Legendary Wings
真昼の空に、星が流れた。
博麗神社にて境内の掃除をしていた霊夢は、ふと手を止めて、空を仰いだ。
突き抜けるように高い秋の群青を、何かが横切ろうとしている。かなりの高度にいるらしく、豆粒ほどの大きさにしか見えなかったが、それでも正体は掴めた。その物体は後部から、きらきらとカラフルに光る星の粒を撒き散らしていたのだ。天駆ける魔法の箒の特徴。
加えてかなりの速度を出していることから、霊夢は確信した。
「ああ、魔理沙じゃない」
そんなつぶやきが届いたわけでもないだろうが、神社上空を通り過ぎるかと思われた飛行物体が、急に針路を変えた。大きくカーブを描きながら、神社へと向けて高度を下げてくる。
またお茶でも飲みに来たか。霊夢は呆れ顔になりつつも、掃除を切り上げる。確かに、そろそろ休憩にするというのは、悪くない考えだ。
お茶請けくらいは持参してきたんでしょうね、などと考えつつ、もう一度空を見ると――
飛行物体が全く速度を落とさずに突っ込んでくるところだった。
「!!」
慌てて飛び退いた霊夢が、直前まで立っていた正にその場所を、飛行物体は弾丸の如く突き抜けていく。つむじ風を巻き起こし、きらきらと乙女チックな星粒をばら撒きながら。
星の輝きに目をちかちかとさせながら、物体が飛び去った方角向けて霊夢は怒鳴る。
「ちょっと! せっかく掃除したのをどうしてくれるのよ! 戻って来い、魔理沙ぁー!」
しかしそいつは引き返すことなく、まっすぐ空の彼方へと飛び去っていった。
シャッ、と勢いよくカーテンを開くと、予想していた以上に強い陽射しが部屋に侵入してきた。
普通の魔法使い、霧雨魔理沙は手で目を覆い、「うおおお……」と浄化される悪霊の如く呻いた。
「太陽がいい感じに黄色いぜ……ちょっとだけレミリアたちの気持ちが分かったかもな」
よろよろと魔理沙は部屋の奥、日陰となっている場所まで退く。そこに置かれたソファに倒れこむと、トレードマークのひとつである大きな帽子を顔に乗せた。
「太陽におやすみを告げるとは、我ながら不健康もいいところの生活だな。ま、いいや。おやすみなさい」
帽子の下で目を閉じるが、安眠はすぐさま妨げられてしまった。ここ、霧雨邸の入り口ドアが乱暴に押し開かれたのだ。
そしてずかずかと踏み入ってくる足音が、複数。
「なんだぁ?」
帽子をどかした魔理沙は、思わず顔を引きつらせた。殺気立った形相が三つ、すぐそばで彼女を見下ろしていた。
霊夢、咲夜、アリス――ちょっとばかり奇妙な組み合わせだ。軍事基地にでも殴り込みをかけられそうな物騒な編成ではある。
「な、なんだ? 押し込み強盗か?」
魔理沙は跳ね起きようとしたが、足元がふらついて、またソファにぼすっと収まってしまう。その上にのしかかる三人の影。
紅白の巫女が胸の前で腕を組み、いつになく厳しい目つきを魔理沙に注ぎながら言った。
「どういうつもりなのか、説明してもらいましょうか」
「それはこっちの台詞だと思うのだが」
「あんたのここ数日の狼藉。おいたが過ぎるんじゃない?」
「何のことだかさっぱりだ」
「いいのよ、いくらでもしらを切ってくれて。どうせ赦す気などないんだから」
そう言って凄むメイド長の手には、早くもナイフが光っていた。
「お嬢様の館の風見鶏を吹き飛ばしておいて挨拶もなしなんて、惨死に値するわ」
「なんだ、それは?」
「とぼけないで!」
お次は七色の人形遣い。胸に、髪がばさばさに乱れてしまっている人形を抱いている。
「私が庭で人形たちと午後のお茶会を楽しんでいたところに突っ込んできて、めちゃくちゃにしてくれたじゃない!」
「……相変わらず寂しいことしてるな、アリス。今度、うちのお茶に誘ってやろうか?」
「ほ、ほっといてよ! あ、でもお茶の誘いは受けても……そうじゃなくて!」
「いや、知らんぞ、私は。そんなこと」
「ふうん、うちの神社でやったことも知らないと言うのね。神社は通り抜け禁止だって、いつも言ってるでしょ。制限速度もぶっちぎってくれて」
そして霊夢に戻る。
魔理沙は狼狽しきって、自分を取り囲む三人の顔を順に見渡した。正直、逃げ出したい。
「本当に、なに言ってるんだか分からないってば。何があったって言うんだよ?」
すると三人はいっせいに大きく息を吸い込み、
「だから」
「あんたが箒で」
「大暴走!」
まるで事前に打ち合わせでもしていたかのような見事な呼吸だった。案外、トリオでやっていけるかもしれない。
「私たちだけじゃないわ。幻想郷のあちこちから苦情が上がってる。あんたの暴走行為に対するものよ。ひとり珍走団でも旗揚げしたの?」
集中する非難の目。けれども、魔理沙にはまったく心当たりがない。
「なあ、待ってくれよ。私はここ数日、家にこもって、パチュリーが広い心で貸してくれた本を読みふけってたんだ。今だって徹夜明けでさ……外の事情なんて分からないんだよ」
そう告げて、近くの机に積まれた本の山を示す。一番上にあるのが、ついさっきまで読んでいた『等身も増える! きのこ健康法』だ。
前衛的なタイトルにアリスが目元を引きつらせる。
咲夜はナイフの切っ先を魔理沙に向けて、冷酷な笑みを形作った。
「嘘を吐くなら、もっと馬鹿げた大法螺を吹くことね。あなたの場合、その方が信じてあげようという気になるわ」
「人をなんだと思ってるんだ」
焦りつつ、魔理沙は頭をフル回転させて状況を整理しようとする。どうやら外では、自分の与り知らぬところで自分が暴れまわっていたらしい。
すわ、ドッペルッゲンガー出現か、はたまた偽魔理沙の暗躍か。後者ならば、この霧雨魔理沙の名を騙るなど不届きもいいところだ。眼の付け所は評価しないでもないけど。
「お前ら、本当にそれは私だったのか? ちゃんとその目で見たのか?」
「見たわよ」
霊夢がきっぱりと言い切り、少し置いてから付け加えた。
「箒を」
「……は?」
もしやと思い、魔理沙は咲夜とアリスに視線を移す。
「私も見たわよ。館の上ぎりぎりを凄いスピードで飛び過ぎていった、その……箒を」
「わ、私だって……森の奥からいきなり飛び込んできて、そのまま通り過ぎていった……箒のこぼす星を」
「……おい」
もう一度視線を巡らせてやると、三人の訪問者たちは次々と目を逸らしだす。
「お前ら、箒しか見てないんじゃないか! あれか、箒でかっ飛ぶ奴がいたら、それはみんな私なのか? 幻想郷に箒で空飛ぶ魔法使いが私一人きりって、そんなことはないだろうが」
まくしたてると、霊夢が頬をぽりぽり掻いて、
「それもそうね」
「そうねで済むか! 自堕落に生きてるから勘が鈍るんだ!」
「落ち着きなさいよ、魔理沙」
咲夜が静かに告げる。先ほどまで強烈に発していた敵意はいくぶん減っていたが、ナイフはまだ引こうとしない。
「あなたの言うことにも一理あるけれど、それであなたが無罪放免となったわけじゃないのよ。今なお、最も疑わしいのがあなたであることに変わりはないのだから」
「魔理沙が犯人でないとなると、魔理沙以上のスピード狂がいるってことだし。いまいち想像できないわ」
アリスも咲夜に同調する。
「だけど」
そこへ霊夢が口を挟んだ。
「よくよく思い返してみると、あの暴走箒、魔理沙より速くなかった?」
「……あー、言われてみれば」
「そうかも」
うなずきあう三人に、魔理沙のまなじりがぴくりと震える。
「ほほう……幻想郷一のスピードスターと呼ばれたこの私より、さらに速い魔法使いがいるだと……?」
その瞳に、小さな火が灯りつつあった。
「誰も呼んでないし。それにそんなこと言ってるから、真っ先に疑われるのよ」
霊夢が適切な突っ込みを入れるが、魔理沙はそれを無視して、いきなり宣言した。
「上等だ。その犯人、この私がとっ捕まえてやる! 私の無実は私自身が晴らすぜ!」
なぜだか分からないが、無性にプライドが刺激された。
自分でも不思議に思う。私はいつから、幻想郷最速など目指していたのだ? いや、今だって別に、そんな称号など欲しいとは思っていないのだが。
だけど正直なところ、箒の速さで敵わない相手など、どれほどもいないだろうと考えていたのも確かだ。実際、これまでそんな相手に出くわした覚えがない。
だから、興味はあった。濡れ衣を着せられたことへの恨み以上に。
「どう思うよ、相棒?」
魔理沙は自分の膝の間にある箒の柄を、指で軽く弾いた。この箒が言わば、魔法使いである彼女にとっての翼だった。
彼女は今、蒼穹にいた。犯人の捕縛を誓ってすぐ、眠たい目をこすって飛び出したのだ。
「で、なんでお前が一緒にいる?」
隣にはアリスが浮かんでいる。
「重要参考人を一人きりにしておけるわけないでしょ」
抱えた人形の髪に櫛を通しながら、アリス。
「これで暴走箒が別に現れたなら、良し。でもそうならなかったら……人形たちと一緒に七日七晩吊るしてあげるわ」
「無茶言うぜ。そんなすぐに遭遇できるものでも……」
はっと言葉を切り、魔理沙は頭上を振り仰いだ。アリスもくるりと仰向けになる。
二人の頭を押さえつけるような高高度に、黒い芥子粒ほどの点が見えた。それは陽光の下にありながら、なお目に付く星を撒き散らしていた。
黒い点は、高速で二人の頭上を通り過ぎようとしている。
「こんなに早く。運がいいわね、魔理沙」
「にゃろう、とっちめてやるぜ」
先制攻撃。魔理沙は相手の進行方向と速度を計算し、偏差射撃を行う。
殺到するマジックミサイルの束が狙いあやまたず命中するかと見えた瞬間、しかし相手は「かくっ」とほとんど直角に近い角度で曲がり、これを回避してしまった。
「んなっ?」
「なにしてるのよ、魔理沙」
アリスが人形を目標に向け、真紅の光線を放つ。
だがこれも相手は横っ飛びに似た動きでかわした。アリスのレーザーがそれを追いかけるが、相手はジグザグに移動して、まったくかすらせもしない。
「まるきりUFOだな……ありえないぜ」
高速であんな奇天烈な機動を行えば、箒の乗り手が無事では済まない。強烈なGで振り落とされるか、体の中身がぐちゃぐちゃになってしまうはずだ。
それをこともなげにやってのけるとは、何者なのか。好奇心がすくすく育つ。
「魔理沙、マスター……いえ、ダブルスパークあたりなら捕まえられるわ。ほら、私が牽制している隙に……」
「振り回されているだけじゃないか。私はちょっくら行ってくるぜ」
「えっ、どこに行くのよ?」
アリスの問いに、魔理沙は行動で答える。目標に向かって飛行を始めたのだ。
魔理沙の箒の房からも、相手のものと同じ、きらきら七色に輝く星がこぼれる。魔力が推力に変換された際に生まれる結晶。すぐ大気に溶けてしまうそれこそが、魔法の箒のしるし。
相手は魔理沙の接近に気付くと、ジグザグ機動をやめて逃走にかかった。急加速して魔理沙を引き離そうとする。
「なるほど、なかなかの速さだ」
魔理沙はふふんと鼻を鳴らした。
「だが、幻想郷では二番目だぜ!」
どさくさに紛れてナンバーワン宣言をする。
相手の後ろにぴったりと着く。房から撒かれる星屑が目くらましになって、箒に乗っている魔法使いの姿はなかなか捉えられない。
魔理沙は柄を握る手に力を加え、箒にさらなる加速を命じた。周囲の空気が後方へ吹き飛んでいき、風の唸りが耳元で渦巻く。
なのに、それなのに――
「引き離されている?」
相手のシルエットが徐々に、だが確実に小さくなりつつあった。魔理沙は信じられない思いを抱きつつ、姿勢を低くしてほとんど柄にしがみつく形になった。そしてさらに増速しようとして……
「なぬっ?」
突然、視界が真っ暗になった。
つばに受けた風圧で帽子がずれて、目を覆ってしまっているのだと気付くまで、二秒ほども要してしまった。あまりに致命的なロス。
帽子を直したときには、相手は垂直上昇に移っていて、遥かな高みから嘲笑うかのように魔理沙のことを見下ろしていた。
もはや届かない。そう認めるだけの度量は魔理沙にだってある。
負けたのか――
歯噛みする魔理沙は、しかし次の瞬間、瞠目した。
星たちの目くらましを透かして、一瞬のことだが、相手の姿をはっきりと視認したのだ。
それはとても古臭いデザインの箒で――
そして、誰も乗っていなかった。
無限に続くかと思われる薄闇の中に、書架が林立する。墓所を思わせる圧倒的な静寂の中では、それらはまさしく墓標のようでもあった。
紅魔館が内包する幻想郷の名所のひとつ、ヴワル魔法図書館。
中心に据えられた閲覧用のテーブルには、ランプが小さな明かりを作り、それを頼りに少女が一人、本を読みふけっていた。
ページをめくる音だけが響く空間に、唐突に風の音が流れた。
「よう、例によって邪魔するぜ、パチュリー」
頭上から降ってきた声に、少女は知識に満ちた紫色の瞳を持ち上げようともせず、応じる。
「咲夜から聞いたわよ、魔理沙。無様ね」
「げっ、見てたのか、あいつ……。家政婦は見た! を地でいく奴だな」
「今回は時間を止めて、どうにか正体を確認したらしいわ。捕まえるまではいかなかったらしいけれど」
「とにかく、それなら話は早いぜ」
魔理沙は箒と共に床に降り、テーブルを挟んでパチュリーの向かいに立つ。
「そいつのことを調べに来たんだ」
するとパチュリーは本を照らしていたランプを手にし、背後の闇に向かって何度か振った。
しばらくすると、闇の奥から図書館の司書を勤める小悪魔が、なにやら分厚い本を抱えて飛んできた。パチュリーに本を渡すと、一礼して、また飛び去っていく。
「咲夜から特徴を聞いて、調べてみたの」
「それに載っているのか、あの箒のこと。ずいぶんと気が回るな」
魔理沙は嬉々として本に手を伸ばすが、パチュリーはさっとそれをかわす。
「うっかり渡して、また持ち帰られたらかなわないわ」
「信用ないんだな」
「どの口で言うのかしら」
冷ややかに魔理沙のことを一瞥すると、パチュリーは本を開く。ちらっと見えたそのタイトルは、「幻想郷魔法使い紳士録」なるものだった。
魔理沙はパチュリーの対面に腰掛け、彼女の言葉を待った。
「咲夜に聞いた特徴から判断するに、あの箒は、クロフォードとかいう遠い昔の魔法使いが愛用していたものね。伝説の魔法使いとか呼ばれてるらしいけれど、知ってる?」
「うんにゃ」
「……で、問題の箒にも名前があるわ。伝説の魔法使いが乗りこなした伝説の箒――『ガントレット』」
「ガントレット……『手甲』?」
「由来は、持ち主の片腕にも近い存在だったから……そう推測されているわ」
「強引でないかい、その解釈は」
「さらに進化すると『ヴァンブレイス』、増加装甲と合体して『ブリガンダイン』にもなるわ」
「本当に箒なのかそれは」
「後半はまあ、冗談として……」
ぴくりとも表情を変えず、パチュリーは淡々と語る。
「いくら魔法の箒とはいえ、それが単体で動くなんてことは本来ありえない。これを説明できる現象となると、最も有力と思われるのは『付喪神』ね」
「つくもがみ――長い年月を経た日用品が妖怪になるっていう、あれか?」
その説を採るとすれば、あの箒は妖怪ということになる。魔法の箒にして、妖怪。複雑な奴だ。
「元が魔法の箒なら、なおのこと付喪神となる資質があったのかもしれない。ただ、それが正体だとして、何を目的に暴れまわっているかまでは分からないけれど」
「なんだ、そんなの簡単だろ? 変なところで頭が回らないんだな、お前は」
魔理沙には、すぐに理解できた。
空を飛ぶ箒の存在意義はただひとつ、空を飛ぶこと、それに他ならない。だからあの暴走箒は飛ぶのだ。飛ぶことそのものを目的として。
「よみがえる伝説の翼、か……過去の遺物とも呼ぶがな」
魔理沙は席を立つと、相棒である箒を手に取った。
「世話になったな」
パチュリーが冷然とした眼差しを向けてくる。
「戦うつもり?」
「異変の解決は私の趣味だぜ。巫女の仕事でもあるが、今回は私向きだ」
「安い意地が透けて見えているわよ」
パチュリーは初めて、まともな感情のこもった息を吐いた。
「あなたに勝ち目はない。相手は乗り手に気兼ねすることなく、有人飛行の限界を超えた加速と機動を行える。対するあなたは、乗り手たるあなた自身が足かせになるのよ」
「おまえさん、箒に乗ったことがないのか?」
魔理沙はにやりと不敵に笑った。
「乗り手がいるからこそ、箒は真価を発揮できるんだ。それを証明してやるぜ――私たちがな」
顎の下で紐をきゅっと、きつく締める。トレードマークの帽子を固定するため、今回に限って縫いつけた顎紐だ。
「小学生みたいね」
霊夢の呆れた声。
二人は博麗神社の社務所、縁側に座って、「ガントレット」の出現を待ち構えていた。頭上に広がる空は今日も、どこまでも高く澄み渡っている。
「帽子を脱いで置いていくって発想はないの?」
「こいつは私から離れると夜泣きするんだ」
「そいつも妖怪なのか」
他愛のないやりとりをしながら、午後の空を見張り続ける。傍らにはお茶と、お茶請けのお煎餅。ずいぶんと長く待ちぼうけを食わされており、その間、霊夢がお茶の葉を替えようとしなかったため、出涸らしもいいところになってしまっている。
「おっ」
あくびを漏らしかけて、魔理沙は慌てて噛み殺した。待ち望んでいた相手が、視界の端に飛び込んできたのだ。
縁側から降りて、箒にまたがる。
「それじゃ、ちょっくら行ってくる」
「行ってらっしゃい」
湯飲みを傾けながら、霊夢。
魔理沙は地面を蹴ると、空をめがけて飛び上がった。
「よう、ガントレットとやら」
彼我の距離は、まだずいぶんと遠い。声が届いているとも思えないが、魔理沙は口を大きく開けて呼びかける。
「ご主人様でも探しているのか? ならば私が今すぐ会わせてやるぜ!」
そして愛用の箒を鞭打つ。
箒の房が緊張する。房を構成するエニシダの枝、その一本一本が先端までぴんと張り詰め、さながらハリネズミのごとき攻撃的なフォルムを取る。
そしてそこから、七色の星屑が大量に吐き出され、
「行くぜ、相棒!」
魔理沙が指差す空の彼方めがけ、箒は大気を震わせて一気に増速する。
急速に接近する魔理沙を、ガントレットは認めたらしい。こちらも急激に速度を上げた。
真昼の幻想郷に、二つの星が流れ行く。
大気を強引に切り裂き、雲を千切り飛ばして魔理沙は空を走る。大気の悲鳴と雲の怒鳴る声を遠く後ろに置き去って、ひたすらに空の先を目指す。
ガントレットは、そのさらに先を行く。何を思い、どこを目指しているのか。それは知る術もない。
確かなのは、魔理沙を置いてけぼりにするべく、非常識な加速を続けている事実。
「なるほど、なかなかの速さだ」
またしても引き離されそうになりながら、魔理沙はふふんと鼻を鳴らしていた。
「けどな、私だって――」
ぐっと、上体を沈めて、
「普通に速いんだぜ!」
箒の房が黄金色に輝く。零れ落ちる星たちの中に金色の輪が生まれ、次の瞬間、箒は見えざる手に突き飛ばされたかのように一段と速度を増した。
そしてとうとう、相手の速度を上回る。
ぐぐっと縮む相対距離。
「射程取った! 喰らえ恋の酸味、無機物のお前も味わうがいいぜ!」
魔理沙の懐でミニ八卦炉が熱を持ち、
「マスタースパーク!!」
魔理沙の掌から放たれた白熱の光芒が、虚空を薙ぎ払う。進路上のあらゆる存在を等しく灼き尽くす、無慈悲な輝き。
敵もそれに飲み込まれたかと思われたが、しかし魔砲放出の寸前、ガントレットは機動を変更していた。
柄の先端から水蒸気の白い雲を引きつつ、直下へと転針。高度を速度に転換しながら魔理沙の真下へと潜り、今度は急上昇。
魔砲の照射で速度を落とした魔理沙へと牙を剥いて飛び掛かる。
「こいつっ……」
魔理沙はまだ放出中だった魔砲を強制中断。回避を行おうとするが、瞬きほどの時間が彼女には足りなかった。
疾風の槍と化したガントレットが、黒いシルエットを貫き、引きちぎった。
「お茶が入りました」
パチュリーのそばにティーカップを置いて、だが小悪魔はすぐに退がろうとはしなかった。
「美鈴さんが目撃したそうなのですが、現在、魔理沙さんが例の箒と交戦中だそうです」
「そう」
パチュリーの返事はひどく素っ気ないものだった。
小悪魔はやや拍子抜けした顔をしつつも、一礼して引き返そうとする。
それを、ふと思い出したかのような調子で、パチュリーが呼び止めた。
「ああ、待って。頼みたいことがあるわ」
「なんでしょう」
「次に魔理沙が来たときは、紙とペンを用意してちょうだい」
「……はあ」
それだけだった。
小悪魔は首を傾げ傾げ戻っていき、パチュリーは変わることなく本のページを繰る。
「いたた……くそっ、やってくれたな」
魔理沙は顎から首にかけてをさすりながら、頭上をねめつけた。
その頭からはトレードマークである帽子が消え、豊かな金色の髪があらわになってしまっている。
ガントレットの突撃による被害だった。紙一重でかわしたつもりが、あの箒の柄が帽子のつばに引っかかり、勢いで顎紐も千切れ、帽子は吹き飛ばされてしまったのだ。
顎紐を引っ張られたときの痛みは、斬首のものを想像させた。それでも、まともに直撃されていたことを思えば幸運ではあったが――
「アリスに吊られるよりも屈辱だな。帽子、後でちゃんと回収できるかしら」
今は後回しにしなければならない。後ろ髪引かれるのを振り切って、なおも垂直上昇中のガントレットを、魔理沙は追った。
箒にしがみついて、敵と同じく垂直上昇。
周囲の蒼が、だんだんと濃さを増していく。藍色へ至った世界に、二つの箒が星を散りばめる。
薄まる空気に魔理沙は息苦しさを覚えていた。耳鳴りもする。くらくらと目眩すら感じていた。これほどの高度はついぞ体験したことがない。
箒も苦痛を訴えるかのように、魔理沙の手の中で柄をびりびりと震わせはじめる。
魔理沙は血の気の引きつつある唇を開く。
「泣き言なら後で聞くぜ、相棒。今は意地でもあいつに届いて見せるんだ!」
箒の震えがわずかながら弱まる。オーケーいい子だ、愛してるぜ。
とは言え、こちらも限界が近い。これ以上昇れば、人間が住む世界を飛び越えて、白玉楼に到着してしまいかねない。
勝負をかけるならここだ。
「文字通りに。ファイナル……」
懐のミニ八卦炉を衣服越しに握り締め、
「マスター……」
しかし攻撃を察知したガントレットが、ついっと宙を滑るように動く。
魔理沙は突き出した掌を、
真下に向ける。
「スパークっ!」
膨大な光の洪水が、空に満ちた。純白の魔砲は大気を穿ち、軋ませ、天地をつなぐ柱となった。
そして光が生んだ推力は、魔理沙とその箒を空の漆黒にまで突き上げようとする。
あまりに急すぎる上昇の勢いに、魔理沙は目に涙をあふれさせ、耳に鼓膜が破れたかのような痛みを感じ、視界が真っ暗になりかけ、それでも歯を食いしばって耐え――
ついに、敵を目前に捉えた。
あと一歩。
その一歩を踏み込む用意は、とっくに出来ている。
箒の柄を潰れよとばかりに握り絞り、
「私も! お前も! ことごとく星に!」
箒の吐き出す星が輝きを増し、
「ブレイジングスター!!」
そして箒は最後の増速を行い、
魔理沙は音の壁を見た。
気が付けば眼下でガントレットがばらばらになり、星の代わりに自らの破片をばら撒いていた。羽根を散らして墜ちる鳥のように。
虚空にとどまり、魔理沙は荒く息をつぎながら、それを見下ろす。大気の焦げる匂いが鼻をついた。
「ゆっくりと眠りな……いや、あの世でご主人様と飛び回るのが好みか」
周囲には、夜の色が忍び寄りつつあった。ほどなく本物の星たちがステージに上がってくることだろう。
退場の頃合いだった。箒から七色の乙女チックな星を振り撒いて、魔理沙は幻想郷の大地へと戻ってゆく。
回収した帽子を頭に、当たり前の顔で紅魔館はヴワル魔法図書館に侵入し、当たり前の顔で蔵書を読んでいると、向かいの席にパチュリーがやってきて座った。
挨拶もなく、互いに自分の本を読み進める。
しばらく経ってやっと、パチュリーが口を開いた。
「あなたの箒、名前はなんていうの?」
「あん? 唐突だな」
「あなたは伝説の箒を破った。その一事だけで、あなたとその箒の名前は幻想郷の歴史に刻まれる資格を得たわ。本に記されるかもしれないし、その時に箒の名前が分からないんじゃ、困るでしょ?」
そして小悪魔を呼ぶ。今日の小悪魔は手にペンとメモ用紙を携えていた。どうやら、これに魔理沙の箒の名を記させるつもりらしい。
「おいおい、よしてくれよ。私はあくまで普通の魔法使いだ。伝説になるなんてまっぴらだぜ」
魔理沙は笑い飛ばす。
「箒だって同じく、普通の魔法の箒だ。ただそれだけだ。名前なんてないぜ」
「意外……でもないのかしら」
「ガントレットの持ち主も馬鹿だぜ。名前を付けるくらい愛着があるなら、一人きりにして寂しがらせるなよな」
「箒に対して『一人』……? あなたこそ、変な感情移入してるんじゃない?」
「今のは言葉のあやだ。とにかく……」
問答が面倒になってきたのか、魔理沙は本を閉じると、席を立った。
「私が死ぬときは、きれいさっぱり骨も残さず、だ。うっかり箒の処分を忘れちまったら、パチュリー、お前でもいいや。頼むぜ」
「お断りよ」
「それじゃ、この本はさっくり借りていくぜ」
「だめよ」
「じゃあな」
箒にまたがり飛び去る魔理沙の背中に、パチュリーは溜め息を漏らした。所在なさげに立っていた小悪魔に命じる。
「魔理沙から本を奪還。無理なら見送りだけでいいわ」
「あ、はい」
小悪魔は翼を羽ばたかせて魔理沙を追う。
よみがえった静寂を、パチュリーは再び自分の声で乱した。
「どこまでも自覚がないのね。自分がどれだけ、人も、そうでないものをも、惹きつけてやまない存在なのか」
また一ページをめくり、
「あなたが望むと望まざるとに関わらず、幻想郷はあなたのことを語り継ぐわ。霧雨魔理沙」
そして今頃は蒼穹へと戻っていったのであろう少女に、しばし思いを馳せた。
SS
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