ルックイースト・プロジェクト 前
阿一と聞けば性別は男児に思えるが、不思議なことに稗田の阿一は立派な女性である。
というのも、母君に阿一を孕ませたクソ親父、こいつはどうも男の子が欲しかったらしいのだ。
稗田を継ぐのは直系男児。
稗田を仕切るのは直系男児。
稗田を牛耳るのも、もちろん直系男児のべきである。
そんなトボケた価値観に頭がラリったのか、このクソ親父、逆子だった阿一の女々しい股間を見た瞬間から、『男だ、こいつは男だ。名前は阿一と決めてある』、そればかりを繰り返すポンコツ蓄音機になってしまったのである。
稗田本家ど真ん中で発された当主の台詞を嘘だと叫べる輩はいないから、どうだろう、お分かりか、カラスを純白だと偽るような早さで阿一は男児に仕立て上げられてしまった。
当然の如く幼い頃の阿一はクソ親父を毛嫌いして止まなかったのであるが、ある日のこと、転機は唐突に訪れる。
『どうだ阿一、お前は女なのに男っぽい名前なのが嫌なんだろう、どうだ阿一、ここは一丁男になって見ないかどうだ阿一』
例のクソ親父が尋ねてきた台詞である。
『なりたいんだな? なりたいんだろう。ということはお前は玉袋が欲しいということだ。玉袋をお前にやるよ。方法なんてどこかにあるさ玉袋をぶら下げる』
阿呆かと。
とうとう持病の水虫が頭まで達したのかと阿一は心から心配してしまった。心配ついでにクソ親父の頭を輪切りにして南蛮へ密輸したかった。
『じゃあ行ってくる』
下駄も履かずに飛び出ていくクソ親父の背中を見つめながら、阿一はようやく気付いたのである。
クソ親父には憑いていたのだ。
三日三晩の大捜索というどうしようもない迷惑をかけた後に、満月の次の朝、クソ親父は竹やぶで見つかった。
それはもう無残に喰い散らかされた死体だったらしいのだが、阿一が現物を見ることはなく、手馴れた葬儀屋によって当たり前のようにクソ親父は火葬され埋葬されたのだけ覚えている。
騒ぐほどでもないということである。
行方不明は捕食の隠語なのだ。
人間は輪廻の頂点にいない。
今の幻想郷とはそういう場所なのである。
それからのことだ。
阿一が幻想郷縁起を執筆しだしたのは。
☆ ☆
今日は早朝より快晴。従者にとっては有難い日和である。
稗田の家もまた、地平線から差す淡い朝日に包まれていた。
さて、唐突だが、稗田家従者の朝は、当主の阿一を殴りつける所から始まる。
ただ頭をゲンコツで殴るだけでは駄目だ。そんな仕事ぶりで稗田の従者は務まらない。狙うなら首筋が良い。薪を割る要領で、背後斜め上から手刀により力いっぱい首筋を叩いてやる。一発で阿一さまが昏倒したら大成功である。手を叩いて喜んでみるといい。
実演を御覧入れる。
「阿一さまー」
阿一の部屋、障子の前で叫んだ彼女の名前は壱者としておく。壱者から十者までの従者を稗田は雇っているのだが、従者が十人揃って従連者ーと爆笑しながら名付けたのは阿一である。
「阿一さまー、起きてらっしゃいますかー」
壱者の朝一当番は阿一を布団からたたき起こすことなのであるが、その実務は往々にして達成されることがない。
「阿一さまー」
「起きてる」
障子の向こう側から聞こえてきたいつも通りの言葉に反応し、壱者はすぱんとその障子を開け放った。
「……」
開け放った視線の先には、背中をぴんと延ばして机に向かう阿一。こちらには振り向きもせず押し黙り、筆をさらさらと動かしている。
これだ。
稗田の阿一。
自分が仕えるお家の当主にして、若干十代の少女。幼い頃、父親を妖怪に喰われてからというもの、対妖怪の防護手段追求を求めて止まず、ついに行き着いた先が、妖怪たちの情報を集めて綴った『幻想郷縁起』なる書物を自分自身で執筆することである。
壱者は彼女を尊敬しているし、一生ついていきたいとすら思っている。がしかし、この阿一さまの、極端な働き者っぷりだけは許せない。
だってそうではないか。
今は太陽が地平線に顔を出したばかりの早朝。
そして、壱者の仕事は、その早朝に阿一さまを布団から叩き起こすことである。
だがしかしどうだ、実際に早朝、部屋を訪ねてみれば、阿一さまはもう既に起きているではないか。
特に今日は早い。いつもより二刻ほども早い。一体全体どうしてほしいのか。
これでは自分の仕事がこなせない、尊敬する阿一さまにお仕えするにあたり、非常に不甲斐ない。
だから、壱者は恐れながらも阿一さまの早起きを不満に思っているのである。
世話をするのが従者の役目だ。
しかし、このままでは阿一さまのお世話が出来ない。だから以前、壱者は他人よりも軽量化された頭で考え結論付けたのだ。
起きているのなら、再度、物理的に寝かせてから起こせばいいのであると。
というわけで、稗田家従者の朝は、当主の阿一を殴りつける所から始まる。
壱者はもう一度、阿一さまに声をかけた。
「阿一さまー」
「ん――」
ただ頭をゲンコツで殴るだけでは駄目だ。そんな仕事ぶりで稗田の従者は務まらない。狙うなら首筋が良い。薪を割る要領で、背後斜め上から手刀により力いっぱい首筋を叩いてやる。一発で阿一さまが昏倒したら大成功である。手を叩いて喜んでみるといい。
書院造の畳部屋に、鈍い音が二つ響く。
最初の一つが首筋を打つ音で、次が人の倒れる音である。
「ふう」
従者は晴れやかな顔をして、開け放った障子から差し込んでくる朝日に目を細める。
今日もまた、穏やかな一日が始まったのだ。
「阿一さまー、起きてください阿一さまー。もう、阿一さまはお寝坊さまなんですからうふふ――」
☆ ☆
ここは三途の川の向こう側、地獄の三丁目。
玉座に座った新米閻魔四季映姫ヤマザナドゥは、いらだたしげに指で机を叩いた。
「……それで?」
機嫌の悪い閻魔さまへの伝令役なんていう限りなく損な仕事を請け負ってしまった地獄職員見習いは、しかし突っ立ったまま動じずに受け答えをする。
「はい、予定の人間はまだ姿が見えないようです」
「遅い……!」
四季映姫は拳で机を鳴らし、肩をいからせ猛然と立ち上がった。
「だから私はこの裁決に反対だったのです。時刻に不正確な人間と、他人の姓名を間違える人間にろくな輩はいません。今回の件ではっきりとしました。そうだとは思いませんか、えー――」
「小町です」
伝令は答えた。
「そう、小野小町! 貴女もそう思うでしょう」
「小野塚小町です」
二人の間に若干の沈黙が走る。
「わ、わわ私は人間ではありませんからっ!」
「四季さま落ち着いてくださいよ。なんでもいいけど人間はまだ来てませんよ」
「む――」
四季映姫は決まり悪そうに口を結ぶと、再び玉座に腰を下ろした。
ぶすりとした表情で腕を組み、何度か溜め息を吐いてから、もう一度小町に問いかけ直す。
「小町、例の人間の名前は」
「稗田の阿一です」
「約束の時刻は」
「幻想郷に日が昇ってから、一番鳥が鳴き始めるまでの間としていました」
「今の時刻は」
「昼飯前です。お腹がすきました四季さま」
「罪深いことです」
「地獄との契約に遅れてくるなんて、器の広い人間ですよねえ」
「いえ、そうではなく――」
映姫はきっと中空を睨む。
「任意の転生を許すなどと」
やりきれぬように首を振った。
「……罪深いことです」
「そうですか?」
呆けた顔で首を傾げる小町。だがしかし、映姫は気にした様子もなく続けるのだ。
「未来へ身を捧げる。その志自体は見事と言えますが――」
四季映姫は手をあごの前で組み、
「彼女にそのような志を強要してしまった環境が」
遠くを見つめる。
「その幻想郷が」
今日一番の溜め息をついた。
「私はとても悲しい」
☆ ☆
怒号が天井を揺らしたのは稗田家である。
「何で起こしてくれなかったんですか!?」
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