ルックイースト・プロジェクト 後
稗田家の従者で朝当番をやりたがる奴はいない。
当主さまである稗田阿求の寝起きが余りにも悪いからだ。まず前提条件として、起きない。前日に宣言した起床時間通りに起きることはまずありえない。おまけに、ちょっとやそっとの揺すった怒鳴ったくらいではぴくりともせず、本気で目覚めさせたかったら、思い切り助走を取って蹴りを入れるくらいしないと駄目である。
「阿求さまー」
稗田屋敷。今日もそんな阿求の餌食になるべく一人の従者が朝当番を務めている。不幸なことに快晴適温の心地よい日和だ。こんな日の阿求は息もせずに深く寝入っているのが常。
「……」
阿求の寝室、障子の前で、従者はごくりと喉を鳴らした。まるで自分の眼前に配置されている書院造の部屋がウツボカズラのように思える。
五回だ。
五回目の朝当番を務めると、その従者は淑女の精神を失うと聞く。通算五回目の蹴りを阿求さまにぶち込んだ所で、淑女などどうでもいいという人生これ悟りの境地に達するためであるという。
そして彼女は、今日で最初から数えて五回目の朝当番だった。だから事実上、目の前の部屋が食虫植物にしか見えないわけで、それはまた圧倒的に正しい形容詞といえる。もちろん虫の役は自分しかいない。
「ままよ」
覚悟を口に出すと少しばかり安心が出来た。一歩二歩三歩と後ろに助走を取る。利き足にありったけの力を流し込んで短距離を駆け込んだ。
「阿求さま! おきてください!」
鋭く乾ききった音を立てて開かれる障子。従者の勢いは止まらない。整理整頓されているとはとてもいえない六畳ほどの畳部屋を、まるで隼のような速度で駆け抜ける。その勢いのまま右足を大きくスイングバックし、蹴り飛ばす目標を確認。目標は仕事用の机に座って筆をさらさらと――
……座って?
従者に真実を認識することは限りなく困難な作業だった。何故なら、走り出した質量は止まるのにも相応を要するからだ。だから結果として見れば凶悪な速度を持った従者の右足ももちろん止まることはなく、
「あ、どうです、今日はちゃんと起きて――」
振り返りながら笑顔でそんな声を掛けてくる阿求さまを思いやる術は既に存在していなかったのである。
稗田家に、アマガエルのような呻き声が響いた。
「首がもげるかと思いました」
とは阿求の弁。
「すみませんすみませんすみません……」
部屋の中央、従者は必死で土下座している。
そんな従者の様子を見て、阿求は、ああいいよいいよと、ひらひらと手を振る。従者の蹴りは芸術的なくらい首筋に決まっていたのだが、阿求は部屋を二周ほど悶絶し転げまわっただけだった。ちびこい体に似合わないほどの耐久力である。
「そんなに私が起きないと思いましたか?」
苦笑いで聞いてくる阿求。はいその通りです、と答えたかった従者はさすがに自重した。
「い、いえ……だって阿求さま、今日は地獄へ転生の刻印を頂きに行く、大切な日ではないですか。絶対に起こさなくてはいけないと気を張ってしまいまして……」
彼女の言う通りである。今日は、阿求が転生の儀。地獄へ転生の許可を頂きに参る重要な日だったのだ。地獄の事務手続き受付時間は非常に早朝であるからして、今日の阿求は並外れた早起きを要求されていた。つまり、阿求が起きているとは夢にも思わなかったのである、従者は。
「ああー……」
なるほどなるほどと頷いて見せた阿求。その動作は非常に緩慢で緊張感に欠けるものだった。
従者には疑問が沸く。地獄へ向かって死ぬ契約を履行しに行くのだ、もうちょっとくらい怯えて見せたっていいのではないかと。
「それなのですが」
話は続いていたようだ。阿求はぴっと人差し指を立てて、従者へ向い言う。
「地獄とは別の大事な用事ができましたので、今日はそっちへ行ってこようと思います」
「……は?」
従者はぽかんと口を開けてしまった。阿求の言葉は全くの意味不明である。そもそも地獄の契約より重い用事など、この世にどれほどの数が存在しているというのか。
「あ、阿求さま……? だって、今日行かなかったら、きっと阿求さま転生できなくなっちゃいますよ……?」
「それはそれで」
阿求はざっと立ち上がった。荷物を持ってすたすた部屋を出て行く。それが余りにも自然な動作だったから、従者はうっかり止める機会を失ってしまったのである。
「では、行ってきます」
あの阿求さまが早起きして見せたのだ。
今日は嵐になるだろう、と従者は思った。
☆ ☆
地獄である。
「四季さまー、件の人間、まだ来てないみたいですよー」
四季映姫は冷静だった。
「もうこないんじゃないすかねー?」
実に冷静だった。
何故なら今の四季はもう新米閻魔ではないからだ。ここ幻想郷の超越者を千二百六十年も務めている。大概の不測自体は経験してきたし、またそれを処理もしてきた。年季が違うのである。
「おおお落ち着きなさい小町」
「怒りで台詞が震えてますよ四季さま」
だから映姫は冷静に対処法を考える。
なんだったか。確かこんなことが、昔にもあった気がするのだ。そのときの映姫はまだ新米で、今ほど沈着でもなかった。自己評価を述べていいのならば、当時の自分がスッポンなら今の自分は大きなスッポンである。
「小町、件の人間の名前は」
「稗田の阿求です」
映姫は頭を抱えた。大体全部のことを思い出したからだ。
「地獄の契約に遅刻してくるなんて大馬鹿者は彼女以来ですね……」
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