伝説の女 〜凛さま、野球について語る〜
藤ねえはテレビに釘付けである。
3月もなかばの日曜日、大概のスポーツが開幕するこの時分において、無類の阪神タイガースファンの藤ねえは発狂しかねないほど興奮していた。
……ここだけの話、「大河」という名前は藤村の爺さんが大の阪神ファンだから、それにちなんで命名されたもの……らしい。本当のところはよくわからないが、そのことを藤ねえに聞いても、藤村一族の方々に聞いても、話がやたらめったら長くなりそうなので聞くに聞けない。
まず確実に、タイガーって呼んだ時点で藤ねえ逆ギレするし。
で、野球のオープン戦はたいていテレビ中継などされないのだが、たまーに金持ちの球団などの試合が放送されることもある。阪神と巨人の対決はなんかよくわからんが、伝統の一戦らしい。
セイバーは、朝食後の鍛錬ののち、「少し思うことがありますので」と一人で瞑想を始めた。どうも俺がいると気が散るらしく、締め出されてしまった。
そんなワケで、昼食には珍しくセイバーの姿がなかった。瞑想にふけって食べに来なかった、というよりは、単に寝過ごしたって線が有力だろうな。腹時計の彼女にしちゃ珍しいことだ。
……と、さっきから遠坂がぼんやりと画面を眺めていることに気付く。
昼食が終わり、もう日課となった遠坂の魔術講座(しごきともいう)が始まってもおかしくない時間帯だ。弓道部の顧問のはずなのになぜか家にいる藤ねえはともかく、遠坂はちゃんと目的があって俺の家に来ているのだ。遠坂はあんまり無駄な時間を使ったり使わせたりしないタイプなので、今のように空気が抜けたビーチボールみたいに中身がすかすかなのは珍しい。
あまりに気になったので、頬杖をついてため息を漏らす遠坂にその理由を尋ねてみた。
「……遠坂、どうかしたか?」
「え? あ……うん。なんでもないのよ。ただちょっと、懐かしいな、とか思ってね……」
「……懐かしい?」
遠坂は遠い目をしている。
画面に映っているのは平成の盗塁王と、平成の番長と呼ばれるナイスガイだ。むしろ藤村一族のようなほんまもんよりほんまもんっぽいのはここだけの秘密である。
――推測するに、つまり遠坂は。
「遠坂。道ならぬ恋だとは思うが、とにかく非合法な手段だけは取らないようにな。おまえは前科がいくつかあるんだし」
主に、『葛木先生にガンドを撃つ遠坂』とか『パニックソニックコースター』とかで。通り魔に公共設備の損壊、もう言い逃れなど出来はしない。
すると、遠坂はキャスターばりに素敵な笑顔を浮かべて、
「……それ、わたしだけじゃなくて選手にも失礼だから撤回してよね」
「はい」
ソッコーで撤回しました。てーか遠坂さんはどーして笑顔のまんま殺意を漲らせることができるんだろーなー。
……それはともかく、本当のトコはどうなんだろう。
「懐かしいって、どうして?」
「別に大したことじやないんだけどね。この前さ、わたしと士郎とセイバーとでデートしたじゃない? そこでバッティングセンター行ったことは覚えてる?」
「あぁ、忘れるわけないけど……」
それよりも、テレビに釘付けの藤ねえが耳をぴくぴく動かせているのが気にかかる。聞いてないようで聞いている、藤ねえはそんな女性だ。そのうち、「わたしもデートに連れてってー!」などと年長者らしからぬことを要求してくるに違いない。
「わたし、けっこう打ち慣れてたのよね。中学校を卒業するまでは、暇さえあれば野球部に顔を出してたくらいだし」
「なるほど」
「……あれ。ちょっとぐらいは意外そうな顔しないの?」
すこし憮然そうに聞いてくる。まあ、意外といえば意外ではあるが、実際はそうでもないというか。
何しろ、遠坂がバッティングセンターに行こう! とか言い出したときに、最強の助っ人として9回裏2アウト満塁の舞台に雄雄しく立つ遠坂の姿が浮かんでしまったのだ。あの幻視はそうそう頭の中から消えてくれるもんでもない。
「家のことで忙しいかたわら、キャッチボールに始まりデッドボールに終わる……そんな、平凡だけど満ち足りた日常がそこにはあったの」
頬杖をつきながら話す遠坂の目が、遠くをぼんやり眺めていることに気付く。
……野球にあんまり詳しくない俺が言うのもなんだが、デッドボールは違うのではあるまいか。しかもそれで満ち足りてるってのはかなり問題があるような。
「得意な球種はシンカー。サイドから打者のインに切れ込むスピードボールも売りだったわ。先発、中継ぎ、抑え、なんでもこなす便利屋でもあった。そしてひとたびバットを握れば、一試合に一本は打点絡む活躍を見せ、どうして女性に生まれてきたんだと野球部の監督が泣きを入れたことさえあったわ」
「……はあ。そいつは良かったな」
自画自賛というか、それを言いよどむことなくつらつらと講演できる遠坂に感服してしまう。
関係ないが、タイガースの4番がホームランを放ち、藤ねえがテーブルを叩きながら狂喜乱舞していた。うるさい。
「……そうね。わたし、家のことが無かったら、野球選手になってたと思うわ。女性だろうと何だろうと、オリンピックの正式種目にエントリーするくらい女子野球を世界に知らしめてやることが出来たでしょうね――。そういった意味では、ちょっと残念な気もするけど」
うん。俺も残念だ(いろんな意味で)。
「そんな……順風満帆ともいえるわたしの野球街道が、転落の一途をたどるきっかけとなる事件があった」
「なんかモノローグっぽくなってきたな」
ほんとなら俺は絶対に言っちゃいけないことのような気もするんだが。
「いいから聞きなさい。あれは野球部の対外試合でのこと、いつものように先発として活躍していたわたしは、完全試合目前の6回表……右ひじに違和感を覚えたの」
「あー、野球選手の怪我ってよくそういう表現するよね」
藤ねえが絶妙のタイミングで口を挟む。テレビ画面から全く目を離していないのが侮れない。タイガースの勇姿をたとえ一秒でも見逃せないのだろう。
「ちなみに、中学の野球は7回までなんだけど」
「てーか、完全試合っておまえ」
日本では10年くらい前に出たっきりの、なかば伝説ともいえる現象だ――と聞いたことがある。
ただの一度も被安打はなく、
ただの一度も四球(死球)はない。
故に、その試合に意味はなく――とかなんとか。
パーフェクトゲームは、もはやゲームの意味すらない――と、藤ねえが憎々しげに呟いていたのを思い出す。言ってる意味はよくわからないが。
「事実を口にしたまでよ。結果は既に成った。決定は、もう覆らないわ……わたしの挫折もね。無かったことになんかできない。それはあなたが一番よくわかってることでしょう?」
「あ、えーと……」
いやそんな真剣な目で見られても。
それは確かにそうなんだが、そこまで飛躍することもないかと。
何はともあれ、遠坂サンは魔術回路とは違うスイッチが入ったようで、自身の記憶を搾り出すように語り続ける。
「……まだ試合は終わっていない。6回まだ投げ抜いたとはいえ、7回まで完投しなければ先発の意味はない。わたしに求められているのは、そういった能力だから。
監督もわたしの異変に気付いていた。そりゃそうよね、ストレートの球威は明らかに落ちてた。変化球の切れも甘くて、コントロールも甘くなったわたしの球は、格好の餌食だった。それでも、打たせて取る野球を心がけて、なんとか6回の裏を凌ぎ切ったの……」
なんか、野球に詳しくない人間には実感できそうにない話だなー。なんとなく悲壮感というか切実さは伝わって来るんだが、それで俺にどうしろと?
「……………………」
いや黙って聞いてりゃいいんだけど、道場で瞑想にふけったまま昼食を食いそびれたセイバーが、藤ねえの皮を被ったかのごとく『おなか空いたよう』って視線を向けてきてるし。
「……………………シロウ」
うわ可愛いっ! 上目づかいで指を唇にそえるのは反則だー! そんな捨てられた子犬のような目で見られたら、マスターじゃなくても自分のものにしたくなっちまうぜ!
そんな決意を胸に秘めた俺は、拳を握り締めている遠坂に切り出してみる。
「あのー、遠坂?」
「――7回裏、伝説はそこから始まった」
だ、そうです。ちゃんちゃん。
自分の中で無理やり話を完結させて、セイバーを手招きして自分も立ち上がる。と、
「ちょっと待って。話はまだ終わっていないわ」
「……本気ですか?」
勿論、とばかりに微笑む遠坂。あと襟首を力の限り掴むのはやめてほしい。伸びるから。
にしても、こいつが自分の話に執着するのはホントに稀有なことだ。そのぶん、拘ったからにはとことん食い下がる性質でもあるらしい。厄介なことこの上ない。
が、衝撃を受けたのは俺だけではない。むしろ、セイバーの精神的被害の方が甚大だった。
「な……っ! 正気ですか、凛!!」
「正気だから言ってるのよ。あなたもサーヴァントならマスターの意見は尊重することね」
「く……!」
苦々しく息を漏らし、同時に。
しゅいんっ!
「をうわっ!?」
一瞬で姿を消し、即座に俺を遠坂のもとから引き離す。俺の腰回りを右脇でがっちり抱え込み、有無を言わせず確保する。さすがセイバー、遠坂が正式なマスターだからポテンシャルがえらい高いぜ!
……むう。セイバーも空腹でやたらとてんぱってるなあ。俺もなに口走ってるかよく解んないし。
遠坂の目がきつくなる。片手だけで指の関節をぱきぱき鳴らす。
「何をしてるのセイバー? 大人しく士郎を返しなさい」
「返せません。……もう時間がない。私はサーヴァントとして、マスターに速やかな食事の準備を要求します」
「そう……なら、仕方ないわね」
す、と遠坂は左手の甲に手を掛けて、その袖からぼんやりと光る魔術刻印を示す。
……それはガンドですか。ガンドを打って差し上げますわということですが姐さん。……って、みんな藤ねえがいるのに魔術のことをあけっぴろげにしすぎ。
一方の藤ねえは、この10畳くらいのスペース内で破滅の序曲が奏でられているにもかかわらず、画面の向こう側で繰り広げられているパワフルドリームスタジアムに魅入っていた。
くそっ。これだと意図的に無視してんだが本気で気付いてるんだか解りゃしない。たぶん後者なんだろうけどっ。
何はともあれ、『パニックソニックコースター2』がめでたく開幕しそうな悪寒。それはきっと、人間ジェットコースターの異名を取る藤ねえの不思議時空を軽く上回るであろう。
……ヤメテー。
「おい遠坂!? それはたぶん痛いしきっと痛いからやめた方がいいと思うぞ!?」
「……士郎が考えてくれるのなら、検討してもいいわ」
「なんで選択権を俺に委ねるんだぁ! やめろー、やめてくれー!」
「……これが最後です、凛。今すぐ昼食にさせてください」
「あなたも優先順位を間違えないことね」
セイバーは遠坂の答えに深く項垂れ、そして。
「……凛。あなたなら解ってくれると思っていた」
またそれかよ、と諦めの遺言を漏らすより速く。
「――っっっ!?」
それは一体誰が発した悲鳴だったか。少なくとも藤ねえは出していない。
荒れ狂う暴風、光り輝く刀身、勝利を約束された剣は、今まさにセイバーの左手に具現しようとして――。
「だあぁぁぁっ!! なに考えてるんだセイバーっっっ!!」
こんな、必殺技といいながら一回しか(しかもぶよぶよの肉のカタマリにしか)撃っていない宝具を、建てられてからかなりの年月が経過した和式住宅でぶっぱなすなんて……!? 下手するとセイバーだってそのまんま消滅するんだぞ!?
で、これでもまだテレビから目を離さない藤ねえはナニモノなんだぁぁぁ!!
「……っ! 正気なの、セイバー!」
「……ふ」
遠坂の問いに不敵な笑みで返す。そして、その輝きは日輪の閃光よりも激しく目蓋を焼き――。
「約束された――」
真名を口にする。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっっっ!!」
…………。
……バグ?
「ああああ……! うう、うわぁん……」
いや違う。ある意味でバグみたいな存在だけど、藤ねえだ。藤ねえがセイバーの真名を遮ったのだ。
テーブルの上に突っ伏して、身を震わせながらすすり泣いている。
……えーと、ぽかーんとしてるのはみんな同じなんだが。
遠坂なんか、暴風のせいでツインテールが解けて髪もぼさぼさで、寝起きの状態にほぼ等しい。セイバーは……あんまり変わってないな。ところで一房だけちょろんとはみ出ている髪の毛が全く崩れていないのはどうしてなんだろう。
「遠坂。セイバー。まあ落ち着け」
一気にテンションがクールダウンした二人は、やむなく腕を下ろす。……うーむ、このわりと最強っぽいマスター&サーヴァントコンビでも、藤ねえの不思議時空を越えることは出来なかったか。
いや、今回は越えてくれなくて大いに結構だったんだけどさ。
「で……。ああ、そういうことか」
結論は簡単に出た。
テレビ画面上には、9回裏満塁、一発逆転の場面で見事にホームランを放ったらしく、同じ巨人Sの選手たちに激しく祝福されている平成の番長さん。
つまりは、タイガースがジャイアンツに負けたから、あんな怨嗟の叫びをあげたのだ。まったく大人げねえ。助かったけど。
「うわあああん……」
ひぐ、ひぐ、と藤ねえの嗚咽が室内に悲しく響きわたる中、ヤる気が殺がれた遠坂は観念したように息をついた。
「……昼食にしましょうか」
「そうですね」
何事も無かったかのようにキッチンに消える二人。てーかセイバーは調理しないだろ。
……後に残された俺は、泣きじゃくる藤ねえを宥めるのに2時間の苦労を要した。
翌日。
桜は最近、慎二と一緒に学校に行くようになった。……うん。兄妹がうまくいってるのは良いことだ。あいつも相変わらず口は悪いけど、聖杯戦争の前後よりも刺はなくなって来てるし。
今日はひとりで学校に行く。藤ねえは昨日の傷を引きずっていて、みそ汁の中にマヨネーズを入れる始末。それを気付かずに飲み干せる根性に俺はエールを送りたい。
交差点の辺りで、たまたま一成と顔を合わせた。
同時に、遠坂の話を思い出す。一成と遠坂は確か同じ中学の出身らしいから、あの結末を知ってるかもしれない。気になって眠れないほどじゃないけど、あの万能ともいえる遠坂の挫折を知るのもいい経験になるかなーとは思ったのだ。
「おう一成。そういや、遠坂と同じ中学だったんだよな?」
「出し抜けになんだ。あの女豹の話をするのに適切な場所というものがあるだろう」
「……まあいいや。で、遠坂ってメチャクチャ野球うまかったんだよな? それで、なんか伝説みたいなもんが残ってるって話は――て、どうした一成?」
一成は交差点の途中で立ち止まり、遠坂のガンドのように腕を俺に向ける。どうやら、それ以上その話はするな、ということらしい。顔は真剣で、目がありえないくらい怯えている。
「えーと、その。ごめん」
「……構わん。これも修行が足らんせいだ、喝」
ふん、と自らに気合を入れる一成。……うーむ、既に立派な僧としてやっていけそうな一成でも、触れてはならない傷というものが存在するらしい。でまあ、その原因が遠坂と野球なのか。
「――よし。では行こうか」
「一成。これだけは聞かせてくれ。おまえ、中学の頃は野球部だったのか?」
「……」
「……」
永遠とも思える長い時間が流れる。それはたぶん、一成が自分の深層心理へと働きかけている葛藤なのだろう、とか思ってみる。
「ああそうだ。生徒会があって、主将とまではいかなかったがな」
「……そうか。悪かったな、変なこと聞いちまって」
「気にするな。あの程度の過去、水に流せない方が悪い」
そう言い切って、学校へと続く坂を上っていく。
俺が得た情報と、一成がもたらした情報とを照合すると、
『デッドボール・生きがい・野球部・監督に泣きが入る』
……うわあ。一成かわいそうに。
遠坂の平凡かつ満ち足りた日常のために、犠牲になっていたということなのだろうか? そう考えたくはないけど、そう考えた方が自然ではある。
……一成も苦労してんだな。
校庭の前まで来て、いつもなぜか交差点の前で鉢合わせる遠坂に会わなかったことに気付いた。会うたびに今日は奇遇ねとか言い張っている遠坂の姿を、今日に限って見かけないことに言い知れぬ不安を覚える。
まあでも、遠坂だって一人前の魔術師なんだから、そんなばかな真似はしないだろうけ――
「わあぁぁぁ!! 怪童だ、冬木の地に怪童が現れたあぁぁぁ!!」
「ぬぅぅぅぅ! よもや後藤の魔球『暴れんボール』を完全に攻略する輩が現れようとは!」
「すげえ……。木のバットで200mは飛ばしたよオイ……」
……ばかな真似はしないだろうけど、もう遅かったみたい。なに考えてんだ。
「……(がくがく)」
隣りでは一成が頭を抱えてしゃがみ込んじゃってるし。
俺はとりあえず一成の背中をさすりながら、もうどうしようもなくなっている野球部の朝練風景を遠巻きに眺める。
――バッドを渇いた地面に突き、グリップに両手を重ねてどこか遠くを見詰めている。
名を遠坂凛。
そして、伝説が始まる――。
−幕−
テレビをつけてみたら、衛星中継が野球のオープン戦を映していた。
期せずして、セイバーはその中継を目の当たりにする。
「……ライオン……ズ……?」
興味を持ってしまいましたとさ。
SS
続き
Index