あなたをうつして あなたもうつして
部屋に明かりと呼べるものは、春宵の月光が窓辺にうっすらにじんでいる程度のものだった。暗い自室で、咲夜は壁の姿見とにらめっこしている。
真剣な、眉間にしわさえ寄せた、お世辞にも瀟洒とは呼びがたい顔つきだった。その視線は、手元と、姿見の表面との間を忙しなく行き来している。
髪を撫でつけ、襟をぴんと引っ張り、スカートの裾を払って……その指先は妙に神経質な落ち着かなさで、体のあちこちへ移っていた。
「咲夜ー?」
「はい、ただいま」
遠く階下から響いてきたレミリアの呼び声に、咲夜は姿見を向いたまま応じた。その声音は、表面上こそ落ち着き、取り澄ましたものだったが、発した当人の顔つきは隠しきれない苛立たしさに染まっていた。
前髪をつまみ、襟元のタイを左右に引っ張り、エプロンのフリルに触れて。上から順に下ろしていった手を、咲夜はまた頭へと戻し、おさげを束ねるリボンを結び直しはじめた。
「咲夜ぁ」
繰り返される主の呼び声には、せっつくような響きが強くなってきている。
「いい加減にしないと、ひとりで行っちゃうわよ」
「……分かりました。すぐに参ります」
昂ぶりをどうにか押し殺した声で、咲夜は返した。深く、諦めの色を帯びた溜め息をつく。吐息が触れても曇らぬままの鏡を見つめた表情は、ひどく不安げに翳っていた。
部屋から出ようと身を翻し、しかし一歩も進めぬうち、咲夜はまた未練そうに姿見を振り返った。
けれど、何度見ても、そこに映る像が変わるはずはなかった。薄闇に閉ざされた咲夜の私室の光景。空っぽの、無人の部屋。
姿見のすぐ正面に立っているはずなのに、咲夜の影はそこに映し出されていない。
†
「吸血鬼になってしまいました」
「吸血鬼にしてしまったわ」
博麗神社を訪れるなり、このようなことを報告した咲夜とレミリアに、霊夢と、たまたま遊びに来ていた魔理沙の二人は当初、ものすごく反応に困った様子であった。
「……四月馬鹿には、いま少し早かったはずだが」
やっとのことで魔理沙がつぶやき、空を見上げた。縁側に腰掛けたその位置からでも、早春の夜空に浮かぶぼんやり肥えた月の姿を目にすることはできた。それから視線をまた二人へと戻して、改めて困惑のまばたきをする。
「え、なに? 冗談じゃなくて?」
問われて、うなずいた二人は、共に微笑を浮かべていた。咲夜のものは、苦味をちょっぴり含んでいたが。
霊夢が湯飲みを胸元に持った姿勢のまま、ゆっくりと首をかしげた。じっと咲夜のことを見て、
「そう言われてみると、なんか妖怪っぽくなった気がするわね」
「いやこいつは元から妖怪じみてただろうに」
「妖怪なら殺しちゃっても殺人犯にはならずに済むわね」
魔理沙の呆れたようなつぶやきには取り合わず、霊夢は剣呑なことをのほほんとした口調で言い放って、湯飲みをあおった。おもむろにレミリアへ視線を移す。
「けれど、なんでまた。あなたがこのメイドをお仲間にしたいと思う気持ちは分からないでもなかったけど。でも、これまで我慢してきたんでしょ? どうしてここへ来て急に……何かきっかけでもあったの?」
すると、それまで平素どおりを装っていたレミリアが、初めて気まずそうな顔となった。ついと目を逸らして、つぶやく。
「……事故だったのよ」
「は?」
「まあ、もののはずみというやつですわ」
話しづらそうなレミリアの代わりに、咲夜が口を開いた。その口ぶりに、主を責めたり恨んだりするような心情は見受けられない。無意識の仕草か、着衣の裾を軽くつまみ、それから撫で付けるようにしながら、彼女は振り返った。
「あれは三日前の夜のこと」
「三日前っていうと、宴会をした晩か」
魔理沙が記憶を手繰るように前髪を指で梳き上げる。野の雪があらかた融けてめっきり春めいてきたことを祝おうと、久々の宴会を企画したのは彼女だった。
「久しぶりだったせいか、みんな酒量の加減を忘れたかみたいなテンションだったな。吐くわ踊るわ脱ぐわ喧嘩するわ、浮かれ放題で」
「ええ、お嬢様も他の妖怪と始めた口喧嘩が過熱して、解散後もその腹立ちをずっと引きずっていたの。悪い酔い方をしてしまったのね。館に帰ってからも妹様みたいに癇癪起こしたりして。どうにか寝室までお連れしたところで、喉が渇いたと言うから、私が水でも持ってこようと背中を向けたら……」
「後ろから首にがぶり、ってか」
咲夜はうなずくと、右のお下げ髪を払うようにして、首筋をあらわにした。そこには針で突いたような小さな黒い穴がふたつ、穿たれていた。出血こそとっくに止まっているものの、その痕は禍々しい痛みを見る者に共感させた。
はあ、と霊夢と魔理沙が心底から呆れ返った溜め息をつき、白い目をレミリアへと転じた。レミリアはと言えば、咲夜が口を開きはじめてからすぐあちらを向いて、表情を隠してしまっていた。しかし、背中に突き刺さる霊夢たちの無言の眼差しにやがて堪えかねたか、うつむき加減にぽつりとつぶやいた。
「正直、あの夜のことはよく覚えてないのよ。気がついたら血で汚れたベッドに咲夜とふたりで寝転んでて、起きようとしたらものすごく頭が痛くて、お腹が妙にいっぱいになってて……」
「つまり、前後不覚になるまで酔っ払った末に女の子を襲っちゃったわけだ」
霊夢が身も蓋もないまとめ方をすると、レミリアは物理的なダメージを受けたかのように呻き、よろめいた。そのまま膝から崩れて例のしゃがみガードポーズよろしく頭を抱えでもするかと思われたが、なんとか踏ん張り、逆に傲然と縁側を振り返ってきたのであった。
「うるさいなぁ! いいじゃない、咲夜は私のメイドなんだから。自分のものをどうしたって私の勝手よ」
「うわ、居直ったぞ。最悪だ」
魔理沙が煽り立てるのを、レミリアが牙を剥いて睨みつけるより早く、咲夜がなだめた。
「お嬢様の言うとおりだもの。私はお嬢様のメイドなのだから、多少のわがままくらい聞きますわ」
「多少とかわがままって次元の話じゃないだろう。野良犬に噛まれたと思って忘れろ、で済む問題じゃないんだぞこれは。それでも、お前はいいって言うのかよ」
「いいも悪いも無いわ、なってしまったものはしょうがないのよ。泣いて喚いたり、お嬢様を殺したりすることでどうにかなるでもない。あなたの言うとおり、取り返しのつかないことだからこそ、いつまでも拘っていたってしょうがないわ」
「そうかい、甘んじて受け入れるってわけか」
魔理沙は釈然としない風に、そしてどこか傷ついたような顔でつぶやいたが、それ以上の追求はしなかった。
咲夜はお下げを元通り垂らして、首の傷を隠した。諦観さえも遠く置き去りにしてきたかのような微笑を作って、すると薄く開いた唇の間に、鋭く尖った犬歯、まさしく牙と呼ぶほかないものが、白くぬらぬらと濡れた顔を覗かせたのだった。それを魔理沙が見て、ふてくされたように横を向いた。
咲夜は空を仰ぐ。月明かりを受けて、瞳が細く光を帯びる。かつては透明な冬空の色をしていた瞳に、今は朱色の混ざっていることが、それではっきりとなった。
「実際、それほど不満があるわけじゃないわ。お嬢様のメイドができなくなってしまったわけじゃないしね。不便はあるけれど、同じくらい利点もできたし。今はこの体に早く慣れるのが先決よ」
「前向きねぇ」
黙ってしまった魔理沙と交替するかのように、霊夢が口を開いた。
「お天道様に未練とかないの?」
「それなのよねぇ」
ここへ来て初めて、咲夜は困ったように溜め息をこぼした。頬に手をやり、そのままお下げをいじりはじめる。
「せっかくのお天気でも洗濯物を干しに外へ出られないのは、辛いわ」
「いや、問題はそこ?」
「まだなりたての吸血鬼だから、お嬢様みたいに日傘を差しても太陽の下は歩けないし。流れ水もダメになったから、台所やお風呂のお仕事も手間がかかるし。ニンニクとか匂いの強い食材が苦手になっちゃうし。吸血鬼とメイドって、相性悪いのね」
「生活レベルの悩みしかないのか」
霊夢がついた溜め息は呆れだけが理由のものではなくて、安堵の意味も含んでいるらしかった。咲夜が強がったりしているわけではないと察したのだろう。
事実、咲夜の言動に、いきなり自身の運命が引っくり返ってしまったことに対する動揺や自失といったものは見受けられなかった。事の直後はそういった感情に打ちひしがれていたのかもしれないが、二、三日というわずかな間に自分を取り戻したのか。それとも停止させた時間、自分の世界の中で、ひとしきり嘆ききったのか。いずれにせよ今の彼女は、在りし日、人間だったときのままに見えた。完全で瀟洒な立ち居振る舞いの中に、どこか微妙にずれた部分を併せ持った、それはまさしく十六夜咲夜という人物だった。
「ま、私のメイドだもの。ちょっとやそっとで潰れちゃうほどやわじゃないのよ」
「あんたは胸を張るな」
得意げなレミリアとそれを叱る霊夢の姿に、咲夜はおかしそうに口元へ手をやった。手首を下ろすと、その袖口のしわを逆の手で触れる。
その様子を、いつからか顔をこちらへ向け直していた魔理沙が、じっと見ていた。
「なんかお前、落ち着きがなくなったな」
「え? そうかしら」
「さっきからやたらと自分の髪や服をあちこち触ってるじゃないか。もしかして自覚なかったのか?」
そんな指摘を受けて、すると咲夜はにわかに狼狽の色を見せた。触れていた自分の手首を掴むようにする。
「ええ、ああ、うん。よく見てるわね」
「別にそんなんじゃないけどさ」
魔理沙はまたそっぽを向き、咲夜は自分の胸元に視線を落とした。若草色のタイをきゅっと締めなおすような仕草。
「どこか乱れていやしないかって、どうも気になっちゃって」
「別にどこもおかしくないように見えるけど」
そう応じた霊夢が、ふと何かに思い当たったらしく、湯飲みを握ったまま器用に手をぽんと打った。
「あ、そういえば吸血鬼って鏡に映らないんだっけ」
「そうなのよ。おかげで自分の恰好を確かめられなくって」
咲夜のこぼした声は、今夜一番の深刻な憂いに満ちていた。
人間だった頃の咲夜には、鏡を頼りにしているという意識はさほどなかった。一日のうち、ほんの数分から数十分というわずかな時間を向かい合う、その程度の相手でしかなかった。
だがいざ失ってみて――実際、「失う」という表現が最も的確だと咲夜には思えた――初めて、その依存性に気づかされることは多いものだ。自身の客観的な像を確認できないことがこれほど不安を誘うものだと、咲夜は痛感させられた。自室には鏡台や姿見があったし、館の中でも少し歩けば鏡や窓に巡り会えたし、お出掛け先にも大抵は鏡が設置されていた。そうでなくてもポケットにコンパクトを忍ばせてあるから、それで最低限の用を為すことはできた。加えて咲夜には時間を止める能力がある、気になればいつだって容易に自分の身なりをチェックできたのだ。
ところが、吸血鬼化と共にそれが不可能となってしまった。それまで用いてきた鏡の一切が、咲夜のことをそこにいないものとして扱うようになってしまった。こちらが求めるものを映してくれない、ただの板切れと化してしまった。
吸血鬼となって、咲夜が初めて恐怖を覚えたのは、一度目に鏡に向かい合ったそのときだった。彼女は考えたのだ。これから先、自分が完全で瀟洒たることを、どうやって確認すればよいのだろうかと。
髪に寝癖があっても気付けないかもしれない。着衣の死角となっているところにほつれができていたらどうしよう。背中に抜け落ちた髪の毛がくっついているのなんて確かめようがない。化粧などひとりじゃ怖くてできやしない。
こうしている間にも気付かぬうちに、身だしなみに乱れが生じているかもしれない――そんな思いが強迫観念へと悪しき成長を遂げるのに時間はかからなかった。いつしか咲夜は、己の姿に異常がないかをひっきりなしに指先で確認せずにはいられなくなってしまったのである。
「難儀なことね」
霊夢もこれには同情を禁じえなかったらしい。
「咲夜はまだまだやわだなぁ。もうちょっと人間味が抜けた方が、夜は楽しく過ごせるのよ」
しかしレミリアは空気も読まず、ついさっきの発言とは裏腹のことをのたまったのだった。霊夢が唇を尖らせる。
「あんたねえ、これは普通、女性にとって死活問題も同然のことじゃないの」
「まったくだぜ、これだから女心もろくに育っていないお子様は」
視線だけこちらに向けた魔理沙が同調し、それからふと眉を寄せた。
「そういうレミリアは、自分の恰好とか気になったことはないのか? お前も鏡に映らないんだろ。不便だったろうに」
するとレミリアは、ははんと鼻で笑うのだった。
「私くらいの吸血鬼に、人間の常識を当てはめようなんて、だからあなたは浅はかで時代遅れなのよ」
「なんだよ、まさか吸血鬼も映る鏡を持っているとか言うのか?」
不機嫌さに満ちた中にも若干の期待が入り混じった魔理沙の問いに、レミリアは再びせせら笑った。
「そんなの要るものか。私が恃むのは自らの力のみよ」
そう言うと、おもむろに背中の翼をすぼめ、わずかに腰を沈める構えを取った。何をするつもりかと見守る魔理沙たちの前で、不意にその影がぶれたかと思うと、次の瞬間、レミリアがもう一人、その場に出現した。
「……へ?」
レミリア・スカーレットが二人となったのである。姿かたちはそっくり一緒、まるきり鏡写しの様相で、向かい合うようにして立っている。
「分身……? フランドールが使っていたあのスペルか」
呆然となる観衆たちに、レミリアのひとりがかぶりを振って見せた。
「ちょいと違うわね。これは残像よ」
目にも留まらぬ高速移動の合間、故意に視覚できる程度まで一瞬だけ速度を落とすことで、自分の像を他者の目に焼き付ける。そんな吸血鬼の体術の粋であると、彼女は……彼女らは言うのであった。
二人のレミリアは互いに向かい合って、相手の姿を検分し始めた。正面のみならず、背中にまで回りこんでぐるりと確認し、特に問題がないことを互いに報告しあう。
「ま、問題があれば咲夜がとっくに見つけてくれてるはずだしね」
笑いあうと、二人はそれぞれ相手へと歩み寄っていき、その体を重ね合わせた。気がつけばレミリアは元通りひとりに戻っていて、縁側へ向けて「ね?」と目くばせなどしたのであった。
「なにが、『ね?』だ! そんな残像があるか」
まだ分身の方がよほど説得力あったわ、と魔理沙が憤りとも嘆きともつかぬ訴えを上げたが、レミリアはそれを無視して咲夜に向き直った。
「てな具合で、私たちには鏡なんて必要ないわけ。今のあなたにもできるはずよ。ほら、やってみなさい」
「え、やるんですか? 私が?」
咲夜はびっくりした顔となったが、「まあお嬢様が言うのなら」とうなずいた。「やるんかい」という人間たちの突っ込みを聞き流して、先刻のレミリアの構えに倣う。そして目に朱色の決意を灯したかと思うと、
「おおっ」
見事、その身を二つに分けてみせたのである。感嘆の声が縁側から上がった。
二人となった咲夜はその声に応えようと笑みを浮かべかけ、しかし急に目を大きく見開いた。ほぼ同時、ぐきっ、となんとも痛ましい音が、人間たちの耳に届いている。
一瞬後、残像が消えてひとりに戻った咲夜は、その体を大きく傾けさせていた。受身も取れぬまま地面に倒れるかと見えた瞬間、横合いから飛び出してきた紅い小さな影が彼女のことを受け止めていた。レミリアの小さな手に抱きかかえられて、咲夜は数秒、何が起きたのか分からぬ風にまばたきしていた。
レミリアと視線を合わせて、やっと事態を把握したかのようにつぶやく。
「お嬢様、足首が痛いです」
「ひねったのよ。ヒールの高い靴でやるようなことじゃなかったわね」
地面にはパンプスの折れた踵が転がっていた。それを確かめて、咲夜は困ったように微笑んだ。
「やっぱり私にはこの方法は向いていませんね。高速で動いていたら却って髪などが乱れてしまいますし」
「ふむ、私くらいに動きが洗練できるまでは、三百年はかかるかな」
「時間を止めて練習しても、半世紀はかかりそうですね」
見つめあったまま肩などすくめる主従を、ふたりの人間が、もう呆れるのにも疲れたといった憔悴の顔つきで見ている。
「人んちの庭先で遊ぶのも、気が済んだ? だったら、ほら。捻挫の手当てしてあげるから、咲夜をこっちへよこしなさい」
霊夢は立ち上がると、縁側と自室をつなぐ背後の障子を指し示した。
今夜は早めに休むつもりだったのだろうか、霊夢の部屋には既に夜具が整えられていて、敷布団の上に咲夜は座らされた。レミリアと魔理沙は縁側に残してきており、部屋には霊夢と二人だけとなっている。
霊夢に軟膏を塗ってもらっている間、咲夜は所在なげに室内を見回した。片隅に小さな丸い鏡が置かれているのを見つけ、上体を伸ばしてそこに自分の顔を映そうとする。ほとんど無意識の動作だった。覗き込んだ鏡面に求めたものを見つけられず、それで咲夜は唐突に、自分が吸血鬼となっていたことを失念していたのだと悟った。
「まあまだ三日だし。体に染み付いた癖はそうそう抜けるものじゃないわよね」
それまで黙っていた霊夢にいきなり声をかけられ、咲夜は一瞬びくりと身を震わせ、それからしょんぼりと肩を落とした。
「ねえ、私、どこか変になったりしてないかしら。髪が跳ねてたり、襟が崩れてたり、しない?」
「さあ。私はそういうことに関しては、魔理沙ほど鋭くないようだし」
霊夢は包帯を巻きながら、そっけなく応える。少ししてから視線を持ち上げ、咲夜の顔を見た。
「いつもどおり、綺麗に整っているわよ。これまで見てきた限り、あなたは弾幕でもしなければ、見た目に隙なんてそうそうできたりしないわ」
霊夢なりに安心させようと、言葉を足したらしかった。それでも咲夜はうなだれたままでいる。
程なく包帯の端を結び終えると、霊夢はまた口を開いた。
「もしかしたら、吸血鬼も映せる鏡っての、あるかもしれないわね」
「え?」
やっと顔を持ち上げた咲夜と、霊夢は視線を重ねる。
「吸血鬼が鏡に映らない理由は知らないけどさ、どうせ宗教上とか呪術的な理由あたりでしょ? 原因の存在する事象なら、対策だって立てられるはず。理屈が縛っていることなら、その理屈を壊す方策だってあるものだわ。そういう方面の神様がいるなら私が降ろすこともできるかもしれないし、魔理沙が魔法の知識から手がかりを見つけ出せるかもしれない」
「私のために、骨を折ってくれるというの?」
「まぁ、人間やめちゃったとはいえ、女友達だしね」
そのくらい大したことじゃないとばかり、さらりと言う霊夢に、咲夜は目を細めた。
しかしそこへ、障子の向こうから紅く幼い声が割って入ってきた。
「おせっかいは不要だよ、霊夢。うちの問題に、よその手は借りないわ」
ほのかな月明かりを背に、腕を組んでいるらしきレミリアの影が、障子の上に薄く落ちている。
「さっきも言ったでしょ、私が恃むのは自らの力のみって。咲夜は私のものなんだから、すべからく私が面倒を見るよ」
「……だそうだけど」
わがままな幼年の主張に、霊夢が白けたような顔を咲夜に向ける。咲夜は小さくくすりと笑った。
「お嬢様がそう言うのなら、そういうことなのよ」
そして腰を持ち上げ、敷き布団に立った。
「世話になったわね」
「うん。足、大丈夫?」
「ええ、おかげさまで。……というか、なんだか、治っちゃってるみたい」
包帯に覆われた側の足首を持ち上げて、咲夜はぶらぶらと振って見せた。どうやら吸血鬼の再生力が、この短時間で捻挫を癒してしまったらしかった。
「薬を無駄にしちゃったわね」
「いずれお賽銭の形で返してくれると嬉しいわ」
「そうね。いずれ、ね」
なおざりに請け合って、咲夜は障子に足を向けた。
レミリアと咲夜は再び庭先に並んで立ち、縁側の霊夢と魔理沙と向き合った。
「それじゃ、そういうことだから」
「今後ともよろしくお願いするわね」
それが去り際の挨拶だと気付き、霊夢が首を傾げる。
「結局あなたたち、何しに来たの?」
「いま言ったじゃない。咲夜がこういうことになったけど、まあ気にしないでって、そう告げに来たのよ」
「あっそ……」
脱力する霊夢の隣で、魔理沙は無言でいる。咲夜が確認するようにそちらへ視線を向けると、魔法使いの少女は拗ねたように口を開いた。
「ああ、そんな念を押さなくても分かってるよ。要するに知り合いから人間がひとり欠けて、吸血鬼がひとり増えた、それだけのことだろ。それだけに過ぎないんだ。どうこう騒ぎ立てるほどのことじゃないさ、分かってる。これまでどおり、よろしくしてやるよ」
そう言いながら、しっしと追い払うような仕草をした。
咲夜はちょっとだけ寂しげな微笑みを残すと、引き上げようと促すレミリアに従って、夜空へと浮かび上がった。
†
涼やかな風の中を飛んで、紅魔館へと帰る。門前には美鈴が空を見上げる格好でたたずんでいて、咲夜たちの姿を認めると、嬉しげに相好を崩した。
そのまま門を飛び越えて、二人は玄関先に降り立った。着地際、ふわりと踊ったスカートの裾をなだめるように手で押さえつつ、咲夜はレミリアのために扉を開いた。
館内の紅い回廊を、二人は進む。主の数歩後ろに従いながら、咲夜は途中の壁に窓があると、ついそちらへと視線を流してしまった。同じ結果しか得られないと知りながら繰り返し、その度に失望に目を伏せる。心の落ち着きどころを求めるかのように、指を体のあちこちへと這わせる。完璧であらねばならないはずの自分の恰好に隙ができていやしないかと、気を揉まずにはいられない。
やはり何か対策が欲しいな、と先刻の霊夢との会話を思い出した。吸血鬼も映す鏡なんてものがあれば、それが一番良いのは確かなのだが。存在したとして、おいそれと用立てられるものでもなかろうし、作り出すにしてもどれだけの時間を要するか知れない。今日明日に、この心が平安を得られることは、少なくともありえないだろう。
あるいは自分も生粋の吸血鬼だったなら、こんなことを気に病む対象とならなかったのだろうか――いつしか思考はそんな方向へと逸れていった。すぐ前を歩くレミリアの背中を注視する。咲夜がそばにいるときは常に注意しているから、幼い吸血鬼が身なりを粗雑にしたことなど滅多にないはずだった。
そうか、と思い当たった。生まれついての吸血鬼は貴族にも近い生活をしているから、常に側仕えがいるから、身だしなみにそれほど留意しなくてもよいのかな、と。だったら自分も信頼できる従者を得ればよいのだろうか。妖精メイドなんかじゃ用は為せないだろう。レミリアにとっての咲夜みたいな存在でなければ――それがいかに得難いものであるかは、咲夜自身が一番よく知っていた。苦笑し、同時に感謝も覚える。自分たちの出会いが、いかに奇跡的なものであったかを、改めて実感して。
自分たちの関係には遠く及ばずとも、ある程度の充足を満たせそうな人選になら、心当たりがないでもなかった。例えば、とそこでまず脳裏に浮かんだのは、さっきの魔理沙の拗ねた顔だった。思わず失笑する。あのじゃじゃ馬を従える自分の姿が、意外なほどはっきりと想像できたからだった。
そんな気配が伝わってしまったのか、レミリアが不意に足を止めた。急いで咲夜も歩を休め、咄嗟にまたどこか不躾なことになっていやしないだろうかと髪やら服の端やらを整えようとし、そうこうしている間にレミリアがこちらを振り返った。素早く手を腰の前で重ね、瀟洒な姿を整える。
「咲夜」
こちらを見つめるしばしの間の後、レミリアは静かな声をつむいだ。
「はい」
「ちょっとしゃがんで」
予想外の命令が飛んできて、咲夜は首を傾げたくなりながらも、言われるがままにした。膝を折り、腰も少し曲げると、レミリアと目の高さが並んだ。
小さな歩幅で主が歩み寄ってきて、小さな手を咲夜の襟元へと伸ばしてきた。
「タイが曲がっているわ」
「え……あ、申し訳ございません。自分で直しますわ」
咲夜は慌てて主を制したが、レミリアもかぶりを振って譲ろうとしなかった。
「"従者は主人を映す鏡"と言うわ」
「えっと……どなたの言葉ですか」
「レミリア・スカーレット」
声音から察するに、冗談の類ではないらしい。
「従者を見れば、主の程度が知れるということよ。その意味でも、咲夜はよくできたメイドだわ」
「はあ、ありがとうございます」
「これはね、逆も言えるのよ。主は従者を映す鏡。立派な君主には相応の臣下がつくし、ろくでなしならそれなりの者しか配下に置けないわ」
話がどこへ向かおうとしているのか分からず、咲夜は戸惑った。その隙にレミリアは、指を咲夜の襟元へ届かせてしまった。
「私は、あなたを有するに相応しいものでなければならない。あなたの主であることをなんぴとにも認めさせる、そんな存在でなければいけないの」
タイに触れたのは一瞬、レミリアは手を咲夜の肩へと回し、両手で首を抱えるようにした。三日前の行為のことが思い出されて咲夜は反射的に身を固くしたが、レミリアは牙を剥くことなく、ただそっと咲夜のことを抱きすくめたのだった。
「ごめんね、咲夜。あなたを苦しませて」
咲夜の耳に触れた声は、かすれ、湿っていた。
「私が、あなたのことを見ているから。あなたの鏡となっているから。だからあなたも、私のこと、これからも見続けていて」
ほとんど懇願にも近い響きに、咲夜の体の強張りはゆっくりと解けていった。驚きに力なく垂らしていた両手を持ち上げ、主の小さな体を抱きしめ返す。
「ええ、もちろんですわ」
自分も鼻声になってしまっていることに気付き、咲夜は潤んだ目を閉じた。なるほど、確かに自分たちはお互いを映す鏡同士なのかもしれない。片方が涙に暮れれば、もう一方の胸も悲しみに閉ざされてしまう。それだけの結びつきが、心の深く、魂にも近いところで成されてしまっているのだ。
ならば、と鼻をすすり上げながら、考える。どちらかが笑顔を保っていられれば、残る側も笑いつづけられるのだろうかと。うん、きっとそうに違いない。だって、これまでがそうだったのだから。ただそれと知らなかっただけで、自分たち二人はずっと互いを映し続けてきたのだ。
そして、それはこれからも。
「大丈夫ですよ、お嬢様。私はお嬢様を見捨てたりなんてしません。約束したじゃないですか、生きている間はずっと一緒ですって」
努めて明るい声を出す。腕の中でレミリアがぴくりと羽を震わせ、でも返ってきた声はまだぐずっていた。
「咲夜は、もう、死ねないのよ?」
「普通には、そうですわね。だったらなおのことです。これからの永い夜、私はあなたと楽しく生きていくつもりですよ。お嬢様の心は、違うのですか?」
「そんなこと……違うわけがないわ」
返ってきた言葉は、咲夜が確信していたそのものだった。だって二人の心は、もはやすれ違うことなどないと、そう知ったのだから。
「もちろんよ、咲夜。私たちは二人、これからも愉快に夜を過ごしていくのよ」
まだ若干震えながらも、レミリアの声に力がよみがえる。ほっと咲夜は安堵し、それが相手にも伝わったらしかった。二人はお互いの体に回していた腕をほどき、身を離して、向き合う。
濡れた頬を、照れにほんのり染めて。向き合う顔に笑みを浮かべた。その表情に、互いが同じ決意を秘めていることを悟りあい、それを言葉にしようと目でうなずきあう。
せえの、と同時に口を開いて、
「これからも、よろしくね」
二人はくすくすと、声までも鏡合わせに笑いあった。
SS
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