二束三文四季折々

 

 

 

 夜の帳が降りて数刻、森の隙間を音も無く歩く影がある。
 九つの尾と二つの耳を夜風になびかせながら流麗に歩く女は、知る人ぞ知る式神であった。だが額に貼り紙がしてある訳でも無し、傍目からすればただの妖怪にしか見えない。
 紫の和服の裾が土に付かぬよう、足元を気にしながら女は夜道をひた歩く。
 左右に広がる鬱蒼とした森からは、特有の瘴気が溢れ出ている。ふん、と狐らしく鼻を鳴らし、軽く一瞥した後にまたてくてくと歩みを戻す。犬の遠吠えに用は無い。仕事を終えれば早々に踵を返すのが式神の本分だ。格の高い妖怪が出たとて、遠くからきゃんきゃん咆えているだけの臆病者に歯牙を掛ける暇は無い。
 耳が声のする方に跳ねるも、そちらには女の血を奮わせる獣はいない。竹籠にしまった油揚げの位置を確かめて、狐はぼそりと呟く。
「脆弱ねえ」
 対等に張り合えるものが、この森にどれほど根付いていようか。
 今は式として主に仕えている以上、興味本位で戦闘に走ることは稀だ。元より身体が戦いたがる相手も少ない。悲しいかな、敵はいない。
「行こう」
 耳の先に触れ、止めた足を動かし始める。道は遠い。主が楚々として式の帰りを待ち望んでいる、という光景に出会ったことは未だ無いけれど、それでも早く帰らなければ籠にしまった油揚げが傷む。と。
「……ん」
 三度、足を止める。
 おぉんと啼く獣の笑い声が、不快な響きをもって耳朶に届く。あれは、怪我をした獲物を偶々発見した獣の笑いだ。得たり、と啼いているのだ、己が如何に疚しい真似をしているとも知らず。
 狐は、耳たぶを摘まむ。埋め込んだ勾玉の手触りが指先に心地よく、萎れた心を難なく癒してくれる。声は森の奥深く、崖の麓から聞こえた。冷ややかな風が吹き、また獣が啼いた。低い遠吠えに、顔をしかめる。
「病める敵を前に意地汚く嗤う輩が、私と踊れるのかしら」
 不安で、億劫だった。
 狐は人知れず嘆息し、夜の森に踏み入る。風を切り、夜を走る狐の影は妖ですらその軌跡を読むことすら叶わず、すれ違ったものはみなぽかんと口を開け、口のないものはゆらゆらと身体をくねらせるのみだった。
 生い茂る木々の隙間を駆け抜け、数秒の後、狐は標的に辿り着いた。
 暗闇に縁取られた山間の開けた場所に、四肢が膨張し、関節の節だった狼がいる。獰猛な獣が見下ろすのは、先ごろ狐が油揚げを受け取った相手とほぼ同じ、あるいは幾らか小柄な人間だった。
「……ほう」
 珍しい。狐は感心した。
 人が里を出、夜の森に這い寄ることは純粋な死を意味する。食われ、取り込まれ、消え去るのが道理だ。だが獲物にされた小さな人間は、泣かず、怯まず、凛とした眼差しで狼を睨んでいる。その虚勢を睥睨し、狼は嗤う。
 虫唾が走る。
 大樹にもたれていた狐は、金縁の眼に薄く指を晒す。森が揺れる。風が戦慄く。
「ねえ」
 狐は、更地に足を踏み入れた。狼と、稚児の瞳が一心に注がれる。
「腐れ、とは言わない。去れ」
 ひッ、と人の子がようやく悲鳴を上げた。狐は金の眼を狼に向ける。
 腰を抜かしているのか、稚児が遁走する様子は無い。厄介な荷を背負ったものだ、と愚痴る暇もあればこそ、狐は歩み寄る狼の身体に神経を割く。興味は完全にこちらに移った。さて、食われるか、犯されるか、哀れ人の形をした狐は獣の血となり肉となる、か。
 ほくそ笑む。
「上等だよ、餓鬼」
 九の尻尾が、一斉にざわめく。額にかざした手のひらの隙間から、邪悪に歪んだ狐の柳眉が垣間見えた。
 おぉぉ、と狼が戦いの火蓋を切る。竹籠は既に木の枝に掛け、怯えている稚児は放っておいても構うまい。なぁに、事は一瞬で済む。狼に気取られるより早く済ませることも出来たが、一応、恩を売っておいて損は無い。
 剥き出しの地面に狼の足が突き刺さり、土を盛大に跳ね上げながら突貫する。狐は一歩も動かない。眼前には顎を開いた狼が迫り、これは食いに来ているなとすぐに解った。だが口を先に出すのは駄目だ、脚なら、切り取られたところでいつか生えるかも知れないのに。
 狐は笑い、手の甲で狼の鼻を殴った。

 ――ぱぁん。

 弾ける。
 鈍く、腐った果実が踏み潰された音がする。直線に動いていた狼が、直角に吹き飛ばされた。
 それは、これ以上ないくらいの、暴力だった。
「なんだ、脆いなあ」
 呟けば、狼が大樹にぶち当たり、大樹もろとも地面に倒れ伏した。呆気無い。軽く握った手には赤みも差していない。ふん、と鼻を鳴らし、狐は枝に引っ掛けた籠を持ち直した。
 とどめを刺すか、と土煙が昇った方角に目を向けると、女の子がこちらを凝視していることに気付く。目が合い、お互いにきょとんとした顔を見せ合ったまま無為に時は流れ、先に狐が折れた。稚児のつぶらな瞳を居丈高に見据え、声を低く殺す。
「懐くなよ。後が困る」
 言い放ち、狼の行方を見定める。薄闇に舞った煙の向こうに、遠吠えを撒き散らしながら疾駆する影が映る。逃したか、と狐は歯噛みし、踵を返す。
 手負いの獣は闇雲に暴れたがる。だから奴が里に向かったのなら、人間たちは獣の鬱憤晴らしに虐殺されるかもしれない。禍根を断つために、確実に殺すことが必要だった。けれども、成せないのなら無理はすまい。狼は山に逃げた。確証は無くとも、狐にはそう見えた。
 ぺたぺたと草履を打ち鳴らしながら、狐は道に戻る。距離はあるが、飛ぶのも億劫だ。中途半端に火照った身体を、冷たい夜風に溶かすも良し。夜に鳴く妖の声に耳が動き、それをいちいち触りながら歩く。
「……」
 ぺたぺた、ぺたぺた。
「……」
 てくてく、てくてく。
「……」
 ぺた。
「なあ」
 とて。
 足音が消える。風は凪ぎ、狐の心は幾分か波打っていた。
「帰れよ。邪魔だ」
 格の高い妖には、妖が引き寄せられる。九尾の狐ともなれば格も力も申し分無いが故に、昔は夜討ち朝駆け日常茶飯事だった。今はさほどでも無いが、油断は出来ない。
 素っ気なく言い放つも、子どもは全く揺るがない。狐の太股までしかない背丈を懸命に反らし、鬱陶しげに睥睨する狐の顔を眺めていた。
「家は」
「あっち」
 指を差す。その方角には確かに人間の里があるけれど、あまりに範囲が広すぎる。子が森を一人で歩けば、夜だの妖だの関係無しに怪我をする。
 狐は、人間ぽく眉間に皺を寄せた。
 はて、己は人の身の上を案じるほど高尚な生き物だったかと。式にもなれば心変わりもしようと言うものだが、それにしても。
「森に用があったのかい」
 首を振る。くい、と着物の裾を引く様がいじましい。が、面倒だ。
「死に花を咲かすには早い、か。それとも、親を探しに来たか?」
 試すように問い、答えを待つ。俯きがちに構えていた稚児が顔を上げると、必死に悲しみを堪える健気な相貌があった。ほう、と感心する。
「お母様が、いなくなったの」
 小さな背で妖を見上げ、人を捜している、何処にいるか知らないか、と訊く。見上げた度胸だ。
 だが、些か若い。
「悪い。意地悪をするつもりは無いが、知らないものは知らないとしか言えないわ」
 正直に答え、俯く子どもの暗い顔に罪悪感を抱く。嘘は嫌いだが、貴様の魂と引き換えに母親に会わせてやろう、などという性質の悪い冗句のひとつでも言えばよかったのか。何にしろ、似合わない真似を一時の戯れに披露することもない。
 腕を組み、少女の出方を見る。気付かぬ間に、妖である自分が小さな人間に興味を引かれていると知る。だから。
「連れて行ってください」
 どきりとした。心を読まれたかと身を奮わせた。だが、童女が続けた言葉は、少々突飛ながらも狐が予想していた懇願だった。
「掃除も、洗濯も、何でもします。私を、狐さんの家に連れて行ってくださいませんか」
「……その意味かよ」
 安堵する。高々九つ、十の子どもに翻弄されるとは、九尾の狐も鈍ったものだ。
「しかし、妖怪にも慣れた調子だな。好事家か」
「……?」
 小首を傾げる。丁寧な口調ではあるが、語彙には限りがある。子どもの相手をするのは苦労するのだ、それを知らぬ訳でもあるまいに、厄介なものを背負い込んだものだ。
「悪い、配慮が足りなかった。――時に、お前の名は」
 尋ねる。少女は気丈な態度こそ崩さぬものの、わずかに顔を曇らせ、視線を落とした。
「ごめんなさい……狐さんの、お好きなように呼んでください」
 嫌な思い出があるのかと訝るも、無理に聞き出すのも気が引ける。人間相手に気を遣う必要も無いが、少女が敬意を払っている以上、こちらも相応の対応をしなければならない。それは人も妖も拘らない、一匹の狐、一人の式――八雲藍としての矜持だ。
「そうか。なら、小娘――と呼んでもいいんだけど、私も狐と呼ばれるのは嫌だからね。適当に、弥生とでも呼ぶよ」
「あ――はい!」
 元気よく、弥生と名付けられた娘が答える。
 裾を引いていた手も離し、懸命に藍の後を付いて歩く。女児の足だから少しずつ離されてしまうが、藍も面倒ながら何度も何度も立ち止まり、弥生もまた泣き言も言わず付いて来る。
 健気な追走劇は、二人が踏み固められた道に辿り着いて一旦の区切りを迎える。
「私の家は、人の足には遠い。さぁ」
 差し出した手に、恐る恐る、弥生の小さな指先が触れる。
 驚かす気は毛頭無いけれど、少女のか細い指が触れた瞬間、藍はその華奢な身体をひょいと掬い上げた。瞬きをする間も無く藍の腕に収まった弥生は、しばし大きな目を瞬いていた。
「飛ぶよ」
 夜の帳を切り裂くように、少女を抱えた一匹の狐が飛翔する。
 月は眩く、空に舞い上がった彼女らを照らし出す。耳に響くのは風の瞬き、瞳に映るのは鬱蒼たる黒い森のみだ。呆けて、瞬きを繰り返す弥生の素っ頓狂な顔を眺めるのも面白いが、家に着くまでに事故を起こさぬよう藍は警戒する。飛行を避けていたのは、己の力量も測れない妖怪にちょっかいを出されるのが厄介だったからだ。まして、人間を抱えているとなれば尚更である。
 故に、藍は全てを振り切るように空を駆ける。
「わ――」
 弥生の呻きも、いずれ空に溶ける。
 一陣の風を遠巻きに眺めていた妖の影も、次の間には、形無き風が何処に消えたのかその行方さえ見定められずにいた。
 そして、静寂と共に、獣が啼く。

 

 式神、九尾の狐――八雲藍と名乗った妖は、弥生と名付けた少女をマヨヒガに招待した。
 人が迷い込めば容易に帰れない場所でありながら、藍は苦も無くマヨヒガを行き来し、家をも構えている。元は野を駆けた狐と言えど、人の姿を象っている以上、衣食住は必須だ。夜露を凌ぎ、吹雪を防ぐ壁があるというのは頼もしい。
 弥生は、異世界にも等しい身近な景観に見惚れていた。木々は山を彩り、家屋が散見し、地面は丁寧に舗装され、空の色と星の位置は里から見えるものと全く変わらない。思えば遠くに来たものだ、と郷愁の念に駆られるには、此処はまだ故郷に近い。
「行くよ」
 藍に促され、惚けていた弥生も前に向き直る。藍が示した家は、一人で住むには大きく、二人で寄り添ってもまだ余りある屋敷だった。手入れは十二分に整っており、楚々と構える藍と同様、格式の高さが窺えた。気を楽にな、と諭すまでもなく、弥生はぺたぺたと屋敷の中を歩き回っていたが。
 気遣って損した。
「はしゃぐなよ、私は構わんが、下手に踏み込むと命が無いところもある」
 冷ややかに先んじると、弥生は襖に手を掛けたままひたと動きを止めた。顔も凍り付いている。それを見て、笑う。
「大袈裟だったかな。まぁ、此処が妖怪の根城だと言うことを、ゆめゆめ忘れないようにね」
 牽制する。人と妖の間に線を引く。
 藍の威嚇に恐れ戦くでもなく、弥生は真面目な表情を浮かべていた。健気なものだ、だから妖怪に付け込まれる、連れて行ってくれなどと口走る。
 まぁ、いいか。使い走りが出来ただけのこと。
「――じゃ、弥生に命ずる」
「はい!」
 人差し指を立て、朗らかに返事をする弥生に命令する。
「まず、履物は脱げな」

 

 良家の子女か好事家の娘か、弥生が己の出自を語らない以上は想像に任せるほかないのだけど、ともあれ弥生はよく働いた。
 掃除に洗濯は言うに及ばず、小さいながら料理もこなす。無論、背が足りない分は藍が補う。里から出奔して来た以上、お遣いに出すことは出来ないが、畑や稲作の手伝いなら好んでやる。普段は藍が独りでこなしていた作業も、二人ならば楽になった。話し相手がいるというのは、存外暇を潰せる。
 弥生に与えた部屋は四畳半の狭いものだったけれど、広いよりもこっちの方が良いです、と弥生は言った。嘘を吐いている様子はなかった。
 弥生は、緑の黒髪を肩の線で短く刈り揃えている。背丈は小さくとも顔立ちは端整で、身に纏っていた衣服も、質素ながら色鮮やかなものであった。マヨヒガに逗留し始めると、藍から譲り受けた大陸由来の服を好んで着るようになった。目の前で年端も行かぬ子どもがはしゃいでいる様を見ると、藍は己がやけに老け込んでしまったような錯覚を抱くのだった。
 藍の主が冬眠していることは、弥生にも伝えた。彼女が目覚めるまで、もはや一ヶ月も無い。式としてマヨヒガの管理を任された藍は、主が眠りに就いている間ならば子どもの一人くらい此処に置いても問題はあるまいと踏んだ。
 弥生がマヨヒガに訪れて、七日。
 晴天、春も間近に迫る麗らかな日差しの下、弥生は花壇に水を撒いていた。仕事に勤しむ弥生の背中を見守ることにも慣れ、藍は、不意に問うた。
「なあ、弥生」
「はい」
 如雨露を傾けたまま、藍の方に振り返る。縁側に腰掛けていた藍は、耳の先に触れる微かな風の音を聞く。
「何故、私を選んだ」
 無粋と思い、訊くまいとしていた核心に触れる。いずれ訊かねばならないことだ、遅いよりか、早い方が良い。時間は有限なのだ、殊に、人間においては。
 弥生は傾けていた如雨露の首を起こし、七色に光る雫が向き出しの土に落ちた頃、また真面目な顔で口を開いた。
「助けてくれたから、です。強かったから、格好良かったから、この人に付いて行けば、きっと間違いないって。そう思ったんです」
 藍は、ふぅん、と鼻を鳴らす。嘘は吐いていない、が、質問には答えていない。
「親は、捜さなくていいのかよ」
 押し黙る。乱暴な口振りだったかもしれないが、回りくどい物言いは苦手だ。
 小さな鳥が、懸命に鳴いている。日差しが木々の葉を彩る。
 程無くして、弥生が言う。
「……遠くに、行っちゃったみたいです。捜しても決して届かないところに、って言われて……でも悔しくて、ずっと探していたんですけど、駄目でした」
 如雨露の先は垂れ、底に溜まった水がちょろちょろと流れ落ちる。花壇の土に水溜りが出来ても、泥水は空の色を映さない。気丈な笑みと裏腹に、弥生の顔には薄い影が差している。
「だから」
「逃げ場を求めた、か」
 核心を突く言葉に、弥生が咄嗟に藍の方を向く。藍は、意地悪く肩を竦めた。
「自覚しているなら、何も言わないよ。私は。――もっとも」
 ブリキの如雨露もすっかりと枯れ、腕をだらんと下げたか弱い少女が、不敵に微笑む狐を覗き込む。畏れは無い、怒りも、疑心すら無い。だが、妖として、人に畏怖を抱かれないのは情けない。
「私が弥生を飼い慣らしていて、美味しく食べられる頃合を見計らっている……なんて考えが及ばない程、愚かでないことを祈るばかりだけどね」
 弥生か、あるいは藍の喉が鳴り、唾が飲み込まれた。脅かす気は毛頭無い、が、弥生に決して立ち入らせない部屋がある理由を、彼女に知らしめることも必要だ。
 八雲藍を使役している主は、人を食う。
 人として、弥生はそれを忘れてはならない。
「――食べないよ?」
 念のため、気楽な調子で補足する。弥生は目を丸くして、それから大仰に嘆息した。
「散々、他人を驚かしておいて……それはあんまりです」
 小さく唇を尖らせて、可愛く怒る。当人は真面目に憤慨しているらしいが、如何せん、笑顔が似合うからそう見える。
「食べた方が安心するのかい。でも、はなから人を食う趣味はないんだけどねえ」
 袖の下に手を差し込み、金縁の耳に触れる。藍に自身の耳を撫でる癖があることは弥生も理解していたから、彼女は唇に指を当てて破顔一笑する。それを見て、藍は苦笑した。

 

 森羅万象、諸行無常の掛け軸を前に、八雲藍は頬杖をつく。
 彼女が見詰めている長方形の紙には、当人しか法則が知り得ない文章が事細かに書き込まれている。式神は式紙に通じ、紙が無くとも式に命ずることは出来るものの、紙を媒体にすれば式への関連付けも容易になる。例えば、力を持った化け猫や化け狐のみならず、何の力も無い人間ですら式に変え、妖怪と遜色無い力を生み出すことが出来る。
 外は夜の帳が落ち、鳥の鳴き声も聞こえない。虫はまだ土の中、妖がマヨヒガに迷うことは稀だ。弥生は床に就いている。藍が何を思い、考え、成そうとしているか、無垢な寵児は何も知らない。
「……畜生め、私も偉くなったものだね」
 自嘲し、耳の穴に指を突っ込む。金色の毛が、小指に付く。それを吹く。
 掛け軸の下に置かれた刀は、藍が大陸を渡り歩いていた頃に愛用していたものだ。台座に収まり、鞘に固められた刀は今や只の骨董だ。諸行無常の四字が耳に痛い。四尺半の刀の柄に手を伸ばし、寸でのところで思い留まる。
「要らんか、今の私には」
 式となった今は、徒手空拳でも大概の事を成せる。楽でもあり、寂しくもあるが。
 紙を裏返し、腕を組み、うぅんと呻いてみても妙案は浮かびそうに無い。難儀なものだ。
「式、ね」
 今更のように、己の境遇を想う。
 事実、弥生はよく働く。藍の式になれば、主も手を出すことはあるまい。主と、己と、弥生がマヨヒガの庭を呑気に歩いている様を想像する。思いのほかそれはよく似合っていて、存外悪くないことのように思えた。
 弥生が此処に居着いて二週間になる。
 主が起きれば、藍は弥生を放逐せざるを得ない。心はまだ決まらない。藍も、弥生もまた。振り切らねばならないものは、倫理か、郷愁か。
 藍は、苦い顔で襟足を掴む。
「狐が人を遣うか。――諸行無常、有為転変、千変万化、と」
 式紙に手を浸して、藍は風呂に入るべく立ち上がった。夜も更けた、頭も使った、眠るには良い頃合だろう。障子を開ければ夜風が肌に染み入り、温まった藍の身体をきゅうと締め付けた。

 

 ご自慢の耳と尻尾を隠すことは、如何に主の命令と言えど耐え難いものである。けれども只の妖が人里に下りるとなれば、明らかにそれと判る材料は殺いでしかるべきだ。藍も知っている、だが、嫌なものは嫌なのだ。
 だから主の命でなく己の意志で里に下り、何の気兼ねもなく買い物に勤しめるのは幸いだった。主の冬眠は毎年のことで、無論寂しくもあるが、羽をめいっぱい伸ばせる絶好の機会を逃す手はない。
 宵闇を潜り、寝静まった里に踏み入る。張り巡らせた幾重もの結界は無きに等しく、懐に忍ばせた紙切れ一枚あれば容易に擦り抜けられる。力の差云々と言うより、只の年季の差だ。
「全く、害は加えんと言っておろうに……」
 里の守護者に面と向かって宣告したにも拘わらず、藍が来ても結界は解かれない。守衛に声を掛けても反応は無い。睨みを利かせるも篭絡するのも自在だったが、相手の面子を潰すのも気が引ける。藍は裏から侵入した。守衛は居たが、立ちながら眠っていた。器用なものだ。
 人っ子一人いない広場を横切り、目的の店まで一直線。
 看板が構えられている正面入口を抜け、締め切られた裏戸に擦り寄る。耳をそばだてても物音は聞こえず、明かりも漏れていない。店主が起きているか、居るかどうかさえ定かでないけれど、藍は構わず戸を叩いた。内に音が響くよう、手のひらの力を抜く。
 袖の下に手を差し込み、門戸が開かれるのを待つ。ちりちりと鳴く虫の音が聞こえるほど、季節は春に近付いている。藍が人の子を拾ってから、二十一日。弥生は変わらぬ生活を送っている。やや髪が伸び、衣装が身体に馴染んできたくらいだ。
 式紙は、常に持ち歩くようになった。
「――来たね」
 薄く戸が開き、背筋の曲がった男が開いているか否か定かでない瞳を凝らしている。凛と佇む藍の姿にも、わ、と呻く程度で、怯えや震えは全く見せない。顧客だから、でなく、単に大雑把な性格だからだろうと藍は踏んでいる。
「へえへ、品物は出来ておりますよ」
 適当な受け答えだが、すぐさま差し出された包みからは油揚げの芳しい香りを感じる。珠玉の出来だ。藍は唾を飲み込んだ。
「確かに。お代は、こちらでいいかな」
 懐から、何の変哲も無い茶碗を取り出す。華美でも名器でも無く、只の茶碗だ。けれど店主は黙してそれを受け取り、やや丁重に頭を下げた。
 藍が渡したのはマヨヒガ由来の茶碗である。曰く、マヨヒガから茶碗を持ち帰ると幸福になる。伝承、風聞に近い幻想であるが、藍が存在する以上はあながち荒唐無稽な噂とも言い難い。
 藍は油揚げに相当する代金を払うと願い出たのだが、店主がそれならば茶碗をくれとせがんだ。藍も妙な男だと思いながら了承し、分不相応な物々交換が続いている。
「――にしても、明かりが乏しいね。どの家も」
「何でも、人攫いが出たとかで。どちらさんも勘繰ってるんでしょうよ、妖の仕業じゃねえかと」
 最後に、店主は藍の顔を覗き込む。
「何だよ」
「お食べになるんで? 人間も」
「食べんわい」
 不味そうだからな、と告げ、ですよねえ、と苦笑した。

 

 ほくほくした顔でマヨヒガに帰ると、弥生は床に就いているようだった。丑の刻も二つを刻み、耳を澄ませばよりいっそう激しい虫の声が飛び込んでくる。耳朶を打つ羽音の鼓動が心地よい。
 居間に座り、行灯に火を灯す。呪符を焼いているため、光は部屋の全域を照らし出してくれる。油揚げが包まれた紙袋をちゃぶ台に置き、ほうと息をつく。
「人攫い、ね……」
 呟き、頬杖をつく。心当たりなら、有り過ぎるほど有る。
 ぼんやり、弥生が眠る部屋の方角を見る。耳を澄ませば、寝息さえ聞こえそうだ。
「弥生かな……だろうな、そうだろうなあ……」
 ため息が酷く重い。確かに、弥生が自身で選択した事とは言え、周囲の同意を得られていたかは不鮮明だ。拐されたと解釈する方が自然である。深窓の令嬢か好事家の生娘か知らないが、家柄が確かなら噂も瞬く間に広がる。藍は前髪をかきあげた。幾本もの髪の毛が耳をくすぐり、油揚げの淡い香りが鼻腔をくすぐる。
 ふと、懐に手を差し込む。そこに式紙はあり、弥生を此処に留め得る兵器が眠る。
 文字通り、弥生の未来を断ち切る刀として。
「――ふむ」
 かたん、と音がした。
 獣の耳は些細な物音にも敏感に反応し、藍は衣擦れの音も上げずに立ち上がる。面倒な。考えることが多過ぎる。そのくせ、これといった模範解答がある訳でもなし。
 ため息を押し殺し、足音を殺しながら廊下を進む。弥生の部屋は居間に近いが、物音どころか寝息すら聞こえない。だが、この家の何処かに、弥生は居る。勘だが、藍は確信した。
 そうして辿り着いた部屋は、入るべからず、と弥生に通告した場所だった。
 傷ひとつ無い襖の向こうから、微かな物音が漏れ聞こえる。藍は、勢いよく滑らせるようにして、襖を開け放った。
「――っ!」
 しゃがみこんでいた少女が、甲高い物音に怯えて振り返る。しばし、静寂の中、震える瞳と虚ろな瞳を交わす。虫の音は既に閉じた。終わりは邂逅から既に始まっている。只、双方が無自覚だっただけのこと。
 りん、と季節外れの風鈴が鳴る。
「弥生」
 問う。冷たい口調だなと自戒する。心は冷め、何の感慨も抱かないのだから奇妙なものだ。
 部屋は私物が無く閑散としたものであったが、畳には無数の本が散らばっていた。
「此処で何をしている」
 感情が無い分、糾弾に近い響きになる。弥生は怯えていた。普通の人間が妖に対する畏怖と言うより、親の折檻を待つ子に近い心境であるように思えた。
 また、風鈴が鳴る。
「私は……」
 泣いている。涙は無くとも、弥生は泣いているのだと藍は思った。何故かは知らない、だが、それが叱責による涙でないことだけは、漠然と理解していた。
「八雲藍が主、八雲紫の深奥に踏み込んだ気でいるのか」
 告げる。弥生はわずかに身を震わせた。藍の気迫ではなく、八雲紫、という名前に反応した。
「何も無いよ。有るにしろ、主以外に扱えはしないけれどね」
 床に散らばる書物はどれも害の無いものばかりで、弥生がそれを探していたのなら、とんだ肩透かしである。だが、罰はくれねばなるまい。
「弥生、お前が一体何を探していたか、私は知らない」
「……幻想郷縁起を」
 はたと、空気が変わる。
 弥生の手は一冊の書に触れている。名を幻想郷縁起といい、ある人間の家系が、対妖怪の解説書として後世に語り継いだものが原典とされる。弥生はそれを探していた。名のある家柄ならば、それを閲覧することも容易いはず。だのに今更、マヨヒガくんだりまで赴き、危険を冒しながら妖怪の住処を家捜しする理由は何だ。
 藍は弥生を睨む。弥生は唇を引き絞り、頑なな意志を瞳に宿し、藍を見据える。
「幻想郷縁起を、探していました」
「何故」
「お母様がその人生を費やして遺した物を、見定めなければならないと思ったからです」
 強い目だ。藍が、長い時を生き永らえた獣が、人の眼差しに圧倒される。
 これが人か。
「母、と言ったな」
 頷く。幻想郷縁起の編纂は、ある一族の特殊な人間にのみ限られている。その一族の姓を、遥か昔日に幻想郷を生きた人の名を、藍は知っている。
 藍は尋ねる。
「その名は」
 弥生は答えた。
「名を――稗田阿夢と申します」
 ちりん、と風鈴が鳴いた。

 

 幻想郷の記憶、と呼ばれる人間がいる。
 人でありながら転生を繰り返し、記憶と能力を受け継ぎながら、その生涯を懸けて一冊の本を書き記す。幻想郷に住まう妖の生態を網羅すると言われる書物の名は、幻想郷縁起。稗田阿一が発案し、己が転生を繰り返し、見たものを忘れないという能力を引き継ぐことで、より正確な情報の記述を可能にした。
 今代、その命を受け継いだ者の名は。
「……稗田阿夢、か」
 居間のちゃぶ台を挟み、藍と弥生は重苦しい静寂の中に座り込んでいる。油揚げの代わりに幻想郷縁起が積まれ、見開きになった紙面には弥生によく似た少女の姿がある。
「そうか、お前は、探し当てたんだな」
 母を。
 急に目の前から消え去った母を、肖像画に縁取られながら、凛と構えた姿で。
 稗田の一族――殊に転生を継いだ者は、酷く短命である。また、何年も前から転生の準備を行う必要があるため、人として生きる時間は更に短い。子を宿し、育てることさえ容易ではない。
 だが、稗田阿夢はそれを成した。
「お前が――弥生が稗田の寵児なら、幻想郷縁起を読むことも出来たんじゃないか」
 愛しく、母の姿を撫でる弥生は、妙に落ち着いた様子で答えた。
「私は――稗田のことも、お母様のことも、何も知らずに生きていました。お母様が幻想郷縁起を書いていることは教わりましたが、お母様は、何も語ってはくださらなかった」
 小さいながら、己が立たされた境遇をしっかと受け止めている。涙は無い、が、やはり泣いているのだろう。母は居ない。恐らくは、弥生に何も告げず、静かに稗田阿夢としての生を終えたのだ。
「だから、何も知らなかった私は、幻想郷縁起を開こうともしなかった。いつでもいいと思っていた。お母様は何処にも行かないから……なんて」
 声が詰まる。弥生の爪が亡き母の肖像を掻く。
 ふと気が付けば稗田の家に幻想郷縁起は無く、母が遺した物を読むことすら叶わなくなった。だから弥生は、それを探し求めていたのだ。稗田の一族と関係が深いとされる、一人の妖怪の懐に入り込む程に。
 藍は、稗田の家にも何度か訪れたことがある。無論、紫の式としてだが、その際に阿夢や弥生とも会っていたはず。藍は忘れていたが、弥生は確かに記憶していた。
 とすれば、弥生が藍を見て紫を想起したのも、母を――稗田阿夢の姿を捜していたという言葉も、辻褄が合う。
『連れて行ってください』
 あの言葉は、藍が想像した子どもじみた逃避などでは無く。弥生が振り絞れた、なけなしの勇ましさだったのだ。
「お母様……」
 ぽつり、と呟く。弱音のようであり、確認のようでもあった。
 虫の音も風鈴の音も消え、喋らなければ、動かなければ、永遠に静寂が続きかねない雰囲気であった。弥生は本懐を遂げた。逃避かに思われた出奔も、結果を追求するための布石であったならば得心が行く。弥生が願い求めていたものはもう、此処マヨヒガには存在しない。
 藍は決心した。
「弥生。お前はもう帰れ」
 弥生は口を開きかけたが、その空洞から意味のある言葉が放たれることは無かった。弥生もまた、藍の言い分が正しいことを知っている。たとえ受け入れ難い正論であるにしろ、看破する術が無いのなら受け入れざるを得ない。
「猶予も無い。答えはもう出たんだ。此処は、人の居る場所じゃない」
「……私は」
 口ごもる。
「ただ」
 懐に差し込まれた式紙が、不意に不可解な熱を帯びる。その熱源が小刻みに脈動する心臓だと知り、藍は己が動揺しているのだと悟った。視界の端に滑り込んだ、金の前髪を掻き上げる。
「いや、何でもない。忘れろ」
「でも」
「そうだな。忘れた方がいい。此処の存在なぞ、人は知らない方が身の為だ。弥生は運が良かったから救われたが、でなければ、機嫌の悪い主に食われていたやも知れぬ」
 物言いたげな弥生を遮り、口早に言い募る。大人気ない。これが、齢千を数える妖か。堕ちたものだと、主は蔑むだろうか。あるいは、人を模しているからこそ、人に似た想いを抱くのであろうか。
 弥生はただ口を噤み、表情を押し潰している藍の顔を真正面に見詰めている。残りたい、帰りたい。そこに如何なる想いが去来していようとも、行き着く先は、やはり人の家なのだと藍は思う。
「幻想郷縁起を返しそびれたのは、私の失態だ。責任を持って稗田に返す」
「――藍様」
「眠れ。命令だ」
 ずるい言葉だ。
 名残惜しい眼差しで、弥生は藍を窺う。それを振り切るように立ち上がり、踵を返す。背中に幼い視線を感じながら、後ろ手に襖を閉める。弥生の声は聞こえない。本を捲る指使いも、啜り泣きも、藍を責め、罵る言葉も。あってほしいと願った音は何も聞こえず、ただ、遠く虫の音が耳朶に響く。
 式紙に触れる。摺り足で廊下を進み、しばらく歩いた後、寄りかかり応えのある柱に肩を預けた。ほう、と吐き出した息は、思ったより軽い。
「九つの尾でもまだ足りぬか、無我の境地とは、如何に遠き道程であろうか……」
 寂しそうに呟いて、藍はふらふらと己の部屋に帰る。

 

 終わりは案外あっさり訪れるもので、藍が定めた期日は簡単に訪れた。
 平静を装っていた弥生も、最後の朝は藍から貰い受けた服を畳み、箪笥に仕舞い込んでいた。庭の手入れも普段より幾分か丁寧にこなし、団欒も、いつも以上に長く会話を連ねていた。名残惜しく、儚い宴だった。わずか二十七日のままごとは、その実、お互いの心に深い傷を残す遊戯でもあった。
「行くよ」
「はい」
 会話は短く、躊躇は重荷になる。
 マヨヒガに背を向け、空に飛び去る二人の影は、邂逅の日と比べてもなお地面に色濃く残る。やがて二人が束の間を過ごした家も遠ざかり、弥生が藍の腕の中で目を瞑っているうちに、振り返れどもその姿を視界に収めることは出来なくなった。
 人里に程近い森の街道に、二人は降りる。里の住民は、人攫いの影響から妖を過度に警戒している。その真っ只中に藍が現れれば、大混乱どころの騒ぎではない。しかも八雲紫の覚醒の時期と重なる今は、里の守護者も過敏になる頃だ。兎も角も、下手に近寄れる状態ではない。
 ぽつり、と。誰も居ない、獣も人も妖も、世界にたった二人だけ取り残されたかのような物寂しい風景の中心に、弥生と藍は立っていた。春程近いそよ風が木々を揺らし、程よく伸びた髪を撫でる。お互いの距離は数歩も無く、呼吸は届かず、声は潜めずとも十分に届く。
「さて」
 さて。
 何を想えば、何を語れば、弥生は気負わずに立ち去れるだろう。一見、弥生の瞳に憂いは無い。藍にしろ、情はマヨヒガの庭に撒いて来た。優しさなどという詭弁が胸にわだかまっているのなら、いっそ弥生を絞めて、心の底から突き放してしまえばよい。獣なのだ、それくらいは容易い。
 だが、何もかもが容易いのなら、今此処に八雲藍として生きている意味は無い。
 そう思う。
「弥生」
「はい」
 手を重ねて、着物の前に添え、ほのかに微笑みながら、弥生は頷く。いい子だ。
「楽しかったよ。寂しさは埋められた」
「はい。私も、藍様と共に居ることが出来て、本当に幸せでした」
 幸せだと、人の子は言う。だといいな、と藍は思う。
 幸せならば、これからも――と、続けることが出来る機は逸した。未練がましい真似はすまい。懐の式紙が藍を嘲笑えども、なぁに、まだ己が弱いのだと知れただけでも十分ではないか。
 藍は、小さく手を挙げる。
「もっと近くに送ればいいのに、すまないね」
「いえ、構いません。私とて、稗田の看板を預かっている人間ですから」
「人間、か。うん、そうだな。達者で暮らせよ」
 手を振る。弥生も、組んだ手のひらを外し、密やかに手を振り返す。
 やがて弥生は踵を返し、幾分か大きくなった背中を藍に示しながら、里への帰路を歩み始める。見送り、眺めることしか出来ない藍は、気恥ずかしい想いを振り払うように耳を撫でた。
 小さな背中がゆっくりと遠ざかる。
 ふと、視界がぼやけた。
 ざわ――と、風が揺れる。
 藍は、目を見開く。
「――――弥生」
 仮初の名を呼ぶ。けれど、呼べども返事は無い。
 真っ直ぐに、ただ真っ直ぐにしか伸びていない道の果てに、弥生の姿は無い。風が吹いた一瞬に少女は消えた。
 おかしい。
 何故だ。夢か幻か、狐が狐につままれるようなことがあってたまるか。考えろ、必ず何処かに導くべき答えがある。耳を澄ませ、心を静めろ、人ではない、妖なればこそ常ならざる異変を突破し得るのだと知れ――。
 叫び出す寸前、藍は目を瞑る。
「…………は、ぁ」
 そして、数瞬。

 おぉん、と。
 狼が、嗤う。

 ――不覚。
 ただその一言のみを吐き、藍は飛翔した。
 距離は無く逡巡も無い。空気が震えれば場所は知れる。元より本領を発揮すれば一瞬で駆け抜け得る道程だ、今更何を焦ることがあろう。視界は朧、血流は乱れ、心臓は外界に溢れ出さんばかりだ。枝を葉を幹を避けようとせず、狼が啼いた方角へと一心不乱に突き抜ける。
 が。
 一瞬は、わずかに足りない。
 森の中にぽっかりと空いた広場の片隅に、人は伏せ、狼は君臨する。瞳に映る映像はほんの一ヶ月前のそれと酷似していた。人の子が狼の吐息にも負けず、獰猛な獣を厳しく睨み返している様相が、眼前に横たわる過酷な現実と激しく衝突し、爆ぜた。
 血だ、恐らく、腹から流れているのは、きっと。
「……あ、ぁ」
 虚ろな瞳に狐の影は映らず、只、底の知れない暗黒がある。息が震える。嗚呼、これは、己が吐いている息か。懐かしい。こうまでして、何某かの感情に打ち震え、揺さぶられるのは。久しぶりで、もう二度と、味わうまいと決めていたのに。
 ――本当に、幸せでした。
 藍は咆哮した。

 

 呼応するかのごとく啼いた狼に与えたものと言えば何の変哲も無い爪で、勢いのまま、飾る隙も無く容赦無く殴り付けた。弾かれる。大樹を薙ぎ倒しながら吹き飛ぶ狼はそれでも、以前のごとく呆気無く舞台から降りることは無かった。呻きながら戦場への帰還を試みる。そこに隙は出来た。
 弥生に駆け寄る。息はある。だが長くは持たない。血が流れすぎた。傷口を塞いでも何も変わらない。諸行無常有為転変、けれどもあれこれと考える余地は無かった。取り出した式紙は装置に過ぎない。意志や未来や夢や希望は後付けだ。藍の腕にもたれ、血に塗れ血に溺れる少女を救いたいと乞い願うならば、偽善や打算など三途の河に流してしまえ。
 真の名も知らぬ主であったが、此処に、全てを覆す命令を。
「生きろ」
 呟き、藍は弥生の胸に一枚の紙を押し付けた。
 呪文を掛ける余地も無い。狼は既に舞台に戻った。弥生の呼吸は変わらない。だが、式に対する命令は絶対だ。蘇らなければ、生きなければ駄目だ。藍は牙を剥き出す狼に相対し、弥生に背を向けながら、命令を続ける。
「生きろ、諦めるな、森から抜け、里に走れ。振り返るなよ、森には何も無い、何も無いんだ。どうせすぐに山火事が起こる、怪我したくなきゃ、じっとしていろ」
 詰まりながら、弥生の鼓動を大地越しに確かめる。とくん、とくんと、僅かに脈拍が戻る。傷も塞がり、血も止まった。だが血液は圧倒的に不足している。補充が必要だ。里に送り届けられたら幸いだが、生憎、逃がしてはくれないらしい。嘆息する。
「あぁ、そうだな。この際だから言っておくが、私のことなど綺麗さっぱり忘れてしまえ。私と絡んで、良かったことなど何も無い。何も無かったんだ。幸い、手の掛かる餓鬼が旅立って、私も安心していたところだよ。――だから」
 ――楽しかったよ。
 涙は出ない。幸い、この身は妖であったから。
「行け!」
 背後から、強く地を蹴り飛ばす音が響く。弥生が走り出した。別れの言葉は先程済ませたから、もうこれで終わり。なんだ、呆気無いものだと自嘲する間もあればこそ、狼は獲物を追うべく不意に駆け出すが、藍は先んじてそれを牽制する。爪と爪と重なり合い、金属の戦慄く悲鳴がした。幾度も爪を重ね合い、程無くして、弾ける。呼吸が荒い。久方振りのことだ。
 憤怒は掻き消え、心がくりぬかれて無味無臭の水を注ぎ込まれた気分だ。仮に、街道で何事も無く二人が別れたのなら、穏やかな想いを胸に抱き、日々を連ねることが出来たのだろうか。酷い話だ。が、この絶望こそ、妖に相応しい。
 反吐が出る。
「ねえ、あなたもそう思わない?」
 己と妖と、その運命をも嘲り笑い、藍は着物の裾を裂き、袖を破く。格好など付かない方が良い。泥に塗れ、地を駆けるのが獣の生き様だ。式であることに慣れすぎて、いつしか、人の親に成ったつもりでいた。何たる傲慢、この森で出会った少女が抱えていた宿命は、仮初の絆で補えるほど生易しいものでは無かったというのに。
「さあ。踊りましょう」
 手の甲を差し出し、不敵に笑う。狼も応え、巧妙に笑む。
 人は人、獣は獣へ。
 踊る場所は遠く違えども、蹴る地に、仰ぐ空に隔たりは無い。
 日は燦々と、柔らかな寒空の下、二匹の獣を鮮やかに彩る。閃光に爪は輝き、雲間から切れる光を合図にして、狐と狼が交錯する。

 

 力を誇示するだけの争いは終わりを知らず、けれども均衡はあえなく崩れ、里に通じる森の一部を灰燼に帰した。
 里の住民は妖の仕業だと噂したが、焼け跡に獣の亡骸は無く、何の変哲も無い山火事という結論に落ち着いた。人攫いに遭った者が一ヶ月振りに帰還したこともあり、得体の知れない異常に気を病む余裕が無かったせいかもしれない。
 少女は深い傷を負っていたが、手厚い看病のお陰かすぐに元気を取り戻した。だが彼女は誰に攫われたか何処に連れ去られたかの一切を忘れ去っていた。妖狩りに躍起になっていた者は意気消沈したが、少女はそれを優しく宥めた。また、彼女の胸に貼り付けられていた紙は、守護者が丁寧に剥がし取り、ため息と共に破り捨てた。
 彼女の懐に収められていたお椀は、何処から持って来たか知れないが、とりあえず少女の持ち物となった。

 それから、数日が経って。
 稗田の家の軒先に、行方知れずだった幻想郷縁起が届いた。

 

 

 

 

 のたりくたり、里に続く道を歩いている。
 愛しの油揚げを買うために馳せ参じるのだが、耳が痒くて仕方ないと来た。けれども耳の穴を穿り穿り先に進むのも滑稽なもので、すれ違う者に謂われ無き中傷を受けるのも情けない。露出していればこそ痒いのだし、いっそ頭巾のようなもので覆ってみてはと思うのだが、なかなか手は進まない。長いこと生きれども、式の仕事をこなすのに手一杯だ。
 嘆息する。
「ん」
 顔を上げると、里の方から人の親子が近付いてくる。大抵、狐の姿をした妖は害が無いと知っているが、それでも目も合わさず顔を背け、ついには泣き叫び拝み出す者が必ず居る。厄介なものだ。
 彼女らは質素ながら身体に合った着物を纏い、行く先に妖が待てども気負うことなく歩みを続ける。ふむと頷き、藍も変わらぬ速さで歩き続ける。
 のたりくたりと、人と妖がすれ違う。
 その間際、目が合い、軽く会釈をされた。
 適当に手を挙げると、おかっぱ頭の子どもが手を振り返し、にこやかに笑う。不意に立ち止まる藍の目には、手を繋ぎ、行く道を苦も無く歩き続ける人の姿があった。まだ、子どもは忙しなく手を振っている。藍は、それに応じる。
 やがて親子の姿は森の影に隠れ、街道に取り残された藍は、ひとりぽつんと頭を掻く。
「……長生きもしてみるもんだね、しかし」
 あれから何年経ったものか。忘れてしまったが、ふとした拍子に、思い出す。
 あれから式を得ようと思えば思うほど心は縛られ、立ち止まらざるを得なかった。けれども、本当の名前すら知らない、弥生のような誰かが自分に会釈してくれるのなら、余計なことは忘れよう。彼女が絶えず進んでいるのに、長きを生きる妖がこのような様でどうするのか。不甲斐ない。全く、嫌気が差す。
「さあて」
 空を仰げば、良い天気である。
 油揚げを買った帰り道、鳶に油揚げをさらわれるように、何処かの誰か、ちっちゃな獣でも式に命じてみようかしら。
「……ふあ」
 吐いた溜息は欠伸に変わり、のたりくたりと、進む道程は絶えず平凡極まりなく――。









 

 

 

 



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2008年4月5日 藤村流

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