秋っぽい何か ―― 秋

 

 

 








 結局のところ、秋ってなんだよと。

 パチュリーがそう問われたのが昨日だったか一昨日だったかは知らないが、想定外の質問にしばし狼狽したことは事実である。
 地下図書館より更に地下。土中の牢獄、フランドールの勉強部屋にて、パチュリーはひとつ思案のち、ふたつほど咳をしてから返答した。
『秋にはギンナンが採れます。メイド長であるところの十六夜咲夜が見るも華麗に切り刻み、満を持して食卓に差し出すことは疑いもなき未来です。
驚くべきことにイガグリなども最盛を期しておりますから、常に弾幕へクリが混ざる可能性を否定し切れません。加えて、盛夏を誇っていた昆虫達が死に絶える時期でもありますし、最終的な結論としては、衰弱したリグル・ナイトバグがイガグリだらけの弾幕をばら撒きながら、必死にタケノコをかき集め栄養補給している構図が、まざまざとまぶたの裏に思い浮かぶのです』
 一気にまくし立ててからパチュリーは後悔した。
 どうもこりゃあハメられたようだな、と。 『そう、分かったわ』
 満足そうに、いびつな翼をばさばさ揺らした質問者であり生徒であるところのフランドール・スカーレットは、嫌な角度に唇の端を歪め、やはりパチュリーが最も嫌う類の問答を仕掛けてきたのである。 『それで? 衰弱したリグル・ナイトバグが生命活動を維持するために必要な、季節の事柄を学ぶことが、私にとってどんな意味があるのかしら、先生』
 ああきた、やはりきた、思ったとおりだ。この手の質問はループだ。ループするしかない、不毛しか生まない質問だ。彼女フランドール自身、適切な回答を得て納得する気がさらさらないくせに、このような質問を繰り出してくる理由はただ一つ以外にありえなく、その理由を考慮した場合、パチュリーのやること成すこと全て水のあぶく、コスモのダストと化すことは火を見るよりも明らかなのだ。
 しかし、そんなパチュリーの思惑を知っていようが知るまいが実行を継続するのが今のフランドールであり、結局の所、パチュリーにできることといえば、太古の昔から使い古された言い回しと共に、毒にも薬にもならない無色透明な言葉を吐き出しつつこの場を終わることのみである。 『妹様の将来のためです』
 当のフランドールはといえば、思ったとおりのつまらない答えだこと、とでも言いたげな笑みでこちらを見つめていた。
 間違いない。とパチュリーは結論付けた。

 これは間違いなく、反抗期であるのだと。

☆ ☆

「放って置けば」
 レミリアは確かにそう言ったはずである。
 しかも、自分でも拍手ができるほど、過去最高クラスにやる気なさげな雰囲気で言ったはずだ。
 月光の差すステンドガラスを背景にした玉座へ頬杖をつき、飲んでるんだか飲んでないんだかよく分からんワイングラスを傾けつつ、そっぽを向きながら、コウモリ羽をしおれさせ、ため息と共に吐き出したはずなのだ。
 一寸の隙も存在せぬ、やる気の無さ。
 これでいつもなら、自分の横に正確な姿勢で佇んでいる十六夜咲夜が『かしこまりました、お嬢様』などと無駄口を叩く暇もなく、事後の処理を担当してくれたはずである。
 が、今日は違った。
 日が悪かった。
 突っ込んで言うならば、日よりも月の方が悪かったのだと言える。
「お嬢様、明日は十五夜です」
 ワイングラスの砕ける音がした。
 レミリアが、自分が持っていたものを握りつぶしたからだ。
 そうして、レミリアの三歩ほど手前で立ったパチュリーは、「仕方ないわねえ」と呟いたのち、もう一度同じ言葉を繰り返すのである。
「妹様が反抗期のようで」
 レミリアは憮然とした表情で、その語りを拝聴するしかない。
「加えて明日は満月」
 やはり、日が悪かったのだ。
「用心しておくに越したことは無いでしょう」
 いくら強固な牢獄といえども、満月の吸血鬼には危うい。
 何事か口を挟みたいレミリアだが、隣の咲夜にしっかりと肩を抑えられている。
 パチュリーはそんなレミリアを流し見て、なんともいえない、いやあな笑いを漏らした。
「妹様は言いました。『秋って何』と。それが愚問であると分かっていながら」
 パチュリーを犬歯で威嚇するレミリアだが、全く持って無駄の極みである。
「つまり、どんな形でもいいから『秋』を納得させてあげればいいわけよ。そうしたら私たちの勝ちね。なので――」
「そんなの必要ないわパチェ! だってむがッ」
 咲夜の完璧な抑止力は、我慢し切れなかったレミリアの口をすぐさま塞いだ。
 そんなレミリアへ更なるいやあな笑いを向けて、パチュリーは言い放つのであった。
「確固たる秋の証明。それを見つけるの」
 要するにだ。

「小さな秋探しをするのよ。レミィ」

 夜の王がやることではなかった。

☆ ☆

「大きな秋を探そうと思うのよ。メリー」
 蓮子の頭が人一倍程度面白いのは既に諦めているメリーだが、その愉快発言を公共の場で大声と共に吐き出すのは自粛してほしいかなと常々思っている。
「小さな秋なんて童謡で歌われるくらいの時代遅れよ。大きな秋。大きな秋! 時代がひっくり返って世間が仰天し、秋を転覆させるほどの野望を持ちえる大きな秋が今必要なのです!」
 日中である。
 言いながらばしんばしんと机をぶっ叩き立ち上がる蓮子に、喫茶店中の視線が注目していた。
「今なら大きな秋を見つけた人に、この私の懐中時計をプレゼントします! 壊れて動かないけど! 動かないけど! あっははははは!」
 非常に恥ずかしい。
 こうなってしまった蓮子に、メリーのできることといえばせいぜい三つくらいしかありえなく、コーヒー代を置いて逃げ出すか、席を移動し他人を装うか、蓮子の頭蓋骨を蹴り飛ばしその活動自体を停止させるかである。

 メリーは脱兎の如く逃げ出した。
 寸分も迷わなかった。

 座っていた椅子を尻で蹴飛ばし、利き足をカモシカのようにしならせ、出口に向かい第一歩を踏み出す。
「あ! ちょっとメリー! まちなさい!」
 もちろんそんな言葉には耳を貸すことなく、カウンターへ向かって硬貨を放り投げ、ガラスの押しドアを乱暴に開いてから、外へ飛び出した。
 そもそもメリーの予定として、今日は家でのんびりとミルクティーでも飲みながらすごすつもりであったのだ。だというのに蓮子ときたら、無防備な携帯電話を鳴らし、最寄りの喫茶店まで駆け足で集合だなんていいだして、それが有用な集会だったらまだ許せたものを、大きい秋なんてああもう意味が分からない。
 だからメリーが逃げ出したこと自体は全く持って純然たる正当な行為であって、蹴り飛ばした椅子の行き先だとか払ったコーヒーの代金が足りてないだとかはむしろ寛大な心を持って見逃されるべきである。
「すー」
 メリーはゆっくりと息を吸いながら走る。商店街はまさに秋の様相を呈しており、通り沿いに生い茂ったイチョウの木は流れるようにしてメリーの横をスクロールしていく。
 後ろの方から、蓮子の叫び追いかける声が聞こえてきた。
 物理法則に熟知しているだけあって、蓮子のほうが足は速い。そもそも家に逃げ帰った所で、ピッキングでも何でもして侵入してくる事は想像に難くないだろう。
 どうするか?
 元々逃げ切る気は皆無なのである。
 とりあえず人目の少ない所まで走ろう。
 そうしてから、改めて蓮子のよもやま話を聞いてやればいい。
 メリーの目的はそれだった。
「内助の功よねえ」
 オーバーヒートした蓮子は人の意見を受け付けなくなるから、このくらいしか場所を変える手立てが無いのである。
「うん」
 確か、目の前の突き当りを右に曲がり、細い路地を抜ければ、人気の無い公園へ出たはずだ。そこで蓮子を待ち構えよう。
 と思い、予定通り突き当りを曲がった直後。
「え」
 メリーは素っ頓狂な声を上げて立ち止まらざるを得なかった。
 眼前を見やる。
 建物と建物に挟まれた細い路地。
 メリーでも十歩で駆け抜けられる短い路地だ。
 普段は空き缶やガラスの破片などが散らばり、少しばかりスラムの雰囲気を味わわせてくれる路地。
 その路地の、中間、丁度五歩目の辺り。
 笑う下唇の両端をリボンで結んだような、紫色の亀裂が走っていた。
「あー……」
 スキマである。
 結界の綻びだ。
 それが、路地の行く手を阻んでいる。
「なんでこんな所に……」
 メリーはぼやくしかない。
「うーん」
 まあしかし、元々公園に用があるわけではなく、人目の無い所に用があったわけである。
 利便性を考慮して目的地を公園に設定していたわけなのだが、人目が無い、ということだけ考えるとこの路地裏でも十分ではある。
「……」
 とりあえず、ここで待てばいいか、とメリーは納得した。
 ここで蓮子を迎え入れ、大きいだか小さいだかの話を十分に聞いた後、このスキマに興味をそらしてやれば完璧だろう。スキマの前で人を待つというのも、あまり気分が良いことではないのだが、仕方が無い。
 そもそも秘封倶楽部は結界の綻びを観察するサークル活動であるから、本来の理には適っている。
「ん」
 蓮子の叫び声が聞こえてきた。
 もうすぐここまで到着するだろう。
 メリーは、蓮子が駆け込んできた際の、自分が行う手順を確認した。
 走る蓮子を止め、この先にはスキマが存在することを説明し、今後の方針を仰ぐ。
 完璧だ。
「うん」
 盛大な足音が近づいてくる。
 そうして、
「どこメリー! 逃がさないわよ!」
 いざ蓮子が駆け込んで来るときになって。
「あ、蓮子、あのね……あっ――」
 メリーは自分の皮算用が如何に甘かったかを思い知った。
 説明する。
 蓮子はメリーを追い、商店街を全力疾走で駆け抜け、突き当たりの曲がり角を最善の物理法則に従い扇形にドリフト。微塵も速度を落とすことなく路地に突入した彼女の直進を、メリーは止めることが出来なかった。
 メリーの脇を奇跡的なスピードですり抜けていく蓮子。
「あれ? メリー?」
 そんな呆けたような台詞がドップラー効果と共に飛んできて、
「あ」
 ブレーキが効かなかったのだろう。
「ちょっ、蓮子そっちは――」
 蓮子は。
「え?」
 すぽおん、と。
 そんな音を錯覚してしまうくらい見事に。
 ものすごい速度で。

 蓮子は、自分からスキマに飛び込んでいった。

「……」
 時が凍り亀裂が走る。
「え……うそぉ……」
 実際には時が止まることは無く、誠実に少しずつ未来を削り取っているのであるが。
「ちょっと……蓮子?」
 メリーは毒々しい色の隙間に顔を近づける。
 延々と深さの知れない紫の奥底から答えが返ってくることはやはり無い。
 一つ疑問が浮かぶ。
 スキマに飲み込まれた人間は。
 帰ってこられるのだろうか。
 神隠し、という単語がよぎり、自分が死ぬわけでもないのに、走馬灯が見えた。

☆ ☆

 パチュリーは面倒臭いことが嫌いである。
 燃えるごみと燃えないごみなんて分けたこともないし、掃除も全て咲夜や小悪魔に任せっきりだ。
 果てには朝起きるのさえ面倒になってきており、それならば寝なければいいじゃないかと一週間くらい不眠を貫き通した所、八日目で小悪魔に人体急所を突かれ、物理的に眠らされた。
 だからパチュリーは基本的に他人事に無関心であるし、自分の頭上に火の粉が降りかからない限りは動かない。
 そのなかで唯一ともいえる例外的な他人事が、友人レミリア・スカーレットとその妹様に関することである。
「面倒よねえ」
 静謐な地下図書館にて読書椅子に座り、パチュリーはため息をついた。

『小さな秋を探すのよ。レミィ』
 その台詞を聞いた後の、レミリアの駄々こねは想像を絶していた。
 嫌だ。やらない。
 そんな言葉を皮切りに、デビルエリートは憮然とした表情で玉座へ張り付き一歩も動こうとせず、咲夜が何とかなだめすかし納得させようとするが、やはり返ってくる言葉は、
 嫌だ。やらない。

「こまったこまった……」
 無感情に言ってから、もう一度ため息を吐く。
 結局、レミリアだけでなくパチュリーと咲夜も一緒に『小さな秋』を探すから、ということで何とか事は決着を見たのだが、正直に言うと、パチュリーは『小さな秋』なんてものにこれっぽっちも興味は無かった。
 加えるならば、フランドールの反抗期もあんまり興味が無かったし、今夜が満月であることなんてかなりの割合でどうでもいいことである。
「秋、秋ねえ」
 それならば、何故こんな面倒ごとを自分から提案したのか。
「地下図書館なんて、幻想郷で一番季節感が無いじゃない」
 起こった問題の解決を時に任せて放置してしまうのは、長寿妖怪の悪い癖だ。
「むー……」
 閉じ込めたレミリアも悪かったが、抵抗しないフランドールもやはり悪かった。
「辞書の秋のページ……じゃ駄目よねやっぱり」
 最初こそ、暗いだ狭いだじめじめだ、などとひとりごちていたフランドールだが、その状況が五年続き十年を経て百年も過ぎるころには、なんだかんだ言ってここが私の居場所なのね、と死期を迎えた義勇兵の如き悟りの極地に達し、外界世界なんつうこれっぽっちも手の届かない非現実的空間より、お姉さまから与えられたひたすら何の誤差も面白みも無く真四角で真っ暗なこの部屋が割と気に入るようになってしまったのである。
「あー……」
 結局の所、彼女の最終的な問題といえばやはり彼女自身の主義主張に帰結するところであり、率直に言ってみればフランドール・スカーレットは誰にも勝って引き篭もり、という事実が導き出されるのみである。
 幻想郷で、フランドールの運命を捻じ曲げられるのはレミリアだけだ。
 反抗期だっていつもあるわけではない。
 今回は、それなりのチャンスといえた。
「うん」
 パチュリーは本棚の前で背伸びをし、一冊の本を手にとる。
「……これでいいか」
 クリスマスに子供が与えられて最も絶望するプレゼントは教科書だと聞くが、そんな悪役も今の自分には悪く無い。
 ばたん。
 と、扉を開く音がする。
「だあれ? 図書館では静かにお願い」
 振り向くパチュリー、彼女の耳へ入ってくる台詞は、やはり、吉報といえるべきものではなく。
「はぁ、はぁ……パチュリー様、こちらへ、変な人間が、入っては、きません、でしたか」
 慌てた調子の小悪魔である。
「いえ、別に見ていないけれど」
「どうやら紅魔館に見慣れない人間が紛れ込んでいるみたいです。用心してください!」
 忙しいのだろう。それだけ言い捨てた小悪魔は、だだだっと音を立てて走っていった。飛べばいいのに。
 パチュリーは本日三度目のため息をついた。
 まごう事なき面倒ごとである。
 しかも今回は、他の面倒ごととも重なっている。
 相手が人間だとすると、蔵書も危険である。人間には知識欲が旺盛な輩も多いから。
「ん」
 と、パチュリーは手に持ったままの本に気づいた。とりあえずこいつはどこかへ置いておかなければ。
 辺りを見回す。
 先ほどまで座っていた椅子の下に、真っ赤な色をした空箱があった。以前、紅魔館パーティをした際に使われたものだ。
「ちょうどいいこともあるものだわ……」
 パチュリーは椅子の下の赤い箱に本を納め、人間の侵入者を迎撃すべく、面倒くさい面倒くさいとぼやきながら出動した。

☆ ☆

 紅魔館を疾走しているのは咲夜である。
 どうやら人間が侵入してきたようです、と報告を聞いたときは全く驚かなかった咲夜だが、それがどうも黒白紅白ではないらしいです、と聞いたときには驚いた。
 幻想郷にはまだ紅魔館に侵入できる一般住民が混ざっていたのかとか、厄介ごとはやはり突拍子も無い方向から飛び出てくるものなのだなあだとか、一人しきりと納得していたのである。
 倒れている人間を看病のため連れ込むくらいなら構わないのだが、突然予告も無しに侵入してこられると、排除しないわけにはいかなかった。
「こんな時間に何の用かしら……」
 しかもどうやら逃げ隠れしているというから大変だ。
 霊夢や魔理沙だったら四の五の言わず突っ込んでくるから探す必要は無いのだが、いざ鬼ごっこをするとなると、このセレビリティ紅魔館、隠れ場所は生半可な数でない。
 咲夜は一度立ち止まり、眼前を眺める。
 赤い絨毯を敷き詰めた廊下の向こうに地平線が見えた気がした。その壁に沿って無数に並んでいる赤い扉と赤い階段の向こう側を、自分はこれから一つずつ確かめていかなくてはならないのだ。
 正直、めまいがする。
 空間弄れるからってあんまり広くするもんじゃないなと、もう少し役に立つ妖精メイドも雇っておけよと、今更後悔した。
「フランドール様のこともあるって言うのに」
 そう言って咲夜は親指の爪を噛み、昨夜の出来事を思い出すのだ。

『小さな秋を探すのよ。レミィ』
 件の出来事に関して咲夜ができることは特に無かった。レミリアをなんとかなだめ、了承に追い込む程度である。
 そもそも咲夜はこれでもメイド業界で飯を食っている仕事人なのだから、主人の命令に絶対服従は当然のことである。先はパチュリーの意図を汲み取り、越権と知りながら行動を起こしたのだ。
 だから、この件に関して咲夜のすることは、『小さい秋を探す』それだけであり、その前後のことを考える気はまったくない。

「パチュリー様も大変よねえ……」
 パチュリーの意図は分かる。
 レミリアのコンプレックスもそこそこ分かる。
 だから、双方がこのまま素直に予定を決行するわけが無いことも、咲夜はまた良くわかっていた。
 昨夜のレミリアは表面的には頷いて見せたが、静観で終わる気などさらさら無いだろう。なにか暴動を起こすか、開き直って動かないことも考えられる。
 もちろんパチュリーも吸血鬼に関しては海千山千であるから、そのことを考慮した対策を敷くものと思われる。
 具体的な行動は、咲夜の妄想外のことだ。
 というわけで、今現在の咲夜にできることは、小さな秋と人間の侵入者を同時に探すことくらいであり、それはまた近年稀に見る難問でもあった。探すついでに部屋を掃除なんてしておくと非常に良い。ああそうだ洗濯もしなくては。
「……さすがに倒れるかも」
 手のひらを額に当て、体温を測るが、どう考えても平熱である。休んではいられない。
「んん」
 とりあえず、辺りをぐるっと見回してみた。
「あ」
 見回してみるものだ。
 廊下の隅、上階への階段付近に、光る物体が落ちているのが見えた。
 近寄って拾い上げる。
「ううん?」
 壊れた懐中時計だ。
 この館で懐中時計なんて使うのは咲夜くらいのものだから、落としたとしたら自分しかいない。しかし、この懐中時計は自分のものではない。
 だとしたらどうか。
 咲夜は納得する。
「詰めが甘いわねえ」
 ついつい、昔日の職業の癖が出て、舌なめずりなどしてしまった。
 おそらく、侵入者は、この階段を登っていったのだろう。かなり慌てて。
「ふん」
 そして咲夜は、真っ暗な階段の先を見て、少し残念がることとなる。
 自分が侵入者を追う必要はないことを知ったのだ。
「運が無いわ……。いや、あるのかしら」
 手に持った懐中時計をちゃりちゃりと鳴らしながら、侵入者の末路に思いを馳せるが、またそれも感傷でしかなく。
「あとは小さな秋、ね」
 ちゃりちゃりと鳴る懐中時計。なかなか良いもののようだ。銀縁の文字盤には長針に短針、秒針がついており、また、それだけでなく――。
「あ……」
 そこで咲夜は思い至った。
 今日はよく気の付く日だ。
「見つけたわ、秋」
 うーんと背伸びをした。
 さて、面倒ごと二つはこれでおしまいである。
 普段の炊事洗濯に戻らなくては。
 とりえあえず、この時計は、どこか箱にでも入れておくこととしよう。
 確かあちらの部屋に、パーティ用の赤い空箱があったはずだから、それにでも保管しておけばよかろうと。
 仕事に戻ろうとした咲夜は、もう一度、階段の向こうへ視線を投げた。
 全く、今回の侵入者は運がない。
 数あるナイフの中から、一番切れ味の鋭いやつを選んでしまったようなものだ。

 この上は、館主の広間であるのだから。

☆ ☆

 今は日中であるが、レミリアは寝ていなかった。
 昨夜、無理やり訳の分からない提案を呑まされてからというもの、抵抗のポーズとしてずっと玉座に頬杖を付いていたら、いつのまにか夜が明けてしまったのである。
 自分もなかなか暇だなあと思う。
 状況整理のため、部屋を睥睨した。
 日光の筋を漏らすステンドガラス、肌寒さを感じるような静寂は吸血鬼の館というよりもむしろ、教会に近い。まあ、レミリアは十字架が嫌いでないからそんなことはどうでもいいのだが、色ガラス越しとはいえ、日光を浴びていると憂鬱になってくる。
「なんなんだか……」
 まったくパチェも、見かけによらずお節介だ。
 はっきり言ってレミリアは、自分達姉妹の仲がそれほど険悪だとは思っていない。会話だって互いに笑わないことを置いておけばごく普通であるし、たまに一緒にとる食事も、互いに全く目を合わせない事実を伏せておけばごく健全である。フランだって全体的に狂っていることを除けばごくごく善良な少女であるから、別に好んで自分との関係を悪くしたりはしないのだ。
「うん」
 姉妹間全く問題なし、とレミリアは結論付けた。
 まったく、パチェは先走りである。
 つまり、今回の件で、言われた通り素直な行動をとる必要はどこにもない。
「完璧ね……」
 あまりに筋の通った自らの理論にレミリアは身震いさえした。
「んー」
 背丈の一倍半はあろうかというコウモリ羽を左右一杯に開き、ずっと同じ姿勢で固まっていた筋肉を伸ばす。
 さて、これからレミリアに出来る行動は三通り程度存在するのである。
 ひとつは、パチュリーや咲夜のことをとりあえず忘れておいて、どこかへバックレてしまうことだ。行き先は博麗神社でも香霖堂でも構わないが、出来れば目的地までの道のりに雨避けが多いとよろしい。きっとパチュリーが妨害の雨を降らすであろうから。
 ふたつめは、この場を動かずに約束自体を握りつぶしてしまうことだ。提案を頑なに拒んで聞き入れなければ、まあ、無理強いはされないだろう。パチェ喘息だし。
「ふむ」
 レミリアは羽の先をいじりながら息をついた。
 とりあえず二つの案を挙げたわけなのだが、いずれも自分にはそぐわないと思える。
 バックレる? 頑なに拒む?
 美しくない。スマートではない。そう、それらは熟練の紳士足り得る行動でないのだ。
 レミリア・スカーレットはヴァンパイアである。夜の帝王である。ましてや紅魔を統べる主である。
 領主というのは何もしなくていい。その代わり、カリスマだけは失わずに保っているべきなのだ。
 先に挙げた二つの行動はその信念にそぐわない。まるで聞き分けのない子供のようではないか。
「ふん」
 鼻をならす。
 レミリア・スカーレットはそのようなことはしない。レミリア・スカーレットは他者に比べていつも優れているべきである。レミリア・スカーレットの客観はパーフェクトでなければならない。レミリア・スカーレットは常に至高の存在である。
「つまりだ」
 レミリアは、この件に関して逃げも隠れもしない。出来る限り最高の真正面から突っ込み、圧倒的な力ずくで相手の目論見を打破して見せるつもりだ。
 これが三つ目の選択肢である。
 まぁ、具体的な方法は何も決まっていないのだが、気持ちと信念が大事だ。
「さて、どうしようかしら――」

 広間の扉がはじけるようにして開いた。力いっぱい押されたそれは古めかしい音をたてながら入り口を全開にする。廊下の赤が目に入り、あわただしい足取りが聞こる。内外の気温差で起こった気流が、伸ばしたレミリアの羽をかすかに揺らし去っていき、気付いたときには広間に人間のようなものがひとつ転がり込んできていた。
 人間のようなものは、滅茶苦茶な息遣いでその場にへたり込む。自分が入ってきた入り口を伺い、左右を見回してから天井へ向かって大きな息を吐き、眼前へ視線を戻して、
「あー……」

 しまった、という顔をした。

☆ ☆

 マジ意味わかんないのだと。
 蓮子は物理法則に従って、自分を取り巻く状況に対し説教をかましたかった。
 勢い余って結界の綻びに突っ込みました。
 ここまではいい。許す。蓮子自身が悪いのだ。弁明のしようもない。甘んじて受けよう。
 結界を抜けたら紅い館にいました。
 駄目だ。ここからは許せない。蓮子の常識の範囲ではない。結界を抜けたときに現れていいのは桜と墓場と雪国くらいのものである。
 しかもなんか追いかけられてます。
 最悪だ。理性すら追いつかない。空飛ぶ悪魔が叫び、ナイフが飛び交う赤い廊下。有無を言わさぬ形相で過ぎ去ってゆく時の流れに、蓮子はただひたすら疲弊するしかない。
 唯一の救いとしては、そこらそこらに突っ立っている妖精みたいなメイドたちが御しやすかったことである。普段からポケットに入っている一見ゴミのようで実は価値があるように思えてやっぱりゴミである輪ゴムや針金などをみせびらかしてやったら、親切に道を教えてくれた。
 そうして廊下を走り、扉を開け、また走り、曲がり、階段を昇って、最上階と思える場所まできて、その広間に入って。
 蓮子は思い知った。
 あの妖精メイドたち、親切なわけではなかったのだ。
 ヤツら、自分をからかっていただけなのである。
 教えてくれたのは現実への道順でなく、幻想への入り口だったのだ。
 最上階の広間へ転がり込んだ蓮子が見たのは、かったるそうに玉座へ座る女の子だった。
 幼女と言ったほうが的確かもしれない。
 更に悪いことに、その幼女の瞳は血のような紅色だった。加えて猛獣のような犬歯が見えた。体長の二倍はありそうなコウモリの羽を持っていた。
 蓮子は結論に至る。
 ヴァンパイアじゃん? こいつ。
 晴天の日中にもかかわらず、幼女の背景に雷鳴が轟いた気がした。
 そうして蓮子は、
「あー……」
 しまった、という顔をした。

 転がり込んだ蓮子と、多分館の主である幼女。
 お互い何も言わぬまま、時が過ぎる。
 静謐と静寂の広間で動くものは日光の筋に照らされた埃くらいのものである。
 幼女は、猫科の動物が獲物をうかがうような目つきで蓮子を見ていた。
 対する蓮子は、ナチュラルに彼女から視線をそらす。
 やべえよどうしようこれ。あれか、何とかして言い訳するか。この場での言い訳は自分が生きてきた中でも難易度ベスト三に入るくらい困難な状況だ。例えて言えば、そう、夏休みの宿題なんて九月に入ってからでウルトラ余裕じゃんとか思ってて、いざ九月に入ってみたら一ヵ月半前に家のどこぞへ放り投げておいた夏休みの友が行方不明。これでは答えを写すことすら不可能で、仕方なく徒手空拳で登校したら、案の定、教壇の前で尋問を執行されることになり、これはもう仕方がないと開き直りつつ、私に友達なんて要らない! と叫んだら、クラスメイトからは笑いを取って担任からはゲンコツを頂いたあのときの状況に似ている。
 要は、大ピンチである。
 とりあえず言い訳を考えよう。
 自分はこの地に生活を営む原住民で、今日は気分が良いついでに遠出の散歩などしていた。続いている道なりに歩いていたら、ふと目に入ったこのお美しい館の造りに惹かれ、無礼と知りつつ立ち入ってしまいました。失礼は重々申し上げております。どうかここは、国歌をアンサンブルしながらお互いの愛国心を確かめ合うことで許しては頂けませんでしょうか。
 どうだ。
 なかなか悪くない。
「貴女……」
 蓮子は脅かされた猫のように体を弾けさせた。
 声をかけてきたのはもちろん、目の前の玉座に座っている幼女である。
 彼女は相変わらず無表情で言う。
「……ここの人間じゃないでしょう」
 やべ、ばれた。一瞬でばれた。口に出してもいない言い訳を一刀両断の元に切って伏された。ここ、とはおそらくこの地域だか国だかのことを指しているのだろう。だとしたら、この幼女の推理は大当たりである。
「ぁ……ぃや……」
 蓮子の口から漏れるのは、言い訳にすら聞こえぬ空気の流れでしかない。
「困るのよねぇ」
 幼女は更に言葉を続ける。先ほどよりは幾分かやわらかいニュアンスのあるその台詞に、蓮子は若干の希望を見る。が、
「幻想郷の外の人間は契約外だから――」
 幼女は舌なめずりをして、
「――襲ってもいいんだもの、ねえ?」
 壮絶な笑みを見せた。
 先ほどの希望などいっぺんに吹き飛んで、蓮子は絶望する。
 がたあんと音を響かせて、玉座から立ち上がる幼女。
 蓮子の頭はぐるぐると回った。
 やばい、これは喰われる。間違いなく喰われるぞ。でもヴァンパイアは肉じゃなくて血を吸うんだから、割と生きてられるかもしれない。吸われたらゾンビになってしまうから、もう昼に走り回れないのか。いやでも夜も結構いいんじゃね? 私は好きだよ? ああいやそうじゃなくて、今は今の状態から脱出する手段手法を用法容量を守って正しくすぐさま捻りださないといけない訳で。
 幼女はコウモリ羽を左右にピンと伸ばし、ゆっくりした足取りで近づいてくる。
 考えろ、考えろ宇佐見蓮子。ヴァンパイアっていったら妖怪の中でもトップクラスに弱点の多い生き物だったはずだ。ええと、ニンニク! 持ってない! 十字架! ねえよ! 聖水! 銀の銃弾! 心臓に刺す杭!
 全部なかった。
 すぐ目の前に幼女……ヴァンパイアの顔。
 もう頭の中から出てくるものは、走馬灯くらいである。
 ああなかなか楽しい人生だったなあでもやっぱり心残りといえばええっとなんだ、物理の真理を覗ききれなかったことと、メリーにさよならいえないことだ。メリーと最後に交わした言葉はなんだったっけ、えーえー、『どこメリー! 逃がさないわよ!』これは違う、会話してない。『あ! ちょっとメリー! まちなさい!』これも会話じゃない。もうちょい前だ。
 そうして思い至った。
『大きな秋を探そうと思うのよ。メリー』
 ああ、これか、これがメリーとの最後の会話か。
 じゃあ全てを統合して結論を言えば、自分は大きな秋をメリーと一緒に探せなかったことが一番の心残りということになる。よしやった、走馬灯の野郎を分析しきって見せた。やったぞ自分。
 限界だった。
 割と涙目だったかもしれない。
「大きな秋……探したかったなあ……」
 自分で聞いてても意味不明だろう台詞が口の端から漏れた。
 蓮子は大きく深呼吸をし直し、せめて最後の抵抗として相手を睨みつけてやろう、と思った。
 落としていた顔を上げなおす。
 目の前のヴァンパイア……幼女は。
「大きな、秋?」
 悩んでいた。
 首を傾げ、指をあごの下に置いていた。
 蓮子はずっこけた。
 え、あれ、何で悩んでんだこの人。もしかしてあれか、スフィンクスみたいに謎かけを出してこの場を打開しちゃう知的蓮子ちゃん展開か。それとも幼女が脅してきたのは冗談でしかなく、本当は自分と一緒に遊んで欲しかっただけなのさ的なこけおどし展開か。
「大は――」
 蓮子はまたビクっと体を弾けさせた。
 もちろん言葉を発したのは眼前の幼女以外にありえない。
 幼女は傾げていた首を正位置に戻し、両手首を胸の前で曲げるカマキリのようなポーズをしながら言った。
「大は小をかねる」
 それを聞いた蓮子の返せる言葉は、仰る通りで御座いますマダム、くらいしかありえなく、現実的な選択肢としては沈黙が最も有効だった。
「小さな秋よりは、大きな秋のほうが強いわ」
 仰る意味が分かりませんマダム。
「強くて、美しいわ」
 言い直した。
「貴女……」
 幼女は大きな瞳で蓮子の顔を覗き込んでくる。
「貴女、『大きな秋』を知っているの」
 ここで否定なんかしたらどうなるか分からない。蓮子はぶんぶんと首を上下に動かすしかなかった。
「もしかして、外の世界の秋」
 ぶんぶんぶんぶんと引き続き首を降り続ける。
 幼女は再度首を傾げ、指をあごの下に置き、よく通る声で言葉を吐いた。

「貴女、外の世界へ帰してあげてもいいわよ」

☆ ☆

 蓮子が帰ってきたのは、思ったよりもずっと早かった。
 スキマへ突っ込んだ翌日の、夕方である。
 その日メリーは朝から寝不足だった。
 もちろん、昨夜、蓮子が心配でなかなか寝付けなかったためなのだが。
 朝起きて顔を洗って朝食を食らい、パジャマから私服に着替えて、昨日蓮子を飲み込んだスキマを見に行った。
 変化なし。
 次に蓮子の携帯電話へコールし、つながらないことを確認してから、蓮子のアパートまで歩いてチャイムを押す。返事はなかったが眠りこけている可能性もゼロではないので、一応、ピッキングで侵入する。が、やはり蓮子は居らず。
 諦めて自宅まで帰ってき、遅い昼食をとってから昼寝を試みる。
 そうして夕方辺り、メリーが気持ちよく寝入っている時に、自宅のインターホンが鳴った。
 ぴんぽーんぴぽんぴぽんぴんぴんぴぽーん。
 滅茶苦茶な鳴らし方だった。
 眠い目をこすりこすり玄関へ這い出し、扉を開けると、あっけらかんとした表情で蓮子がいた。
「眠そうねえ。どうせお昼ごはん食べた後、昼寝でもしてたんでしょう。牛になるわよ、メリー。胸の辺りはもう手遅れです」
 頭蓋骨を蹴り飛ばしてやったら、町内に響き渡るくらい良い音がした。
 以上が、蓮子とメリー再会の手順である。

「……で、蓮子。何か言うことは」
 夕暮れに濡れる喫茶店のテラスで、メリーは刺すような視線を蓮子に浴びせている。
「ヒーローは遅れてやってくる」
 蓮子に動じた様子はなく、平然とカフェオレを啜っていた。
「ものすごく心配したのだけれど」
 押し殺してはいるが、メリーの言葉からは肌に痛いほどの怒気が伝わってきていた。
「ごめん、ごめんってメリー。でも私だって好きで結界の綻びに突っ込んだんじゃないのよ。あれは事故なんだから、仕方ないじゃない」
「それはそうだけど」
 メリーはひとまず椅子に座り直し、息をつく。
 蓮子は帰ってきた。自分は安心した。それはもう明らかなことである。メリーが一番疑問なのは、そこではない。
 机の上でずいと顔を突き出し、蓮子へ問うた。
「どうやって向こうから帰ってきたの、蓮子」
 そうして、残り少なくなっていたカフェオレをぐいっと飲み干した蓮子は再び馬鹿げたことを言い出したのである。
「それなんだけど」
 次に彼女から放たれた言葉に、メリーは耳を疑うしかなかった。
「今日の夜、またあっち側へ行くのよ」
 今のメリーは、蓮子の高度なユーモアを笑って流せるほど沸点が高くは無い。
「自分が何を言ってるのか分かってる、蓮子」
 落ち着くために手に取ったコーヒーカップはぶるぶると震え、メリーの内心を見事に露呈している。
「いや、だから、ちょっと約束しちゃってさあ」
 テラスのテーブルを派手に叩く音が聞こえた。
「何言ってるのよ蓮子! 一体全体どうやってあっちから帰ってきたのか知らないけれど、もう一度同じように上手くいくと思ってるの!?」
 言いながらばしんばしんと机をぶっ叩き立ち上がるメリーに、喫茶店中の視線が注目していた。
「サークルで二人で行くならいいけれど、私を置いて一人でなんてっ!」
 他人から聞けば、別れ話のようである。
 非常に恥ずかしい。
 しかしやはり蓮子はのんべんだらりと言うのだ。
「大丈夫らしいのよ。運命なんだってさ」
 全く持って意味不明である。
 メリーはぷっつんしてしまいそうだった。
 そうしてもう一回怒鳴ってやろうと開けた口は、あっけなく蓮子の手のひらでふさがれたのである。
「それでね? メリー」
 蓮子は普段は表情豊かなのに、肝心なときには真意の読めない顔になる。
「メリーにちょっと預かって欲しいものがあるのよ」
 はあ? とメリーは思った。
 もう何から何まで分からない、と。
「私はね? 約束は守るけれど、それよりお人よしな事はしないの」
 だから、意味が分からない。
 そうして蓮子は、
「これなんだけど」

 とあるものを差し出してきた。

☆ ☆

 紅魔館。
 地下図書館。
「全く」
 親愛なる蔵書の元へ戻ってきたパチュリーは息をついた。
「なんだったのかしら……」
 例の侵入者騒ぎである。
 特定以外の人間と戯れるのもたまにはいいかなあと思ってパチュリーが図書館を出た直後に、警戒態勢が解除されてしまった。
 曰く、
『侵入者はお嬢様が捕獲したので、あとの処置はお嬢様に任せるように』
 だそうである。
 人はこれを骨折り損と呼ぶ。
「まあ」
 まあしかし、状況をかんがみれば好都合ではあったのだ。自分はこれからレミリアとフランドールに対する処置を考えなければならないし、場合によっては、逃げ出す吸血鬼相手に大規模な降雨の術式をかかねばならないかもしれない。
 ええと、まずは、そう、なんだ。小さい秋だったか。自分で提案したことなのにいまいちよく思い出せないが、まあ間違ってはいまい。
「ええっと……」
 図書館を出る前に、赤い箱に入れて椅子の下に置いておいた筈である。
 パチュリーは、そろそろぼきんと折れるんじゃないかってくらい細い腰をかがめ、椅子の下を覗き込み、変な声を上げた。
「あら」

 確かに置いた筈の、赤い箱が見当たらなかったのである。

☆ ☆

 蓮子がメリーの目の前に差し出してきたのは、目に痛いほどの赤色をした箱ひとつだった。
「……なにこれ」
 当然メリーは聞き返す。懐疑的な視線と共に、貴女正気ですか的なメッセージを発しながら。
「向こうから持ってきたのよ」
 知り合いの家からお菓子を持ってきたみたいに言う蓮子。
「約束は守るけど、同時に、ぎゃふんとも言わせてやるつもりなの」
「いや……もうちょっと説明してくれないと分からないんだけど」
「とにかく」
 蓮子は赤い箱をつついた。
「私は今日、満月の夜、もう一度あっちへ行くから。必ず帰ってくるから。それまでメリーはこれを預かっておいて」
 どうやら有無を言わせてはくれないらしい。
 蓮子はいつもこうだ。
 だいたい、とメリーは思う。
 だいたい、蓮子はやること話すこと、人へ向かって口に出す場合には、もう既に自分で答えを決めてしまっていることがほとんどなのだ。
 自分ではもう答えの決まっている議論を、他の人にふっかけて反応を楽しむのである。
 昨日の『大きい秋』だかなんだかだって、蓮子の中ではもうある程度答えが決まっていたに違いない。その上で、メリーに問いかけのようなことをして遊ぶのだ。
 全く、底意地が悪いとしかいえない。
 ただ、それでもメリーが蓮子と親友なのは、やはり蓮子の結論がそうは間違っていないからであり、メリーがその結論を信用しているということでもある。
 メリーは大きな、大きな大きなため息をついた。
「分かったわ」
 テーブルの中央に置かれた赤い箱を指差す。
「何も聞かずに、その箱を預かります」
 それを聞いた蓮子は、ぱっと笑顔になり、さすがメリー、愛してるわあ。などと抱きついてきた。
「ただし」
 メリーはそんな蓮子のほっぺたを人差し指で突き返して、彼女を制する。
「条件があるわ」
 これだけ自分を困らせておいて、黙って行くなど許せなかった。

「あっち側へ行くときの見送りはさせて。それくらいはいいでしょう?」

☆ ☆

 仕事に一区切りが付いた咲夜は、自分の腰をとんとんと叩いてから、今のはちょっとおばさん臭かったかなと自省した。
 どうも、時を操っていると、同年代よりも早く年をとってしまいそうな気がする。
 懐の時計を見た。もう夜だ。一日は短い。
 ただ、自分は吸血鬼のメイドであるからして、これからが本番なのだが。
「ええっと……」
 咲夜は指で頭を叩き、これからの予定を整理した。
 まず、お嬢様とフランドール様の着替え、のち、満月が頂点まで昇ったころあれだ、なんだったか。自分が見つけた小さい秋をフランドール様のところまで持っていって、順に見せるのだったか。
 ぽん、と手を叩く。
 そういえば侵入者を追っていたときに赤い箱に入れて、適当な所においてからそれっきりである。取りに行かなければ。
「ふーむ」
 顔を上げ、箱を置いた部屋まで歩く。
 しかし、思った以上にお嬢様とパチュリー様に動きがなかった。咲夜の見立てではもうちょっとごたごたが起こり、仕事が滞るかなと思っていたのだが。まあ、平和なことはいいことだ。
 そうして、目的の部屋の前まで着き、扉を開けた。中を確認する。
「あら?」
 部屋をぐるっと睥睨するが、お目当てのものが見つからなかった。赤い箱のことである。
「……部屋を間違えたかしら」
 いや、そんなはずはないのだ。簡単に部屋を間違えるような記憶力で、メイド長は務まらない。
「……」
 しばし思慮にふける咲夜。
「昼の侵入者?」
 一瞬妥当のようにも思えるが、よくよく思い出せば、ヤツが階段へ昇っていったのを確認してから箱にブツを入れたのだから、いまいち順番が合わない。
「と、すると」
 小さな秋の一件に関係している者だろうか。
 そういえば、先ほど咲夜は、レミリアとパチュリーの間に思った以上に動きがなかった、と感じていた。
 これが、その『動き』なんだろうか。
「お嬢様かしら」
 パチュリーと咲夜の見つけた秋を握りつぶして、全部なかったことにする。あら、みつからなかったの、それじゃあしょうがないわねえ、などとのたまいながら登場するレミリアが想像される。
「うーん……」
 いやしかし、お嬢様に限ってそんなことはないだろう。同じ握りつぶすなら、咲夜、そいつを渡しなさい。いますぐこの場で消し炭にしてあげるから。くらいストレートに言ってくる方が自然だ。加えて、咲夜はその命令に逆らえないのだから。
「どうかしら……」
 考えていても仕方がない、と咲夜は結論付けた。
 今までの考えは全て、一番単純な状況しか想定していないのだ。もしかしたら、咲夜には及びも付かない複雑な事情が混ざり合って、この紅魔館を支配しているのかもしれないし、そうなると、その場に存在する役者達がいつも通りの自然な行動をとるとも限らない。
 咲夜にできることはやはり自らの主人を信じることでしかなく、となれば、最優先事項は。
「今日の晩御飯は何にしようかしら……」
 ぶつぶつと頭の中で献立を組み立てながら、咲夜は紅魔館の陰気な廊下へと消えていった。

☆ ☆

 夜である。
 空に見える雲はなく、見事な満月だ。
 月光に照らされたアスファルトは冷たい輝きを放ち、日中のぬくもりなど微塵も感じさせない。
 しかも立っている場所が建物の間に挟まれた細い路地裏、加えて目の前に結界のほころびまで存在するとなれば、メリーの感じる肌寒さは本物である。
「遅いわね、蓮子」
 喫茶店で話したあとに、蓮子は用意するものがあるから、と言って一度別々になった。
 何を用意するのかは知らないが、あちら側へ持っていかなければならないらしい。
 その際、確かにこの場所で待ち合わせといったはずだ。飲まれた隙間のあった場所、今日の満月が頂点に昇る少し前、と言い捨てていった。
 割と軽めに言葉を吐いていったため、どうも信用ならない。
「……一杯食わされたかしら」
 そう考えると、冬の気配さえ感じる秋の長夜、両手をさすって突っ立っている自分が阿呆に思えてくる。
「いや、さすがにそれは――」
 ないだろう、と呟いたさなか、静かだった夜の街に、盛大な駆け足の音が響く。
「あ、蓮子?」
 路地から通りへ顔を出したメリーが見たのは、
「メリー! どいて!」
 いつかの出来事を思い出しそうな全力で走りこんでくる蓮子だった。
「は!? 蓮子、なんで走ってるの!?」
 すごいイイ笑顔で彼女は答えを返した。
「なんとなく!」
 ああやっぱりだ、やっぱり蓮子は最後まで意味が分からない。きっと蓮子の脳内では最初に走りながら突っ込んだんだから今度も走りながら突っ込まなきゃいけないんじゃねえかという妙な義務感からきているのだろうが、メリーから見たら同じ過ちを繰り返しているドンキホーテにしか見えないのだ。だからメリーがどんなに蓮子を信頼していようが心配の種は尽きないわけであり、率直に言うなら箱なんか預からずにさっさととめておくべきであったのだと。
「じゃあメリー! いってきます!」
「ちょっと!」
 やはり蓮子は、いつかのようにメリーの脇を奇跡的なスピードですり抜けて、すぽおん、と、そんな音を錯覚してしまうくらい見事にスキマへと呑まれていった。
「……」
 後に残されたメリーからかけられる言葉は当然のように存在せず、ひゅるると吹くこがらしに自慢の金髪をなびかせるので精一杯である。
 全く関係ないが、突入する蓮子は小脇にとあるものを抱えていた。あれが、あちら側で必要なものなのだろうか。
「はぁ」
 メリーは最近とみにため息多い。考えるまでもなく明らかに宇佐見蓮子の責任である。
 蓮子から預けられた、赤い箱を見つめ、メリーはふてくされたように言葉を吐いた。

「いってらっしゃい、って言いたかったのに」

☆ ☆

 レミリアが人間をあまり信用しなくなったのはいつ頃からだったろうか。思い出せる限り、嘘吐きという三文字単語を知らなかった時代はない。
 だから今回の件に関しても、レミリアはそれほど人間を信用してはいなかったし、もし外側に帰したまま戻ってこなければ、それもまた一つの運命じゃねえかなあということで大らかに受け入れてやるつもりであった。

 レミリアが件の人間とした約束は二つだ。
 ひとつ、人間を外の世界へ帰してやる。
 まあ適当に運命視して無事帰れそうな方角を教えてやった。それで十分なのである。それが自分の能力なのだから。
 ふたつ、フランドールのいる地下で最も映える、『大きな秋』を向こうから持ってくること。
 大きな秋、それはいい。
 きっと小さな秋に勝る秋だろう。
 大は小をかねる。ここまではいいのだ。
 問題は、その『大きな秋』が、フランドールの部屋でも存在できるかである。
 そう、持ち寄った秋を披露するのはフランドールの幽閉されているはるか地下室なのである。
 例えば野山の銀杏並木。これはこれで雄大な秋だろうが、フランドールの部屋まで運んで見せることは無理だろう。『大きい秋』がそのようなものだと意味を成さない。
 そもそも地下室は真の真っ暗闇である。人工的な壁と床で囲まれて、地面も露出していない。そんな中でも存在を主張できる秋でないといけないのだ。いや、そうでないと、美しくない。完璧でない。
 だからレミリアは、件の人間をフランドールの部屋まで連れて行き、実際に見せてやった。
 この場で最も映える秋を持ってこられるか、と。
 それなら、外まで帰してやってもいいぞ、と。
 件の人間は、悩みながら、真っ暗なフランドールの部屋をそこらじゅう嗅ぎ回った。
 何かを見つけ、じっと見つめることを数回繰り返した。
 そうしたのちに、はっきりとした声色で確かに、『できる』と断言したのである。
 というわけで、レミリアは件の人間を向こうに帰してやることにしたのだ。


 忌々しいお天道様は、とうの昔に月と役目を交替し、今現在、広間の玉座に座るレミリアを照らすのは月光のみである。
 なんだか今日は一日中玉座に頬杖を付いていた気がするが、それもまた長い人生においては余興にしか過ぎない。
 レミリアがそれほど人間を信用してはいない、とは先ほど述べた。
 だから冷静に考えるのならば、もし、件の人間が帰ってこなかった場合の自分の身の振りかたを、ぼちぼち思案しておかなくてはならないはずである。
「……」
 しかしレミリアは、特になんも考えずにぼーっとしていた。もし件の人間の当てが外れたら、いっぺんで情報弱者に陥るくらい。
 何故か。
 それはレミリア自身が一番よく知っているだろう。
「ふぁ……」
 鋭い八重歯がまるまる見えるくらい大きなあくびをする。
 多分、件の人間は戻ってくるだろう。
 決まっているのだ。
「ん」
 今日二度目、大きく重く、古くて立て付けの悪い広間の扉が開く音がした。
 扉の向こう側からやってきたのは、きっと件の人間である。
 何故か。

「へいおまち!」

 そんな運命が、なんとなく見えたからである。

☆ ☆

 もちろん、フランドールは秋なんてどうでもよかったのだ。
 ちょっとパチュリーの困った顔が見られればそれで十分で、要は限りなく暇だったのである。
 それを反抗期ととられるかどうかはフランドールの知ったことではないが、面倒くさいことになったのはまた事実である。


 満月は夜の頂点に昇っているが、そんなこと、この場では一かけらほどの価値も持たない。
 地下の地下も更に地下、おそらく、地獄を除けば幻想郷で最も地球の中心に近い場所。土中の牢獄、フランドールのお部屋である。
 普段真っ暗なこの部屋の中央に置かれた丸テーブルに、一本だけロウソクの火が立てられており、あたりをぼんやりと照らし出す。その周りを囲むのは、右から順にパチュリー、咲夜、レミリア、そしてフランドールの四人。まるで百物語をするような、少なくとも、あまり明るいイベントの光景とはいえない。
 そんななか、パチュリーが口を開いた。
「……というわけで」
 一つ咳をする。
「紅魔館、妹様に秋の何たるかを納得させる会を始めます」
 肝心のフランドールは全くやる気なく、ぼけっとした表情で天井の遠い所を見つめていた。
 そもそも大げさなのだ。
 きっとパチュリーは、自分を反抗期だと騒ぎ立てて、この機会にあいつと自分の仲を少しでも改善してやろうという魂胆なのだろう。
 そんな手には乗ってやらない。
 はっきり言ってフランドールは、自分達姉妹の仲がそれほど険悪だとは思っていない。会話だって互いに狂っていることを置いておけばごく普通であるし、たまに一緒にとる食事も、互いに狂っている事実を伏せておけばごく健全である。あいつだって全体的に狂っていてお節介で我侭で意固地で見栄っ張りなことを除けばごくごく普通の姉であるし、別に好んで自分との関係を悪くしたりはしないのだ。
「……」
 姉妹間に全く問題はないんじゃないかなあ、と、フランドールは相変わらず何もない天井を眺めながら結論付けた。
 決まりである。
 小さく頷く。
 自分が、このわけの分からぬイベントで何らかの心変わりをする必要はない。
 とりあえずあちら側の出してくる『小さな秋』とやらを眺めておいて、適当に流してやろうと。
「じゃあ、最初に私がいくわね」
 そんななか、パチュリーが名乗りを上げた。
 懐から赤い箱を取り出し、いそいそとテーブルの逆側に回る。
 あの赤箱は、以前に紅魔館でパーティを催した際、余興のプレゼント交換で使ったものだ。
 だから、当時紅魔館に在籍していた人妖はみんな一つずつ持っているはずである。捨ててさえいなければ。
 フランドールもまだ持っている。
 ……なんか入れてたっけ。
 ごほん、とパチュリーがみなの視線を集める。
「小悪魔が箱を違うところに移動したりして、ちょっと探したりもしたけれど……」
 そうして、箱を開けた。
「私の小さな秋は、これです」
 出てきたのはやはり、一冊の本である。パチュリーらしいといえばらしいのだが、あまりにも予想通りでつまらない。
「これを私に?」
「はい、この本には秋の何たるかが余す所なく万遍に書かれています。これを一冊読めば、妹様も秋に関して知識人間違いなしです。秋だけでなく、他の四季についてもその概念が語られており――」
 怪しい勧誘のようだった。
「……じゃあ、次は私ですわね」
 出てきたのは咲夜である。
 言い足りなさそうなパチュリーを押し出し、やはり、例の赤い箱を抱えて皆の前に立った。
「妖精メイドたちがいたずらで隠したりしてちょっと困ったりもしたのですが……」
 赤箱で遊ぶのが流行っているんだろうか。
「こちらです」
 咲夜が箱を開け、取り出したのは時計だった。
 銀縁の、割と高価そうな懐中時計。
 ただ……。
「咲夜、その懐中時計、動いていないじゃない」
 パチュリーが指摘した通りである。
 ロウソクの淡い光にぼうと照らし出された銀の懐中時計は、仕事である時を刻むことなく、沈黙を保っていた。
 ただ、咲夜は動じていない。
 あくまで瀟洒に、事の次第を説明するのみである。
「ええ、仰るとおり、この時計は止まっていますわ。ゼンマイ切れのようですが……まあそれはいいでしょう」
 そして、懐中時計の文字盤、ある地点を指差した。
「皆様に見ていただきたいのはこちらです」
 全員の視線が一点へ集まる。
 文字盤には、当然一から十二までの数字、そして長針、短針、秒針が付いている。
 ただ、咲夜が指差したのはいずれでもなく、文字盤の少し右下の辺りにある――
「この時計についている、日付表示ですわ」
 その懐中時計は、時間だけでなく、日付も刻む時計だったのである。
 そうして、時を刻まない時計の日付は。
「八月七日で止まっています」
 咲夜は言うのだ。
「八月七日は、一般的に立秋です」
 咲夜以外の一同はずっこけた。
「この時計は、その立秋の日付を指して止まっています。つまり、日本人の誰が見ても、この時計は暦の上で秋を表しているのです。これこそ、日本人全員が認める、秋の証ですわ」
 確かに、紛れもない秋である。
 一寸の隙もなく、定義的に秋だ。
 咲夜らしいといえば全くらしい。
 しかし、まあ。
「じゃあ最後は私かしら」
 そして薄笑いを浮かべて立ち上がったのは、誰でもない、フランドールのお姉さまであった。
「あらお姉さま、いつの間にいらしたの」
 義務だと思ったので軽口を叩いてみるフランドールだが、レミリアは一切気にした様子なく全員の前に立つ。
 とりあえず言っておく。
 フランドールは実の姉に、全く期待などしていなかった。
 あいつは口ばっかりだと、そう確信していた。
 考えても見ろ、単純な力比べをすれば、フランドールはあいつに負ける気はしない。しかし、フランドールでも、この地下室の、結界でがんじがらめにされた天井に力比べを挑んで勝てる気はしない。つまり、そういう観点から考えていけば、あいつの力は天井にも劣る。
 加えて、単純な速さを勝負すれば、フランドールはあいつに劣る気は微塵もしない。しかし、フランドールでも、この天井を突き破って走り出すことは出来ない。そういう観点から考えていけば、あいつの速さはこの地下室の天井にも劣る。
 あまつさえ、あまつさえもだ。
 あまつさえもあいつは、自分のことを、妹の事さえめったに見てはくれないではないか。もし回数で比べたとするならば、あいつよりはこの地下室の天井の方が自分を見ている回数はずっと多いはずで、そういう観点から考えていけば、あいつの姉度は地下室の天井にも劣るのだ。
 みたことか。
 あいつは、こののっぺらで真っ暗な天井にさえ勝る部分がない、ただ単に五年早く生まれただけの運命で紅魔館を仕切っている、傍若無人な文字通りのスカーレットデビルなのだ。
 だから、フランドールはレミリアに期待しない。
 喧嘩もめったにしないが、期待することはまずありえない。
 あいつに期待するくらいなら、この地下室の天井を眺めていたほうがまだ希望が持てるではないか。そうではないか。
「私の見つけた秋は、小さな秋なんかじゃないわ」
 あいつの声が聞こえてくる。別に声が聞こえたからって、フランドールの感情にさざなみが立つわけじゃない。そんな時期はとっくに越したのだ。
 行動で表すならば、フランドールは眼前にたったレミリアの方を一見さえもせず、ぼけっと天井を眺めていた。このよくわからんイベントが始まったときと同じだ。ただ無気力に、遠くを見るような瞳で天井を見つめる。姉よりも頼りになるこの地下牢獄の天井をみつめていた。
「私の見つけた秋は、とてもとても大きな秋」
 フランドールの視界の端で、あいつが何かを取り出すのが見えた。白い、筒のようなものだ。例えるならば、コーヒーカップを少し縦長に伸ばした感じ。
 そらみたことか、あんな粗末なもので、あいつはこの天井に勝ることが出来るとでも思っているのか。咲夜はいいのだ。あいつの命令に従いながらも、自分の事をよく見てくれる。パチュリーだって悪くはない。自分が外界の知識を得られるのもパチュリーのおかげだ。からかいこそすれ嫌うことはない。
 問題はあいつだ。あいつなのだ。あいつが、あいつが、あいつが――
 ふっと。
 明かりが消えた。
 フランドールの眺めていた薄暗い天井まで見えなくなった。
「フラン、よぉく見るのよ」
 あいつが、今日初めて自分に話しかけてきた。
 それで、頭に血が上った。
「……っ、……っ」
 フランドールは声も出ない。
 そうしたら負けだと分かっていても、あいつを思い切り罵ってやりたかった。
 あいつは自分が一番頼れる、地下牢獄の天井まで消してしまいやがったのだ。
 見えない、真っ暗である。真っ暗だったら何も見えない。当然だ。真っ暗だから。
 初めてこの牢屋に入れられたときも真っ暗だった。壁と天井に気付くまで、どこまでも無限な暗闇の世界で放り出されたのかと、本気で思っていた。
「これが、私の大きな秋」
 次の瞬間、目に光が入る。
 明かりが戻ってきたのだと、フランドールはそう思った。
 馬鹿なやつだ、明かりさえあれば天井も存在できるのだ。天井さえあれば、あいつに勝っている要素は存在しないのだ。
 フランドールはそれが義務だといわんばかりに天井を見上げる。
 そこに、フランドールの見慣れた天井はなかった。
「へえ」
 パチュリーが声を上げた。
「あら」
 咲夜も感嘆のため息をついた。
 フランドールは必死で天井を探す。
 ないのだ。見慣れた天井はないのだ。フランドールの付き合ってきた、のっぺらで薄暗い天井はそこにはないのだ。
 そこにあったのは、星空。
 天井よりも遥かに強い、姉の輝きだった。

☆ ☆

 天井に星々が描かれた瞬間、パチュリーはなかなかに驚いた。
 これはプラネタリウムというやつである。
 暗所の壁に、好きなように星を描く式。考えたものだ、秋の正座となれば、確かに大きな秋と呼ぶに相応しいかもしれない。
「ふふ」
 パチュリーはにやにやと笑ってしまった。
 他人事に無関心な自分が、何故こうにもスカーレット姉妹にお節介を焼いてしまうのか、どことなく理解が出来た気がしたのだ。
 フランドールに渡すためにパチュリーが持ってきた、例の本。
 その本の、秋について書かれた頁をぱらりと開く。
 この本には、秋について次のように書かれているのだ。
 秋は夕暮れ。
 秋は夕暮れが一番良い、という意味である。
「いやいや……」
 パチュリーはやはりにやにやと笑いながら、したたかにその説を否定した。
 当然である。

 秋は、距離感の微妙な姉妹を眺めているのが一番楽しいのであるからと。

☆ ☆

 天井がきらきらと光った瞬間、咲夜の脳裏にいいアイデアが浮かんだ。
 やはり、今日の自分は冴えていると思う。
 実の所咲夜は、今日の夕方からずっと悩んでいたのである。
 機嫌の悪いレミリア・スカーレットの世話をするのは非常に神経の削られる作業だ。
 しかしまあ、それをこなせるからこそ咲夜はメイド長のポジションを与えられているのであるし、咲夜自身も、機嫌の悪いレミリアを相手取ったいくつかのテンプレートは保持している。
 ひとつ、むやみやたらに持ち上げない。
 ひとつ、フランドールのことに触れない。
 ひとつ、さっさと飯を食わせて寝かせてしまう。
 どうだ、と咲夜は思う。
 普段ならば、この三つ程度のルールに従って行動さえしていれば、それほどに困ることはない。
 ただしかし、今回は違うのだ。
 今回は状況が悪い。
 並べてみよう。
 ひとつ、フランドールに関するイベントが催されている。これに触れないで行動することは難しい。
 ひとつ、そのイベントにレミリアが参加している。主人が参加した以上、結果がどうあれ褒め称えるべきである。
 ひとつ、こんな流れで、このあとは晩飯である。
 どうだろう、状況は最悪だろう。

 というわけで、咲夜はどうしたものかとずっと悩んでいたのである。
 しかし、それももう終わった。
 レミリアが天井に星を召喚して見せた瞬間、閃いたのである、咲夜は。
 フランドールのことにさりげなく触れつつ、レミリアを慇懃でない程度に褒め称えながら実行することの出来る食事。
「うん」
 咲夜は頷いた。

 今日の晩飯はスターフィッシュで決まりである。

☆ ☆

 勝った、と。
 真正面から打破してやった、と。
 レミリアは確信した。
 間違いない。
 間違いなく、今の主役は自分なのだ。
 策を弄したパチュリー・ノーレッジでもなく、自分を了承に追い込んだ十六夜咲夜でもなく、芸を見るフランドール・スカーレットでもない。
 今の主役はレミリア・スカーレットである。
 自分が今この場で、一番のカリスマを放っている。自分が今この場で、一番強く美しい。今この場の支配者はレミリア・スカーレットだ。
 レミリアが見つけた、件の人間が持ってきた大きな秋は、天井に星々描く装置、プラネタリウムだった。
 空全体を描画する発想の大きさ。暗い密室でこそ真価を発揮するつくり。全て、今このときのためにあったとしか思えない、まるで専用にあつらえたパズルピースのようである。
 パチェと咲夜はプラネタリウムに対する一応の知識があるのか、ごく普通に驚いて、ごく普通に天井を眺めている。
 ただ、おそらく知識のないだろうフランの驚き方はすごい。
 先ほどまでは気力のなかった瞳に色をともらせ、何か別の生き物を見るような表情で、天井を食い入るようにみつめている。
 レミリアは胸を張りながら、そんなフランに声をかけてやった。
「どう、フラン。これが秋の星座よ。紛れもなく大きな秋でしょう」
「うん……すごい、お姉さま……」
「ん、んむ、あら、そう」
 もっと何か軽口が飛んでくると思っていたレミリアは、予想外の返答に拍子を外された。
 なんだ、フランのやつ、こんなに素直だったろうか。まあ、素直に越したことはないのだが、何か不気味ではある。
 そんなレミリアに、パチェが肘でつついて耳打ちしてくる。
「やるじゃないレミィ。もう妹様のハートをがっちりゲットね。私もこんなに上手くゆくとは思わなかったわ」
「え? い、いや、パチェ。そうじゃなくて」
 パチェに対して何か弁明をしようとするレミリア。しかし、そんな猶予も許されず、逆側にいた咲夜からも、やはり肘でつつかれるのだ。
「お嬢様、私感動いたしました。まさかお嬢様がここまでフランドール様のことを考え、行動していたなんて。例えわずかばかりでもお嬢様を疑っていた自分が恥ずかしく思います」
「いや、咲夜? そうじゃなくてね?」
 まーたまた、そんなこといっちゃってー、と自分より高身長の二人から背中をばんばん叩かれるレミリアは、むせるだけである。
「え、えぇ?」
 困惑するしかなかった。
 なんだ、なんなんだこれは。
 自分はこの場で誰よりも美しい秋を見せつけて、そのカリスマを証明したのではないのか。
 これじゃあ、まるで。
 まるで、パチェの策に乗って、まんまとフランと仲直りに成功したみたいな構図ではないか。
「お姉さま」
「っ」
 主役であるはずのレミリアは、脇役であるはずのフランから呼ばれ、まるでコウモリのように体を弾けさせた。
「な、なにかしら……」
 恐る恐る問う。
 フランはまるで尊敬する姉を見るような目つきで……いや、それは正しいのだけれど……レミリアのほうを見て、言葉を紡いできた。
「私、本物の秋の星座が見たい――かも」
 レミリアには黙って首を振ることしか出来ない。

☆ ☆

「で、結局」
 早朝の喫茶店。
 メリーはモーニングコーヒーのカップをテーブルへ戻し、眼前の蓮子へ向かって問うた。
「なんだったの」
 蓮子は相変わらずカフェオレを啜りながら、返答を吐く。
「なんだったのってなにが」
「向こう側のことよ。一体何があったの。っていうか、この赤い箱の中身は何?」
 蓮子はそんなメリーの疑問を聞きながら、だらーっとテーブルにへたり込み、それでも諦めずにカフェオレを啜っている。
 非常に行儀が悪い。
「開けてもいいの? これ」
「ぶっ! ぶわっ、むせた!!」
 案の定、蓮子は見事にのどへ物を詰まらせて、メリーの方へ咳をして見せる。
「……開けるわよ」
 そんな蓮子を哀れみの視線で見下しながら、赤箱を開封した。
「なにこれ」
 中から出てきたのは、一枚のぺらい紙だった。
「んん、いやさ」
 蓮子はまだごほごほとむせながら、そのブツについての説明をする。
「私があっち側に持っていったものは、簡単なつくりの卓上プラネタリウムなんだけどさ」
「うん」
 相槌を打つメリー。
「その紙の入った箱、そのプラネタリウムを投影する妹さんの部屋で見つけたのよ。なんか日記だか詩みたいな感じなんだけど」
「それで?」
 メリーは、その紙に書いてある文字を読む。
「いや、もし、その紙に書いてあることが本当で、それをあっちに知らせなかったら面白いことになるかなーって思って。知られないようにこっちに持ってきちゃった」
「ふーん」
 その、まるで呪文みたいに文字が書かれていたぺらい紙は、メリーの手から抜け落ちて、風に流されていった。


 あいつは星に触ることも出来ない。
 天井は星を隠すことが出来る。
 私は星を壊すことが出来る。

 だから、私が一番強い。

☆ ☆

 今日は十六夜だ。
 十五夜の次の夜だから当たり前である。
 レミリアはフランドールを連れて、無名の丘の遥か上空を飛んでいた。
「ほら、フラン。あれがオリオン座。冬の星座として有名ね」
 冷たい風に吹かれながら、夜空を指差す。
「それで、オリオン座の北東に見えるのがプレアデス星団。秋の終わりを告げる星よ」
 事前に予習しておいた知識を述べるレミリアの額には割と汗がにじんでいる。
「うん……ねえ、お姉さま」
「ん? なにかしら」
 フランは、ごくごく無邪気な顔でレミリアに問いかけてくる。
「あの星、お姉さまは欲しい?」
 レミリアは、うーん、と考えるしぐさをしてから、
「そうねえ、手に入ったら素敵かしら」
「うん」
 そこで、背筋に寒気が走った。
 恐る恐るフランのほうに顔を向ける。
「フラン……今、何かやった?」
 フランはやはり笑顔で返答するのだ。
「手に入りましたわ。お姉さま」
 ああやばい、かつてこれほどまでに空を見上げたくないと思った瞬間があっただろうか。レミリアの額から流れる脂汗は更に量を増す。
「その……どういう意味かしら」
 問いかけると同時に、レミリアはこわごわと夜空を見上げた。
 そこには、
 台形になったオリオン座があった。
 まるで、ベテルギウスとかその辺が吹き飛んでしまったかのように。
「……フラン?」
 自分の手を可愛くにぎにぎしているフラン。
 実際やっていることは可愛くもなんともない。
「ちょっと! 何やってるのフラン!?」
「あら、お姉さまが欲しいって仰ったんじゃない」
 三日月のような笑みで笑う。
「ぐ、あ、ああ、だから貴女は地下室なんかに閉じ込められるのよ! もう少し常識を考えて行動できるようにならないとずっと天井が友達に決まっているじゃない!」
「嫌だわお姉さま。そんな私を出してくださったのはお姉さまじゃないの。感謝していますわ」
 ああ、滑稽な星空に響き渡る姉妹喧嘩。
 せめてもの救いは秋の夜が長いことくらいであり、幻想郷最強である姉妹の喧嘩などバクも食ってはくれないだろう。
 結局の所、姉が強いのか妹が強いのかは不明なままであるが、それもまた一興、不明のまま放置しておくことが後の世のためであろうかと。

「壊したのは、星の光だけよ。百万年後にはまた光が届いて輝きます」
「ああもう! ああもう!」

 全くである。



おわり








 

 

 

 



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2008年2月23日 うにかた

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