二束三文四季折々
夜の帳が降りて数刻、森の隙間を音も無く歩く影がある。
九つの尾と二つの耳を夜風になびかせながら流麗に歩く女は、知る人ぞ知る式神であった。だが額に貼り紙がしてある訳でも無し、傍目からすればただの妖怪にしか見えない。
紫の和服の裾が土に付かぬよう、足元を気にしながら女は夜道をひた歩く。
左右に広がる鬱蒼とした森からは、特有の瘴気が溢れ出ている。ふん、と狐らしく鼻を鳴らし、軽く一瞥した後にまたてくてくと歩みを戻す。犬の遠吠えに用は無い。仕事を終えれば早々に踵を返すのが式神の本分だ。格の高い妖怪が出たとて、遠くからきゃんきゃん咆えているだけの臆病者に歯牙を掛ける暇は無い。
耳が声のする方に跳ねるも、そちらには女の血を奮わせる獣はいない。竹籠にしまった油揚げの位置を確かめて、狐はぼそりと呟く。
「脆弱ねえ」
対等に張り合えるものが、この森にどれほど根付いていようか。
今は式として主に仕えている以上、興味本位で戦闘に走ることは稀だ。元より身体が戦いたがる相手も少ない。悲しいかな、敵はいない。
「行こう」
耳の先に触れ、止めた足を動かし始める。道は遠い。主が楚々として式の帰りを待ち望んでいる、という光景に出会ったことは未だ無いけれど、それでも早く帰らなければ籠にしまった油揚げが傷む。と。
「……ん」
三度、足を止める。
おぉんと啼く獣の笑い声が、不快な響きをもって耳朶に届く。あれは、怪我をした獲物を偶々発見した獣の笑いだ。得たり、と啼いているのだ、己が如何に疚しい真似をしているとも知らず。
狐は、耳たぶを摘まむ。埋め込んだ勾玉の手触りが指先に心地よく、萎れた心を難なく癒してくれる。声は森の奥深く、崖の麓から聞こえた。冷ややかな風が吹き、また獣が啼いた。低い遠吠えに、顔をしかめる。
「病める敵を前に意地汚く嗤う輩が、私と踊れるのかしら」
不安で、億劫だった。
狐は人知れず嘆息し、夜の森に踏み入る。風を切り、夜を走る狐の影は妖ですらその軌跡を読むことすら叶わず、すれ違ったものはみなぽかんと口を開け、口のないものはゆらゆらと身体をくねらせるのみだった。
生い茂る木々の隙間を駆け抜け、数秒の後、狐は標的に辿り着いた。
暗闇に縁取られた山間の開けた場所に、四肢が膨張し、関節の節だった狼がいる。獰猛な獣が見下ろすのは、先ごろ狐が油揚げを受け取った相手とほぼ同じ、あるいは幾らか小柄な人間だった。
「……ほう」
珍しい。狐は感心した。
人が里を出、夜の森に這い寄ることは純粋な死を意味する。食われ、取り込まれ、消え去るのが道理だ。だが獲物にされた小さな人間は、泣かず、怯まず、凛とした眼差しで狼を睨んでいる。その虚勢を睥睨し、狼は嗤う。
虫唾が走る。
大樹にもたれていた狐は、金縁の眼に薄く指を晒す。森が揺れる。風が戦慄く。
「ねえ」
狐は、更地に足を踏み入れた。狼と、稚児の瞳が一心に注がれる。
「腐れ、とは言わない。去れ」
ひッ、と人の子がようやく悲鳴を上げた。狐は金の眼を狼に向ける。
腰を抜かしているのか、稚児が遁走する様子は無い。厄介な荷を背負ったものだ、と愚痴る暇もあればこそ、狐は歩み寄る狼の身体に神経を割く。興味は完全にこちらに移った。さて、食われるか、犯されるか、哀れ人の形をした狐は獣の血となり肉となる、か。
ほくそ笑む。
「上等だよ、餓鬼」
九の尻尾が、一斉にざわめく。額にかざした手のひらの隙間から、邪悪に歪んだ狐の柳眉が垣間見えた。
おぉぉ、と狼が戦いの火蓋を切る。竹籠は既に木の枝に掛け、怯えている稚児は放っておいても構うまい。なぁに、事は一瞬で済む。狼に気取られるより早く済ませることも出来たが、一応、恩を売っておいて損は無い。
剥き出しの地面に狼の足が突き刺さり、土を盛大に跳ね上げながら突貫する。狐は一歩も動かない。眼前には顎を開いた狼が迫り、これは食いに来ているなとすぐに解った。だが口を先に出すのは駄目だ、脚なら、切り取られたところでいつか生えるかも知れないのに。
狐は笑い、手の甲で狼の鼻を殴った。
――ぱぁん。
弾ける。
鈍く、腐った果実が踏み潰された音がする。直線に動いていた狼が、直角に吹き飛ばされた。
それは、これ以上ないくらいの、暴力だった。
「なんだ、脆いなあ」
呟けば、狼が大樹にぶち当たり、大樹もろとも地面に倒れ伏した。呆気無い。軽く握った手には赤みも差していない。ふん、と鼻を鳴らし、狐は枝に引っ掛けた籠を持ち直した。
とどめを刺すか、と土煙が昇った方角に目を向けると、女の子がこちらを凝視していることに気付く。目が合い、お互いにきょとんとした顔を見せ合ったまま無為に時は流れ、先に狐が折れた。稚児のつぶらな瞳を居丈高に見据え、声を低く殺す。
「懐くなよ。後が困る」
言い放ち、狼の行方を見定める。薄闇に舞った煙の向こうに、遠吠えを撒き散らしながら疾駆する影が映る。逃したか、と狐は歯噛みし、踵を返す。
手負いの獣は闇雲に暴れたがる。だから奴が里に向かったのなら、人間たちは獣の鬱憤晴らしに虐殺されるかもしれない。禍根を断つために、確実に殺すことが必要だった。けれども、成せないのなら無理はすまい。狼は山に逃げた。確証は無くとも、狐にはそう見えた。
ぺたぺたと草履を打ち鳴らしながら、狐は道に戻る。距離はあるが、飛ぶのも億劫だ。中途半端に火照った身体を、冷たい夜風に溶かすも良し。夜に鳴く妖の声に耳が動き、それをいちいち触りながら歩く。
「……」
ぺたぺた、ぺたぺた。
「……」
てくてく、てくてく。
「……」
ぺた。
「なあ」
とて。
足音が消える。風は凪ぎ、狐の心は幾分か波打っていた。
「帰れよ。邪魔だ」
格の高い妖には、妖が引き寄せられる。九尾の狐ともなれば格も力も申し分無いが故に、昔は夜討ち朝駆け日常茶飯事だった。今はさほどでも無いが、油断は出来ない。
素っ気なく言い放つも、子どもは全く揺るがない。狐の太股までしかない背丈を懸命に反らし、鬱陶しげに睥睨する狐の顔を眺めていた。
「家は」
「あっち」
指を差す。その方角には確かに人間の里があるけれど、あまりに範囲が広すぎる。子が森を一人で歩けば、夜だの妖だの関係無しに怪我をする。
狐は、人間ぽく眉間に皺を寄せた。
はて、己は人の身の上を案じるほど高尚な生き物だったかと。式にもなれば心変わりもしようと言うものだが、それにしても。
「森に用があったのかい」
首を振る。くい、と着物の裾を引く様がいじましい。が、面倒だ。
「死に花を咲かすには早い、か。それとも、親を探しに来たか?」
試すように問い、答えを待つ。俯きがちに構えていた稚児が顔を上げると、必死に悲しみを堪える健気な相貌があった。ほう、と感心する。
「お母様が、いなくなったの」
小さな背で妖を見上げ、人を捜している、何処にいるか知らないか、と訊く。見上げた度胸だ。
だが、些か若い。
「悪い。意地悪をするつもりは無いが、知らないものは知らないとしか言えないわ」
正直に答え、俯く子どもの暗い顔に罪悪感を抱く。嘘は嫌いだが、貴様の魂と引き換えに母親に会わせてやろう、などという性質の悪い冗句のひとつでも言えばよかったのか。何にしろ、似合わない真似を一時の戯れに披露することもない。
腕を組み、少女の出方を見る。気付かぬ間に、妖である自分が小さな人間に興味を引かれていると知る。だから。
「連れて行ってください」
どきりとした。心を読まれたかと身を奮わせた。だが、童女が続けた言葉は、少々突飛ながらも狐が予想していた懇願だった。
「掃除も、洗濯も、何でもします。私を、狐さんの家に連れて行ってくださいませんか」
「……その意味かよ」
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