はじめに ―― 春
「阿求様! 大変です!」
すぱあんと景気のよい音を立てて開かれる障子。
日中にもかかわらず無防備にうたた寝していた阿求は思わず、ほえ、と愚にもつかない擬音を発してしまった。
「寝ている場合ではありません阿求様! これを見てください!」
障子を開けた従者が差し出してきたのは、見事なほど真っ二つに折れた筆。
御阿礼愛用の、代々受け継がれてきた大切な筆である。
「なっ!?」
寝ぼけまなこだった阿求もこれはさすがに驚いた。柄をご神木から切り出し、毛先を龍の尾に似せた由緒正しい筆である。今代で華麗にぶち折ってしまったとなれば、千年前の自分に全く申し訳が立たないのだ。
一体全体何が起こったというのか。これはすぐさま原因を究明し、犯人を捕まえようものなら相応の強制土下座を課してやらねばならないだろう。
阿求はすぐさま怒声をあげた。
「一体誰が!」
「すみません私です」
従者はしたたかに土下座した。
「……」
「……」
書院造りの畳部屋に、ホトトギスの鳴き声が一段とむなしく響く。
ああ、今年も何一つ滞りなく春がやってきたのだなあと阿求は物思いにふけった。
あほらしくなってきた。
「……寝る」
そう言って畳に寝転がろうとする阿求を止めるのはやはり従者であり、彼女もまた必死である。
「す、すみません阿求様! 私の不注意で、つい、筆を運んでいる最中に転んでしまって……」
そういえば彼女は稗田家の従者でもいっとう間が抜けている。おまけに加えて怖がりだ。先の幻想郷縁起閲覧に八雲紫が訪れた際も、先陣を切って『ヒッ!!』などと驚いていた。当の八雲紫はそれを見てとても喜んでいたのだが。
「そのっ! 私、どうしても阿求様に謝罪をしたく、筆の代わりといっては何なのですが、このようなものをお持ちしてみました!」
そういって従者が差し出したのは、なにやら細長い木の棒であった。六角柱の形をしており、真ん中には黒い芯が通っている。
「これは、えんぴつ、というものらしいです。なんでも外の世界の筆記用具だとか。きっと阿求様のお力になれると思って!」
珍しい筆記用具も出てきたものである。
阿求も何度か目にしたことはあるが、実際に使ったことはあまり無い。
そして阿求は知っている。
鉛筆は先端を削って尖らせないと使用できない。従者のものは新品同様で、端から端までぴんと真っ直ぐだった。
「……どこから持ってきたの、そんなもの」
「さきほど、空から降ってまいりました」
得意げに胸を張って答える従者。
空から降ってきた?
阿求は怪訝な顔をする。
そんな阿求の表情を、自分の差し出した品の否定と取ったのか、従者は更に慌てて言葉をつむぐのだった。
「そ、それだけではありません阿求様! こんなものもあります!」
次に従者が差し出してきたのは、細長い、先ほどの鉛筆を透明にしたような物体だった。
「これは、しゃあぷぺんしる、というものらしいです。聞くところによりますと、書いても書いても墨が尽きることなき魔法の一品だとか! 外の世界はすごいですね!」
先ほどよりももっと珍しい筆記用具が出てきた。
阿求も文献で目にしたことはあるが、実際に使用したことは無い。
そして阿求は知っている。
シャープペンは専用の芯を挿入しないと筆記用具としての用を成さないのだ。従者のものは明らかに芯が詰まっていなかった。
「……どこから持ってきたの、そんなもの」
「さきほど、地から湧いてまいりました」
やはり得意げに胸を張って答える従者。
地から湧いてきた?
阿求は一層怪訝な顔をする。
おそらく、これら一連の筆記用具は、外の世界から流れ着いたものである。ままありえることだ。
しかし、だからといって、そういう類のものを稗田の従者が二本も三本も持っていて良いという理由にはならない。
何故なら、幻想物が流れ着く場所はあらかた決まっているのである。
だから幻想郷の道具屋は魔法の森に店を構える。
しかし、阿求の目の前の従者が言うには、まるで通り雨のように幻想物が降ってきたみたいではないか。
これは少し、おかしい。
「あ、あの、だめでしたでしょうか」
考え込む阿求を見て、おろおろしている従者。さすがにもう言い訳のタネは尽きたらしい。
「え、ええと、ほ、他に何か――」
従者が所在なさげに辺りを見回したそのときである。
ことん、と部屋の隅で音がした。
「あ」
二人してそちらへ視線をやると、一本の透明な、細長い棒のようなものが落ちていた。
「これは……」
阿求はそのブツを拾い上げる。
「これは多分、ボールペン、かな」
「ぼぉるぺん、ですか」
「はぁ……」
大きくため息をつく阿求。
決まりである。
「どうも、博麗大結界の綻びが増えて、あやふやになってきているみたい」
「あやふや、ですか」
阿求の言葉をそのまま反芻する従者。理解してるのかはかなり怪しい。
博麗大結界は、幻想を外の世界から隔離するための結界。常識と非常識の境界。要は、妄想と現実の境目である。
「その結界がゆるくなるということは」
妄想と現実、夢と現の境目があやふやになるということである。
「はぁ……」
阿求は、もう一度大きくため息をつき、従者へ向かってぼやいた。
「貴女、筆を折ったことを相当気に病んでいたのねえ」
「は、はい?」
筆を負ってしまった従者は相当悩んだのだろう。それで、何か代わりになるものはないかと妄想しだした。夢を見た。かなり真剣に。
結界があやふやな今では、その妄想が外の世界を通して、ある程度具現化されてしまっただけのことである。
「危ないわねえ」
異変というほどではないが、早めに処置をしておくべきではある。
「まあとりあえず、新しい筆をおろしてからかしら」
筆がないと記録をとることもままならない。
普通の筆では駄目だ。あの、千数百年使い慣れた筆でなければ。
「名士へ特注するとなると……一年くらいかかるかしら」
一年か。
まあそれほど急を要することでもないし、そのくらいの遊び時間はむしろ余興の少ない幻想郷では推奨されるべきかもしれない。
あんまりにも力の強い妖怪がいたり。
あんまりにも常識外れな術を使ったり。
あんまりにも思い悩んでいるヤツがいたら。
もしかしたら、その辺では、この一年で、些細な、取るにも足らない異変が起こるかもしれない。
「……それもまた一興」
阿求は手のひらを口に当て、大きなあくびをしてから、もう一度、うたた寝の体勢に入るのであった。
→ スイマー!!
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