あなたに相応しい世界(3)終
明けて次の日。
小町は岸に船を止めると、舟の縁に休憩中と書いた札をかけて無縁塚に飛び降りた。
岸にたむろしている魂達に、鼻歌交じりで挨拶をしながら、小町は陽の当たる場所へ向かい歩き出した。
見上げた空はこんなにも青い。
嗚呼、生きてるって素晴らしい。
小町の上機嫌の理由は、昨日リリカと話していた、二点間の音を繋げる作戦が成功したからである。
もちろん、リリカを案じて喜んでいるわけではない。
これで、自信満々に仕事をサボれるからだ。
船の上に生涯を浮かべる毎日ともこれでおさらばさ! なんて思っているが、実際今までも勤務時間の三割ぐらいはサボるか手を抜くかしていた。
肩凝りを解す為に首の運動をしながら、小町は閻魔の仕事机と、野に咲く花とを結びつけ、距離を限りなく0に近づける。
花に耳を寄せると、かりかりという鉛筆の音が聞こえてきた、
忙しく仕事をこなしているらしい。
小町はにんまりと笑って、大の字に寝転がった。
ここから音が消えたら、あたいは仕事に戻ればいい。
そう考えている。
が、平穏は長く続かなかった。
昨日と同じく、赤い服が空からこっちに向って飛んでくる。
違うのは、今日は朝からそいつがやってきた事。
「……お礼ぐらいは言っておいてやるか」
昨日ほど勢いの無い赤い彗星に向かい、小町はよっこらせと起き上がって、手だけ振ってやった。
―――――
不安が多すぎて頭がパンクしそうだった
リリカは昨日ほど速度の出ない自分に、歯痒い思いをしながら無縁塚に降り立った。
首を回すまでも無く、小町はすぐ近くの砂利の上に寝転がっていた。
「小町ー! 昨日の話どうなっ――」
髪を振り乱し猛ダッシュしてきた死神が、手でリリカの口を塞いでくる。
小町は左手の人差し指を、自分の口にあてて「しーっ」と歯の間から威嚇するような空気を漏らし睨んできた。
それから、顎で自分の横を指した。
可愛らしい花があった。
(繋がってるんだよ……!)
リリカの耳元を生暖かい声が嬲る。
もしかして、成功したのか。
早く話がしたいのに、小町はなかなか口を塞いだ手を離してくれなかった。
仕方ないので、舌を出してちろりっと手の平を舐めてやる。
背の高さに似合わぬ「きゃんっ!」等という可愛らしい悲鳴を上げながら、小町は退いた。
退いて睨んだ。
物凄い形相で五秒ほど睨んだ。
小町は花の傍に腰を落とし、蝋燭の火を芯から消すように花の茎を数秒摘んだ後、大きな息を吐いた。
「何のセクハラだそれは! 机からきゃんって声がしたらどうすんだ!?」
「それで、どうなの? 成功したの!?」
「したよ! っていうかお前な、きゃんって声がしたらさすがに、ああ、くそっ、明日から四季様の机はキャン机だ!」
どうも、かなり錯乱しているらしい。
「その花と閻魔の机が、直通状態になってるんだね?」
「なってたんだが、もう消した」
「成功したんだ! やったこれで――」
「随分な喜びようだな、だけどもう手伝ってやんない」
「え!? なんで! 約束が違うって!」
「お前が色々台無しにしたんだろうが……たぶん、もうすぐ四季様が飛んでくるぞ」
小町が空を見上げた。
昨日と違い、今日の空は快晴だった。
「ご、ごめんなさい。謝るから。閻魔様にも全部私のせいだって言うから、お願いだからこの作戦から退かないでよ」
「いやだねー。あたいは気難しいんだ。お前みたいな……おい、どうした顔色悪いな?」
「……そう?」
「寝癖も付いてるぞ、もみ上げが外はねになってるって、お前どんな寝方したんだよ」
「い、いやぁ、昨日はあんまり眠れなくて」
「……? ルナサに何かあったか?」
「まぁ、内輪事なので、死神様の耳に入れるような事でも」
「話してみろよ」
「えー、やだー」
「あたいも鬼じゃないから、内容によっては同情点ぐらい付くかも知れないぞ」
「話す!」
リリカは昨日体験した事を、自分のいなかった時間は、メルランから聞いた事を、話し始めた。
小町にしてみれば、それは伝聞の伝聞になる。
メルランがりリカと別れ、屋敷へと帰宅した時だった。
玄関を開けると、二階から大きな物音が聞こえてくる。
物音にメルランが駆けつけたときには、散らかった部屋の真ん中でルナサが暴れていた。
ヴァイオリンが無い、と半狂乱になってルナサは自分のヴァイオリンを探していたらしい。
メルランが部屋に入ってすぐヴァイオリンは見付かった。
部屋の隅に浮いていた。
ルナサには、それが見えていない。
恐ろしい事に、メルランが大声で止めるまで、ルナサはメルランの事も認識出来ていなかった。
もう殆ど目が見えていないのではないか。
ルナサを押さえ、ヴァイオリンを手に抱かせ、何度もここにあるわよと呼びかけると、ようやく落ち着いて話が出来る状態になった。
我に返ったルナサは、メルランに何度も謝りながら、涙目でヴァイオリンを握り締めていたらしい。
向う脛と眉の上辺りに、青い大きな痣が出来ていた。
錯乱した事への不安と、痣の場所が頭というのが気になって、メルランはルナサを抱えて永遠亭に走った。
屋敷へ、リリカの元へ帰ってきてからも、ルナサはすぐに寝てしまった。
ごめんなさい、と繰り返しながら、ヴァイオリンを抱き締めて深い眠りに落ちた。
血の気の引いた顔には、赤子のように安らかな眠りがあった。
表情が無く、無垢で、その顔は死者のそれに近かった。
ルナサは良く眠るようになった。
起きてる時間の方が少ないかも知れない。
それは姉妹の終わりを、リリカに予感させた。
「これで、解ってもらえた?」
リリカは会話の最後には目を逸らしていた。
話すのが辛かった。
「そりゃ、もう消えるな……」
「言わないでよ、これでも頑張ってるんだから……」
「期待を裏切って悪いが、お前さんの作戦ぐらいでは、この状況は引っくり返せないよ」
「作戦は、やってもいいって事?」
「ああ、やってもいい」
「じゃあ、今日にでも!」
「ちょいと能力について説明しておくとだな。縮める対象のどちらか一方には、あたいが傍にいなきゃならん」
「詳しい説明はいいよ、とにかく早いところ頼むって」
「待てよ。今までとは別に、対象の外にも影響するように働きかけるってのは、結構な力がいるんだ」
「だから?」
「もっと訓練すれば解らないが、今のままでは音を開く時間はニ分がいいところ。相手が見えていれば十分ぐらいはいけるかも知れない」
「閉じたら、開き直せばいいんじゃない?」
「それじゃ、何度も音が途切れるだろ。そんな演奏を聴かせたいか? お前は聴きたいか?」
「……じゃあ、見えてる範囲で縮められる場所を探せば」
「候補だった永遠亭は竹林の奥で、もう一つの紅魔館は湖のど真ん中だ。これをどうする?」
「そ、空から見下ろせば」
「お前さんの姉さんは、そんな状態で長い間飛べるのかね? 二人して担いだままじゃ演奏にならないぞ」
「つまり、何が言いたいのさ……作戦は無理って?」
「そうだ。やるなら、別の場所を考えるか、代案を用意するんだね」
リリカは砂利を蹴った。
向う場所、向う場所で、考えが潰されていく。
もしや、神様が寿命だから死ねと言っているのか。
幽々子達にはそれが見えていたのだろうか。
……駄目だ、またくだらない考えをしてる。
周りがどう反応しようと、立ち止まっている時間なんて無い。
笑って見返してやる結末を思い、前に進め。
今まで考え付いた事自体は、決して間違いじゃないと信じろ。
「もう一度、繋げてみてもらえないかな?」
「花と机を?」
「お願い」
「いいけど、喋るなよ?」
「解ってる」
小町は花の上に手をかざし、目を閉じる。
数秒後に、伸ばした人差し指を自分に向って曲げ、リリカを招いた。
リリカは花に耳を当てる。
この場に存在しない音が聞こえてくる。
紙同士が擦れる音、判子が次々と押されていく音、何かを小さく呟く声。
強い風が吹き、千切れかけた花びらが一枚風に舞った。
反射的に掴もうとしたが、間に合わずひらひらと流されていく。
リリカは花弁が地面に落ちた場所に追いついて、拾い上げる。
――音がする。
その花びらも小さいが音を出していた。
しばらくして、音は不意に途切れた。
元の花からの音は、未だ続いている。
離れた瞬間の花弁は、元の花と同じであり、別の個体と見なされていないのか。
リリカは、無言で何枚か花弁を千切った。
死神が文句をつけてきたが、無視した。
十二枚ある花弁の三つを千切った所で、花そのものからの音も止んだ。
同時に全ての花弁からの音も止まる。
「何だ、面白い事やってるな、お前」
「こ、これ、どういうこと?」
「何が?」
「花弁から音が聞こえてた、それと千切りすぎたら花の方からの音も消えた」
「元の花を、個体として違うものと認識したのかね。あたいにも解らん」
「花弁の方の音は小さかったけど……十二分の一の音ではなかったな、もう少し大きい」
「そいつは、たくさんに分けて聞かせようってのか?」
「うーん……それが出来たらなぁ」
「無理だろ、すぐ消えるみたいだし」
確かにこのままじゃ駄目だ。
もっと発想を変えないと。
リリカは空を見た。
最近、困ったら何かと空を眺めている気がする。
今日は珍しく良く晴れているな。
冷たく乾いた風が吹き、雲も少ない。
「……あ」
リリカの頭にピンと繋がるものがあった。
「目に見えてる範囲のものならば、長い時間繋げられるって言ってたよね?」
「あ?」
「どうなの?」
「まぁ、出来ると思うが」
「お願い、今日からその練習をしてみてくれないかな。近い内に小町に頼む時が来ると思う」
「何で今日じゃないんだよ。急ぐんだろ?」
「今日は駄目だよ。これじゃ成らない」
「成るって?」
「起死回生の策がだよ」
「お、何か凄い事でも思いついたのか」
「とてもロマンチックな出来事をね」
「おお、それで、何をする気なんだ?」
餌を待つ犬のように目を輝かせた小町に頷いて、三度、リリカは空を仰いだ。
リリカはその考えに絶対の自信があるわけではなかったし、これから詰めていく事も沢山残っている。
だけど、全てが上手く行く気がリリカにはしていた。
もう迷う事は無い。
これしかないと胸を張れる。
世界は、その瞬間を待っている。
「空を落とすんだ」
―――――
『射命丸のお天気情報:早々に寒波が押し寄せて参りました。何かとイベントが重なりますが、十分な防寒対策をしたうえでの――』
リリカは屋敷に戻り次第、手を洗うどころか手袋も脱がず、玄関の棚に朝から放置されたままの新聞を手に取った。
新聞の隅の方にある、新聞にしては人情溢れる、悪く言えばおせっかいな言葉を読み進めていき、最後に続く言葉を見て手の甲をパンッと打ち付けた。
『――幻想郷に厚い雲が流れ込んで来ます。週末はぐずついた天気になりそうです、クリスマスの夜は雨の予感』
「よしっ!」
手袋を脱ぎ悴んだ指を擦り合わせ、新聞を引っ手繰って食堂に向えば、そこに昼食の支度をしているメルランがいた。
「お、昼食な〜に〜?」
「お帰りなさい。あら、珍しい。リリカが新聞なんて……面白いニュースでも?」
「いや、射命丸のお天気情報」
「ああ、それなりに当たるって有名な」
「外れるよ、これは」
「え?」
「姉さんの具合はどう?」
「あ、まだ寝てるわ。もうすぐ昼だけど……どうしよ、昼ご飯前に起こした方がいい?」
「そう。眠りが深いなら今のうちに行動した方がいいな、目標まで後二日しかないし」
「目標? さっきからどうしたの?」
「うん、ルナ姉を治せるかも知れない」
「本当に? じゃあ、あの方法は思った以上の効果が見込めそうなの!?」
「いや、あれは上手くいかなかった。だけど、もっと凄い事を考えたのさ」
「それでどんな方法なの!?」
蛇口を閉めて、エプロンで手を拭うと、メルランはリリカに早足で近づいて来た。
「うん、クリスマスにレイラの墓のスイトピーと、空とを音で繋げるんだ」
「は? そんな事が出来るの?」
「正確には空じゃないんだけどね。要するに、天界にいるレイラに音を届けようって事で」
「効果あるのそれ? 天国なんて雲の上に行けばあるわけじゃないでしょ。概念の話じゃないの?」
「そう、概念の話だよ。地面を掘ってたら地獄が出てきたぞ、なんてのも、なかなかシュールで私は歓迎するけどさ」
「それじゃ、意味がないじゃないの」
「大切なのは気持ちだよ。ルナ姉のモチベーションを上げる程度の効果なら、十分に期待出来る」
「ちょっと待ちなさいよ、リリカ」
「クリスマスは私達とレイラを繋ぐ大切な日。初めて楽器を演奏した日だからね、聴き手はレイラ一人だったけど、あれが三人のライブの原点なんだ。ルナ姉の演奏を一瞬でもいいから取り戻すためには、演奏がレイラがいる天に届くと信じ込ませる必要がある。それこそ、その時は死ぬ気でやって貰うよ」
「待てってば! それが起死回生の策って言うの!? 見返りの無さそうな危ない橋を渡ってるだけじゃない!」
「ここはまだ布石だもん。さて、この先は、ルナ姉には言わないで欲しいんだけど……」
「え、何?」
「この計画の真意は、たくさんの人に三姉妹のライブを聴いてもらう事にあるんだ。半強制的に。ルナ姉がそれを知って尻込みしちゃうと困る」
「順番に説明しなさいよ〜。話が飛びすぎて解らないわ」
「まあ、今は私を信じてくれていれば、それで……さて、時間は少ない。動こうか」
「いい加減にしてよ、もう」
「知ってる人は少ない方がいいの。一人でも多くが音に驚き、そして感動する事が力になる。三姉妹とて対象の外じゃないんだ」
「結局、話せないって事?」
「たはは、格好良い事言ってるけど、実はまだ不確定な要素多すぎで……まぁ、確定なんてその時間まで誰も解らないんだけど」
「そんな不確定な話の一部だけ話して、私にそれを信じろって?」
「そう、言ったでしょ?」
「でも――」
「メル姉、天気を調べてもらえないかな。週末の天気。出来れば今日から三日ほど、二日目が最も重要なんだけど」
「新聞に書いてあるじゃないの」
「文々だけじゃ、頼りないっしょ。マヨヒガの式の狐なんかいいな」
「あの人は計算が得意だから? それとも狐の嫁入りって言うくらい狐は雨と関係深そうだから?」
「そそ、どっちも。頼める? 私は他にする事あるから……あ、小町にも言わなきゃね」
「解ったわ。昼食終わってからでもいい?」
「もちろん、ライブに向けて出来る限り体調は整えよう」
蛇口が開いて、調理が再開される。
牛蒡の生ハム巻きという、昨日よりは手の込んだメニューだった。
ルナ姉に美味しいものを食べさせたいという気持ちがあるんだな、とリリカは感心した。
急に水音が止んだ。
メルランがリリカに振り向いた表情は固かった。
「リリカ、私、信じちゃうわよ? 本当に待ってればいいのね?」
「プレッシャーかけるね、メル姉は」
「ごめん、だけど」
「ううん、プレッシャー歓迎。じゃんじゃんかけてよ。好きな人に頼られると嬉しいじゃない?」
「……羨ましいわ」
「あ、天気の方、宜しく頼むよ」
「ええ、ライブの日は晴れるといいわね」
「晴れたら困るんだって」
「は? じゃあ雨が降ればいいの?」
「雨なんて降ったら演奏が聞こえないじゃん」
「ええ?」
「あの狐は雨だって答えるだろうけどね」
「何が知りたいわけ?」
「天気」
「???」
天狗は風を見て、雲の行方を探る。
狐は大気を感じ、空の行方を知る。
二人は空に雨を見る。
鉛色の空の下に、降り注ぐ雨を思う。
だけど、リリカには違うものが見えている。
リリカは彼女達には無い情報を握っていたから、別の結論を出した。
だけど、同じ情報を彼女達と共有しても、リリカのような答えは出ないだろう。
彼女らには浪漫が足りないのだ。
人生経験がその答えを導く邪魔をする。
(幻想の郷に相応しい答えを、教えてあげる!)
来る日、世界は音に包まれる。
―――――
リリカの言った通り、狐は雨が降る、と答えた。
メルランはその短い答えを頭に入れて、屋敷へと舞い戻る。
一体この答えが何の役に立つと言うのだろうか。
まず、姉の様子をと、メルランが階段を目指し廊下を歩いていると、居間に人の気配があった。
一瞬、リリカが帰ったのかと思ったが、それには少し早い。
メルランは不審者でも入ったかと思い、トランペットを鈍器代わりに握り締め、慎重に居間を覗き込んだ。
中央のソファーにルナサが座り、上品に紅茶を楽しんでいた。
「ね、姉さん!?」
「え?」
「一人で動いたら危ないわ、ほとんど見えてないんでしょう?」
「メルラン? 良かった、皆いなくなってしまったのかと思ったわ」
「そんなわけないじゃないの」
「悪い夢を見たの、それが現実になった気がして怖かった。こうして紅茶でも飲んでたら、あなた達の笑い声が戻ってきそうな気がしてね」
「姉さん、大丈夫なの? 身体の方は……」
「ん? 心配ないよ。少し気分がいいわ、足も良く動く」
「そ、そうなの。それは良かったわ〜」
「神様がくれた猶予期間かな。いや、レイラがくれたのかしら」
「猶予期間?」
「もうすぐでしょう。あの子が好きだったクリスマスは。だから最後にそれが楽しめるように……ああ、これが私へのクリスマスプレゼントなのか」
「……姉さん、その事だけど」
メルランは、計画について姉に話した。
リリカが言わないでくれ、と言った部分には触れなかった。
差障りの無い部分のみを話した。
「あの、そういうわけで、リリカが頑張ってるから。絶対に何とかするから!」
「その考えに、私は縋ってもいいのかしら?」
「家族に縋らないでどうしますか」
「……いけないわね、私。今あなた達の想いを、心で裏切ってしまった」
「え?」
「私に希望を与えるために考えた、嘘なんじゃないかって考えが浮かんで……最低だわ」
「姉さん、それは大丈夫。その考え、私も真っ先に浮かんだから」
「……あら、リリカがこの場にいなくて良かったわね」
「でもね、今は信じてる。あの子、凄くいい顔してたもの!」
「そうなの?」
「そうそう!」
ルナサが会話に紅茶を挟む。
何処まで姉さんは信じてくれたかと、メルランは疑問に思う。
しかし、これ以上踏み込むのは辛かった。
相手にだけ紅茶があるというのも厄介だ。
話に困れば飲むフリをして考える、という手が使えない。
「私は……笑っていればいいのかな?」
「ん?」
「悩むのよね、笑え、泣け、足掻け、脳が一偏に色々な命令を出すんだけど……何時の間にか眠くなっちゃって、上手く吟味出来ないの」
「姉さんはどうしたいの?」
「うーん、解らないわ。誰かが決めてくれないものかしら」
「じゃ、適度に笑って足掻いて泣きましょ?」
「なるほど、いい答え」
「少しはハッピーになったかしら?」
「あなたには負ける」
「大人はみんなそう言う」
「生きるに難し、死ぬに易しと言うけれど、実際崖っぷちに来てみれば、生きるのも辛ければ、死ぬのも辛いわね」
「人生とは哲学なのねぇ」
「辞世の句でも書いとこうかしら」
「今、書いたら後で恥をかくわ。姉さんは消えないのだもの」
「……だったわね」
向けられた姉の微笑は、何処までも美しかった。
その笑顔に、メルランは美人薄命なんてつまらない言葉を思い出し、まだ自分にも余裕があるなと思った。
姉が死を、辛さに変えないから、自分は助かっている。
それが優しさという演技なのも解っている。
だけど、自分がしてあげられる事は、精々話し相手になる事ぐらいだ。
窓の外に目を向けて、メルランはリリカのことを思う。
リリカは、今何処に居るのだろう。
壮大な計画とやらを誰と何処で考えたのだろう。
あの子は想像以上に強くなっていた。
表面上の強さではなく、芯から強くなっていた。
何時の間にか自分なんて軽く越えていた。
今まで頑張ってたのね、と誉めてやりたい。
しかし、頑張り屋の妹を誉めるのは、全て終わってからにしようと思う。
今は続けましょう……。
――信じる事を。
―――――
「あー、駄目。その日は駄目」
「ちょっと、どうして!?」
無縁塚の死神は昨日の朝と違い、ぎーこぎーこと真面目に舟を漕いでいた。
その死神に上空からリリカは取り付いて計画の話をしていたのだが、いざ日取りの話をとなると、急にこじれてしまった。
やがて岸に辿り着いて、死神は無縁塚に降りた。
「その日は、あたいは一日中拘束されてる。外の世界で自殺者が増えるんだよ。特に夜は仕事三昧」
「何で? クリスマスっておめでたい日じゃない。外の世界は幻想郷より大騒ぎって聞いたよ?」
「あたいが知るかよ。とにかく他の日にしてくれ、そんな日に仕事ほったらかして何処か行ってたら、四季様に連れ戻されるオチが待ってるだけだ」
「それについてはさっき話したじゃん? 私に策があるって」
「お前のは策じゃねえよ『百万の兵を防ぐには、百万の兵を用意しましょう』ってレベルだろうが」
「如何に戦力を用意するのかも、立派な策の一部なのだよ」
「とにかく、やだね。あたいが閻魔に殺される」
「心配しない。私の計画の後なら死んでいいから」
飛んできた鋭い蹴りを、リリカはとっさに背中で受けようと体をひねったが、脇腹に入ってもんどりうった。
「ちょっと死神さん! 今のは痛かったよ!? 五臓六腑に染み渡ったよ!」
「お前……丈夫だな」
「小町の方が丈夫そうじゃん。閻魔の御仕置きの一発や二発、屁でもないっしょ」
「とんでもない。四季様の、卒塔婆スマッシュ>卒塔婆スマッシュ>卒塔婆スマッシャー! の三段コンボを知らんのか」
「なら、卒塔婆盗んだら?」
「………」
「悩むなよ」
未だに悩んでいる小町の首を背伸びして掴み、強引に自分の方へ真っ直ぐ向けてから、リリカは話を続けた。
「それで、縮めた距離の音を開く訓練はした?」
「したも何も今日の話だろ、早いよ。ま、したけど。四季様にもばれてないし、来年はいい年になりそうだなぁ。サボり元年」
「だから〜、それなら是非、私のお願いを〜」
「ほんと、別の日にしてくれって。協力しないとは言ってないだろ?」
「その日が一番ベストなんだってば」
「ベターで我慢しろ」
「日付的にその日が最短で且つ最も効率がいいの。大体、ルナ姉が消えてから動いて何になるのよ」
「ふーむ……あ、そういえばお前、何と何を繋げるかまだ言ってないぞ」
「言ったよ」
「何だっけ?」
「空を落とすって」
「おいおい、まさか空と繋げようってのか。無理だよ、青空なんて物でもなんでもないだろ」
「青くないんだよね。しかも、ちゃんとした一つの物になるよ。とびっきりでかいけど」
「はぁ?」
「ほら、ああいうの」
リリカが天を指差す。
そこに、千切れてふわふわ飛ぶ白い雲があった。
「まさか、お前。雲か?」
「イエス。察しがいいね、窓際族」
「……あんなもんと何を結んで、何をしようってんだよ?」
「雲と地上の花を結んで、天界に音を届ける」
「おい、言っておくが、雲の上に音を響かせても天国に届いてるわけじゃ」
「残念。その台詞は既にメル姉が言ったのだ」
「じゃあ、何の為に繋ぐんだ? 鳥にでも聞かせてやるのか?」
「鳥が、んな高い所飛ぶわけないっしょ」
「皮肉で言ってんだよ」
「さあ、小町さん。地上に音が降る歴史的な瞬間の立役者になってみませんかー?」
「何言ってるのか、解んないし」
「協力してよ、お願い! ね? 珍しい小銭ならいっぱいあるよ?」
「いらねぇっての」
「じゃあさ、じゃあさ――」
「お前が困ってるのは重々承知だが、だからって他人を巻き込むのが許されると思うな。あたいの立場も考えろ」
「あ、こんなのどう!?」
「聞けよ」
「最高の音楽を聴かせてあげる! 今までで、最高のライブを約束するよ!」
「あー?」
「魂が震え、総毛立つよ〜?」
「まるで、お化け屋敷だな」
「じゃ、クリスマスの夜に、また!」
まるで漫才のような会話が、ぷつりと途絶えた。
リリカはショートカットの髪が揺れるほど、腰を勢い良く曲げて深いお辞儀をした。
再び上げた顔は、薄っすらと汗が浮いていた。
リリカの真摯な瞳が三秒ほど小町を射抜いた。
「クリスマス、夜八時にプリズムリバーの屋敷! 必ず来てね! 来ないと後悔するよ! 最高のライブなんだから!」
小町は飛び去るリリカを見ないで、何も言わず顎を引いて、地面を見ていた。
その姿を肩越しに見て、リリカは確信した。
小町は必ず来てくれると。
口では面倒だと愚痴りながらも、やる事はやる。
人情に厚い、そういう死神だと解っていた。
これで、出来る事はやった。
後は、間違いの無いように時間の調整、そして、現状を維持すること。
全ては成る。
待っててよ、メル姉。
待っててよ、ルナ姉。
待っててよ、レイラ。
後、少しだ!
―――――
また一日が過ぎた。
メルランはルナサの寝顔ばかり見ていた。
調子は良いとも悪いともいえない。
話す事もほとんど無くなった。
リリカも、実際疲れ果てているのだろう。
食欲も無ければ、段差も無いのによく転ぶ。
実際、自分の状態が、三姉妹の中では一番良好なのじゃないかとメルランは思った。
昨日の暴走予防も、リリカの誘いを断っておけば良かった。
それでも、リリカは気力がまるで違う。
明日の夜まで何とかもたせて、と言って、今日もリリカは朝から家を飛び出した。
残されたメルランはルナサを連れて、しっとりと冷たい空気の中を歩いて、蓮池まで出向いた。
ほとんどルナサのソロコンサートに近い状態で、演奏は終わった。
自分はトランペットを持っていただけだ。
つくづくサポートに向いていない。
性格も得意楽器も。
池の端にチルノがいた。
この寒空の下、元気良く半袖である。
子供は風の子どころの話ではない。
彼女は演奏の最中も池に張った氷の上を、蛙を追いかけて走り回っていた。
氷の下に見える蛙を驚かせようと、両足でぴょんぴょん飛び跳ねていたが、案の定、氷が割れて池に落ちた。
メルランはルナサを休ませて、チルノに走った。
チルノは水の中で、羽をばたばたさせていた。
水から上がらないと飛べないという事実に、気が付いてないらしい。
両手を掴んで引き上げてやる。
氷の上に出てきて開口一番「あ、あたい一人でも余裕だったのに」という強がりを言った。
だけど、その次の言葉はメルランには意外なものだった。
「なんだ、あんたも、レティが帰ってくる日を知りたいのかい?」
脈絡の無い言葉に疑問符を浮かべていると、
「やっぱりそうなんだ」
と勝手に納得され、にやりと笑顔を浮かべられる。
「何で冬の妖怪が帰ってくる日を、私達が気にかけないといけないのよ?」
「え? 違うの? だって毎日訊きに来るよ?」
「誰が?」
「リリカに決まってるじゃん」
「リリカが?」
「あんた、妹の行動も把握してないわけ?」
「リリカは思春期だから、難しい部分が多いのよ」
把握したいのだが、教えてくれない部分が多い。
チルノは、そうか思春期なのか、と頷いていた。
「ね、リリカはレティに何かを頼んでるの?」
「いや、いつも帰ってくる日付だけ聞くんだ」
「何それ?」
「あんたこそ、さっきから何なのさ?」
「レティが帰ってくる日が、どうしてチルノに解るのよ?」
「解るとも。レティが帰ってくる日が近くなると、急激に温度が下がるからね」
胸を張って答えるチルノに、メルランにも思い当たる節があった。
「あ、寒波ね」
「特にレティ復活の当日は凄いよ。氷点下になるもん」
「レティがやってるのそれ?」
「うん、レティって起きる時、周りが暖かいと起きられないから盛大に温度を下げるの。本人は冬のプライドがどうとか意味不明な事を言ってるけど」
「あっ! そうか!」
「ふえ?」
「それで、レティは何時戻るの!?」
「この寒さだとね、もうすぐなんだよ」
「だから、いつ!?」
「たぶん、クリスマスの夜だね」
―――――
目を開けても、目を閉じても、大して映るものは変わらない。
絵の具で汚れた水をぶちまけたような、良くわからない世界がルナサに与えられた世界だった。
目に出来なくなるのは、メルランとリリカの顔を最後にしよう。
そんな風に思っていたルナサだったが、妹達の姿も待ってはくれず、他と一緒になって溶けていった。
どう頑張っても何かを認識するには至らない、ぼやけた色に包まれた世界に、悲しそうに佇むレイラばかりが、はっきりと映る。
あれだけ笑っていた子なのに、今は笑顔を思い出すことが出来なくなってしまった。
目を瞑り記憶に頼っても、今度は眠気が襲ってくる。
泣き言を言うには、耳が聞こえすぎる。
他の存在を音が教えてくれる。
どうだろう。
私はまだ笑えているのだろうか。
メルランもリリカも、自分に何かを隠しているとルナサは感じていた。
明日のクリスマスの夜のライブには、レイラへの想い以外の何かが込められているのだろう。
それが、成功でも、失敗でも。
あの子達の頑張りを称えてあげよう。
レイラのように、最後まで笑って。
階段は危ないということで、しばらく、ルナサは寝室代わりに居間を借りている。
その日は、三人とも居間で寝ていた。
リリカが眠るソファーから衣ずれの音が聞こえた。
ルナサは身を起こし、音がしていた場所に近づく。
寝ているのか、起きているのか、満足そうな顔なのか、辛そうな顔なのか。
音をくれないと、ルナサには何も解らなかった。
一枚、タオルケットを上にかけてやった。
「暑かったらごめんね……」
離れようとして、袖をぐいと引っ張られた。
「……起きてた?」
満足そうな寝息が聞こえてきた。
演技なのか、本当に寝ているのか、今のルナサでは判別しようが無い。
床を慎重に探りながら、自分の寝床まで戻った。
―――――
小雨の中、ようやく待ち望んだ日の夜が来た。
空一面、分厚い雲に覆われ、月の光は何処にも無い。
「この雨は、もうすぐ雪に変わるのでしょう?」
メルランは屋敷の外に立つ、リリカに声をかけた。
リリカは傘を能力で頭の上に固定し、両手は後ろに組んで、目は遠くを睨み、小町の姿を待っていた。
両の踵でとんとんとリズムを取っている姿は、楽しそうにも、焦ってるようにも見えた。
「メル姉、何処で知ったの?」
「チルノから」
「あいつ、言うなって言ってるのに……」
「それで、どう?」
「いい温度だよ。低すぎても困るからね。レティが起きると大体三度程下がるらしいから、牡丹雪を狙うなら、今が丁度いい温度」
「は? 牡丹雪?」
「出来るだけ重くて、真っ直ぐ降る方がいい。小さすぎると風に負ける」
「あら、昔、レイラと見た雪は粉雪じゃなかったかしら?」
「は? レイラと?」
「……」
「……え?」
「ちょっとぉ。レイラとの繋がりを戻すために、あの雪の日の再現を狙ったのでしょう?」
「おぉー!? その手が!」
「おぉーって!?」
「新しい情報を有難う。これでルナ姉が一層やる気が出るね!」
「覚えてなかったの!?」
「いやぁ、こっちも必死で目的に動いてたからさ、あ、ルナ姉は?」
「重ね着もマフラーも手袋も傘もOK。何時でも発てるわよ」
「残るは、小町か」
「死神が来るのは何時の約束なの?」
「うむ、そろそろ」
「また、曖昧な……」
「ルナ姉の移動を考えると、残った時間は少ない。出来れば降り出す瞬間を狙いたいし……抜け出すのに苦労をしてるのかなぁ」
二人の白い息が、風に流されて混じった。
外は暗く、屋敷を離れれば、ランタンの明かりだけが頼りだ。
それから、五分ほど二人で並んで、雨の下で小町を待った。
「メル姉、ルナ姉を連れて、一足先にレイラの丘に向ってくれないかな?」
「リリカは?」
「もうしばらく小町を待つよ。それからすぐ飛んでそっちに追いつく」
「解ったわ」
「あと、前もって濡れないようにして丘に薪組んであるから、火つけて温まっといて」
「準備いいわねぇ〜」
雨にみぞれが混じってきた。
リリカが呟いた。
「来たよ、雪が雪のまま降る温度だ……」
メルランは玄関で待つルナサに声をかけ、手を引いて外に出た。
傘二つ、宙に浮かべ、丘を目指して歩き始める。
騒霊の能力がこんな時にも役に立つ。
「先、行ってるわよー!」
リリカは答える代わりに、キーボードで高い音を一つ返してきた。
ランタンが揺れる。
みぞれ交じりの悪路を、時には姉に肩を貸して、メルランはゆっくりと登っていった。
そう遠くないレイラの墓に辿り着くまでに、十分はかかっただろうか。
すぐに火を熾して、身体を温め始める。
炎に照らされた、姉の顔は青白い。
しかし、寒さのせいではないのだろう。
僅かな風は、止まっていた。
―――――
「おいおい……」
プリズムリバーの屋敷へと繋がる道に、空まで届く紫色の巨大な結界が張られていた。
小町は飛行を中断して、結界の根元に下りた。
「よぉこそぉ〜」
陽気な亡霊嬢が結界の前から進み出て、小町を歓迎してくれた。
「……本当にいやがったよ」
「あら、ご挨拶」
「もしかして、これで四季様を止めるつもりなのか?」
「ええ、そうよ」
「こりゃ確かに凄いが、これだけの事をすると、逆に四季様の逆鱗に触れそうだぞ」
「大丈夫よ〜。何があってもあの子の計画を邪魔させないわ〜」
「こんな時でも陽気だな」
「いやいや、小町。こんな時だからテンションを上げていかないと。だって閻魔は怖いもの」
「あたいもこの後どうなるかを想像すると怖い」
「小町はどうして、協力する気になったの?」
「……何だか被るんだよな」
「被るとは?」
「あいつらと同じで、うちにも口煩いのがいてね。あいつが弱ってる所を想像しちまったら、どうにもむしゃくしゃして落ち着かない」
「むしゃくしゃしてやった、今は閻魔の御仕置きを受けている」
「うるせぇ」
「はいはい、時間がないのよ、こちらへどうぞ〜」
結界に小さな丸い穴が開く。
穴は風船が破裂するように一瞬で大きくなり、小町の身長ぐらいの直径でぴたりと止まった。
「さて、最高のライブとやらを聴きに行ってやるかね……あー、あんたの無事も祈っといてやるぜ」
「私は話し合いをするだけよ。危険な事は何も無い」
「こういう時の四季様は、強行突破も辞さない構えだと思うぞ」
「それは無理な話ね」
「ご自慢の冥界一硬い盾は何処に隠れてる?」
「さぁ? 何処かでクリスマスを楽しんでるのではなくて?」
「援護も無しかよ、嘗め過ぎじゃないか四季様を」
幽々子は扇子を口にあて、鷹揚に笑った。
「案ずるな小町……こちらには、幻想郷一硬い矛があるわ」
暗い森を睨み、そういう事かと納得して小町は歩き出した。
あいつ、奇跡なんて信じてないんじゃないか……。
そう思うと、悔しかった。
―――――
「おっまたせー!」
「よう、来てやったぜ」
リリカの声が丘に聞こえる。
続くもう一人の声は、メルランから聞いていた、距離を縮める役の死神だろう。
死神の赤い髪と妹の赤い服が、ルナサには一つの赤に混じって見えた。
「それじゃ、始めましょうか」
メルランに肩を叩かれて、ルナサは腰を上げる。
薪から離れ、レイラの墓の前に三人が集う。
「繋げたぜ」
死神の足音が離れていく。
薪が弾ける音よりも、遠くで腰を降ろす音がした。
「今、スイトピーは空と繋がってるんだよ、ルナ姉」
リリカの解説の声がする。
そんなに簡単に繋がったのかと驚く。
空の色は一面の濃い鼠色。
あの空の全てに音が響くというのは、何処まで本当なのだろう。
「さあ、姉さん。レイラに聴かせてあげましょうよ?」
ルナサは頷く。
視界に、レイラの姿は無かった。
墓の前の赤が、風も無いのに揺らいで、煙のように見えた。
雨は計ったように止んでいた。
ただ、ルナサのヴァイオリンの弦のテンションは下がったままで、また、降り出すまでに長い時間は無いと思われる。
両足を肩幅に開いて背筋を伸ばし、震える指で弓を握る。
左肩に乗せたヴァイオリンは重く、長い付き合いを嘘みたいに感じさせた。
松脂の塗った弦の位置を指で確かめ、なんとか音の出る状態までもっていけた時には、演奏に大幅に出遅れていた。
リリカの伴奏が最初に戻る。
目が見えぬ、手首の柔軟性も欠ける、ヴァイオリンの重さにすら負けそうで怖い。
ルナサはヴァイオリンを地面に置き、騒霊の能力で弓と弦とを合わせる道を選んだ。
まともな音が出るとすれば、これしかもうなかった。
伴奏は何度も一から繰り返された。
自分が入ってくるまで、ずっと続けられるのだろう。
焦りと火照りが身体を包む。
音が出るどころか、一つも動かせてないのが解った。
「ルナ姉。まだ力を惜しんでる、まだ人目を気にしてる、美しい音なんていらない、ルナ姉の音が欲しいんだ」
「リリカ……ごめんなさ――」
「弾け! ルナ姉! 騒霊ライブに手や目はいらない!」
激励とも叱咤ともつかぬ声が飛んだ。
メルランは何も言ってこない。
リリカが自分に言いたかった事は解った。
自分には、まだ耳があるじゃないか、何故これが最後まで残った。
妹達の演奏に合わせたいからだ。
ライブのために、残された力だ。
拙い音、狂った音。
時間が過ぎていく中、ルナサは神経だけを研ぎ澄ませた。
五分、十分。
少しは音になってきた。
だけど、レイラに聴かせたい音とは程遠かった。
妹達の期待にも応えてやれない。
姉として、妹が望んだ最後の頼みくらいは聞き入れてやりたい。
「いいよ、ルナ姉、その調子!」
「……え?」
その声は、持上げているようには聞こえなかった。
「姉さん、頑張って!」
期待されている。
こんな状態の自分にまだ諦めきれないのか。
「次はもう少しテンション上げていくよ!」
妹達は心から自分の音を欲している。
姉妹だから? ライブが完成しないから? 治ると信じているから?
ルナサは迷った。
だけど、次にかかる一言が、迷いを吹き飛ばした。
「ルナ姉が音で負けるもんか! ルナ姉のヴァイオリンは世界一だ!」
遠い昔に、冗談で言った言葉をルナサは思い出した。
リリカとメルランとレイラがいた、何度目かのクリスマスの夜に……。
「馬鹿……まだ信じてるの……」
身体中が熱い。
熱さは痛みと焦燥を消し、ルナサを前に動かした。
この思い、弓と一つになり、弦の上を走れ。
命燃やし尽くせば。
まだ――。
―――――
あの子は少し情が深すぎると、四季映姫ヤマザナドゥはいつも思っている。
夜更け前に事態に気が付いた映姫は、またか、とストレスで胃が重くなりながらも、全速力で法廷を飛び出した。
映姫を無縁塚で待っていたのは、霊達の無言の圧力だった。
それは乗り物の到着が遅れて、顔だけで不満の全てを表しても、列を作るのは止めない弱さの群れに見えた。
プリズムリバーとの接触に不穏な動きが見られたので、映姫は小町に何度も注意をしておいた。
それでも、机の中からきゃんっという声が聞こえた時には、ずいぶんと驚いたものだが。
「死神に生まれたのが、小町の不幸なのでしょうか……」
そしてまた、この巨大な結界だ。
そこまでして私を拒むのか、と少し悲しくなる。
「よぉこそぉ〜」
見知った顔だった。
白玉楼の亡霊嬢だった。
プリズムリバーはともかく、幽々子が小町の手助けをする義理はないだろう。
だとすると、小町は何をしに、この結界の中へ入っている?
「天衣無縫と言えど、遊ぶ場所くらいは選んでもらいたいものです」
「あら〜、結構本気よ?」
「すぐに結界を破棄すれば、お咎め無しで通しましょう。長くは待ちません」
「そんな事言わずに、お茶でもどうかしら?」
手を見ると急須を握って、ご丁寧にも下には茣蓙まで敷いてあった。
「笑えない冗談ですね。私は仕事で来たのです、小町をすぐに返しなさい」
「あれは、あなたの物かしら?」
「勤務時間中は私の指示に従う義務があります。勝手な行動は許しません」
「それは、私のせいかしら?」
「それ以上の挑発は、遊びでは済まなくなりますよ」
「結構よ、真剣に遊びましょう」
あろう事か、会話の最中に茣蓙に腰を降ろして、幽々子はお茶を飲み始めた。
睨めば竦むと思っていた相手の意外な行動に、四季は困惑する。
「仕方がありません、強行突破します」
「結界を壊すの?」
「そうです」
「私が黙って見てるとでも?」
「そうすると、どうなるか解るでしょう?」
「貴女の卒塔婆が、私のお尻をぺんぺんかしら?」
さすがに変だ。
この態度は意外どころか異様だと四季は気が付いた。
そもそも、こんな馬鹿でかい結界を短時間で張れる奴は、幻想郷に三人もいないではないか。
「出てきなさい八雲紫! 神隠しの主犯よ!」
幽々子の肩上の空間が揺らぐ、生まれた細い線が皺となり膨らみ、そこからタチの悪い妖怪が顔を出した。
「……気配は消していたわけだけど、それでも貴女にしては気が付くのが遅いんじゃない? 小町が心配で気が散ってるのかしら?」
「今度は小町を神隠しですか?」
「やだやだ、どうしてそうなるの。こんな善良な妖怪を捕まえて」
「一体どういう事ですか。この年中能天気な亡霊はともかくも、貴女はもう少し賢い人だと思っていましたが」
「それじゃ幽々子が可哀想よ。ねえ?」
「ねー」
妙齢の少女のように、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
本人達は可愛らしいつもりなのだろうが、肩に浮かぶ顔と会話する幽霊という、心霊現象そのものに四季には見える。
ふざけた奴らだが、さすがにこの二人を相手に一人で立ち回るのは厳しい。
せめて小町がいてくれたならば……。
「ささ、閻魔もここに座って、クリスマスを楽しみましょう?」
「貴女達が楽しいのは悪巧みがでしょう?」
「悪巧み? 貴女が好きな善行よ?」
「霊魂を無意味に留まらせて、何が善行ですか」
「無意味じゃないわ」
「では、どういう意味です?」
「そいつらに、三途の川を渡る前に、一つ想い出を作ってやろうというのよ」
紫と幽々子が、一色の雲に包まれた空を見上げた。
四季はその隙だらけの行動を疑ってかかったが、何秒経っても空ばかり見ているので、つい、自分も上を見てしまった。
特に、何も無かった。
その時には彼女らは顔を下ろし、二人して笑っていた。
―――――
曲はマシになった。
だけど、マシから抜け出す事が出来なかった。
この演奏が終わって、自分が朽ち果てるならそれで構わない。
何の惜しみも見せず、命さえ投げ捨てて、演奏に向っているというのに、ヴァイオリンの響きは頼りなく、リリカのキーボードにも負け続け、メルランのトランペットも入って来れやしない。
倒れる前に、終わりが来る前に、一度でいいから、自分達のライブがしたい。
想いだけで立ち、絆だけを繋ぎに、ルナサは空を睨み、自分の楽器に能力を込め、最後になるだろう戦いを続けた。
その時、冷たいものが頭に触れた。
(雨か……)
また、雨が降り出したのかと、髪に落ちた水滴を左手で拭う。
(いや、これは……)
ルナサは手袋を脱いでいた右手で、水滴を掴んだ。
ざらりとした冷たい感触。
そうか、雪に変わったんだ。
演奏が止まる。
リリカの舌打ちが聞こえた。
メルランの声がした。
中止なのかしらとルナサが考えていると、今度はリリカが大きく「あっ!」と声を上げた。
耳を澄まして待てば、今度はメルランが大きく声を上げた。
「あなた達、どうしたの……?」
見えないだろうと、解っていても、二人が見てるだろう方向を向いてしまう。
だけど、見えた。
ルナサにも見えた。
レイラの墓の前に、赤いスイトピーの上に、レイラが浮かんでいるのを。
ルナサには、日頃良く見る幻だった。
珍しくその幻はぼやけて見えたのだが、段々と焦点が合うように、くっきりと浮かび上がってきた。
薄い赤のワンピース、長く柔らかな髪の毛。
その姿に一つだけ、今までと決定的な違いがあった。
「レ……イラ……」
レイラは笑っていた。
スイトピーの花のように、穏やかに優しく。
悲しい表情よりも、その笑顔は素晴らしく輝いて見えた。
懐かしい冬の想い出が一瞬で解凍されて、ルナサは息を詰まらせた。
レイラ……ああ、レイラ。
やっと会えた。
やっと、あなたの笑顔に会えた。
歓喜に咽ぶルナサに、レイラの唇が向けられて僅かに動いた。
声なき声であったが、ルナサにはそれで十分だった。
『きかせて』
そうか、あなたは待っていたのか。
ずっと私達の歌をここで待っていた。
何度もそれを知らせに来てくれていたのに。
どうして気が付けなかったのか。
「ほ、本当に来ちゃった……」
「いいんじゃない、リリカ。ここは幻想郷でしょう?」
恐れるべきものは死でも別れでもなかった。
姉妹の皆に手が届き、ようやくルナサは気が付いた。
この小さな空間に、自分の全てが揃っている。
この手が離れる前に、ありったけの気持ちを音に込めましょう。
ならば、音色とは、まさしく自分の色となる。
ルナサは涙を拭い立ち上がり、弓を弦にかけた。
五指が動く、手首の切れが戻る、きっとこの一瞬だけ命をレイラがくれた。
待たせたわね、レイラ。
「よぉし! いくよ! 今夜のジングルベルは私達が担当だ!」
レイラ、聴かせてあげよう。
あたたの好きだった、騒霊達の歌を。
あなたが愛した、プリズムリバーの歌を。
――Phantom Ensemble。
―――――
小町はその様子を、大きな木にもたれかかって眺めていた。
一度、彼女らの演奏が切れた時、雲と花の結びつきも丁度そこで切れていたが、直ぐに繋ぎ直すという行動は小町には取れなかった。
「どういう事だ?」
去り際の幽々子の言葉は、小町にスキマ妖怪の存在を匂わせた。
小町もその気配を感じ、リリカのからくりが読めたと思っていた。
あいつはたぶん、思い出の境界でも開くつもりだ。
思いついて、小町にも多少苛立ちがあった。
自分の役割は、嘘を本当っぽく見せる為の、理屈の役割なのだ。
道化役は別に構わない。
だが、リリカがどうしても小町が必要だ、と言ってくれた言葉が汚されたようで嫌だった。
しかし、現実は違った。
目の前の光景は、小町の考えを全て否定していた。
あれは思い出の存在なんかじゃない。
(本物かよ……)
見えるはずも無い者が見えている。
思い出の存在とやらが、レイラを知らぬ自分の目に入るわけがない。
演奏に耳を傾けるその少女は、紛れも無い初対面の人物だった。
小町は背中を木で擦りながら、その場に尻餅をついた。
本当に天に届いたのか。
それとも墓の前なのが良かったのか。
姉妹の絆とはそれほど深いものだったのか。
最初から音に境界なんてなかったのか。
どう考えても理屈なんて付けられないと解って、小町は考えるのを止めた。
残念ながら、この奇跡に大した効果は無いだろう。
結局、結末は引っくり返っていない。
この程度では、ルナサの足枷を外してやるくらいにしかならない。
それは、あいつらも解っているのだ。
だが、満足した終わりを迎えられる事だろう。
幸せのまま消えていく。
「いい、結末じゃないか……」
小町の目に、待機しているメルランのトランペットが一人寂しそうに映った。
この曲は小町も良く知っている。
あいつらが演奏していた、幽霊楽団の代表曲だ。
しかし、最高のライブという割には大した事無いな。
苦笑して小町は足を投げ出した。
草についていた雪が靴に移った。
『空を落とすんだ』
「あ?」
雪を見て、リリカの言葉を思い出した。
ああ、これが、空が落ちるって意味なのか。
雪を指先で弄びながら、こんなの隠すような事かよ、と小町はひとりごちた。
回りくどい言い方しなくても、雲を落とすって言えば――
気が付いた。
小町は反射的に空を見た。
雨じゃ駄目なのか、あいつは雪の静けさを待っていた。
初雪に惹かれ、外に出た人々を狙い撃ちにする気だ。
何でこんな事を考え付きやがる。
花弁が風に流されるのを見た一瞬で、たったそれだけでここまで辿り着いたというのか。
(冗談、きついぜ)
狡猾なとか、賢いとか、そんな言葉じゃとても例えきれない。
枠をぶっ飛んだ発想だ。
小町の脳裏にデジャブが走る。
そうだ、こういう発想に相応しいのは……。
「やれ、あたいは、つくづく馬鹿に縁があるのかねぇ」
現実に目の前で奇跡が起きている。
あれに比べれば、自分がやろうとしている事なんて、理にかなってる方だ。
小町は鎌を手に立ち上がり、次の奇跡に向けて歩き出した。
「小町〜! 本当に音繋がってるー!?」
「あぁ、すまん、すまん。今からそっち行って繋ぎ直す」
「何やってんの! もうすぐサビだから早く!!」
ジングルベルは空から降る。
いいね、素晴らしく、幻想的だ。
これがあいつが信じた『ロマンチック』ってやつだな。
「小町! 早くっ!!」
演奏にトランペットが飛び込んでくる。
がらりと印象の変わった曲に、小町は総毛立った。
トランペットに引っ張り上げられ、三つの音が一気に調子を上げた。
無秩序に思われる音は、絡み合い、助け合い、お互いを完璧なまでに高めている。
聞くほどに演奏は生き物のように成長を続けていく。
三人で一つの生き物、三つで一つの心臓。
音がこいつらの血潮なのだ。
この心臓が作る血の勢いならば。
ああ、世界の果てだってきっと狭い。
「繋がったぜリリカ! 好きなだけ届けてやれ!」
「さぁ、メル姉! ルナ姉! 手加減はいらないよ! 今日のライブは幻想郷が舞台だ!」
一つの雲が世界を覆う。
一つの想いが世界を包む。
耳を掠めていった雪から、期待通りの音が聞こえてきた。
音の渦の中で小町は、今夜の雪は心に積もるぞと、馬鹿みたいな発想をして笑った。
―――――
半信半疑だった。
ちらちらと雪が降り出して、その雪を見て、八雲紫は扇子を畳んだ。
虹色の雪でも降るかと思えば……。
そう、上手くはいかないものだ。
これで、道は途絶えた、もはや死神の鎌も間に合うまい。
隙間から取り出した傘で、雪を防ぐ。
幽々子は雪に濡れても、まだ空を見上げていた。
「……もう終わったのよ、幽々子」
声をかけてやっても、幽々子はその顔を下げようとはしなかった。
「ほら、濡れるでしょう?」
差し出した傘が手に撥ねられる。
転がった傘を拾い上げ、一人頭上に向けた。
『私達の色で世界を包むんだ』
昨日訪ねて来たリリカの自信に満ちた言葉が、記憶に遠く感じられた。
隣を見ると、何故か閻魔まで、空から目を離そうとしていなかった。
「何を必死になってるのよ」
雪で何かをしようとした、それに失敗した。
それは、何となく、この二人にも解ってるはずだ。
どうして、空ばかり気にしているのか。
雪がそんなに珍しい歳でもあるまいに。
「紫には聞こえないの?」
「え?」
幽々子の言葉に振り返る。
何を話すのかと紫は期待したが、それ以降、幽々子はまた黙ってしまった。
彼女の帽子に髪に頬に、雪が触れては溶けていく。
「八雲紫」
「何?」
「傘を下ろして御覧なさい」
我が身の冷たさを楽しむ奴だなんて、雪か氷の精霊ぐらいだろう。
それとも、自分に濡れ鼠の仲間入りをさせたいのか。
紫は傘に積もっていく雪に目をやった。
ぱさぱさという小さな音の中に、何かしらパーカッションのような力強さを感じた。
「まさか……!」
紫は傘を投げ出した。
唖然として雪の降る空を見上げた。
聞こえた。
降り注ぐ雪の間に、流れる音が。
幻想のキーボードが、滑らかなヴァイオリンが、高いトランペットが。
それらの混じり合った、素晴らしいハーモニーが。
三人限りの大合奏が。
「……Phantom Ensemble」
素晴らしい。
この雪が音を運んでいるというならば、幻想郷全てにこの音が飛んでいる。
だとすれば、見事に起死回生の策だ。
一の力の放出で万の力を得られる。
「八雲紫。これは一体どういう仕組みなのですか?」
紫は答えられなかった。
ただ、この不思議な音の美しさに溜め息を漏らした。
そうしてるうちに、幽々子が笑い出した。
「あははっ、騒がしいジングルベルだこと、雪の静けさに対して、これはまた激しい選曲をしたものね」
「ふふっ、そうね。全くもってあの子達らしい曲。さて、これはもう……」
紫は結界に歩き、手を触れてそれを壊した。
壊れ、飛び散る間、それは光となり、辺りの雪の白さを一層輝かせた。
「後は好きにしたら?」
紫は閻魔に言った。
閻魔は何も言わず、結界の向こう、遠い丘のオレンジの炎を見詰めた。
騒霊達はそこにいた。
それから懐かしい顔と、死神とが。
閻魔は険しい顔で、目的の人物を睨んだ。
「あれほど特別一つの命に情を移すなと言っているのに。このままでは小町はいつか大きな間違いを犯します。すぐに連れ戻し説教しましょう」
しかし……と閻魔は続けた。
「……いない人を連れ戻すのは無理というものです」
表情を緩めて、長い息を吐き、閻魔は丘から目を逸らした。
「貴女達には迷惑かけましたね、疑って申し訳ない」
「あれは小町じゃないの〜?」
「どれです?」
「奥に見える、背の高い女の人よ」
「ああ、あれは、サンタクロースですね」
燃えるような赤い髪に、白い雪が積もっていた。
服に目を瞑れば、サンタという形容も悪くない気がする。
「サンタはあの場所から幻想郷にクリスマスプレゼントを配ってるのですよ。私が邪魔するわけにはいかないでしょう」
「まぁ、お優しい」
「しかし、あのサンタ。少しサボり癖が見られますね。これからは、しっかり働くように私の代わりに言っておいてやってくれませんか?」
「はぁ〜い、お安い御用よ〜」
「さてと、私は小町を探さねばなりませんので、これで失礼……」
閻魔は振り返らずに、雪の中を黙って去った。
幽々子が「私もそろそろ」と、紫に申し出た。
スキマで送れという事かと、白玉楼に繋がる穴を作ってやる。
「じゃあね、紫。あんまり遅いと妖夢が拗ねて怒っちゃうから」
「妖夢に何も言わずに来たの?」
「まぁ、巻き込むのもねぇ」
「呆れた……」
「貴女はどうするの?」
「私は、そうね。待ち人もいないし、もう暫くこの音を楽しみましょうか」
「あら、待ってる人はいるでしょう?」
「残念。ケーキが残ってるかどうかも怪しいわ」
「それは、被害妄想ではなくて?」
「真実よ」
「年を取ると嫌ねぇ」
「早く行きなさい」
お尻から押し込んでやると、幽々子は穴にすとんと落ちた。
隙間を塞いで、また暗い空を見上げる。
(藍は待っているだろうか……)
『三人揃って死になさい。そうすれば、長生きした者が寂しさに苦しまずに済むわ』
自分の台詞を思い出す。
お似合いな台詞だった。
言葉に出して惨めになるのは、何より自分だった。
紫はマヨヒガの家へ隙間を開き、雪を払い、廊下に下りた。
「おかえりなさい!」
出迎えたそれは、藍の声より高かった。
二本の尻尾をピンと伸ばし、緊張の面持ちで迎える小さな姿があった。
「どうしたの、橙。とっくに寝る時間でしょう?」
「お仕事、お疲れ様でした!」
「何を言い出すの?……ちょっと藍!」
子供が親に無理やり言わされてる様な台詞に気が付いて、紫は藍を呼んだ。
「お帰りなさいませ、紫様」
「藍、貴女が橙に言い付けたのね、くだらない事は止めて」
「いいえ、橙が待っていたのですよ。自分の意思で」
萎縮した橙が、藍の背後に隠れるように回った。
「私を、待ってたの?」
「ええ、ご迷惑でしたか?」
「別に……」
「お、おかえりなさい!」
「ただいま、橙」
卓袱台に小さなケーキが三つ並んでいた。
スポンジの上に薄いクリームと苺を乗せただけの、簡素なものだった。
紫は自分の苺を、橙のケーキに乗せてやった。
橙はそれに驚いて、紫の方を見ずに藍を見て、どうすればいいのかと目で尋ねた。
藍が優しく頷くと、橙はようやく自分の方へ向いて、ありがとうございます! と大きく礼を言った。
耳を澄ませば障子の向こうから、微かに聞こえてくる音がある。
音はそんなに大きくなっていたか。
これでは、誰もが逃げれまい。
「素敵なプレゼントね……」
「紫様」
「ん?」
「苺、私のいりますか?」
「欲しがると思ってるの?」
「そうですか」
「寄越しなさい」
「あっ」
―――――
スイトピーから歓声が生まれた。
子供たちの笑い声と、大人達のどよめきが丘の上に交差する。
理由も仕組みも解らないが、ルナサは疑問を口にする事はしなかった。
リリカとメルランが祈り、待っていたもの。
その願いが叶ったのだろう。
歓声は熱となり身を焦がした。
世界が喜んでいた。
空に生まれた音を称えていた。
知っている声も聞こえる。
大人達のどよめきも歓声に変わる。
犬がはしゃぐ音まで混ざってくる。
あらゆる生き物が、演奏を楽しんでくれていた。
それらの全てを力に変えて、ルナサは限りない音を世界にばら撒いた。
レイラは祈るように手を組んで、演奏に耳を傾けている。
三人は何の合図も無しに空に浮き、ゆっくりとレイラの周りを回り始めた。
音に戯れるように、レイラが両手を空に伸ばす。
その姿がまた揺れた。
取り戻しつつある視界の中で、レイラの姿は少しずつ薄くなっていった。
レイラの手にルナサは自分の手を絡めようとした。
その手を掴む事は出来なかった。
しかし、熱さがあった。
確かに感じた。
手の平にじんと来る、熱さがあった。
レイラは笑顔のまま泣いていた。
崩れていく身体で姉達の音に少しでも近付こうと、両手を伸ばした。
ルナサの頬に触れて、拙く唇を動かした。
『ありがとう』
消えていくレイラを見ながら、誰一人演奏を止めなかった。
何が届くか、何を届けられるか、解っていた。
消えていく。
止められない。
もう少しだけ。
自分達の声を聞いて欲しい。
最後まで聞いていって欲しい。
強い風が吹いた。
演奏は終わり、吹き付ける風がルナサに泣いている事を教えてくれた。
―――――
それから三日が過ぎて。
ルナサ達が、朝食を食べ終わってすぐに、玄関のベルが鳴った。
居間にそそくさと滑り込んできた新聞記者は、営業用のスマイルを見せながら、メモとペンを手に早速取材を開始した。
「是非とも、あの事件の真相をと思いまして」
「三日続けて来るとは、熱心な事ね」
「古く外の世界に、三顧の礼というものがあるのですよ」
「何でいつもルナ姉ばっかりに取材するわけー? 私にもしてよ」
「貴女にはしました。でも、駄目でした、嘘ばっかりの嘘吐きです」
「嘘なんかついてないじゃん」
「いーえ『全ては私のおかげ、私の純粋な気持ちが天から奇跡を降らせたのだ』なんて、子供でも言いませんよ。こんな嘘」
「あなた、結構リリカの物真似、上手いわよ」
「そうですか? 意外な才能でしょうか?」
「新聞記者辞めて、芸人になったら〜?」
「辞めませんって、それで、真実の程は如何に?」
「だから、ルナ姉にだけ訊くなってば」
「お姉さんが一番、真面目な返答をくれそうなのです」
「いえ、今回はリリカが正しいわ」
「リリカが正しいわよ〜」
「ほら、私が一番偉いでしょ?」
「うぅ、姉妹一致団結で真実を黙秘する気ですか〜」
「奇跡は奇跡でいいじゃないの。ねぇ?」
「この事件、いつもと雰囲気が違うんですよ。何処の誰に訊いて回っても、奇跡とか浪漫とか絆とか、訳の解らない事ばっかり言う」
「秘密が知りたいの?」
「当たり前じゃないですか。誰もが投げ出したこの超常事件の真実に迫れるならば、今度の新聞大会の結果もきっと鼻高く――」
「仕方ないわね〜。リリカ、例の秘密を話してあげましょうよ」
「え? いいの? あれとっておきだよ?」
「な!? ちょ、ちょっと……はい、いいですよ、どうぞ!」
「ルナ姉の目玉焼きは油の代わりにバターを使ってるから、まろみがあるんだよ」
「………なんと目玉焼きはバターと……うん、これなら明日の一面を飾れ……るかぁ!!」
スパーンと良い音を立てて、リリカの頭が一刀両断された。
新聞だから、痛くはなさそうだが。
「その新聞は?」
「あ、これは昨日の分です。無料で差し上げます」
「いりませんって」
「今日、真実を語っていただけるならば、半年間無料購読サービスの覚悟です!」
「その覚悟、超いらねえ……」
「むむむ……!」
「何が、むむむだ」
「こらこら、虐めないの」
「ああ、ルナサお姉さん、是非ともこのじゃりん子どもを、この場から離してくださいませ」
「というわけで、あなた達。ここはいいから」
「え〜」
「え〜、じゃない。さっさと出る」
「やれやれ、取材から締め出されたよ」
「掃除も洗濯も溜まってるでしょう、出来る範囲で片付けて頂戴」
「はぁ〜い、わかってまーす」
返事と裏腹に、リリカの足は玄関の方へ向いていた。
「やる気ないんだから、本当……」
「騒がしいですねぇ、いつもこんな感じですか?」
「ええ、そうね」
「毎日こんなに騒がしいと新聞も書けませんよ、私は」
「騒がしい事は、素晴らしい事なのよ」
「静かな方がいいですよ?」
「雑音は失ってから大切さに気が付くの。今回は私も色々と勉強になった。あ、お客様に紅茶を出さないと」
「いえいえ、結構です。私、日本茶党ですから」
「そんな断り方があるのね」
「それより、お話の方を……」
ルナサは、適当な所で話を濁しながら、あの日の前後の出来事について話してやった。
天狗は、またはぐらかされた、と唇を噛んで不満そうな顔を作ったが、ルナサの体調不良が奇跡の後に治った事に着目して、今度はそこを穿り始めた。
自分達の存在はライブによって成立ってるのだと、ルナサが天狗に話したら、射命丸文は手帳に走らすペンを止めて、首を捻った。
「どうしたの?」
「いや、大変だなぁ、と思いまして」
「どうして?」
「それだけ毎日にハンデを背負って生きてるわけでしょう? 演奏をしないといけない、しなかったら消滅をしてしまう」
「あなたは息をしないと死んでしまう人を、大変だと思うの?」
「それは……お姉さん方の演奏は、既に呼吸と同義なまでに、当たり前の事として定着していると?」
「近いけど違うわね、例えが悪かったかしら、夏の蝉はどうかしら?」
「儚い命で鳴き続ける、しかし、それは本人が望んでやる事だ、自分達の存在もそうだと言うわけですね」
「蝉が儚い? 何年も土の中で生きてるじゃないの」
「あの暮らしを寿命に入れるのは、蝉が可哀想です」
「土の中の人生が不幸だなんて、誰が決めたの。あなたは土の中の蝉の暮らしを知っているの? そういう生き方が解るの?」
「解りません」
「想像してみてよ、あの子達は土の中で楽しい毎日を送っているかもしれない。夢を見る事は何処だって出来る」
「うーん、難しいですねぇ……」
「私たちも同じよ。夢がある。だから、それ以外の時間も素晴らしく過ごせてるの」
「すなわち、ライブですか?」
「そう、ハンデどころか、私達はそれと向き合って生きている限り、決して不幸にはならない」
「むむむ……」
射命丸は腕組みをしてテーブルを睨み、考え込んだ。
ルナサはその様子が可笑しくて、ぷっと息を吹き出した。
「何です?」
「い、いや、だって、あなたの方が、私達よりもずっとそうじゃないの」
「は?」
「自分の手を見てみなさい。腕組みするときまで、それはないでしょう?」
「え? え?」
「あなたは、手からペンを放すと死にそうだという顔をしているわ」
―――――
「あのレイラは何だったんだろう?」
取材から除け者にされて、リリカはメルランと話し合うまでも無く、二人して庭に出て朝露を蹴散らし、芝生に寝転んだ。
掃除、洗濯、やる事はいっぱいあったけど、こんなに天気が良いと、寒くてもつい外に出てしまう。
「だから〜、奇跡でしょう?」
「奇跡って……そうは言ってもさ、いや、そうかも知れないけど、計ったように出てきたじゃない?」
「あら、奇跡だと不満があるみたい」
「探究心と言ってよね」
「解らないから美しいという事もあるわよ」
「お、何かを知ってるみたいな言い方じゃん」
「リリカが不満に思ってるのなら、私の妄想でよければ聞かせてあげましょうか?」
「何、本当に知ってるわけ?」
ざぁ……という音がして、リリカの周りの草が揺れた。
頬にかかった前髪をくすぐったそうに払って、メルランは続けた。
「伝家の宝刀は何処にあったかというお話よ」
「でんかのほうとう?」
「レイラの遺品はレイラと一緒に土の下に眠ってるの。ぬいぐるみ、小物入れ、楽譜、それから何があるかしら?」
「え? うーんと……あ、マジックアイテム?」
「はい、マジックアイテム。私達を、騒霊を生み出した張本人ね」
「おおー」
これは信頼できそうな話になりそうだと、リリカは半身を起こした。
「ねえ、リリカ。こうは考えられないかしら? あのマジックアイテムはね、まだ魔力が残っていたのよ」
「魔力ってーと、つまり騒霊を作り出すことが出来る魔力?」
「そうよ、レイラの叶えたい想いは私達三人の具現化で全て。それ以上あの道具は彼女に必要なかったの。だから使い切っていなかったのね」
「メル姉は、あれはレイラの騒霊だって言いたいの?」
「例えば幾つかあるけど、音で呼び出されたり、音を喜んだりするのは、騒霊の典型よね。レイラと私達の最初のやり取りも音と音」
「でも、騒霊だったらさ。話す事はともかく、音を出す事は出来ないと変だよ。あの子は何も音を立てられなかったじゃないの」
「そう、そこが大事。本当に騒霊が作れるならば、最初から完全な自分の騒霊を準備しておけばいい、レイラにはそう出来なかった理由があるの」
「むう?」
「レイラは生きてる時から現状を最高だと決め付けた。あの子は常に幸福の絶頂であり、そのまま満足な死を迎えてしまったの。これでは残す想いがないわね。満足な騒霊の材料が無い」
「材料? ってそもそも自分で自分の騒霊を残すなんて、出来るのかな?」
「たぶん出来るわ。本人の意思に関係なく、本人の生死に関係なく、アイテムと作り手と想いと魔力さえあれば出来るのよ。私達みたいにね」
「……つまり私達の材料は」
「別れ際に此処に残した、姉妹それぞれの想いよ」
「なるほど、レイラにはそれが無い」
「そう、執着や欲が、あの子には少な過ぎた」
「じゃあ、やっぱりレイラの騒霊なんて作れないじゃん」
「満足な材料は無いけれど、あの子には只一つ私達への想いがあるのよ、あの子は未来への不安と切望で、半端な騒霊を作り上げたの」
「不完全、だから自分の声も出せず、すぐに消滅してしまったと。でも、これじゃあ何の為に作ったのか解らない」
「リリカが言ったように、もし、あの子が自分が消えた未来を見据えて、私達に楽器を残したのだとしたら、レイラはこういう弱った事になる場合を想定していても変じゃないわね。私達が躓いた時、あの子は小さな手助けになるようにと、自分の騒霊を一緒に眠らせておいた。騒霊としての存在と、レイラが作った存在と、二つの結びつきを強固にさせる答えは何か? そう考えた時に、墓での演奏に気が付くように仕向けておいた、という事ね」
漠然とした奇跡というものに、それなりの理由が付けられた。
リリカが知りたかったのは、こういう話だったはずだ。
だけれども、リリカは唸った。
「……もしかしてさ、別に私達のライブじゃなくても、単にでかくて長い音だったら、レイラの騒霊は出てきたって事?」
「そうよ、また不満?」
「……」
「みたいね〜」
「姉さん、それいつから気が付いてたの?」
メルランは逃げるようにふわりと飛び上がり、庭の隅の銀杏の老木の枝に腰掛けた。
黒く葉も無い巨木に、メルランの白さが眩しく感じられた。
「こら、逃げるなー」
「駄目な話よね。こんなの信じちゃう人がいたら、顔見てみたいわ〜」
「は?」
「無茶苦茶に駄目、話として致命的な欠陥がある。リリカが不満なのは正しい事なのよ」
「おいおい、今まで真顔で話しまくってた当人が言う台詞じゃないって」
膝を支点にメルランはその場で、ぐるりと180度回転すると、逆さまに髪を垂らした。
そうして、反対向きのまま、にぃと笑った。
「だって、相応しくないの!」
「……え?」
「レイラの笑顔に相応しくない、私の能天気さに相応しくない、姉さんの涙に相応しくない、ずれてる、美しくない、何より浪漫がそこに無い!」
「い、いや、ちょっ」
「リリカ、あなたが考えたジングルベルは美しかったわ。あれぞ奇跡よね、ビューティフォーよね。さて問題です」
「何? いきなりクイズ?」
「後に続くリリカの奇跡に相応しいのはどーっちだ? A:音で出てきた騒霊ちゃん B:素晴らしい絆の演奏がレイラという奇跡を呼んだ」
「A」
「だぁーっ、メルランビームッ!」
メルランがリリカに靴を飛ばす。
リリカは靴を当たり前のように避けたが、メルランはバランスを崩して頭から土に落ちた。
「ぎゃふんっ!」
「でたっ! 幻想の音! あ、大丈夫? 首の角度おかしいよ?」
「い、いたたっ……あうっ……つ、つまりこれが相応しいという事、メルラン・プリズムリバーとは常に明るく元気で――」
「いやー、良い音が取れた。これが伝説の『ぎゃふんっ!』か」
「取れたの!? 使うの!?」
「うん、ライブで」
「やだ〜、身を張って場を和やかにした姉に対して、尊敬の念を抱きなさいよ〜」
「あはは、解ってる、解ってるって」
「後で首に湿布張ってね、リリカ」
「やだ〜」
「解ってないわね、こいつぅ」
「はははっ、やーめーてーよー、にこやかにコブラツイストはやめてよー」
流れるように姉といつもの喧嘩に移って、リリカは思った。
(さすがはメル姉だ。まだまだ、敵わないや)
動こうとした時は理屈じゃない。
だけれども、最後まで相応しさを信じて動いたから、そこに理屈が生まれた。
最後に選ぶべきものは、相応しいという形なのだ。
理屈で雁字搦めにするよりは、好きなように想像して一人一人らしさを持てばいい。
真実が無数に存在していたって、誰も困りはしないのだから。
取り分け、奇跡ならそうだ。
どんな尤もらしい理屈を付けたって、近付いたように見えるだけで、距離は同じままなのだ。
例えば、銀杏の下の壊れた古時計。
前見た時より、針が少しだけ進んだように見える。
あれに『メルランが落ちてきた振動で、針が少し動いたんじゃないの?』なんて理屈は無意味だ。
あいつは最後の力で一歩踏み出したのだ。
切りの良い所まで行こうと、自ら十二時を目指したのだ。
一日の終わりを、そして次の日を告げる為に、歩いた。
想いが死して尚、奇跡を生んだ。
それが、あの子に相応しい。
「まーた、喧嘩か、あなた達は何だってそう……」
玄関からルナサの困った声がした。
リリカはメルランを振り払い、肺一杯に朝の空気を吸い込んで、光の下を走り出した。
愛する屋敷へ、愛する姉へ、キーボードを手に抱え、自分に一番相応しい言葉を考えながら。
「ねぇ、ルナ姉!」
「ん?」
「今日は何処でライブをするの!?」
リリカが生きているとは、そういう事だ。
■作者からのメッセージ
クリスマスを大幅に過ぎてから、こういうネタも申し訳ないですが……。
最後まで読んでくれた方、途中からでも読んでくれた方、本当に有難うございます。
プリズムリバーのテーマは本当に名曲ですよね。
あれは、素晴らしい、神だ。
1/16 誤字を一部修正しました。
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Index
2006年1月8日 はむすた