珍しいことに、紅魔館をごく普通の人間が訪れていた。血の美味しそうな少女というのならまだ分かるのだが、これが中年の男たちである。
 男たちは画商を名乗っていた。
 空も飛べない彼らを湖上の孤島に運んだのは、十六夜咲夜だった。買い物帰りに、
「湖畔をうろうろとしていたのを見つけて、誰何したら商売に訪れたと言うものですから」
 せっかくなので通したらしい。
 いつも退屈している主人の、気を紛らわせる役に立つかもしれないとでも考えたのだろう。お茶の時間を楽しんでいたレミリアは、メイド長の気遣いにさしたる感銘を覚えるでもなく、しかし独断に怒るでもなく、目の前に通された男たちへと目をやった。
 画商一味の代表は、身なりだけは立派な、ちょび髭を生やした小男だった。いかにも胡散臭いが、まさか紅魔館相手に詐欺を働きにきたわけでもあるまい。
「それにしたって、うちへ商売に来るとはね。あっぱれな商魂と言うべきかしら」
 それとも、吸血鬼、悪魔の君主としての威厳が落ちてきているのかしらん、とレミリアはちょっと悩んだ。こうも気安く人間に訪ねられるなんて。これは少々、周辺への支配力について梃入れを考えなければいけないかもしれない。
 画商は愛想笑いを浮かべた。
「いえ、今回手に入った新作は、貴家ほどのお家柄にこそ相応しいものと存じまして。お嬢様のご高名はかねがね耳に入っておりまして、いつかお目通り願いたいと考えていたのです。このたび、やっとお嬢様のお眼鏡に適いそうな逸品を手に入れ、それで参上した次第でして」
「ふうん。ま、いいわ。見せてもらおうかしら」
 促されて、画商は用意してきた絵画を、次々と披露していく。
 なるほど、言うだけあって、良い品揃えだった。どこかの雑貨屋の無秩序ぶりとは比べ物にならない。雑貨屋と比べるのもおかしな話だけれども。
 だが、食指を動かすほどのものはなかった。レミリアは幼さもあって、美術品への造詣はさほど深くないのだが、それだけに直感的に判断する。彼女の琴線を震わすようなものは、残念ながら見当たらなかった。
 まあ、そこそこ暇潰しにはなったか。レミリアがぼんやり考えているうちに、いよいよ最後の絵が掲げられた。
 それこそが、画商の言う逸品、今回の目玉らしかった。これまでにない自信に満ちた声で、彼は画題を告げた。
「『望月の君』です」
 それを目にした瞬間、レミリアははしたなくも、口に含んでいた紅茶を噴き出しかけた。
 恐ろしく前衛的なタッチの絵画だったとか、そういうわけではない。むしろ、とても見事な作品で、まず一級の出来と呼んで差し障りないものだった。
 それは人物画だった。タイトルどおり、満月を背にした一人の娘が描かれている。その人物が問題だったのだ。
 長いぬばたまの髪。
 憂いを秘めた黒い瞳。
 しかし口元には神秘的な微笑をたたえて、彼女は夜風を見つめている。
「蓬莱山輝夜……?」
 そうとしか思えない似姿だった。
「こちらは新鋭の画家の手によるものでして、既に買い取りたいというお声をあちこちよりいただいておりましてですね……」
 画商は空気を読むことなく、説明を続けている。

 

 

 

望月に、君と

 

 

 

 ***


 竹林に転がっていたその死体を最初に発見したのは、藤原妹紅だった。
 妹紅ははじめ、見て見ぬ振りをすべきか迷ったが、結局は慧音を呼ぶことにした。死体が人間の男のもので、同じ人間に殺されたものと見えたからだ。人間同士のいざこざは、慧音に任せるに限る。
 死んでいるのは四十台半ばからそれ以上の歳と思しき、痩せて無精髭の濃い男だった。着物は粗末で、血と泥に汚れ、さらに鋭い刃物で切り刻まれていた。どう見たって他殺である。
 傷は全て刃傷で、まず背中に四つ。それから胴、胸、顔、四肢にも無数の傷があった。
 状況から察するに――男は刀を持った複数の人間に追われ、この竹林に逃げ込んだが、ついに追いつかれた。はじめ、背中から斬られ、それで致命傷だったのをなお、囲まれて滅多切りにされたのだろう。念の入った殺し方は、素人の仕業とも思えない。
 男の側は武器も持たず、ろくに抵抗した形跡を残していなかった。一方的で無惨だった。
 妹紅は嫌悪に顔を歪ませた。
「由繕(ゆぜん)だな」
 慧音が遺体の顔を見て、即座に言った。
「誰?」
「東の里に住む絵師だ。九条弥助というのが本名で、広前由繕というのは絵描きとしての号だ」
 かっと無念に見開かれた亡骸の目を静かに閉ざしてやり、慧音は痛ましげにつぶやく。
「娘に知らせてやらねばな」
「娘が……いるの?」
「ああ。妹紅、悪いが仏を運ぶのを手伝ってくれないか?」



 二人は里の、男の家を訪ねた。
 男の家は貧相で、妹紅のあばら家といい勝負の掘っ立て小屋だった。どう見ても裕福な生活をしているようには思えない。絵師とはいっても、売れていなかったのだろう。
 やはり、金を目当ての犯行ではないのか、と妹紅は考える。あの身なりでは、追い剥ぎにだって狙われそうになかったし。
 貧相な建物は二つ並んでいて、一つは由繕のアトリエ、もう一つが家族との居宅らしい。
「アトリエって柄じゃないよね」
 失敬なことを考えつつ、妹紅は慧音の後に続き、居宅に入る。
 出迎えたのは、まだ十代前半と見える少女だった。外見だけなら、妹紅たちと同年代に映る。
 由繕の家族は、娘であるこの少女一人きりだった。由繕は、妻とはかなり前に離縁している。貧しさに耐えかねて逃げたのだと、妹紅は後で慧音からそれとなく聞かされた。
 ついでに由繕がまだ三十代前半だったと知り、妹紅は驚いた。並々ならぬ苦労が、かの男を実年齢以上に老けて見せていたのだ。
 白布が掛けられた父の亡骸を前にして、娘は愕然とする間も挟まず、泣き出した。以前から、何か良からぬことが起きそうな予感がしていたのだという。
 慧音になだめられると、娘はしゃっくりを交えながら、ぽつりぽつりと話しはじめた。
「一年ほど前の満月の夜から、父はどこかおかしくなったのです」
 平素は穏やかな男が、夜の散歩から帰ってくると、奇妙に興奮していたという。そのままアトリエに入り、朝になっても出てこなかった。
 それから由繕のアトリエに篭もる日々が始まった。ほとんど寝食を忘れ、娘にすらその姿をあまり見せなくなった。たまに見せる顔はひどくやつれ、娘の掛ける言葉も耳に入らない様子で何やらつぶやき、まるで狐狸にでも憑かれたかのようだった。
「狐憑き、か」
 妹紅の脳裏に、某式神の影がよぎる。いやまさか、今回のことに関係はないだろうが。
 娘は話を続ける。
 ――二週間ほど前になって、やっと由繕の憑き物は落ちた。アトリエから出てきた彼は、げっそりと痩せ細った顔で上がり框に座り込み、娘にこう言った。
「この由繕、一世一代の仕事だった。既に買い手もついている」
 そして疲労の影が濃い顔に笑みを浮かべ、
「長いこと、苦労を掛けた。これからは、少しはましな暮らしをさせてやれるぞ」
 そのときの笑顔を思い出したのか、娘は新たな涙をこぼした。
 妹紅は我知らず、ぐっと拳を握り締めている。



 ここ一年の異常を除けば、由繕はごく普通の男で、人に恨まれたりする性質でもなかった。彼の不可解な死の原因は、やはり最後の一年にある可能性が高い。
 このような変死となれば放ってもおけず、慧音は自ら調査することを娘に約束した。
 娘に頼み、まずは手がかりを探すため、由繕のアトリエに入れてもらうこととなる。妹紅もついていった。
「妹紅……もう、帰ってもいいぞ? 手伝ってくれて助かった」
「ん……まあ、もうちょっと。せっかくだから」
 入り口の戸を開けるなり、むっと絡みつくような独特の匂いが流れ出してきた。妹紅の鼻にはちょっと合わず、彼女は眉間に皺を寄せた。
 中は意外と片付いていた。画材などは壁際に寄せられ、開けた空間に、妹紅たちが踏み込んだことで舞い上がった埃がうっすらと泳いでいた。
「片付けたの、あんた?」
 妹紅の問いに、娘は首を横に振る。
「父は仕事場の中のものに触れられるのを嫌っていましたから。几帳面な性格で、仕事が終われば決まって綺麗に整理していました」
「じゃあ、今回はごめんして、触らせてもらうね。なんなら後で白玉楼の姫に、お父さんへのことづけ頼むから」
「あまり適当なことを言うなよ、妹紅」
 慧音はやや厳しい口調で言いつけ、小屋の中を探りはじめた。
 妹紅もうろつきはじめる。慧音が窓のそばを調べているので、こちらは陽の届かない奥まった位置を探ることにする。
 その辺りにはカンバスがいくつも重なって壁に立てかけられていた。由繕は、その名前からくるイメージとは裏腹に、西洋画、水彩を専門に描いていたらしい。
 カンバスには筆のつけられていない真っ白なものだけではなく、塗料で染められ、完成しているらしきものも多かった。
 完成したけど売れなかったのかな、と妹紅は同情的な目を向けた。まあ、凡庸で面白みのない絵だし、仕方ないのかも……などと死者を鞭打つようなことを思う。
 ここに手がかりになりそうなものは何もないようだ――そう判断して慧音の方へ向かおうとしたとき、妹紅はカンバスの間から何か紙切れのようなものが覗いているのを見つけた。
 引っ張り出してみると、折りたたまれた和紙だった。妹紅は何気なく広げてみる。
 次の瞬間、彼女の表情は豹変した。
 それは鬼神を思わせる凄まじい形相で、戸口で見守っていた娘が息を飲み、あわや気を失いかけたほどのものだった。


  ***


「輝夜、邪魔するよ」
 永遠亭、奥の間。
 輝夜と永琳が夕餉の最中に、妹紅は障子を蹴り破って乗り込んだ。
「妹紅、あまり乱暴はよせと、何度言わせるんだ」
 その後に慧音がついている。
 輝夜ははじめきょとんとなり、それから気色ばむ永琳を手で制しながら、やんわりと笑って見せた。
「あら、久しぶり。食事は済ませてきたの? まだなら、一緒にどうかしら」
「まだだが、そんな気分じゃないんでね」
 座敷の真ん中に、妹紅はどっかりと胡坐をかいて座り込んだ。ここまで両手はポケットに突っ込んだままだ。彼女の後ろに、慧音は立ったままでいる。
 輝夜は「じゃあ失礼して」と、食事を再開した。それを妹紅はじろりと睨みつける。
「お前に尋ねたいことがある」
「あらあら、なにかしら。いくらあなたでも、歳は教えないわよ? 3サイズならいいけれど」
「穴掘ってそこに言ってろ」
 戯れ言を冷めた声で一蹴すると、妹紅は短く告げた。
「広前由繕」
 そして、反応を待つ。
 輝夜は箸を止めて、まばたきしている。「何それ?」と瞳が告げていた。
 妹紅は苛立った。
「でなければ、九条弥助。どっちかの名を知っているはずだ。知らないなんて言わせない」
「知らないわ」
 はっきりとしたものだった。
「言っちゃったらどうなるの?」
「こうなるんだ」
 妹紅はおもむろに右の拳を抜く。大気に触れるや否や、その手は紅蓮の炎を纏った。
 輝夜はにっこり笑うと、持っていたお椀と箸を置いた。
 にわかに張り詰めていく空気の中、
「はい、そこまで」
「いい加減にしろ」
 永琳がすっと立ち上がって輝夜をかばうような位置に着き、慧音が妹紅の手を掴んでいた。
 慧音を火傷させかねないと、妹紅は急いで手の炎を鎮める。
「慧音、だって、こいつが……」
「分かってる。だが、今日は喧嘩しに来たわけじゃないだろう」
 慧音は妹紅をたしなめるが、自身も苛立っているらしかった。輝夜に鋭い眼差しを向ける。
「どうやら、しらばっくれているわけでもないらしい。本当に知らないようだ」
「そんなの……」
「ねえ、さっきから、何の話なの?」
 輝夜は無邪気に微笑みながら、好奇の光を瞳に踊らせていた。
 妹紅はむすっとした顔つきで、今度は左手を抜く。そこには折りたたまれた紙片が握られていた。あのアトリエで見つけたものだ。
 それを広げて、輝夜に突きつける。
「あら」
「姫、これは……」
 輝夜と永琳は揃って目を丸くした。



 妹紅がアトリエで発見したのは、輝夜を描いたデッサン画だった。
 かなり初期のラフスケッチらしかったが、それでも一目でモデルが輝夜だと知れたのは、発見者が因縁深い妹紅だったからなのか、それとも由繕の画才のおかげだったのか。
 とにかくそれは、由繕の末期の「仕事」の内容を推測させるに十分な材料だった。
 ――由繕は、輝夜を描いた。
 なぜか。
 そこまでは知れない。輝夜に依頼でもされたのだろうか、なんてことも妹紅は考えてみた。まさかとは思うが、輝夜なら道楽で言い出しかねないところがある。
 とにかく、今回の件に彼女が関わっていることは間違いないと、妹紅も慧音も確信した。ならば、後は直接、問い詰めるまで――
 即断し、二人はこうして永遠亭に乗り込んできたというわけである。



「どう? これでもまだしらを切るつもり?」
 絶対的な証拠を突きつけ、妹紅は語気荒く問い詰める。
 ところが、
「知らないわ、由繕なんて人」
 輝夜はやっぱり首を傾げて見せたのだった。
 妹紅はかっとなりかけ、だがすぐに気付いた。輝夜は嘘をついていない。長い付き合いだ、よくよく観察すれば、それくらいは見抜けた。さっきは頭に血が上っていて、それもできなかったのだが。
 しかし、ならばどういうことなのか。今度はこっちが首を傾げたくなる。
 そこで口を開いたのは永琳だった。
「姫、例の絵の話、その由繕なる人物が描いたものと見て間違いないでしょう」
「なに……どういうこと?」
 訊いたのは輝夜ではなくて妹紅だ。
「『絵の話』って、やっぱり知ってたんじゃない。輝夜がモデルなんだから、あんたたちは当然、由繕を知っているわけでしょ」
「けれど、知らなかったのよ。そもそも、姫が絵に描かれていたことすら、知ったのは最近なの」
 永琳は目線で輝夜に諒解を求め、そして妹紅たちに説明を始めた。


 数日前、てゐが人里から奇妙な噂を拾ってきた。
 近頃、界隈の美術絵画愛好家の間で評判となっている絵があるのだが、聞いてみればそれは、輝夜にそっくりの特徴を持った人物を描いたものだという。絵は一幅だけではなく、既に何枚かが高値で取引されているらしい。
 当然、輝夜は興味を持った。それは本当に彼女を描いたものなのか。だとしたら、誰が? いつ、どうやって彼女の姿を捉えたのか?
「どうやって、という点に関しては、まあ想像できるわ。おそらく、姫が外出したとき、偶然目に留めた者があったのでしょう。それがその由繕だった、と。状況は分からないけれど、姫のことをじっくり観察する暇があったとは思えないから、わずかな記憶を頼りに描いたのね」
「……どうもすっきりしない話だけど」
「私もそう思うわ。けれど、本当に由繕という人には会ったことがないのよ」
 妹紅に視線を向けられ、輝夜はうなずく。それから逆に質問した。
「ところで、その人はどこに? お話してみたいのだけれど」
「死んだよ。殺された」
 ぽつり、妹紅は不機嫌に告げた。後を受けて、慧音がこれまでのいきさつを話す。
 永琳は溜め息をつき、輝夜はうっすらと笑った。
「妹紅ったら、私が犯人とでも思っていたの? どうりで最初からカリカリしてたわけね。あの日にはまだ早いはずだし、不順なのかなあ、なんて思っちゃった」
「人の周期を気安く話すな! だいたい、お前の前で上機嫌でいる理由なんてない!」
「まあまあ」
 見かねた永琳が割って入る。
「それで実は、今、うちの者たちにも調査をさせていたところだったんだけど」
 彼女が言い終わるかどうかというところで、廊下を飛ぶように近付いてくる気配があった。
「ただいま戻りました!」
 鈴仙だった。
 彼女はまず、破れている障子に耳をぴんと緊張させ、それから妹紅たちの来訪に気付いて納得の表情を浮かべ、そして永琳の前に進み出て畏まった。一日中、外を駆けずり回ってきたかのような、疲れきった様子である。
「あの……」
 ちらちらと妹紅たちのことを気にする彼女に、永琳はうなずいてあげる。
「構わないわ、話して」
「はあ、では……問題の絵を描かれた人物ですが、人間の画家で、広前由繕と名乗っていることが分かりました。本名は九条弥助、東の里の住人です」
 鈴仙は「どんなもんです」といった誇らしげな顔つきで発表したのだが、
「知っているわよ、とっくに」
 輝夜が血も涙もない口調で告げて、彼女を打ちのめした。月の兎は、耳をしおしおと萎えさせてしまった。
「そんな……」
「ほら、先を話して。まさか、それで調べたことは終わり?」
「あ、いえ……ええと、彼の絵を一手に扱っていた画商一味の動きも突き止めました。突き止めたのですが……残念ながら全員、亡くなっていました。紅魔館を訪れ、そこを辞した帰路、森の中の街道上で何者かに殺害されたようです。今日の午後のことですね」
「殺害? 全員が?」
「はい。野盗なのかなんなのか、とにかく多勢に囲まれたのでしょう。誰一人逃げ切れなかったようです。みんな、体じゅうを切り刻まれて、ひどいありさまでした」
 鈴仙の耳が、さらに悲しげに前へ垂れる。
 妹紅はまた、拳を強く握っていた。
「同じ手口だ」
「ああ」
 慧音と目を合わせ、うなずきあう。
 永琳が鈴仙に尋ねた。
「それで、絵は?」
「はい。紅魔館を訪ねた時点では、例の絵を一点、持っていたはずなのですが。襲われた現場には、絵は一つも残っていませんでした。紅魔館側は何も買わなかったとのことですので、襲撃者に奪われたのでしょう」
 報告を聞かされた四人は、顔を見合わせた。
「由繕を殺ったのと同じ犯人だろう」
「となると、姫の絵が関連していると見るのが自然ね。その絵を奪うのが目的だった? 他の絵まで奪ったのは、目的を隠すための偽装かしら」
「あるいは、急いでいて選別する暇がなかったか。売れば金になるしな、駄賃のつもりでついでに持っていった線も考えられる」
「しかしそれだと、由繕まで殺した理由が分からない」
「私の絵って、人を殺してまで奪いたくなる出来なのかしら」
 それぞれに思案の表情を浮かべる。
 事情を把握しきっていない鈴仙は、そんな四人の顔をきょろきょろした目つきで見比べていた。


 そこへ、廊下を新たな気配が、跳ねるようにして近付いてきた。入り口に現れた小柄な影は、てゐのものだった。
 座敷に入ってきたてゐは、ぴょんと元気よく跳ぶと、鈴仙の上へ肩車の格好に飛び乗った。
「ぐえっ」
「永琳様、因幡てゐ、帰還しました。妹紅たちには、こんばんは」
「ああ、邪魔してるよ」
「てゐ、始めて」
 永琳に急かされて、てゐは前のめりに崩れてしまった鈴仙の上から、報告を行った。
「画商が取引した相手を、だいたい割り出せましたよ。美術品好きなお金持ちの家ばかり、四軒。ですけど、一旦買った人が、すぐまた別のところに売ってたりして、追跡するのはなかなか大変でした」
 その割に鈴仙より元気そうなのは、日ごろ健康に気を遣っている賜物だろうか。
「で、又売りされたりした結果、姫様の……姫様らしき人の絵を、確認できただけでも三枚も所持している人が出てきたりしてます。すごい大金を積んで強引に買い取っているみたいです、その人」
「それは?」
「小矢部漂次郎とかいう人」
 聞かぬ名に、場に会した一堂の視線が、慧音に集まった。慧音はちょっとどぎまぎしながらも、口を開く。
「……西の里で一番の大店を構える富商だ。数年前に代替わりして、漂次郎が現在の当主になる。金で近所の無頼者を飼って、私兵にしていたりもするが……これまで大層な騒動を起こしたことはない。むしろ里の秩序維持に貢献しているくらいだ」
「だけど、それで決まりだろう」
 由繕の描いた絵を集めていて、しかも兵隊を持っている。これほど怪しい者はない。どうして由繕を殺したのかまでは知れないが、そこはこうして永遠亭に乗り込んできたのと同じく、直に尋ねるまでだ。
 妹紅はすっくと立ち上がると、両手をポケットへ戻し、輝夜たちに背を向けた。挨拶もなしに部屋を去ろうとする。
 その肩を慧音が掴んだ。
「待て、どこへ行く気だ」
「家に帰って晩御飯」
「嘘を吐け。気持ちは分かるが、これ以上はお前がどうこうする範疇じゃない。後は私に任せるんだ」
「……そうだね、私にはもともと関係のないこと。それは分かってるよ」
 でも。ポケットの中で、掌に爪が食い込むほど、ぐっと拳を硬く握る。
 由繕の無惨な死体が。由繕の娘の泣きじゃくる顔が。どうしても脳裏から離れない。
 これからあの娘は一人きり、どうやって生きていくのだろう。
「気に入らないのよ、こんなのは」
 小さくつぶやくと、慧音の手を振り切って歩き出した。慧音は慌てて追いすがってくる。
 そこへ、輝夜がおもむろに腰を上げながら、言った。
「永琳、その半獣を抑えておいて」
「御意」
 即座の返事。
 慧音がはっと振り返った時には、どこから取り出したのか、永琳は弓に矢をつがえていた。鋭い鏃が慧音のことを、ひたと狙いつけている。
 動きの止まった彼女のそばを、輝夜はするりとすり抜け、妹紅の隣に並んだ。
「それじゃ、行きましょうか」
「なんで、お前が」
 妹紅は困惑し、睨みつけるが、輝夜は着物の袖で口元を隠しながら笑うばかりだった。
「だって、私が描かれたっていう絵、見てみたいじゃない」
「ふざけてると、先にお前を叩き潰すぞ」
「あら、私は大真面目よ。漂次郎さんとかいう人と話もしてみたいし。何しろこの件に関しては、妹紅、あなたより私の方が因縁深いんじゃないかしら?」
 妹紅は一瞬、反論に詰まった。確かに、部外者である妹紅に対し、輝夜は問題の核心にあるらしき絵のモデルとなっている。妹紅よりもよほど、真相を探るべき資格があると言えた。
 だからと言って同道する必要はないはずなのだが、ここで輝夜と別行動となれば、永琳が慧音を解放するだろう。そうなると、妹紅は再び慧音に制止される。この場合、妹紅としてはそっちの方が面倒だった。
「慧音、ごめん」
 告げても、罪悪感からくる胸の小さな痛みはごまかしきれなかった。
 妹紅は座敷の面している庭に下りると、下弦の月がかかる夜空へと飛び上がった。その隣に輝夜が揃い、共に西の空へと流れていく。


  ***


 小矢部の屋敷は、すぐに見つかった。里で最も大きい家を探せば済む、楽な作業だった。
 里の奥まった位置、他の家々よりやや離れて、そのたたずまいはあった。永遠亭の規模にこそ劣るものの、石塀に囲まれた立派な建物だ。
 それを、妹紅と輝夜は上空から見下ろしている。
「さて、どう挨拶するかな」
「私のところを訪ねる風にすればいいのじゃない?」
「人里で大火事を起こせっての? でも……ま、考えていても上策の出るような頭は持ってないしね。手っ取り早く殴りこむか」
「バイオレンスね。それでこそ妹紅よ」
 二人は門の内側、広々とした中庭に降りる。
 石灯籠に火が入っていて、庭は思いのほか明るい。歩き出すよりも早く、見回りらしき男に見咎められた。
「ぞ、賊だ! 庭に賊がいるぞ!」
 賊って、そっちが言うのか。妹紅は険しい顔つきになる。
 建物の中から、庭の向こうから、屈強そうな男たちがおっとり刀で駆けつけてきた。たちまち包囲され、妹紅は不本意ながらも死角をなくすため、輝夜と背中合わせになる。
「なんだ、ガキじゃねえか」
 妹紅の正面にいる一人が、嘲って言った。柄の悪い口調に妹紅は、こいつらが慧音の言っていた小矢部家の私兵なのだと悟った。
「なるほど、チンピラ揃いみたいね」
 一方で、輝夜と対面している側からは、驚きの声が上がっていた。
「こいつ、あの絵の……!」
 それを合図に、妹紅と輝夜は背中を別れさせ、それぞれの正面へと飛び出していた。こういう喧嘩は先制することが肝心だ。
「輝夜、なるたけ殺すなよ!」
「努力するわ。努力って嫌いだけど」
 少女たちは敵陣に斬り込む。その見かけからは想像もつかなかった勢いと度胸に、男たちは虚を突かれた。
「鳳翼天翔!」
 敵の中心で妹紅は炎の翼を広げ、灼熱のアッパーカット。男たちが数人、束になって吹っ飛ぶ。
「ブリリアントドラゴンバレッタ!」
 こちらでは輝夜が目のくらむような五色の光線を放ち、荒くれ男どもを手もなく薙ぎ倒していく。
 屋敷の奥からは続々と増援がやってくるが、それすら追い着かない速度で少女たちは敵を打ち倒していった。列なして迫る白刃を恐れず、寄せつけず、夜空の月も霞むような目映い弾幕を展開している。圧倒的だった。
 はなから勝負になるはずがないのだ。二人は見かけこそ幼い少女だが、有限の命では到達できない技と術の深奥を知り、しかも常々殺し合いを行っている。
 それに対して男たちはと言えば、かつて市井の弱者たち相手に暴力を振るって悦に入っていたような連中だ。数を頼りに弱者を嬲り殺すことはできても、強者に立ち向かう勇など持ち合わせていない。
 ひとたび不利を悟るや、彼らは斬りかかる勢いを失い、じりじりと後退を始めた。既に逃げ出した者もあるようだ。
 対照的に二人は意気を上げる。事前に打ち合わせていたわけでもないのに、申し合わせていたかのような同じ歩調で、それぞれ右へ右へと緩やかな弧を描いて移動。二人は中庭に大きな円を刻もうとする。
 長い長い殺し合いの中で互いの呼吸を知り尽くした二人だからこそ成しえる、それは背中合わせのロンド。
 敵の気勢をあらかた奪ったことを認めると、妹紅と輝夜は再び背中合わせに合流、屋敷の方へと移動する。そちら側にいた敵は、二人が一歩進む間に、三歩も後退していた。
「手応えないわねえ」
 輝夜がつまらなそうに言ったときだった。妹紅は空気に薄く火薬の匂いを嗅いだ。
 振り返りざま、輝夜の腰へヤクザキック。輝夜がつんのめったのと同時、銃声が響いた。
 庭に立っていた男の一人が、肩を突かれたようにくるりと回り、血煙噴いて倒れた。
 妹紅は素早く眼を巡らせ、屋敷の障子の隙間から銃口が突き出ているのを見つけた。髪からリボン代わりのお札を一枚ほどき、そちらへ飛ばす。
 障子の向こうで悲鳴が上がったのを確認すると、輝夜を怒鳴りつけた。
「お前はいつも右脇が甘い。不死身だからって気を抜くな」
「もう……。豆鉄砲より妹紅の本気の蹴りの方が、よほど痛いわよ」
 輝夜は腰をさすりながら、不服そうな視線を返してきた。
 二人は屋敷の縁側に上がった。長い通路の左右を見渡し、さてどちらへ進むべきかと妹紅は考える。
「漂次郎はどこにいる?」
 近くに残っていた敵たちに尋ねるが、誰も答えない。こうなれば適当に一人捕まえて尋問するかなどと物騒なことを考えたら、それが顔に出たらしく、敵はこぞって逃げ出した。
 辺りから人影が消えた。
「……どうしよう」
「こういうときは、奥へ進むものよ」
「そうね。悪い奴はなぜか皆、奥に隠れたがる」
 思うところのある眼で輝夜を一瞥し、妹紅は歩き出した。



 散発的な抵抗を見せる敵残党を蹴散らし、いくつも並んでいる部屋をひとつひとつ虱潰しにしながら、二人は長い長い通路を進む。
 その末、奥まった場所に扉を見つけた。最後にひとつだけ残った扉だった。
 妹紅は頬にかかるほつれ髪を後ろに払うと、ポッケに手を突っ込み、ノックもなしに蹴り破った。
 ――その部屋は薄暗く、だが夜に目の慣れつつあった二人には、どうにか様子が見渡せた。
 がらんと広い部屋に、正面の窓から射し込む細い月光と、天井中央に下げられた小さなランプの火だけが明かりだった。壁に五枚の絵画が立てかけられている。
 満月を背にした、輝夜の絵が。
 あるものは立派な額に収まり、またあるものはカンバス地が剥き出しのままだったりしたが、五枚全てが同じモチーフで描かれていた。月下に微笑む、それは紛れもなく蓬莱山輝夜の艶姿。だが、よくよく見比べてみれば、一枚一枚、細部が異なっている。
 どれも見事な出来栄えだったが、でもあるいは、由繕は納得いかなかったのではないか。それで、完成させたそばから、また新たな一枚を描き始めたのではないか。そう妹紅は推測する。でなければ、こうも同じ題材で描きはすまい。
 そして、部屋の中心。絵の中の輝夜たち五人に囲まれるようにして、その男は立っていた。細い長身をシャツにベスト、スラックスという洋装に包んだ青年。
「小矢部漂次郎、違いないか?」
 妹紅の声に、青年は初めて侵入者に気が付いたかのように、瞬きした。それまで視線は、絵を順に眺めているばかりだったのだ。
 青年の訝るような眼が妹紅から輝夜へと移り、そこで凝固する。
「貴女は……望月の君?」
「残念ながら、今夜の月は満ちていないわね。はじめまして。蓬莱山輝夜よ」
 軽く首を傾けつつ、輝夜はにっこりと笑いかけた。
「あなたが漂次郎さんね?」
「そうです……」
 夢の中にいるかのような、青年の口調だった。
 漂次郎はふらふらと輝夜の方へ近付こうとする。
 その前を妹紅が遮った。ほとんど恫喝に近い、低い声を出す。
「手下を使って由繕と画商たちを殺したのは、あんたね?」
「………」
 漂次郎は足を止めたが、妹紅など眼中にない様子で、輝夜にばかり視線を向けている。
 妹紅はポケットに突っ込んでいる手を抜くのを、必死にこらえた。まだだ、まだ早い。
「目的は、絵を集めるため」
 この部屋と漂次郎を見れば、瞭然だった。この青年は、絵の中の「望月の君」に魅了されたのだ。それで、出回った全ての絵を独占したいと望んだのだろう。
 だが、それだと腑に落ちない点がある。
「どうして画商たちを殺したの? 絵が欲しいなら、買い取れば良かっただけなのに」
「……所詮、彼らは卑しい商売人だった」
 それまで妹紅を無視するかのようだった漂次郎が、初めてまともに反応した。
「馴染みの客との先約、新たな顧客の獲得……そんなことを理由に、僕に全ての絵を売ることを渋った。この絵を、そんな欲望を満たすための道具にしようなど、許されることじゃない。だから、誅したまでだ」
 その口から出たのは、理解しがたい理屈だった。
「……じゃあ、なぜっ」
 妹紅は声を荒げ、一歩詰め寄る。
「どうして、由繕を? 彼に頼めば、新しい絵だって描いてもらえただろうに」
「多ければいいというものじゃない」
 漂次郎は嘲り笑った。
「由繕も、これ以上描く気はないと言っていた。だが所詮は貧しい、卑賤の絵描きだ。金に釣られて、誰かのために再び『望月の君』を描くかもしれない。小金を得るためだけの、小器用な絵を。ここにある絵ほど魂の込められた筆致は、二度と見られないだろう」
 ぎらぎらとした妄執の光が、その双眸に宿っている。
「そんな、なおざりな筆で『望月の君』が描かれるなど、僕には耐えられない。彼女を貶めるような行為は許さない。だから、あらかじめ由繕の筆を絶つことにしたんだ」
「お前……そんなことで……」
 そんな理由で、あの娘は突然に父を失わなければならなかったのか。
 妹紅は息が詰まるような感覚に陥った。あまりの憤りに、視界が赤くにじむ。
 漂次郎は口の端を高く吊り上げた。
「だけど……そんなことは、もうどうでもよくなった。こうして、本当の『望月の君』に遭えたなんて! ああ、やはり絵などとは比べ物にならない。この美しさを絵に留めようなどという行為そのものが傲慢なのだと、今、僕は知った」
 また、ふらりと足を前に運ぶ。輝夜へと向かって。
 妹紅はもはや我慢ならなかった。考えるよりも早く体が動き、右の拳を抜いて殴りつけていた。
 鳳凰の力を宿した拳は漂次郎の体を軽々と弾き飛ばし、奥の壁、輝夜の絵の間に叩きつけた。
 妹紅がさらに踏み出そうとすると、漂次郎はむくりと上体を起こし、ベストの懐に手を入れた。端が切れて血のにじんでいる唇を動かす。
「なんだ、君は。邪魔をするな」
 懐から抜かれた手には、短銃が握られていた。
 はっとなる妹紅に、銃口が狙いを定める。
 躊躇なく人差し指が引かれ、乾いた破裂音が鳴り響いた。



 血と肉片が意外なほどに広く飛び散った。
 妹紅は右手の人差し指と中指とがちぎれるのを、目にしていた。
 輝夜の右手の指がちぎれるのを。
 一瞬の間に、輝夜が妹紅の前に立っていたのだ。妹紅をかばうかのように。そして、その身に銃弾を受けていた。
「あら、汚れちゃったわね」
 飛散した血が、室内に並ぶ輝夜の絵を汚していた。額に収まったものも、カンバス地のままのものも、等しく。
「血液って、一番落ちにくいらしいんだけど。これは修復不可能かしら。でも、これはこれで、私の絵らしいかもね」
 カンバスに染みた赤い斑模様に、輝夜は微笑した。痛みにひきつった笑みだった。
 輝夜の右手の先からは、ぼたぼたと鮮血が滴っている。床には真紅の水溜りが広がりつつあった。
 それを見て漂次郎は、恐怖に顔を歪ませながら、瞳はどこか陶然としていた。短銃を持った手は、力なく床に垂れている。
 妹紅も一時、呆然となっていたが、すぐ我に返った。
「な、なにやってるんだ、輝夜! ばかか!?」
「……これはもう、私の問題よ。あなたの張り切る幕は終わったの」
 妹紅すらぞっとなる、冷たい声だった。輝夜は妹紅に背を向けたまま、漂次郎を見下ろしている。
「漂次郎さん。あなたは私が欲しいのね?」
 彼女は半壊した右手を差し伸べる。
 濃い血の匂いに軽く頭をのけぞらせつつ、漂次郎は小さく何度もうなずいた。
 輝夜の声は底冷えのする笑いだった。
「そう……ならば、やって御覧なさい。どうやって私を手に入れるのか、示して見せて。それが、あなたに出す、私からの難題」
 しばし、男女は視線を重ね合わせていた。
 どこか茫然としていた漂次郎の目に、不意に何かを理解した色が浮かんだ。彼は、いまだ血がこぼれつづけている輝夜の右手へと視線を動かし、それからふと、恍惚たる表情になった。
 短銃を握った右手が、ゆるやかに持ち上がる。
 妹紅は、あっ、と叫んで飛び掛かろうとした。
 が、一瞬遅く、漂次郎は自らのこめかみに銃口をあて、撃ち砕いていた。


  ***


 小矢部漂次郎が輝夜の中に見出したのは、彼女の永遠だったのだろうか。
 そして、永遠を手に入れるためには、自らも永遠になるしかないと悟ったのかもしれない。輝夜の目に自らの死を焼き付けることで、彼女の中で永遠の存在になろうと願ったのかもしれない――
 全ては妹紅の推測に過ぎない。実際、漂次郎の心が最後にどのような動きをしたのか、今となっては知る術などなかった。
 参考にと思って輝夜に意見を聞いてみたが、彼女は失血で蒼褪めた顔にいつもの微笑を浮かべて、「さあ?」と揶揄するように言うだけだった。
 妹紅は小憎らしくなって、その頭をぽかりと殴った。


  ***


 屋敷の外に出ると、永遠亭の方角から慧音と、兎たちを引き連れた永琳とが飛んでくるところだった。永琳が、事の済む頃合いを見計らっていたのだろう。
 妹紅は慧音の前に立つと、うなだれた。
「ごめん。漂次郎を死なせてしまった」
 慧音はわずかに息を飲み、それから確認してきた。
「殺してしまったのでは、ないのだな?」
「同じようなものだよ。……ほんとは分かっていたんだ。こんな、怒りに任せて動いたって、気を晴らす役にも立たないだろうってことは」
 悔やむ妹紅の肩に、慧音は優しく手を乗せた。
「後は私に任せろ。お前は帰ってゆっくり休め」
 空き家みたいに静まり返っている屋敷へと降りていく慧音を、妹紅は振り返った。
「漂次郎の部屋の奥に、金の詰まってそうな金庫があったんだ。その……由繕の娘や画商の家族たちに、分けてあげられないかな?」
 慧音は振り向かぬまま、分かったという風に片手を上げた。



 輝夜は兎たちに指示して、例の絵を運ばせていた。永遠亭に持ち帰って飾ろうかと考えているらしい。
「一度、現代美術で描かれてみたかったのよ。ただで描いてもらえたなんて、ついてるわ」
 などと言って、血が染み込んでしまっているものまでも含んだ、五枚全てを運ばせている。
「そうだ、妹紅もおひとつ、どう? いつでも私の顔を見られれば、独り暮らしも寂しくないでしょ」
「ふざけろ。あんな縁起の悪い絵、鍋敷きにもならないわ」
 妹紅は呆れてそっぽを向いた。
 二人は小矢部の屋敷から程近い家屋の屋根に座り、やや疲れた様子で、絵が運ばれていくのを見守っていた。小柄な兎たちの手によって、絵は軽々と持ち去られていく。
 あんな絵のために、多くの人が死んだ。それを思うと、妹紅はどうしてもやるせない気持ちとならずにいられなかった。
 いや、絵のためというより、一人の女性のために。由繕も画商も漂次郎も、その運命を狂わされたのだ。
 隣に座る女を、妹紅は横目で見る。輝夜は再生した右手で、夜風に流されそうになる髪を押さえていた。そんな仕草一つで絵になってしまう、さすがに世を騒がせた美女であることを、妹紅も認めざるを得ない。
「……お前は、いつの世でも人を不幸にするらしいな」
「ああ、この美貌が罪なのね」
 まるで真剣みのない輝夜の言葉だったが、わずかに哀感がこもっているようにも思われて、妹紅はおや、と意外な顔をする。
 もしかするとこいつも、無辜の人が命を落としたことに、胸を痛めていたのかもしれない。
 彼女だって、望んで人を不幸に追いやったわけではあるまい。今回に限ってはむしろ、彼女も被害者と呼べるだろう。
 そんなことを思って改めてその顔を見つめなおすと、輝夜はいつもどおりの、どこか掴み所のない微笑を浮かべていた。妹紅の眼差しに気付いて、
「どうしたの? もしかして妹紅まで、私の美貌の虜になっちゃった? やだ、大変、どうしましょう。いやん」
「どうもせんでいい」
 考えすぎだったか。妹紅は深々と溜め息をついた。
「安心しろ、私は変わりなくお前のことが大嫌いだ。殺したいくらいにね」
「あら、奇遇。私も妹紅のこと、殺しちゃいたいって、いつも思ってるの。気が合うわね」
 そうこうしている間に絵も全て運び出され、頭上では永琳が輝夜のことを待っていた。
 輝夜はのんきに「じゃあね」などと手を振って、去っていった。
 妹紅はどこかぼんやりと、奇妙な余韻に浸りながら、彼女らが消えた空を見上げつづけている。


  ***


 それからしばらく後のある夜、妹紅は筍を土産に、由繕の娘を訪ねた。
 以前よりも少しマシな住まいに越して、娘はちょっとだけ元気を取り戻していた。やわらかな笑顔で妹紅を迎え、それから土産を渡されると、不思議そうに小首を傾げた。
「あら、じゃああれは、妹紅さんじゃないの?」
「あれって?」
「時々、夜の間に野菜や山菜が戸口の前に置かれているの。慧音様に訊いたら笑って、きっと兎の仕業だろうなんておっしゃっていたけど、まさかね。恩返しにしたって、そもそも私、兎なんて助けたこともないし」
 妹紅の表情がゆっくりと苦笑に変わっていった。
「じゃあ、罪滅ぼしのつもりなのかもしれない」
 家を出ると、妹紅は夜空を仰いだ。雲のない虚空には、見事な満月がかかっている。
 妹紅は苦い笑いを浮かべたまま、つぶやく。
「ばか……だから、お前なんて嫌いなんだ」
 そして、明日の晩は久々にあいつと喧嘩でもするか、などと愉快そうに考えながら月の下を帰路に着いたのだった。

 

 

 

 



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2005年9月23日 日間

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