明治十七年の。
気が付けば、もうそんな年になっていた。明治十七年。
その年の春の一日、阿弥は書屋と連なる縁側に腰掛けて、ぼんやりと中庭を眺めていた。
そのつま先は地面まで届かず、宙でぶらぶらと揺れている。童女かと錯覚するほど小柄な姿であるが、彼女が稗田阿弥として生を受けたのは元号が改まる前後のことなので、こう見えてそろそろいい歳になっているのであった。いろいろな意味で。
稗田家の広い庭には様々な樹花が並び、その中央には一本の古い桜が植えられている。麗らかな春空の下、その枝で膨らみつつある蕾のあたりに、彼女の視線は投げかけられていた。その眼は時折、桜の樹よりももっと遠いどこかへと焦点を移しているようでもあった。
ふと、その視界の端を何か白いものがよぎったかと思うと、
「もう一週間もすれば見ごろになりましょうか」
脇から声がかけられた。
ゆっくりとそちらへ焦点を合わせた阿弥の目は、庭師の青年の姿を捉えた。長身を書生さんみたいな衣服に包み、竹箒を手にしている。腰帯には手拭いを挟み、地面すれすれまで垂れたその先端に、どこからか入ってきたらしい白猫がじゃれついていた。
「ヒコさん」
と、稗田家の人間は彼のことを呼ぶ。
「お掃除ですか」
「や、阿弥様のお邪魔をするつもりはございませぬ。どうぞごゆるりと日向ぼっこをお続けくだされ」
いささか古めかしい口調を操るが、歳は阿弥と十も違わない。肌はよく日に焼け、細いががっちりとした体つきをしている。庭師というよりも、古風な武士を思わせる風貌だった。
いやこっちこそ掃除の邪魔をする気はないと、そう返しかけて、だが阿弥は思い直した。
「うん……ありがとう。ヒコさんも良かったら、どうぞ」
自分の座る隣を示すと、はじめヒコさんはかぶりを振ったが、何度も勧められてとうとう遠慮がちに腰を下ろした。逆の側には白猫が飛び乗ってきて、阿弥の腿に擦り寄るようにして身を丸める。
膝の間に立てた箒の柄先に掌を重ね、ヒコさんは自らの手入れしている庭ではなく、阿弥の横顔へと目を向けていた。顔に何か付いているのだろうか、朝食のご飯粒だろうかと阿弥がどぎまぎしていると、ヒコさんは軽く首を傾げた。
「や、まだお疲れのようで。やはり長い間、根を詰めておいででしたから」
そして阿弥の膝へと視線を移す。阿弥もつられるようにして目を落とした。
膝の上には、一冊の厚い書物。
幻想郷縁起である。
先の冬に完成させたばかりのものだ。その旨を報知するや否や各所から待ちわびていたかのように祝辞が殺到したのを、阿弥は昨日のことのように覚えている。雪深い時期だったにも関わらず、足を運んで直にお祝いの言葉を贈ってくれた人も少なからずいた。
実際、彼らは待ちわびていたのだろう。過去、御阿礼の子が幻想郷縁起編纂に要した時間は、代を重ねるごとに短くなっていた。先代、先々代などは、齢十四を数える前にそれぞれの分を綴り終えていたという。となれば、次はいよいよ十二歳のうちにか? いやいや十一歳いっちゃうかもよ? といった期待が自然と生まれるわけである。
ところが今代ときたら大方の予想を裏切って、手際が悪かった。気が付けば一代目阿一とどちらが遅いか競うほどまでに、完成を遅らせていたのである。
阿弥が生まれたときから既に新縁起の完成時期を予測し、それに関わる行事などを企画していた者たちからすれば、この数年は、ひどく悶々としたものだったろう。
なぜこうも遅れたのか、そんな疑問と言うより不満にも近い声に対して、阿弥は主に体力的な理由を挙げた。小柄な阿弥の体は、見た目以上に脆弱な作りをしているのである。だから、いくら過去の作業で培ってきた編集技術があっても、体がそれを十全に使いこなせなかったのだ――そう説明すると、みんな納得いったのか、それ以来この件に関して何かを言われることはなくなった。
代わりに、ちょっとしたことで体調を気遣われるようになってしまったのだが。
「ううん、大丈夫だから」
しかし、この時の阿弥の口調は活力に欠けたものだった。ヒコさんが眉を寄せてさらに何か言いかけたとき、板張りの廊下を静かに擦る足音が聞こえてきた。侍女がひとり、近付いてくる。
「阿弥様、よろしいでしょうか」
よろしいともよろしくないとも答える前に、侍女は阿弥とヒコさんとの間に割り込むように座り、両手に抱えていた何やら重たそうな荷物を膝に乗せた。石を抱かせる拷問を、ちょっと髣髴とさせる格好だった。
彼女は若く見えるが、稗田家に仕える侍女の中では古参のひとりだ。それ故にか押しの強い性格をしており、阿弥からすると頼もしいのと同時、ちょっと手を焼く存在でもあった。
「ミツさん」
と、こちらはこう呼ばれている。
「お昼の時間ですか」
「さきほど朝を済ませたばかりじゃないですか」
にっこりと、ミツさんは微笑みながら、お尻でぐいぐいとヒコさんのことを押しのけ続けている。とうとうヒコさんは縁側から追いやられ、首をしきりに傾げながら、庭の奥へと戻っていった。
その背中を見送る阿弥に、ミツさんが慇懃に告げる。
「改めまして、今代幻想郷縁起の御完成、おめでとうございます。お疲れ様でした」
「あ、うん」
本当に、いまさら改まって言われることでもなかった。嫌な予感がした。
横合いから射す陽光の中、ミツさんのにこやかな相好が浮かんでいる。
「ああ、それにいたしましても」
ミツさんはどこか芝居がかった動作で、おもむろに中庭を向いた。春色の光景の真ん中、ざっざか竹箒で掃き清めはじめた庭師の姿を認めると、いきなり眉をひそめ、まだそんなところにいたのか目障りださっさと視界から消えろと、目つきで訴える。その形相に恐れをなしたか、ヒコさんは急いで舞台袖へと下がった。
後にはただ、南風のゆるやかに吹く、色づいた庭園の景観だけが残る。
「……めっきり、春らしくなってまいりましたね」
何事も無かったかのように、ミツさんは阿弥へ向き直った。
「春といえば出会いの季節でございます」
どすんと重い音を立てて、縁側に大きな荷物が置かれた。黒くて四角い塊を、阿弥ははじめ重箱かと思って、これは幻想郷縁起完成の労いにご馳走でも用意してくれたのかと喜びかけたのだが、そうではなかった。
黒くて四角い塊は、黒くて四角くて薄い物をたくさん重ねたものだったのだ。
「つきましては。阿弥様にも善き巡り会わせがございますればと、僭越ながら用意させていただきました」
見合い相手を山のように、と――それは釣書の束だった。
来た、と阿弥は胸中で呻いた。
阿弥は、幸か不幸か一人っ子である。これがどういうことかと言えば、阿弥が子孫を残さずにおっ死ねば、そこで稗田の家系は絶えてしまうというわけである。
いや稗田の家名そのものは親戚、類縁に継がせればよいが、問題は御阿礼の子の魂の継承だ。御阿礼の子として転生するには、当代の直系を残さねばならない。阿弥から真っ直ぐに伸びる血筋の肉体でなければ、この魂を容れられない。
だから子を生すというのは、転生の術の準備とは別に済ませておかねばならない、大事な仕事なのだった。
さて、子を作るとなれば相手がいる。普通に考えれば結婚相手である。幻想郷の名家たる稗田家に迎え入れるのだから、これがどこの馬の骨とも知れぬ者では、ちょっと困る。少なくとも、阿弥の周りはそう考えている。
まして阿弥は稗田家現当主であった。世間的に恥ずかしくない相手と、恥ずかしくない結婚をしなければならない、宿命のようなものに縛られている。もし兄弟がいればそちらに家督を譲って、そうすればある程度は結婚相手の選出にも融通が生まれたかもしれないが、生憎と一人っ子なのであった。
だが兄弟がいたならいたで、特別な存在である御阿礼の子と、そうでない凡庸の子、その間で軋轢が生まれていたかもしれないが。だから、どちらが良かったというものでもない。こういうのはなるようにしかならないのだ。
御阿礼だのなんだの言っても、所詮はその程度。ままならぬことは山ほど、人並みにあるのだった。
「さあ、まずはいきなり本命からいっちゃいましょうか? こちらはご存知、庄屋の次男、喜三郎様です」
ミツさんはさっそく、釣書の山からひとつを手に取って、阿弥の前に広げていた。その手つき口ぶり目の輝きはたいそう活き活きとしていて、まるでこのためにこれまで生きてきたとでも言うかのようだった。
「次男だったのね、三郎なのに……」
庄屋の次男とやらの名と顔は知っていたが、ろくにしゃべったこともない。そんな人物の身上やら家族構成やら家系図やらがいっぺんに眼前へと押し迫ってきて、阿弥は息詰まるものを覚えた。重圧を押しのけようとするかのように、懸命に声を発する。
「その、まだ私には早いんじゃないかしら」
編纂が終わった以上、いつかは直面せざるを得ない事情だと覚悟はしていたが、それにしたってこうもすぐでは。心の準備も何も出来ていないのに。
しかしミツさんは強く、きっぱりと首を横に振るのである。
「何をおっしゃいますか、阿弥様のお年ならば全くそのようなことなど。まして稗田の当主ともなれば、むしろ遅いくらいです。それに阿弥様のおからだ……」
勢いよくまくしたてていたその口が、不意に強ばる。凍りついた笑みの端に、悔悟の色がにじんでいた。
御阿礼の子の短命について口にしようとしたのだろう。途中で言いさしたのは、阿弥に気遣ってというよりも、ミツさん自身がその事実に苦しんでいるためだろうと思えた。阿弥にはとっくのとう、魂の段階で覚悟ができていることだが、周りにはそう簡単に割り切れるものでもないらしい。
それだけ私のことを好いてくれているのだろうか。自惚れた考えが浮かんで、阿弥は頬を緩める。それから沈みかけている空気を覆そうと、冗談っぽく言った。
「でも結婚って、それを言うなら。私よりもミツさんの方が先じゃないの」
それこそ失言というものであった。
瞬間、ミツさんの笑みが変化した。眉の角度や目尻がほんのわずか鋭くなり、たったそれだけのことで随分と印象が異なるものである。
具体的には、阿弥に戦慄を引き起こさせる笑みだった。気温が春先とは思えないくらい急低下して感じられ、背筋から腿のあたりにかけて震えが走った。あ、猫がいない。
「あ、いや、ミツさん綺麗だし、なんで浮いた話のひとつもないのかしらって」
慌てて取り繕おうとした言葉は、追い討ちというか止めであった。ミツさんの笑みが鬼女の浮かべるそれへと変化しかけ、しかし一転、急激に沈んだ表情を彼女はさらした。うなだれ、ぶつぶつとひとりごちはじめる。
「ええそうですよね。私より若い子がどんどん嫁いでしまっているのにどうして私はいつまでもひとり褥の寒さに震えてなければいけないのでしょうああ全く春なのに心には隙間風が」
「ああ、あの、ごめんねミツさん。大丈夫よ、だってほら、春だし」
上手い言葉は出てこず、代わりに嫌な汗ばかりが出てくる。いち早く空気を察して逃げ出した猫を追って、阿弥もこの場を去りたかった。上手くミツさんをなだめることができたとして、そしたらまた見合いの話に戻るだけだし。
「あっ、私、用事を思い出したので。ちょっと出かけてきますね」
ぽんと手を打つと、幻想郷縁起を脇に抱えて立ち上がる。痺れかけていた足を、つんのめりそうになりながらも出来る限り急がせた。
そうしながら中庭のどこかにいるはずの庭師へ声をかける。
「ヒコさん、外へ出ますよ」
里の、外へ。
「え、はっ」
「お待ちください阿弥様、まだ話は終わっていませんよ!」
ふたつの声を背中で受け止めながら、阿弥は懸命に足を動かす。
何もあの重苦しい空気から逃げ出したいばかりがため、口から出任せで「出かける」と言ったのではない。それなら里の外へまで足を向ける必要はないのだから。
ミツさんと連呼しあった「春」という語で思い出したのである。春といえば、そう、目覚めの季節でもあった。啓蟄も過ぎてしばらく、眠りから醒めた生命たちの息遣いを、そこかしこで感じることができていた。
ならば、あの妖怪の賢者もそろそろ目覚めているはずだ。八雲紫、実に妖怪らしい大妖怪にして、おそらくは幻想郷一の智慧者。
彼女に目を通してもらって、はじめて幻想郷縁起は完成を謳えるのだった。何代も前からの、そういう約定なのである。
完成してすぐに持っていければ良かったのだが、八雲紫は冬眠の慣習を持つのだそうだ。本人の談だから真実かどうかは怪しいところだが、嘘だとするなら、これは冬には訪ねてくるなという遠回しな忠告なのかもしれない。本当に寝ているのだとしたら、それはそれで無理に起こすのも怖いし。
もういい頃合だろうと、肌に触れる陽気を感じて、阿弥は判断した。縁起を見てもらって、ついでに相談にも乗ってもらおう。
麗らかな蒼穹の下、里の正門から森へと掛かる道を、阿弥はのんびりした歩調で進んでいる。狭い歩幅でちょこちょこと進む様子は、やっぱり童女のようでもある。
その脇で、ヒコさんが対照的にのっそりと歩を進めている。出立の慌しさを物語るかのように、竹箒をそのまま持ってきてしまっていた。箒は左肩に担ぐ形で、右手には唐草模様の風呂敷包みを抱いている。
ヒコさんは里の男子の中でも有数の大柄な体をしていて、なので一歩一歩も大きい。それでも慣れたものなのか、阿弥のかたつむりみたいに遅い歩に、うまく調子を合わせていた。
ちょこちょこのっそり、ふたりは他に人気のない静かな街道を行く。道を挟んで立ち並ぶ樹林から聞こえてくるのは、鳥のさえずりばかりだ。
遠い過去には、こうして里の外へ出たならば、常に妖怪の息遣いに耳をそばだてていなければならなかったものだ。昼間でさえ妖怪の脅威にさらされていた、人間にとって暗黒の時代。当時の情景をはっきりと記憶しているわけではないが、転生を繰り返してきた阿弥の魂には、その恐怖が刷り込まれている。
それに比して、今の世のなんと平和なことか――鳥たちの長閑な声が響く空を見上げ、阿弥は思う。
妖怪たちが往時の力を失って久しい。現在では昼日中に活動することなどほとんどなくなり、夜ですら多くの者が自分の縄張り周辺をうろつくだけという、そんな体たらくだ。
人間にとっては理想的な時代になったとも思える。事実、里の多くの人はそう考えているらしかった。
しかし阿弥はそこまで単純に信じきれないでいる。幻想郷縁起を編纂しながら、ずっと胸中にもやもやとしたものを抱えていた。今は袱紗に包んで右手に抱えているその書物へと意識をやる――そう、例えば今回の編集においては、「英雄伝」に割いた項がわずかしかない。英雄が、今の世にはほとんど残っていないのだ。
妖怪の力が弱まっているのだから、それに対抗する力が不要になりつつある、それは理屈ではある。だが阿弥は思うのだ、これは幻想郷における人間の力の衰退を意味しているのではないかと。
かつての人間は、現在とは比べ物にならないほどの妖怪の暴虐にさらされながら、それでも生き延びていた。強力な妖怪たちと拮抗できるだけの力を有していた。他に頼るもののない闇の中では、自らが光輝となるしかなかったからだ。そうして戦い、我と我が命を勝ち取ってきた。だけど今はどうか。自らの手で勝ち得たわけでもない平穏の中で、空虚に笑っているだけではないのか。
そしてそこまで思いを至らせたとき、戦慄にも近いものを覚える。妖怪と人とが共に力を失いつつあるという事実は、すなわち両者が生きるこの幻想郷の衰亡に結びつくのではないか――
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