津波より速く走れ

 

 

 

 四季映姫・ヤマザナドゥは地蔵出身である。
 彼女自身がそう口にしたことはないが、閻魔ゆえの頭の硬さか、融通の利かない性格か、閻魔職に就いているものの多くが地蔵出身であることの類推に過ぎないのか、いずれにせよ、周囲からは基本的にそういう認識をされている。
 だが、その認識が彼女の立場を危ぶめることはない。地蔵を閻魔に徴用することを決めた黎明期ならまだしも、地蔵から閻魔という道筋が確立された以上、そのことをあれこれ言うものは稀である。
 一般的には。
 尋常ならざる、特殊な状況下にない限りは。

 

「四季様ぁー!」
 出た。
 昼行灯に定評のある死神、小野塚小町である。
 映姫は、おそらくは己に向かってぶんぶんと手を振っている部下に対し、どのような顔をすればよいのか判断に迷った。
 理由はふたつ。
 ひとつは、小野塚小町が目の覚めるような真紅のビキニを着ていること。生来の赤髪、その魅惑のプロポーションも相まって、似合いすぎるほど嵌まっている。明日からその格好で仕事をしていても誰も文句は言わないであろうくらいには。
 そして。
「しきさまぁー!」
「うるさいですね……」
 映姫は眉間に寄った皺をほぐす。
 もうひとつの理由は、映姫がフリルのついたピンクの可愛らしい水着を身に纏っていることである。
「……はずかしい……」
 木陰に隠れ、映姫はもじもじと小股を擦り合わせている。
 小町は惜し気もなく湖のほとりにその身を晒している。湖には、霊の影がちらほら見受けられるほか、妖精も人影もほとんど見受けられない。
 そも。
「なんでこんなことに……」
 ブナの幹に体を寄せ、ごつごつと小さく自戒の意味を込めて頭突きを加える映姫。
 休暇だ、折角の休暇なのだ。それを何故、このような格好をして過ごさねばならぬ。遺憾である。まことに遺憾である。
 部下との交流を計るだけならまだしも、何故、水着を着る必要がある。
 わかっている。わかっているのだ。
 全てはみずからの未熟さ、愚かさゆえのことであり、恨むべきものも憎むべきものも何もないことなど。
 ただ、認めたくないだけなのだ。
「何やってんですか四季様。早く来ないと風邪ひいちまいますよ」
「う……なんか来た……」
 業を煮やした小町が、重々しく胸を揺らしながら軽やかに登場する。
 映姫が心底嫌そうな顔で出迎えると、小町もやや仏頂面になって反撃を試みる。
「なんかとは何ですかなんかとは。みんな大好き小野塚小町ですよ。お気軽にこまっちゃんとでもお呼びください」
「牛……」
「牛すか」
「そんなことはどうでもいいのです。私は帰ります」
 映姫は即座に踵を返す。が、そこは距離を操る程度の能力を持つ小町のこと、そう易々と逃げおおせるはずもない。いつのまにか、映姫の肩を小町の手ががっちりと掴んでいる。
「駄目ですよ四季さま、今日はみっちり泳ぎの練習するって約束したじゃないですか。閻魔なのに約束を破るんですか四季さま、あーあ閻魔さまが嘘ついちゃいけないんだー」
「ぐぐ……」
 下唇を噛む。
 じたばたしたところで、船頭として体が出来上がっている小町の拘束から逃れられるはずもない。かえって肩に掛かる力は増すばかり、しまいには全身全霊のしかめ面までも丹念にほぐされる始末である。
「ほーらほら、折角の可愛いお顔が台無しですよーうりうり」
「むみゃみょぉ……いぃ、いい加減にぃ……、……閻魔ビーム!」
「ぎゃろっぷッ!?」
 最終兵器が唸りをあげる。
 一撃で湖の深いところまで吹き飛ばされ、流石の小町も復活に時間が掛かるようだ。この期を逃す術はあるまいと、映姫はそそくさと湖の岸辺を後にしようとする。
 が。
「しぃーきぃーさぁーまぁー……」
「出た……!」
 常日頃から映姫の折檻を受けているだけのことはあり、小町の回復速度も尋常ではない。それを忘れていたわけでもあるまいが、映姫は迫り来るおっぱいお化けに立ち向かうべく、悔悟の棒も冠もない素のままの自分を奮い立たせる。
 閻魔ビームの影響から、多少なりとも肌が香ばしいことになっている小町だが、見た目ほど大きな被害を被っているようには見えない。それよりも水着が脱げていないことの方が奇跡である。だがそれはそういうものかもしれないと映姫は自分を納得させた。
「四季様ぁ……あたいにも堪忍袋ってえもんがありましてね……」
「小町、小町。あなたの言い分もわかります。もっともです。ですが、私にも私の言い分がある。そういうことです。ですので、私は帰ります」
「そんなこと言って……、本当は、泳ぐのが嫌なだけなんでしょ……?」
「そんなことはありません」
 映姫の瞳は真剣そのものである。
 ただ一点、明後日の方向を見つめていること以外は。
「んじゃ、あたいの目を見て言ってください」
「ぐうぅ! なんということでしょう、突然目が見えなくなりました!」
「四季様」
「これは一刻も早く家に帰らなければいけませんね!!」
「四季さまぁぁ!」
 脱兎の如く尻尾を巻いて撤退する映姫を、小町は己の能力を全開にして距離を詰める。ただでさえ我を見失っている映姫のこと、普段なら小町の追跡など容易に振り切れるものを、今は至極あっさりと小町に背中を取られてしまった。
 ギャフン! と情けない悲鳴を漏らし、湿った土の上に押し倒される。
「フフフ……何故、目が見えないのにまっすぐ家に帰れるんですかねえ……?」
「ま、まあ、その程度のことが出来なければ、畏れ多くも閻魔を名乗ることなど……」
「だったら、水泳の練習くらいお手の物ですよねえ……?」
「あ、いや! わかった、わかったから! おなか、おなかくすぐんないでください!」
 三途の河に、閻魔の奇声が木霊する。
 やがて閃光が死神を包み、紅魔の湖に立ち込める、陰惨とした水煙をも切り裂いていく。

 

 それは、三日前の宿舎でのこと。
 職務を終え、痛むこめかみを親指で刺激しながら、映姫は仮眠室に向かっていた。
 廊下にてすれちがう顔見知りは、みな一様に疲れ切った表情を晒している。挨拶をしても、腹から声が出ていない。愛想笑いも、見ている方が同情したくなるくらい錆びついている。だが、その劣化具合を指摘するほど覇気のあるものなど、現在の宿舎には残されていなかった。
「参るわね……」
 映姫は立ち止まり、中指で眉間をほぐす。
 この時期は、通常通り彼岸に送られる者たちの裁判の他に、現世に一時帰還する者たちの諸手続きが加わるため、普段から忙殺されている是非曲直庁の方々からすれば、まさに地獄そのものの盛況ぶりであった。それでいて、笑い話にもなりはしない。現実は過酷である。
 そのくせ、三途の船頭と来たら。
「おや、これはこれは、四季の映姫様のヤマザナドゥ様じゃあ御座いませんか」
「小町」
 飄々と、小野塚小町が現れる。汗ひとつ掻かず、多少なりとも胸をはだけさせた涼しげな風体で、通行の邪魔になりそうな鎌を肩に担いだまま、屈託のない笑みを映姫に向けている。
 ふと、溜まりに溜まった苛々を小町にぶつけそうになり、かぶりを振って己を戒める。小町はきちんと自分の仕事をこなした。それは、裁判の回数を鑑みてもわかることだ。
 だが、どこか妬ましい声が漏れてしまうのは、己の至らなさのせいだろうか。
「小町……」
「んや、如何なさいました。憂いの帯びたかんばせが、また哀愁を誘いますねえ」
 よ! この未亡人! などと、意味のわからない殺し文句で映姫を鼓舞する。これが自分を励ましている行為だと咄嗟に理解できるくらいには、小町を知っているつもりだ。
 だから、ここは小さく嘆息するに留める。
「ばかを言って……、いえ、もういいです。私は眠ります」
 窘める気も失せ、気だるげに背中を曲げたまま、小町の横を通り過ぎようとする。
 と。
「ちょいとお待ちを」
 小町の手のひらが、映姫の肩を掴んだ。
「何ですか」
 言い放ち、やや乱暴な口調になってしまったことを恥じる。
 けれども、小町は気にしたふうもない。常に己の調子を崩さず、それが時に他者の反感を買うこともあれど、それが時に救いになることもある。
「泳ぎに行きましょ」
「……はい?」
 脈絡のない提案に、間の抜けた声がこぼれ落ちる。
 傾いた冠の位置を丁寧に直し、わざとらしく咳払いなどして、もう一度聞き返す。
「今、何と言いましたか」
「泳ぎに行きましょ、泳ぎに」
「誰が、誰と」
「あたいと、四季様が」
 映姫は、冠の位置をずらして、やや蒸れている緑の前髪を鬱陶しそうにまさぐる。
 考えた。
 小町は、あまりに疲れ切っている映姫を見て、これはなんとかせねばならんと思い、気分転換に体を動かそうと提案したのだろう。この茹だるような暑さは地獄をも包み、どこぞの避暑地に涼みに行ければと思うのは至極わかりやすい流れだ。ある意味、肉体派ともいえる小町なら、「そうだ泳ぎに行こう」と、こうなる。なるほど、実にありがたい話である。感動的とさえいえる。普段の映姫なら、涙を流さないまでも胸がいっぱいになることは疑いようもない配慮である。
 が。
「結構です」
 映姫はにべもなく断った。
 これには、さすがの小町も驚いた。断られことすれ、まさか即答されるとは思ってもみなかったから、映姫がすたすたと横を通り過ぎていっても、すぐさま追いすがることが出来ずにいた。
 気がつけば、彼女は冠を傾けたまま廊下の角を曲がろうとしている。
「――あ、ちょっとー!」
 慌てて、映姫の背中を追う。幸い、お疲れ気味の映姫に追い着くのは簡単だった。
 そこで改めて、即答の理由を窺う。
「ちょっと待ってくださいよ、どうして駄目なんですか。気持ちいいですよー、泳ぐの」
「……あなたの提案は正直ありがたいですけれど、あまり、寝不足のまま泳ぐものではない。何故なら、溺れるから。以上、私は眠ります」
「にしても、いつもならあたいが誘っても少しは考えるじゃないですか。折角のお誘いなんだからー、とかで。まー大概は振られるんですけど」
 無邪気に笑う小町の明るさは、一体どこから湧き出てくるものなのか。
 映姫にはわからない。わからないが、あまり羨んでいる余裕もない。
「よくわかってるじゃないですか。だからあなたも諦め」
「……もしかして、泳げないんですか?」
 ぎく。
「……」
「四季様ー」
「な、な、なにをおっしゃる小町さん」
「おちついて」
「ええ、ええ、おちついていますとも」
 しかし完全に目が泳いでいた。
 ここで主導権を握るのは小野塚小町である。もとより疲労が溜まっている映姫は本領を発揮できない状況であるため、弱点をつつかれでもしたらご自慢の牙城も容易に崩れ去るというものである。
「私が何故泳げないとでも仰るかのような発言を」
「泳げないんですか?」
「お、泳げますとも!」
 失敬な! と顔を真っ赤にして大見得を切る四季映姫・ヤマザナドゥ。
 もはや何処の誰から見ても泳げないことは明白だったが、小町はそんな上司をただニヨニヨと見守るばかりである。
「へえ、じゃ、泳ぎに行きましょ。今度の休みに」
「だから寝不足じゃ危ないでしょう。溺れたいの?」
 むしろ溺れさせたいの?
 と映姫の切羽詰った瞳が訴えかける。
 必死だった。とにかく一所懸命だった。
「前日はゆっくり眠ればいいじゃないですか」
「そういうわけにもいかないから言っているのです」
「なら、仕事が少なければいいわけですね?」
「だからって、船頭の仕事をサボったら八ツ裂きにしますよ」
「んなことしやしませんよ。そのかわり、事務のお仕事はお手伝いさせて頂きます」
「……なんで?」
 またも、間の抜けた声が漏れる。不覚の極みだった。冠も若干ずり落ちる。
「そりゃ、四季様と一緒に泳ぎたいからに決まってるじゃないですか」
 全幅の信頼。嘘偽りのない本音を受け、映姫はぐうの音も出せずに硬直する。
 状況が状況なら嬉しくて落涙しそうな場面だが、今は証拠隠滅のために地獄から小町を消してやろうかと思い至るほど、映姫はいまだかつてない危機に直面していた。
 やばい。これはやばい。
 辛うじて水着は持っているが、あんなフリフリだしピンクだしどうしてあんなの選んでしまったのか、当時の自分をソロバン責めにしてやりたい衝動に駆られる。
 万事休す。
「……小町」
「何でしょ」
「正直に言います」
 嘘はよくない。
「私、泳げないんです」
 告白する。
 小町は慈悲深い笑みをたたえて佇んでいる。
 ……何なんだろう、この包容力。
 腹立ってくる。
「だから、勘弁してもらえませんか」
「……なら、仕方がありませんね。わかりました」
 よッしゃ、と映姫は心の中で両手を突き上げる。正直者は救われる、たとえ死んでもだ。いや死んだら駄目だけど。
「それでは私は」
 眠ります、と惜別の言葉を述べようとして、やはり小町に肩を掴まれた。
 だからその慈愛に満ちた笑顔はなんとかならないのか。
「当日は、あたいがみっちり泳ぎ方とやらをお教え致しましょう!」
 使命感に満ち溢れた表情で、小町は力強く宣言した。
 映姫の頭に辛うじて乗っかっていた冠が、がしゃこん、と廊下に落ちる。
 これが、ほんの三日前の話である。

 

 小野塚小町も約束を違えることなく、きっちりと事務の作業を手伝い、何とか休日を前に十分な睡眠が取れるくらいの余裕を作ることには成功した。是非曲直庁も、近頃の閻魔たちの窮状にようやく重い腰を上げ、作業量もいくぶんか減っていた。そのことも大きいが、いちばんの功績はやはり小町の助力である。
 嬉しいやら悲しいやら、四季映姫はこうして湖のほとりにいる。
「とほほ……」
 逃げ出せるものならとっくに逃げ出している。が、それは叶わない。鬼ごっこに絶大なる効果を発揮する能力の持ち主、小野塚小町が相手となれば、この世から滅する覚悟でなければ振り切ることは叶わないだろう。無論、そんなことはできない。しようとしたことは否定しないが。
「さて! 泳ぎましょうか!」
「そういえば、妖精たちの姿が見当たりませんが」
 疲労のあまり、どうでもいいことにばかり目が行く。
「ああ、四季様の痴態が世間に知れ渡ったらのっぴきならないことになりそうなんで、わざと四季様が視察に来るって言い触らしておいたんです。で、ご覧の通り、がらんがらん」
「……感想に困るわね」
「愛されてますね!」
「そうですね」
 準備体操も終え、あとは湖に飛び込むのを待つばかり。
 さっきから無邪気さ全開ではしゃいでいる小町が、急に映姫の方を振り向いた。
「おっと、四季様の水着を褒めるのを忘れてました」
 要らんことをするなと突っ込みたかったが、こうじろじろと舐めるように見られては、下手に動くこともままならない。ただ、もじもじとするばかりである。
「あ、あんまり見ないでください……恥ずかしいですから……」
「うぅむ……ふむ、うん! 子どもっぽくてよし!」
 沈めてやろうか。
「そういう小町は、その、そんなに肌を露出して、恥ずかしくはないの。もし、外れでもしたら……」
「そんときはそんときで!」
 ずびしッ! と親指を胸の中心に突きつける。
 清々しい笑顔だった。とても真似できない。
「じゃ、まずはお顔を水につけて、水の中で目を開ける練習からー」
「あなたどれだけ私を子ども扱いしてるんです」
「できます?」
「戯言を」
 誇らしげに胸を逸らし、ぺたぺたと湖の水面に素足をつける。
「……あまり冷たくありませんね」
「ぽんぽんにも優しい仕様です」
「幼児語を使わなくてもいいから」
 湖の底は、砂とも土とも岩とも言えない妙な感触がする。まるで地面が生きているように蠢き、踏み出そうとすればぬかるみ、逃げ出そうとすれば足を引かれる。それは映姫がカナヅチであるがゆえの他愛もない錯覚かもしれないが、いずれにせよ、溺死の恐怖を想起させる感覚に違いなかった。
 小町の手前、震え上がるのも格好がつかない。とりあえず、太もものあたりまで湖に浸かり、陸地から手を離し、何とかバランスを取ってみる。
「おお、あんよがおじょうずー」
「小町……あなたのお墓は、三途の河がよく見えるところに建てておきますから……」
「わっ」
「きゃあぁ!」
 小町が無邪気に水を掬って振り掛けると、映姫は可愛い声を上げてのけぞった。
 その拍子に、湖の底の岩に張っていた苔に足を滑らせて、可哀想なくらい面白おかしい体勢で湖に沈んでいった。
 ざぶうん、と景気のいい水飛沫が上がる。
「……あ、やっべ」
 ちょっとやりすぎたかもしれない。
 小町はすぐさま湖に飛び込み、浮き上がる気配のない映姫を迎えに行く。
 水深が低くとも人は溺れるのだという、ありがちな例である。

 

「すんませんした」
 小町は反省した。
「次やったら晒し首ですからね。楽しみです」
「うわあ」
 凄絶な笑顔だった。
 砂利の上に正座させている小町をよそに、映姫は腰に手を当てて広大な湖を望む。相手は手強い。並大抵の覚悟で迎えれば、確実に死に至る。先程の苔もそうだし、水深が深ければ深くなるほど、相手の思うつぼである。死ねといっているようなものである。
 ましてや、その水の中を浮けなどと。泳げなどと。
「片腹痛いわ」
「水でも飲みましたか」
「たらふくね」
 小町への皮肉も忘れない。
「小町。私は疑問に思っていました」
「はい」
 一応、小町は真剣に聞く体勢に入っている。
 その態度に若干気を良くして、映姫は口も滑らかに話を続ける。
「私たちは大地を踏み締めて歩くことが出来ます。川が行く手を遮るのなら、橋を造ります。海が眼前に広がっているのなら、まだ見ぬ場所を求めて舟を出すでしょう。津波を恐れるのなら山の麓まで駆け抜ければいい。そして私たちは、その気になれば空を飛ぶことも自由なのです」
「そうっすね」
「不思議です。何故人は泳ぐのでしょう」
 心底、不思議そうな表情を浮かべて、映姫は首を傾げている。
「小町。あなたはどう思いますか」
「そうですねえ。気持ちいいからじゃないですかねー」
 瞬間、映姫の顔が凍りつく。
「気持ちが……いい……?」
 聞き慣れた言葉さえ理解が及ばないと言いたげに、映姫は眉間に皺を寄せた。
「正気ですか……?」
「いやそんな大袈裟な」
「もしや、私の折檻が酷すぎて……」
「まあ酷いのはいつものことですけど」
「なんてこと。ならば、これは私の罪……そして、私に課せられた贖罪なのですね」
「おーい」
「わかりました」
 何やらわかってしまったようだ。
「水の恐怖を知れば、小町も泳ぐことが気持ちいいなんて思わなくなるでしょう……大丈夫、湖の底もわりと温かいですから……」
「やっべ四季様あたい泳ぐの大ッ嫌いになっちゃいましたよ」
「でも目が泳いでいますよ?」
「潰れろあたいの目!」
 自爆。

 

 しばらくして。
「まさか小町に自傷癖があったなんて……」
「あたいもびっくりです」
 小町は何とか無事だった。やはり己の目を貫くのは相当の根性がいるらしい。
 兎ばりに目が赤いのはご愛嬌である。
「大丈夫。たとえ小町がどんなに自分を追い詰めようと、私が側にいる限りは決してあなたを見捨ては致しません」
 ぐッ、と硬く小町の掌を握る。その瞳は流星のごとき輝きを放ち、ふりふりの水着でなければ小町もそれなりに感動したかもしれなかった。
 水着でよかった。
「じゃ、泳ぎましょうか」
 映姫はそっぽを向いた。
「今、見捨ては致しませんって言いましたよね」
「……」
「閻魔さまがまさか嘘は吐きませんよね」
「……」
「こしょしょしょ」
「うひゃははははは!」
 無防備な二の腕をくずられて、堪え切れずに馬鹿笑いをお披露目する映姫。
 咄嗟に小町の頭をぱしーんと叩くものの、小町はニヨニヨするばかりで反省する気配がない。だが、くすぐりの刑はどうにか収まってくれた。
 嘆息する。
「全く、あなたってひとは……」
 それでも、小町は笑っている。例によって、ありとあらゆる死者の霊を包み込むかのような、慈愛に満ちた懐の深い微笑みで。
「まあ、これで気も抜けたでしょ。肩も凝り凝りで頭も固くて、それでいてそんなガチガチに固まってたんじゃ、浮くものだって浮きませんやね。なに、たとえどんなに飲み込みが悪くても、あたいが指導している限りは、決して四季様を見捨てやしませんから」
 布地面積の少ない水着で堂々と胡坐を掻き、何のてらいもなく小町は言う。
 映姫は思う。潮時かもしれないと。
 意地を張るにも限度というものがあるし、全てを潔しとするには多少醜く抗っていた感はあるが、小町が受け止めてくれると言っている以上、それに甘えるという選択肢は確かに存在するのだ。
 加えるなら。
「休日ですものね……」
「ご年配の方はそれ相応に敬いながらご指導致します」
「……まだそんな年じゃないですよ」
「ま、紅魔館とか見てれば年齢なんてどうでもよくなりますわな」
「それ、フォローになってます?」
 またひとつ、ため息をついて。
「……優しく、してくださいね」
「合点承知!」
 腹をくくった映姫に、小町は威勢の良い台詞を返す。
 逃げ続けていた己の業と向かい合う。越えられるか否かは定かでない。それこそ、映姫の努力に掛かっているのだ。背を向けて、自分には出来ないと諦めて、見ないふりをしていた。水鏡に映る弱い自分に波紋を来たす。水に潜ることは心の深みに沈むことに似て、己の心を露にする。
 映姫は自分の頬を叩き、気合を入れる。
 いささか強く張りすぎて、頬がじんじんと響く。
「いたた……」
「おや、四季様にも自傷癖が」
「望むところです」
「おお、何だかよくわかりませんがその調子です!」
 小町が調子に乗って映姫の背中を思い切り張り、映姫が喚き、また一悶着起こる。
 そして、四季映姫・ヤマザナドゥの極めて個人的な戦いが幕を開けた。

 

 がんばった。
 結構がんばった。
 その具体例。
「まず肩の力を抜いてー」
「ぶくぶく」
「バタ足! バタ足!」
「ぶくぶく」
「潜水なんておすすめ」
「ぶくぶく」
「最終兵器! 浮き輪!」
「ぶくぶく」
「ああもう意味がわからない」
 お手上げだった。
 小町は考える。うつ伏せに倒れている映姫を前に、試行錯誤を繰り返す。
「まずい、これは人工呼吸してもおかしくない流れ……まさかこのような形で、四季様のファーストチッスを頂くことになろうとは」
「チッス言うな」
 けほけほと鈍い咳をこぼしながら、映姫がのそのそと起き上がる。心なしか、その顔も青ざめている。
 しばらく思索を巡らせていた小町だったが、少々やつれた感のある映姫を頭のてっぺんから爪先まで舐めるように見回したあと、映姫に告げた。
「四季様、ばんざーい」
「ば、ばんざーい」
 わりと従順である。
「よいしょ」
「わ、わーい」
 軽々と抱え上げられ、とりあえずそれっぽい台詞を吐く映姫。
 死ぬほど恥ずかしい。
「こ、こまち」
「やっぱ軽いですね……物理的な重さが原因じゃないのか……」
「喧嘩売ってるんですか」
 あっさり下ろされ、恥ずかしいやら情けないやら、諸々の複雑な心境に陥る。
 小町は、改めて映姫に言う。
「ところで、ファーストキスであることは否定しませんでしたね」
「黙れ」
「へい」
 黙った。
 濡れ鼠と化した女がふたり、空のてっぺんに差しかかろうとする太陽の下で、一歩も動けずにその体を乾かしている。そうするよりほかなかった。手は尽くした。これを越えるには何か抜本的な改革が必要だった。だがそれを考えるとき、映姫には
「別に泳がなくてもいいんじゃね?」という逃避策が脳裏をよぎるのだった。
 弱気の虫が体内に蠢いていることを知りながら、映姫はその弱ささえ抱き締めて前に進まんとする。弱い心もまた己だ。踏み台にして越えるのではない。握り潰して無かったことにするのでもない。
 ただ、受け入れる。
 自分の裏側にある景色は、さぞや新鮮に違いないだろうから。
「要は、力を抜けばいいのでしょう」
 映姫が胸に秘めた決意を、小町が理解していたかどうか。
 悲壮なる覚悟の果て、映姫はその境地に到達する。
「小町。私と戦いなさい」
「……へ?」
 小町がおうむ返しするのも無理はない。
 だが、映姫には確信があった。
「それはどういう……」
「要は、力が抜ければいいのです」
 先程の台詞を繰り返す、映姫の表情に迷いはない。
「これ以上、振り絞る力もないというくらいに疲れ果てたなら、無駄な力が入ることもない」
「えーと、それはつまり、弾幕勝負ってことですかね」
 映姫は頷く。その手は既に淡い輝きを帯び始め、周囲の空間は鈍色に捩れ始めている。
「幸い、周りには誰もいないことですし、存分にやりあいましょう」
 映姫が本気であることは、付き合いの長い小町にはよくわかっている。
 だが、休暇中といえども閻魔の役職に就く実力者と一戦交えるには、今の小町は無防備すぎた。無論、それは映姫にもいえることだが、今の映姫はどこかタガが外れている。堅物が一線を越えると、大抵ろくなことにならない。
 無礼講なんて概念は、この世界には存在しないのである。
「えーと、それなら別に、四季様が単独で全方向照射閻魔ビームすればいいんじゃないですかね。あたいと戦わんでも」
「駄目です。戦いなさい」
「ヤです。お断りです。だって四季さま目がマジなんですもん、それは絶対ひとを殺すときの目だ!」
 頑なである。小町に至っては映姫を指差している。が、映姫はただ鼻で
「ふ」と嘲笑うのみである。
「殺しても死なない相手には無効ですから問題ないでしょう」
「やっぱり殺す気だー!」
 指をばきぼき鳴らしながら、真昼間の湖を暗澹たる雰囲気に書き換える勢いで、四季映姫・ヤマザナドゥは小野塚小町に宣戦布告する。
 緑髪の魔。
 その筆頭に挙げられる映姫が今、可愛らしいピンクの水着に身を包み、水の滴る髪を頬に張りつけて、己の力を余すところなく解放しようと待ち構えている。
 万事休す。
「鎌持ってくるんだった……」
「――四季映姫・ヤマザナドゥ。いざ尋常に」
「……あーもー! 解りましたよ! 小野塚小町、謹んでお相手させて頂きます! ちくしょー!」
 徒手空拳で、小町はやけくそ気味に映姫と対峙する。具現化する夢想の銭を宙にばら撒き、嗜虐の笑みをたたえている映姫を牽制する。映姫は動かず、小町の出方を待っている。歯痒さに唇を噛み、ただ泳ぎたいと願っていた無垢な心根はどこへやら、向かい合うふたりは上司も部下も教師も弟子もなく、本末転倒の限りを尽くさんと戦いの火蓋が切られる瞬間を見極めている。
 決戦は今。
 遠く遥かな湖面を跳ねる、水鳥の飛び立つ音を聞く。

 その日、紅魔の湖が割れた。

 

 

 ……きれいだ、と映姫は思う。
 寝転がり、空を見ているだけなのに、心が洗われるようだ。
 泳げないと、上手くいかないと拗ねて、殻に閉じこもっていた自分のなんと小さなこと。
 空も、地も、海も、全て大きく繋がっている。大空を飛び、大地を歩き、海を泳ぐ。そこに何の違いがあるというのだろう。
 海は、川は、水は。
 壁ではなく、道。
「……小町」
「死んでまーす……」
「もうビームは撃てないから、死んだふりしなくてもいいです」
「ホントすか……」
 ふたりともが大の字で寝転がっているから、お互いの表情を窺うこともできない。
 穏やかな声色に転じている映姫と裏腹に、小町の声は疲れ切って擦れている。手加減など一切しない弾幕勝負、もはや水着も弾けて飛び散っていてもおかしくない状況でありながら、やはり水着は当たり前のようにそこにあった。
 幽鬼を思わせる佇まいで、映姫は物音ひとつ立てずに起き上がる。
 無の境地。軋む首を持ち上げながら、小町はふとそんなことを思う。
「逝きましょう」
 妙な変換をした気がする。が、あながち間違いでもないのかもしれないと、小町は半ば落ちかけている瞳をこじ開けて、夢想する。
「や……やめておいた方が……」
 映姫は微笑む。ところどころ、傷が付いた水着のほつれを隠すこともなく、堂々と、それでいて雅やかに、眼前に横たわる水の海に歩み寄る。
 風が肌に柔らかい。遠く、鳥の鳴き声が耳に澄み渡る。
 今なら、この水を行けるかもしれない。
「あなたにも、迷惑をかけたわね」
「そんな……優しい目をされたら……」
 小町は、何故か知らないが涙ぐみそうになる。
「あなたはそこで見ていてください。私が、あの水を渡る瞬間を」
 切り立った陸の上から見る湖は、水深が急に深くなっている。ここから飛び込めば、足が付く付かないの話ではない。心得のない者ならば、確実に溺れる。藁を掴む暇もないくらい完膚なきまでに溺れ切る。
 す、と息を吸う。
 完全に開き切らない瞳はそのままに、薄い視界に広い湖面を浮かび上がらせる。
「さあ」
 己を鼓舞し、空を飛ぶように、地を駆けるように颯爽と、陸を離れ、水に飛び降りる。
 小石が水に投げ入れられたような、物静かで、切ない水音が響いた。

 ――ちゃぽん。

 

 

 

 文々。新聞 <第百二十一季> 葉月の十 (没記事)

・溺れる者は舌をも抜かれる!?

 先頃、紅魔の湖において、四季映姫・ヤマザナドゥ(閻魔、年齢不詳)と小野塚小町(死神、年齢不詳)が水泳に興じ、映姫氏が下流に流されて里の人間に保護されるという事件が起こった。(←いやでも事件ってほどじゃないかな)
 諸氏には、みずからの役職を用いて紅魔の湖から妖精を強制的に退去させたという職権乱用の疑いも掛けられている。諸氏に話を窺っても、「四季様が全部やった」「小町が助けてくれなかった」「いやしかし四季様の水着は可愛かおぼァ」と責任の転嫁を行うばかりで、捜査に進展は見られない。
 映姫氏は極度のカナヅチであり、元地蔵であることもいくらか関係していると見られる。また、小町氏は例外なく浮く。(←浮力……! 圧倒的浮力……!)
 四季という名を司っているにもかかわらず、泳げないのは如何なものかと思う。
 ていうか浮き輪で溺れるって何だよ。
 逆に難しいよ。

 尚、映姫氏は当時着用していた水着に関して、一切のコメントを差し控えている。

 

 

 

 



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2008年11月5日 藤村流

 



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