届け、この想い

 

 

 

 月はほっそりと青褪めた顔で、しかし皓皓と。
 降り注ぐ月光を吸って、青竹の群れは高く夜天を衝かんばかりに伸びている。
 そんな竹の木々に見下ろされて、ぽつりと建つ小さな庵からは、杯を重ねるささやかな音が聞こえてくるのだった。


「いい夜だな」
 窓から射し込む細い光に、慧音が杯を掲げた。
 その向かいであぐらをかく妹紅は、うなずきながら目を閉じる。微風に竹の葉の擦れる音だけが、かすかに耳へ届けられてくる。
「静かだねえ」
 そしてやおらまぶたを持ち上げると、ちょっと残念そうな笑みを浮かべた。
「あとは、旨いアテがあれば文句ないんだけど」
「ん? 私はこれで十分だが」
 慧音は膝前に置いてある、煮っ転がしの盛られた鉢を示した。妹紅が里芋と有り合わせの材料で作ったものだ。
「なかなかにいけるぞ」
「それはどうも。でもねえ、私としてはなんて言うか、もちょっと食べ応えのあるものが欲しいのよ。ほら、あの夜雀んところの蒲焼きとか」
「ないものねだりだな。それに私は、今日の酒にはこれくらいのがちょうど合うと思う」
 ひょいぱく、と箸が慧音の口と鉢との間を軽快に行き来する。喜んでもらえるのは嬉しいんだけどねえ――妹紅は複雑な微笑を口の端に刻んだ。


 折り良く、とでも言えば良いのだろうか。
 不意にふたりの鼻を、馥郁とした香りがくすぐった。風に乗って窓から流れ込んできたそれは、やや甘みを帯びた香ばしい空気で、いたく食欲を刺激するものだった。
 それはまさに、妹紅の望む蒲焼きの香りに他ならなかったのである。
 妹紅は思わず鼻をひくつかせ、だがすぐに首をかしげる。こんな人里遠い山奥で、このような匂いが嗅げるはずはないのだ。
 慧音も訝しげな顔となっている。
 ふたり顔を見合わせてまばたきなどしていると、今度は奇怪な音が窓から侵入してきた。がらごろと、山道に車を高速で転がすかのような騒音。それになにやら小さな歌声が混ざっている。
 奇怪な不協和音は竹林の静寂を蹴散らしながら、この庵へと向けてまっしぐらに近付きつつあった。
 そして数秒の後、

  どんがら「まいどー!」がっしゃ

 凄まじい破壊の音を伴って、ものごっつい図体の塊が、入り口の引き戸をぶち破りながら突っ込んできたのである。
「な、なんだ!?」
 すわ敵襲か。妹紅と慧音は突然のことに目を白黒させながらも、すばやく飛び退り、それぞれ手にスペルカードを抜いた。
 もうもうと土埃が立ち込める土間の向こう、戸口は突入してきた物体で完全に塞がれてしまっている。破城槌か何かかと妹紅は考えたが、やがて視界が明るくなると、そこに見えているのは一台の屋台車だった。
「……屋台?」
 どう見ても、木製の骨組みでできた屋台です。
 そして屋台の引き棒には、一羽の夜雀がちょこなんとぶら下がっていたのである。
 呆然となる妹紅と慧音に向けて、その夜雀――ミスティアは、空気など読んでたまるかとばかりに朗らかな笑みを浮かべて、こうのたまった。
「八つ目鰻の蒲焼き二十人前、お待ち!」
「……え?」
 ぽかんと口を開けているふたりの前にミスティアはとことこと歩み寄り、一枚の大皿を差し出す。皿には多量の蒲焼きがどちゃっと乗せられ、なんとも魅惑的な濃いタレの匂いで妹紅の鼻腔と脳髄とをくすぐるのだった。
 ぽろりとスペルカードを取り落とした妹紅の手に、皿が押し付けられる。
 手ぶらとなったミスティアは、踵を返し、かつて引き戸であったものの残骸を踏みしめながら屋台へと戻っていった。戸口にがっちりと嵌まり込んでしまった屋台を前に小首を傾げ、それからげしげしと車輪を蹴りつける。びくともしない。
 凍結しかけていた妹紅の頭が、ゆっくりと思考を再開する。
「ちょ、ちょっと待った。なんだ、これ?」
「ん?」
 なによいま忙しいのよと言わんばかりの顔でミスティアは振り返る。
「もしかして数が違ってた? ちゃんと勘定してきたはずなんだけど」
「そうじゃなくて」
「あ、そうだ。お代をもらうの忘れてた」
 てへへと鳥頭を掻き掻き、ミスティアは掌を妹紅に向ける。それを妹紅は邪険に払いのけた。
「違う! なんで頼んでもないもの押し付けられて、おまけに金払わなきゃならないのよ」
 そりゃ確かに蒲焼きを欲しいとは願ったけれど。まさかその願いが変な力を持ってしまって、この屋台を召喚するに至ったのだろうか。願いを現実に変える力が、私の中に目覚めてしまったのだろうか。そんなあほな。
「頼んでないって……なによ、注文したのはそっちでしょ」
 ミスティアも頬を膨らませ、だがようやく場の雰囲気がおかしいことを察してきたか、不安げな色を覗かせた。
 彼女は懐から何やらメモ書きらしきものを取り出し、確認するようにつぶやく。
「今夜、藤原妹紅さん宅へ蒲焼き二十人前……ほら、合ってるじゃない」
「……ほんとだ」
 メモを覗きこんだ妹紅は唸る。そこには確かに、身に覚えのない注文内容が書き殴られていた。
 混乱しながら慧音を振り返るが、もちろん首を振って関与を否定される。
「じゃあ誰だ、こんなこと……」
 真実の発注者がどこかにいるはずだ――妹紅はミスティアに、誰からどのように注文を受けたのか問い質した。が、
「……誰だっけ? 気が付いたらメモがあったのよね」
 鳥頭がひねられるに終わった。度し難いまでの忘却歌姫である。
 妹紅は苛立ち、だがすぐに気付いた。元より考えるまでもないことだったのだ。藤原妹紅に向けてこんなわけの分からない真似をしてくる奴の心当たりなど、ひとつしかない。
「輝夜か……」
 状況証拠だけだが、妹紅にはそれで十分だった。
 犯人はそれで決まりとして、だがやはり意図が分からない。あいつの思考回路など元より理解不能ではあったが、今夜のこれは飛び抜けて意味不明だ。ルナティック極まる。
 妹紅は唸りながら、おもむろに大皿の串を一本取って、かじりついた。
 うん、普通に旨い。毒も仕込まれていなければ、すっとこどっこいな味付けが施されているわけでもない。蒲焼き自体には、なんの罠も秘められていないらしい。
 じゃあなんだ。もしかしてこれは、差し入れというやつなのか。
 ありえない、何かの間違いではないのか? なにをどうとち狂っても、あいつがそんなもの送ってよこすはずがない。……と思うけど、でもあいつも大概、明後日の方向に狂ってるからなあ。だいたい、差し入れにしては量が多すぎるだろ、加減しろバカ。それにしても美味しいなあこれ。
 ――などと妹紅が大混乱に陥っていると、
「まあ、嫌がらせのつもりなんだろうな」
 慧音が、屋台の突入で引っくり返っていたちゃぶ台を起こしながら、溜め息をついた。
「……どういうこと?」
「頼んだ覚えのない出前、それも迷惑な内容のを一方的に送りつけられる――そんな被害の話が、外の世界にはあるらしいんだ。つまり今のこの状況と同じことが」
 まあ、さすがに屋台で突っ込んでくることまでは滅多にないがな、と慧音は付け加える。
「へえ」
 早くも三本目を平らげ、ついでに酒もあおりながら、妹紅はようやく合点がいったようにうなずいた。そうか、ここのところめっきり刺客が送られてこなくなったと思っていたら。こんな風に切り口を変えてきたか。
「ちょっと、私の料理を迷惑って言うの?」
「量的な意味で困ると言っているんだ」
 ミスティアの異議申し立てを慧音は受け流し、妹紅に座るよう促す。
 妹紅は大皿をちゃぶ台に置いた。そのまま三人で台を囲み、酒の注ぎ合いを再開する。
「あいつらしい、陰湿な手口だわ……。だけど平和的っちゃあ、平和だね。少なくとも山火事の心配がない」
「この幻想郷においては、あまり有効な手法でもないんだがな。発達した通信手段がないから注文するのに手間が掛かるし、それに仕掛ける側の匿名性も保ちにくい」
「あいつがそんな細かいところを気にするタマだと思う?」
 単に面白そうだからやってみたんだろうなあ、と妹紅は呆れ顔になりつつ十本目の串を裸にした。
 そろそろ腹もくちくなってきたが、大皿にはまだどっちゃりと残っている。見ているとなんだか胸焼けがしそうだ。――ああ、なるほど。今さらだけど、これは処分に困るわ。
 ちょっと、腹が立ってきた。
「……まあ、向こうがそういうつもりなら、こっちもそれなりの対応をするしかないよね」
「妹紅?」
 不意に声の調子を変えた妹紅に、慧音が鋭く反応した。彼女も食べ過ぎたか、げんなりした顔になりかけている。
「何を考えている?」
 うぷ、と口を手で押さえながら、妹紅に問い質す。根性である。
「いや、なに。ついさっきまであんな素敵だったこの夜に、あいつは水を差してくれた。そのお礼をしてやろうか、なんてね」
 妹紅の顔にはゆっくりと、凄みのある笑みが広がりつつあった。

 その傍らでミスティアは、
「なんでもいいけど、ちゃんとお代払ってほしいなぁ。遠距離出前の手数料も欲しいんだけど」
 小さくつぶやきながら、自らが焼いた串をついばんでいた。


  *


 輝夜はうきうきとした足取りで永遠亭の通路を歩んでいた。妹紅の庵が屋台の衝角突撃を受けて小破した、次の夜である。
 昨夜の藤原庵での惨劇は、妹紅たちが確信したとおり、輝夜の差し金によって引き起こされたものだった。彼女が兎に命じて、ミスティアの屋台に架空の出前を発注したのだ。まさに外道である。
 新機軸の刺客が果たしてどのような効果を上げたのか、輝夜はそれが気になって仕方なかった。
 妹紅のことだから、烈火のごとく怒って、即刻報復に殴り込んでくるかしら――輝夜はそう予想を立て、永琳と賭けまでした。
 だが結局、昨夜はどれだけ待っても、なんのリアクションもなかった。ちょっと肩透かしを食らった気分となり、しかし却って期待は膨らむ。一日という時間を経て、輝夜の胸は焦がれんばかりだった。
「賭けは永琳の勝ちかしらね」
 数歩遅れてついてくる従者をゆるりと振り返り、輝夜は微笑む。
 永琳はかすかに首を傾けながら、柔らかな笑みを返してきた。
「私が張ったのは、今夜の来訪でしたね。さて、的中するかどうか」
「今夜も来なかったら、ふたりとも外れ。そしたら、また新しい賭けをしましょう?」
 ふたり楽しげにうなずきあった時である。

  ぱぱらぱーぱーぷぁー

 突然の轟音が、彼女たちの耳朶と脳天をひっぱたいた。
 それは、衝撃波すら伴う大音響だった。大気のみならず、永遠亭の壁が、床が、天井が、びりびりと震えている。凄まじいとしか形容のしようがない音の洪水に、さしもの輝夜たちも眩暈を覚え、よろりと壁にもたれかかった。
 音波攻撃は十秒間ほど続き、唐突に止んだ。かと思うと今度は、頭上から能天気なことこの上ない声が響いてきた。
「ヘロー! レディースエーンドレディース!」
 輝夜と永琳は顔を見合わせると、中庭に面した縁側へと向けて急ぎ飛ぶ。そこには鈴仙を含む兎たちが集まっていて、呆然たる顔つきで夜空を見上げていた。
 星の瞬く空には、みっつの人影。楽器を手にしたプリズムリバー三姉妹が、臨戦態勢で展開していた。


「みんなー、こんばんはー!」
 メルランが飛びっきりの笑顔で、眼下の観衆に呼びかける。
 縁側と中庭に集まった兎たちは、なおもぽかんと呆けた表情をぶら下げてこちらを仰いでいた。
「ふふ、びっくりしてる、びっくりしてる。大成功だね」
「みたいね」
 リリカが悪戯っぽく目を細める隣で、ルナサは小さくうなずいた。
「思いっきりサプライズなライヴにしてくれって依頼だったからね。掴みはばっちり、てところかな」
 今朝方、突然に舞い込んだ依頼だった。白玉楼を経由して届いた話で、大元の依頼人が誰なのかは、実ははっきりとしていない。まあ、ここ、舞台となる永遠亭からの話で間違いないだろうと三人は結論付けた。そんないい加減な、と思われる向きもあるだろうが、彼女らの活動はおおむねそういうものなのである。ご理解いただきたい。
 依頼内容は、「永遠亭にてびっくりするほど容赦ないサプライズに満ちた演奏を朝まで完徹れつごー。途中、観衆が妨害の動きを見せるかもしれないが、それは本音の裏返し、いわゆるツンデレみたいなものなので、構わず続けちゃって」というものだった。いまいちよく分からない内容だったが、そんな不可解な部分も三姉妹はノイズとして無視することにした。要は朝まで思いっきりやれってことなんだろう、そうに違いない。
「じゃあ、一気に畳み掛けちゃおう!」
 三人はそれぞれの楽器を構える。目顔で拍子を取ると、一斉に音を出した。周囲の大気が振動を通り越して粉々になってしまうのではないかというほどの、思い切りが良すぎる第一音。それはあまりにも攻撃的な合奏の幕開けだった。
 足下で兎たちがのけぞり、耳をぺたんと倒す。ブレザー姿の兎などは、ぱったり突っ伏してしまった。
 それを目にした三姉妹は、さらに意気を上げて、ついでに音調も上げていくのだった。


「なにこれ……」
 輝夜は眼前の情景に、久方ぶりの驚きで満ちた表情をさらしていた。こんなにびっくりしたのは、巫女やらなにやらに殴り込みを受けたとき以来だった。
 これは、あの時よりもひどいのではないか。耳を塞ぎながら、そう思う。
 場は、正に阿鼻叫喚の地獄と化していた。夜更けの唐突極まる怪事に、兎たちは皆、為すすべもなく悶絶している。あまりのことに泣き出す子兎までいた。
 輝夜はその子兎をそばに招き、頭を撫でてやる。おかげで自分の耳が塞げないことに、諦めの溜め息をついた。
「なんて言うか、このままだと死人すら出かねないわね」
「そうなると、合奏で合葬ですね。なんちて」
「……永琳?」
「……すみません」
 いけない、永遠亭最後の砦たる永琳までもがおかしくなりかけている。輝夜は戦慄を覚えた。
 そこへ、
「じゃかましいんじゃこらあぁっ!」
 背後の障子がすぱーんと勢いよく開いたかと思うと、因幡のてゐが怒声を発しながら飛び出してきた。目を血走らせて――いや、もともと赤いのだけども――、すぐそばに輝夜たちがいることも意に介さず、空で騒音を撒き散らしている騒霊たちへ向けてがなりたてる。
「私の眠りを妨げるとはいい度胸ね、この×ンカスども! 安眠を邪魔した罪、あんたらの安い霊魂で贖いきれるもんじゃないわよ!」
 どうやら彼女は既に就寝していたらしい。そこへこの青天の霹靂とも呼べる出来事だった。
 彼女の健康維持活動を阻害することは死を意味する、というもっぱらの噂である。どうやらそれは本当のことらしいと、ぶち切れているてゐの姿を目にして輝夜は認識を新たにするのだった。
 てゐは今にも騒霊たちに殴りかからんばかりに見えたが、そこでふと、視線を空から逸らした。庭の敷石の上、スカートがめくれかえってぱんつ丸出し状態でうつ伏せに倒れている鈴仙を、その赤い瞳は捉える。
「なに寝てんの、鈴仙! 荒事担当なんでしょうが! 行けっ、あいつらを叩き落とせ!」
 てゐは鈴仙のそばへ駆け寄り、その長い耳を両手で引っ掴む。
「あいたたた……て、てゐ? なに、なにするの?」
「いいからとっとと行けってんの、この淫猥へタレ耳! 穀潰してんなら月へ送り返すよ!」
 そして力任せに引っ張りながら、その場で回転を始めた。変則ジャイアントスイングである。
「宇宙兎のトリガーハート、あいつらに見せてやれ!」
 室伏ばりの見事なスイング、そしてリリースだった。自分より頭ひとつ以上は長身の鈴仙を、てゐは易々と虚空めがけて放り投げたのである。
 騒音に満ちた空へと、鈴仙は悲鳴の尾を曳きながら飛ぶ。混乱しつつも、このままでは進路上のちんどん屋との衝突を免れ得ないと知り、彼女は防衛本能から狂気の瞳を発動した。
 結果的にはそれがまずかった。狂気の視線をまともに浴びた騒霊たちは、その演奏をさらにエキセントリックな方向へと推移させてしまったのである。音量は据え置き、狂気のアレンジだった。
 鈴仙自身はどうなったかと言えば、どうにか空中衝突を回避したものの、そのまま放物線を描いて遠く竹林の彼方へと沈んでいった。それでも、騒音地獄から逃れられた彼女は、まだ幸せだったのだろう。
 永遠亭、地獄の宴はなおも続く。
 弾の一発も撃たずに消えた月兎の不甲斐なさに、てゐは憤りを募らせている。どこから取り出したか、片手サイズの杵を装備し、とうとう自ら打って出た。
 杵は当然、餅つきを用途とするものなのであろうが、それにしては打撃部になんだか赤黒い染みが付着しているように見えた。まあ、きっと錯覚であろう。そう願いたい。
 突進していくてゐに対し、プリズムリバー三姉妹はなぜか楽しそうに、迎撃の弾をばら撒きはじめた。もちろん、演奏は継続しながら。


 騒音と弾幕の飛び交う空を見上げて、輝夜はようやく大事なことに考えが至っていた。
「ところで、あの子達はなんでここへ来たのかしら?」
 演奏に来た、それは分かる。しかし、その動機が掴めないのだ。
 単なる気まぐれの慰問活動なのだろうか。慰問にしては過激すぎる強行ゲリラライヴだが。
「これは恐らく、妹紅からの報復でしょう」
 輝夜の疑問に、永琳が答えを示した。
「此度の姫の悪戯、どうやら思わぬ作用を彼女にもたらしたようです。姫の革新的なやり口に、彼女も感銘を受けて、きっと考えたのではないでしょうか。『旧態依然とした暴力での対抗は、ちょっと能がないかな』などと。それで、嫌がらせには同種の嫌がらせを――そんな結論に達したのだと思われます。妹紅は姫の名を騙り、騒霊たちにこの馬鹿騒ぎを依頼したのでしょう」
 ちなみにふたりとも、騒音に負けぬよう、腹の底からの大声でしゃべっています。とあるイナバから教わった発声術が、思わぬところで役に立ちました。余談。
「じゃあ……妹紅自身は、来ないと?」
「そういうことになりますね。例の賭けは、どちらも負けということです」
 肩をすくめながらの永琳の言葉を、輝夜はもはや半分も聞いていない。
 絶対に、妹紅自らが来てくれると思っていた。確信にも近いものを、輝夜は抱いていたのだ。それは長らく命の駆け引きを行ってきた相手への、ある種、信頼とも呼べるものだった。
 それを裏切られた――身勝手極まる物言いだが、輝夜はそう思わずにはいられなかった。騒音公害よりも、妹紅の冷淡な反応の方が、彼女にとっては遥かに腹に据えかねるものだったのだ。そう、これでは永琳の言ったとおり、こちらの「負け」ではないか。
 許せない。妹紅の感情を爆発させる姿を見るのが、この因業まみれの生における数少ない楽しみのひとつだっていうのに。断じて、このままで済ませて良いはずがない。
「そっちがその気なら、こっちにも考えがあるわよ」
 先に手を出したのは、果たして誰だったか。そんなのは瑣末事とばかり棚の上に放り投げて、輝夜は憤怒をたぎらせる。
「……それにしても。あなたたち、いつまでもうるさいのよ」
 彼女の意識は、なおも夜気を震わせている連中に戻った。まずはあいつらに、この腹立ちをぶつけてくれる。妹紅への対処はそれからだ。
 輝夜は縁側を蹴りつけ、騒音と弾幕の空へと浮かび上がった。その後に永琳も、やれやれといった面持ちで続く。


 戦いは明け方まで続く死闘となった。
 先制の騒音攻撃によって輝夜たちが少なからず疲弊していたこともあって、プリズムリバー三姉妹が意外な粘りを見せたのである。やっと永遠亭に静寂がよみがえったとき、東の空はうっすらと白みはじめていたのであった。
 中庭を中心に累々と横たわる無数の肢体を、やがて朝日が優しく照らし出す。そこに動くものはひとつとして無かった。
 その日、永遠亭は一切の活動能力を失い、死んだようにただただ眠り続けたのである。


  *


「ふっ……」
 気が付くと、つい短い笑いを口の端から漏らしている。
 妹紅は上機嫌だった。永遠亭に向けての報復攻撃が期待通りの効果を発したことを確認してから、ずっとこんな調子である。
 いや、あれは予想以上の成果と言えた。輝夜が仕掛けてきた嫌がらせの内容をそっくり真似なかったのが、成功の要因だったことは間違いない。

 当初、妹紅は輝夜がやってきたのをそのまま、多量の蒲焼きを永遠亭に送りつけようかと考えていた。
 だが向こうには数の力があることを思い出す。二十人前程度を届けたところで、そのくらい、永遠亭の規模からすれば夕食後のおやつほどにもならないだろう。経済的に打撃を与えることも難しい。美味しく頂かれて、逆にお礼すら言われかねない。
 ならば二千人前とか法外な量を送りつければ良いかとも思ったが、それも現実的ではなかった。調理するのがミスティアひとりでは、どうしたって生産量に限界がある。二十人前という輝夜の選んだ数字は、その辺りも考慮したものだったのだろう。
 永遠亭の組織力を持ってしても消費し尽すのが難しいものとは何か――考えた末に思い当たったのが、「音」という無形のものだった。これなら相手の数など関係ない。
 懸念はプリズムリバーがすぐに制圧されてしまわないかという点にあったのだが、あの三姉妹は思った以上に上手くやってくれた。まさか本当に一晩中、持ちこたえてくれるとは。
 こちらの手を汚すことなく、相手に精神的な打撃を与える。お前がやりたかったのはこういうことなんだろう? なあ、輝夜――
 妹紅は手痛いしっぺ返しを食らわせてやったことから来る優越感に浸りながら、胸中で宿敵に問いかけるのだった。
 
「感心しないな」
 顔をほころばせる妹紅の向かい、ちゃぶ台を挟んで、慧音は仏頂面となっている。
「お前まで、向こうに付き合ってこんな陰険な手口を使うことはないだろう」
「こちらが味わった痛みを相手にも思い知らせるには、同種の手を採るしかないってことよ。それに悪いのは仕掛けてきたあいつだ。違うかな?」
「……いつもの、お前たち個人同士での殴り合いなら、まだ目を瞑ってやろうとも思える」
 悪びれた様子もない妹紅に、慧音はさらに苛立たしげな目つきとなって、ちゃぶ台を指先でこつこつと叩いた。
「だがな、他者をも巻き込むこのやり口は、絶対に認められない。空出前に駆り出された者たちの迷惑を考えろ」
「だからさ、輝夜の奴に言ってよ、そういうことは」
「妹紅!」
 妹紅はまったく話を聞く態度ではなく、それに慧音はとうとう声を荒げ、勢いよく膝を立てた。
 そこへ、薄っぺらい天井の向こうから、あっぱらぱーな声が割って入ってきたのだ。

「れでぃ! おぺれーしょんうぇざーりぽーと!」

 ふたり、はっと頭上を振り仰ぐ。その視線の先で、からころと、なにやら軽快な音がはじけた。
 辺りの大気が急激に冷えていく中、突き抜けて元気な声が続く。
「くらえーあいしくるふぉーる! まーく!」
 ふたりは最後まで聞いていない。妹紅は玄関から、慧音は窓から外へと飛び出していた。
 直後、重い破砕音と共に、庵の天井がへこみ、潰れた。屋根板を突き破って、巨大な氷塊が屋内へと落下する。
 氷塊はちゃぶ台を圧壊させながら自らも砕け、きらきらとサファイア色にきらめきながら散らばった。
 間一髪で屋外へと脱出した妹紅は、屋台の轍がまだ残っている山道の上に身を転がせていた。四回転目に手で地面を突きのけ、跳ね起きる。素早く姿勢を整えながら庵を振り返った。
 そこで彼女が見たのは、天より降り注ぐ大小の氷塊によって、庵が崩壊していく様だった。既に屋根はあるべき形を失い、昨日一日かけて直したばかりの戸口も崩れ落ちようとしていた。
 自失しそうになるのをどうにかこらえ、視線を上空へと移す。そこには朗らかな笑顔で雹を降らす氷精の影があった。
「な……なにやってるんだ、おまえ」
 想像を絶する事態の只中にいきなり置かれて、咄嗟にできたのは、そう尋ねることだけだった。
 チルノはこちらに気付いて、やっぱりにこにこと笑っている。
「あんたが妹紅ね? 欲しがってたカチワリ氷五十人前、届けに来てやったわよ」
「な……んだと」
「それにしても五十人前って、贅沢言うわね、あんた。確かに最近暑いから、気持ちは分からないでもないんだけど。でもその分、報酬は弾んでもらうんだから」
 ところで五十人前ってどれくらいなんだろ、分かんないから適当でいいやー――などとさらなる氷をばらまく氷精に、妹紅はもはや言葉も出なかった。
 ただはっきりしているのは、チルノを差し向けたのが輝夜であろうということ。あいつはまたも妹紅を発注者とした架空の依頼をでっち上げたのだ。
 だから、チルノはあくまで妹紅が望んでのことと信じて、妹紅の住居を破壊しているのである。ちょっと考えれば、そんな自滅的な依頼をする者などいないと知れそうなものなのだが。そもそも氷を届けるのに家を壊す必要などないだろうに。……まあそこはチルノということで、ひとつ。
 それにしてもいったい、どんな報酬を約束すれば、気まぐれな氷精を動かすことができたのか。謎であった。
「ここで大サービス! こいつはおまけだ持ってけどろぼー!」
 チルノは調子に乗って、氷づけの蛙まで放り投げだした。そんなものどこに持っていたのかは、やはり乙女の秘密というやつである。
 これに慌てて庵の裏手から駆けてきたのは慧音だった。
「こら、命を粗末に扱うんじゃない!」
 まったくもって正論であったが、この馬鹿げた状況下で正論を打つのは、むしろ愚かであろう。
 泡食いながらアイシクルフロッグを受け止めるべく駆け回る慧音に、チルノは愉快そうに笑う。
 終末的な光景を前に、妹紅は身をわななかせながら立ち尽くしている。不意に、その背に鳳凰の翼が広がった。
 飛び散る火の粉が、庵に積もった氷へ降りかかって、瞬く間に溶かしていく。冷気が天へと押し返されていき、急激な上昇気流に飲まれた氷精が悲鳴を上げた。
「ふ……ふふふ……」
 妹紅の顔はもはや怒りをぶっちぎって、凄絶なばかりの笑みで染まっていた。
「いい度胸だ、輝夜……こうなったらこっちも、とことんやってやるよ」


  *


 報復は新たな報復を呼ぶ。本来無関係な他者をも絡め取りながら、憎悪の鎖は紡がれていく。

 竹林に雹が降った数日後、永遠亭には魔理沙が現れた。
「出前迅速、霧雨魔法店が来てやったぜ。ご依頼のハッピーマッシュルーム詰め合わせ一年分、お待ちどうさまだ」
 もちろん、永遠亭側はそんな依頼などしていない。報酬をよこせという魔理沙の要求をつっぱね、怪しげなキノコを持って帰れと告げる。
 当然ながら魔理沙は怒った。
「ガキの使いじゃないんだ、手ぶらで帰れるか。報酬はこっちで適当に選んでもらってくぜ」
 そう宣言すると、キノコを辺りにばら撒きながら永遠亭の宝物庫に飛び込んで、強奪の限りを尽くしたのだ。まあ、いつもどおりの話といえばそうではあったが。永遠亭が看過に堪えぬほどの損害を被ったのは事実である。

 その翌日、再建された妹紅の庵には、アリスが顔を見せている。曰く、藤原邸での人形劇の興行を依頼されたとのこと。
「誰がそんなもの頼むか! 正気か、あんた?」
 妹紅はつい、本来輝夜へと向けるべきはずの憤りをぶちまけていた。気遣いのかけらもない言葉を、罪のないアリスへとまともにぶつけてしまったのだ。
 怒声を浴びたアリスは呆然となり、硬直したその顔からは一切の表情が失われた。
 静寂に満ちた間があった。
 不意に、その目尻に透明な雫が浮かび。つ、と頬を滑り落ちた。
「あ、あれ?」
 妹紅も驚いたが、なによりアリス自身が一番びっくりしたらしい。
「え、あれ、なんで? ち、違うのこれは……あれ、どうして……ちがうの、ないて、なんか……わ、わたし……」
 懸命に否定しながら目をこするが、涙は後から後から零れてくる。アリスは連れてきた人形たちをきゅっと抱きしめると、とうとう堪えきれなくなったかのように、すすり泣きはじめた。
 妹紅はやっと己の過失に思い当たり、必死になだめにかかった。
「いやごめん、いまのは冗談なの。ほんとは楽しみだったんだけどなんかいざとなったら照れくさくっていやあほんと早く見たいなあ人形劇。寂しいひとり暮らしにはそれくらいの潤いがなくっちゃやってらんないよねえ」
 苦しいことこの上ない弁明だったが、それでもどうにかアリスの涙を止めることには成功する。
 結局その後、妹紅はアリスの機嫌を取るため、人形劇を鑑賞する羽目となった。観客がひとりきりの、寂しい上演である。場の空気がどれほどいたたまれないものだったかは、ことさらに言う必要もないだろう。
 帰り際、しっかりと報酬を要求するアリスに、妹紅は抗う術もなくなけなしの金銭を握らせるのだった。

 妹紅と輝夜の敵愾心はヒートアップする一方で、それからも悪意に満ちたデリバリーが両者の間を飛び交った。
 永遠亭は文々。新聞の百部単位での購読契約を勝手に結ばれた。
 妹紅宅には香霖堂の店主が用途不明のガラクタを山ほど届けに来た。
 期間限定で復活した蟲の知らせサービスが、永遠亭を蹂躙した。
 妖夢の出張介錯サービスが、割腹してもいない妹紅の首をはねた――これは既に普通の刺客と変わらない気がしないでもない。

 その間、慧音はなんとかこの不毛極まる抗争を止めようと、奔走し続けた。妹紅に説得を繰り返す一方で永遠亭にも出向いて、永琳などに輝夜を止めるよう働きかけたりした。
「やめろ。なあ、やめてくれ。やめてってば。やめてよぉ……」
 しかし悲痛な訴えは、どちらの耳にも届かなかったのである。
 かくなる上は実力に訴えるしかないか――だが悲しいかな、慧音では、例え満月の下にあっても、蓬莱人たちの力量に遠く及ばない。
 それでも彼女は諦めない。諦めるわけにはいかなかった。自分がもっとしっかりしていれば、あるいは夜雀がやってきたあの夜のうちに、事を収拾できていたかもしれないのだ。
 多くの者を傷つけてきたこの争いを、なんとしても止めること。それが自分の責任だと、慧音は強く考えていた。


  *


 悲劇の幕開けからどれだけの日時が過ぎたのか。
 慧音の努力は、ようやくひとつの実を結ぶかに見えた。妹紅と輝夜の両者を、直接対話の場に引っ張り出す算段が整ったのだ。
 この抗争が始まってから、当事者であるはずのふたりは、まだ一度も顔を突き合わせていなかった。自らの憎悪を他者に運ばせ、自身は敵陣に一歩も踏み込まないままだった。
 やはり今回のこの争いはおかしい、狂っている――慧音はこれまでの流れを振り返り、嘆息した。いかなる手を使っても、これ以上、長引かせるわけにはいかない。彼女は決意を新たにする。
 会談の場は竹林、妹紅の庵と永遠亭とのほぼ中間地点。緩衝地帯的な開けた空間に、三者は集った。上弦の肥えた月に照らされる、夜のことだった。
 顔を見合わせるなり相手への憎悪を剥き出しに睨みあうふたりを、慧音は交互に見比べる。
「私は既に、言葉を尽くして道理を伝えてきた。だからここで敢えてそれを繰り返しはしない」
 静かなその声には、なぜだろうか、早くもかすかな諦観の響きがあるようにも聞こえた。もっとも、目の前のふたりは、それを聞き取るどころではないようだったが。
「ひとつだけ、最後に言うぞ。ふたりとも、ここで手打ちに応じろ。この馬鹿げた争いを即座に打ち切って、これまで巻き込んできた者たちに謝罪するんだ」
「いやよ」
 即座の異口同音だった。こんなときでなければ笑ってしまいそうなくらい、ふたりの呼吸は揃っていた。
 その事実に、ふたりの顔は険を増す。
「せっかく慧音がお膳立てしてくれた膝組みだけどね。私は折れるつもりなんてないよ。悪いのはこいつだ、頭を下げて回らなければならないとしたら、それはこいつひとりだ」
「あら、今のこの流れを生み出したのは、とりもなおさずあなたの方じゃない。都合の悪いところに目を向けようとしないなんて、やっぱり浅ましい子ね」
「黙れ、諸悪の根源。陰湿な策謀を巡らせるのと嫌味を垂れるのと、それが貴人の仕事だって教わったのか?」
 場の緊張は既に危険域にまで達していた。もはや激発は免れまい、そう慧音は判断する。
 このまま即座に殺人弾幕が展開されるか――そう思ったが、意外にもふたりは絡み合わせていた視線を断ち切り、同時に踵を返した。最後にかけらほどの理性が残っていたのだろうか。
 ふたりは背中越し、ちりちりときな臭い匂いすら帯びていそうな声を浴びせ合う。
「これまで以上に素敵な贈り物を考えてあるからな。胸躍らせて待ってなよ」
「あなたこそ。喜びのあまり泣き狂ってしまわないよう、心の準備を済ませておくことね」
 嗚呼――残っていたのは理性などではなく、純粋なる悪意だったのだ。ふたりはあくまで、馬鹿げた手段で闘争を続けるつもりでいる。なんらかの形で決着を見るか、飽きが来るかする、その日まで。
 それぞれ正反対の方向へと歩み去りつつあるふたり、そのどちらへも目を向けることなく、慧音はうなだれたまま立ち尽くしていた。握った拳は、己の無力を呪うかのように、小刻みに震えている。
「では……どうあっても、止める気はないのだな」
 ようやく、振り絞るようにしてその口から、小さなつぶやきが出された。小声とは言ってもこの静寂の夜だ、ふたりの耳に届いていないということなどなかろうに、だが彼女たちはなんらの反応も示さない。
 調停は失敗に終わった――それを確信し、だが不意に慧音は、毅然と顎を持ち上げる。
「ならば……もはや是非もない。全ては歴史に委ねよう」
 ゆっくりと背後を振り返ると、彼女は月明かりの虚空を睨みつけた。




 空を覆う漆黒、その片端に、ふと小さな異彩が生じた。
 夜を蹴立てながらこちらへと猛進してくるそれは、じき、紅白の人型をしていることが見て取れるようになる。
 見参、博麗霊夢。
 疾風の速さで緩衝地帯上空に到達した彼女は、ゆっくりと場を離れつつあった妹紅と輝夜を仁王立ちに見下ろして、月にまで届きそうなほどの大音声で喝破した。
「そこまでよ!」
 いきなりのことに、妹紅も輝夜も足を止め、真上を仰いだ。目を丸くして、この闖入者を見上げる。
 霊夢はしばしふたりのことをねめつけていたが、ふと困惑の表情となった。
「あれ……どっちをやればいいのかしら」
 何やら不穏当な響きの言葉に、ふたりは眉を寄せる。
 霊夢も同じように眉間にしわを作りながら、装束の袖から何やら書簡らしきものを取り出した。
「ねえ、これくれたの、誰か知ってる?」
 その書簡には、こう綴られていたのだ――『昨今、世間を騒がせている蓬莱人あり。博麗の巫女にあっては、これを調伏されたし。なお当方には謝意として神前へ賽銭を投じる用意あり』……
 妹紅と輝夜は、弾かれたように宿敵へと顔を向ける。その瞳に、昏く理解の色がよぎった。
「そうか……また、お前が」
「そう……これが新しい贈り物ってわけね」
 つぶやき、憎悪を再燃させて睨みあう。
 半ば無視された形となって、霊夢は苛立ったように宙を踵で蹴りつけた。
「ちょっと、質問に答えてよ。私はどっちをとっちめればいいの? お賽銭をくれるのは誰なわけ?」
 しかしふたりはそちらに見向きもせず、棘だらけの声だけを返した。
「知るか! そんな与太を真に受けて来るなんて、相変わらず頭が緩い奴だな」
「ほんと。妹紅とじゃれあってるのがやっぱりお似合いね、穢れた地上人なんて」
 これに霊夢は一瞬、鼻白みながら、なおも縋るかのように言い募った。
「な……与太って。それじゃあ、お賽銭は……」
「誰がそんな酔狂な真似するものか。いい加減に気付きなよ、ここはあんたの出る幕じゃないんだって」
「いつまでも季節外れに春満開の顔ぶらさげてないで。とっととあの薄汚い神社にお帰りなさいな」
 ――その口調の酷薄さよりも、たったひとつの単純な事実が、霊夢を打ちのめしたのである。
「賽銭が得られない」
 それで、彼女の理性を留めていた最後の箍を外してしまうには十分だった。
「ああ……そうなんだ」
 低い低い、呪詛を思わせるつぶやきが、その唇の間から漏れ出す。
「よぉく分かったわ。要するに、あんたたちふたりとも叩き潰してしまえばいいのね。無報酬で」
 その小さな体躯から、膨大な量の鬼気が立ち上る。ゆらり、両の腕が静かに持ち上がったかと思うと、右手の先には玉串、左の指の間にはお札の束が閃いていた。
 鬼気は夜空に染み入り、気温をぐっと引き下げた。背筋が意思とは無関係にぶるりと震える段になって初めて、妹紅と輝夜は異変に気付いたのである。
 ぐっと頭のてっぺんを踏みつけられるかのような威圧感に、ふたりは恐る恐る頭上へと視線を戻す。
 そしてそこに、急襲をかけてくる鬼神を見たのだった。


 背後で爆音が轟いたかと思うと、直後、背中を強い風に撫でられた。もう竹林の外縁まで来ていたというのに、ここまで怒りの余波が届くとは――霊夢の憤りの凄まじさが事前の予想を遥かに上回っていることを知って、慧音は戦慄を禁じえなかった。
 それでも実害が及ぶことはないだろうと考え、足を止め、振り返った。ずっと遠く、木々の間を透かして苛烈な光の乱舞を目にすることができた。
 慧音は乱れほつれた髪を指で梳きながら、その凶悪な光景に嘆息する。

 もはや改めて説明するまでもないだろうが、霊夢に例の書簡を送りつけたのは、彼女、慧音だった。最悪の場合――妹紅と輝夜が停戦を拒んだ状況に備えての、最終的な手段として用意していたのだ。慧音の実力ではふたりを抑えることなど適わない、ならばそれを可能とする者を呼び出せば良い、そう考えたのである。
 結局、ふたりは和解に応じず、慧音はこの最終兵器を発動せざるを得なかった。できることなら切らずに済ませたかった手札だが、しかし切らねばならないだろうと、あらかじめ覚悟を決めていた彼女である。その覚悟は無駄にはならなかったわけだが、そんなことはなんの慰めにもならなかった。
 依頼は、妹紅と輝夜とを引き合わせる算段が整った時点で既に行っていた。博麗神社の賽銭箱に件の書簡を投じておいたのだ。
 それと同時、依頼したという歴史を「食った」。
 もし、妹紅と輝夜が和解してくれたなら――そうすれば、霊夢に出張ってもらう必要はなくなる。そのまま依頼した事実を永遠に凍結しておくつもりだったのだ。
 だが現実はそれを許さず、やむなく隠蔽した歴史を解凍するしかなかったのである。結果、霊夢は依頼に触れ、受諾し、ここへとやって来た――

 遠く風に乗って悲鳴が聞こえてきたような気がした。妹紅のものか、あるいは輝夜のものか。ひどい雑音混じりで、慧音の耳では判別しきれなかった。
 悲痛げに目を閉ざしつつ、慧音はスカートの隠しに手を入れ、そこから一枚の紙片を取り出した。ぴんと角まで張った、それは紙幣だった。
 これから博麗神社に行って、これを賽銭箱に投じなければならない。そうしなければ、霊夢を騙したことになってしまう。それでは妹紅たちがやってきたのと同じだ。この手で依頼を完結させてやらねばならなかった。
 ゆっくりと踵を返し、そこでふと空を仰いだ。月は静かに冷ややかに、地上の喧騒を見下ろしている。
 慧音は思う。言葉だけではついに届かなかった自分のこの想い、それは果たしてどこへ行ってしまったのだろうかと。いまはただ空虚なだけのこの胸のうちからは、既に失われてしまったようにしか思えなかったから。
 ふっ、と苦い笑みを浮かべると、彼女は地面を蹴りつけ、浮かび上がる。それきり振り返ることなく、夜陰の彼方へと姿を消した。


  *


 後に「デリバリークライシス・夏」と呼ばれたり呼ばれなかったりする騒動は、博麗の巫女の介入により終焉を迎えた。
 妹紅・輝夜の間を奇怪なデリバリーが行き来することはなくなったのだが、それで大人しくなるふたりでもなく。結局はかつてのように殺しあう形に戻ったのだった。
 慧音の心労の種が消えたわけではなかったが、少なくともそれはいつもの幻想郷の形には違いなかった。やっぱり溜め息まじりの日々、だがその吐息はいくぶんか軽くなっているようにも感じられたのである。

 

 

 

 

■余談

「四季さま、なんかお手紙が届いていますよー」
「あら、珍しいですね。どれどれ……『出張説教、希望』?」
「へ? なんですか、それ」
「私の説教が聞きたいので、足を運んで欲しいと、そういうことみたいです」
「あはは、悪戯ですね、そりゃ。四季さまが鵜呑みにしてノコノコと出てきたら笑ってやろうっていう、そんな性質の悪いやつ」
「そ、そうかしら」
「そうに決まってますよー。いやあ、底の浅い悪戯を考える奴もいるもんだ。いくら四季さまがお説教好きだからって、こんなのに引っかかるわけないっての。閻魔が嘘を見抜けなかったんじゃ、笑い話にもなりませんって。ねぇ?」
「え……ええ、もちろんですよ。ほら、小町、あなたはもう仕事に戻りなさい」
「へいへい。あーあ、お使いしたんだから、もうちょっと労ってくれてもいいのになあ」

「…………」
(ど、どうしましょう。向こうから説教してと請われたのなんて、初めてかもしれない。いつも煙たがられてばかりで、私もそういうものだと諦めてたのに。どうしよう、嬉しいな……そ、そうだ、なに着ていこうかしら――)


  *


 架空の出張説教要請は、現地にてそのまま出張弾幕裁判に移行した。
 なぜだか無闇にめかしこんだ四季映姫の、半べそかきながらレーザーを乱射する姿が、そこでは目撃されたという。


――と、あるいはそんな悲劇もあったのかもしれない。



SS
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2006年9月16日 日間

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