スイマー!!
端的に言えば、小町は脱ぎたかったのである。
たったそれだけのことだったのだ、本当は。
心頭を滅却すれば、とよく人は口にする。
死神の世界にもその定説が通用するかどうかは定かでないけれど、暑いものは暑く、耐え難いものは耐え難く、現実はあたかも三途の河のように幅広く横たわっている。
だから、小町は諦めた。
夏に抗うことは季節に逆らい、自然の摂理に反することを意味する。意味のないことはやらない方がいい。茹だるような熱気に包まれながら、余計な情熱を内側から発する必要もないだろう。
だから小町は、暑さに負け、素直にその足を三途の河に浸している。
「ふぅ……」
船縁に腰掛け、いつ客が来てもいいように巨大な鎌を肩に担ぎ、やや猫背で気だるい笑みを浮かべている死神は、紅く迸る鮮烈な髪を猫の耳のように二箇所結わえていた。
「お客、来ないねえ……」
嘆息し、妖怪の山から三途の河に続く中有の道を覗き込む。
気温の高騰が幽霊の増減にどう関係するのか、小町は暇な時間をめいっぱい使って一通り考えてみた。
筋書きはこう。
幽霊の体温は低い。
だもんだから、暑いのは苦手である。
そんなわけで、幽霊は減る。
仮説終了。
「んなわきゃねえ……」
うだー、と仰向けに舟の中へ倒れ込む。舟に敷かれているむしろは地獄における針のむしろだが、あまりに使い古されているから針も棘もあったもんじゃない。
地獄の貧乏性もここまできたか、と小町は鼻の頭を掻きながら思う。
「しかし……」
天空には、灼熱の太陽が君臨している。
雲ひとつないこのご時世、遠慮も無粋とばかりに燦々と降り注ぐ熱波の中、快眠を貪ることは困難を極める。あえて言えば、死ぬ。熱中症は死に至る病である。同時に、怠け癖もまた緩やかに滅びる病である。そんな話を上司から聞いたことがある小町も、あまりの暑さにそんな話は頭から飛んでしまった。
ただ、底の知れない暑さが身体の中に燻るばかりである。
「脱ぎてえ……」
さりげない呟きに反応する影もなく、無意味に卑猥な言葉は跡形もなく蒸発した。
小町は既に袖を肩まで捲り上げており、腰帯も適度に緩めてそこはかとなく胸襟を開いている。なまじ長身で豊かな体型をしているがために、季節と態度を顧みなければ十分に扇情的であった。
曝け出せる限界まで服を捲り上げても、やはり、肌に接している部分はいやがうえにも蒸れる。かぶれる。痒みはネズミ算式に不快指数を増やし、襟の中に手を伸ばしても痒いところには届かない。そういうものだ。
だから、小町は這うように起き上がり、三途の河の静謐な水面を見定める。
「あー……」
死者にも似た台詞を死神が吐き、死んだ魚のような目で本音を口にする。
「泳ぎてえ……」
それは、偽らざる本心だった。
三途の河を渡る者は、死すべし。
三途の河を渡る者は、死神に全財産を譲るべし。
三途の河は、浮かない。
お客は来ない。
目の前に横たわっている三途の河も、あまりの熱気に湯気を出しそうな気配すらする。実際はそんなこともないのだが、職場環境が悪化する中、幾分かの休息がなければやってられないというものだ。
「……うん」
小野塚小町は船着場に舟を括りつけ、独り、河原に素足を浸して呆然と立ち尽くしている。その腕に、丸く、穴の空いた輪っかを抱えて。
浮き輪である。しかも花柄の。
浮き輪であるから、水に浮く。三途の河にもその原則が適用されるかどうかはともかく、小町が河に入って涼むためには必要不可欠な道具である。
暑いんだから、仕方がない。
「仕方ないよねえ、うん」
小町は諦めた。
かくて小町は、幸せそうに笑みを浮かべながら、具体的にはわーいとか言いながら、ありとあらゆるものの浮上を拒む三途の河に駆け出して行った。
「そりゃ!」
手裏剣の要領で勢いよく放り投げた浮き輪は、波打つ河に上手く着水する。とぷん、たゆんと円を描くように上下する巨大なドーナツを見ていると、船酔いに縁のない小町ですらもどこか陶然とした心地になる。
浮き輪が浮くことは実証された。後は実践あるのみである。
「よぉし……」
浮き輪に繋いだ紐を手繰り寄せ、万歳の格好から浮き輪を腰に通す。小町の身体は既に太ももまで水位が達しており、それだけでも相当の涼気を感じることはできる。けれども、ここまで来たら最後まで行っちゃうか、という欲も出る。
「はあぁ……」
恍惚の息をもらしながら、ちゃぷちゃぷと三途の河に分け入ってゆく。傍目からすれば、入水自殺にも取られかねない構図だが、幸か不幸か三途の岸辺には人も妖も幽霊すらも見当たらない。
ふんふーんと鼻歌などくちずさみながら、三途の河に没入する小町。その水位がみぞおちに達してようやく、小町は何らかの違和感を認めた。
「む……?」
寄せては返す波の雫が、胸の下に引っ掛かっている花柄の浮き輪にぶつかり、弾けて消える。
砂を踏む感触は適度に重く、だがそれ以上に身体が重い。三途の河は人が浮かないように出来ている。すなわち、その摂理に逆らうためには浮き袋を筋力で賄うことが必要になる。
一歩、一歩、踏み込むたびに三途の川底に引きずり込まれる錯覚を抱く。普段、浮くものが浮かないと、むしろ沈んでいるように感じるものである。小町も、あれぇ、と思いながら、それでもなお涼気を求めて水を掻き分ける。
けれども、豊満な胸につっかえていた浮き輪が外れると、余裕綽々だった小町も流石に己の窮地を自覚した。
「あ、やべ」
首筋にまとわりつく浮き輪を両手で押さえ付け、落とし穴から這い出るように身体を浮き上がらせる。が、そこは生と死を分ける三途の河、その奔流はのほほんと遊泳を試みる暢気な死神を容易に呑み込む。
実際、着物も水を吸いに吸ってかなり重い。
三途の河に棲む、愉快な動物たちも小町のくるぶしを噛む。十匹単位で。
「痛ぇ! あ、ちょ、こら! あたいはここの渡しもぶぼぼ! ぶば、おいこら、波が! 波がー!」
自業自得という言葉が似合う女である。
合掌。
「くはッ、うへぇ……こいつぁ、わりと洒落にならん事態かも……――ん」
三途の河の藻屑と化し、穢れた魂が沈殿する泥の底に沈み化石標本になる算段を整えつつあった小町だが、溺れる者が藁を掴むように見上げた空に、見覚えのある影を見付け、好機と言わんばかりにその名を叫んだ。
「チルノぉー!」
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