ユキメ

 

 

 

 雪女を愛してはいけない。
 あれは妖怪だ。

 

 

 魔法の森は低温湿潤だが、太陽が当たるからこそ化け物クラスの樹木が生え揃うのだ、日陰を望むなら紅魔の館のような寝食を賄える空間が最上と言える。
 だが、あそこの主は気位が非常に高い。レティも、貸しを作ってまで春夏秋の別荘に仕立て上げようとは思わなかった。
 湖の傍、何物も寄せ付けぬ切り立った断崖、その袂に空いたがらんどうの洞窟。
 住み易いように寝台用具を備え付けて、冬までの長くも短い時節を安穏と通り過ぎる。
 干草を丁寧に編んで纏めた枕に、満遍なく顔を埋める。不意に眠りから覚めた意識を、そのまま沈めてしまおうと草の香りをいっぱいに吸い込み。
「――お休みのところを……」
 良い所に、邪魔が入った。
 首を巡らすと、鴉を連れた鴉が申し訳なさそうに佇んでいた。ご丁寧に正座までして待ち構えている。そうしてくれても、与えられるものは相応の仕置き程度なのだが、もう冬も近いから、今のうちに今年の空気に慣れておく必要もある。
 レティは、ぼやけた眼と意識を拭うために少し大きな声を出した。
「……誰よ?」
「はい、いつかの新聞記者です。本日は大変お日柄も良く――」
「知らないけど……」
 鴉天狗の背後に光る太陽の白は、いつの頃も眩いものだ。同じ白でも、雪のそれは好ましく感じられるのに、不思議なものである。
「なに、冬が恋しくなったの? その気持ちは分からないでもないけど」
「いえ、そういうのじゃなくてですね。冬の妖怪として、ひとつ冬に纏わるお話でもお聞かせ願えないものかと思いまして、はい」
 その手に手帳とペンを携えて、準備万端と言わんばかりに身構える。
 レティの承諾を得ないまま、勝手に話を進めてしまう。随分と勝手なものだと思う。
 が、薄らぼやけた頭で冬を謳歌するのも好ましくない。楽しみ方としても不出来に過ぎる。
「仕方ないわね……」
「お願いします。こういうのは、冬に入ってからじゃ遅いんですよ。ほら、十月なのに十二月号だったりするじゃないですか。そういうもんです」
「……そういうもんねぇ」
 そうですそうです、と適当に相槌を打つ天狗はもうレティを見ていない。
 気にはすまい、どうせ茶飲み話だ。
 湯飲みに注がれた熱さに、静々と蕩けてしまう物語でいい。
 その前に、ふあ、と間の抜けた欠伸を空洞の中に響かせておいた。

 

 

 昔、彼女の髪は長かった。
 足元に這う黒髪は生き物のように、肉感溢れる姿態は薄絹一枚によく映えた。
 彼女は、ある山の中腹に住んでいた。
 陽の当たらない場所を好み、万年雪のある凍えた大地を根城としていた。
 生き物を寄せ付けない空間が、彼女をずっと守っていたのだ。
 ずっと、独りだったということを除けば。
 それに気付いたのが、長く続いていた孤独の終わりだった。
 ある冬の日、久方ぶりに人間と出会った。
 外は暴風と大雪が吹き荒び、太陽が射す時間だと言うのに闇夜の黒を彷彿とさせる。
 転がり込んで来た男は、この厳しい土地に女が居ることに驚いた様子だった。
 しかし、それにもいずれ慣れた。
 彼女は、しばらく慣れなかった。
 人間の社会と隔離されながらも、人間に似た居を構える。
 男には、物置小屋のような場所を宛がった。
 死体が増えるのを嫌って、適当に防寒処置を施しておいた。吹雪がやむ気配を見せないので、簡単な食べ物も与えた。人間は女の存在を酷く不思議がっていたが、同様に喜んでもいた。
 何でも、あなたのような綺麗な人と寝食を共に出来るのは、至上の幸福だ――そうだ。
 今度は、彼女が驚愕する番だった。
 その呆とした顔を見て、男はよく笑ったものだった。


 世捨て人なのか、勢いを増す吹雪に焦る様子もない。
 彼女が聞いても、笑って誤魔化すだけで判然としない。言わなければ叩き出すと脅しても、ならば仕方ないと腰を上げるのが落ちだった。野垂れ死にしては心が晴れぬと、彼女も無理強いはしなかった。
 不思議と、雪はやまなかった。
 心の内で、やまないでくれと望んでいたせいかもしれない。
 長く生きていれば、その程度の力は付くものだ。
 男は、面妖なこともあるものだなあ、と顎を擦るだけだった。
 そういえば、彼女はどうして人間を受け入れたのだろう。
 珍しいものに興味を持ったのか、肥やして食べてやろうと思ったのか、それとも。
 独りが嫌で、道連れが欲しいと望んだからなのか。
 これは昔々の物語だから、答えを望むのはお門違い。
 語り手はただ語るのみ、真実は各々の捉え方次第。
 物置も多少整理され、寝台が付き、箪笥が備わり、枕が増えた。
 初めは男一人に食わせていた食事も、暇だからという理由から彼女も付き合うことになった。
 男が女に慣れたように、女もまた男に慣れる。
 冬は、徐々に更けていった。


 ある日、男が帰らせてくれと言った。
 何故と聞けば、雪を降らせているのはあなただろう、と臆することなく答えた。
 そうかもしれない、としか告げられなかった。妖怪として長きを生きてはいたが、力を発露することは少なかったから、やませる術など知らなかった。
 そうか、と残念そうに俯くので、何故帰りたいのかと尋ねる。
 男は、故郷に残して来た女が恋しくなった、と彼女を前に嬉しそうな素振りを見せた。
 吹雪が降り始めて、一ヶ月が経っていた。


 今年に入って、最も強く吹雪いた夜。
 彼女は、男の部屋を訪れた。何の警戒もなく、彼は女を招き入れる。
 私は妖怪ですと告白すれば、男には当たり前のような顔をされる。
 何故畏れないのですかと問えば、あなたが妖としか思えぬほどの佳人だからと答える。
 ――私が好きですか。
 好きだ。
 私にはその気持ちが分かりません。だから、それが分かるまで、どうか傍に居てください。


 男が首を横に振ったので、女は男に覆い被さった。
 遣り方は知っていたが、行為そのものは初めてだった。
 男は拒まず、冷えた身体をお互いに抱き締め合った。
 あまりに強く抱いたせいで、お互いを殺し尽くしてしまいそうだったけれど、死んだら駄目だから何とか堪えた。死なせてはいけない。その為に繋がっているんじゃない。
 では、何の為なのか。
 それさえもよく分からぬまま、身体は無理やりに熱せられていった。
 不快な熱も、今は、今宵だけは快楽と共に浸れそうだった。


 お腹に感じる熱が、いつか子を生せばいい。
 それは、必ずや男を縛る鎖となるだろう。
 けれども、その審判が下される前に吹雪はやみ、彼女が目覚めるより早く、男は小屋を去って行った。
 別れの言葉はなく、彼女が久方ぶりに見上げた空は、瞳を焼き切るくらい眩しく輝いていた。


 半日か一日かの時が経って、降り続いた大雪が太陽に熱せられて、稀に見る雪崩を生んだ。
 それは呆気なく女の住む家を押し潰し、誰も知らなかった妖怪は、誰に伝わることもなく消えてなくなった。


 これでおしまい。
 麓にあるひとつの村が大雪崩に呑まれたとか、彼女が後々の雪女伝承を作って行くとか、そんなものは蛇足に過ぎないし、そもそも御伽噺に現実を求める方が間違っている。
 だから、これはこれで。
 未来永劫、どんづまりの物語なのだ。

 

 

 ちゃんちゃん、と分かりやすい挨拶で締め括る。
 鴉天狗は、ぽかんと口を開けていた。少女の肩に留まっている鴉は、それ以前にレティを見ようともしない。途中、間の抜けた鳴き声をしてくれたのもこの鴉だ。
 全く、躾がなっちゃいない。レティは、欠伸をこぼしてベッドに倒れ込んだ。
「――あ、ちょっと!」
「終わり終わり……。他のが知りたきゃ、あの氷精にでも聞きなさいよ。私、これ以外のはあんまり知らないし」
 えー、と不満そうな声が飛ぶ。
 冬の妖怪なのに、それに纏わる話を知らないのが気に食わないのか。そう言われても、知らないものは分からない。捏造するのも面倒だし、上手に作る自信もない。
 むー、と唸っていた天狗も、溜息と一緒にようやく重い腰を上げてくれた。
「何と言いますか、実に容赦のないお話でしたね。実体験ですか?」
 さり気なく聞いて来る。とんだカラスだ、と心の中に吐き捨ててみた。
 眠りかけていた身体を起こし、干草のベッドから身を離す。しょうがない、たまには外の空気でも浴びて来ようか。
 乾燥し、澄み切った空気は心を強く締め付ける。
 そのえもいわれぬ縛りが、どうしようもなく愛しいのだ。
「で、どうなんですか。レティ・ホワイトロックさん、冬の妖怪として一言!」
「……あー、どうもこうもないわよ。だって」
 身体に纏わりついた大量の草を払い、長く伸びきった髪のようだと呟く。
 その全てを簡単に払い落としてから、情け容赦なくぼやいてみる。


「これ、私のお母さんから聞いた話だもの」


 肩を竦める。
 天狗のペン一式が、全部丸ごと綺麗なくらいに凍り付く。
 ……ああ、この空気も実は心地良い。
 場の空気を読んでか、真っ黒な鴉が天狗を溶かすように白々しく鳴いていた。


 だから、それはそれ。
 これからもずっと、どんづまりの御伽噺なのだ。

 

 

 



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2005年11月3日 藤村流

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