梅は咲いたか
縁側で酔っ払っている鬼を蹴落とそうとしても、身体だけは頑丈だからテコでも動こうとしない。だからといって家屋に影響が出る範囲内で夢想妙珠をぶちかませるほど短絡的な性格でもない霊夢は、廊下を拭き回っていた雑巾を猫と共に寝転ぶ萃香の顔に浸した。
「うにゃあぁー!」
べちゃっと不時着する雑巾を即座に引っぺがし、鳥居の彼方に放り投げることの出来る腕力だけは尊敬に値する。さすがは鬼といったところか。しかしついさっきの悲鳴は猫が発情期に上げるそれと大差ないように思えた。鬼といえど、一人の女の子ということか。
「あにすんのよー!」
「んー、鬼退治?」
「馬鹿にすんな!」
紫電一閃、何処からか鎖を解き放ち、霊夢の腕を簡単に拘束する。抵抗する様子もなく、霊夢は縛られるまま身を委ねている。
「ふふ、鬼を舐めたら痛い目を見るってこと、解らせてあげる必要があるようね……!」
「まあ、それはいいんだけど」
霊夢は、穏やかに縁側の瓢箪を指差した。
萃香が雑巾を投擲した影響で転倒した瓢箪の口からは、大量の酒がどぼどぼと溢れ出ている。
迂闊だった。
「あぁー!」
「夢想妙珠」
余所見した萃香の横っ面に、瑠璃色をした拳大の数珠が突き刺さった。
お花見である。
梅の花を見上げながら、お猪口一杯の酒を嗜む。肴は何でも結構、適当な騒ぎがあれば、それなりに楽しめるというものである。
「元気なものね」
風見幽香は、境内の一角に咲き誇る白梅の傍らに立ち、喧騒を繰り広げる巫女と鬼を眺めている。花柄の傘を肩に掛け、風にも光にも屈せずに揺れる花の香りを嗅ぐ。
霊夢の数珠ナックルを無防備に受けた萃香であったが、霊夢とは鎖で繋がれているため、萃香が吹っ飛べば霊夢も引きずられる。綺麗に縁側から落下した萃香に釣られて、霊夢もまた、たたらを踏みながら縁側からダイヴする。
「あっ――」
途中、流麗に佇む幽香の姿が見えたのか、なんで助けてくれないのよと恨みがましい視線を浴びせかけられる。無論、動じることもない幽香は、もつれ合うように境内を転げ回る萃香と霊夢を見て、くすくすと淑女めいた笑みを零すのだった。
「本当……羨ましいわ」
皮肉でも嫌味でもなしに、幽香は呟いた。
年を取れば、それだけ腰は重くなる。妖怪は年齢による肉体の劣化こそ少ないけれど、あちこちに出張ることが次第に面倒臭くなるのは人も妖も大体同じだ。だから積極的にドンパチやらかすことも減り、参加するにしろ、爆撃範囲外から人妖たちの争いをぼんやりと眺めるくらいなのである。
幽香は、傘をくるくると回しながら社務所に接近する。霊夢と萃香は境内の中央で激しい弾幕戦を繰り広げており、敷地内に踏み込む幽香を牽制する様子もない。なまじ幻想郷の均衡を担っているうちの二名が弾幕といえど真剣にぶつかり合っているのだから、観客に意識を割いている余裕などありはしないだろう。それがたとえ、博麗霊夢であったとしてもだ。
場が開け、玉砂利を靴の裏で転がしながら縁側に向かう。傘には日光のみならず無数の弾が容赦なく降り注いでいたが、この世で唯一枯れない花は、弾幕の雨を簡単に弾き飛ばしてくれる。
攻撃的な雨を潜りながら縁側に辿り着いた頃には、霊夢と萃香の戦闘は膠着状態に陥っていた。あらかた弾幕を出し尽くしたのか、あちこち擦れた服を身に纏ったまま、敷石の上を滑るように距離を取っている。
幽香はよっこいしょと呑気に縁側を占拠し、傘を畳んで隣に置く。相変わらず横倒しになっている瓢箪を起き上がらせると、何度か激しく上下に振り、そこらに転がっているお猪口にお酒を注いだ。
「梅を見ながらお酒を飲む、それも、贅沢な話よね」
咲き誇る梅を視界に収め、幽香はお猪口を傾ける。
ほのかに喉を焼く淡い痛みと、身体に落ちる酩酊の呪い。それがまた快楽に繋がる妙薬となり、五臓六腑に深く染み入る。
梅を見れば、飲む酒も梅の味になる。思い込みは一種の魔法であり、酔いもまた、この世を彩る魔法の亜種である。
鬼の酒に舌なめずりしていると、縁側の下から三毛の猫がひょっこり現れる。表の騒ぎに触発されたのか、お酒の匂いにつられたのか、何にしても好奇心旺盛である。ふんふんと鼻をひくつかせながら、幽香の脚に擦り寄ってくる。
「あなたも、飲む?」
猫は、眠たそうに鳴いた。
一際大きな打撃音があたりに響き渡り、猫が弾かれるように現場を振り向く。
そこには青々とした数珠を鬼の顔面に突き刺している巫女の雄々しい背中があり、程無くして、鬼が箒掛けしていない境内に倒れこんだ。満足げに空を仰ぐ霊夢を見、猫は再び皿に盛られた液体をぴちゃぴちゃと舐め始めた。幽香は、気だるげな拍手を送るに留める。
霊夢は崩れ落ちた萃香を肩に担ぎ、片手に数珠を掴みながら、愛しい縁側に踵を返す。
足を引きずり、息を荒げ、ようやく縁側に到着した頃には、幽香の頬もほんのりと赤らんでいた。
「おめでとう、霊夢」
「さようなら、幽香」
青々と実った数珠が、幽香の顔面を捉える直前で見えない壁に阻まれる。
不自然な圧迫感に霊夢が腕を引くと、幽香の鼻の頭に、一枚の花びらが乗っていた。
梅である。
「はぁ、もう」
霊夢は、呆れ混じりに嘆息した。折からの風に、煤けた袖がひらひらと揺れる。
「花見なら、もうちょっと華のある時期にしなさいよ」
面倒臭い、と鼻を鳴らす。
「あら。私はあなたに迷惑を掛けた覚えなんて、これっぽっちも無いのだけど」
「そうね。存在が迷惑だから、なんて言っても、あんたには通用しないでしょうし」
「ご挨拶ね。仮に梅の花が境内を埋め尽くしたら、それでも同じことが言えるかしら」
「言えるに決まってるじゃない。咲けば花、舞えば花、落ちれば草よ。まぁ、最期はどれも同じ場所に還ると思えば、それも道理だと思うけど」
萃香を地面に落とし、こきこきと肩を鳴らす。
掴んでいた数珠を床に下ろし、お猪口を傾ける幽香に、その蒼い珠を指し示す。
「これ入れたら」
「えぇ」
「梅酒になるわよ」
「もう飲んでるわ」
「あぁ、そう」
気だるげに答え、霊夢は瓢箪の腰を握り締める。
そのまま自棄気味に口を付ける霊夢のほっぺたに、幽香は真っ白な梅の花をぺたり貼り付けた。
SS
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