湖の蛙、大海を知る
ふと頭上に影が落ちたかと思うと、小さな手が水の抵抗をものともせず鋭い動きで迫ってきて、蛙の矮躯を引っ掴んでいた。げこ、と泡を吐く暇もあればこそ、物凄い勢いで水上へと引きずり出されてしまう。
いきなり晩秋の寒気に身をさらすことを強いられ、蛙は身を縮こまらせた。
「つっかまーえたー!」
聴覚を叩く無邪気な宣言。声の主を確かめて、蛙はさらに冷水を浴びせられたかのような心持ちとなった。
彼(雄である)を捕えているのは、悪名高き湖上の死神、青髪の氷精だった。
背負った氷色の羽を上機嫌に揺らし、氷精は湖の上に浮かんで、はだかんぼうの足で水面を蹴るようにしている。「んふふ」と満面の笑みを浮かべ、
「見つけたときには、こんな時期にまさかと思ったけれど。やっぱり私ってばついてるわね」
もちろん、蛙にとっては不運もいいところの話である。細く冷ややかな指先で腹をくすぐられ、もはや生きた心地もしないでいた。懸命に四肢をばたつかせるが、死神の腕は彼の胴をしっかと掴んで離さない。
「それじゃ、久しぶりにいってみるわよ。せーのっ」
氷精がなにやら気合を入れたかと思うと、その手がいきなり冷たさを増した。凄まじいまでの冷気に身体を包まれて、蛙は「げ」とひと声上げるのがやっとだった。次の瞬間にはもう、彼は氷の塊の中に閉じ込められていたのである。バンザイをしているような格好で。
「うん、いい出来ね」
氷精は氷のオブジェを高々と掲げ、薄い陽射しにかざす。あちこち角度を変えながら観賞していたが、
「きゃっ」
不意に短い悲鳴を上げると、ぽろりとその手から氷塊を取り落としてしまった。
氷漬けの蛙は、ぼちゃんと重い音を立てて湖面に落ちたが、氷精は拾い上げようという素振りもなく、ただ眉をひそめていた。
彼女は見たのだ。蛙のお尻の辺りに、なにやら黒い靄のようなものが纏わりついているのを。蛙と共に固い氷の中へ閉じ込められていながら、その靄は不気味にうごめき、小さく渦を巻いてすらいた。
「なにあれ……えんがちょだぁ……」
氷精はばっちいものを触ったとでもいうような顔で手を水に浸して洗いながら、氷塊がゆっくりと沈んでいく様を見送る。
蛙の方もまた、遠ざかっていく彼女の顔を見上げていた。
――なんだってんだ、一体。
そんな、嘆きを抱きながら。
まったくもってついていない。
陽光もほとんど届かない湖底の暗がりに身動きひとつ取れない状態で転がりながら、蛙は嘆き続けている。
氷の檻の中、半ば仮死状態となりながらも、彼の意識は健全に生きていた。視覚などの感覚も、かろうじて働かせられる。こんな光も音もない所では、なんの慰めにもならなかったが。
――ああ、なんて不幸なんだ。
他にできることもないので、ひたすら慨嘆に暮れている。
まあ、そうしたくなるのも無理からぬところがある。ほんの四半刻前まで、彼は湖畔の暖かな土中で穏やかな眠りについていたのだ。ところが、いきなり塒の壁が崩れたかと思うと、湖の水が怒涛の勢いで浸入してきて、急流に飲まれる形で湖に引っ張り込まれてしまった。呆然となりながらも、とにかく湖面に上がろうと泳いでいたら、そこへ例の死神氷精である。理不尽としか言いようのない不幸の連鎖であった。
そしてとどめがこの状態だ。解凍もされぬまま、孤独な闇の底に沈められてしまった。解凍に失敗されて粉微塵になるのはもちろんごめんだったが、少なくともそちらには生還の可能性があった。ここには、何もない。
それでも、もしかしたらそのうち自然解凍されるのだろうか。外気に比べて湖水は温かいし……そんな淡い期待に縋ろうとしたときだった。
くるん、と天地が転がるのを彼は感覚した。
錯覚ではない。くるんくるんと、身体が回っている。身体を包む氷が、湖底を転がりだしたのだ。
どうも斜面を転げ落ちているといった感じではない。魚かなにかに突っつかれているのだろうか。それとも湖流の仕業か。こんな強い流れが、この湖にあったっけか――まったく初めての体験に、蛙は当惑する。
なんにしろ、これまでの展開を思えば、このまま転がっていった先に善いことが待っているなどとは、とても考えられなかった。さりとて抗おうにも水をひと掻きすることもできぬ身、なおも続くらしき不幸の潮流に身を任せるしかない。
こうなったらやぶれかぶれだ、どこへなりとも連れて行きやがれ――蛙は捨て鉢に考えると、どうにかそれだけは動かすことの出来たまぶたを閉ざした。
気がつくと、まぶたの向こうにぼんやりと明るさが感じられた。
目を開き、蛙は驚く。そこにあったのは文字通りの光明だった。太陽の光が、水と氷とを透かして身体に触れている。
いつの間にやら、水面がずいぶんと近くにあった。なおも身体は転がり続けていて、するとどうやら目を閉じている間に斜面を登ったらしい。忙しなく回転する視界に、蛙は今更ながら目が回りそうになりつつも、周囲の状況を確かめた。水生植物の繁茂する世界、すぐそばに他の動物の姿はない。やはり氷塊は、目では見えない何かに流されているらしかった。
抽水植物の作るささやかな木立を抜けながら、蛙はさらなる驚きを覚えた。いますれ違った植物は、湖に生きる種類のものではなかった。どうやらここは湖の外らしい。おそらくは湖と繋がっている河川のひとつだろう。
視界に入る光景も、それを裏付けていた。頭上、水の上に枝を張り出すようにしている木々の影がある。目を凝らせば、さほど遠くないところに土壁が岸を作っていた。
植物の揺らめく姿から、川を遡上していることも知れた。ちょっとした重さはある氷の塊が、川の流れに逆らって、高きへ高きへと向かっているのだ。これは明らかに自然の理を外れている事象だった。自分を乗せている運命の潮流が想像以上に奇怪なものであると悟って、蛙は不安を新たにする。
いったいどこへ流れ着くのだろう。
蛙の心細さに追い風を立てるかのように、周囲の光景は寂しいものへと変じつつあった。岸に立ち並ぶ木々が裸の寒々としたものばかりになっていく。その樹林の梢の向こう遠くには、峻厳たる山の頂があった。
妖怪の山――そこへ引き寄せられようとしているのだろうか。
不意に川底の大きな起伏にぶつかって、氷塊は勢いよく跳ね上がった。陽射し揺らめく水面を突き破って、そのまま水上へと飛び出す。水に濡れた氷は陽光を受けて、宙で青玉のようにきらめいた。
蛙は目を白黒させている。
狼狽しながらも、彼は見ていた。すぐそばの岸辺に、ひとりの少女が立っているのを。
少女は鮮やかな赤色の衣服に身を包み、そのため周囲の風景からは明らかに浮き上がってしまっていた。鮮緑の髪にも同じ朱色のリボンを絡め、だが何よりも目を引くのは、彼女の周りに渦を描く闇色だった。不吉な色合いの、靄のような煙のようなものが大量に浮かび、少女を包んでいるのだ。
赤と緑と黒とをなびかせ、まぶたを閉ざし、笑みとも嘆きともつかぬ表情を口の端にたたえながら、少女はそこで回っていた。くるりくるりと。ブーツで地面に足跡を螺旋に刻みながら。その動きに合わせて赤いスカートの裾が踊り、緑の髪が跳ね。そして黒い靄が不吉な渦を巻く。
その暗黒の渦へと、宙に浮かぶ蛙は引き寄せられつつあった。
――え、なんで。なんなのこれ。
その正体は不明だったが、どう見ても禍々しさに満ちている。そんなところへ招かれるのは、氷精の手に落ちるのと同じくらいに避けたいところだった。
だが抗えるはずもない。為すすべもなく吸い寄せられながら蛙は、湖からここまで自分を引っ張っていた力の持ち主が、この少女であることを知ったのだった。
少女はくるくる回り続け、その動きに合わせて色彩が舞い、蛙を包む氷塊は引き寄せられていく。まるで水車に汲み上げられる川水のように。
とうとう蛙は少女を取り巻く黒い靄の中へとすっかり引きずり込まれ、見えなくなってしまった。
@
「うん……?」
それまで一分の隙もないステップを刻んでいた少女が、急にバランスを崩し、足元をよろめかせた。驚いたように目を開き、きょろきょろと辺りを見やる。だが何も見出せず、彼女は翠緑色の瞳を、自分の周りに浮かぶ黒い靄へと移した。
「ちゃんと回収できたみたいだけど……なんだか、妙に重くなってたような」
小首をかしげ、だがすぐ、顔に浮かべていた表情を訝るものから焦りへと変える。
「いけない、それよりも納期、納期。急がなくっちゃ」
地面を蹴って浮かび上がると、少女は川に沿って飛行を始めた。上流へ、山へと向かって。
ほどなく少女の眼下に流れる川は、穏やかなせせらぎだったものから、荒々しさを含んだ渓流のそれへと変化を遂げていた。両岸には険しい岩壁がそびえ、川面に悠然とした影を投げかけている。
そんな風景の先、小さく浮き出ている中州に、やはり少女がひとり立っていた。同じ年頃と思しき見かけだが、こちらは黒髪に、ごく落ち着いた色合いの和装で身を包んでいる。下流から上ってくる緑髪の少女に気付くと、大きく手を振った。
「遅いよ、雛ちゃんー」
「ごめんなさい」
雛と呼ばれた緑髪の少女は同じ中州に降り立つと、乱れた息を整える合間、言葉を紡ぐ。
「例のね、白黒の子がまた山に忍び込もうとしてたから。止めようとしたんだけど強引に押しのけられて……その弾みで厄をちょっと、こぼしちゃったの」
「あら、大変じゃないの」
「大丈夫、けっこう流されたみたいだけど、ちゃんと拾い上げてきたから」
白い歯を見せてはにかみ、
「でもそのせいで遅れちゃった。ごめんね」
「そういうことならいいよ。しょうがないもの。後の方にも、そう伝えておくわ」
黒髪の少女は肩をすくめた。
「ま、こんな商売なんだし。少しくらいゆっくりやっても、いいよね」
「ありがとう。お願いね」
くすりと笑いながらうなずくと、雛はくるりと身を翻した。その勢いのまま、くるくると回りだす。先ほど下流の岸辺に残したのと同じような足跡を、この中州にも刻んでいく。
すると、その身に纏わりついていた黒い靄のようなものが、彼女から離れだしたではないか。
その身からすっかり靄が離れきってしまうと、ようやく雛は回るのをやめた。
靄はふたりの少女の間に浮かび、所在なげに揺れている。そこへ黒髪の少女が手を伸ばしたかと思うと、靄の塊をぐいと掴むような仕草をした。靄はぶるりと震え、だがその手から逃れられない。
少女は「よいしょ」という掛け声と共に、そのまま靄をひとまとめに引き寄せた。
「よし、と。それじゃ、行ってくる」
「気をつけてね」
「うん。また今度飲もう」
雛に手を振ると、黒髪の少女は足を浮かび上がらせた。雛に見送られながら、黒い靄をひきずるようにして、上流へと向かって去っていく。
黒髪の少女は鼻歌交じりに川を辿っていく。靄を無造作に引きずり、途中ですれ違う河童と陽気な挨拶を交わしたりしながら進むことしばらく、その行く手に巨大な滝が見えてきた。
天を衝くような高さから落ちてくる水の底、激しい飛沫で白く閉ざされたようになっている滝壺には、よく見ればまたも少女の影がひとつ。
黒髪の少女はその影へと向けて、飛ぶ勢いを速める。
「お待たせー」
「遅いですよ」
待っていた彼女は、先のふたりに比べてやや年上に見えた。短いやり取りの後、やはり黒い靄が譲られていく。
新たな所有者となった少女は、手で触れたくないのか、近寄ってくる靄にふうふうと息を吹きかけ、できるだけ遠ざけようとしているらしかった。
「それじゃ、よろしく」
「わかりました」
黒髪の少女と別れると、彼女は風に乗り、靄と共に滝を昇りはじめる。半ばほどで出くわした哨戒の天狗に軽く会釈したりしつつ、ゆっくりと高度を上げていく。
そして昇りきった先、その空には、やはりひとりの少女が待っていたのだった。
「遅くなってごめんなさい」
「……ううん」
白く長い髪をわずかに揺らして、彼女はほとんど分からないくらいに薄く笑んだ。白い装束の袖を持ち上げ、黒い靄を受け取る。
「ご苦労様」
「下の子たちが、また皆で飲りましょうですって。よろしければ、そのうちに」
「うん」
言葉少なに応じると、白い少女は靄を抱えるようにしながら、さらに高く浮かび上がりはじめた。眼下の滝が徐々に小さくなっていき、雲をも足下にして、やがて山の全貌さえ確かめられるくらいの高みへと至る。
白い少女は視線を水平にした。他に誰ひとりとて存在しない場所。そこを、黒い靄のみを供に、ゆっくりと歩みはじめる。
が、すぐにその足は止まった。
「……あら?」
訝るような視線を手の中の靄に落とす。しばし考えるように瞬きを繰り返し、それからおもむろに彼女は、真っ黒な靄の中に手を突っ込んだ。指先に触れた、何か硬くて冷たい塊を、そっと取り出す。
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真っ暗だった視界がやっと開けたかと思ったら、辺りの環境は激変していた。とっくに驚き疲れていた蛙だったが、やっぱりこれには衝撃を受け、げこりと口の中で唱えた。
「あら、あら……」
目の前には、見たこともない少女がいる。氷漬けの蛙のことを両手で持って、不思議そうな顔をしている。
不可思議な思いなのはこっちの方だ。誰だ、この白いのは。自分を捕えたのは、もっと赤くて緑色の少女ではなかったのか。それに――
蛙は大きな目玉をあちこちへと巡らす。
どこだ、ここは。こんな何もなくてだだっ広い場所は、生まれて初めてだ。前後左右上方はおろか、下にさえ何にもないじゃないか。
「ああ、そういうことなのね」
眼前の少女が、何か得心のいったらしき響きの声を出した。手で、蛙を閉じ込めている氷をこすりはじめる。
「雛ちゃんの落とした厄が、あなたに憑いてしまったのね」
じわり、じわりと氷が溶けだす。白かった指が赤らみつつあったが、少女は手を止めない。愛おしむかのような手つきで氷を撫でながら、優しい声で蛙に話しかけてくる。
「氷漬けになってたせいかしら、雛ちゃんたら、まとめて回収しちゃったんだわ。急いでたらしいから、そのまま気付かないで次に渡しちゃったのよ。慌てんぼうさんね」
やがて身を戒めていた氷は完全に溶け落ち、蛙は再び自由の身となっていた。解放感に浸る間もなく、そのお尻を、温かな指が撫でた。
そちらに目を向けると、少女が指先に、黒い靄を少し、纏わりつかせていた。もしかしてあれが、自分に引っ付いていたのか――蛙はやっと、そのことを知った。
「はい、これで厄祓いはおしまい。あなたにはとんだ災難だったわね」
氷が溶けた水で濡れている蛙の身体を、温かな手が包み込む。奇妙な居心地のよさに蛙は安堵感を覚え、ふと眠気を催した。土の中の寝床が懐かしい。ここはいったいどこなのだろう。
げこ、と思わず力なく鳴くと、どうしたことか白い少女はその声の意味を悟ってくれたらしかった。
「ここ? そうね……」
雲を眼下とする周囲の光景をぐるりと見回し、それから蛙のことを見つめて、ほんの小さく、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ここはね、私の海。幻想郷の海よ。あなたは幻想郷で初めて、海へ来た蛙なの」
海。蛙にとっては初めての言葉だった。
少女は蛙を自らの肩に乗せ、黒い靄――きっとこれが、彼女の言う「厄」なのだろう――を改めて抱えた。
「私はこれから、この海を歩くのよ。下の子たちが渡してくれた人間の厄と一緒に。歩いているうちに、厄は少しずつ薄らいでいくの。そしていつか手の中の厄が全て海に帰ったら、またあの山へ降りるのよ。次の厄を受け取るために」
蛙に向けて、かすかに、かすかに笑う。
「ずっと昔から、そうしてきたの。この海を、ひとりで流離ってきたの」
蛙は黙って聞いていた。まだ少し濡れた身体に、この空の風は冷たすぎた。じっと彼女の肩にしがみつき、腹に彼女のぬくもりを求める。彼女もそれを求めているだろうと、なぜだかそう思えた。
「もちろん、みんなと一緒にやっている仕事なんだけどね。でも会えるのはほんのときどき。あとはずっと、それぞれの持ち場でひとりきり」
風の音に負けてしまいそうなほど細い彼女の声は、疲れた身体にとても心地よく、まぶたを重くする。
「ねえ」
いきなり少女の声が大きなものとなった。快活な、と言うよりは無理にそうしようと努めているかのような響きの声で、
「あなたも、一緒に来ない?」
そんなことを問いかけてきた。
蛙はやっぱり無言でいた。忍び寄る睡魔の誘惑に抗い、まぶたを持ち上げ続けるので精一杯だった。
そんな彼の様子をしばらく見つめて、少女は照れたように苦笑する。
「なんて、ね。この海の水は、あなたには冷えすぎるみたいだし。……話を聞いてくれて、ありがとう。楽しかった」
最後に温かな指で優しく蛙の背中を撫でてくると、
「もう、おかえりなさい」
そう告げられた瞬間、ひときわ強い風が吹き付けてきた。強い睡魔に朦朧としていた蛙は、四肢の踏ん張りを失い、少女の肩から滑り落ちた。次の瞬間には、眼下の雲間に、その身は沈んでしまっている。
「さようなら。元気でね」
白い霞に閉ざされた視界の中で、彼はそんな声を聞いた気がした。
@
「では、厄神様は、こうおっしゃられていたのですね。引き受けた厄は、神々に渡していると」
「あー、うん、確かそんな感じ」
妙に熱のこもった声と、対照的に気の無い返答とが交わされているのは、ご存知、博麗神社の社務所縁側である。
前者の声の主は稗田阿求、後者はご存知、博麗霊夢のものであった。
「実は以前から気にはなっていたのですよ。厄神様が、その身に溜めた厄をどう処理しているのか」
「弾幕にしてばら撒いているんじゃないの?」
「否、否です。そこにはやはり、ちゃんとした祓があったのです」
やや興奮気味に、阿求は万年筆を振りかざしている。つい先日、霊夢が妖怪の山に引っ越してきた神様一家とのごたごたを解決したと聞きつけて、取材に訪れている彼女だった。
「あんたさあ」
霊夢は空になった湯飲みに新たなお茶を注ぎながら、呆れた口調を隠そうともしない。
「そんな気になっていたのなら、自分で直に訊ねてみれば良かったんじゃない、その厄神様に。なんてったっけ……ふぃーるどわーく? それが大事なんでしょ、その手の資料集めってのは」
「あそこにはなるたけ近寄りたくないので……まあ、それはともかく。これで厄の行方について、一定以上の推測を立てることができるようになりました」
「それで誰が得するのよ」
「私です」
きっぱりと言い切って、
「ですが、霊夢さんも気になりませんか? 厄払いとかなさるのでしょう、この神社で」
「……うん、まあ」
「なんですか今の間は……とにかく、他ならぬ私たち人間の厄です。海の存在しないこの幻想郷で、如何にそれが祓われているのか、考察する価値はあると思うのです」
「海? 海が無いと、なにか困るの? あ、お塩?」
「いやいや……まあ、確かに塩も大事ですが」
こほんと咳払いを挟み、
「古来よりこの国では、人の罪や穢れは、海に流すことで祓われてきました。国を挙げての神事だったのです。現在の流し雛は、それが転じたものだと、私は考えているわけなのですが……さて、かつてこの罪や穢れを運んでくれたのは、祓戸の四神なる神々だとされています。川から海へと神々の手を介して流れた罪穢れは、最終的に最後の一柱が背負って流離ってくださるのです。いつかその全てが失われる時まで」
「押し付けるわけね」
「……と、まあこのように、海は祓において大きな役割を果たすわけです。ところが幻想郷には海がない。では、年頭の祭事などで祓われた人間の厄は、どこへ行くのでしょう」
「厄神様のところじゃないの?」
「そう、問題はその鍵山雛という厄神様の存在です。彼女は妖怪の山の麓で、流し雛軍団の長などを名乗っている。人間の住んでいない山で、いったい誰が流し雛なんて風習を行うのでしょう」
「人間、住み始めたわよ。ひとり」
「……そこで先ほどの、霊夢さんが聞いたという言葉です。引き受けた厄を、神々に渡している――彼女の下流には海もなければ、およそ穢れを託すに値する有力な神々も存在しません。彼女が口にした神々とは、おそらく彼女の後方、山中に住まうものを指しているのでしょう。つまり、厄神様は厄を下流に流しているのではなく、上流に運んでいるのだとしたら……」
そこで気を持たせるかのように一旦言葉を切るが、霊夢はやはり興味薄げな顔つきを保っていた。阿求は溜め息をつくと、再び口を開いた。
「鍵山雛は、自らを流し雛として厄を引き受け、川をさかのぼり、上流に居を持つ別の神のもとへと運びます。これを受け取った神は、さらに上流へ――間に何柱の神々が介在するのかは知れませんが、最終的に厄を背負うこととなった神は、どこへ向かうのでしょうか?」
「んー……守屋神社?」
「考える気ないでしょう、あなた……私が思うに、厄の終着点は、あの空なのだと思います」
「空?」
阿求が指差した先を、霊夢は見上げる。薄く雲のかかった寒々とした色の蒼穹が、遥か頭上には広がっていた。
「はい。おそらく厄を運ぶ神々は、空を海に見立てているのです」
遠い彼方を見据えたまま、阿求は続ける。
「海が映すのは、空の色なのです。つまりこれは、空こそが海の源泉であるとも取れる一例ではないでしょうか」
「強引じゃない?」
「それに。この星を包む大気の層のことを、海に見立てて『気海』と呼ぶこともあるそうなのです」
ふっと、息を継いで、
「あそこは、海なんですよ。そう信じる心にとっては」
「信仰心ってことかしら」
霊夢は苦笑しかけて、だが阿求の真剣な横顔に、それを押し殺した。代わりに何か言おうと言葉を探していると、
「なんてね」
いきなり阿求が笑い出し、ぽかんとなる。
「いま言ったのは、推論に推論を重ねた、根拠薄弱な一説に過ぎません。実際のところ、どうなっているのかは……やっぱり、直に訊ねてみるしかないのでしょうね」
阿求はいつになく無邪気な目を、もう一度空へと向けた。
「でも、もしかしたら。今このとき、私たち人間の厄を背負って、あの空を流離っている神様がいらっしゃるのかもしれません。そう考えるのは、悪いことじゃないと思うのです」
「ん……そうかもね」
そのままふたりは肩を並べ、秋の終わりの空を仰ぎ続けていた。
その視界に、小さな黒い点が飛び込んできたのは、それからしばらくしてのことだ。
見る見る大きくなっていくそれは、じき、こちらに接近中の魔理沙であると知れた。
疾風の速さで神社上空に到達した魔法使いは、何がそんなに楽しいのか、いつもどおりの明るい顔を引っさげてふたりのまえに着地した。
「よう、阿求もいたのか。ちょうどいい、去り行く秋の味覚を一緒に楽しもうぜ」
そう言って、頭の帽子を脱ぐ。引っくり返したその中には、確かに秋らしい山の味覚が大量に詰め込まれていた。ほとんどが茸の類だったが。
相変わらずねと呆れ顔で帽子を覗き込んだ霊夢は、何を見つけたのか、急に眉をひそめた。
「あんた、これ、食べるの?」
乱雑に押し込まれている茸の山の中、霊夢が指差す先には、小さな蛙が一匹、うずくまっていた。
「げ」
魔理沙は目を丸くし、帽子を取り落としそうになる。
「なんだこりゃ。こんなの摘んだ覚えはないぜ」
「そりゃ、この時期は深く掘り返さなくちゃ採れないでしょ、こんなの」
「うーむ。そういえば帰りに飛んでた時、頭に何かがぶつかったような感じがしたな。まさかそのとき……」
「なによ、大地の恵みじゃなくて、空から降ってきたっていうの?」
霊夢の白々しいものを見る目つきに、魔理沙は狼狽の度を深めた。
「いやほんとだってば。これはもしかするとあれか、諏訪子の呪いか!?」
「呪われるようなこと、何かしたのね」
霊夢は微苦笑すると、境内の方を指して、
「厄払いなら、ほら、あそこ。素敵な賽銭箱があるから」
「ううん、本当にわけが分からん……」
そのとき、茸の中に埋まっていた蛙が、げこ、とひと声鳴いたのだ。
その間の抜けた響きが魔理沙の困惑顔と奇妙に合っていて、霊夢と阿求は思わず顔を見合わせ、噴き出していた。魔理沙は憮然となり、その表情がますますふたりの笑いの衝動をくすぐる。
とうとう我慢しきれなくなって、ふたりは笑い出す。高らかな笑い声は、何ものにも遮られることなく、遥かな空へと吸い込まれていった。
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