カラス何故啼くの
……。
霧のトンネルの下、長い長い行列が続く。
ぼんやりとした意識のまま、私は最後尾に付いた。
何かを探していたと思うのだが、それが何だか忘れてしまった。
この行列の先が見えた頃には、その何かを思い出すだろうか。
でも、何か解からないのにそれを見つけた時どうしようとか、見当違いな事を思ったりしてみる。
そうやって沈黙の行列の一部になった。
行列が二歩三歩、前に詰められた。
摺り足でそれに続いた。
―――――
むぅ、窓が揺れているな。
朝から煩いくらいに風が強い。
風の子の走る音と森の獣の唸り声が、まだ眠い頭に響く。
では、ご主人が起きる前に一つ家の見回りをしておくか。
破損無し、隙間風無し、不審者無し。
全て異常無し。
待て、おかしい。
また聞こえた。
風ではないな、獣でもないな、何の声で何処から聞こえている?
隠れている?
隠れているのか。
違うのか。
その辺り何でもいいが、私に話しかける貴方は何処の誰なのかはっきりして欲しい。
ああ、煩い、少し抑えて話してくれ。
頭に響く。
……良く解らぬ。
しかし、貴方に敵意がない事は理解した。
御互い話は通じているらしい。
全く不思議な事もあるものだ。
人並みの知恵は身に付けたと思っていたが、まるで常識が通じないとは、己の勉強不足を恥じる。
紹介が遅れた。
初めまして、私は鴉である、名前は此処では無い。
こうやって文様の傍に置いてもらい、日々警備に雑用に励んでいる。
そろそろ十年になるだろうか。
貴方の言いたい事は大体解るが、此処で暮らしている限り、名前が無くても特に不便は覚えない。
言葉で説明しろと言われたら、それは少々難しく――
なんだ、ずいぶんと忙しそうな顔を作るな。
そんなに鴉の相手は退屈か。
まあまあ、折角来たのだ、そう急いで帰ることもあるまい。
貴方に一つ楽しい想い出を作ってあげよう。
どんな些細な事でも、本気で追いかけたら結構面白いものなのだよ。
ふむ?
いや、だから追いかけるのだよ、文様という一流のブン屋の一日を。
……疑り深い人だな、一流といったら一流だ。
おお、文様が起きられた。
顔を洗い終わるまでに、着替えの用意をしておかねば。
出来るなら私が用意したシャツに皺があれば、貴方が伸ばしておいてくれると助かる。
――――――
どうだ、シャツの皺は伸ばせたか?
何? 出来ぬのか?
見てるだけか。
それだけか。
人の意識に介入してくるなど、どんな超越者かと思えば、ものの見事に役立たずではないか。
敬意を表した私が馬鹿であった。
貴方の呼び方は、貴方からお前に格下げする事にしよう。
……どっちでもよいという顔をしているな。
悔しいので、貴方と呼び通してやる。
風景ばかり見てもつまらぬ?
後ろを向け?
注文の多い事だ。
今、文様が後ろで着替えておられるのだ。
私がそちらを見るわけにいかないだろう。
文様が気にしないからこそ、私達が気にするようにするのだ。
あの方は少々奔放過ぎる。
ちなみに、スカートの丈も少し長くして欲しいと私は願っている。
何だか、悩ましい顔をしているな。
不思議なものだ。
姿が見えぬのに、声がすれば表情も伝わってくるとは、我らは以心伝心であるな。
で、貴方は何か心配な事でもあるのか?
着替えが終わったらしい。
何時までもそんな顔してないで、飯にしようではないか。
文様は台所に向ったぞ。
あの方のエプロン姿は非常にポイント高い。
目に焼き付けておけ。
おや、何時の間にか、エプロンの柄が変わっているな。
白も良かったが、ピンクも実に似合う。
華やかさの中に慎ましさが隠れている。
貴方もそう思うか。
気が合いそうだ。
突然だが、豆は好きだろうか?
好きか。
それは良かった。
それでは、いい匂いがしてきただろう?
我らの朝ご飯は炒った豆だ。
満腹になるほどの割り当てはないがな。
――――――
貴方は風の色というのを見たことがあるか?
………ほう。
安心した。
私だけが見えてない色なのかと、不安に思っていたのだ。
「今日の風はいい色ですねー」
今、背伸びをしている文様の言葉通りだよ。
風には色があるらしいな。
どんな色なのか私には解らないが、あれだけ爽やかな顔を見せられては、その綺麗さを疑う余地は無い。
死ぬまでに一度見てみたいものだ。
今日は本当に風が強いな。
家にいても底冷えがしたが、外に出てみて、改めて寒さが身に沁みる。
我らは毛皮があるから良いが、文様はあの格好だ。
寒かろうなと、いつも心配する。
号令だ。
行こうか。
ああやって右手を肩の高さに上げた時は、付いて来いという合図だ。
何処へって? 決まっているだろう。
ネタを探しに空を飛ぶのだ。
ブン屋は足で稼ぐ。
それが文様の――
「里を目指しますよー。遅れないようにー」
おおっと、話は後だ、出るぞ。
加減してくれるとはいえ、文様は出鱈目に速い。
気を抜くと、すぐに見えなくなる。
――――――
……。
探している、探している、探している。
その何かを探さないと、居ても立ってもいられなくなって、私は変化の無い行列を抜け出して、乳白色の霧の中を探し始めた。
長い間、霧の地面を這いながら探していると、そのうち、向こうから長い髪の女の人が怒りながら駆けて来た。
何だろう。行列からはみ出たから怒られるのだろうか。
そうすると、ここには誘導係りの人がいるのか。
では、向こうには何か楽しい事が待っているのだろうか。
すみません、すみません、と頭を下げていると、その綺麗な人は、私の手前まで来て一層の大声でこう言った。
「これだけ待ってやったのに、何であとちょっとが待てないんだよ!」
誘導員の横柄な態度が気に入らなかったので、私は謝るのを止めて、また手探りで何かを探し始めた。
――――――
青く穏やかな空だな。
強い風が翼に良く馴染む。
出来るだけこういう天気が続いて欲しいものだ。
雨は偶にで良い。
空を飛ぶのは気持ちが良かろう?
やぁ、素直で宜しい。
しかし、少しばかし身体が重く感じるのはどうしてか……。
これは、貴方の分の重さか?
冗談だよ。
向かい風が多少きついからだろう。
幸いな事に、文様もゆったり飛んでおられる。
風の色が綺麗だからか知らんが、この速度なら我らが遅れる事も無かろう。
不慣れな貴方に、観光案内でもしてやろうか。
我らの眼下に広がる景色は、魔法の森と呼ばれていてな。
……知っている?
ふぅむ、貴方は妙な所で幻想郷に詳しいな。
文様の事もなんだか色々と知ってるような口振りだ。
いらぬ詮索は良そうか。
話を戻そう。
この森には魔法使いが二人ほど暮らしている。
一人は人間で……ああ、こいつには出会いたくもないのだが、こうして飛んでいると勝手に向こうからやってくるのだ。
「よぉ、文。勝負しようぜ〜」
噂をすれば何とやら……と言うよりは、これが、いつも通りだ。
こやつはここで待っておったのだろう。
「また貴女ですか。私は取材で忙しいのですよ」
勝負の内容とはスピード比べなのだが、文様がそれを受ける事は無い。
面倒なのか、関わりたくないのか、どちらにしろ、人間如きが文様と勝負してくれとは、全くおこがましい話である。
「それだとまた不戦敗で、私の十七戦十七勝になっちまうぜ?」
「もう十七回も挑んでたのですか?」
「どうだったかな?」
「適当ですか」
しばらく会話したら、魔法使いは森に戻ったり、そのまま神社に向ったりする。
競ってみたりして挑発行動に移る時もあるが、勝負になったりはしない。
文様は無駄に力を見せびらかせたりするのを嫌う。
私などは、この不遜な魔法使いに、一度誠の神速を見せてやりたいとは思うけれどな。
さ、この森を越えたら、人里だ。
そこの知識人が取材のお目当てだろう。
――――――
魔法の森の次は、本の森。
やあ、何時来てもここの本の数には圧倒される。
文様の対面で、如何にも優等生という感じで背筋を伸ばして座っている才女が、歴史と知識の番人、上白沢慧音殿だ。
驚く無かれ、そこに並ぶ本、あそこに重ねた辞書、その全てが彼女のあの小さな頭に入っているという。
「……と言う事は、これが一番大きな事件になりますね」
文様の新聞作りに、彼女の存在は大変重宝しておられるよ。
頭も良いが、滅多な事では嘘を吐いたりしない。
頭脳明晰、公明正大、取材相手として申し分なかろう?
しかし、真面目すぎるほどに真面目なのは、世間話には向かないな。
冗談が通じないし、普通の人は流すだろう小さ過ぎる悪行も、彼女は見逃す事が出来やしない。
「これ、一週間も前から起こっているじゃないですか。今まで話してくれなかったのは何故です?」
「あまり、大っぴらに出来ないところがあってな。貴女なら解るだろう」
「んー、似たようなのが以前にもありましたっけ……」
「確たる証拠も無しに、どちらの仕業かと決め付けて動くわけにはいかないんだ」
その為か、彼女の前では殆どの人が口が堅くなってしまう。
そういう、自分の真面目過ぎる性格を、当の本人が一番気にしている。
だから面白く話そうと冗談を挟んでみたり、怒りたいのを我慢してぎこちなく笑ってみたりしてみるのだけど、結局上手く行かず失敗してしまう事の方が多い。
実はそういう抜けたところが、人間にも妖怪にも受けが良いという事に、本人は気づいていないのだが。
「……ただ、犯行が段々と大胆になって来ている。そろそろ軽傷では済まされないかもしれない」
ん?
何を言うか、もちろん話は聞いているぞ。
貴方と世間話をしようとも、私の耳が文様の声を逃そうはずはないではないか。
「慧音さんはどっちだと思ってます? 妖怪だと思ってません?」
そうそう。
文様の仰るとおり、妖怪の仕業だな。
「……他言無用で頼む」
「はい」
「妖怪だろうと思う。切り口が異常なまでに鋭利だ。そこらの人間が刃物を持ち出しても簡単に出来る事ではない」
「そうですねぇ。だけど妖怪だとするならば、事件そのものよりも、白昼堂々と街中に侵入されてる方が大問題ですよ」
「うむ。森の妖怪は思った以上に臆病だ。日天の下で行動するのを嫌うし、自分の領域の外に獲物を求めたりしないものだが……」
「特別な動機がありそうですか?」
「犯行後の共通点として、人間が所持している食べ物を奪うというのがある」
「では、森を追われた妖怪が、切羽詰って食う為に襲ってる?」
「あんな少量を敢えて狙うだろうか……奪っていくのは子供のおやつ程度の量なのだが」
「ふぅむ、なるほど。大方解りました。ネタになりそうですし、私の方でも調査させて貰います」
「有難う。恩に着る」
文様の合図だ。
ああやって肩の辺りで手首を回す、あれは情報を取って来いという合図だよ。
では、行くとするか相棒よ。
我らの澄み空へ。
……念の為確認するが、何を聞いて来るのだったかな?
――――――
あまり突っ込むな、推定無罪というのを知らんのか。
私はちゃんと話を聞いていたと言っておる、信じる心は大切だぞ。
しかし、物騒な話だよ。
平和な里に姿無き通り魔、切り裂きジャック二世かな。
誰でもいいが、こうなると早いところ犯人の顔を見たいものだ。
……楽しそうに見える?
実際、人事だからな。
人間は妖怪を畏怖してるくらいで、丁度いいと私は思っている。
だけれども、楽しそうなのは誤解だと言っておこう。
こういう類の話は大抵ネタにならんのだ。
揉め事の種になるばかりでな。
やはり妖怪は汚い、やはり人間は汚い、とお互いの反応は記事を書いてみるまでもなく決まっておる。
叩くための記事にしかならぬのなら、取り上げぬ方がマシよ。
さて、犯人だが。
貴方は何だと思うかね?
私が容疑者の筆頭に上げたいのは、まず貴方だな。
悪かった。
ベタだったのは認めるが、そんな市場に送る子牛を見るような目を私に向けるな。
えーと、何だ、犯人か。
カマイタチなんて怪しいぞ。
奴らならこの強風に乗じて、人にばれぬように切り裂いて去る事くらい、当たり前のようにやってのけるだろう。
まあ、本来、カマイタチの刃は敵対した妖怪に向けるものであって、人間相手には悪戯程度の働きしかしないが……。
切る役とは別に、傷口に秘薬を塗る役の奴が一緒に行動して、たちどころに傷をくっ付けてしまうものだしな。
しかし、そういう安全で無意味な行動に飽きて、一人で切り回っているイカレタ奴がいるのかも知れん。
……空から見ても、寒そうな冬の田の黄色ばかり目立つ。
全く、人がいないにも程がある。
探すのにも飽きてきた。
だらしの無い人間どもめ、奴らは寒いとすぐ家に閉じこもってしまう。
窓ガラス叩き割って家に押しかけるわけにも行かぬし……何処か窓でも開いてないかしら。
おう、この寒さで窓を開ける奴がいたら、単なる馬鹿だ。
人語を解しても、話しかけることが出来ぬこの身の悲しさよ。
積極性が足りないとか、評価されるのだろうか。
しかし、こればかりは、鴉の身では受身にしか回れぬからなぁ。
文様のため、何か一つでも情報を持って帰りたい……。
――前方に人を発見。
急降下する。
二名だ。
冬の田んぼを全速力で駆け巡る子供。
……子供か。
何故か知らん、冬になると田んぼは子供達の遊び場に使われるな。
あ、転んだ。
元気が良いことだ。大人達にも是非分けてやってくれ。
あんな白い息を怪獣の炎に見立ててるガキ相手に、有益な情報を期待しても仕様が無いだろう。
少し時間をずらそうか。
先に飯でも食おう。
ほら、私の首からぶら下がってる袋が見えるだろ。
この中に乾パンが入っておる。
そこの木の枝を借りて、ランチタイムと洒落込もうぞ。
ちなみに、文様は『飲み物がなくてはパンが食べられないよ派』だ。
寿司もあがりが無くては食べられない。
意外な弱点だろう。
嘘だと思うならば、お茶無しで、おむすびを勧めてみるといい。
海苔が喉に張り付いたらどうするんですか、といった顔をされるから。
私もパンより米の方が好きなのだが、取材に出る時は必ずパンになる。
ブン屋とサツの昼飯は、パンと牛乳というのが、外の世界では常識らしいのだ。
夏場の牛乳の携帯は文様に苦い思い出があるので、今はお茶に変更になったのだけれど。
食事はこれで御仕舞い。
会話しながら食せるとは、貴方の存在もいい暇つぶしになる
乾パン一枚で足りるのかって?
足りないよ。
これは、非常食みたいなものだからな。
本当は文様の近くで食事を取り、その時にパンを千切って分けてもらう。
それでも腹が心許ないならば、自力で餌を探せばよい。
野生は残っている。
風を探れば匂いが餌の在り処を教えてくれる。
我らは食うものを選ばないし、生ゴミや犬の死骸だって腹ペコならばご馳走に違いない。
必要に迫られないとそんな事はしないがな。
少しやってみせようか、今日は風が強すぎて多少集中しないと匂いが散って――
――血の匂い。
動物は辺りにいなかったはずだが。
これは、何の血だ。
ひょっとして通り魔が出現したか?
しかし、子供二人以外誰も近くにいなかったではないか。
……子供?
あっ!
くそっ! やられた!
血の匂いの方へ飛ぶぞ、飛んでる間貴方は目で犯人を捜してくれ。
転んでた子供の方が被害者で、もう一方のガキが犯人だ。
そうだ、化けてるんだよ!
やられたな。
これは深いぞ、稲藁が血を吸っている。
悪戯でしたでは済まされない程度の怪我だ。
場所は首筋か。
さっき転んだ時に狙われたな……こら、暴れるな。
あー、なんとかしてくれないか、こんなに暴れていてはますます血が流れる。
ああ、泣いた、泣かされた、私のせいみたいに見えるじゃないか。
それでも、暴れるよりは良いか。
そのまま泣きながら座っていろ。
此処から一番近い医者で半里程の距離、すぐに医者を手配しよう、もちろん我らでは無理な話だから、一度文様の下へ戻るのだ。
その間、この子が大人しくしているのを願って……どうした?
見えた?
何が? 犯人か?
でかした! 何処にいたのだ、まだいるのか!?
右手……林……本当だ。
馬鹿かあいつは、何の余裕のつもりだ。
飴を咥えて逃げもせぬか。
これで一つ解ったな、あいつは食料目当てじゃない。
どんな動機か知らんが、笑っているとは全く虫唾が走る。
さあ、手遅れにならないうちに戻ろう。
此処を離れるのに不安はあるが、その時間を短くする事が私達に出来る全てだ。
覚えたぞ、その匂い。
すぐに化けの皮を剥がしてやる。
――――――
……。
偉そうな人がぼやいている。
綺麗な髪の人が頭を下げている。
これは、私のせいなのだろうか。
雰囲気に押され、私もぺこぺこと頭を下げてみた。
慌てて、偉そうな人が椅子から立ち上がって「貴女のせいじゃありません」と慰めてくれた。
私のせいじゃないのに、どうして私はこんな所まで引っ張られてきたのか。
解らない。
探さなきゃ。
そうだ、探さなきゃ。
――――――
「傷の縫合は終わりました。失血の方は大事に至らなかったようです。抜糸まで一週間前後との事ですよ」
「有難うございます、助かりました、有難うございます!」
「いえいえ、私は飛んだだけですから。お礼なら医者の方と、ほら――」
……年を感じるよ。
いや、本当に疲れた。
長い間速度を出すのに、こういう翼は向いておらぬな。
助かったよ、貴方がいないと落ちていたかも知れぬ。
翼を懸命に動かしてくれただろう?
謙遜するな、朝よりずいぶん軽かったぞ。
お礼を言わせてくれ、有難う。
今日はこの為に貴方が私に宿ってくれたのかも知れないな。
「ああ、貴方が噂のカラスさんね!」
こらっ、勝手に触るな。
人間どもの手垢など欲しくない。
全く、どういうお礼の仕方だこれは。
「あ、あら? 私、何か悪い事したかしら?」
「そりゃあ、触ろうとすると逃げますよ。それに、枝に止まっていた方が鴉は落ち着くのでしょう」
人間は、何かと頭を下げる。
一時の感情で容易く下げないで欲しいよ、そんな気持ちはすぐに忘れるのだから。
我らは嫌われ者だ。
印象と言うのは根が深いもので、鴉は死を食らう凶兆の黒い鳥と、多くの人妖から疎まれておる。
私は死骸を餌にする事の、何が悪いとも思わんがね。
家畜、家禽、経済動物。
こんな言葉を作って、生きてるうちから実行してる人間の方が、よほど恐ろしい。
「ありがとうねー! 貴方のお陰で息子の命が救われたのよー!」
「そんなに大きな声出さなくても、ちゃんと聞こえてます」
「えーと、そうだ、何かお礼をしたいのだけど」
「あ、いや、気持ちだけで結構」
「本当に何かしてあげたいの。お願い」
「そうですねぇ、だったら、そら豆頂けます?」
「そら豆?」
「豆のスープでも作ってあげますよ……確か、好物だったから」
むぅ……。
ま、子を想う親の気持ちとやらは、解らんでもない。
良かろう。
今日だけは、好意的に受け取ってやろうか。
何を言う。
豆のスープに心惹かれたのとは違うぞ。
だから、にやにやしないでくれ。
文様の豆のスープはとても美味しいのだ。
飲めば解る納得の味だ。
……違うと言っているだろう。
――――――
私は良い主に出会えた。
寒い冬の中、このような絶品料理にありつけるのだから。
ふぅ……この贅沢な豆の喉越しがたまらん……。
どうだ、美味しいだろう?
底のスープだって全部飲むぞ。
残しておいたそら豆をだな、こうして底に付いたスープに絡めて食べれば、綺麗に食べ残しもなく――。
……見苦しいとか言うな。
「その茶碗であってましたよね? 美味しいですか?」
もちろんですとも文様。
ああ、自ら話しかけてくださるとは、嬉しいこともあるものだ。
本当に、今日は機嫌が良いらしい。
ちなみにこの白い茶碗は、私専用の食器なのだ。
年月が白に深みを与え、いい色になってるだろう?
違う、汚れではない。
「良かった。もう下げてもいい?」
あ、ですが、まだ底にほんの少し……。
いや、これ以上粘るのは流石にはしたないか。
諦めも肝心だ。
下げてもらうけれど、いいな?
ご馳走様でした、文様。
「下げますよ?」
そうだ、食事の後は忘れずに。
緑色の嘴など、格好がつかぬ。
綺麗好きなのだよ私は。
……普通に水道で洗うのだが?
蛇口? 勢い付けて足で押せば、簡単だろうあんなもの。
ほら、こうやって楽勝だな、おや? 楽勝だぞ? ちょっと待て。
この、どうした、んーっ! わわっ!?
あ、危ない、勢い余って流し台に落ちるところだった。
文様は、少しきつく締めすぎだ。
共同生活者の事も、考えて欲しい。
とにかく、水は出た。
洗おうか。
ふむ、すっきりしたな。
漆黒の身体に灰色の嘴という、この飾らないダンディズムが私の魅力だ。
いやいや、鴉は結構なお洒落好きだぞ。
私の妻などは、光り物を集めるのが大変好きでな。
山にある巣はいつもそれで溢れておる。
どうした、また、悩ましい顔だな。
昼の事件を気にしてるのか?
まあ、貴方には昼間からのんびりしてるようにしか見えなかっただろうけど、文様は待ってたのだ、夜の狩りの時間を。
窓から空を見上げてみろ、暗き森の明かりにするには今日の月は細すぎる。
こういう日は、我らが絶対的に有利だ。
後の予定は文様次第。
今日行くか、明日行くか、それとも行かないか、それは全てお任せだ。
ネタになるようなら飛ぶし、そうでなければ風呂に入って寝られるだろう。
お、文様が明かりを消し始めた。
どうやら、今夜出ると決められたようだな。
「ブン屋でなく、今日は射命丸として飛びましょうか」
妙に気合が入っておられるな。
興味深いネタであるのは確かだが、こういういざこざを記事にするのは難しいはず。
何か面白い見せ方を考えたのだろうか。
「さ、行きますよ。目指すはあの森です」
我らも暗い闇に身を躍らせよう。
晴れているのに、この闇の濃さはどうだ、外はまさに黒一色。
静寂に包まれた夜の空気が実に美味い。
「現地の森に鴉を集合させます。貴方も含め、軽はずみな行動は慎むように。それらしき人物を見つけたら、迷わず私を呼ぶこと!」
圧巻だぞ。
文様の号令一つで、闇よりも濃い千の翼が空に揃う。
黒い鴉が空を包む。
見上げて、思い知るだろう。
闇の中、何処にも逃げる場所なんて無い事を。
――――――
……。
私が、その豪華だけど陰気な部屋をうろうろとし始めると、綺麗な人に肩を押さえられて、元の椅子に座らせられた。
すみません、勝手失礼ですが、私は探し物があるのです。
もう一度椅子から立ち上がろうとしたら、今度は女の人に結構本気で押さえつけられた。
痛い、痛いですよ。
私が不満げな顔を見せていると、今度は偉そうな人が優しく語り掛けてきた。
しばらく座って待ってなさい、って。
「……小町にしては気の長い事を考えたものです」
「あ、あはは、そんなに睨まないでくださいよ」
「で?」
「は?」
「何時戻せるのか」
「いやぁ、ああもぴったりくっ付いちゃうとねぇ。うーん、少し時間を頂けると……」
「減給」
「すぐにでも、やらさせていただきます」
――――――
黒い森に無数の鴉が纏わり付く光景は、人間がみたら裸足で逃げ出すだろうよ。
妖怪も例外ではない、これだけ揃うと何だって怖い。
異常性の中から悪意を感じ取ってな。
この森にいる妖怪は、後ろに文様が控えている事もあって、安易に鴉に手は出してこない。
反撃してくるのは後が無い追われている奴だけだ。
それはそれで、見分けがついて助かる。
しかし、同胞に犯人の容姿を逐一説明するのは疲れるな……。
集まりが悪いぞお前達。
後から遅れて次々と飛んでくる駄目鴉は、一度文様に性根を叩き直してもらえ。
お前で、説明は最後か?
良し、では、我らも探そう。
手薄そうな所に紛れるとするか。
人間は冬の森を異常に恐れる。
奇妙にくねり足を奪う根と、幾重にも覆いかぶさる枝に、嫌な想像をしてしまうらしい。
夏でも同じなのに、冬になると恐れる。
わけのわからぬ生き物だ。
我らにしてみれば、冬は良い。
暑さに苦しまずに済むし、これだけ葉が落ちると、上空からの捜索がやりやすい。
半時もあれば、鼬の尻尾ぐらい見付かるだろう。
人里が近いせいか、この辺りは手薄になってるな。
もっとも、常識的に考えて妖怪が住処とするならば、森の奥を選ぶだろうが。
……おや?
おいおい、呆気ないな。
「探したよ、鴉さん」
隠れるどころか、向こうからのお出ましだ。
しかも、我らを指名のご様子。
有名人は大変だな。
「こっちに下りて来なよ。害は加えないから。まさか、あんたが天狗の遣いだったとはね。あぁ、しくじったな〜」
髪が短くて遠目には解らなかったが、こいつ、女か。
「自首をしに来たんだ、ブン屋の天狗に睨まれたら暮らしにくいったらありゃしない。妖怪からも人間からハブられちゃうもんね」
私は、気に入らんな、この笑顔。
何かを隠し持っている顔だ。
その女、腹に一物有りて、後ろ向けば刹那ばっさり、と。
「どうやら、言葉を理解出来ているか。さすがに射命丸が傍に置いているだけのことはある」
誉めるか馬鹿にするかどっちかにして欲しいものだ。
さぁて、どうするかね?
「あんたの主を呼んで来て欲しい。逃げる? あはは、逃げる奴が自首なんかするもんか。そうだな、だったら見張りを置いていきなよ。ほら、鴉達が集まって来たじゃないか。こいつらに見張らせとけばいい」
解らん。
解らんが、悩むまでも無く、呼んで来るしかないのだった。
言い付けがそうなのだから仕方ない。
とにかく、文様に来てさえいただければ、こいつがどんな策を弄してても無駄に終わる。
おい、お前たちは念の為退いておけ。
こいつが危害を加えないとは限らないからな。
急ごうか。
また貴方の力を借りるぞ。
……世話になるな、すまない。
――――――
「やあ、良く来てくれたね〜、射命丸」
本当に、逃げずもせず、ただ待っていただけとは。
ふん、文様に御仕置きされて泣きながら山に帰るといい。
「自首しに来たよ、煮るなり焼くなり好きにして。その代り酷い記事にするのは止めてくれよ。あんな新聞でも多少は影響力があってさ」
「これは、ずいぶんなご挨拶です」
どうした、文様に落ち着きがないな。
こんな格下相手に、緊張してるわけもなかろうが。
「貴女はカマイタチですか?」
「そうだよ」
「……種族が同じ、ご丁寧にも面影まである。それなのに年が離れすぎているのは何故?」
「は? 年?」
「本当に偶然なのですか」
「何言ってんだよ」
「失礼。自首なんて必要ありませんよ。限度を越えて裁くのも私ではありませんし、貴女の事を記事にするつもりもありません」
「おい、記事にしないだって?」
「自分から出した尻尾を掴んでも、つまらないですから」
ここまで追い詰めて、何もせず帰してしまうのか?
文様の考えにケチはつけたくないが、なんだかつまらない展開だな。
「何言ってんだ。じゃあ、何の為に鴉を集めて私を探したんだ?」
「鼬に化かされてるかどうかを確かめに来たのですよ。もう結構です。驚かせてごめんなさい。帰ってくれて構いません」
「おい……おいっ! 待てっ!」
「はい?」
「お前の都合で記事にされたりされなかったりだと困るんだよ!」
「貴女、言ってる事が最初と矛盾してますよ」
「お前の行動の方が、矛盾してる!」
妙な風模様になってきたなー。
知り合いでもないだろうに、ずいぶん突っ掛かってくるガキだ。
「どうして、そんなに記事にされたいのです?」
「カマイタチの怖さを、もう一度、皆に知ってもらう為だ」
「そんな事で、人間を殺しかけたのですか?」
「別にいいじゃない。そもそもあんたが悪い。あんたが中々動かないせいで、ちょっと派手になっちゃったのよ」
「私には、貴女が悪戯の線を踏み込えるのが怖くて、躊躇してたように見えます」
「五月蝿いな」
「そういった宣伝行為は文々。新聞では承っておりません。他をあたってください」
「……残念だよ。やっぱり、あんたは気まぐれで記事を作ってたんだ」
「個人で作ってますから。必然的にネタの取捨選択は私に委ねられますね」
「どうしても書かないっての?」
「書くつもりはありません」
怒った顔が茹蛸だなぁ、と思っていたら、今はすっかり冷め切ってしまって、むしろ白い。
あー、良くないぞ、こういう雰囲気は。
これは、追い込まれた連中がよく見せる、殺気だ。
「あんたの……新聞じゃないと……あんたが書き直さないと駄目なんだよ……!」
「……?」
「射命丸! 書きたくないってんなら書きたくなるような事件にしてやろうじゃないか!」
唸り声……。
風は凪いでいる。
獣でもない。
これは、空気の叫びだ。
「空のギロチンだよ。あんたなら見えるよね?」
おお、またずいぶんとでかい刃を作った。
鼬にしては頑張ってくれる。
「どう? 馬鹿どもを纏めて処刑するには丁度いい大きさでしょ?」
「私にこんなものが当たるとでも?」
「ばーか、あんたを狙うわけないじゃん。これだけたくさんいる人質が見えないのか?」
人質というよりは鴉質が正しいのかな。
……弱った事になった?
ふむ、まあ、文様に任せておけ。
「古傷を抉られるのは気持ち良くありませんね」
「ああん?」
「やはり偶然にしてはおかしい、前の事件と似すぎている。貴女は誰の命令で動いているのです?」
「何の話よ。私は私の意志で動いてるんだ」
「リスクと結果が釣り合わない。私如きの新聞で何が変わるというわけでもないでしょう?」
「……変わらないだって? 変わるさ。忘れたのか?」
「さぁ、私がカマイタチの事を記事に取り上げたのは一度しかありませんよ。些細な一行でしたし」
「なら、覚えているだろう?」
「ですから、貴女はあの事件と何の――」
「私はあんたに殺された、ろくでなしの娘だっ!」
殺された?
「貴女……いや、しかし、殺したとは尋常じゃない。そんな覚えはありませんよ。カマイタチが他の妖怪と乱戦中、通りがかった人の子供に誤射してそれを鴉が庇った、それを記事に起こしたのが私。それだけのはずですが」
「そうね。あんたの記事で社会的に殺されたってやつ?」
「言い掛かりです。真実を記事にしただけです」
「本当にあそこでみんな死ねば良かったんだ……子供も鴉も親父も」
「何を言い出すのですか?」
「庇った鴉は重体。子供は無傷。お前らの刃はカラス一匹も通さないのかだってさ。最悪にもその鴉は天狗の遣いで、天狗様の怒りに触れて新聞まで出されちまった。私達は赤恥を世間に大盤振る舞い。はは、普通の暮らしはもう無いね」
「妖怪の抗争に人間を巻き込まないという不文律を破ったのです。多少厳しい表現を使いましたが、怒りに任せて記事を書いたわけでは――」
「嘘付けっ! あの時の記事は残してあるんだ! 明らかにカマイタチを罵倒する文が入ってた!」
「………」
「何か言えよ!」
「その妖怪は、どうなったのですか?」
「ボロ雑巾だよ。生きて帰ってきたがご自慢の右腕は粉々だ。日がな一日布団の上で飯を食って寝て、そのうち右腕が腫れて死にやがった」
「ご家族は?」
「兄さんはどっか消えた。知らない。姉さんはプライドを捨てて里のいんちき霊媒者の式神になったとか。村にいるよりはましなんでしょ。あそこには罵声と虐めしか残ってない。だったら罵声があっても金があるほうがいいからね」
「今は、貴女一人?」
「動かなくなった父は全然怖くなくてさ〜。腹が立つから何度も寝ている枕を蹴ってやった、その度に呻くのよ。面白いじゃないの。あはっ」
解るか?
可哀想な奴だ。
作り笑いの下でボロボロと泣いている。
文様の声も半分は聞こえておらんだろう。
「一人で山を這い、木の根を食べ、泥水を啜り、生きて生きて生きて、あんたにカマイタチの記事を書かせる為にここまで来たんだ」
「……執念ですね」
「問答無用で書いてもらうよ。書かなきゃ大量の鴉が死ぬ。カラス一匹通さない刃かどうか、もう一度、その目で確かめてみなよ」
「見るまでもないでしょう。見たくもありませんし」
「それでも、実証だ」
「貴女だって本当は望んでいないでしょう。こんな歪んだやり方をどうして選んだのです?」
「どうして? あはは、こんな人生じゃ根性だってひん曲がるよ」
「そうじゃなくて、方法の話です。私に新聞を書かせるためだけならば、貴女は容赦なく切り殺せば良かった、人も鴉も私が来る前に」
「あたしは、あんたが悩む顔を見てみたかっただけ」
「それも違うはずです」
「お喋りはもういいよ。あーあ、惨めになる鬱になる。さっさと始めて終わらせよう」
「この位置で……ですか?」
ギロチンの唸りは、あいつの遥か真上だ。
あの刃は鴉を切ったくらいでは止まらぬ。
梢を裂いて、幹を裂いて、土に食い込み、最後にはあいつの胴を砕く。
これは、人質と一緒に死ぬ気らしい。
「同じ悪戯でも鼬と違い、神様の悪戯はずっとタチが悪いですね」
「……悪戯? 未だ超越者面を崩さないね。あんたにとってお供の鴉なんて何でもないって?」
「あの時、重体だった鴉がどうなったか知ってます?」
「知らないよ」
「死にました」
「そう、だから?」
「あの事件も、私の記事も、誰かを不幸にしか出来ませんでした。鴉もカマイタチも私も貴女も、こうして未だ爪痕が残ってしまった」
「まさか。自分も不幸です〜っ、て言い訳がしたいわけじゃないでしょ?」
「どうでしょう……」
「気味がいいね。せいぜい、もっと不幸になりな」
「久々に全力で走る事になりそうです……帽子を預けますよ。こっちへ来て。そう、ほらっ」
よっと、お得意のフライングキャッチだ。
「おい、勝手に動くな!」
「はい、続けて葉団扇」
続けてか、ちょっと文様咥えたままそれはきつ……よっ、はっ、良し。
見たかね、これがバランスというものだよ。
うむ、帽子の紐が嘴から零れそうだ。
ちょいと咥え直すから、そこの枝に急ぐぞ。
「……あんた、あたしが本気じゃないと思ってる?」
「いいえ、本気でしょう。ただ、待ってくれるだろうと思いましたから」
「待つだって?」
「ええ、私が全速力で走れるようになるのを」
「その下駄みたいな靴はいいのか?」
「あ、これも脱ぎましょうか」
「ふんっ、やれるだけやってみなよ。その方が胸がすくさ」
「……大丈夫。貴方達は何もせず見てなさい」
優しい事だ。
下手に動いても邪魔になるだけだから、甘えておこうか。
「離れておいてくださいね」
枝にしっかりとしがみ付いておけ。
強い風が来る。
「止められなかったら、あんたも死ぬよ?」
「止めるから問題ありません」
「あんたは、カマイタチの高速を知らない。あの天空のギロチンが地上に落ちるまでコンマ一秒とかからない」
「それだけあれば、十分。ご飯に味噌汁が付きます」
「……今から3カウント後には落とす。それとも、あんたが動いて落とすか、どっちか好きにしてよ」
「どっちも嫌かな」
「じゃあ三秒後に自動的にさよならだ……3!」
幻想郷にたった一人の風神少女。
誰もその速さを理解する事が出来ない。
「誰一人望まない結末なんて、もう、ごめんなのです」
「2!」
風のように速く、と人は言うがそれは違う。
「そんなに震えないで。上手くやるから」
「1!」
誰にも見えないので、風を速さの証にしただけ。
「さあ、走りましょうか……!」
「落ちろぉぉぉぉおー!!」
見えるのはほんの一瞬だ。
大地を蹴った足が、次に地に付くまでに、文様は音の壁を突き破る。
僅かに二歩目を蹴ったところで、文様の加速は宙で完成され、その瞬間少女は神となる。
最高の早さと、最高の速さ。
これが、神速。
そこから先は文様だけの世界だ。
残念ながら、我らにその一端を覗き見る事は許されていない。
赤い目が残していく残像と、狂える風の叫び声が、その道に風神が通った事を我らに教えてくれるだろう。
見よ。
あいつには、僅かに手を動かす時間も与えられぬ。
神速と高速では程遠いのだ。
全て風の前では塵に等しい。
舞い上がる木の葉は、地面に叩き付けられて尚、何が起こったか解らぬまま倒れていくしかない。
人が嵐を絵にする時、その荒ぶる風の頂点に風神が描かれる。
これを見れば、貴方もその気持ちが解ってもらえると思うがどうだろう?
さあ、これを返しに行こうか。
風を背に立つ神の肩へ。
――――――
梢から見上げる三日月はまだあんなに高い。
冬の夜は長いな。
こうやって揺られながら肩に乗っていると、なんだか眠くなりそうだよ。
「生きてますか?」
「無茶苦茶だ、普通ギロチンの方を止めるでしょ……」
「生きてますか」
「喋る死体はいないよ」
「立てます?」
「骨、折れた」
「そうですか」
「訊いただけかい」
こいつなりに限界を超えていた。
骨が折れるまでいったかどうか解らないが、しばらくは動けないだろうな。
「……これだけ差があると、悔しさも感じないわ」
「むしろ、ほっとしてません?」
「否定できないのが悔しいね。ああ、ちょいと頼みがあるんだけど」
「はい?」
「出来れば慈悲なんてかけずにさ、このまま殺してくれない?」
「それは予想してました」
「お願いできる?」
「別に構いませんよ」
「……そうか」
すまない。
私も少し疲れた。
貴方は動けるだろう、葉団扇を文様に返してやってくれないか。
「ありがと。気が利きますね」
「辞世の句が浮かばないよ。どうしよ」
「いりません」
「言い残す事もないんだけど……ああ、こんな死に方がお似合いなのかな〜」
「さぁ、覚悟はいいですか?」
「此処を終着点にするつもりだった。悔いは無いけど、出来れば痛くしないで」
「了解、風神一閃、ばっさりといきましょう」
「さようなら、射命丸。あんた意外といけてたよ」
「いざっ!」
「………」
「………」
「……何?」
「おっと、残念でしたね、今日は葉団扇の調子が悪いようです」
「……笑えない」
「仕方ないか、また今度会った時にでも考えましょう」
「きついよ。殺せよ」
「無理。諦めて下さい」
「これ以上惨めにさせないでよっ」
「野晒しの死体はずいぶんと惨めですよ。鴉に啄ばまれる死体ってのは間近で見られるものじゃないですし」
「嫌な脅し方。あんた性格悪いね」
「あはは……死ねない理由があって歩いてきたのでしょう?」
「もう、限界が見えたんだ。諦める」
「力のですか? それならばあれだけ出来れば、まだこれから――」
「私はカマイタチのくせに血が怖い。死がトラウマなんだ。あの、ろくでなしの言葉を思い出すから」
「……もしかして貴女は、親父さんの無念を晴らしたかったのでは?」
「冗談言うなよ。あいつは本当に只のろくでなしだ、子供がいても平気で部屋に女連れ込んできやがる。暴力的で感情的で目立ちたがり屋で、自分が中心じゃないとすぐに拗ねて後で誰かを殴る。毎日、毎日、酒を浴びる背中に、死ねばいいとずっと心の中で呪詛を吐き続けてたもの」
……どうだろうな。
いや、事実だろう。
きっと聞かせる相手がいなかったのだ。
もう少し語らせてやろうか。
「右腕が壊されてからは僅かな収入も無くなってさ。それなのに、文句と飯だけは一人前で、兄が畑に出ても、姉と一緒に近所の子守や炊事に走り回っても、全く金が追い付きやしない。やがて姉さん達が出て行ったから、もっと苦しくなった」
「それは大変です」
「ろくでなし。いよいよ気力が無くなったのか、文句も言わなくなった。だから蹴ってやった、このクズって、何度も何度も……!」
「………」
「なのに……謝りやがったんだ、最期の最期にさ、あたしの着物の袖掴んでさ……ちきしょお、言うなよなぁ……ちきしょう……! ずるいんだよ、汚れたまま死んでいけよっ……!」
最期の言葉というのは耳に残る。
親であれば尚更だ。
理解できないかも知れないが、好き、嫌いに関係なく、必ず残る。
こいつの言う通り、非常にずるいものだ。
言い返すことが出来ないだろう?
死者は静かに口を閉じていると思ったら大間違いで、生きていても死んでいても、やかましい奴はやかましい。
「ごめんなさい。それでも、私には貴女の事は書けません。今日は、どうしても他に書きたい記事があるのですよ」
「……もう書いてくれなんて、言わないよ」
「泣き顔に失礼かも知れませんが。今の貴女は鈴を張ったようないい眼をしています」
「……?」
「やり方を変えてみましょうよ。私も変えてみますから」
「何をさ?」
「真実を曲げなくて、重要な情報を伝えて、それで尚、暖かい記事が書けるなら、そっちの方が素敵な事だと思いませんか?」
「新聞の話?」
「昔、失敗しましてね。鴉が死んだ事も、そしてその記事も、苦しいほどに自分を押し殺したのに上手くいかなかった」
「天狗様のジャーナリズムなんて聞きたくないんだけど」
「私には書きたい事があるんです」
「書けば?」
「貴女もやりたい事があるならば。少し見方を変えてみたらどうです?」
「……」
うむ、文様はこれでお帰りらしい。
……放っておいて大丈夫かって?
あいつは、今まで、地獄を這い回って来たんだ。
これから、地獄が一つ二つあったところで、勝手に這い上がってくるさ。
願いは、そうだな。
いつか、きっと――。
「射命丸っ!」
「いいですよ。お別れの言葉なんて」
「背中で格好つけてるところ悪い、一ついいかな?」
「はい?」
「あんた、あそこに靴忘れたままよ」
「ああっ!?」
――――――
淡い明かりの下で、文様の伸びた影が揺れるのを見てると、懐かしい気分になる。
幾つになっても何度見ても、この懐かしさは消えてくれない。
文様がペンを取った時期も、こんな辺境くんだりで一人で暮らしている理由も知らないが、私が此処に来たときの晩も、文様は鬼気迫る顔でペンを走らせていた。
数ある文様の表情の中でも、私は、この真剣な表情が一番好きだ。
まあ、貴方は横顔を見てるだけでは暇だろう。
何か話でもしようか?
例えば……あいつの事、カマイタチの父親の不幸の事。
妖怪にもな、人間と同じで感情がある。
妬みや、恨みも、もちろんある。
そんなわけで、誰かにとって邪魔な存在もいる。
邪魔だという感情がたくさん集まってくると、じわじわと社会は動き出し、邪魔者を排除する方向へと向う。
恐らく材料は何でも良かったのだろう。
たまたま、文様の新聞が出て、それを理由にあいつの親を叩いた。
そう、元からほっといても叩かれたのよ。
子供はそんな事は解らないものだから、目に見える悪を信じる。
天狗の新聞のせいで、皆が変わったんだと恨みを抱く。
成長していくにつれて、他人の裏側が見えてくるようになって、その時に気が付いてしまう。
迷って、迷って、たぶん一度は復讐を諦めた。
諦めたのに、父の最期の言葉が耳から離れない。
そうなると、動かずにはいられなかった。
文様も迷った。
記事の内容は抑えたつもりなのに、この反応はどうした事か。
自分の書きたい事も書けなかったのに、どうしてこうなってしまったのだと。
悩んで、悩んで、一度は新聞から離れたのかも知れない。
だけど書きたくて仕方ない。
ネタを聞けば、腕が疼く。
……ん、しまった、話が膨らみすぎた。
私は、喋り出すと止まらない癖がある。
ちょっと長くなりそうだなぁ。
どうする?
まだ、聞いてくれるか?
文様の席を立つ回数が増えてきたな。
あれは手に付いたインクを落とすのではなくて、眠気覚ましの為に手を洗っているんだ。
もう、眠いのだろう。
背中にかける毛布の準備をしておこう。
どれ、うーむ、新聞はまだ、時間かかりそうだな。
仮眠を取って、また書き始めるつもりかな。
文様が机に突っ伏して寝るまで、もう少し。
その間、話を続けさせてもらえないか?
偶然か計画通りか……。
果たして、そんな二人が今日出会ってしまった。
少女が直接的な復讐に走れなかったのは、心に矛盾を内包していたから。
文様がこの出会いに懐疑的だったのは、偶然が重なりすぎたから。
もっと素直に出会えたら、言い合いにも一騒動にも発展しなかったかも知れない。
ただ、これが結果的に良かった。
大切な人を亡くしたのは、お互いだったから、最悪の結末を避けられた。
望まない死は今回は無く、皆の思いだけが少しほぐれた。
十年越しに一つ決着がついて、次の決着をつける為に、今、文様のペンが走っている。
「んぅ……少し……寝まふ……おやす……」
お喋りはここまでか。
さ、毛布をかけてあげよう。
……寝顔は子供みたいだろう?
ナイショだが、頬っぺたをな、こっそり嘴で突付いてみた事が何度かある。
あー、この進み具合だと、新聞作成は夜通しになるか。
私も、疲れた。
今日は良く飛んだよ。
眠いなぁ、少し寝てもいいだろうか?
明日はな、早くから遠くへ飛ばなければならない。
ああ、仕事じゃないぞ、前もって休みを取ってあるのだ。
所謂家族サービス……と言うのには少し抵抗があるのだが、実は巣に卵があってな。
なのに私ときたら、妻には顔を見せるくらいで、ろくな手伝いもしてやれなかった。
いいよ、いいよ、と言うものだから、ついつい私も甘えてしまった。
明日は一日、一緒にいてやろうと。
そう、決めた。
そろそろ、お別れかな。
頭が下がってきた。
駄目だ、もう、とても眠い。
今日はいい日だった。
大きな願い事が二つも叶った。
ありがとう。
お前と話せて、本当に良かった。
最期まで素直になれなくてすまない。
後一つの願い事は、もう一度向こうをよく探してくるよ。
私は私の決着をつけないとな……。
――――――
二つの声が遠くに響く。
意識の向こうで、流れ続ける。
『私は善行など積んでいない! とっとと畜生道へ落とせ!』
それは私が見た夢か、あの人が見せてくれた記憶か。
頭の中で、困り顔の閻魔と、一歩も引かない鴉とが、上と下に分かれて延々と話をしていた。
それでは裁けません。
だったら裁くな、ここであいつを待つ。
そういうわけには……。
じゃあ畜生道でいいじゃないか。
貴方の善行度はこうなっておりまして。
どうして人間が上に来るのだ?
人間の概念から生まれた決まり事ですから。
鴉を裁く時は鴉の概念から鴉を上にしてくれ。
そんな簡単な問題ではないのですよ。
なにを私だって簡単な問題ではないのだ。
はぁ、弱りましたね、小町、小町。
……その声を最後に世界が終わり、私は光の中を急浮上していく。
なるほど、死んでいてもやかましい人はやかましいのだなと、納得しながら。
身体には完全な自由が戻っていて、頭の中に呼びかけても、期待する声は返ってこなかった。
陽光が窓の隙間から、私の黒い羽を光らせている。
朝か。
長い間、眠っていたらしい。
窓の方を見ると、射命丸様が唇の上にペンを乗せて、原稿を睨んでいた。
今、この段階だと言う事は、とても朝刊には間に合いそうもない。
起きました、と言う事を啼いて伝える。
おはよう、という声が返ってくる。
ついでに、私はもう一度だけ頭の中に呼びかけてみたが、やはり声はなかった。
代わりに、ペンが紙を打つ音が耳に聞こえてきた。
「よーし、出来た!」
朝日に新聞を透かして、射命丸様が叫んだ。
隙間無く並ぶ文字は、細い血管のようにも見える。
紙に命を吹き込むのだ、といつか射命丸様が仰っていたのを、今は何となく理解している。
射命丸様が私の方へ、ついと新聞を向けた。
その見出しを見て、私は嬉しそうに啼いて見せた。
『お手柄! 鴉の人命救助!』
私の父は英雄だった。
私達だけの英雄だった。
あの事件で、残された母には同情の声が集まったが、しかし、身を挺して人の命を救った父に対しては世間は冷たかった。
何故、人なんか庇って死んだのかと。
天狗の命令だったのかも知れん。
後先考えず飛び出しただけじゃないのか。
全く、家族の事も考えればいいのに。
産まれたばかりの私にも、そういう噂を耳にする機会が何度もあった。
その噂も、年月が経つにつれ、何事もなかったように消えた。
残されたのは、父がいない家族、母と私と弟達。
母は寝る前に、私たちを集めて一つの話をしてくれた。
母が語る父の雄姿は、どんな御伽噺の英雄より輝いていた。
私も含め、子供達は皆、夢中になって聞いた。
夢中になる年も、やがて過ぎていった。
それでも、私一人が聞いていた。
何時しか私達の英雄は、私だけの英雄になってしまった。
父の事で虐められたこともある。
私がムキになって反論するのが、どうも楽しいらしい。
弟の中でも出来のいい奴は、曖昧な笑顔で世間に合わせていた。
私はそれが気に食わなくて、毎日仲良く喧嘩した。
「さぁてと、まだまだやる事はありますからね。先にご飯を食べて、元気を出しましょうか」
そう言って射命丸様は、棚から端の欠けた白い茶碗を手にとって、すぐに照れたように笑い、それを静かに奥に戻した。
翼が折れた鴉は、歩いて巣を目指した。
歩いて歩いて、胴に土が付いて、それでも首だけ上げて、遠く山を見ていた。
いよいよ死の間際になって、山に向かい、高く短く三度啼いた。
『……なかなか目を瞑ってくれなくて、困りましたよ』射命丸様は頬をかきながら、こんな話を私に語ってくれた。
私は思う。
父は家庭を顧みなかったわけではない。
父は母を愛していたし、産まれて来るだろう私達も愛していた。
私はそれについて、絶対の確信を持っている。
その思いの強さは、母のそれと同じくらいだろう。
私達は聞いたんだ。
あの日、遠く森の向こうから、声がしたのを。
私は硬い殻の下で、その啼き声を確かに耳にした。
その声は、母と私達の名を呼んでいた。
――――――
少し斜めに傾いて、気だるそうに歩いてくるその姿を見て、私は声を張り上げた。
「なんだ、お前、こんな所にいたのか」
家に帰って来た時のような、ぶっきらぼうな言葉使いが、嬉しくて仕方が無い。
待たせてしまったわね、と羽を振って呼ぶと、ずいぶん待ったぞ、と大きく羽が振られた。
二人揃って、前を向き、ゆっくりと歩き出す。
疲れた顔の閻魔は溜め息をしながら、カンカンと槌を鳴らして、奥の門を開いた。
通りすがり、死神の顔を覗き込むと、彼女は閻魔に深々と頭を下げながらも、しかし満更でも無さそうな顔を私達に見せた。
「息子に会ってきたよ」
「どうでした?」
「私に似て、いい男だった」
■作者からのメッセージ
えー、射命丸のSSを書こうとしたらカラスになっていた。
カラスは大変賢くて、また子煩悩なようです。
田舎のカラスは量がほどほどで、かっこよい鳥なのですが、都会では嫌われてますね。
生き物同士、折り合いが難しいです。
長々とお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
では、またー。
2/9
ご指摘のありました誤字を修正いたしました。助かります。ありがとうございましたー。
2/20
またまた誤字を修正いたしました、ご指摘ありがとうございますー。
SS
Index
2006年2月20日 はむすた