ハローグッバイ
☆
きっと、出会いは最悪だった。
★
霞の掛かった夢が覚め、魔理沙は気だるげに身を起こした。爪先に引っ掛けたままのシーツが、寝汗で滲んでいる。そんなに夢見が悪かったのかと、見ていたはずの夢を思い出そうとしても、ちっとも思い出せない。夢を見たことは覚えているのに、その内容ときたら、霊夢と初めて会ったときの漠然とした第一印象だけだ。
首を傾げる。自分は、そんなに霊夢のことが苦手だったのかしら。
「ま、いいか」
シーツを引っぺがし、雑然とした床に降り立つ。鬱蒼とした魔法の森は、血気盛んな太陽の光を容易に遮る。朝を迎えたはずの部屋はひどく薄暗く、伸びをしてもあまり晴れやかな気分にはなれない。
それについては、今日の夢見が関係しているのかもしれないけれど。
「……おなか、すいたな」
独り暮らしをしていると、独り言が多くなる。霊夢もそうだろうかな、と他愛もないことを考えて、今日は博麗神社に行ってやろうと決めた。
「おはようさん」
「あぁ、おはよう」
霊夢は、いつものように境内の掃除に勤しんでいた。魔理沙が来たと知るや、休憩だと宣言して社務所に引っ込んでしまったが、特にサボりたがりというでもない。多分。
魔理沙もホウキを担いだまま霊夢の後を追い、あいかわらず部分的に露出の激しい巫女装束をまとった少女に、とある質問を投げかける。
「なぁ、霊夢」
「何よ、魔理沙」
振り向かずに、霊夢は言う。不機嫌そうに聞こえるのは、きっと眠いせいだろうと魔理沙は思った。
「私と最初に会ったときのこと、覚えてるか」
「どうしたのよ急に」
「いやなに、霊夢が若年性痴呆でも患ってやしないかと思ってな。老婆心だぜ」
「老け込んでるのはどっちよ……」
はぁ、と霊夢は嘆息する。自分と話しているとき、霊夢はよくため息をつく。それが良いことなのか悪いことなのか、魔理沙はいまだによくわからない。
「で、どうなんだ。どうなんだ?」
「そんなにがっつかないでよ、もう……」
霊夢の肩に顎を乗せ、横目で彼女の表情を窺う。霊夢はうざったそうに身をよじらせて、半眼で魔理沙を牽制する。結局はどちらも退かず、そのまま歩みは止まった。
「まぁ、そうねえ……」
「うんうん」
心なしか、胸が躍っているような気がする。何故かはわからない。多分、霊夢の口からふたりの思い出が紡がれることが滅多にないからだろう。思い出は胸に仕舞い込むもので、おおっぴらに語られるものでもない。霊夢はそれを知ってか知らずか、昔の話をすることはほとんどなかった。
きっと、彼女にとって大切な思い出さえも。
「たしか、初めて会ったときは、ホウキにも乗ってなくて」
「だろうな。まだ初々しかったからなー。魔法使いの卵だ」
「今はスクランブルエッグみたいになってるけど……」
「スクランブル発進は得意だぜ」
はいはい、とホウキに跨ろうとする魔理沙をたしなめる。
「なんだったかしら、魔法の絨毯で登場したような……」
「……なんかそれおかしくないか?」
「魔法の絨毯を……抱えて」
「普通に飛べよ」
「いや、そうじゃないわね。ごめんごめん」
「だろー、やっぱおかしいと思ったんだ」
魔理沙は自慢げに胸を逸らす。
「絨毯に乗ってたのは別の人で、金メッキのランプをこすればもくもくと魔理沙が」
「ランプの精霊かよ! てかそんなに筋骨隆々に見えるのかよ、ちょっとショックだよ」
「こすればなんか出て来るかしら?」
「こすんな」
おでこを撫でる手を払いのける。意気消沈する暇もないが、茶化されるのは助かった。
霊夢が覚えていないかもしれない――そんな予感はあった。それでも、もしかしたら、という希望があったことは否定できない。勿論、覚えているのにあえて口にしないということも考えられたけど、霊夢に限って、そういう嘘をつく理由が思いつかなかった。
大切なことも、他愛のないことも、全て同じように語るのだ。
博麗霊夢は。
「なあ、冗談はいいから、さくっと本当のこと教えてくれよ。すっきりしないぜ、こんなんじゃ」
「いやまあ、すっきりしないのは全く同感なんだけど……何なのかしらね、ピンと来ないのよね。昔のこと」
首を傾げる。初夏の涼風は、薄手になったふたりの服を柔らかく包み込む。
「……若年性痴呆?」
「ちがう」
「そ、そうか。悪いな、若いようでいて、霊夢も赤いちゃんちゃんこを着るような年」
「殴られたい?」
ごめんなさい、と言う前におでこを叩かれた。ぴしゃり、と小気味よい音が鳴る。
「いてっ」
「思い出せないものは思い出せない。それはもうしょうがないじゃないの。それに、あんまり劇的な出会いじゃなかったかもしれないわよ? それよか、ランプをこすればちちんぷいぷいで魔理沙が五十匹くらい出て来た方が楽しいじゃない」
「誰が楽しいんだそれは……ていうか虫とかに使う単位だろそれ」
うなだれる。
霊夢は魔理沙の落胆をよそに、休憩を貪るために社務所に向かって行く。その細い背中を見送りながら、魔理沙は心の中で呟いた。
――そうじゃない、そうじゃないんだよ、霊夢。
劇的かどうか、面白いかどうかじゃない。
霊夢と出会ったこと、ただそれだけが大切な思い出なんだ。
「……なーんつってな」
心の声は霊夢に届かず、照れ隠しの独り言だけが境内に溶けた。
お腹も空いてきた頃合だから、お茶の準備をしている霊夢のために、魔理沙もホウキを担いで社務所の縁側に足を向けた。
初夏、特に何がどうということもない、当たり障りのない一日は、まだ始まったばかりである。
☆
問答無用で、攻撃を仕掛けた気がする。
霊夢は何の苦もなく避けたけれど、常人ならば決して回避できない攻撃だった。真正面から、当時の最大射程、最大出力で放たれた一撃を、霊夢は難なく避けてみせた。
私は驚き、阿呆みたいに間の抜けた声をあげた。そんな馬鹿な、あれを避けられるはずがない。なんてことを、少女の前で言い放った。肩を掴んで、何か細工があるんじゃないかと疑った。
けれども彼女は、やはり当たり前のように、初対面の私に言うのだ。
「あんたみたいなのを、頭隠して尻隠さず、ていうのよ」
覚えておきなさい、と、私の額を人差し指で突いた。
「ていうか、そもそも、あんた誰?」
きょとんとした顔で、霊夢は告げた。
タイミングが良いのか悪いのか、何はなくとも、私たちは自己紹介する機会を得た。私は初めから強いと言われている霊夢の存在を知っていたけれど、霊夢はおそらく私のことは知らなかったはずだ。
そしてその日から、私は霊夢に固執するようになった。
今ならわかるけれど、霊夢は、私など相手にしていなかったのだろう。ただ、厄介な奴が現れたものだと、ため息をつく程度の事件だったに違いない。当時の私はそれを理解できず、霊夢が上からものを見ているのだとしか思わなかった。圧倒的に実力が勝っているから、意に介する必要がない、と。
ある意味で、それは間違っていない。
でも、やっぱり、それは致命的に間違っていたのだ。
★
いくぶんかはっきりとした夢の残り香を抱いて、魔理沙は香霖堂に飛んだ。
霊夢から昔年の思い出話を聞き出そうとした魔理沙もまた、出会いの記憶がない。正確には、原型が定かでないくらいに薄れている。掬い出そうにも、これが霊夢と出会った時の記憶なのか、他の誰かと出会った時の記憶なのか、どうにも判別がつかないのだ。
もしかしたら、自分もまたボケているのかもしれない。
「ま、いいか」
わからないことは人に聞く。妖怪も言っていた、ならば人間にも言えるはずだ。
目指すは香霖堂、既知の間柄である森近霖之助のもとへ。
彼なら――自分が実家から出ることになり、独り暮らしを始めた頃からの生活を知る霖之助なら、霧雨魔理沙と博麗霊夢との邂逅を、記憶に留めているかもしれない。
「――――ふッ」
ホウキの柄を握り締め、加速する。真昼の空に星が散らばる。
速く飛べば、その分だけ抗する風は強くなる。時代に抗い、時代を遡っている錯覚がある。右から左に、前方から後方に行き過ぎる真一文字の風景には、タイムマシンに乗っているような躍動感を抱く。背徳の精神を。禁忌の詮索を。そして欲望の探求を。
飛べ。もっと速く。
知らず知らず、手のひらは汗で滲んでいた。
香霖堂は、魔法の森と人間の里の境にある。人にも妖にも入り易いという触れ込みの立地条件なのだが、店主の無愛想ゆえか、品揃えの不気味さゆえか、とにかく客足は芳しくない。顧客と呼べる類の存在はいるけれど、それよりも数が多いのは、用もないのに入り浸り、好奇心の赴くままに商品を簒奪する少女たちである。
「よっ、と――ぉ?」
その気高き人種のひとりに数えられる霧雨魔理沙は、減速もそこそこに香霖堂の扉の前に着地したところ、勢いを殺し切れずに足をもつれさせ、香霖堂の扉にどかんと激突した。よくある交通事故である。
「あだッ!?」
悲鳴をあげ、大の字に崩れ落ちる。
その拍子かどうかはわからないが、扉がゆっくりと開いていく。額をさする余裕もなく持ち上げた視界の端に、ぼんやりとした人影が見えた。
「こ……こーりんはいるかぁ……?」
すっかり覇気を失った声色にも、影の主は茶化すことなく答えた。
「残念ながら、いらっしゃらないようですわ」
やたら慇懃な口調の主は、銀色の空気を漂わせながら、魔理沙に手を差し伸べた。その手のひらに銀のナイフがないことを確認してから、魔理沙はありがたく十六夜咲夜の手を掴んだ。水仕事も多いはずなのに、皺も荒れもないきめ細かさを誇っている。
「よっと……」
引き上げられ、起き上がる。意外に腕力があることに驚き、メイドも力仕事だからしょうがないかと思い直す。と同時に、額がじんじんと痛み始める。
「あたた……、こりゃあ、しばらく痛むな……」
「急場しのぎの軟膏なら、特別料金で手配するわよ」
「金取るのかよ……いいよ、こんなもん、気合がどうにかしてくれる」
「精神論ね」
「絶望を凌駕するのは思いこみだぜ?」
あらそうなの、と涼しい顔で咲夜は言う。ホワイトプリムが風に遊ばされる。丁寧に編まれた銀色のお下げ髪が、魔理沙と同じようにゆらゆらと揺れている。
「あら、隕石でも落ちてきたのかと思ったら、人間じゃない」
「残念。落ちてきたのは流星だぜ」
「一瞬の瞬きという意味なら同じことよ」
腕組みをし、特に理由もなくふんぞり返っているのは、咲夜の主であるところの吸血鬼、レミリア・スカーレットである。若干、空に雲は掛かっているものの、真昼間から吸血鬼がそこいらを動き回っているというのも珍しい。余程退屈なのか、それなら博麗神社に寄っているか、あるいは神社に霊夢がいなかったから、こんなところまで足を運んだのか。理由はいくらでも考えつくけれど、結局は大したことじゃないのだろう。
そんな気がする。
「いないのか、香霖」
「そのようね。……全く、暇潰しにもならないわ。折角早起きして歩き回っているのに、どこもかしこも空振りよ」
言って、レミリアは気だるげに肩を竦める。扉から肩がはみ出そうになるのを、咲夜が日傘を差して補う。ちょうど、太陽の光は真上から降り注いでいた。
「どこにいるのか……は、わからないよなぁ」
「なんで私が知ってなきゃいけないのよ」
「物品納入のため無縁塚、買出しと調べ物がてら人里に……と、そのあたりかしら」
レミリアは不遜に答え、咲夜は適当な予想を口にする。魔理沙もそのあたりは推測済みだったから、この先は待つか探すか諦めるか、という行動に移らねばならない。
やれやれと嘆息しかけて、「紅茶でも淹れてくれない?」「それは泥棒ですわ」と呑気に会話している紅魔の従者を見やる。人と妖、垣根の違いはあるけれど、彼女たちにも相応の出会いがあったはずだ。
なんとなく気になって、声を掛ける。
「なあ」
「何よ、紅茶でも提供してくれるの?」
「私の血は青いからだめだな」
「貝なら捌いても美味しそうね。咲夜」
「嘘が得意な二枚貝といったところでしょうか」
「うまいこと言ったつもりだろうが、今は比較的どうでもいい」
残念そうにしゅんとする咲夜と、かっさばく気満々のレミリアに、魔理沙はある問いを投げかける。じっとしていても動いていても、じんわりと暑さが染みる。焼けるような日差しにはまだ遠く、蝉の鳴き声もまた、土の中で見る夢から覚めていない。
「お前らにも、初対面の瞬間があったわけだよな」
「前世って概念が無ければね」
「運命的ですわ」
「まあそこんところもどうでもいい。現世に限った話をしたいんだ」
「ふうん……、咲夜との出会い、ね」
どこか値踏みするような瞳は爛々と、寝不足でもないのに紅く輝いている。見る者を魅了するルビーの眼は、より多くの血を吸えばより煌びやかな輝きを放つかに見えた。
「あなたが何故、そういう話に興味を持ったのか……興味を引かれないでもないけれど。いいわ、大盤振る舞いよ。話してあげましょう」
暇だし、と付け加える。格好よく振る舞っているはずなのに、最後の一言があるからいまいち締まらない。咲夜は基本的に日傘を傾けて、たまに相槌を打つくらいで、積極的に話に入ろうとしない。
ふと、遠い昔を見つめるように、レミリアは目を細めた。
「あれはそう……五十年前の十六夜の日」
「咲夜……」
「いくら私でも怒りますよ」
日傘の位置を変えようとする咲夜の手を、レミリアが意地悪く笑いながら遮る。わりと本気で怒っているのか、咲夜の表情にも余裕がない。お年頃である。
「正直な話、何年前の何月何日かは覚えてないけど。細かい話はどうでもいいのよ、今ここに咲夜がいて、それが嘘じゃなければ」
「いい話だなー」
「忘れたんですね」
咎めるでもなく、まっすぐな瞳で追求する咲夜にも、レミリアは全く怯まない。
「日付だけよ。あなただって、記念日に固執しなければ愛が確かめられないほど刹那的でもないでしょう」
「誕生日くらいは固執したいもんだな」
「それと、命日くらいは」
やれやれ、とレミリアは嘆息する。
「はいはい、善処してあげるわよ。全く、人間は面倒なんだから」
「ありがとうございます」
咲夜は、小さく会釈する。別にいいわよ、とレミリアは軽く手を振る。
「で、どうなんだ」
脇道に逸れ始めた会話を修正すべく、魔理沙はレミリアに先を促す。吸血鬼は、少し面倒くさそうに吐息を漏らした。
「出会った時の咲夜は、えらく好戦的だったのよ。今みたいに瀟洒でもなければ、会話する余地も無いくらい」
「それは、お嬢様が血ィ吸うたろかなんて言うからじゃありませんか」
「言ってないわよ。ちょっとおべべを汚したままウフフフって笑ってただけじゃない」
「楽しそうだなお前ら」
昔から変わっていないのは確かなようだが。
「痛かったわ、あの時のナイフ」
「恐れ入ります」
「ワサビ塗ってたのが効いたわね」
「実はニンニクと間違っていたのですが、意外と効果的でした」
「何してんだお前ら」
懐かしそうに会話する紅魔の主従を見ると、確かに細かいことはどうでもいいような気がしてくる。何が真実で、何が冗談かも判然としないやり取りだけれど、ふたりの中に確たる証明があれば、思い出語りが事実でも虚飾でも問題はないのかもしれない。
それが、少し羨ましい。
「私の背中にも、あの時の傷が残っていますわ」
「え、ほんと? そんなとこ引っ掻いた覚えないんだけど」
「マイハートブレイクが突き刺さった時のことですよ」
「あー……でもそれ最近の話じゃないのかなあ」
不思議そうに首を傾げる。記憶にないらしい。
魔理沙は、もう彼女たちに詳細を聞くことは諦めていた。このまま続けても正しい記憶が語れられることはないし、それに、事実のみが重要でないことも解ってしまった。
太陽も、少しずつ西に傾きつつある。場所を移す頃合である。
「そうか、よくわかった。ありがとうな」
「え、まだ話は終わってないわよ」
「いいんだ。それに、細かいところはどうでもいいんだろ?」
「咲夜の下着の色がどうでもいいわけないでしょ」
「何の話だ。勝負下着か」
「ご想像にお任せしますわ」
何故かお辞儀をする咲夜は放っておいて、魔理沙は早々にホウキに跨った。
風が巡り、気流が巻き起こる。その中心に魔理沙は佇み、ぺちゃくちゃと四方山話に花を咲かせるふたりを眺める。
「じゃあな。もし香霖が帰ってきたら、宜しく言っておいてくれ」
「その頃にはもういないと思うけど」
「念のため、承っておきますわ」
「感謝するぜ」
帽子の鍔を目深にかぶり、魔理沙は上昇する。
紅と銀の主従に見送られ、というにはさほど興味がない様子だったが、ともあれ魔理沙は飛翔する。目的地は博麗神社、レミリアがここにいるということは、既に神社にも回っていた可能性が高い。けれども入れ違いになっていることも考えられるし、霖之助もまた神社に足を運んでいるかもしれない。案ずるより生むが易し、自分が行動を起こさなければ、世界は何も応えてくれない。
ホウキの柄を握る。
行く手を阻むように風は強さを増し、帽子が頭から離れそうになるけれど、そこは脱げないように疾駆するのが魔法使いの在り方だ。ほんの少し、微笑みに頬を緩ませて、魔理沙は真昼の彗星になった。
☆
その日から、霊夢は私の目標のひとつになった。
越えるべき山があれば、いやがうえにも努力する。目の前に壁があるのだ。回り道をしても、拳を握り締めて叩き壊すにしても、何もせず、手をこまねいたまま誰かがどうにかしてくれるのを待つのは趣味じゃなかった。
魔法使いとして未熟だと感じていた私は、家に籠もり、魔法の研究に勤しんだ。
何かしら目ぼしい成果が上がると、それを引っさげて霊夢に挑んだ。初めのうちは何の予備動作もなく敗北を喫するのがほとんどだったが、しばらくすると、応酬する時間が長引くようになった。手のひらであしらわれることもなければ、戦いの最中に背を向けられることもなくなった。ただ、挑戦する始めか終わりには、必ずと言っていいほどため息を吐かれたものだが。
不意打ちはしない。正々堂々と、真正面から打ち倒さなければいけない。
でなければ、私が霊夢と戦っている意味がないのだから。
私自身が意識していなかっただけで。
それは、とても充実した毎日だったのだ。
★
博麗神社に霊夢の姿はなく、折角だから勝手に縁側でお茶を嗜んでいたら、魔理沙はうつらうつらと舟を漕いでしまっていた。意識が覚醒したのは、玉砂利を踏み締めるしゃりしゃりした音が聞こえたからだ。
手のひらにはまだ、湯飲み茶碗の熱が残存している。霊夢が帰って来たのかと思い、振り上げた視線が捉えた先には、確かにひとりの少女が立っていた。腋が空いた装束を身に纏っているから、もうちょっと寝惚けた状態が持続していたら、霊夢と間違えていたかもしれない。
「おはようございます」
「……なんだ、早苗か」
はあ、と嘆息して、まぶたをこする。東風谷早苗は、魔理沙のそんな態度に眉を寄せていた。
「なんだ、とはご挨拶ね」
「ご挨拶だぜ。間違っちゃいない」
「それはそうですけど」
寝惚け眼でも減らず口を叩く魔理沙に、早苗は片方の手を腰に当てて、しょうがないなあと言うふうに息を吐いた。
「霊夢はいないのかしら」
「案外、忙しいみたいだな。何か用だったのか」
「ん……、別に、これといった用事は」
口ごもる。
早苗のそんな態度に、ははあ、と魔理沙は得心が入った様子でいやらしく笑う。
「な、なんですか。言いたいことがあるんなら、はっきり言えばいいじゃ」
「霊夢と勝負しに来たな?」
「ぎく」
わかりやすく動揺してくれた。
魔理沙にはわかる。早苗の瞳が、あの頃の自分と重なって見えた。正確には、早苗は自分より思いつめてはいないだろうけど、心の奥底に秘めたものは同じだと思った。自負心、自尊心、越えるべき壁があり、避けて通ることもできるけれど、どうせならみずからの力で乗り越えてみたいと。
その偽らざる誓いが、あの頃の魔理沙を輝かせていたのだから。
「仮に、そうだとして……」
「いや絶対にそうだろ」
「何か、問題でもあるんですか」
力強く、早苗は告げる。
その言葉に、魔理沙は力なく首を振った。仮に早苗が霊夢に勝負を挑もうとも、今の魔理沙に彼女の決意を否定する義理はない。
今の早苗を否定すれば、過去の魔理沙をも否定することになる。できるなら、それは避けたかった。
そして早苗の選んだ道が、自分と異なる未来に繋がれば、それはそれで面白い。
「うんにゃ、特に無いよ」
「ですよね。ひょっとしたら、あなたも順番待ちしてるんじゃないかと思ったから」
「……私が?」
早苗は、こくりと頷く。魔理沙は尋ね返す。
「何故、そう思う」
「何故、て言われても困るけど……」
どうしたものかと首を捻り、困った挙句に魔理沙の隣に座る。社務所の中を覗き込んでみて、湯飲みと急須を見つけたかと思うと即座に突入する。魔理沙は止めもしない。管理人は霊夢だし、魔理沙も同じ手順を踏んだのだから早苗の行動をどうこういう資格もない。義理はちょっとある。
「よいしょ、と」
座布団を運び、魔理沙の隣に陣取る。ちなみに魔理沙は既に座布団を敷いている。
「その台詞、オバサンくさいな。老け込んだか」
「毎日毎日呑んだくれと付き合ってたら、嫌でも老け込みます」
彼女のため息が誰に向けられたものなのか、魔理沙は意識的に考えないでおいた。
「ふぅ……。いい香り……」
「なぁ、早苗」
「なんでしょ」
両の手のひらで湯飲みを支え、横目で魔理沙を窺う。背筋はしゃんと伸びて、風祝の名に恥じぬ振る舞いを己に強いているようにさえ見える。
芳しい茶葉の香りに引き込まれている早苗を、邪魔立てするのも気が退けたのだけど、聞かずにはいられなかった。ここで会うのも何かの縁だ。どこぞの山におわす何某かの神様も、縁結びでないにしろ、そういう類の一期一会を司っていてもおかしくはない。
「神様、いるだろ」
「神様、いますね。たくさん」
「秋だの厄だの死だのはこの際ほっぽいて、だ。今考えて欲しいのは、おまえんとこの二柱なんだ」
「……八坂様と、洩矢様?」
魔理沙は頷く。
「別にミシャグジ様は足さんでいいぞ」
「いや足しませんけど」
ぞくぞくッと背中を震わせている魔理沙を、早苗は不思議そうに見つめる。
「うちの神様方が、どうかしたんですか。もしかして、洩矢様が帽子の裏にたまごをぽこぽこ産んだとか」
魔理沙は咄嗟に帽子を脱ぎ去って中身を確認したが、特に諏訪子の痕跡は見当たらなかった。心の底からほっとする。
「……もしそうだったら蛙狩神事な」
「はいどうぞ」
我関せずといった調子で、呑気にお茶を啜る。
「ただちょっと、お前と神様がたの出会いを聞きたいと思ってな」
「出会い……」
ですか、と付け足すように早苗は言った。
彼女はしばし、遠い故郷の空を思い返すように宙を仰ぎ、お茶を飲むことも、息をすることさえ忘れているようだった。魔理沙は早苗の心情を察しようとして、自分と彼女の状況があまりにも異なることに気付き、下手な同情は避けるべきだと思った。簡単に、人の気持ちがわかるなどと言うべきじゃない。けれども、わからないなりに付き合い方というものはある。
早苗は、思い出したようにお茶を啜り、ひとつ大きな息を吐いた。
「懐かしいなぁ……」
独り言のように呟く。その懐かしさに触れられないことが若干悔しいけれど、それは仕方のないことだ。早苗の思い出は、彼女と彼女にまつわる者たちにのみ実感できる、尊い幻想なのだから。
そのかわり、魔理沙にしか実感できない思い出も、きっとあるはずなのだ。そして今、魔理沙はそれを探している。
「八坂様に出会ったのは……というか、物心が憑いた頃から、八坂様はいたの。洩矢様も、蛙が春に冬眠から覚めるように、いつの間にか私の隣にいた。そうであるのが、当たり前みたいに」
「なんか、座敷ワラシみたいだな」
「まぁ、間違ってはいないかも」
くすり、と早苗は微笑んだ。湯飲みの中に波紋が浮かぶ。
「幼い頃は、そんな霊感の有る無しなんてわからなかったから、それが当たり前だと思ってた。八坂様も神社から離れてうろちょろすることもなかったから、それが現代の人々にとっての異端だと知らずにいた。まぁ、洩矢様はむしろ積極的にうろちょろしてたから、最初のうちはよくちょっかいかけられてたけど」
当時を思い出してか、早苗は目を細める。神奈子も諏訪子も、守矢神社にいる。早苗の側にいる。それでも、昔のことを思えば、失われたものを慈しむような心持ちになる。おかしなものだ。
「だから、特別な出会いってわけじゃなかったの。どちらかというと、特別なのは私の生い立ちかも」
「特別なのが重要なんじゃないさ。きっとな」
「うん」
みずからに言い聞かせるように、魔理沙は諭し、早苗は頷いた。
「確かに、ああいうデザインが大手を振って目抜き通り歩いてたら、神様うんぬん関係なく注目の的だわな。年齢不詳だし」
「あ、えぇと……まあその」
「いい意味でだぜ?」
フォローになってなかった。
早苗のおろおろも止まらない。
「いや、いい意味でって言えばなんでも許されるわけじゃ……あわわ……」
「あわわ?」
「あわわだよ全く」
瞬間、魔理沙の頬がびょょんと伸びた。左右に。
「い、ぎぎぎぎッ!」
「どーもー年齢不詳の神様ですわははは」
「や、八坂様……」
「びー! びー!」
「びーびー言いたいのはこっちだよ、ほんと……」
泣きわめく魔理沙から手を離し、八坂神奈子はうすらぼんやりとした御身を人の前に現した。
魔理沙はひりひりする頬を丹念に擦りながら、恨みがましく滲んだ瞳で神奈子に対する。早苗は不安げに両者を見守っている。
「お、お、おまえぇ……、どうしてここに……」
「忘れたのかい。ここにもウチの分社があるんだよ」
神奈子の視線の先には、ちっぽけではあるが守矢神社の分社が建てられている。規模は本家に及ぶべくもないが、信仰を得ている分社である限り、神様である神奈子はびょょんとばかりに分社から参上することができる。神奈子の分身であると考えればわかりやすい。どことなくうっすらとしているのもそのせいである。
「ちくしょー……、いちち……」
「それはそうと、ウチの早苗がお世話になったみたいね」
「……なんかしたっけ?」
「ちょっとした昔話ですよ。それ以上も、それ以下もない」
「嘘つきなさい」
神奈子は、うっすらと目線を逸らす早苗を問い詰める。
「あんた、自分に都合の悪いことは何も言わないんだから」
「……ぁ、う」
うめく。
腕組みをして追及する神奈子に、早苗は何も言えなくなる。そうなると、俄然やる気が出て来るのは魔理沙である。
「お、そりゃあ一体、どういうことだ?」
「この子、そりゃあもう馬鹿が付くくらい真面目でねえ」
「や、八坂さま! それはもういいじゃないですかー!」
「だまらっしゃい。……でさ、私に初めて会ったときも、神に仕えるものは神と結ばれなくちゃいけないって本気で信じてたもんで」
「いやー! いやー!」
恥ずかしさのあまり、耳を塞いでよれよれと崩れ落ちる早苗を前に、神奈子はますます嗜虐心をそそられてついつい口を滑らせる。早苗は頭を抱えていて何も見えず、魔理沙は身を乗り出しているから前しか見えなかった。
「それでそれでー」
「ケロちゃん風雨に負けず!!」
虚空から出現した蛙の神様が、煌びやかに流れ去る彗星の如きカエルキックを、八坂神奈子の背中にお見舞いしていた。
「あべしッ」
悲鳴や苦悶をもらす余裕もなく、綺麗に吹っ飛ばされる八坂の神奈子。鮮やかな蹴りを決めた小さな神様は、空中で一回転してから颯爽と縁側に降り立った。
「やっほー」
「も、洩矢さま!」
障子を突き破りながら転げ回る主神は見ない振りをして、早苗はもう一柱の神様に向き直った。いじられた羞恥から顔はまだ赤く、瞳もうっすらとにじんでいる。ちなみに魔理沙は、カエルキックと神奈子に巻き込まれてそこいらに転がっていた。
「たく、神奈子にも困ったもんだね。あんだけ早苗をいじめんなって言ってるのに、ちっとも聞きゃしないんだから」
「あはは……でも、ちょっとやりすぎなんじゃ……」
「むきゅー……」
ぐるぐると目を回しているのは魔理沙である。が、早苗が居間の向こう側を覗き込んでも、あられもない痴態を曝した神奈子神の姿は何処にもなかった。
「あれ……?」
「どこ探してるんだい」
気が付けば、早苗の背後に雄々しくそびえ立つオンバシラ、もとい八坂神奈子。
はっとして後ろを振り返れば、相も変わらず凛々しい御身を備えた主神がいる。髪の一本も、袖の一振りも乱れていない。諏訪子はちッと軽く舌を打ち、神奈子はそれを見てフフンと笑った。
やんちゃな神様たちである。
「お……おまえらなあ……」
「あ、生き返った」
「生きてた……しかしなんだか、ものすごく重い物体に押し潰された気がするんだが……」
「気のせいだよ」
諏訪子にも人の心はあるのか、真実をその小さな胸の中に秘めた。オンバシラを射出しかけた神奈子の手も、思いがけない優しさにつられて踏みとどまる。
「と言いたいところだけど、実は神奈子です」
「すわこおぉぉー!」
「あッはははオンバシラなんぞ背負ってるからじゃー!」
「今は背負ってないわー!」
どかーんどかーんと連発される神々しい御柱の群れを、諏訪子はひらひらとサービス精神旺盛に回避する。砂利に突き刺さる御柱の畏敬を目の当たりにして、一種の狂気を覚えたのは魔理沙のみならず早苗も同様だった。
「楽しそうだなー……」
「そんな残念そうに言われても……」
愕然とし、肩を落とす早苗に魔理沙が出来ることといえば、今はもう空っぽの湯飲み茶碗に新しいお茶を注ぐことくらいだった。ありがとうございます、と魔理沙の優しさに目頭が熱くなる早苗、そしてより直接的な弾幕に移行する二柱の神様。圧倒的とさえいえる神々の攻防に、人の子はただ虚ろな瞳で空を見上げて、彼女たちの行く末に横たわる暗澹たる未来を憂うことしか出来なかった。
そう。
鳥居の向こうに見えるのは、博麗神社を司る永遠の巫女。
本人はあんまりやる気なさそうに見えるけれど、実は本当にやる気がない。
だが、害なすものに罰を与えるだけの心構えはあるようである。
見よ。あの陰陽球を。
「うわあ……」
「でっか……」
ふたりは呟き、過ちを繰り返す神々に鉄槌を下さんとする巫女を、生温かく見守っていた。
遠く、巨人が大地を踏み潰す音が聞こえる。
神遊びという名の先制攻撃及び報復行為を終え、神々は神社を去り、巫女は縁側でお茶を啜っている。ひしゃげた障子はそのまま、当人に聞いても「そのままでいいや……」と疲れた表情で語るのみである。
魔理沙はその隣に座り、穏やかに暮れてゆく空をぼんやりと眺めている。これから訪れる夜の帳に、漠然とした恐れを抱くような時代は過ぎた。満天の星に魅せられ、みずからもまた流星の名を冠する魔理沙には、どんなに暗く沈んだ空でもそこに星の軌道を描くことができる。なればこそ、夜を恐れる必要がどこにある。
「綺麗だなー」
「肌寒いことを除けば、ね」
「私は悪くないだろ……」
「善人だったら普通とめるわよ……あぁごめん、魔理沙は執行猶予付属の極悪人だったわよね……ならいいや……」
「酷い言われようだな……」
振り返り、薙ぎ倒された障子を見やる。破壊の爪痕は全て紅き斜陽に照らされ、思い出がみな鮮やかに映るように、それが美しいものであると錯覚させる。錯覚と知りながら、そんな感傷に浸りたい時も勿論ある。けれども、結局は現実に目を向けなければならないなら、始めから目を逸らさずにいた方がよい。
そう思うのに、霊夢も、魔理沙も、壊れた障子、境内にぼこぼこと空いた穴、冬眠から覚めた無数のアマガエルウシガエルトノサマガエルの鳴き声から、あまたの過酷な現実から目を背けることに一所懸命だった。
――げこげこげこげこけろけろけろけろくあっくあっくあっほーほけきょっきょっ
「むそーみょー……」
「やめとけ。傷口が広がる」
「あぁ……こんなんだったら、神奈子は留まらせるべきだったかしら……」
蛇は蛙の天敵である。神奈子は諏訪子の天敵、あるいはその逆が真であるかは、定かでないが。
「今でも呼べば来るんじゃないか? 何かしらの話題を振れば」
「……その何かしらの話題を振った結果が、これなんじゃないの。やっぱやめとく」
んだな、と魔理沙も苦笑する。その加害者意識のないあっけらかんとした態度に、霊夢は不意を打って魔理沙の頬を抓った。先程からの累積ダメージにより、触れただけでもびりびりくる。
「いびゃびゃ!」
「あら、見た目ほっぺた赤いわね。虫歯?」
「口内炎だよこんちくしょう……」
涙目のまま反抗する魔理沙に、もはや強気な少女の影はなかった。霊夢は、あーうー言いながら両のほっぺたを擦っている魔理沙を見て、少しだけ、彼女にばれないように笑った。
「あ、そういや」
マッサージを終え、適度に復活した魔理沙は、まだどこか呆然としている霊夢に問う。
「……うん?」
「そろそろ思い出したんじゃないか。私と、霊夢の邂逅」
「……邂逅、ねえ」
耳ざわりのよい言葉を使いたがるのは、その裏で、ふたりの出会いが輝かしいものであると盲信しているせいか。何にせよ、霊夢は言葉を選べなかった。
「思い出した」
「えっ!?」
「あんたがびっくりしてどうするのよ……」
「いや、霊夢のことだから、またのらりくらりとかわすんじゃないかなぁと」
気まずそうに、夕凪に溶ける金の髪を撫でる。いつの頃も変わらない無邪気な微笑みに、霊夢はうっすら目を細めた。その仕草が意味するものを、魔理沙も、霊夢もまた、知らない。
「でも、言わない」
「えっ、なんでー!?」
「あんたが覚えてないから、よっ」
ずびしッ、と、やや強めに魔理沙の額を突く。中指と人差し指で。
あうぅ、と可愛く怯む魔理沙に、霊夢は淡々と、冷徹さすら感じられる口調で、告げた。
「あんたが思い出してないのに、私がそれを教えたら意味ないじゃない。確かに思い出は他人と共有できるけど、それは思い出を経験として実感できる人に限っての話よ。だから、それを思い出として認識できない人に語って聞かせても、ただの知識、情報にしかならない」
「うっ……痛いところを……」
「痛いわよね。私は、主に、懐が痛いわ」
「悪かったよ……だからそんな『世界の終焉を明日に迎えたのに最後の晩餐を作るお金がありません』みたいな顔するなよ……」
「失礼ね……あるわよ。多分」
博麗神社の修繕費を思い、心から頭を抱える霊夢。早苗は去り際に全て弁償すると言っていたが、約束事など当てにならないのが幻想郷である。流石に神様ともなればそう易々と約束を反故にするわけにもいかないだろうが、完全に直るのはいつになることやら。
当の霊夢は、なかば本気で最期の晩餐にかかる宴会費用を計算し始めている。指折り数えて、酒を持ってくる面子と料理を作れる人材、後片付けを押し付けられそうな参加者を見積もっている霊夢に、魔理沙が掛けられる言葉はなにひとつなかった。
「はぁ……困った奴だな」
ただ、いつもどおりだと。
これからもずっと、何も変わらないのだと、安堵するようにふっと息が漏れた。
境内は次第に夜の藍に染められ、底冷えする空気が世界を支配しようとしている。そこから逃げるように魔理沙は居間に上がりこみ、即座に襟首を掴まれた。誰あろう、博麗霊夢に。
「ぐえぇ」
「宿題を忘れたお子様は居残り当番。答えられなきゃ進級できません」
「えー。幻想郷にゃ学校も、試験も何にもないんじゃないのかよー」
「人生に課せられた宿題は、死ぬまでに解ければいいってもんじゃないわ。別に、死は惜しみなく与うって意味じゃなくてね」
「うむ。意味わからん」
「でしょうね。私もわかんない」
「なんだそりゃ」
魔理沙はやや絞まりがちな喉を震わせて、笑う。
それから「しょうがないなあ」と肩を竦めて、縁石に立てかけたホウキを掴む。皐月の夜はまだ冷たく、握り締めた手のひらも汗は掻かない。霊夢は、ほんの気紛れで凧糸を離す身勝手な子どものように、魔理沙の襟首をあっけなく解放する。伸び切っていた襟首が急激に伸縮し、魔理沙は不意に体勢を崩す。
「おっ、とと」
「魔理沙」
「ん」
たたらを踏み、不器用なステップを刻む少女に向けて、霊夢は言った。
その表情に、いささかの曇りもない。夜も近いのに、陰りすらない。
それが、思えば、不思議でならなかった。
「また明日ね」
あぁ、と魔理沙は答えた。当たり前の挨拶だった。
夕凪の中に飛び立ち、風が砂利の砂を巻き上げる。その見えざる波紋に顔をしかめることもなく、霊夢は佇んだまま魔理沙を見送っていた。
遠く、名も知らぬ星が流れた。
☆
私たちの実力は拮抗しているように見えたが、私は有効な一撃を与えることが出来ずにいた。掠りはするものの、「参った」と言わせるような致命的な一打が放てない。撃てたとして、当たらなければ意味がないのだ。
更に一手。彼女に届くための、確実な一手が必要だった。
幼い私が己の力で成せることは、ほとんど全部やり尽くしている感があった。だから他人の手を借りなければならなかった。
他人に努力を覚られるのは嫌いだったが、意固地なままでは越えられない壁もある。
私は、奥の手に賭けた。
★
「やあ。おはよう」
香霖堂の店主、森近霖之助は、そう無愛想に挨拶をした。
彼にも一応は客商売をしている自覚はあるから、客であると思しき人妖には相応の態度で応対する。けれども、たとえば黒い三角帽子を目深に被った普通の少女だとか、雨にも風にも夏の暑さにも冬の寒さにも負けず身体の一部を露出した巫女装束を身に纏った少女だとか、その類のどう見ても客には見えない、そして冷やかし以上の深刻な迷惑をかける彼女たちに対しては、自然と口調も重苦しくなるのだった。
ましてや、この雨模様では。
「珍しいね。魔理沙がこんな雨の日に飛んでくるだなんて」
「いやまあ、晴れ女な自覚はあったんだけどなあ……」
「雲を突き破ろうとは考えなかったのかい?」
濡れそぼった服をぎゅうっと搾っていた魔理沙は、「おぉ」とばかりに手を叩いた。魔理沙は扉を開けた瞬間からびしょびしょであることは誰の目にも明らかだったが、それに負けす劣らず店内もまたびしょびしょのぐちょぐちょである。
帰れとも入れとも言えず、霖之助はしばしカウンターに肘をついたまま閉口していた。
「君も大概、酔狂な真似をする」
結局、あたり構わず裾を搾り、水滴を撒き散らす魔理沙に辟易して、霖之助は側まで寄って行き、ふかふかのタオルを頭から被せた。視界が遮られ、「うわっぷ」というふうに混乱していた魔理沙も、みずからの状況に気付いてぐいぐいと髪の水分を染み込ませていった。
「だがな。雨の中で、傘をささずに踊る人間がいてもいい。それが自由ってもんさ」
「そうか。なら君は、五月に降る雨をあまり暖かいと思わない方がいい」
「へ、へ……へっぷしゅッ!」
魔理沙の頭から、真っ白なタオルが小器用に飛び上がった。
掘り起こされた掘り炬燵は、夏への眠りから即刻目覚めさせられて渋ることもなく、絶えずこんこんと熱を供給している。掛け布団こそないものの、熱源があるのとないのとでは雲泥の差だ。魔理沙は掘り炬燵に素足を突っ込み、髪の毛をタオルでくるみ、霖之助の家に常備している専用の服に着替えて、恍惚とした表情で紅茶を啜っていた。霖之助は自分の紅茶を淹れ終えて、ようやく席に着いたところだった。その顔からは、いくばくかの疲労が見て取れる。
「厄介になるぜー」
「厄介だね、本当に」
「そこはオブラートに包めよ」
「そんなもの、ここにはないよ」
品物としてか店主の性格としてか、そのどちらでもあるような言葉だった。魔理沙はむーっと唇を尖らせる。文句のひとつも言おうかという境に、沈黙と雨音の間隙を縫うように、霖之助の低く透き通る声が響く。
「で、何の用だったんだい」
不意を突く一言だった。
預けられた視線に対し、魔理沙は返す術を持たない。唯一、真実のみを語れば問題はないのだが、彼があまりに単刀直入に切り込むものだから、魔理沙もその唐突さに困惑してしまった。
「何が」
「さっきも言ったと思うけど、君が、ましてや寒がりの君が、この五月雨の中に飛び込んでまで、僕の店に来る理由がない。暇だから、天気がよかったから、という言い訳は成立しないんだよ。ならば、どうしても僕の店に来なければならなかった理由がある、そう考えた方が早い」
「……そうだ、そうだよ。香霖の言うとおりだ」
渋々認める。どうせ、いつかは切り出さなければならなかったことだ。
魔理沙は霖之助と向き合い、まだ温かい紅茶の香りが立ちこめる居間の中、あの日の真相を知るべく口を開いた。
「香霖は、日記書いてるか」
「……少々」
「どのくらい前から」
「……そうだね。十年前くらいから……て、まさか、見るつもりじゃ」
「そのまさか……と言いたいところだが、今回は勘弁してやる。香霖にも、知られたくない思い出のひとつやふたつはあるだろうし」
「まあ、そうだね。否定はしないよ」
「詩とか恋文とか書かれてたりしてな」
「……で、その日記がどうかしたのかい」
霖之助は話を逸らした。
いつか朗読してあげよう、と魔理沙は思った。
「私が、ミニ八卦炉の出力を上げて欲しいって頼んだことがあったよな」
「あった、かな。よくは覚えていないけど」
「あったんだ。私も今まで忘れていたけど、そうしなきゃいけない理由があった。それが何か、香霖の日記に書かれてないかと思って」
珍しく真剣な表情に、霖之助もわずかに気圧される。程無くして、彼女の言動に不可思議な点があることを知る。
「……魔理沙は、思い出せない?」
「思い出せたら、わざわざこんな雨の中を合羽も着ずに飛んでくるわけないだろう」
だろうね、と霖之助は息をつく。
「そんなに昔の話じゃない。多分これは、霊夢に関わる話なんだ。なんとなく予想はついてる。でも、やっぱり、想像で済ませたくないんだ。そしてまだ、私はその思い出の結末が見えていない」
焦燥感に、胸を焼き尽くされる。
本当は、想像するだけなら、思い出の結末さえ予想できた。どんな突拍子もない終焉も、互いの心に決して消えない傷痕を残した結末も。けれど、自分の目で、自分の手で、みずからの記憶を掘り返さなければならないのだ。
早く、なるべく早く、思い出を取り戻さないといけない気がする。
何の根拠もないけれど、霧雨魔理沙の直感がそう告げているのだ。
身を乗り出し、ちゃぶ台に体重を掛け、雨音が普段の十倍もうるさく感じられる。頭が熱いのは、そうか、風邪をひき始めているせいかもしれない。
対する霖之助は、あくまで冷静に告げる。
「焦らなくてもいいよ」
「でも」
「僕の方でも探してみるけど、そのことが書いてあるかどうかは定かじゃない。僕も、おそらく霊夢に関係する事柄だろうと思う。でも、君がそう決意を固めているなら、憶測で物を言うのはよそうか。道具屋は道具屋らしく、利用される側の立場で、ただ事実のみを語るとしよう」
少し芝居がかった言い回しをして、霖之助は席を立つ。
雨音に掻き消されるほど小さな足音を残し、自室にあるらしい日記を取りに戻る。決して頼り甲斐があるとは言えない彼の背中に、ほんのわずかに優しさを見出してしまうのは、少しばかり疲れているせいだろうか。そういえば、そこそこ長く雨に打たれたから、身体が熱っぽい気がする。気のせいならいいな、と思っても、身体は勝手に前屈みになり、魔理沙は抗う余地もなくちゃぶ台の上に突っ伏していた。
「……ぁ」
やばいなあ、と声にもならない囁きを漏らして。
魔理沙は自分の額が重力に導かれるまま、ちゃぶ台に叩きつけられる音を聞いた。
☆
その日は小雨が降っていて、少し肌寒かった。
霊夢は縁側に座って、やむことのない雨を飽きもせずに眺めていた。
私はいつものように一方的に開会宣言をして、呆れる霊夢に戦いを挑んだ。
降りしきる雨の中を。
風邪や服のことなどお構いなく、ただただ目の前の相手と戦えることを喜びながら。
私はそうだった。霊夢はどうだろう。本当は、迷惑なだけだったのかもしれない。そう思ったことは何度もあった。それでも、私は私の論理を優先した。
勝負は拮抗しているように見えた。互いに一歩も退かず、自分が優位であるとも劣勢に立たされているとも思っていない。油断や慢心がない争いには、付け入る隙がない。疲労も感じない。永遠に続くかに思われる戦いは、本当に楽しいものだった。撃ち合いの最中に笑っていた私のことを、霊夢はやはり呆れて見ていた。
けれども、楽しいばかりでは駄目なのだ。
私は、彼女の一歩先を行きたかった。霊夢に勝って、彼女が立っている場所に立ち、そこから何が見えるのか知りたかった。同じ高みに立ちたかった。
だから私は、ミニ八卦炉を静かに起動した。
雨の中でも、この道具はよく動いた。魔力が浸透し、緋々色に煌めく六角形の兵器を目の前にして、霊夢の足も自然に停止した。移動しながらだと、狙いが定めにくい。その意味からすれば、真正面から向き合ってくれるのは助かった。まだ、調整には自信がないのだ。
発射の瞬間を見極めながら、お互いに距離を測る。一撃必殺、初勝利は眼前にぶら下がっている。だが、人参を欲しがる馬みたいに見苦しい真似は避けたかった。機は必ず訪れる。その一瞬さえ見逃さなければ、きっと、私は――――。
霊夢が動く。
それと同時に、私も動いた。
★
目が覚めても、雨はまだ降り続いていた。
掘り炬燵の中で眠りに就いたことを思い出しても、頭を起こすのも億劫で、何をするにも面倒くさくて、でも口の中は気持ち悪くて、泣きたいくらいどうしようもない心地だった。
「気持ちわるぃ……」
声に出してみると、どれほど気分が最悪かわかる。全身をもぞもぞ動かしていると、首は枕に支えられていて、身体は布団に包まれていることがわかる。ふかふかだ。この雨なのに、と思い返したら、昨日も一昨日も晴れていた。妙に家庭的な森近霖之助の一面を垣間見、震えが来るような、安堵するような、これまた言いようのない複雑な心境のまま、まぶたを閉じる。
「魔理沙」
「ん……香霖か……」
枕元に、お盆のようなものが置かれる。やや詰まり気味になった鼻の隙間から、ほのかに温かい匂いが忍び寄ってきた。
「卵がゆでも食べるかい」
「はは……殻が入ってなきゃいいけどな……」
「文句を言う奴に食べさせる余裕はないんだが」
「わかったよ、食べるよ……ありがとう……」
「うん。しかし君が素直に謝るのも珍しいね。明日の天気は、雪か霙か霰か雹か」
「難しい漢字を使うこたあない……私たちの心が晴れやかなら、それでいいんだ……」
まぶたの裏はただ一色の暗闇で、塗り潰された視界の隅に、ちかちかと赤い点が瞬いている。
今は、何も思い出せない。
起き上がるのも億劫で、何をするのも面倒だ。何をすればいいんだろう。どうすればいいんだろう。わからない。道標がほしい。夜空に燦然と輝く、あの北極星のように。
混乱しているのは明らかだった。それなのに、錯乱する気力も体力もない。
愚痴のようなものは、心に詰まって声にならなかった。
霖之助は、魔理沙の横に陣取り、ただ淡々と語り始める。
「日記をめくってみた。久しぶりに」
「あぁ、あの恥ずかしい日記か……」
「僕らが持っている思い出の全ては、どれもみな恥ずかしいものだよ」
素で言っているのか、照れ隠しなのか、それはわからなかった。
「魔理沙が僕にミニ八卦炉の出力向上を依頼した、その日の日記がある。僕が読むか、君が読むか、それは君が決めてくれ」
選択権は委ねられた。
起きるのも面倒だから、霖之助に朗読をお願いしてもよかった。露骨に恥ずかしがることはないだろうが、内心で苦虫を噛み潰している霖之助を想像して、楽しむこともできた。熱もある。雨も降っている。嫌な思い出は他人に預けて、ただただ怠惰な眠りに身を委ねていたい。
「急がなくてもいいよ」
「……あぁ」
雨樋を伝う雨水が、がしゃがしゃと激しい音を立てながら地面に落ちる。耳を塞ぎたい衝動に駆られるけれど、腕が動かないという言い訳の他に、耳を塞ぐなかれと心の奥底が叫びをあげていた。真実から目を逸らすな。真実なんてのはどうでもいいと、口を揃えて言っていたじゃないか。神も従者も吸血鬼も、巫女も道具屋も魔法使いも。嘘と本当を越えたところに、大切なものがあるのだと。
そんな柄にもない言い訳を、風邪っぴきだからという単純な理由で、思い巡らせてもいいじゃないか。
「……私が、読む」
青白い唇だけが、静かに動き。
霖之助は、穏やかに頷いた。
その日は、霖之助の家に居座ることになった。居間がそのまま魔理沙の寝床になる。霖之助は、用事があればベルを鳴らしてほしいと言い残して、自室に籠もった。柱時計は昼の二時を指している。お腹が空いたと思う。思う、としか言えないのは、食欲が湧かないから、食べてもすぐに戻しそうな気がするから、要するに具合が悪いからだ。お腹の中に、何か別のものが蠢いているような錯覚を抱く。
「気持ちわるぃ……」
そう口にした回数が何度目になるのか、数えるのも面倒だった。額に乗せられた氷のうは、首を動かせばすぐに崩れ落ちる。どうせなら、釣り糸を垂らすように誰かが支えてくれればよかったのだが、諸々の人件費からするとこれが妥当な線か。
氷のうをずらし、手のひらで額を撫でる。汗ひとつ滲んでいない肌はまだ冷たさを保っているが、きっとまたすぐに熱を帯びるだろう。全身を包む倦怠感も、鼻詰まりも、胡乱な視界も、全て乗り越えるべき壁となって魔理沙の前に立ちはだかっている。起き上がるのも、ともすれば息をすることすら困難な状況下で、それでも、為すべきことを為そうと決めた。
迷いは人を殺す。躊躇いもなく。
「黙って殺されるかってんだ……」
魔理沙は、氷のうを枕元のお盆に乗せ、うつ伏せになってから、両腕に力を入れて身体を起き上がらせた。
「ぐ、ぅ……」
力が出ない。脂汗が全身から噴き出るようだ。
なんとか身を起こし、布団に座り込む。額は既に熱くなっている。息も荒い。雨はいまだ降りやまず、この先に待ち受ける苦難を魔理沙に見せ付けているかのようだった。
「やれやれ、だぜ……」
ぼやく。
びしょ濡れになった服は洗面所を占拠しているから、別の服に着替えなければならない。どうせなら、あの日と同じ格好で出かけるのも一興だ。それなりに成長した身体には小さすぎる服も、今の自分ならば、あの頃と同じ姿になれる気がした。
仕方がないから、なるべくそれと似た服に着替える。下着が汗で濡れていることを考えると、症状はいくぶんか和らいでいるのかもしれない。そこいらに投げ捨てるのも気が引け、これまた洗面所に投げ入れる。
茹だるような熱を抱え、ふらつきながら薄暗い廊下を行く。ホウキは店の軒先にあるはずだ。ミニ八卦炉は懐の奥に。胸に秘めた思い出は、博麗神社で語るとしよう。
でも、その前に。
「どこに行くんだい」
霖之助は腕組みをしながら、勘定台の隅に佇んでいた。廊下の奥から姿を現した魔理沙に、厳しい目を向ける。
「……ちょっと、博麗神社まで。な」
「遠いね。しかも雨が降っている。更に言えば、君は風邪をひいているような気がする」
「斬新な発想だな」
「僕は当たり前のことを言っているつもりだよ」
本当に、真剣な調子で告げるものだから、魔理沙はつい可笑しくて噴き出してしまった。少し、咳が絡む。霖之助は眉を潜める。あるいはここで魔理沙がつまずこうものなら、恥も外聞もなく抱きとめるのだろうか。彼は。
「悪いことは言わない。寝なさい」
「……ほんと、香霖は親みたいなこと言うなあ」
「当たらずとも遠からじ、だ。伊達に長い付き合いはしていない。君がこういう時に意志を曲げないのも、人の話を聞かないのも知っている。だが、僕はやっぱり君に行って欲しくはない。明らかに自殺行為だ。霊夢は霊夢で頑固なところがあるから、君がどうあっても必ず立ち向かうだろう。それは君にとっても喜ばしいことかもしれない、でも、少しは心配している側のことも考えてくれ」
頭が痛い、とばかりに額を押さえる。それに倣い、魔理沙も自分の額を触ってみる。やはり、氷のうの効果も虚しく、火傷するくらいに熱い。もしこの身体が雨に打たれたら、額にわだかまる鬱陶しい熱も相殺されるのだろうか。
「あぁ。ありがとう」
自然に、そう言うことができた。
霖之助は、予想通り目を丸くしていた。落差が面白い。
「でも、ごめんな」
それはできない、と首を振る。
左右に揺さぶられる視界の中で、霖之助の寂しそうな顔が見切れた。
「……なんか今の、告白されたけどなんとなく断っちゃいましたみたいな流れだったな。流そう」
「流そうか」
流した。
「じゃ、またなー」
「待ちなさい」
さりげなさを装いつつ、横を通り過ぎる作戦は失敗に終わった。魔理沙の肩を掴む彼の力は、病人にするものと思えないくらいに、強い。
「痛い、痛いよ、香霖」
「君はすぐに逃げる性質だから、これくらいがちょうどいい」
「参ったなあ……」
「参ってるのは僕の方だよ……」
霖之助は、深々と嘆息する。魔理沙は笑う。
「なあ。香霖よ」
「なんだい。魔理沙」
台本を読むような調子で、ふたりは言葉を交わす。
「私と出会ったときのこと、覚えてるか」
そう問われ、霖之助は魔理沙の肩から手を離し、「ふうむ」と腕組みをして考え込んだ。降りしきる雨音は、いまだ耳に響く。
「どうした。忘れたのか」
「いや、ね。僕は、魔理沙が生まれる前から霧雨家と付き合っているんだ。だから厳密に言えば、君が生まれて初めて僕の顔を見た瞬間が、僕らの邂逅になる。でも、それは世間一般に言う出会いの概念からは程遠い。いうなれば、家族みたいなもので」
「まぁ、そうなるわな」
ふたりの間には、それくらいの言葉が相応しい。
守矢の神社にいる彼女たちのように、初めから、意識せぬうちから接点があった。それはいわゆる運命のようなもので、耳ざわりのよい響きを内包している。けれど、運命を操る吸血鬼は、あの従者とかけがえのない出会いを果たした。運命かどうかは知らない。最悪な出会いから、無限にも等しい時を幾重にも積み重ねて、ようやく運命と呼ぶに足る今を手に入れたのかもしれない。
だとしたら、それは初めから定められた運命より、よっぽど――――。
「でも、ちょっと勿体ないよな。そういう出会いがないってのは」
残念そうに呟き、ゆっくりと、外に続く扉を目指して歩き出す。
霖之助も、もう止めることはしない。初めから、止められないことは知っていた。しかし、止めずにはいられなかったのだ。
最後に、送る言葉として、霖之助は言う。
「魔理沙と霊夢には、それがあると言うんだね」
「そうだ。出会いが全て、なんていう話じゃないぜ? 今は大事だ。でも、思い出も大事だ。私はそれを忘れていた、だから」
ぐっ、と拳を握り締める。力は出ない。それでも、固く、強く握る。
「今、それを取り戻す」
取り戻さなければいけない。ふたりの出会いを。
心の中心に固く尖った誓いを突き刺し、魔理沙は重い身体を前へ前へと進ませる。背中を支えようとする霖之助の手を制し、そっと、薄暗い曇り空の下に躍り出る。
「……あぁ。降ってやがる」
正直言って、具合は悪い。天候も最悪だ。ただ、稲光はなく、気温もさほど低くない。気分は上々だし、このままなら空にも昇れそうな気がする。ありとあらゆる意味で。
「魔理沙」
「あぁ、心配すんな……っても、心配するだろうけどな。悪い、我がままばっか言って」
「全くだ」
呆れ顔の霖之助が差し出したのは、浅黄色のレインコートだった。素直に受け取るべきかどうか、しばし悩む。
「もう、子どもじゃないんだがな……」
「僕からすれば、魔理沙も霊夢も子どもだよ。それに」
少し間を置いて、霖之助は言った。意地悪く、それでいて淡い笑みを滲ませながら。
「あの日の君も、同じ色をしたレインコートを着ていたじゃないか」
博麗神社は、雨の日だからか、それとも常にそうであるのか、とにもかくにも閑散としていた。風の通り道は鳥居から賽銭箱にまっすぐ伸び、気が向いた時には、砂利に落ちている砂煙を一斉に巻き上げるのだ。
ホウキはふらふらと蛇行しながら、霧雨魔理沙を博麗神社まで運搬した。なかば無意識に飛んでいても、身体は博麗神社の在り処を覚えている。慣れか、縁か、いずれにしても不思議なものだ。
「さて」
雨粒を弾き、湿り気を帯びた砂利の上に、魔理沙は颯爽と降り立った。舞台の幕は上がっている。生憎の天候ではあるが、障害が多ければ多いほど気分は高揚するものだ。
レインコートを着ても、空を飛んで前進していれば顔は濡れる。あまり着る意味はない。けれども魔理沙は、子どもがお気に入りの服を身に纏うように、浅黄色の古びたレインコートに身を包んでいた。
水気を吸って重たいホウキを引きずりながら、魔理沙は霊夢の影を探す。鳥居をくぐり、ブーツの裏で石畳に染み入る水を蹴り飛ばしながら、たどりついた社務所の縁側に、彼女はいた。
「よう」
「あら」
多少、霊夢は驚きを隠せない様子で、顔を上げた。湯飲み茶碗を傍らに置き、お茶請けのゴマせんべいをかじる。緊張感などまるで感じさせず、魔理沙がレインコートを着てそこに立っていても、特に目立った行動には出ない。
「この雨の中、毎度毎度ご苦労さま」
「そう思うんなら、お茶かお茶請けでも欲しいところだな」
「濡れ鼠を家に入れる義理はないわ」
「ひどいぜ」
レインコートの上にかぶせた黒の三角帽を脱ぎ、頭に乗せたコートをはぎとる。それから改めて帽子をかぶり、魔理沙は竹刀のようにホウキを構えた。
「さあ、やろうか」
これには、流石の霊夢も呆れていた。
「……あんた、熱でもあるんじゃないの?」
「あるんだなあ、これが……」
額をごしごしと擦り、気を抜けば飛びそうになる意識をぎりぎり保持する。霊夢は、ほんの一瞬、眉間に皺を寄せるに留めた。
「……はあ。もう、お茶でもお茶請けでも馳走してあげるから、早く入んなさい。そんな調子でいきなりぽっくり逝かれたら、寝覚めが悪いったらないわ」
ため息を吐き、雨の届かない軒下から、魔理沙を手招きする。
だが、霊夢の予想と、魔理沙の確信が交差するように、魔理沙は首を横に振った。
「私は『やろう』と言ったんだ。聞こえなかったなら、もう一度その耳に囁いてやるが」
「お断りよ……」
うんざりした様子で、霊夢は嘆息する。それから重い腰を上げ、食べ始めたせんべいを一気に口に含む。リスのように膨らんだほっぺたに、子どもじみた愛嬌が滲んでいる。
どこからか取り出した祓い串の先っぽを、軒下の柔らかい土に突き刺す。
「雨に唄えば、なんて洒落たことでも言うつもり?」
「うんにゃ、違うな」
すぅ、と息を呑む。清涼な空気だった。
「雨の中で、傘をささずに踊る奴がいてもいい。それが自由ってもんさ」
「自由、ね。確かに、あんたは自由だと思うわ。我がまま小僧っていう意味で」
「ああ、自覚はしてるよ」
す、と魔理沙はホウキを眼前に掲げ、霊夢は祓い串を引き抜く。お互いに、笑みとも睨みとも言えない複雑な表情を浮かべている。
それぞれ、思い出に対する自責の念や嘆きの言葉など、一切口にしない。
数秒後に接敵するふたりは、何年かの時を経て、今ここに再会を果たした。交わす言葉や仕草、構えは、あの日と重なるように演じている。無論、あの頃と同じ格好、同じ台詞、同じ心境でいられるはずもない。けれど、それはもう仕方のないことだ。魔理沙も、霊夢も、あの頃のような少女ではなくなっているのだし。
その代わり、今でしか言えない台詞がある。今しか作れない表情がある。
それが、少し誇らしい。
「全て水に流してあげるわ、時代遅れの魔法使い!」
「全て水泡に帰してやろう、博麗の巫女!」
あの日と似て、あの日と決定的に違う、ふたりの戦いの幕が切って落とされた。
しとしと、ぴちゃぴちゃ、降りしきる雨の中を、ふたりの少女が飛び回る。
星型の弾幕と、御札の群れがお互いを仕留めんと降り注ぎ、かわし、さばき、再び撃つ。繰り返し、切り替えし、決定打といえる攻撃を幾度にもわたって展開する。けれども、魔理沙、霊夢ともに、いまだ致命的な一打は与えられていない。
病に冒され、憔悴し切っているはずの魔理沙は、身体の心から湧き上がる気力のみで己を支えていた。魔力はミニ八卦炉に蓄積されているから、自らを搾って弾幕を展開する必要がないことも救いだった。だが、長期戦が不利であることに変わりはない。対する霊夢も、短期決戦に持ち込もうとしているように見えた。攻撃に容赦がなく、表情も真剣そのものである。動きも機敏で、装束が雨に濡れて鬱陶しいだのと愚痴る素振りすら見せない。むしろ、雨が霊夢を避けているように、霊夢が雨粒を避けているかのように、彼女は雨の束縛から逃れていた。
「流石だな」
呟く。鼻筋から落ちた雫が、口の中に滑り込む。
霊夢にも、自分にも聞こえたかどうかわからない言葉は、胸の中にある決意を突き動かすには十分過ぎるものだった。ホウキを握る手のひらが、雨か汗か、あるいはそれらが混ざったもので、にじむ。
中空に漂うふたりは、期せずして、同時に向かい合った。ろくに言葉も交わさず、ただ弾幕のみをぶつけ合っていたけれど、それでも心は満たされていた。忘れ去られていた、足りなかったものが少しずつ埋められていく感覚。それを、霊夢も感じているのだろうか。だったらいいな、と魔理沙は願う。
「今日の私は、一味違う」
霊夢の眉が、ぴくりと上がる。
「最終兵器の存在を匂わせるの、悪い癖よ」
「気にするな。でも、これで言い訳はできないだろ? たとえ避けられなくても、不意打ちだったからなんて言えないからな」
「自信過剰なのも、相変わらずね」
「お褒めにあずかり、光栄ですわ」
斜に構え、足を崩して会釈をする。
再び向かい合ったふたりに、再開宣言は必要なかった。魔理沙が即座に放った数多の弾丸が、真昼に咲く流星となって霊夢に襲いかかる。霊夢はその場に留まったまま、体捌きだけで星の弾丸を回避する。魔理沙から視線を逸らさず、一挙手一投足を見定める。
魔理沙が星弾を出し尽くすと、霊夢は一気に距離を詰める。一瞬、ほんの一瞬だけ気が抜けた魔理沙の隙を突き、勝負を決するべく前に出る。
だが、魔理沙もその動きを読んでいた。
「甘い!」
叫ぶ。
と同時に、体重を預けていたホウキを乱暴に振る。霊夢は不意に前進を止めるが、それ以上に、魔理沙の奇行に声を失った。
ホウキを降りれば、魔理沙は落ちる。
霊夢の危惧は、魔理沙自身の台詞により紛れもない真実に昇華した。
「その通り」
急転直下、寄る辺を失った魔理沙は、まっさかさまに落ちていく。霧雨よりも遥かに強く、まだ冷たさの残る五月雨の中を。
「ばッ――!」
咄嗟に、霊夢は手を伸ばす。遅すぎる、と知ってはいたが、病人が地面に叩きつけられるのを黙って見過ごすわけにもいかなかった。それが、おそらくは魔理沙の計算だと知っていても。
だからこれは、解っていても避けられない、ひとつの必然なのだ。
「名前をつけたんだ。この魔法に」
自由落下の最中、魔理沙は酷く冷静に言葉を紡いでいる。両手でホウキを掴み、その中心に、ミニ八卦炉の淡く乏しい輝きがある。
煌々と光り始める魔力の中心は、魔理沙の身を案じ、手のひらを伸ばした霊夢に向けられていた。魔理沙は笑う。意地悪く。
「喜べ、霊夢。お前が最初の犠牲者だ」
射程距離は文句なし、魔力開放臨界点、システムオールグリーン。
意志は閉ざさず、瞳は前へ。口惜しそうに唇を噛む、博麗霊夢を射竦める。
「ファイナルマスタースパーク!!」
告げる。
世界を埋め尽くす閃光に、つい目を塞ぎたくなるけれど、あの日と異なる結末を夢見ているならば、自分は最後までこの舞台から降りるわけにはいかないのだ。
ミニ八卦炉を掴む手のひらが震えている。
身体中から全ての力が抜け落ちるように、魔力は媒体を介して魔砲に注ぎ込まれ、霊夢は、その渦中に呑まれていった。
☆
あの日の私は、勝利の確信とともに、たとえようのないくらい大きな虚無感に襲われていた。
勝った。霊夢に勝った。
それは事実である。なかば暴発ともいえるくらい、強烈すぎる魔砲だった。事実、ミニ八卦炉に全身の魔力を刈り取られ、嫌な汗が滲み始めている。望んでも届かなかった境地に達したのだから、これくらいの疲労はあってしかるべきだ。だから、何も悪いことはない。
それなのに、このうるさいくらいの胸の鼓動は、一体何を意味しているのだろう。
ミニ八卦炉を構えたままの体勢で、空中の姿勢制御がままならなくなって、ふらふらと落ちていく霊夢を眺めている。決して手の届かない流星が、そのまま燃え尽きてしまう姿を呆然と見つめるかのように。
――違う。
「違う!」
咆哮する。
私が望んでいたのは、こんな結末じゃない。
そう思った瞬間、私は落ちていく霊夢の軌道を追っていた。
★
無尽蔵に放たれる閃光は、絶えることも知らずに煌々と輝き続ける。
ミニ八卦炉に重ねた手のひらから、己の魂が吸い取られていくよう。それでも腕は離さない。離すわけにはいかない。歯を食いしばりながら、薄れて消えてしまいそうな意識を留め、魔理沙はなおもミニ八卦炉を握り締めた。
雨粒に光が溶け、視界が白一色に染められる。遥か天上に伸びゆく光の柱は、徐々に、しかし確実に細くなっていた。
限界が訪れる。
それは仕方のないことだけれど、もう少し、あと少しだけ粘りたかった。全力を出し切り、己の力で勝利を勝ち取ることが、あの日には出来なかった。だから。
せめて、この瞬間だけは。
「いッ……けぇぇぇ!」
咆える。
か細くなっていた光が、刹那の輝きを取り戻す。白から無へ、全てを灰燼に帰す終焉の稲妻が、わずかに見える巫女の影を殺ぎ落とそうと牙を剥く。
閃光は霊夢を覆い隠しながら、それでも完全に捉え切れていない。霊夢の張る結界は厳重で、八点からなる防御機構には一欠けの無駄もない。
ならば、結界ごと押し返すのみ。
「……ぐ、ぅ……!」
ミニ八卦炉に力を込める。
食いしばっていた奥歯がずれ、不明瞭な不快音が頭蓋を砕く。
限界を越える。越えたいと乞い願う。
それでも、今の自分が伸ばせるだけの腕の長さは、やはり決まっているのだ。
霧雨魔理沙も、博麗霊夢も、成長している。腕の長さは、あの日から随分と伸びた。掴める星も増えた。届くものも、それでも届かないものもある。これからだ。これから。これから。
唐突に、全身から力が抜ける。ほう、と唇から何かの息が漏れる。
「――――あぁ」
光が萎む。視界が晴れる。
白から灰へ、薄暗い世界の頂上に、紅白の結界を身にまとい、博麗の巫女が君臨していた。
「魔理沙!」
あの日と異なる結末を背負い、大きく腕を振りかぶり、魔理沙めがけて霊夢が落ちてくる。
霧雨魔理沙に冠せられた、雨を翔る流星の名を借りて。
「霊夢……!」
叫び合うことに多分意味はない。しかしまあ、こういう時に何か言うべきことがあるとすれば、それはきっとお互いの名前しかないのだろう。
そんな気がする。
「悪霊退散!」
悪霊かよ。
落下の勢いそのままに、霊夢は魔理沙の額に札を叩きつける。強く。激しく。
会心の一撃だった。事の終わりとして、申し分ないほどに。
ふっ、と意識が途切れる。
魔理沙は思い出を清算し、健やかな気持ちで、けれど体調は最悪なままで、緩やかにその意識を閉ざしていった。
☆
あの日の私は、自分の力を出し切れなかった。ミニ八卦炉の性能を御し切れず、私にも、霊夢にも予想し得ない力が放出されてしまった。だから、霊夢は負けた。私は勝った。期せずして。
でも、こんなものには、何の意味もない。
湿った石畳に倒れ込み、辛そうに呼吸をしている少女から、気丈さや冷静さといったものを見ることは難しい。それは私が思い描いていた勝利と、大きく食い違っていた。
流血はなく、打撲と挫傷がほとんどのようだ。抱き起こして、意識があるかどうか確認する。その時の私は自分でも驚くほど動揺していて、ろれつが回らない状態だった。
霊夢は程無くしてまぶたを開け、私に抱きかかえられていることに気付くと、少しむずがゆそうに身をくねらせた。
そうして、少し熱くなっていた私の目の端に触れ、どうしてかわからないが、優しく微笑んでいた。
大丈夫よ、と言いたかったのか、恥ずかしいから泣かないでよ、と言いたかったのか。
それがわからなくて、情けなくて、涙がにじんだ。
★
雲が流れている。明日は晴れるだろうな、と魔理沙は予感した。
石畳に寝転び、横を見れば、疲れ果てて丸くなった霊夢の背中がある。額は冷たく、かといって雨の冷たさから来ているわけでもないようだ。
「この御札……」
「博麗特製急速冷却仕様。雨の中を派手に飛び回るウツケ者に効果的」
「耳が痛いなあ……」
「犬でもこんな雨に出歩かないわよ。おかげでびしょ濡れじゃないの、あーあ……」
ぐっしょりと重くなった袖を、見せ付けるように大きく広げる。ごめんごめん、と声にもならない謝罪の言葉を述べ、魔理沙は小さく息をついた。口を開けると、何もしなくても雨粒が入り込んでくる。それでも、呼吸することをやめられなかった。
「……は、あ」
あの日のことを、霊夢に聞いてもよかった。
あの日の自分は負けるべきだったんだ、とか、やっぱり霊夢はこうでなきゃ、とか、愚痴や皮肉のような言葉を投げてもよかった。
だけど今は、火照った顔に落ちてくる無数の雨がやけに気持ちよくて、その気分を野暮な台詞で邪魔したくなかった。それは霊夢も同じようで、ぐったりと背中を丸めながら、視線は気だるげに宙を泳がせている。
「霊夢」
「ん」
耳に這い寄る雨音は近く、蛙の鳴き声もやけに大きく響く。
「宿題、終わったよ」
囁くように、思い出を巡る旅路の終わりを告げる。
霊夢も、どこか安堵したような、けれどもやはり素っ気ない声で、それに応えた。
「そう。おつかれさま」
「ああ疲れた……」
ぐったりと呟く。
天高く雲は流れ、やがて空に虹が架けられる。そうなることを疑わず、魔理沙は少しだけ笑った。本当に、泣きそうなくらい、清々しい。
その声を背中で聞いた霊夢が、不思議そうに振り返っていた。
「……あんた、熱でもあるの?」
☆ ★
「でね、早苗ったら三つ指突いて、『ふつつかものですがよろしくおねがいします』とか言っちゃってー」
「まだ続いてたー!?」
「神奈子こら早苗いじめんなッて言ってんだろこらー!」
「うははは早苗がうぶなリアクションするから悪いのよ!」
「それはまあ、そうよねー」
「寝返ったー!?」
早苗はがびーんと頭を抱えた。
二柱の神々に挟まれている早苗が、近いうちに爆発するであろうことは誰の目にも明らかだった。守矢神社の実権を握っているのは果たして誰なのか、曖昧になっているところをはっきりさせておくのも悪くないかもしれない。
とりあえず、何かしらの意見が食い違ったらしい神々が取っ組み合いから弾幕に移行し、空に舞台を移した我らが神様を風祝がおろおろと眺めている。境内に飛び火する弾の一欠けを横目に、霊夢と魔理沙はのんびりと杯を傾けていた。
縁側に腰掛け、晴れ渡る空に浮かんだ雲と蛙と御柱を、シュールリアリズムの絵画を解読するように仰ぎ見る。おおむね、幻想郷にはよくある風景だった。
「全く、あいつらも飽きないなあ」
「あんたがそれを言うか」
霊夢は嘆息し、吐いた息の量だけ酒を呷る。それに続いて、魔理沙も枡を傾ける。
雨の日の決闘から一日が明け、魔理沙は見事な復活を遂げた。このどんちゃん騒ぎは、霧雨魔理沙快気祝いの意味合いが濃い。魔理沙が、あの日の思い出を取り返すまでに関わった神鬼人妖を集め、私のおごりだとばかりに酒を振る舞っている。が、酒は霊夢の蔵から持ってきたものである。
霧雨魔理沙には、よくある話だ。
「にしても、来ないわね。霖之助さん」
「あー、でもしょうがないわな。あいつはそういう奴だから。なまじ、下手に来られて酒呑んで潰れて介抱する羽目になっても困るし」
「あんまり想像つかないけど。霖之助さんの酔ってるとこ」
「かくいう私もよく知らん」
何それ、と霊夢は呆れたふうに返す。
このあたりから、早苗の堪忍袋の緒が時間経過とともに千切れ出し、奇跡の力をもって神々に立ち向かい始めた。俗に言う神遊びの儀式であるが、傍目からするとただ暴れているようにしか見えないのが幻想郷の妙である。
風情があるのかないのか、ともあれ賑やかなことに変わりない境内に、ふたつの影がふらりと舞い込んだ。
「元気そうね」
「ふん。折角来てやったってのに、五体満足でがっかりだわ」
「なんだ喧嘩売ってんのかその感想」
「何よ私もなけなしの春売るから素敵な賽銭箱はあっち」
「まだ持ってたのかそれ……」
音もなく、紅魔の主従が現れる。
流れ弾として飛んでくる弾丸を日傘で全て弾き返しているあたり、咲夜の並々ならぬ瀟洒さが窺える。レミリアはいつものようにふんぞり返っているが、さすがに少し眠そうだ。よく見ると、まぶたがたまに落ちる。
「呑むか?」
「ワインを頂戴」
「ねえよ」
「お待たせ致しました」
一連の動作に隙がない。差し出されたグラスを摘まみ、レミリアは空に咲いた弾幕の花を肴に、ほのかに甘い味わいを愉しむ。咲夜はトレイを胸に抱いたまま、魔理沙が差し出したお猪口を受け取る。
「風邪ひいたことも知らないのに、いきなり快気祝いだなんて言うから驚いたわよ」
「咲夜が言うには、魔理沙は自分が死んだことを忘れていて、身体が無くなったことを復活したと勘違いしている――てな説があるらしいけど。どうなの?」
言って、レミリアはぺしぺしと魔理沙の額を叩く。
何故かお茶請けの皿に盛ってあった豆を思い切り投げつけてから、魔理沙は自分の頬をぺたぺたと触る。レミリアは豆を食べている。
「あれ、死んでたっけか私」
「生きてるんじゃないー?」
やや赤らんだ頬で、霊夢は魔理沙の額をぺしぺしと叩く。もしかしたら、あの冷却呪符が効果的だったんじゃないか、と魔理沙は考える。結局のところは魔理沙の免疫力、回復力、そして若さの賜物なのだろうけど、そういう柄にもない優しさを期待するのも悪くない。
返す刀で、魔理沙は霊夢の額に手刀を浴びせる。あまり強く打った覚えはないのだが、お互いに酔っているせいか、霊夢はくらりと揺れたかと思うと、仰向けに倒れ込んでしまった。
一瞬、誰もが目を丸くした。
「おぉい!」
最初につっこみを入れたのは、やはり魔理沙だった。
「……あー、酔ったー……」
返ってくるのはしかし、そんな気のない台詞ばかり。魔理沙も、咲夜も、レミリアも、しょうがない奴だと言うふうに苦笑していた。
「おいおい……、まだ何杯も呑んでないじゃないか。五臓六腑でも縮んだか?」
「そうかもー……」
気のない返事を返し、ぐったりとして腕で顔を覆う。
風邪がうつったのかもしれないな、と魔理沙は心の中で反省する。霊夢も人の子だ、うまいこと免疫が作用しない日だってある。そう納得しかけたところで、空から蛇と蛙が騒々しく落ちてきた。
「伸身月面宙返りー!」
蛙は見事な後方二回宙返り一回ひねりを決め、砂煙を上げながら軽やかに着地する。
「エクスパンテッドオンバシラー!」
一方の蛇は、巨大な御柱にて蛙を押し潰さんと、けたたましく着弾する。が、すんでのところで直撃を回避、死角から洩矢の鉄の輪を投げつける。神奈子は素手でそれを受け止め、ひとたび手のひらに力を込めると、鉄の輪は冗談のように呆気なく砕け散った。ぱきり、と妙に乾いた音がする。
「ちぃ……腕は鈍っていないようね。諏訪子……」
「へへ、伊達に遊び呆けちゃいないよーってんだ。悔しかったら、そのご自慢の怪力でガッチリ捕まえてみな」
「言うわね……あんた、後悔しても知らないよ!」
「どっちがー!」
向かい合い、砂埃の舞う石畳の上から、第二次諏訪大戦が繰り広げられようかという、その刹那。
「どっちもです!」
遥か、突き抜けるほど青く透き通った空の上から、風祝の少女が颯爽と舞い降りる。
握り締められた拳はふたつ、右手は洩矢、左手は八坂へ。
ごッつん、と景気のいい音が鳴り渡り、天下の神々が幻想郷の地に沈んだ。頭頂部からけったいな煙を立ち昇らせ、無残に倒れ伏す神々を、早苗はやんちゃ坊主でも見るような目で眺めていた。
「全くもう……」
いたたた、と痛む両手を擦る早苗。瞬く間に収束した戦争に惚れ惚れしながら、魔理沙はやる気なさげに拍手をした。
「おー、豪快だなー」
「うう……嬉しくない……」
うなだれる。
そうしてふと顔を上げた先には、早苗の見たことがない顔がふたつ並んでいる。初対面なのは向こうも同じようで、どちらから声を掛けたものかどうか、一秒にも満たない無言の会話が成され。
「ごきげんよう」
ここは、年長者が挨拶の言葉を述べた。
早苗は初め、幻想の吸血鬼と対峙しているが故の緊張と興奮から、少しばかり硬直が解けなかった。が、もとよりまっすぐすぎるくらい真面目な少女のこと、挨拶をされてそれを返せないはずもなかった。
「はじめまして、東風谷早苗と申します。以後、お見知りおきを」
「断る」
断られた。
がーん、とわかりやすく衝撃を受ける早苗を嘲笑い、レミリアは腰に手を当て佇む。
「知られるか忘れ去られるか、それはあなた次第。無条件に人の記憶を占拠しようだなんて甘い考え、ここじゃ通用しないよ」
「う……」
怯む。その様子を見て、レミリアは浅く息を吐く。
「レミリア・スカーレットよ」
「……え」
「さて。あなたは果たして、私の記憶を書き換えるに足る人材かしら?」
薄く、その体躯には似つかわしくない妖艶な笑みを零す。
早苗も、今度は怯まずに向き合っている。唾を飲み込み、瞳を逸らさず、幻想と化した吸血鬼と対峙する。
咲夜は、彼女たちが形作る視線の火花を、うっとりと眺めている。
彼女たちの邂逅を遠巻きに眺めていた魔理沙は、ひとり、晴れ渡る空を仰ぐ。
ここにもまた、ひとつの出会いがある。ここから一体何が生まれ、どんな道に繋がるのだろう。たとえ道を誤っても、出会いそのものが最悪だったにせよ、振り向くことも、引き返すことさえ自由なのだ。
なんて、すばらしいんだろう。
「はあ……」
傍らに寝転んでいる霊夢が、アルコール混じりのため息を吐く。身体を起こす気はないようだが、愚痴を零すくらいの気力はあるようだ。
「暑いな……」
「暑いわ……」
力なく吐き出された言葉は、情け容赦ない日差しの中に溶けて消えた。
眩いばかりの陽光の中に、吸血鬼と風祝の少女が睨み合っている。
殺伐としているようで、この幻想郷には程よくありふれた出会いが、今まさにその幕を開けようとしていた。
夏は、始まったばかりである。
そして、彼女たちも、また。
『エピローグ』
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