉脈の成れの果てなのかもしれない。こんな形の温泉脈が存在するのかどうかは知らないが。それにしたって、地中に召喚したはずがなんだって地上にせり出しているのか。
なんでこんなことに、と魔理沙は混乱の中で嘆く。どうして憩いの我が家がこんな有り様となってしまったのか。家財は、血と汗と涙の結晶たる蒐集品は、どこへ消えたのか。この穴倉の奥へと吸い込まれてしまったのか。そうだ、お風呂。なおも体を冷やし続けている忌々しい汗を流すことさえ不可能となってしまったというのか。……ほとんど自失状態で、そんなことを延々と思うばかりだった。
「お風呂なら入れそうよ?」
不意にそんな声が聞こえて、ぴくりと身をすくませる。のろのろと首を動かすと、いつの間にそばを離れていたのか、アリスが玄関側と同じ壁にある窓のひとつを覗き込んでいた。
「こっちから見ると、中はいつもどおりなのよ。出入りも、ほら、こうやってちゃんとできるし」
窓は勝手に開かれていて、そこからアリスの人形が中へ入っていく。すぐにまた出てきて、魔理沙に向けて小さな手を振った。
それにいざなわれるように駆け出し、魔理沙もその窓に取り付いた。なるほど、そこから見える中の情景は、いつもの霧雨邸のものだった。明かりは消してあるが、細い月光を頼りに確認できる。
矢も盾もたまらず中に飛び込んだ。着地点に転がっていたガラクタに足を取られそうになりながらも玄関口へと目を向ければ、扉は開きっぱなしで、月光でまだらに染まる森の夜景が覗く。恐る恐るそちらへ足を向けると、ちゃんと外へ出ることができた。
そして振り返れば。いま潜り抜けてきたばかりの戸口の向こうには、やはり陰鬱な洞窟の闇。
「どうなってるんだ」
窓からは――おそらくは勝手口など他の進入口からは、ちゃんと家の中へ入れる。ただ玄関口だけが、洞穴への入り口と化していた。それも一方通行の。
わけが分からない。
「結界かしら」
再び隣に並んだアリスが言った。
「博麗のみたいなやつ。この玄関に、その手の境界線が引かれているようね」
踏み越えればそこは別世界ということか。外からでも向こうを視認できる分、博麗大結界とはまた異なる種類のもののようだが。
魔理沙は唸る。境界、結界――それらの語から、この変異に大いに関与していそうな、あるものを連想したためだった。
「あの物ぐさ妖怪……まだ冬眠してなかったのか」
「あの人が黒幕だとして、動機が分からないわね。実害もないし」
「いや、めちゃくちゃあるだろ、害は。こんな気持ちの悪い家でくつろげるかよ」
しかし、確かにこれだけでは嫌がらせの域を出ない。八雲紫の手によるものだとして、そこには何の意図があるのか。まあ意図も何もなく、本当にただの嫌がらせでこういうことをしかねないのが、あの妖怪の真に恐ろしいところではあったが。
魔理沙は冷静さを取り戻そうと努めつつ、改めて洞穴と対峙した。じっと、闇の奥底を見透かそうとする。魅入られたかのように、じっと、じっと。
この現象に意味はあるのか。本当に誰かの意思が働いているのか。あるいは――あまり考えたくはないが、ただ単純に術が失敗しただけという可能性も捨てきれない。
それら全ての疑問に対する答えが、もしかするとこの穴の果てに用意されているのかもしれない。
もちろん、そんなもの無いのかもしれないけれど。
口の端にどこか自嘲的な成分を含んだ笑みを作ると、魔理沙は右の手袋を脱いで、指をぱちりと鳴らした。
触媒か、キノコの焦げるような甘苦い匂いが一瞬漂って、その指先には魔法の明かりが灯っていた。柔らかな黄色の、月を手のひら大に縮めたかのような光球。魔理沙の周囲にたゆたう薄闇を、たちまちに遠く追い払ってしまう。
「ちょ、ちょっと」
その行為が意味するところは明白で、だからアリスが困惑を見せたのも自然だった。
「そんなことする必要がどこにあるの? もしかしてあれ? 術の失敗が恥ずかしいあまり、『穴があったら入りたい』ってやつ?」
「誰がそんな体を張ったギャグかますか。……だいたいこれは紫あたりの陰謀に違いないんだ、断じて私の失敗なんかじゃないぜ」
まあきっと、たぶん、と胸の内で付け加えながら、魔理沙は最初の一歩を踏み出す。
「原因がどうあれ、この穴がここにこうして繋がったってことには何かの意味があるはずだ。たとえ術の失敗による偶然の産物だったとしても、な。そこにはなんらかの必然が働いている。――探ってみる理由こそ、いくつもあるんだぜ。虎穴があれば入るのは義務のようなもんだし、私の勘も行けと告げている。それになんたって……」
面白そうじゃないか――結局のところ、それだけで十分なのである。
歩をひとつ進めるたび、硬質な音が無闇に大きく反響する。
足の裏に返ってくる感触は、ひたすらに硬く、冷ややかだった。それすらも楽しさを育てる糧だといわんばかりに、魔理沙の歩みは弾んでいる。小さな起伏のついた足場を軽快に蹴りつけて進む。
彼女の大胆な歩調に合わせて、箒の柄先に固定された魔法の光球が大きく揺れ、洞内の闇をあっちへこっちへ忙しなく追い立てた。
「もう少し落ち着いて歩きなさいよ。転ぶわよ?」
魔理沙の後から道を辿るアリスは、対照的に落ち着いた歩調だ。そばに浮かぶ人形は、さっきより一体増えて計二体となっている。主を守る騎士のように、ぴったり左右を随行していた。
洞穴は緩やかな下りの傾斜を有しながら、これまでのところほぼ真っ直ぐな道を保っていた。踏破距離はそろそろ三十メートルといったところか。霧雨邸の間取りをとっくに逸脱していた。振り返ればまだ、入り口がうっすらとぼやけた白い影として認識できる。
首をそちらに向けて、アリスが溜め息をついた。
「なんだって都会派の私が、穴もぐりなんて」
「探究心は魔法使いの命、魂だぜ。それを忘れちゃ死んだも同然だ。だから、お前もついてきたんじゃないのか? 呼ばれもしないのに」
「あなたをこの世で最後に目撃したのが私だなんて、そんなことになったら寝覚めが悪いじゃない。失踪されるより、ちゃんと最期を確認する方が、後腐れがないってことよ」
アリスのつま先が、転がっていた小さな石を蹴飛ばした。暗色の石ころは、同じ色をした洞内を意外な勢いで跳ねていき、魔理沙を追い越してなお止まらない。勾配が少しずつきつさを増しているらしかった。
「このまま進めば、それこそ地獄にでも出ちゃいそうね。三途の川も閻魔様の裁判もすっ飛ばして」
「どうせならチャイナシンドロームとばかりに突き抜けてしまいたいな。……これで出た先が紅魔館の門前とかだったら、興醒めもいいところだが」
「ブラジルまでは何日かかるのかしら。ああ、でも、マチュピチュは一度行ってみたいわね」
アリスの両脇で、人形たちが嬉しそうにこくこく同意。
その気配を感じ取ったか、魔理沙が肩越しにちらっと振り返る。
「ところで、なんで人形が増えてるんだ?」
「この子? 足跡記録用人形、製作コード・アリアドネよ」
得意気に紹介した右の人形、その顎先を、アリスは指で撫でる。人形はくすぐったげに目を細め、主と似た色合いの髪を揺らした。おそろしいほどまでに精緻な動き。
「辿った道のりが分からなくなった場合に備えて、念のため、ね。誰かさんが装備もなしに穴もぐりなんて始めちゃうから、カバーしてあげてるの」
「……糸玉なんて持ってないようだが」
「糸を伸ばしていくなんて非効率的なことはしないわよ。一定間隔でマーキングさせて、帰りはそれを読み込ませるの。ま、これで後顧の憂いなく……」
突然、アリスの言葉を遮るかのように、ふたりの足元を重い風が吹き抜けていった。反射的にスカートの裾を押さえるふたりは、後方へ去っていく風の音を、そして遠くでかすかに何かが軋む音を聞いた。
その軋み音は、ふたりのよく知るものだった。そう、それは確か、霧雨邸という小さな家の玄関の扉が開閉するときに立てるものとよく似ていて――
ばたん。
締めくくりにそんな音を響かせて、洞内に静寂が戻る。とても小さなはずのその音は、不思議と強くふたりの耳を打ったのだった。
それが扉の閉じた音だったのかどうかは、結局確かめることができなかった。
扉そのものが消えていたのだ。
入り口があったはずの地点まで引き返したふたりが見たのは、その先にもまた洞穴の続く光景だった。森の木々も、細やかな月光も、幻と消えてしまっていた。前と後ろ、どちらを向いても、暗色の洞窟が延々と伸びているだけである。アリアドネ人形も困惑した様子で、扉があったはずの辺りをふらふらと飛び回るばかりだった。
外気の残滓を嗅ぎ取ることさえもはや叶わず、いまや息苦しいばかりに圧倒的な質量の岩塊のみがふたりを包囲していた。
ふたりは互いに顔を見合わせ、すぐにその行為を後悔した。相手の顔色を見て、自分も蒼白になってしまっていることを知ったためだった。
「とにかく」
かすれた声を、魔理沙は絞り出すようにする。
「進もう。ここにいても始まらない」
「……そうね」
アリスはうなずき、右の指を軽く振った。新たな命令を上書きされたらしく、アリアドネ人形がぴたりと暴走を止める。
勾配を登る向きに、アリスは足を踏み出した。かつて入り口のあった場所をまたぎ、上方を目指す。こうなった以上、さらに地の底を目指すのは自殺行為でしかない。より地表に出られる可能性の高い、上を望むのは当然の思考だった。
だが、魔理沙はそれをとどめたのだ。
「いや、そっちじゃないぜ」
怪訝な顔で振り返るアリスに、不敵と呼ぶには蒼褪めすぎている笑みを送る。
「進もう、って言ったろ? さっきまでの道を行くんだ、はじめから示されていた道を。この異変の答えがあるとすれば、おそらくはその先だろうからな」
「その答えとやらが、誰かの悪意だって、そうは考えないの? どう安く見積もったって何かの罠よ、この状況は」
「罠ならなおのこと、その種類と性質で、背後にあるものを看破する材料になるってことだ。何も究明しないまま地上に戻ったところで、事態の解決にはなりゃしない」
「敢えて飛び込むっていうの?」
「そのまま向こうへ飛び抜けるさ」
かつ、と魔理沙は力強く地面を蹴りつける。
アリスは溜め息をこぼした。
「よほど失敗が恥ずかしかったのね。まだ穴に入り足りないなんて」
「ぜんたいお前は、これが誰か第三者の陰謀だと思ってるのか、それとも私の失敗のせいだと思ってるのか、どっちなんだよ」
「どっちでも一緒よ。巻き込まれた身としては、面倒ごとに変わりないわ」
互いに呆れ顔となり、しかしそれはやがて苦笑に変化していった。この組み合わせじゃ、どんな危機的な境遇だろうと深刻な心持ちにはなりきれない、そう悟ったのかもしれなかった。
すてすてすたすた、二種類の足音に時折、石ころを蹴飛ばす音が混じる。魔理沙とアリスは洞穴の深部目指して再び歩き出していた。
やはり勾配はわずかずつ角度を増しているようだった。それと共に道も幅を広げつつある。最初のうちは霧雨邸玄関の戸口と同じくらいで、一列縦隊で進むしかなかったのだが、もうちょっとすればふたり並んで歩くことも可能となりそうだった。
そして変化はもうひとつ。足元に、湿り気の多い空気が絡みつくようになっていた。洞内のところどころ、出っ張りの陰などで小さな渦を作っていて、魔理沙たちが近づくとスカートの裾にまとわりつく。それからゆっくりと別の位置へと流れ去っていくのだった。
スカートが湿気を帯び、足が少しばかり重くなるのを感じながら、魔理沙はむしろ愉快げに破顔し、白い息を吐く。
「なんか雰囲気出てきたなあ」
そうのたまうと、背中にアリスと人形たちの鋭い視線が突き刺さった。
「あなたが寒さを楽しむのは勝手だけどね、私は温まりたかったのよ? 床暖房の魅力とやらはどこへ行ったのかしら」
「いいじゃないか。寒さに強いんだろ、お前さん」
ちょっとつつけば転がりだしそうなほど重装備の魔理沙に対して、アリスはその半分程も着込んでいない。そのことを指摘したのだ。
魔理沙の背中に、呆れきった溜め息がぶつけられる。
「そういう問題じゃないし、程度ってものがあるわよ。こう冷えて、土埃っぽいところに長居してたら、どこかの本の虫みたいに喘息患っちゃうわ」
「却ってどこかの図書館への免疫ができるかもしれないぜ」
すてすてすたすた。声が絶えると、途端に足音が異様なほど大きく響く。
ぱしゃ、と不意に魔理沙の足下で水音が跳ねた。
視線を下げると、地面が濡れている。どこからか染み出てきたらしき水が、地面のくぼみに溜まっているのだった。道の先へと目を転じれば、やはり同じような水溜りが点在して、魔法の明かりに鈍くきらめいていた。
肺に吸い込む空気も、冷気と湿気の占める割合がぐっと増したようだった。魔理沙は舌で唇の湿り具合を軽く確かめ、ますます盛り上がってまいりました、とひとり気炎を上げる。
「いよいよダンジョンぽくなってきたじゃないか、なあ?」
「ダンジョンって言っても、本来の意味に近いわね、これは。地下牢獄」
「私が言ってるのは、もっと夢のある方のダンジョンだぜ。罠だけじゃなくて、お宝やモンスターも期待できる方だ」
「お宝はともかく、モンスターはいらないわ」
「そんなことないだろ。古代の財宝を龍が守ってたりした日には、なんていうかもう、たまらなくなるじゃないか。それを肴に三日は酒が飲めるぜ」
「まあ……龍なんているのなら、少なくとも脱出路には期待できるわね。龍だって外出くらいはするだろうし」
「うわ、リアリストだな。つまらない奴」
「あのね」
前を向いたまましゃべり続ける魔理沙の背に、苛立ちのこもった声が投げつけられた。
「さっきから小さな虫のほかには、龍どころか蝙蝠の一匹も見かけてないわ。これが意味するところは、分かる?」
「……蝙蝠は宝なんて貯めこまないよなあ」
「違う。外から生物の侵入できるような入り口が、この洞穴にはないのかもしれないってことよ。この先にはどん詰まりしかないのかもね」
「……そんなの、たまたまだろ。蝙蝠を見かけないのなんて」
「そうかもね。まあどっちにしても、なるようにしかならないのだけれど」
刺々しい言葉のつぶてと共に、本物の石ころが飛んできて魔理沙の踵にぶつかった。アリスが蹴飛ばしてきたものであることは疑いようもない。
「よせよ」
そう言いつつ、魔理沙はなおも振り返らない。アリスの声の自棄っぱち具合から彼女がどんな表情でいるのかたやすく想像でき、するとなかなか振り向く気にはなれないのだった。
こつん、と音がして、またブーツの踵に石が跳ねた。
唐突に視界が開けた。
どうやら大きな空洞に出たらしい。明かりを左右に振っても、奥の壁を照らし出すことができなかった。代わりに視界に入ったのは、天井から気の遠くなるほどゆっくりとした間隔で滴り落ちる水の粒と、地面からのっそり生えている石筍たちの影。
開放感よりも、より強い閉塞感がふたりを襲った。暗所で迷うとしたら、むしろこういった自分の位置を確認しにくい場所であると、直感的に悟ったためだった。
「なんか喉が渇いたぜ」
魔理沙の消極的な休憩の提案を、
「人形に差す油ならあるわよ」
アリスも消極的に受け入れる。
ふたりは大空洞の入り口で、腰を下ろすことにした。
アリスはこの時間を利用して、付近の探査を行うつもりらしい。肩に羽織ったケープの下から、何体もの人形を呼び出していた。ぞろぞろと、どうやってそんなに潜んでいたのかと目を剥きたくなるほどの数が出てきて、魔理沙に失笑を起こさせる。
「四次元ケープかよ……」
ふは、と息を漏らす間に、人形たちは闇の中へと散っている。後にはアリアドネ人形と、最初からアリスと一緒だったらしい一体が残った。そいつの顎先へ魔理沙は指を伸ばし、こちょこちょと撫でてやる。
「こいつ、上海だっけか。それとも蓬莱?」
先刻のアリスを真似たつもりだったのだが、あまり上手くできなかったらしく、人形はいやいやと首を振った。
「露西亜よ。この子、寒さに強いから」
「さよか」
しつこく人形の頬をつつきながら、尋ねる。おまえ、もしかして魔力じゃなくてウオツカで動いているんだろう? 露西亜人形は小さく首をかしげて、アリスの頭の上へと逃げていってしまった。
振られてしまった魔理沙は寂しげに口の端を歪めると、冷え切った壁に背中を預け、そして軽くまぶたを下ろす。
遠く水滴の落ちる音が、鼓膜に染み入った。喉の渇きがいや増す。こういうとき咲夜などがいれば、温かい紅茶を期待できただろうに。生憎と今夜の相棒は、ポケットの中に人形と油差しくらいしか忍ばせてなさそうな奴だった。まあ、自分だってビスケットの一枚も持っていないのだけれど。
「これ、溶岩洞ってやつなのかしら。初めて見る地層だけど」
こんこん、と頭の後ろに響く音。不肖の相棒が壁を叩いているらしい。魔理沙は生返事。
「さあな。どこから来たのやら」
毎年召喚している温泉脈ならまだしも、このような荒涼たる洞穴の出自など、魔理沙のあずかり知るところではなかった。
関心があるとすればやはり、これがなぜ霧雨邸の玄関と繋がってしまったのか、その点だ。
まず、自分が行った召喚術の失敗によるものと仮定してみる。術式に入力した座標などの情報が誤っていたか、召喚陣に歪みがあったか、詠唱をとちったか……考えられる原因はいくらでもあった。しかし回顧してみた限り、今夜の術の進行に過ちはなかったはずである。少なくとも自覚できる範囲内では。
「だけど、なにせ満月の夜だからな。力を得られる代わり、不慮の事が起きる可能性も高まる。ファンブルとか合体事故とかな」
「なによその例えは」
「いや、気にするな」
あるいはそうでなく、第三者の介入によるものだとしたら。その犯人は誰か。実行犯と首謀者は別に存在するのか。目的は奈辺にあるのか。
「一番疑わしいのは、やっぱりあいつだけどな」
「能力・性格ともに実行要件を満たしてるものね」
もしかしたら、現在もふたりの境遇を覗き見てほくそ笑んでいるかもしれない妖怪のことを考え、共に苦い顔となる。
「しかし動機さえ考慮しなければ、能力的に実行可能なのは他にもいるな。今夜の月は、たいていの妖怪の力も増大させるし」
たとえば上白沢慧音なら、こんな奇天烈な歴史を作ることもできるだろうし、たとえば八意永琳なら、その秘術でもって霧雨邸の玄関をそれこそ彼方の月にまでだって繋げられるだろう。
「まあねえ、ここが実は月だって言われても、いまさら驚きはしないわね」
「だがしかし、私はやっぱり龍の巣の方にコイン一個張るぜ。これくらいの広さがあれば龍だってくつろげるだろう」
「推測じゃなくて願望でしょ、それ。だいたい龍の生態から言って……」
そこへ、またもいずこからか風が吹いてきて、アリスの言葉を遮った。その低く重い音色は、いま交わしていた話題が話題ということもあってか、どこか獣の唸りあたりを連想させるものだった。
ふたりはぴくりと肩をかすかに震わせ、しばし口をつぐんで闇の奥を睨んでいた。それきり風の息吹が再訪することはなく、ただ水滴の跳ねる音が重い空気を震わせるばかりだった。
やがてふたりは、唇からそろそろと細く息を漏らし、身の緊張を解いた。まったく同時、申し合わせたかのように揃った呼吸で、ふたりはいささかきまりが悪い顔となる。
魔理沙は咳払いし、その隣でアリスは軽く糸を手繰るように、指を動かした。闇の向こうから人形の一個分隊が帰還してくる。
「右手の壁に沿っていくと、また横穴があるみたい。ひとまず、ここで行き止まりではなかったようね」
それが幸いなことなのかどうかは、まだ何とも言えなかった。どうせ行き止まりと対面せねばならないのなら、まだ余力の残っている今のうちの方がマシなのかもしれないのだから。
とにかく道は続いている。だから魔理沙たちは足を前へ向け続けるのだった。
大広間を抜けて、細い回廊へ。
細いと言っても、さっきまでのものよりは広い。優にふたり並んで歩けるだけの幅があった。
やはり緩い下りの傾斜、それと水溜まり。水溜まりの間には小さな川が繋がっていて、ブーツで水を蹴る頻度がぐっと増した。
そろそろスカートが濡れるのに我慢ならなくなったか、アリスがうんざりした顔つきで、足を宙に浮かせる。それきり二度と洞内の土を踏もうとはしなかった。
魔理沙も一度ならず箒にまたがろうかと考えはしたが、彼女の箒が性能を解放するには、まだ洞穴は狭い。やむなく飛沫を上げながら歩き続けるのだった。
それでもまだこの状況を楽しめるだけの余裕があった魔理沙だが、ふと、その表情を暗鬱なものに急転させた。ぴた、と足を止める。
行く手に岩壁が立ち塞がっていた。左右にそびえるのと同じ、暗色の強固な岩肌――三方をそれに囲まれた、つまりそこは行き止まりだった。
ここまで来て、これなのか。
いけないとは思いながら、どうしてもこれまで踏破してきた道のりの長さに思いをやってしまい、さすがに消沈してしまう。これを引き返して、またどれだけあるとも知れぬ新たな道程を往かねばならないのか――
ふたりはしばし、岩石が形作る堅牢な半包囲網を呆然と見上げていた。そうやっていると、無骨な岩肌が徐々に押し迫ってくるかのような錯覚に陥る。そのままでいれば、じきに重厚な質量で押し潰されてしまいそうだった。
実際、ふたりの心は押し潰され、折れてしまう寸前だったのかもしれない。そこからどうにか立ち直ることができたのは、気まぐれに吹いた微風のおかげだった。
「……あ」
自分のスカートの裾がわずかながら揺れたのを感じて、魔理沙は我を取り戻した。箒の先に灯した光をあちこちへ向け、躍起になって風の出所を探す。
「アリス!」
「やってるわよ」
いつの間にか人形の一個小隊が、アリスの周りに展開していた。しなやかな指の動きに合わせ、それぞれそばの壁に取り付いていく。
やる気にさえなれば、さして大変な作業でもなかった。ほどなくして、ほぼ正面の岩肌、その踝くらいの高さに、小さな亀裂を見つけだすことができた。
どうにか手を差し込めるくらい、人形ですら入り込めないほどの狭い裂け目だったが、それは大した問題ではなかった。問題は、その向こうがどうなっているかだ。
魔理沙は亀裂の周辺を何度か蹴ると、手応えを得られたのか「ふむ」と薄く笑って、懐から小さな火炉を抜いた。
すぐさまアリスの手が、その腕をきつく掴む。
「やめなさい」
「なんだよ、まだ何もしてないだろ」
「してからじゃ遅い。何をするつもりなのか、よぉく分かってるから。だからおやめなさい。めっ」
アリスのみならず人形たちにまで睨まれ、魔理沙は押し切られる形でミニ八卦炉を懐へ戻すこととなった。理不尽だ……としょげる彼女に、アリスは苦笑を見せる。
「あなたにやらせたら、落盤起こすのは請け合いだもの。ちゃんと加減できるのならともかく、常に百の力しか出せないじゃない。オールオアナッシング、潔いのはいいけれど、時と場合を選んでほしいわね」
「人をぶきっちょみたいに言うな。ちゃんとマスタースパークのほかにも、ダブルとかファイナルとか、色々取り揃えてるぞ」
「百を超えてどうするのよ」
呆れ声で会話を締めくくると、アリスは亀裂へと向き直った。ケープの下から新たに一体の人形が転がり出てきて、亀裂にぴったりと張り付く。
「ほら、下がって」
魔理沙と共に十歩ほど後退すると、アリスは中指の先をちょんと軽く振った。
「アーティフルサクリファイス」
唱えた言葉は、ほぼ同時に湧き起こった爆音に飲み込まれている。
岩壁、亀裂のある場所に、オレンジ色の火球が生まれていた。地と壁がびりびりと鳴動し、天井部からぱらぱらと細かな砂礫が降り落ちてくる。爆風が恐ろしい速さでふたりの足元を走り抜けていき、舞い上がる土埃の中、スカートが派手にはためいた。
騒乱は、だが数秒後には治まっていた。震動と爆風が遠く後方の闇の彼方へ去った後、亀裂はそれがあった壁の下半身ごと消えていて、ふたりの前にはぽっかり大きな穴が開いていた。そして穴のそばには、真っ白に燃え尽きてほとんど素体と成り果てた人形が転がっている。
特定の物体内に充填した魔力の急激な膨張現象、指向性を有した爆発――つまりは人形が自爆して、亀裂を力ずくで押し広げたのだった。
穴の向こうには、やはり広い空間があるらしかった。爆発音の残響が、向こう側からもまだわずかに聞こえてくる。
アリスは灰白色の残骸を拾い上げると、「こういう風にやるのよ」とでも言いたげに、魔理沙に向けて片目をつぶってみせた。
「……私のと何が違うのか、よく分からんがなあ」
けほけほと噎せこみ、衣服に降り積もった砂塵を払い落としながら、魔理沙はひとりごちた。
穴を抜けると、道が左右に伸びていた。
やはり傾斜のある通路で、しかしそれ以外はこれまで辿ってきた道と明らかに趣を異にしていた。
何しろ――そう、何よりもまず、それは人工的であった。
そこに天然自然の色は、欠片も見受けられなかった。壁には一定の距離ごとに配置された柱以外の起伏などなく、塗り固められ、のっぺりとした表情をさらしている。床部は階段と滑らかなスロープとで左右に半分ずつ分けられ、端には排水のためらしき溝も掘られていた。天井部はきれいなアーチを描き、その肩部に据えられた箱型の照明が、うすぼやけた白い光をこぼしていた。
冷静に観察すれば、実は至って簡素で味気ない灰色の空間なのだが、これまで土と水の支配する地中を旅してきたふたりにとっては、豪奢で至れり尽くせり、王宮の回廊にも匹敵するように感じられたのだった。
そのトンネルの脇腹に醜い風穴を開けて、ふたりは這い出てきた形である。
階段に足を乗せれば、かつんと、びっくりするほどよく音が響いた。アリスも宙に浮かぶのをやめて、魔理沙の隣に立っている。
ふたりはしばし、ほとんどまばたきもせずに、新たな道を見つめていた。魔法の明かりを消しても十分すぎる視界が天井の明かりから得られて、するとここが本当に地面の中なのか、なんだか自信がなくなってくる。
「……これが答えだってのか?」
魔理沙は半ば呆然と正面の壁に歩み寄り、手袋で撫でた。そこには「不―一四」と記されたプラスチック製のプレートが貼り付けられている。意味は、さっぱり分からない。
弱々しい風が足先を撫でていった。それを追うようにして目線を下げる。階段に刻み込まれた無数の大きな足跡と、その上に分厚く積もった埃とが発見物だった。どうやら久しく人の往き来がないらしい。
「ねえ、どうする?」
アリスの声に、のろのろと視線を元の高さへ戻した。
「どうする、って?」
「どっちへ行くのかってことよ。やっぱりまだ下を目指したいの?」
ふたりが出てきた穴から見て、右へ進めば上り、左手が下りだった。どちらの道も行く末を見通せないくらいに長く伸びている。魔理沙は左右を交互に何度か見やり、それから一度、後ろを向く。
引き返すってのは、やっぱりなしだろう。
「まあ、こうなったらもう上へ向かってもいいような気はするな」
ここに至り、どちらへ進むべきかの指針は、もうない。ならばアリスの意見を容れても構わないはずだった。
ところが、いざ足を次の段へ上らせようとしたとき、下方から聞こえてきたのだ。
かつん、かつんと――それは、ふたりのものではない、別の誰かの靴音。
魔理沙とアリスは顔を見合わせる。魔理沙は好奇に瞳を輝かせ、アリスはげんなりと目を伏せた。
「下だな」
「いいけどね……」
かつん、とふたつの踵を返す音。
誰のものとも知れぬ足音は徐々に大きく聞こえてくる。こちらへと上がってきているのだ。
しかし、二十回ほどを数えたところで、不意にそれが途絶えた。
こちらの接近に気付いたのだろうか。気付かれないはずはなかった、こっちが向こうの足音を聞き取れているのだから、その逆もまた然りだろう。
警戒されたかな。いまさらながら、飛んで接近するべきだったと魔理沙は悔やむ。いや、今からでも無駄ではあるまい。こちらも足を止めたと思わせて無音飛行で接近すれば、もしもの場合でもイニシアチヴを――
唐突に向こうの足音がよみがえった。駆け足で、しかもさっきまでとは逆に遠ざかっていく。逃走に移ったらしい。
魔理沙は躊躇なく箒にまたがり、急発進させた。アリスも段を蹴って宙に飛び出している。
自らの身で風切る音を聞くのも、ずいぶんと久々の気がした。追跡という行為も相俟って、心が急激に昂ぶっていく。風と化して流れ去っていく周囲の光景、壁に貼られたプレートの数字が、「不―一五」「不―一六」と推移していくのを横目で確かめる。
そして「不―一八」を袖にした辺りで、ついに目標と思しき人影を視界に捉えた。
慌てた様子で駆け下りていくその人物の頭上を一気に跳び越し、鼻先へ着地を決めてやる。
「そこまでだ、撃つと動くぜ」
などと余裕を見せながら相手の顔を覗きこんだ魔理沙は、口の端を鋭く尖らせた。
「……そうか、やっぱりお前が黒幕だったか」
「きゃっ」
これに相手が返してきたのは、存外かわいらしい悲鳴だった。
いきなり魔理沙に目の前へ飛び出されて、そいつは急制動をかけようとしたらしかった。たたらを踏み、だがどうにもこらえきれずバランスを崩して、階段に尻餅をつく。
「あいたっ」
それだけでは飽き足らず、ごろんと斜めに転がって、スロープに乗ってしまった。あれよあれよという間に頭からスロープを滑り落ちはじめる。
「お、おい」
面白いのを通り越して洒落にならなくなってしまったリアクションに、魔理沙も剣呑な表情を崩し、つい手を差し伸べていた。どうにかそいつの腕を掴んで滑走を食い止め、階段へと引っ張り上げる。
「え、あれ……」
そいつは階段にへたり込んで、伏せていた顔を不思議そうにゆっくりと持ち上げた。魔理沙のものにも劣らない豊かな金色の髪が、肩で大きな波を打つ。やや潤んだ紫色の瞳が、困惑極まった様子であちこち泳いでいる。
そこにあるのは、魔理沙よりいくばくか年上と見える、少女の顔だった。
「ええと……ありがとう、でいいのかしら? これは」
どこか自信なさげな顔でつぶやいた彼女に、魔理沙もなぜか呆けたように口をぽかんと開いて、まばたきを繰り返していた。
「いや、悪い。知り合いと間違えたんだ」
必死で走って疲れきったのか、立ち上がろうとしない少女の隣に、魔理沙も腰を下ろした。追いついてきたアリスが、そのさらに隣へ座る。
「いつだって、走って、逃げてたのよ。毎度のお決まりみたいなものだったの」
いきなり逃げ出した理由のつもりなのだろうか、少女はいまいちよく分からないことを口にした。
「それで、いつもは終わってたんだけどね。今日のはまだ続くみたい」
少女は肩で息をしながら、だがその瞳に強い生気を踊らせていた。好奇心の色も入り混じらせて。
「人違いって、お友達と?」
独り言のようなことを口ずさんでいたかと思うと、いきなり問いを向けてきた。魔理沙は虚をつかれ、それでもどうにか答える。
「いや、知り合いと。よく見たらあんまり似てないかなぁ。あんたの方がずっと上品だぜ」
魔理沙は改めて少女の顔を眺め、失礼なことをしてしまったなあと、珍しく反省していた。いくら尋常から程遠い状況だったとはいえ、あの胡散臭さ爆発の大妖怪と間違えてしまうなんて。だいたい、この少女は見た感じ、普通の人間ではないか。
普通の人間だからこそ、どうしてこんな場所にいるのかという疑問も湧いてくるのだが。
「あんた、何者だ? ここで何をしてた?」
「哲学ね、いきなり」
割と真面目に尋ねたつもりだったのだが、くすくすと笑われてしまった。くすくす笑いは、しかしけほけほと、咳に変化する。まだ呼吸が整っていなかったのだろう。
やれやれと背中を撫でてやる。
「飲み物でもあればいいんだが、生憎と油しかないらしい。まったく気の利かない道連れで恥ずかしい限りだぜ」
「ちょっと、私が悪いって言うの?」
魔理沙とアリスのやりとりに少女はやわらかく微笑み、それからふと何かを思い出したかのように衣服のポケットへ手を突っ込んだ。
「ええとね……」
淡い紫色を基調とした、落ち着いた印象の服装をしていた。そのポケットから再び出てきた手には、橙色も鮮やかな蜜柑が乗っていた。手品のように三個、立て続けに取り出してみせる。
いかにも瑞々しい色合いに、魔理沙は渇きを否応なく思い出させられた。ごくり、と喉を鳴らす。
「よかったらどうぞ」
魔理沙は遠慮することなく、二個を手に取った。きんと冷えた蜜柑の感触に嬉々となっていると、アリスに袖を強く引っ張られた。不機嫌そうに耳打ちしてくる。
「ちょっと、なにやってるのよ」
「なんだ、蜜柑、嫌いだったか?」
「そうじゃなくて。得体の知れない相手と気安くしすぎよ」
「大丈夫、この人はいい人に違いないって。私の勘もそう言っている」
まるきり餌付けされた小動物だった。手袋を脱ぐのももどかしげに、魔理沙は蜜柑の皮を剥きはじめる。アリスは心底呆れきった顔で、けれどもしっかり自分の分は受け取っていた。
少女は、魔理沙が脇に脱ぎ捨てた毛糸の手袋を摘み上げ、興味深そうに観察している。それから魔理沙の箒、アリスの人形へと視線を移していった。瞳の奥、なおも残る警戒心と好奇心とが相克している。
好奇心が圧勝したらしい。
「ところで、あなたたちこそ何者なのかしら? 地底人?」
「地底人ってほど、地下生活の経験は豊富じゃないな、まだ。どっちかと言えば、私たちよりさらに地下深くにいたあんたの方が、その称号に相応しそうだ」
「それもそうね」
魔理沙の言葉に妙に納得したらしく、少女は感じ入ったようにうなずいた。それきり、同じ質問を繰り返そうとはしなかった。
おかげで魔理沙たちも、ことさらに少女の正体について詰問するつもりになれなかった。
それからしばし三人は、もごもごと蜜柑を咀嚼するのに熱中した。残った皮をそれぞれに始末すると、最初に腰を上げたのは他称地底人の少女だった。
「さて、そろそろ帰らなくちゃ」
そう言いながら、足を踏み出した先は、下の段である。
「上に向かってたんじゃないのか?」
魔理沙に問われて、少女はどこか曖昧な笑みで振り返った。
「さっきまでは上へ行かなくちゃいけない気がしてたんだけど……今は、もういいかな、って」
潤んだような紫の瞳を、優しく細めて。少女はどことなく満たされたような眼差しで、魔理沙とアリスのことを見ていた。
「なんだそりゃ」
「まあまあ。夢なんて不条理万歳なんだし。論理的思考は目覚ましの紅茶の後、地に足を着けて行うものよ」
また意味の分からないことを言い出す。
魔理沙とアリスが首を傾げている間に、少女は数歩下り、そこでまた振り返ってきた。
「あなたたちは、どうするの?」
「え……と」
確かにそれが問題だった。蜜柑を食べているうちに何だかひと仕事やり遂げたような気分となりかけていたが、実はまだ何も解決していないのだ。変事の原因の究明も、解決策の構築も、帰路の確保も、何ひとつ。
ふたりの返事を、少女は待っていなかった。靴音を響かせて歩き出している。
魔理沙とアリスは顔を見合わせると、どちらが先というでもなく、少女の後を追っていた。少なくともそこには、目に見える指針があったのだ。
「へえ、温泉を掘ってたんだ。いいわよねえ、温泉」
壁に貼られたプレートは「不―二五」を示している。やっぱり意味は分からず、少女に意見を求めてみたところ、
「不動産屋さんの覚え書きかしらね」
とのことだった。どこまで本気なのか分からない。
長い長い階段を、三人は並んで下りていく。埃を蹴散らし、陽炎みたいにあやふやな自分たちの影を踏みつけて。
「いや、厳密にはボーリングとは違うんだが……温泉脈を召喚するつもりが、気が付いたら洞窟探検になっていたのであって、何を言ってるのか分からないかもしれないけど……」
「でも、ここまで苦労させられたんだから、床暖房程度じゃ割に合わないわね。いっそ本当に露天風呂でも作ってねぎらって欲しいわ」
「それもいいけどな。その時は刺青と人形遣いの入場はお断りにするぜ」
「いいわよねえ、温泉」
気だるげな声、他愛のない会話がトンネル内に反響する。
そんな傍目には気ままなものとも映りそうな三人の旅は、不意に一旦停止を余儀なくされた。トンネルの突き当たりに辿り着いたのだった。
またも袋小路か。気落ちしかけた魔理沙は、しかし瞬きした次の拍子、正面の壁に一枚の大きな扉を見つけていた。……あれ? 一瞬前まで、そんなものは無かったような気がするのだが。
隣ではアリスも目をぱちくりと瞬かせている。ひとり、紫の瞳の少女だけが、表情に何の変化もなく、扉の脇に貼られたプレートへ目をやっている。プレートは二八を数えていた。
「ああ、そうよ。ここから来たんだったわ、私」
少女は急にそんなことを言って、ぽんと手を打った。小走りに扉へ駆け寄り、重たそうに見えるそれを易々と開いてしまう。いかにも開きなれているといった手つきで。
構える間もなく、隙間から一陣の突風が吹き込んできた。
魔理沙は帽子を吹き飛ばされそうになり、アリスはお供の人形たちをさらわれそうになった。しかと踏ん張って、しかしそんなふたりの懸命な抵抗を揶揄するかのように、風は瞬時に吹き去っていた。すると、扉の向こうには新たなトンネルが横たわっていたのである。
これまで辿ってきたどの道よりも広く、高く、やはり人為的な化粧を施された横穴が、左右に伸びていた。傾斜はなく、おそらくは水平な通路だった。
その路面の中央には、梯子を横倒しにしたかのような格子状のものが、通路の伸びに沿って延々と敷かれている。おかげで歩きづらそうなことこの上なかった。
「魔理沙」
アリスが低い、かすかな緊張を帯びた声を出す。魔理沙は黙ってうなずき返した。
あの少女が消えていた。
さっきの扉を開いた後から、既に姿が見えなくなっている。こちらが突風に煽られて目を離していた間に扉の向こうへ抜けたものと、そう思っていたのだが。
ぽつんぽつんと明かりの灯っている通路、その先へと目を凝らす。左右どちらを辿っても、ずっと遠くで大きなカーブに到達するようだった。カーブの先を窺い知ることはできなかったが、まさか今の短時間でそこまで移動できたはずもないだろう。あるいは他にも出入り口が、見えづらい場所に隠されているのだろうか。
魔理沙は箒にまたがり、その横にアリスも浮かび上がった。じゃんけんでとりあえず右手へ進むことに決める。
「悪いな、一度くらいはお前の意見を優先してやりたかったんだが。勝負は非情だぜ」
「それならはじめからじゃんけんしようなんて言わないでよ。遅出しはするし」
格子の敷き詰められた路面を眼下にしながら、ふたりは慎重に進む。
少女の影をどこにも捉えられないまま、カーブまであと半分といった辺りに差し掛かった時だった。
ぴりっ、と肌を突くような微弱な刺激が、ふたりを襲った。
刺激は皮膚を伝って、髪の先へと走っていく。いや、髪先から体へと流れてきているのか。全身の産毛が逆立って、鳥肌のようになるのをふたりは体感していた。
大気が今にも張り裂けそうなほどに緊張している。
こんな地の底で、だがふたりの脳裏によぎったのは、雷雲に閉ざされ、嵐の訪れを待つ空の情景だった。それが何を意味するのか理解せぬまま、ただ歴戦の経験がふたりに警戒を強いた。ほぼ無意識、ふたりは互いに最も連携を行いやすい陣形を敷いている。
構えた直後、大気は現実に悲鳴を上げて張り裂けていた。空気の引き裂かれる音が、ふたりの耳朶を震わせる。
行く手、カーブの先から、「そいつ」はまったく傲然と姿を現した。
まず雷光が、ふたりを貫いた。
高速で直線通路に進入してきた頭部、そこに並ぶ鋭い矩形をした双眸が、凶悪極まりない光を放っていた。洞内の薄闇を軽々と薙ぎ払い、駆逐する、強烈な眼光。虚空に浮かぶふたりの姿を認めると、まっすぐに視線を定めてくる。
頭部の後には胴体、蛇のように長大で白亜にきらめく体躯が続く。ぞろりと、闇の奥から恐ろしいほどの速さで這い出してくる。
「……龍、だって?」
そいつが向けてくる苛烈な眼光に射すくめられて、魔理沙は呆然とつぶやいた。
白亜の龍はその巨躯で大気を蹴散らし、跳ね除け、洞内に風の怒号を轟かせる。それに煽られ宙でよろけそうになる魔理沙の耳を、アリスの叱咤が鋭く叩いた。
「逃げるのよ!」
思考するより早く、魔理沙は従っていた。箒を一八〇度転回させ、背後に人形を抱いたアリスが相乗りするのと同時、房から星屑の推力光を撒き散らして急発進。それだけでは加速が足りないとほとんど本能的に判断、手にスペルカードを抜き放つ。
ブレイジングスター。
地中に青く燃え盛る彗星が出現する。爆発的な、まさに天より流れ落ちる星の貫通力を秘めたそれで、しかし龍に挑もうなどという考えは露ほども湧かなかった。魔理沙はただ一心に遁走を選ぶ。
追走してくる龍が低い咆哮を上げた。雷撃を吐き出したかのような音、そして光。
耳を塞ぎたくなる衝動をこらえ、振り向いて恐怖を直視したくなる誘惑に抗い、ふたりはひたすら前方を見据える。
「魔理沙、そこっ」
「分かってる!」
左前方、先刻抜けてきた扉が近付く。
魔理沙はろくに減速せぬまま思い切り体を左へ倒した。箒の柄が今にもへし折れそうな悲鳴を上げ、アリスを振り落とそうとする。
アリスは左の手だけで箒にしがみつきながら果敢に体重移動、右の手は一体の人形を通路の先へ向けて放り投げていた。宙を泳ぐ人形に、糸を介して自爆命令を入力。
リターンイナニメトネス。
トンネル内に一瞬、龍の眼光をも凌ぐまばゆさの閃光が広がる。
同時に発生した爆風がふたりの乗った箒を横殴りに叩き、扉のある方向へと押し出していた。脱出口への正しいベクトルと、新たな加速を、箒は得る。
龍の眼光と荒い息遣いが、ふたりの横顔を乱暴に舐めた。
凶悪な顎に噛み砕かれるかと見えた間際、箒は扉を潜り抜けていた。刹那の間も置かずに強烈な風が吹き付けてきて、その背中を突き飛ばす。風に押し流されるまま、彗星は転げるようにして階段とスロープのトンネルを駆け上っていった。
壁のプレートの数字が目の回りそうな速度で減少していく。魔理沙は必死に姿勢を制御しつつ、なおも速度を緩めようとはしない。
壁に開けた穴もいつの間にやら通り過ぎていて、気が付けばプレートの数字は一桁に、そして正面には扉の嵌まった壁が見えてきた。
減速せぬまま、魔理沙はその扉に箒を突っ込ませていた。重い破砕音とともに金属製の扉はひしゃげ、蝶番からはじけ飛ぶ。
空が、そこにはあった。
扉の残骸を見下ろしながら、箒は広い広い虚空へ、夜気の中へと飛び出していた。
久方ぶりに触れる外気、澄み渡った風の中を、青い箒星が斜めに駆け上がっていく。
その遥かな行く手、夜空の中央には金色の冬月が冴え冴えと浮かび、それは今また小さくわなないているかのように見えた。
☆
いきなり生まれた前向きの慣性は、宇佐見蓮子にとっても完全な不意打ちだった。通路にいた他の乗客と同様、ひとたまりもなくつんのめって、しかし危ういところでそばの座席の背もたれにしがみつく。
その席の客と目が合ってしまい、取り繕うように愛想笑いを浮かべた。胸中には突然のアクシデントへの腹立ちと、疑問とが芽生えている。
旧時代の列車だというのならともかく、この「ヒロシゲ」は音も揺れも無いというのが売りのひとつであるはずなのに。事実、これまでの乗車経験に照らし合わせてみても、発車時や停車時にだって、これほどの揺れは無かった。まあ、熟練者ぶれるほど乗ったことがあるわけでもないのだけれど。
他の客たちも訝しく思っているようで、車両内には低いざわめきが広がりつつあった。
もちろん運行側がそれを放置するはずもなく、すぐに車内アナウンスが流れ出す。
『本日は卯酉東海道をご利用いただきまして、ありがとうございます……』
前置きもそこそこに行われた状況説明によれば、なんでも付近の変電施設でトラブルがあり、臨時に工事と路線の点検が行われているらしい。なにぶん急なことで、このヒロシゲに速度を落としての通過を要請する連絡が入ったのは、当該地点に差し掛かるまさに直前。やむなく急減速するしかなかったのであるとのことだった。
乗客には事前に告知できなかったこと、並びに迷惑を与えたことへの謝罪が行われ、しかし目的地には予定通りの時刻に到着できることが強調された。最後にもう一度、謝意が述べられて、放送は終わった。
「……ふうん」
蓮子は曖昧な息をついた。今の説明に、どことなく白々しいものを嗅ぎ取ったためだった。
しかし疑心をことさらに表面化することもしない。とにもかくにも説明は為され、それで車内のざわめきは確実に小さくなっていた。真実かどうかはともかく、もっともらしい話ではあったらしい。電車も既に速度を回復し終え、何事も無かったかのような顔で走行を続けていた。
なんだか煙に巻かれたような気分ではあったが、
「まあ、いいわ」
蓮子もずれた帽子を直しつつ、自分の席へと戻ることにした。
四人が掛けられるボックス席では、ひとり、友人のメリーが待っていた。眠たげにあくびを噛み殺しながら、蓮子のことを迎えてくれる。
「ああ、お帰りなさい」
「思ったより混んでて、参ったわ。まったく、みんな乗車前に済ませるなり、駅に着くまで待つなりしてくれればいいのに。たったの五十三分も我慢できないかしら」
「それは自分にもあてはまるって、理解してる?」
メリーの口調は、いかにも寝起きでございますといった具合の、どこか舌足らずなものだった。
「寝てたの?」
「そうみたい。やっぱり疲れてたのかしら」
メリーは時計を確かめて、「あら、五分も経ってない」と少しだけ目を見開いた。
「ずいぶんと長い夢を見てた気がするんだけど」
「胡蝶と戯れてきた?」
言って、蓮子は苦笑した。メリーの瞳が何かの期待で紫水晶のようにきらめいて、こちらをじっと見つめている。
「前にも言ったと思うけど、他人の夢の話ほど……」
「いいじゃない。どうせ退屈してたんだし」
それは、まあ間違ってはいない。今回の旅に関するひと通りの話題は消化済みだったし、本の類も用意していない。ヒロシゲの半パノラマビューも、何度も乗車を繰り返した今では、さしたる刺激とはなりえなかった。
蓮子はついに降参し、カレイドスクリーンに映る夜景、月下に雄大なシルエットをさらす富士を眺めながら、友人の話に耳を傾けることとした。
「……そのふたり、どことなく私たちに似てたかも。見た目がじゃなくて、なんて言うか、空気がね」
そこに何かの理想を見たのか。メリーの語る声はとても嬉しげに弾んでいた。
蓮子はなんだかむずむずとするものを覚え、強引に話の軸をずらそうとする。
「自分を客観的に見つめられるほど、メリーも大人になったんだ。めでたいわあ」
「茶化さないでよ、もう」
頬を膨らませるメリーになおざりな謝罪をして、蓮子はなんとはなし、座席に置いてある自分の荷物をまさぐる。――あれ? 冷凍蜜柑、この鞄に入れておいたはずなんだけど。まさか好物だからって、メリーが全部食べちゃったのかしら。
「ねえ、メリー……」
そこで蓮子は、ようやく気が付いたのだった。友人が、乗車前までは確かにしていなかったはずの、毛糸の手袋をはめていることに。
「……それ、手編みね」
「え? ……あ、ほら、これよ! いま話した夢の中に出てきたやつ。いまどき毛糸の手編みなんて珍しかったから、手にとってみたんだけど、つい借りっぱなしになっちゃった。このちょっとぶきっちょな編み目が、却って可愛いと思わない?」
「はいはい、メリーは可愛いわあ」
いい加減な口調とは裏腹に、蓮子の脳裏には真剣な思考が渦巻いていた。
まただ。メリーは蓮子の目を盗んで、五分弱という短い時間、このヒロシゲから消え、異界を旅してきたのだ。自覚もないままに。
やはりメリーの能力は変化しつつあるようだった。より広く、より強い方向へと。
それは果たして、ひと口に成長と呼ばわって良いものか。もしかしたら友人は破綻への道を歩み始めているのかもしれない。自分の知るメリーとは別の何かになりつつあるのかもしれない。
「ねえ、蓮子。今度は温泉に行きましょうよ。いいわよぉ、温泉、きっと」
「構わないわよ。お財布が許してくれればね」
今のところ、メリーは確実にメリーだ。だがさらに夢路を辿り続ければ、これまで変わらずに済んでいたものも変わってしまうのではないか。自分はそれを押しとどめることができるのか。もしも果たせなかったら、そのとき自分たちはどうなってしまうのか――
「……ま、なるようになるわよね」
蓮子はメリーの耳に届かぬよう、小さくうそぶいた。
なんともならないなら、なんとかするまでだ。秘封倶楽部というのは、つまりそういうサークルなのだから。――違ったかしら? まあいいわ、今度、会則に明文化しておこう。そもそも会則を作るところから始めないといけないのだけど。
愉快げに笑んだ蓮子の口から、淡く息が漏れる。無色透明な吐息はカレイドスクリーンに触れ、すると映像の中の月がほんのわずか、揺らいだように見えた。
☆
「こういうのはどうかしら? 魔理沙があの洞穴を召喚したんじゃなくて、逆に私たちが招かれてたって、そんなの」
ゆらめく湯気が、月明かりの世界に白いまだら模様を作っている。
ゆらゆら立ち上る蒸気の向こうでアリスがのたまった言葉に、魔理沙は顔の下半分を湯面に沈めて、ぶくぶく泡を立てた。
「ぶく……誰が? なんで?」
「『誰が』は、まあ、あの人として。『なんで』かは……知らないわ、そんなの」
でも、私たちと出くわして、あの人は妙に安らいだ顔をしていたように思うのよ――自分でも柄にもない言い方をしてしまったと感じたのか、ばしゃばしゃとお湯を叩く音が、続けて聞こえてきた。照れ隠しらしい。
「そうかもしれないなあぶくぶ」
河童か何かみたいに顔の半分だけを水上にだし、魔理沙はぶくぶくとあぶくを生産しつづける。
さて。
温泉である。
いわゆる露天風呂に、ふたりの姿はあった。
少し時間を戻そう。
トンネルを抜けると、そこはどことも知れぬ山の麓だった。ふたりがよく知る妖怪の山のものとは全く異なる稜線が、そこには広がっていたのである。
トンネルの出口からは細いが整備された道が延び、山麓の森の中へと続いていた。それを辿るべきか悩んでいたところ、視界の端へ不意に飛び込んできたのだ。温泉の立てる湯気が。
山林と岩場の狭間に、それはあった。岩の間から湧き出た温水が流れを作って、その中流、大小の岩がちょうど湯船を築くかのように並び、身を浸すに良さそうなお湯溜まりを成していた。天然の湯船ではないのかもしれない、すぐそばの茂みに、「富士温泉郷所管」とかなんとか記された看板が朽ち果てていたので。
ふたりにはその辺りの事情などどうでも良かった。精も根も尽き果てようとしていた旅人たちは、周囲への警戒もそこそこに衣服を脱ぎ捨て、湯気の中へと飛び込んでいったのである。
「そういえばあの人、どこへ行っちゃったのかしらね。あの龍に食べられてたりしてなければいいけど」
「そうさなあ」
こうして湯に浸かっていると、ほんの少し前に地底で体験した全てが、遠い過去のことのように思えてくる。あるいは目の前にたゆたう湯気の如く、夢霞の如く。
不意に木枯らしが湯気を散らしていった。乙女の柔肌を無遠慮に撫ぜられて、だが魔理沙は苦笑してその悪戯を見逃してやる。これくらい、あの龍の鼻息に比すれば、春のそよ風にも及ばない。
か細い風の音の向こうで、アリスが身じろぎする気配。
「……それにしても、瓢箪から駒ってのは、このことね。こうやって温泉に出くわせるなんて、出来すぎてると思わない?」
「だなあ」
温泉脈の召喚から始まったどたばたの帰結点としては、確かに作為的とも思えるような、この結末だった。
いや、実のところは、これでおしまいとしてしまうわけにもいかないのだが。事態そのものは、なんの解決も見ていないのだから。それでもまあちょっとくらいなら、休んだって罰は当たらないだろう。
「ちょ、ちょっと、なにこれ」
素っ頓狂な声が上がったかと思うと、湯気を掻き分け湯を波立てて、アリスが詰め寄ってきた。溜め息の出そうなほど白い肌に蒸気の薄衣を纏わせ、その手には、オレンジ色のしなびたクラゲみたいなものをぶら下げている。
蜜柑の皮だった。
「なんでこんなものが浮かんでるのよ」
「あー、柚子湯。健康にいいんだぜ」
「柚子じゃないし、冬至にはまだ早い!」
ぺしっ、と蜜柑の皮が魔理沙の顔に投げつけられる。
魔理沙は鼻の頭に皮を乗せたまま薄く笑うと、両手で多量のお湯をすくい、アリスにぶつけた。
「ますたーすぱーく!」
「ぶわっ……ぷ……この……」
アリスが人形を呼び寄せて、たちまちふたりは湯気の中で乱闘を始めてしまう。姦しいことこの上ない怒声が、笑い声が、山麓の静寂に溶け込んでいく。
本当のところ魔理沙は、自分たちがこの温泉に至ったのは、偶然の導きなどでなく、まさしく作為によるものなのではないかと考えている。
地底で出会い、別れたあの少女が口にしたひとつの言葉、それをふと思い出したのだ。
「夢」と。彼女は言っていなかったか。
これが夢なのだと、そう言っていたのではないか。
そこでさっきアリスが挙げた仮説に、もうひとつ要素を付け加えよう。すなわち、自分たちは「夢の中に召喚された」のでは、なかろうか。
もしこれが夢であるならば。見る者の意識次第で何が起きたって不思議はない。ふとしたきっかけで加わった刺激によって、それこそ脈絡もなく龍や温泉を出現させることだって有り得るだろう。
果たしてどこまでが現でどこからが夢だったのか――いやそれよりも問題なのは、この夢が誰のものなのかだ。
自分が見ている夢ならいい。だがこれが他人の、あの少女の夢の中だとしたら。
あの少女が目を覚ましたとき、自分たちはどうなってしまうのだろう。ここでこうして思考している私の自我は、どこへ行くのか。
もしかすればベッドの上で覚醒できるのかもしれない。それともお湯の中に浮かぶ泡沫の如く、弾けて消えてしまうのかもしれない。――まったく想像がつかなかった。
仮説に仮説を重ねた考えに過ぎない。でも、もしかすると一瞬後には、何もかもが終わってしまうのかもしれなかった。
そうと知りつつ魔理沙は、
「ま、なるようになるさ」
思い切りよく足を振り上げ、お湯を蹴った。
水面に映った月がゆらゆらと、頼りなく揺れている。
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