夜が明ける。
朝霧に包まれた広場では、立派な櫓やら屋台やらの準備が始められようとしている。夜明け前にここを訪れていた私は、人々が忙しそうに祭りの用意をしている一部始終を、退屈もせずにずっと眺めていた。
とんとん、かんかん、軽快な鉄鎚の音が響き渡る。適当に敷かれたゴザの上に体育座りをして、誰からも省みられない寂寞と透明感を味わう。
朝はいつも貧血気味で、今もきっと陽は昇っていないのに、どうしてか体調は整っている。それは決して悪いことではないけれど、何かおかしい気もする。
「うーん……」
首を傾げていると、真っ白な霧の向こう側から、かしましいはしゃぎ声が群れをなしてやってきた。無邪気な子どもたちの笑い声。こんなに楽しそうな子どもたちの笑い声を聞くのは、一体いつぶりだろう。つい、私はそっちの方を振り向いていた。
男の子がふたりに、女の子がひとり。まだ小学校にも入っていないくらいだ。
部外者である私の存在に気付くと、何だかよくわからない草を振り回して先頭を走っていた短髪の男の子が、明らかに警戒して何やらよくわからないポーズを取った。リーダー格であることが非常にわかりやすい。
「誰だ!」
「メリーよ」
素直に答える。
「……めりー?」
おうむ返しに問い返し、私も「メリー」と繰り返す。間抜けなやり取りだ。
それとも、メリーさんの方が良かったかしら。何が良いのがわからないけど。
「知らんわー」
女の子が呑気に呟く。知らないのも無理はない、私も子どもたちのことを知らないし、ここがどこなのかも解っていないのだから。
もうひとり、ぼっちゃん刈りの男の子は、女の子の影に隠れて密かにこちらを窺っている。さっきまではあんな元気に走り回っていたのに、どこにでもこういう子はいるものだ。内弁慶というか、身内には気を許すというか、でも、そういうところが可愛いと思われることもある。お得な世の中だ。
何の話だろう。
「まあ、ええわー。お姉ちゃんも、お祭りに来たんよね?」
そばかすをつけて、ほっぺたを赤くして、女の子はびくびくする男の子を引きずるように前に出る。私は身体をずらして、子どもたちと目線が合うようにする。
「やっぱり、お祭りなのね」
櫓を組み上げている大人たちを見ていると、作業中に歌を口ずさんだり踊り始めたりする人も多い。そのどれも、見たことも聞いたこともないものだ。本当は、子どもの頃に見聞きした歌や踊りだったのかもしれないけど、今はもう忘れてしまった。
「そうよー。秋の神さまが退屈せえへんよう、みんなでお祝いしたげるんよ。寂しがりやから、神さま」
自慢げに、これから行われる祭りのことを語る。その表情があんまり嬉しそうだから、私もつられて頬が緩む。すると、影に隠れていた男の子がおそるおそる顔を覗かせて、何かを口にしようとする。勇気を出そうとしているのは一目で解ったから、せめて相手を怖がらせないよう、目を細めていた。
「……い、いらっしゃい」
どうやら、歓迎の言葉らしい。
「はい、どういたしまして」
微笑む。すると男の子はぽっと顔を赤らめて、また女の子の後ろに引っ込もうとする。その頭を、やんちゃな男の子が草でしばく。草なので痛くはなさそうだが、引っ込み思案な男の子はこの世の終わりみたいな悲鳴を上げる。女の子が「かわいそうなー」と男の子を慰めるのを見て、あんまり面白くなさそうな顔をしたりもする。わかりやすい。
「そこまで言うんだったら、ねーちゃんもおれたちの仲間に入れてあげてもいい!」
腕組みをして、子どもらしい我がままを振り回す男の子に、つい笑みが零れる。私にも、私の悪友にも、こんな時期があったのだろう。
今、あの昏い街に棲みついている私たちには、ほとんど縁がなくなってしまったもの。それが、ここにはある。流石に、全部揃っているかどうかは解らないし、始めからあっちに無いものがここにあったりもするのだろうけど。
「ていうかいつまでも撫でてんじゃねーよ!」
「ひゃあ」
しばく。あんまり草で叩かれてると肌がかぶれそうだ。
「あ、おいちゃんも撫でられたいん?」
「誰がじゃ!」
ぎゃあぎゃあと喚き散らす子どもたち、それを微笑み混じりに眺める外来者の私。名前と容姿こそ海外製だけど、よく見れば、作業をしている人たちの髪の色も姿かたちも、実に様々だった。中には、どう贔屓目に見ても獣の耳や尻尾や羽が生えているんじゃないかと思える者もいたが、それはそういうものだと納得する。
受け入れなければ始まらないこともある。
受け入れてこそ、その楽しみがわかる世界ならば尚更。
「おはようございます」
子どもたちが駆けてきた方角から、また新たな人物が現れる。銀色に輝く髪は肩まで伸び、一房だけ青いのは染めているせいだろうか。彼女が挨拶すると、子どもたちも慌しく「おはようございます」と返す。先生と生徒、という構図が頭に浮かぶ。
「元気なのはいいことだけれど、お祭りの手伝いをするんじゃなかったかしら?」
「うん、お姉ちゃんとお話しとったー」
それは手伝いに入るかどうか微妙なところだ。
女の子が私を指し示すと、女性と目が合う。一瞬、訝しげな表情を浮かべるも、先手を打って軽く会釈する。
「おはようございます。今日はお祭りだそうで」
「はい。名目上、秋の神々によって得られた収穫を改めて神に感謝するお祭りとなっていますが、実際は冬に活動を行わない全般の神々、そして冬篭りに入る前の最後のお祭りとして、私たちのために行われる祭りといってもよいでしょう」
わりと俗物的である。だがそれも、人間らしくて悪くない。ほとんど人間のためのお祭りなのに、どう見ても人間じゃない者たちがこぞって参加しているのも面白い。人間だの妖怪だのとあれこれ線を引くより、みんなして楽しめればよいという考え方なのかもしれない。
「……失礼ですが。貴方、どちらからいらっしゃいました?」
ある意味、当然ともいえる質問が飛ぶ。やや鋭さを増した彼女の瞳に対して、私が返す言葉はひとつしかない。
「えぇ。ちょっと京都から」
「京都」
「古都京都。今は首都ですけど」
早口言葉みたいですよね、と続けても、「はあ」としか返ってこない。思ったとおりの反応だ。子どもたちは、いつの間にか櫓の方に移動している。大人たちが難しい話をしていることを悟り、姿を隠す。このあたりは、どこの子どもも同じらしい。
「帰る当てはあるのですか」
「来れたのですから、帰れるでしょう」
「貴方は、ここがどこなのか解っていない」
「こんなにも素晴らしい世界なのですから、きっと夢なのでしょう」
微笑む。
何も間違ったことは言っていないのに、彼女はどこか辛そうに顔を歪める。
「……貴方が思うほど、この世界は」
「お姉ちゃーん」
彼女の言葉を遮るように、女の子が湯飲み茶碗を大事そうに持って帰ってきた。何か、大切なことを伝え逃したというように、彼女は私から視線を外す。
「これ、秋の神さまからー」
私に湯飲みを手渡すと、櫓の方に力いっぱい手を振る。そこには、葡萄を象った帽子を被り、男の子たちを突っつき回している裸足の少女がいた。そばかすの女の子が手を振っていることに気付くと、負けじと力いっぱい手を振り返す。その間、ヘッドロックを決められていたやんちゃな男の子が必死に抵抗を試みるも、全く引き剥がすことができないという容赦のなさ。神がかっている。
「あれ、神さまなんだ」
「そうよー。よく遊んでくれるんよ、うちらと」
暇なのか。冬も近いというし、暇なんだろう。きっと。
「それ、秋さまから差し入れー」
「……葡萄ジュースかな?」
湯飲みだと、真上からしか色を確認できない。香りは確かに芳醇な葡萄のもの、毒見をするように舌先を伸ばすのも失礼だから、ここは一気に頂くとしよう。
縁に唇を付け、おもむろに傾ける。
「子どもは飲んじゃいけない、って言われたんやけど、なんでやの?」
それはちょっと訊くのが遅かったかな。
「それは……、あ」
先生が言葉を選んでいるうちに、私は濃厚な葡萄酒を喉の奥に注いでしまっていた。
私だって、人並みにお酒は嗜んでいる。強い方じゃないが、かといって弱い方でもないと自負している。でも、神さま謹製のお酒と来れば、それこそ強力無比であることは疑いようもないわけで。
「――、――られぇ?」
呂律は回らず、意識の手綱は手放される。
前後左右斜め天地無用、輪転する視界は高速カメラに映した点描の星空。大外刈りを喰らったような回転力は慣性の法則を殺し切れず、受け身を取るための畳は腐り、私はあえなく、直角の度数がもたらす大宇宙の彼方に投げ出されていた。
――どすん。
「……夢オチかよ」
ベージュのカーペットに熱烈な接吻を交わしながら、私は歯痒さを隠しもせずに呟いた。指先は毛羽立った床を掻き、強かに打った膝を押さえて呻こうにも、出っ張った胸もそこそこ痛いからどちらを優先すべきか迷う。
もそもそと起き上がり、太ももの間に手のひらを挟む。意識が現実に追いつくのを待ち、カーテンの先の闇を見たり、直角を描いている目覚まし時計を睨みつけたり、喉にひりつくようなお酒の感触を思い出したり、――は、できなかったけれど。
「寝なおし」
決意する。目覚めて五分以内なら、すぐ床に就けば夢の続きを見られるという宇佐見蓮子の法則。正直あんまり信用していない。
「おやすみなさい……」
ふぁあ、と漏れる欠伸は午前三時の証明である。子どもの頃は、夜に目覚めると廊下の影に何か得体の知れないものが潜んでいるように思えたものだ。
幼い頃の恥ずかしい思い出を振り返りながら、布団の中でしばしまどろむ。
見たことのない場所、人でない者が、人と手を取り合う。妖は働き、神さまは笑う。きっと今頃は、櫓もきちんと建てられて、屋台も色とりどりに並べられて、子どもたちがぎゃあぎゃあと騒ぎながらぼんぼりの灯りの下を駆け抜けていることだろう。
羨ましい。
また、あの場所に行きたい。そんな夢を見たい。
「……夢」
呟く。そろそろ落ちるかな、と思い、思考を閉ざす。
最後に、あの先生が言いかけた言葉の続きを、どうにかして思い出そうとしていた。
貴方が思うほど、この世界は。
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