平安京かぐやたん
風がゆっくりと雲を押し流し、あらわになった望月が、碁盤の目のように整った町並みを照らし出す。
そこに巣食う狂気の存在をも。
平安の都の夜気を、黒い影が駆け抜ける。
長い髪をたなびかせながら、華奢なその影は、路の先にいた武士に躍りかかった。
武士は刀を抜く暇も与えられずに腹を引き裂かれ、血しぶきを盛大に吹き上げて、そばの土塀を汚す。くぐもった悲鳴と多量の血塊が、その喉から漏れた。
それを聞きつけた別の武士たちが駆けつけてくると、黒い影は再び疾風となって路の先の闇に消えた。
「向こうだ! 三条大路の方へ向かったぞ!」
「また一人やられたのか……」
「怯むな。宮へ近づけてはならん」
武士たちは影を追って走り出す。その数は四名。都の治安を守る検非違使が、もはやそんなわずかな数しか残されていない。彼らは多くの仲間を、あの影に、この一夜で奪われていた。
あのような禍禍しい存在を、この都に放置しておくことなどできない。検非違使の意地に懸けて、断罪せねばならない。
しかし追跡する男たちの顔には、隠しきれない恐怖の色があった。何しろ相手は人の皮をかぶった化け物だ。容易く人の命を喰らってしまう。
最も厄介なのは、相手が刃を受け付けないことだった。いくら斬りつけても、その傷がたちまちに癒えてしまうのでは、倒しようがない。
果たして、勝ち目などあるのだろうか。残された四人は等しく同じ疑問を抱き、しかしそれを口に出すことはない。音にしてしまえば、不吉な予感が現実となってしまう気がしたからだった。
「……むっ」
先頭を走っていた男が急に足を止めた。残りの者たちはその背中にぶつかるよりも早く、ぱっと散開している。
行く手に、立ちはだかる人影があった。小柄で長い髪を風に揺らす、女性と思しき影。武士たちは戦慄に手を刀の柄に伸ばす。
「待って、私は敵ではない」
人影が男たちを制した。少女の声だった。
少女は静かに歩み出て、月下にその姿を晒した。奇妙に褪せた色の髪を持つ彼女は、しかし気品ある顔立ちと衣服を備え、身分卑しからぬ者であることを伝えてきた。
「私は藤原妹紅。あなたたちに、あいつと戦うための策を教えるわ」
少女の不敵な笑みと強気な眼差しには、男たちに訴えかける不思議な説得力があった。
影はひた走る。小路を一跨ぎに飛び越え、大路を血色の旋風となって吹き抜ける。
角をいくつか曲がり、程なく朱雀大路へ飛び出すかというところで、影は急に速度を落とした。路の先に、ぽつんと立つ人影がある。
「そこまでよ、異邦人……輝夜」
「妹紅……」
影は飛び退くような動きで、妹紅と三丈ほどの距離を置いて止まった。月光に緑なす黒髪が濡れる。そこにいるのは、今宵の月にも勝る美しさを持った、一人の娘だった。
その美貌を歪ませ、娘――輝夜は妹紅をねめつける。
「妹紅……あなたのせいで、私はこんな……」
「私はあんたが凶悪な異邦人であることを暴いただけ。まあ、それを受けてあんたがこんな血生臭い真似をすることまでは予想してなかったけれど。少し後悔しているわ」
返り血にまみれた輝夜の凄惨な姿に、妹紅はわずかに顔色を失いながら、だが目を背けようとはしなかった。
「でも、それもここまで。諦めなさい」
「あなた一人で私を止めるつもり? 検非違使が束になってもかなわなかった、この私を」
「そうよ。それが私の責任。例えあなたが不死身でも、私はここであなたをとどめる!」
「やってごらんなさい!」
口の端を吊り上げ、輝夜は飛び出した。三丈の距離を瞬時に詰め、数多の人間の血に染まった爪を振りかざし、妹紅めがけて――
その瞬間、大地が崩れた。
踏み込んだ足が、空を掻く。足元の地面が陥没し、沈み込んでいく。道の真ん中に突如として生まれた巨大な穴に、輝夜は飲み込まれていった。
一瞬にして十尺ほどの高さを落下し、地の底に腰を打ちつける。後からばらばらとこぼれてきた土が、頭にかぶさった。
暗い穴の底で、輝夜は茫然と辺りを見回し、それから頭上を見上げた。月を背に、妹紅が覗き込んでくる。
「これは……」
「ご覧の通り、落とし穴よ。不死身のあなたを封じるには、こうするしかないと思ってね」
その言葉を合図に、近くの小路に隠れていた検非違使たちが姿を現した。それぞれ手に鍬を持っている。それを使って、この穴が掘られたのだと、輝夜は知った。
検非違使たちはそれで、今度は穴に土を投げ込みだす。穴を埋めようとしている。
「ちょっと、やめなさ……ぶっ」
「おやすみ、輝夜。この平安京の人柱となってね」
「ぺっ、ぺっ……この、妹紅!」
輝夜は半狂乱になって穴をよじ登ろうとするが、次から次へと投げ込まれる土に押し返されてしまう。彼女の上に積もる質量はどんどんと増していき、そのままそこが墓所となるかと思われた。
「姫! お迎えに上がりました!」
遥かな頭上から声が降ってきたのは、そんな時だった。
妹紅も輝夜も検非違使も、それぞれ動作を止めて、空を振り仰ぐ。
そこには銀色に輝く巨大な円盤が浮かび、いくつものまばゆい光の輪を都に落としていた。
「い……異邦人の船だ」
恐慌に陥る検非違使たちとは対照的に、輝夜は歓喜の声を上げた。
「永琳、来てくれたのね!」
「姫、少々予定とは異なりますが、このままお連れいたします。トラクタービーム照射!」
張りのある女性の声が響いたかと思うと、銀色の円盤の底部から、オレンジ色の螺旋を描く奇妙な光線が降り注いできた。光線は輝夜を包み込んだかと思うと、彼女を宙に浮かび上がらせる。
「ギャラガ!?」
「ほほほ……妹紅、この落とし前は、いずれつけてもらうわよ」
輝夜を吸い込むと、円盤は空をジグザグに走りながら遠ざかり、そのまま星になった。
残された地上人たちは、なんともつかない顔でそれを見送った。やがて、それぞれ顔を見合わせ、かぶりを振ると、解散した。
こうして平安京の平和は守られた。だが、いずれまた異邦人は侵攻してくるであろう。
そのときまで頑張れ検非違使! 妹紅も頑張れ!
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