国民的行事
すぱあん、という快音を立て、一枚の襖が気持ちよく敷居を滑り、食卓に座して和菓子を摘まんでいた妖夢の目を釘付けにする。ごくごく当たり前のことだが、そこに立ちはだかっていたのはここ白玉楼の主と目されている、西行寺幽々子その人であった。
「妖夢! 今日はばれんたいんらしいわね!」
「そうですね。ところで今日は起きても大丈夫なんですか。膝は辛くないですか。朝ごはんはもう食べましたよ」
「先手を打たれると何もボケられないわよ妖夢!」
「初めからボケているていで話していたのですが」
「辛辣ね!」
力強く親指を立てる我が主にどう向き合ったらいいものか、爪楊枝を犬歯で噛み砕く鍛錬を怠らぬまま妖夢は考える。しかし結局答えは出ず、またひとつ、卓袱台の上の饅頭が減る。
「何ですか、いつになく気が昂ってらっしゃいますね。更年期障害ですか」
「失礼ね! 今の私なら五つ子だって産めるわよ!」
「それから死に至るのですね」
その前にお相手ですね。の、どちらにしようか少し迷った。
「でも大丈夫よ!」
けれども幽々子は、妖夢の逡巡になど構うはずもなく、何とも朗らかに人差し指を立てる。この調子で全部の指もおったてる腹積もりだろうかと、益体もない想像に陥る。
「その心は」
「それはね!」
「もうとっくに死んでるからですか」
「あー! 先に落ちを言っちゃ駄目じゃないのー!」
両の腕をばたばたと上下左右に躍動し、大人気なく駄々を捏ね始める。年端も行かない子どもですかと言いかけて、妖夢は静かに手元の皿を差し出す。幽々子も目を奪われる。
「落ち着いてください。幽々子さまはこの白玉楼の主なのですから、始終地面から浮かれているようでは困ります。他の者に示しが付きません」
「十二分に落ち着いてるわよー。それはそうと、お饅頭ありがとう」
「どう致しまして。というかいつの間にやらおひとつ召し上がったのですね」
「まあ、お饅頭だからね」
こしあんだし、と上唇を布巾で拭いながら付け加える。どういう意図があっての発言かは考えない。そこに深遠な意味はないだろう、と妖夢は断定する。
妖夢の斜向かいに座った幽々子は、綺麗な三角錐を描いた饅頭と大福の神山に謁見し、桃源郷か酒池肉林にでも到達したかのような、恍惚に満ち溢れた笑みを浮かべた。ように、妖夢には思えた。
「おいしいですか。幽々子様さま」
「まだ食べてないわよ」
「……私には、召し上がっているように窺えましたが」
「饅頭一個など食事の範疇に入らないのか、この健啖家め」
ぞくり、と背筋に冷水が浴びせかけられる。脂汗までも流れて落ちた。
妖夢が硬直している隙に、幽々子の指先は大福の白い柔肌に伸びる。
「――て、思ったでしょ」
「……決して、そのようなことは」
「怒らないから言ってみー。んごんご」
魂魄の名に懸けて、と啖呵を切ろうとした刹那、幽々子の恩赦が妖夢の心に甘く囁きかける。いけない、迂闊に告解すれば神罰が下る、と神仏混交しながらの葛藤の末、やっぱり素直に告白した方が心証はいいだろう、という甘ったるい結論に達した。
「んぐんぐ、んっ、むー。んー。……あぁ、おいしかったぁ」
「それはよかったです」
「妖夢が作ったの?」
「今日はばれんたいんでしたので」
「ふうん、気が利くのねー」
卓袱台に落ちた小麦粉を布巾で拭いながら、感謝の意を込めて微笑する。妖夢も、純粋な賞賛に意図せずして顔を綻ばせそうになる。
「と、言いたいところだが」
寸前で、幽々子の一言に足を掬われる。
「……だが?」
「さっきの質問に答えてないでしょ。いや、私は別に大飯ぐらいでもいいんだけどねえ、そのほら、なんて言うの? 従者にあることないこと揶揄されたまんまだと、白玉楼の主として示しが付かないというかー」
「く……」
やられた。
してやられた、と妖夢は下唇を噛みながら奥歯を軋ませる。妖夢も幽々子も、お互いの存在を認め合い、主人として振る舞い、従者として立派に仕えている。が、不満がないはずはない。失敗も後悔も、挫折も蹉跌も我侭も傲慢も乱暴も暴食も何でもありだ。数え上げれば切りがなく、並べ立てれば隙間すらない。妖夢の外見年齢や体型その他を別として、二人は非常に長い付き合いである。妖夢の師であり先代の白玉楼専属庭師たる魂魄妖忌に比べれば、その星霜たるや矮小と言う他ないが、人間同士、あるいは人間と人外の主従とを比較すれば自ずと結論は出る。
で、あるからして。
「んぎゅんぎゅ」
「やっぱり食うんですか」
幽々子は暴飲暴食の代名詞たる餓鬼じみた健啖家の汚名を返上すべく、饅頭を摘まむ白魚の指先さえ窺わせず、積み上げられた餡子の御山を神速の御手によって打倒する。妖夢の苦悩などお構いなし、食卓は戦場だとのたまったのは何処の誰だったか、それはそう、ここに在らせられる西行寺幽々子その人である。
「というか、そんなに食べてたら穀潰しだと認めているようなものですけど」
「んぐぅ!」
喉に饅頭を詰まらせたらしい。それでも、手のひらの大福を手放さないあたり業が深い。
何度か卓袱台を叩いた後、差し出された湯呑みを一気に飲み干し、その極熱により言葉にならない唸りを上げる。けれど、その苦悶を従者の前では晒さないのが幽々子の当主たる所以であり、たとえ妖夢に悟られていようとも、顔を伏せたまま卓袱台をばんばん打ち続けるのであった。
その方がよっぽど餓鬼みたいですよ、とは口が裂けても言えない。妖夢とて、桜の下で眠りたくはないのだ。ごくり、と幾度目かの唾を飲み込む。その頃には、幽々子もまた元来の平静を取り戻していた。
解答は近い。
青磁の皿に盛られていた和菓子の雪山も、今となっては青々とした裾野を晒している。
もう食ったんかい、と咆えかけるその舌根を犬歯で噛む。
痛かった。
「幽々子さま」
「望むところよ」
「……まだ何も申しておりませんが」
「え!」
「いや意味分かりませんて」
「そういえば、まだ何も言ってないわね。それではどうぞ」
主導権を譲り渡される。
完全に、掻き乱されてしまった。だが、苦悶していても仕方あるまい。これが幽々子の歩調なのだ、無理に合わせる必要はない。自身はただ、彼女に付き従っていれば。それだけで――。
――それだけでいいのだと、素直に思えなくなった日は遠い昔のこと。
未熟者は未熟なりに前を見る。敬愛していた師の背中は、既に視界から遠く、記憶からも遠ざかっている。ならば、前を見よう。そこに何かが見えるかもしれない。守るべきものが、目に映るかもしれない。
妖夢は、気の抜けた主人の顔を見る。幽々子もまた、従者を認める。
その辺りの解答は、まだまだ先になりそうだけれど。
「幽々子さま」
「はい」
「私は、確かに我が主の性を軽視しました」
「いや、別に性でも獲得形質でもないんだけど」
「軽視したのです!」
「いや、うん。そう、そうかもしれないわー」
「ですが、幽々子さまにも問題はあるかと思われます」
「ないってば」
「思われます!」
「ないってば!」
勢い余って、両者示し合わせたかのように立ち上がる。
泥仕合の始まりだった。
「だって饅頭も大福もみんな食べちゃったじゃないですか!」
「だってだって、あれはみんな私のために用意してくれたお菓子じゃなかったの!?」
「……ふっ、掛かりましたね。幽々子さま」
「不敵な笑み!?」
予想だにしない分岐だった。
いつの間にやら伝奇活劇に迷い込んでいる。
「気付きませんでしたか。あの大福には、しっかと『幽々子さま』『妖夢』という名前が明記されていたのですよ」
「……いや、記されてなかったけど」
「記されていたのです!」
「そんな後出し情報なんか証拠にならないじゃない! だってもう全部食べちゃったんだからー!」
「そうです。幽々子さまは、あろうことかご自身の手で証拠を隠滅したのですよ」
「えー!?」
衝撃の事実に耐え切れず、頭を抱えるしかない幽々子。
まさか、妖夢にここまで攻め入られる日が来るとは思わなんだ。だが、この問答さえどこか懐かしいと感ぜられるのは、かつて、この食卓にて幽々子と妖忌が日々嬉々として甲論乙駁を繰り返した記憶が、不意を突かれて蘇生してしまったからかもしれない。
それを、妖夢は知っている。知らないにしても、分かっているのだ。
あの、馬鹿らしくも阿呆らしい、涙の出るような応酬を。
「それとも、吐きますか。吐きませんか」
「酷いわ妖夢! それが主に対する態度だというの!?」
「私は白玉楼の主に詰問しているのではありません! 私は、今ここに生きている幽々子さまに問い掛けているのです! 貴女の胃袋に隠された真実が、果たして私と貴女のどちらに傾くのかを!」
「もう消化してるってべん毛が言ってるから無理よー!」
「吐いてください! もう二つの意味で吐いてください!」
「上手いこと言っても無理だってばー! 妖夢のばかー!」
喧々囂々、やいのやいのと騒ぎ立てる。
お互いが、人を喰った奴だ、と心の中で呟いたことは、墓の下まで持って行く類の秘密である。が、二人の末期、もし同じ墓石の下に埋もれて、そこでお互いの腹積もりを初めて知るのであれば、それ以上の滑稽もない。
が、幽々子がまず先に愚考しそうな、そんな他愛もない妄想に浸る間もないほど、喧騒は荒く、膨れた腹も膨れた頬も萎みはせず、侃々諤々、未熟者と既熟者の応酬は続いていくのだった。
いつかの日々に買わされた、魂魄と西行寺の口喧嘩にも似て。
OS
SS
Index