00:15(+53)
「私たちの勝利は既に確かなものです」
永遠亭の通路を粛々と歩む影がふたつ。
「なれば、あとは如何に勝つか、それのみが問題です。先に遣ったウドンゲたちのみでも、紅魔館に脅威を伝えるには十分でありましょう。ですが、より明確な形で我々の勝利を喧伝するには、やはり……」
「私たちの力が必要になるかもしれない、そういうことね」
蓬莱山輝夜と八意永琳のふたりだった。
輝夜が先を行き、三歩遅れて永琳が続く。
夜闇に閉ざされた屋内。燭台の類はなく、ふたりのつま先を照らすのは、輝夜が右手に持つ蓬莱の玉の枝、それがこぼす小さなきらめきだった。
輝夜の手の中で、くりん、と枝が回る。枝に生った七色の実が、光を落とす角度を変えた。
「けれど永琳。こんな、穢れた地上の連中がやるみたいな野蛮な方法しかなかったの?」
「野蛮な者を相手取るには、野蛮人の言語を用いるしかないのです。いつか彼女らが私たちの段階にまで追い着くときが来るとして……今は、こちらが合わせてあげるしかありません」
「手間ねぇ」
言葉とは裏腹に、輝夜は口元を愉快げにほころばせていた。
くりくるくりん、と枝が回る。
やがてふたりは玄関に至り、そのまま表へと出た。中天に浮かぶ満月が、波長の強い光で出迎えてくれる。
あんなのまともに見たら、地上人が狂って月へ行きたいと考えだすのも無理からぬことね――輝夜はそう言って笑った。
玄関の先には一丁の網代駕籠が置かれていた。周りには駕籠舁きと駕籠脇を含め、二十羽近くのイナバがいる。皆、緊張の面持ちをしている。
彼女らに、輝夜は柔らかく笑いかけた。
「それじゃあ、行きましょうか」
ちょっとその辺りまでお月見に――とでも後に続きそうな、あっさりとした口調だった。
もちろん、そんなお気楽ハイキングなどではない。
これより輝夜たちが赴くのは戦場だった。まだ開戦前なので、厳密には予定戦場と呼ぶべきか。
とにかく、これから永遠亭は紅魔館と一戦交えるところなのである。
作戦名は「月に叢雲」(鈴仙は陰で勝手に「オペレーション:ブレイク・ザ・カウンター」などと呼び替えているらしい。ソースはてゐ)。紅魔館へ長征、あと一時間もしないうちに最終フェーズが遂行されるであろうロケット打ち上げ計画を、実力で阻止するのが目的だ。
永琳が作戦を提唱し、輝夜がこれに裁可を下したのは、ほんの数時間前のこと。ロケットが今夜発射されようとしている、そんな報告を密偵より受けてからだった。
いつも周到な永琳にしては泥縄に過ぎる対応と見えた。なにしろ月ロケット計画の存在そのものは、半月も前から察知していたのだから。それから今夜までの間、彼女が行った具体的な対策といえば、イナバ部隊の再編成と指揮系統の刷新くらいのものだった。
前例もあることだし、どうせ今回も立ち消えになるだろうと高をくくっていたのかもしれない――そんな噂が、イナバたちの間では流れた。
予定戦場へと向けては既に鈴仙を指揮官とする制空戦力が先行しており、輝夜たちは後詰めとなる。頭数こそ少ないが、輝夜と永琳はそれぞれ一騎当千の実力を誇る。戦局を左右する増援となるのは間違いないだろう。
贅を凝らした造りの駕籠を前にして、なのに輝夜は不満げに唇を尖らせていた。
「牛車が懐かしいわ。あれはゆったり乗ることができたんだけど」
「姫が牛の世話をしてくださるのなら、明日にでもご用意いたしますよ」
永琳の微笑は、その言葉が半ば以上本気のものであると告げていた。
輝夜はますます頬を膨らませながら、駕籠に乗り込む。
そして未練がましく過去の栄華に想いを馳せようとしたとき、周囲のイナバたちが何やら騒ぎはじめた。
「なに?」
自らの手で簾を持ち上げて外を確認した輝夜が見たものは、紅蓮に燃え盛る火の鳥が突っ込んでくる光景だった。
直後、極熱の衝撃が駕籠を吹き飛ばし、輝夜の天地は二度三度と引っくり返った。
「うわっ痛っ、って、熱い熱い!」
駕籠の回転が止まったと思ったら、簾の隙間から炎の赤い舌が幾筋も侵入してくる。周りが、いや駕籠自体が炎上しているのだ。
輝夜はほうほうの態で焼け落ちつつある駕籠から這い出た。
そこに待ち受けていたのは、ぎらつく赤の翼を背負った少女。藤原妹紅。
「やあ。こんばんは、輝夜」
この事態に、もちろん永琳たちは黙っておらず、殺気立って彼女を取り囲んでいる。
しかし妹紅はなんら怯む様子もなく、涼やかな目つきで輝夜のことを見下ろしていた。
「待ちくたびれたんだよ? どうも永遠亭におかしな動きがあるってんで見張ってたんだけど、さっきから出てくるのはイナバばかり。冷え込んできたし、もう少ししても姿を見せないようなら、こっちから殴りこむところだったんだから」
そこでやっと輝夜は、一見して冷静そうな相手の目に、強い苛立ちの色が混ざっていることに気付いた。
消し炭と化していく駕籠を振り返り、それからまた妹紅に向き直る。その頃には落ち着きを取り戻していた。
四つん這いの姿勢から立ち上がって、視線の高さを合わせる。
「……今日は、半獣が一緒じゃないのね」
「お前らの馬鹿騒ぎに興味があるらしくってね。紅魔館へ行くと言ってた」
妹紅は軽く肩をすくめた。
「お前らが何を企んでいるか、それは知らない。だけど……お前の策謀とあっては、すべからく邪魔するしかないだろう、私としては。なあ?」
「……野蛮ね。それでこそ妹紅よ」
熱風に黒髪を揺すられて、輝夜は笑った。視線は妹紅に定めたまま、
「永琳、行きなさい。すべてあなたの裁量に任せる」
「御意」
永琳はうなずいた。「あー、はい、そうでしょうよ。一家の大事よりも、想い人との逢瀬の方が、比較にもならないほど重要なんですよね姫は」――そんな嘆きと呆れをあからさまに見せながら。
それにはもはや構わず、輝夜は手に持っていた蓬莱の玉の枝をくるん、と回す。七色の玉は炎の輝きを吸って、一様に朱と染まった。
輝夜は花の香を嗅ぐかのように、枝を鼻腔に近づける。
「こんな肌寒い夜だもの。私を暖められるのは妹紅の情熱くらいだわ」
「骨まであっためてやるよ」
妹紅の右拳が炎を纏った。
「はいはい、こっちは出発するわよ」
永琳が手を打ち鳴らして、イナバたちを呼び集める。駕籠舁きも駕籠脇もなくなり、皆等しくただのイナバであった。
そんな彼女たちのうち、一羽を永琳は指差す。
「そこのあなた、副官顔だわ。今から私の副官ね」
適当きわまりない選出が終わると、指先は紅魔館の方角を向いた。
「では、出陣」
永琳たちが発つと同時。輝夜と妹紅、炎の第一ラウンドが開始される。
おぺれーしょん・かうんとだうん 3
01:02(+6)
『こちら北岸監視担当、方位〇三二に新たな敵影を確認。照合、八意えいり……』
被弾音。
☆
まだ弦がかすかに震えている弓を、永琳はゆっくりと下ろした。空いている側の手で後れ毛を気だるげにかき上げる。
「敵警戒、沈黙」
隣で副官イナバが目を凝らし、確認した。永琳の矢が的中したのは、百メートル以上も遠くの敵メイドだった。
永琳とその麾下にあるイナバたちは、弾幕の光が湖に反射しているのを確認できるくらいの地点まで進軍を果たしていた。
「こちらに気付いたみたいだったけれど、本隊に報告を許してしまったかしら。まあ、どちらでも構わないんだけれどね」
永琳はつぶやきながら、腰に帯びていた革鞄から小さな望遠鏡を取り出した。月製のテレスコープだ。
副官の羨むような視線を無視しつつ、それを弾幕の激しい空域に向け、レンズに目を近づける。
「あ」
覗き込むなり、思わずといった風に声を上げた。
「ウドンゲがやられたみたい」
「マジ……本当ですか?」
副官も驚きに耳をぴんと伸ばす。
「マジよ。でも――かなり頑張ったのね。全軍に勢いもある。制空権こそ取れてないけど、まあ及第点かしら」
永琳は左頬にえくぼを作った。目の前で弟子を撃墜されながらのその笑みは、そばの者たちには非情なものと映ったかもしれない。
望遠鏡が紅魔館正門の向こう、中庭へと向けられる。そこににょっきり頭を見せているのは、巨大な金属製のオブジェ。
「目標を確認、侵入コースを取る。各員、対空対地戦闘用意」
淡々と、永琳は指示を下した。
☆
「ほら、お姉様。早く早く」
「ちょっと落ち着きなさい、フラン」
館の通路を紅い姉妹が高速で飛翔する。正確には、フランドールがレミリアの腕を掴んで強引に引っ張っているという形だったが。
じき、二人は玄関から月光と弾幕あふれる夜空へ飛び出した。
フランドールは目を輝かせ、急上昇しながらバレルロール。
「おーおっきっな、そっらをー」
「フ、フラン、やめ……」
妹に捕まえられたままのレミリアは大きく振り回される。
どうにかそれから逃げると、逆に妹の腕を掴み返しながら、レミリアは主戦場の方角へ視線を飛ばした。
そして目を瞠る。妹を迎えに行く前と比べて、弾幕の光がずっと近くまで迫っていた。
月光の届かない屋内では帽子の通信機能が使えなかったため、レミリアはここ数分の戦況が把握できていない。何があったのか、どうしてこうも苦戦しているのか――そう困惑するのも無理からぬことだった。
咲夜を通信に呼び出そうかと考えたところで、正門の光景が目の端に入った。何やら騒がしい。
よくよく見てみると、どうやらチルノが美鈴と揉めているらしかった。
「あいつ、なんで……」
いつだったかの出会い以来、あの氷精は時々ふらりと館に近付いてきて、門の中を覗き込んでいく。レミリアとしては、それを迷惑に思う気持ちはなく、どちらかといえば微笑ましく思っていた。
だが、今夜は話が別だ。
「いい、フラン? ちょっとここにいて。動いたらダメよ。絶対に動かないでよ?」
妹に念を押して言いつけると、彼女は正門へと向かった。
「だから、今はそれどころじゃないの。見れば分かるでしょうが。さっさと帰りなさい」
「見て分かんないから、説明しろって言ってんの! あんたじゃ話にならないわ。門番風情は引っ込んで、レミリアを呼んできなさいよ」
「なっ……お嬢様を呼び捨てにした上、誇りある門番職を貶すとは」
美鈴がチルノの胸倉を掴み上げるが、氷精は怯む色もなく、フンと鼻を鳴らした。さらには裸足のつま先で、美鈴の向こう脛をげしげし蹴りまくる。
「くらえくらえ、この、かんけんおーぼー!」
「こいつ、やめさないって。誰が官憲か」
「うるさい、変な格好して。何よその頭」
「こ、これは好きでやってるわけじゃ……」
そんな子供の喧嘩まっさかりのところへ、レミリアはやってきたのである。
「あっ、レミリア!」
「お、お嬢様……」
そばまで来たレミリアは、二人を交互に見比べ、溜め息をついた。すくみあがっている美鈴はさておいて、チルノへと顔を向ける。
「……どうした?」
「どうしたって、それはこっちが訊きたいんだってば。なんなのよ、この騒ぎは。眩しくって眠れやしないわ、空から人がばたばた降ってくるわ。妖精仲間たちはみんな、落ちてきた人を拾いに行くし。どういうことか説明してよ」
チルノは美鈴の手を振りほどいて、レミリアに向かい合う。吸血鬼の魔王が相手だというのに、遠慮も畏れもまるでない、旧来の知己を相手取るかのような口ぶりだった。
それにレミリアは何を思ったのか、すっと目を細める。
「後で話すわ……ゆっくりとお茶でも飲みながらね。でも今は美鈴の言うとおり、遠くに離れているがいいわ。氷精が首を突っ込むには危険すぎる夜だから」
「何よそれ、いつも偉そうにー」
頬を膨らませるチルノから美鈴へと、レミリアは眼を移した。
「状況はどうなってるの?」
「あ、はい。それが、その……」
美鈴はしどろもどろになって、まともな言葉を出そうとしない。
まあ、すぐそこまで敵が迫っているのが見えているのだ。主の耳に入れるのが憚られるような戦況であることは間違いない。レミリアは美鈴が口ごもるのを、そう解釈した。
しかし咲夜ならば、こういうことは忌憚なく教えてくれるはずだ。美鈴から眼を外すと、自分の帽子に向かって呼びかける。
「咲夜、状況は?」
短く問い、返答を待つ。
数秒、返ってくるのは沈黙のみだった。
眉をひそめようとしたとき、やっと声がした。
『こちらガードリーダー、前線の指揮を引き継ぎました。敵はなお強力に侵攻中、また、北北西に増援を確認』
それは予想しなかった相手、近衛中隊のリーダーを勤めるメイドの声だった。
自分が呼んだのは咲夜だ、出しゃばるな――そう怒鳴りかけ、レミリアはある可能性に思い当たる。
美鈴を向き、彼女が気まずげに目を逸らしていることで、やっと事態を理解した。
理解はしたが、認めることはできなかった。
「レミリア……?」
急に押し黙ったことで、チルノが気遣わしげに顔を覗き込んでくる。
そして氷精は息を飲んだ。
レミリアは真紅の瞳を鮮やかに燃え上がらせていた。憤怒の火を灯していた。
唇の隙間から、禍々しい牙がのぞく。
「……許さないわよ、咲夜。約束を破ったお前も、お前に約束を破らせた連中も、ことごとく」
紅い篝火が戦場をねめつける。レミリアは漆黒の翼を広げると、血色の螺旋となって飛び出した。
飛び去った影を美鈴とチルノが呆然と見送っている後方で。
姉にとどまるよう言いつけられたままのフランドールは、剃刀のように薄い薄い笑みを、その面に広げつつあった。
☆
両軍は同時に指揮官を失い、だがその一事が及ぼした影響は好対照なものだった。
紅魔館側は大きく動揺した。
何しろ十六夜咲夜といえば絶対無敵の素敵なメイド、不沈艦のごとき存在だったのだ。巫女や野良魔法使い相手に敗北の憂き目を見たこともあったが、あれは相手が悪すぎた。レミリアをも下すような連中が相手では仕方ないというものだ。
とにかく、わずかな汚点を差し引いてなお、咲夜の武威は輝かしいものだったのである。
それが倒れた。倒された。起こりえぬはずの事態が起きてしまった。
程度の差はあったが、これに呆然となった者は決して少なくなかった。咲夜が撃墜されるのを目の前で見てさえ、現実と把握できない者がいたくらいだ。
皮肉なことに、敵にはない高度な通信装備が、状況の悪化に拍車を掛けた。
「咲夜墜つ」の報があられもない状態のままで戦場を駆け巡り、友軍を打ちのめした。確認を求める声が同時多発し、回線をパンク寸前にまで追いやった。
そんなざまだったので、近衛中隊隊長が指揮を引き継ぎ、それを全軍へ報せるまでに、無用な時間を要することとなる。
頭部を失った紅魔館メイド部隊はそれを挿げ替えるまで、わずかな時間とはいえ、全身麻痺に近い状態に陥ったのだった。
対して永遠亭側はといえば、逆に奮起した。
これは指揮官との視線の高さが異なったためだろう。
鈴仙・優曇華院・イナバは十六夜咲夜ほど完璧な存在ではない。高い能力を持ってはいるのだが、性格的に抜けている面があり、てゐに翻弄されたり永琳に叱責されたりする場面が日常でよく見られた。どちらかといえば尊敬よりも親しみを、部下から持たれるタイプだった。
そんな鈴仙が先頭に立って弾幕に身をさらし、奮戦し、挙句、敵指揮官と相撃ちに散ったのだ。
それを目にしたイナバたちは彼女の勇敢さに打ち震え、彼女を失ったことに悲しみ、憤った。沸騰した感情の奔流は、自然、目の前の敵へとぶつけられる。
それをさらに後押ししたのが、臨時副官の声だった。
「前へ! 進むのです!」
それは、鈴仙が残した最後の指令。
ああ、進もうじゃないか。彼女の意を、自分たちが完遂するのだ。
「おおっ!」
臨時副官の声に大勢が応える。声を重ね、彼女らは群れを成して宙を駆ける。全軍突撃ガンパレード。
☆
一時二分。
短くも激しい攻防の末、永遠亭主力部隊はついに敵前衛の突破に成功した。
01:03(+5)
彼女の本当の名を、ここにあえて記すこともないだろう。
彼女はごく普通のイナバだった。強いて特徴を上げるならば、他に比べてちょっとぽっちゃりした体型をしていること、それと並外れて大きな声を持っていること、そのくらいだった。
ごく普通のイナバだった。
それが何の因果か、今は戦火の只中で、全軍の先頭に立ってみんなを引っ張っている。持ち前の大声で皆を、自分自身を鼓舞し、敵を蹴散らしながらひたすらに前進しようとしている。
きっかけは、声を嗄らしつつあった指揮官のそばに、たまたま居合わせたこと。たったそれだけの縁で、開戦早々に行方不明となった正規の副官の代理を任されることとなった。
驚いたし、正直なところ迷惑だとも思ったが、断れる状況じゃなかった。指揮官にあんな顔で、あんなカラカラの声で頼まれちゃ、とても拒めない。
それに、指揮官のことが嫌いじゃなかったから。
だから、彼女は指揮官が倒れた後も、役職を放棄せずにいる。指揮官から最後に受けた指示――「何がなんでも敵を抜く」――を愚直に果たそうとしている。
そして、今。ついに分厚い壁を一枚、ぶち破った。
歓喜と興奮に、彼女はさらに声を高める。肝心なのは腹式呼吸。進め進め突き進め、と続く仲間たちに呼びかける。
仲間たちの応える声。およそ三個中隊が健在、士気もすこぶる高い。
これなら最後の壁だって破れるだろう――彼女はいよいよ紅魔館の正門と、それを守る敵部隊を射程に収めようとしていた。
紅い光が迸るのを、彼女は目にした。
鮮血色の輝きが彼女たちの部隊を貫いた。亜音速で闇を切り裂き、湖上に波濤を立てる。
仲間のイナバたちが衝撃波に弾かれ、悲鳴と共に墜落していくのを、彼女は愕然と振り返った。
「血の色の……槍?」
そして凄まじいまでの悪寒に襲われ、正面へ視線を戻す。
そこには、真紅の螺旋と化して突っ込んでくる幼い悪魔の姿があった。
彼女の本当の名を、ここにあえて記すこともないだろう。
一瞬後、彼女は紅い砲弾の直撃を受けて、空に瞬く星のひとつと化してしまったのだから。
☆
紅い残像を虚空に映しながら、幼い吸血鬼が飛ぶ。
瞳を、やはり不吉な紅に光らせて。闇から闇へと瞬時に駆け、哀れな兎たちの間を紅い残光で結ぶ。
「ひっ」
いきなり鼻先へ現れたレミリアの姿に、そのイナバができたのは短い悲鳴を上げることのみだった。
それすらも中断を強制される。吸血鬼の小さな手が、イナバの顔を鷲?みにしたのだ。
恐ろしいまでの膂力で頭蓋を締め上げられ、たまらずイナバは死を予感した。
涙を浮かべながら失神した彼女を、レミリアは無造作に投げ捨てた。その反動で初速を得、また別のイナバの懐へと一瞬にして移動する。
そして腕を一閃。新たな悲鳴が響き渡る。
イナバたちは為す術もなくレミリアの爪牙に狩られていく。
吸血鬼の常識はずれな瞬発力に基づく機動は、咲夜の空間圧縮を思い起こさせるものだった。しかし、レミリアが纏う鬼気は、咲夜のそれとは比べ物にならない。圧倒的な殺気が獲物の身をすくませ、抗う気力を奪ってしまうのだ。
たった今まで最高潮にあった進撃の勢いが、あっという間にとどめられ、打ち砕かれていく。
転瞬の間に、そこは紅い悪魔の狩猟場と化したのだった。
「うわ……お嬢様、本気で怒ってるわ」
美鈴以下の門番中隊は、目の前で展開されている光景に息を飲んでいた。
弾をほとんど撃たず、格闘主体で戦っている事実は、レミリアが冷静さを欠いているという証左だった。逆上しきって、ほとんど本能で動いている。
それはとても弾幕ごっこと呼べるものではない。もはや戦闘ですらなかった。一方的な蹂躙だ。
じき門前まで到達するかと見えていた敵主力を、レミリアはたったひとりで押し返しつつあった。痛烈極まるカウンター。
これを
「さすがお嬢様だ。頼りになるぜ」などと受け止められるほど暢気な者は、さしもの門番中隊の内にもなかった。レミリアの暴力的なまでの強さは、味方をも震え上がらせるに足るものだった。
おかげで加勢に向かおうという気も起きず、雁首揃えて見守っているという有様なのである。
もちろん、レミリアの攻撃をかいくぐって門前まで前進を果たすイナバもいくらかはいたが、指揮系統を粉砕された彼女らなど、門番中隊の敵ではなかった。ちょいとひねってやって、中隊はまた主人の狩猟に眼を戻す。
「……あれ?」
ふと、中隊のひとりが、きょろきょろと辺りを見回した。
「どしたの?」
美鈴が問うと、そのメイドは小首をかしげながら応じた。
「いえ、それが……あの氷精がいなくなってるんですが」
「え……あら、ほんと」
さっきまですぐそばにいたはずのチルノが、姿を消していた。美鈴は周囲をぐるりと見渡すが、どこにもその影を捉えることはできなかった。
門を越えていったということはないはずだが――美鈴も首をかしげ、だがすぐにそんな瑣末なことは脳裏から消し去る。たかが氷精一匹、この争乱の中でどれほどの意味があろう。
☆
正門へ向けて進撃中の永琳たちも、レミリアの猛威を認めていた。
「このタイミングでお嬢ちゃんが出てくるなんて……もしかして、まだ打ち上げまで余裕があったのかしら」
事前に得た情報から永琳が算出した推定発射時刻までは、あと五、六分というところだった。それが合っているなら、搭乗員はそろそろロケットに乗り込んでいなければならないはず。レミリアは地上でのお留守番に甘んじる性格ではない、だから戦線に加わっているはずがないのに。
「あるいは……そうね、大事な召使をやられて怒り心頭、そう見るのが自然か」
なんにせよ、大いなる脅威であることに違いはない。
永琳は輝夜を残してきたことにわずかな後悔を覚えていた。こんなことなら妹紅とセットにしてでも連れてくるんだった。
とにかく並のイナバたちでは吸血鬼の相手は務まるまい。永琳は主力部隊との合流を急ごうとする。
しかし、その行く手を敵の一個中隊が阻んだ。
互いに高速で接敵、すれちがいざまに弾をばら撒きあう。
最初の交錯で、永遠亭側は三人、紅魔館側は五人が落とされた。それぞれ旋回しつつ、仕切りなおし。
「こちらキッチンリーダー、敵増援部隊のインターセプトに入った。敵指揮官は八意永琳。至急、援護求む」
敵編隊長の怒鳴る声が耳に入ってきて、永琳はすっと目を細めた。
「ああ……なるほど。無線装備ね」
「むせん?」
並列飛行する副官のイナバが聞きとがめてきた。
「遠くの仲間とお話できる道具よ。見るからにそれっぽいものは身に着けてないけど……たぶん、あの頭飾りがそうね」
「どうして分かるんです?」
「私、天才だもの」
永琳は冗談っぽく目配せして見せる。
「あんなものを用意していたなんて、ちょっと見くびりすぎていたみたいね。こっちも次までには揃えておかなくちゃ」
再度、敵と交錯。それぞれの部隊から、また犠牲者が生まれた。
「でも今は……あちらさんのを、ちょっと拝借しましょう。いまさらかもしれないけれど、やりたいこともあるしね」
永琳はさらにいたずらっぽい笑みを作り、一転して鋭い声になって指示を出す。
「メイドをひとり捕まえるわ。各員、私のサポートに着け」
☆
「発射五分前」
パチュリーの静かな囁きが全メイドの耳に届けられる。
「もう五分。みんな、こらえてちょうだい」
『了解!』
『まだ五分もあんの?』
『らじゃっ。五分が五十分だったとしてもっ』
各部署からの返声には、多少の差こそあれ、疲労の色がにじんでいた。
パチュリーの顔にも疲弊の色が濃い。計画主任という立場上、仕方のないことだが、目の回るような忙しさに翻弄されていた。
それを押して彼女は作業を進める。
「通信班、怪情報の発信源は解析できた?」
『こちら通信班、魔力の逆探知継続中。間もなく割り出せます』
「了解。急いで」
通信を終えると、パチュリーは深く息をつきながら、崩れるようにしてパイプ椅子に腰を下ろした。
そばに控える小悪魔が気遣わしげな顔で、水で満たしたグラスを差し出した。そしてためらいがちに申し出る。
「あの……もう、搭乗なさっては? ここまで来れば、あとは私ひとりでもどうにかなると思いますけど。管制については完璧に覚えましたし」
「そうしたいのは山々なんだけど。レミィが戻ってこないことには、ねえ。まったく、時々はっちゃけすぎるんだから、あの子」
ほんのちょっと前からだが、レミリアとは交信ができなくなっている。どうも向こうから回線を断たれてしまったらしい。
パチュリーは再び深い溜め息をついた。それから不意に、息を詰まらせたかのような音を漏らす。
「あっ……妹様」
「え? あっ」
「レミィってば、妹様を迎えに行ったはずなのに、それをほっぽりだして暴れてるんじゃない?」
小悪魔と見合わせた顔は、血の気を失いつつあった。
フランドール――ある意味で敵戦力以上に脅威である存在が野放しとなっていることに、やっと思い当たったのだ。
☆
現時点で、魔理沙は誰よりも月に近い高さにあった。
両軍の弾幕戦を眼下にする高高度。ちょっとだけチェス盤あたりを見下ろしているような気分になれる。
だが、ひとりきりではない。正面、同じ高度に妖夢の姿がある。魔理沙をこの高さまで釣り上げた張本人だ。
今となってはさすがに、永遠亭側の作戦行動を邪魔させないため誘い出されたのだと、そう気付いている。
だが、いまさら引き返せない。相手もおめおめと逃がすつもりはないだろう。
月のみを立会人とした、頂上の決闘を続けるしかない。
妖夢は半身を戦闘不能に追い込まれながら、なお魔理沙をこの空域に釘付けと出来るだけの底力を見せていた。
射撃能力こそ著しく低下していたが、彼女の本分は剣術だ。相手がちょっとでも隙を見せれば、たちまちに疾風と化して駆け、白刃で黒闇を薙ぐ。ここへ来て、その太刀筋は一層の鋭さを帯びていた。
「どういう集中力だ。下手に手負いにしたのがまずかったかなあ」
魔理沙は気圧されそうになるのを誤魔化すかのように、努めて呆れ声を出した。
こちらは無傷で疲労も少ないのに、どうも優位に立っている気になれない。むしろ有利に甘んじて雑な攻撃をすれば、一瞬後には斬り捨てられていそうな予感がある。事実、ここまでの短い時間で、何度も胆の冷える目に遭わされていた。
それでいて自分からは積極的に切り込んでくるでもない。じっと、妖夢は魔理沙の挙動を見つめている。
大したものだと、魔理沙は舌を巻く。
向こうには厳しい時間制限があるというのに、まったく焦りの色を見せないなんて。初めて会ったときの彼女は、同じような極限状態にあって、もっとがむしゃらに挑んできたというのに。もしかすると、わずかなりと剣の悟入に近付きつつあるのかもしれない。
こちらも焦ってはならない。どうせあと数分すれば、勝利が確定するのだ。
――それは理解していたのだが、「待ち」は魔理沙の性分ではなかった。
周りに余計な者の影はなく、衝突や誤射の恐れなく(誤射ひとりにつき報酬のグリモワールを一冊減らされるという契約だ)暴れまわれるチャンスだというのに。相手が剃刀みたいに研ぎ澄まされた剣客じゃ、それもままならない。
まったく人生とはままならないものだぜ、と魔理沙は大げさに嘆息する。
ふと、奇怪な音が聞こえた。
空が軋んでいる。まるで天蓋にひびが走るかのような不気味な音に、思わず天を見上げてしまう。
そして、本当に空がひび割れつつあるのを目にし、愕然となった。
何十もの鮮やかな緑の線が、網目のごとく空の黒を切り分けようとしているのだ。
その光景は、恐れ知らずな魔理沙でさえ戦慄を禁じえないものだった。
「フランドール……出てきたのか」
01:04(+4)
「発射四分前」
☆
「かーごーめ、かっごっめっ」
怖気を呼ぶほどに無邪気な声が、戦乱の空にこだまする。
虹色の翼を持つ少女が、いびつな形の杖を振り回しながら、空と湖の狭間で唄っていた。
「かーごのなーかのとぉりぃはー」
少女の歌声に合わせ、空を無数の緑線が縦横に走る。それは巨大な籠目を形成し、戦場たる空域を包み込んだ。
地下深くの籠から出やった小鳥は、逆に他の鳥たちを巨大な籠に捕えこんだのだ。
「にーどとでられずしんじゃったーっ♪」
締めのフレーズと共に魔杖が振り下ろされ。
籠目を結んでいた緑の線がいっせいに崩壊した。その破片は弾幕の雨と化して、戦場に降り注いでいく。
数瞬後、天地に被弾音と悲鳴が連なった。
☆
『こちら観測班、フランドール様が十三人撃墜! うち八人が友軍です!』
通信を介した金切り声に、パチュリーはめまいを覚えた。パイプ椅子に座っていなかったら地面にくずおれていたかもしれない。
「やってくれたわね……」
「誤射、じゃないですよね」
小悪魔も苦い顔となっている。
恐らく、フランドールには敵も味方もないのだろう。ただ目の前で行われている楽しそうな遊戯に力ずくで混ざろうとした、それだけに過ぎない。
それだけ、で片付けるには、あまりに剣呑すぎたが。フランドールの弾幕は射程、密度、破壊力のいずれもにおいても尋常ではない威力を誇る。
「どうしましょう、パチュリー様」
「こんなこともあろうかと、降雨の術式は用意してあるわ。だけどこの混戦じゃ……レミィも巻き込んでしまうし」
短く考え、パチュリーは帽子の回線を開いた。
「魔理沙、こちらストレガ。応答して」
『パチュリー、フランを戦場に出したのか? なに考えてるんだ。殺す気か、主に私を』
「好きで出したんじゃないわよ。――お願い、あなたが確保して。他に出来る人はいないわ」
『無茶言うな、こっちは辻斬り侍で手一杯なんだ。お前かレミリアが向かえ』
出来るのならそうしているわよ。パチュリーは声に出さず、ただ唇を噛みしめた。
沈黙した彼女の耳に、無線がさらなる音をもたらす。
だがそれは、魔理沙の声ではなかった。
『紅魔館首脳部に告ぐ。私は永遠亭の参謀総長、八意永琳。特使として、ここに我が主の意向を通達するわ』
パチュリーは愕然と腰を浮かしかける。
それを嘲笑うかのように、声は続いた。
『貴家が遂行中の計画は、深慮を欠いた稚拙極まりない暴挙であり、幻想郷における他者の利益をも侵害するものだと断定せざるを得ません。よって我々は武力行使を含めたあらゆる手段をもってこの愚行を裁き、騒乱を鎮圧することを宣言します。――以上』
それは、いまさらもいいところの宣戦布告。
パチュリーはしばし呆然となり、それから我に返ると、怒りに震える声を絞り出した。
「騒乱を鎮圧……? 喧嘩を吹っかけてきたのはそっちじゃない」
拳をつくって自らの膝に叩きつける。そばにいた小悪魔がびくりと身をすくませたが、それに構うことなく、新たな指示を飛ばした。
「通信班、いま使われたヘッドドレスの登録番号を解析、でき次第、機能を封印。それまで作戦行動に関する通信を規制、伝令を主体にすること。――魔理沙、いつまで遊んでるの!? 決闘ごっこなんて早いところ切り上げなさい!」
普段の彼女を知る者からすれば、信じられないほどの剣幕だった。
それから再度レミリアに呼びかけようとするが、そのとき近くで悲鳴が上がった。見れば、空から流れ弾がいくつか、中庭めがけて降ってくる。鋭い紅色の弾丸は、フランドールがばら撒いたものに相違ない。
パチュリーは椅子が倒れる勢いで立ち上がった。
「防御結界起動!」
担当班は既に動いていた。打ち上げ施設を中心に、中庭を半透明の防護壁が覆う。
直後、流れ弾は結界に着弾し、紅い閃光を発しながらはじけ飛んだ。結界が大きく揺動するのを、パチュリーは肌で感じる。
『こちら観測班、フランドール様発のさらなる流れ弾を確認! 着弾まで8、7……』
「総員、着弾予想地点から退避! 門番中隊、防御に長けた人員を三人ほどこっちへ回して!」
『……4、3、2、弾着、今!』
頭上でまたも紅い光がはじける。炸裂音がし、大気が鳴動した。
パチュリーの額には、うっすらと汗がにじんでいた。
いまくらいの散発的な流れ弾なら、この簡易結界でも最後まで持ってくれるだろう。だがもし、スペルカード級の攻撃が来たら、ひとたまりもない。結界は破れ、打ち上げ施設も崩壊するしかない。
それでなくとも、まだ脅威や問題は多いというのに。
パチュリーは我関せずといった顔つきの月を見上げ、ぼやいた。
「思っていた以上に遠い所なのね……だからこそ、向かう意味も増すというものだけど」
☆
永琳は副官に鏡を持たせ、それを覗きながら銀髪に乗せたヘッドドレスの角度を微調整し、満足げにうなずいていた。
宣戦を告げて、彼女は妙にすっきりした顔でいる。頬がわずかに紅潮してさえいた。
「ふふん、言ってやったわ。紅魔館の知識人さんも、いまごろ目を白黒させてるでしょうね」
「……ずいぶんと愉しそうですね」
永琳の帽子を頭に乗せられて、副官はなんともつかない表情になっている。
「そりゃそうよ。宣戦布告って、こう、ぞくぞくしない? なんていうか、『やっちゃった』って感じが。もし私が月に残っていたら、地上人が攻めてきたとき、取っておきのをひとつ打ってやったんだけど。ちなみに二番目に好きなのは降伏勧告ね。草稿も用意済みよ」
まあ使う機会なんてないかもね、と喜色をたたえて話す永琳に、副官は「はあ」と気のない返事をするしかなかった。
居心地の悪さを感じたのか、強引に話題を変えにかかる。
「ですが、吸血姉妹が揃って前線に出てくるなんて、予定外もいいところでは? これじゃ迂闊に近寄れませんよ」
「まあね」
永琳はうなずいたが、さして焦っている様子はない。
「でも、そんなときのためのてゐよ。あの子の活躍には期待してるわ」
ヘッドドレスからてゐの声が何度も漏れ聞こえてきたのを、永琳は確認していた。
『グルーム中隊、射撃中止! それは味方だ! ――あ、やっぱり敵かも』
『ランドリー18、後ろにミッソー! 右に避けて! ――あ、やっぱり左かも』
『上から来るぞ、気をつけろ!』
『魔理沙さんが敵に買収された疑いあり! 変なキノコを受け取っていたという目撃証言があります!』
『私、この戦いが終わったら、故郷に帰ろうと思ってるんだ。幼馴染が待ってるの……』
『こちらキッチン中隊、夜食の準備が整った。ボルシチだ。食堂へ集合せよ』
とかなんとか、よくもまあそれほど舌が回るものだと感心したくなるほどにしゃべくっていた。
しかも鼻をつまんだりして、毎回微妙に声色を変えているみたいだ。想像すると笑えたが、本人は真剣なのだろう。半分以上は楽しんでいるとしても。
てゐの偽情報は少なからぬ混乱を敵にもたらしているはず。混乱は隙を生む。あとはその間隙をいかに突くか。
「こっちもやれるだけのことはやらなくっちゃね。前進再開。怯懦はウドンゲに笑われるわよ?」
☆
戦場の後方およそ五〇〇メートル地点。
射命丸文は永琳に負けず劣らず喜悦の表情を浮かべていた。
戦場の方角へカメラを向けて、ひっきりなしに、
「ジャストショット、ナウ!」
――そんな奇声と共にシャッターを切っている。
「激写完了! いい絵が撮れましたよぉ。これは『崩れ落ちる兵士』とでも名づけましょう」
「著名人の代表作をあからさまにパクるんじゃあない」
隣で呆れ返っているのは、上白沢慧音だ。
「まったく、どこの世でもマスコミの人間にはモラルを欠いたのが多くていかん。そんなのだから、まっとうな報道人まで白い目で見られるんだ」
「いやですね、慧音さん。私は人間じゃありません。それに、まっとうな報道人なんているわけないじゃないですか」
文は悪びれた様子もなく断言する。
慧音は溜め息混じりに、戦場へと眼を戻した。腕を組み、宙にとどまって観戦している。戦闘に関与するつもりはないらしい。
文は伏せたり転がったり膝立ちに構えたり、忙しなく姿勢を変えながら、撮影を続けている。
その合間、慧音に尋ねる。
「そろそろクライマックスといった感じですが、どうでしょう。どのような決着を迎えると思います?」
「私に分かるはずがないだろう」
「またまたぁ。歴史を深く知るあなたですよ? 人の歴史は戦いの歴史、翻せば歴史を知る者は戦いを知る者ということです。こと戦争に関して、あなた以上のアナリストはありえません」
「……幻想郷に戦争などない。これまでも、これからも」
「まさか……今夜の歴史を食べるつもりですか?」
満月の下。慧音の頭からは一双の角が伸び、腰ではふさふさとした尻尾の毛並みが月光に絹のようなきらめきをこぼしている。
文の問いに慧音はかぶりを振った。
「あれは戦争などではない、そう言っているんだ。異変ですらない。巫女だって動く気にはならない……今夜のこの事象は、その程度のことなんだよ」
「それなら、どうしてあなたはここにいるのです?」
「幻想郷の歴史に新たな一ページが綴じられるのを見届けに来た。それだけだ」
幻想郷の住人によって、幻想郷の歴史が創られていく。それはひどくまっとうなことだ。
そしてそれが、慧音には何よりも嬉しい。
彼女は自ら歴史を創り出す能力を持つが、それによって生まれ落ちた歴史は、所詮、本物の魅力を持たない。
人々が創り上げた、そこに生きる彼らの息遣いをも感じられるような歴史にこそ真の価値があるのだと、彼女は信じていた。
☆
湖面すれすれの高さを、紅い光が高速で跳ね回っている。そこいらの未確認飛行物体など目じゃない、出鱈目な速度と機動だ。
レミリアの眼光の紅だった。
既に敵主力部隊を崩壊させ、逃げ惑う敵残党をなおも追い回している。
彼女の飛翔は漆黒の旋風を呼び、その勢いは湖面を時化させるほどだった。波立つ湖水の間で、救助活動にいそしんでいた妖精たちが悲鳴を上げている。
そんなことに取り合わず、レミリアは暴虐の舞踏を刻み続ける。パチュリーからの制止の声を伝えてくる帽子も、うるさいからと捨ててしまっていた。
なのに、今また、暴君を呼ぶ声がある。
「レミリア、レミリアっ!」
背後から近付いてくる声に、レミリアは振り返りざま、苛立ちを乗せて腕を薙ぎ払った。
軽い手応えと同時、
「きゃっ」
小さな叫びが聞こえる。
ぎらつく眼光で自分が吹き飛ばした相手を確認し、そして彼女は目を疑った。
水面に大の字となって引っくり返っているそれは、チルノの姿。
「あ……」
レミリアはかすかな痺れの残る自分の手を見下ろし、それからのろのろと視線を元の位置へ戻す。
湖水に浮かぶ氷精は、目を回して、小さく呻いていた。
レミリアは翼をすぼめ、ふらふらと近寄っていく。開いた口から出たのは、ほとんど音になっていないかすれ声だった。
「なんで……」
「レミ……リ……」
喘ぎながらチルノが身を起こそうとする。レミリアは思わず手を伸ばし、それを助けていた。
蒼い眼差しが、紅い瞳を覗き込む。細い指が震えながら持ち上がった。
「あの殺人メイド……あんたのとこのでしょ?」
指の示す先を見て、レミリアはさらに驚く。湖面に氷で出来た舟が浮かんでいて、その上には気絶した咲夜が横たえられていたのだ。
「私はあいつ苦手だし、どうでもいいんだけど……レミリアは、あいつ、大切なんでしょ?」
「お前……本当に、ばか……」
レミリアは言いかけた言葉を飲み込んで、チルノの頭を軽く抱き寄せた。
「やはりお前は大した奴だよ、チルノ」
「もちろんよ。もっとリスペクトしちゃっていいわよ」
くすぐったげに、チルノは応える。いつの間にやら普段の調子を取り戻していた。見れば大した怪我もなく、どうやらちょっと脳震盪を起こした程度だったらしい。
彼女に促されて、レミリアは咲夜のそばへ向かう。
忠実なメイド長は満身創痍の有様だった。特に右肩と左脇腹の被弾痕が痛々しい。
それでも、レミリアの肩に担ぎ上げられると意識を取り戻して、ささやくような声を発した。
「お嬢様……申し訳ありません」
「不甲斐ないわね。降格ものの失態よ」
頭ふたつ分ほども背の高い少女を、幼い吸血鬼は苦もなく背負い、紅魔館へと引き返す。
その後をチルノが当たり前の顔でついていく。彼女らを追撃しようとする――できる敵はなかった。
地を見下ろす望月を、咲夜は見上げたらしかった。
「お嬢様には見えているのでしょうか……月へと届く運命が」
「ええ、見えているわ。私たちが月へと辿り着く、その運命。私たちみんなが――よ。咲夜、あなたも一緒なの」
レミリアも目線を上へ向けた。
「約束を破った罰よ、無理にでも連れて行って、こき使ってやるんだから。大体、咲夜がいないと、月でお茶を飲みたくなったとき困るじゃない」
「はい……」
咲夜は微笑みながら目を閉じる。
「なに、レミリアたち、月へ行くの!?」
だが、チルノのけたたましい声に、すぐまたまぶたを持ち上げた。憎々しげな視線を、メイド長は氷精に突き刺す。
チルノは意に介した風もない。
「知らないの? 月へは行けないのよ。私、試したことあるもん。途中で息が苦しくなって、気がついたら落っこちてたんだから」
「ふん……それが行けるんだよ、私たちなら」
「えー、うそだぁ」
「帰ってきたら土産話を聞かせてやるよ」
レミリアは唇の隙間に牙をのぞかせて、だがその笑みに先刻までの凶悪さはかけらも残っていなかった。
ほどなく三人は紅魔館の門前まで戻っていた。
どこかびくびくした様子で出迎えた美鈴に、レミリアは咲夜を預け、踵を返した。肩越しに命じる。
「手当てをしたら、先にロケットへ連れて行ってやって」
「え……お嬢様も乗るんじゃないんですか? もう時間ありませんよ」
「私は……」
紅い瞳が戦場を仰ぐ。弾幕の嵐が無軌道に吹き荒れている空を。
「私は、姉としての務めを果たしてくるわ」
☆
『魔理沙、足の速いのを四人ほどそっちへ回したわ。彼女らと協力して、一刻も早く妖夢を墜として』
なおも妖夢と対峙していた魔理沙の耳に、パチュリーからの通信が届く。パチュリーの声に一時の剣幕は失われ、冷静さが戻っていた。
いや、普段以上に静かで、それがどこか不気味ですらあった。魔理沙はわずかな胸騒ぎを覚えながら、下へ視線をずらす。
なるほど、メイドが四人、こちらへ向かってくる。その中にはチェンバー4の幼い顔も混ざっていた。
「足手まといにしかならんと思うがな……」
厳しい戦況の中、パチュリーは苦心して、どうにか四人という援護の数を捻出してくれたのだろう。だが、それくらいでは、今の妖夢を揺るがすことは難しいと思えた。せめて二個小隊は欲しい。
加えて、一対一の決闘に水を差されたことが少なからず癪に障り、同じ高度に並んだメイドたちに、魔理沙は振り返りもせず、棘のある声を投げつけてしまった。
「引っ込んでな。同じ散るにしても、下で戦い続けてたほうが、よほど役に立てるぜ」
「いえ、ここで役に立ってみせます」
反発の声を上げたのはチェンバー4だった。まだ幼いメイド少女は魔理沙に近付き、その耳に口を寄せる。
「敵に傍受されているので通信では言えませんでしたが、私たちは決死隊です。墜とされるために来ました」
「なに……?」
彼女の言っている意味が分からず、魔理沙は目をしばたたかせる。
「確かに私たちでは何の足しにもならないでしょう。ですが、四人がかりなら、数秒くらいは敵の動きを止められるはずです。その間に私たちごと魔砲で撃ってください」
思わず振り返ると、チェンバー4は微笑んでさえいた。
見れば、他のメイドたちも確固とした決意の表情でいる。魔理沙はぽかんと口を開け、そして怒鳴った。
「ばか言え、そんな作戦があるか……!」
「“ロケットを守るために、ことごとく死ね”――レミリアお嬢様の命です。魔理沙さん、あなたにはまだやってもらわなければならないことがあります。フランドール様とロケットをお願いします」
いかなる犠牲を払ってでもロケットを打ち上げまで守り抜く、それが絶対的な目的。理解はしていた。していたが――
魔理沙の動揺は敵にとって狙うべき隙だった。新たに加わったメイドたちなど物の数にも入っていないという風に、妖夢はまっすぐ魔理沙めがけて切り込んでくる。
その前にメイドたちが立ちふさがった。弾を密にして連射するが、当たらない。易々と接近を許し、たちまちに先頭のひとりが撫で斬りにされた。
「魔理沙さん!」
悲痛な声に、魔理沙は反射的にスペルカードを抜いていた。
ファイナルスパーク。今なら確実に妖夢を射線に捉えられる――周りのメイドたちごと。
いま、何をおいても為すべきは妖夢を無力化すること。
そしてフランドールを確保しなければならない。さもなくば打ち上げ施設も危ないのだ。
またひとり、メイドが斬り捨てられた。あとふたり。
「魔理沙さん、撃って!」
そう、撃つなら今しかない。
敵には永琳も加わったという。フランドールを確保したら、そちらも相手しなければならないだろう。時間との勝負になる。
そのためにも、この好機を逃す手はない。
さらにひとり、メイドが楼観剣の露と消える。残るはチェンバー4のみ。必死にクナイ弾を投げるが、もはや弾幕とも呼べない薄い攻撃だ。
幼いメイドは絶叫する。
「撃て、魔砲使い!」
魔理沙は応えた。
手のカードをくるりと裏返し、逆の手で箒の柄を強く握り締める。
そして足の裏で思い切り空を蹴った。
「どけ、メイド!」
箒の房から爆発的な量の星屑が吐き出され、魔理沙は弾丸のように飛び出していた。流星となって夜の漆黒を切り裂き、今まさに斬られようとしていたチェンバー4と妖夢との間に割って入った。
そしてほとんどスピンに近い急旋回。振り上げられた箒の柄が妖夢の右手をしたたかに打ち、その差料を叩き落した。
楼観剣は遥か下の黒い水面へと吸い込まれていく。
至近で顔を突き合わせて、剣士は眉間に痛恨のしわを寄せ、魔理沙は会心の笑みを作った。
とどめる――魔理沙はミニ八卦炉を手に、スペルカードを開いた。零距離ファイナルスパーク。
白い光の柱が漆黒を貫き、ひとりの少女を灼いた。
「あ……?」
魔砲の光芒が去り、ミニ八卦炉を向けていた先を見て、魔理沙は呆然となった。
どうして。なぜ、チェンバー4が真っ黒焦げになっているんだろう。
気が付けば魔理沙の天地は引っくり返っていた。頭上に湖が、足下に月がある。それに合わせ、さっきまでとは前後の向きも逆転していた。
だから、背後にいたはずのチェンバー4を――
「折伏無間」
耳元でささやく静かな声。
妖夢が左手で箒の柄を掴んでいた。
魔理沙は悟る。砲撃の間際、投げられたのだ。空中にありながら、ものの見事に。
「剣士は剣を失えば無力、そうかもしれないけれど。だけどそれに驕り、目を曇らせた相手くらいなら、楽に捻ることもできるのよ。こんな風にね」
手首を捻るようにしながら、妖夢は柄を離した。どういう力を加えられたのか、箒とそれに乗った魔理沙は、独楽のように回転する。
魔理沙は急いで姿勢を立て直そうとするが、それより早く妖夢が白楼剣の鍔から小柄を投じていた。
小柄が箒を握る魔理沙の手元に突き立ち、柄に細いひびを作る。疵から魔力が漏洩し、箒の房から流れる星屑が光を弱める。
そしてとうとう、魔理沙の翼は揚力を失った。
先に討たれた四人のメイドたちを追うようにして、魔砲使いもまた暗い湖へと墜ちていく。
すべてを見下ろす高みに残ったのは、妖夢ひとりだった。
彼女は力なく明滅しながら沈む箒星をしばらく見つめていた。結んでいた口を開き、いずこかへと向かってつぶやく。
「これで、あなたの願いは果たされました。願わくは、私からの望みも叶えられていることを」
それから、まだ痺れている右手を顔の前へ持ち上げ、苦笑した。
「剣士は剣を失えば無力、か……自分で言っていれば世話ないわよね」
緩んだ表情をまたすぐに引き締め。剣士は天上の決闘場を後にした。
01:05(+3)
「……お?」
かくん、と自分の顎が落ちた拍子に、霊夢は目を開いた。
まどろみかけていたらしい。危うし危うし。こんな寒々としたお月様の下で眠りこけた日には、こっぴどい風邪をひくこと請け合いだ。
気が付くと辺りは妙にしんとしていた。
いや、夜の神社というロケーションからすれば、それはおかしくもなんともない話なのだが――ちょっとさっきまで、幽々子とルーミアがじゃれあったり、プリズムリバー三姉妹がいやにプログレッシヴな騒音を奏でたりしていたはずなのだ。
やっと解散したか。そう期待して首を巡らせてみると、何のことはない、みんなはすぐそばに集まっていた。霊夢はがっくり肩を落とす。
「ねえ、紫、お腹が空いちゃったわ。何か食べるものはないの?」
幽々子は屋根の上にちょこんと正座して、紫にすりよっていた。
「んー?」
と紫は気のない声を返す。
「夜雀を狙ってたんじゃないの? それとも、もう食べ終わっちゃった?」
「あれは違うの。あんまりあの子たちが可愛かったから、ついいじめちゃっただけ」
幽々子が目線で示した先には、幽姫に警戒の眼差しを向けているルーミアと、その陰に隠れるようにしているミスティアの姿。ルーミアは疲れきった顔をしながら、なおも瞳に戦意を残していた。
「ね、可愛いでしょ? それはもう食べちゃいたいくらいに」
「結局、食べたいの?」
「だから違うってば。ねえ、あの子たちもお腹を空かしてるんだって。宴会してたのなら、何か食べるものくらいあるんでしょ」
それはそうだ、と会話を聞いていた霊夢もうなずいた。考えてみれば、宴会が始まってからこっち、飲んでばかりじゃないか。そりゃ頭も痛むし、体の調子もおかしくなろうというものである。
他の者たちもそれに思い当たったのだろう。皆の期待の眼が、紫に集まった。
紫は手にしていたコップをくいと傾けると、
「……何もないわよ」
「どーいうことよ、それー」
真っ先に非難の声を上げたのは、意外にもプリズムリバーのリリカだった。
隣ではルナサも眉をひそめている。
「食事がないって……演奏の報酬はご馳走だったはず」
「もしかして、踏み倒すつもりだったのかしらー? 私たちの演奏は、それほど安くはないのよー」
メルランも並び、三人は揃って紫に詰め寄る。
紫は愛想笑いを浮かべつつ、隣にいた式を捕まえて、盾とした。
「だってしょうがないじゃない、藍が作ってくれなかったんだもの」
「ちょっと、紫様、そりゃないでしょう。出かける直前まで宴会のことなんて教えてくれなかったくせに」
抗議する藍を残し、紫は屋根の端まで後退した。そして背後にスキマを開く。
逃げられる――誰もがそう考えた。
ところが、紫はスキマに片足を突っ込んだところではたと動きを止め、何を思ったか引き返してきたのである。
彼女は懐から財布を取り出し、式に向かって放り投げる。
「藍、ちょっと外まで行って、何か買ってきて」
「うえ?」
「そうね、おでんがいいわ。ファミマのね」
「は……?」
「はい、ダッシュ!」
「ちょ、そ……なんなんですかあ、もうっ」
藍は半べそをかき、だが逆らえず、横回転しながらスキマへと飛び込んでいった。
スキマが閉じる直前、橙が心配げな顔で叫んだ。
「藍様、猫缶もお願いします!」
追い打ちのひと言を吸い込んで、スキマは虚空に溶け消えた。
藍はどんな表情をして発ったのだろう。想像して、霊夢は思わず目頭を熱くするのだった。
ともかくも、紫のこの行動によって、場はひとまず収まった。皆はまた飲みはじめ、霊夢はそれを眺めつつ、くしゃみを一発かました。
と、それを合図としたかのように、萃香がいきなり目の前に飛び出してきた。どうやら今まで霧散していたらしい。そういえばいなかったなあと霊夢はぼんやり、いまさらに思う。
萃香は紫の前に立って、何やら告げた。
「あと三分だって」
「そう、ありがとう。もうじき藍がおでんを買ってくるから、好きな種を最初に選ばせてあげるわ」
「じゃあ、バクダンね。あるかな?」
――そんなやり取りを耳に挟んで、霊夢はふと引っかかりを覚えた。
なんだか怪しい、気にかかる。紫は何か企んでいるのだろうか。ただ宴会をするためだけにここへ来たわけではない、そんな気がする。
いましがた食事の件で詰め寄られていたときのこともそうだ。彼女はスキマに逃げ込もうとして、直前で思いとどまった。それはなぜか。まだここにとどまっていなければならない理由があったからではないだろうか?
「……なんでもいいけどさ」
考えるのも面倒だった。頭がぼんやりして、売りとしている勘も、これ以上は働いてくれそうにない。
霊夢は肩までずり下がってきた布団を頭にかぶりなおす。
とにかく今は、あったかいおでんの届くのを待ちわびるとしよう。話はそれからだ。
■作者からのメッセージ
話はこれからだ(そーなのかー?)
長い文(でも劇中時間で三分)を読んでくださってありがとうございます。待っていてくださった方、また遅くなってすみません。
もしよろしければ、もうあと三分+αの間、お付き合いください。
目指すは年内完結です(できるのかー?)
1
2
SS
4
Index
2005年12月19日 日間