Man does not live by bread alone.

 

 

 

 萃香は比較的暇だったので博麗神社に遊びに来た。むしろ恒常的に退屈しているので忙しい状態こそ異常であると言わねばならないような生命体なのであるが、そんなことを言及する人や妖など何処にもなく、幻想郷はおおむね平和なのであった。
 萃香は、方々に散らしていた身体を鳥居の前に収束させ、その乳苦しい体躯を瞬時に再構成する。気が向けばそれなりにむっちりとした豊満な体型を誇示することも自由自在なのだが、過去千年、向こう三百年ほどはそういう気分にはならないだろうなあと幻想郷のあちらこちらを傍観して思う伊吹萃香だった。
「れいむー、あそぼー」
 社務所の外から声を掛ける。さして大きな声ではないにしろ、領域内に侵入すれば霊夢に気付かれないということはない。だから、適当に厄介なことをすればそのうち渋面をさらした巫女が欠伸をしながらやって来ることは明白だったのだが。
「れいむー、れいむー」
 呼べども呼べども返事はない。段々と萃香も面倒になって、えーいミッシングパープルパワーで巨大ナマズ効果だー、と地盤沈下も辞さない覚悟でスペルカードを抜き放ち。
「なんだ、お前か」
「なんだとはなによー」
 縁側の方から登場した魔理沙に、不躾な視線を送る。
 彼女は普段から着こなしているエプロンドレスの上に割烹着をまとい、何だかとても和洋折衷で家庭的な側面を窺わせていた。だが萃香はそんなことなどお構いなしに、行き場を失ったスペルカードを口にくわえてはむはむと噛みながら、やれやれと肩を竦める魔理沙に歩み寄った。
「れいむはー?」
「あぁ、霊夢か。霊夢ならいるぜ」
「生きてる?」
「その質問には答えかねるな」
 なんでよー、と口を尖らせる萃香に対し、魔理沙は実に淡々と答えた。
「霊夢は、でがらしのお茶を食べてカテキン負けしてる」
 なんだそりゃ。
 萃香は心の中でつっこんだ。
 どうして口に出さなかったかというと、魔理沙の表情がいつになく真剣そのものだったからだ。ギャグとかネタとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ、もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ……とかそんなニュアンスなのである。
 意味は分からない。
「え、あれ、そもそもお茶って食べられるもんなの?」
「……いいか、萃香。お前は勘違いをしている」
 魔理沙は、三角巾に隠れた前髪を撫でつけながら言う。
「出来るか出来ないかじゃない。やるかやらないかだ」
 そういう世界なんだよ、ここはな。
 魔理沙の目が、暗にそんなことを告げていた。
 だがやはり、萃香は思う。
 意味わからん。
「ていうか、食うなよ」
 もっとな意見だった。
「だが、食わなければ死ぬとしたら?」
 魔理沙も食い下がる。さながらそれは霊夢の心の叫びであるかようにも思われた。
「米がなかったらパンを食べればー」
「き、きさま……! この界隈で最も禁忌とされる言葉を……!」
 霊夢が来る! 霊夢が来るぞ!
 魔理沙は戦々恐々としている。
 萃香はスペルカードを噛んでいる。しわしわになっていた。
 だが結局霊夢は来ず、遥か頭上を飛ぶ季節外れのリリーホワイトが通りがかりに文々。新聞の配達員に轢き逃げされる呑気な光景が広がるばかりだった。
 咳払いの音が聞こえ、急速に場が取り繕われる。
「そういうわけだから、今の霊夢はのれんに腕おし、ぬかに釘だ。帰った帰った」
「ていうかカテキン負けって一体……」
「負けは負けだ。想像以上だったってことだよ、奴はな」
 眠気を殺ぐ程度では済まなかったということか。
 どうでもよかった。
「じゃあ、私が霊夢の空腹を散らしてあげるよー」
「むしろ霊夢に満腹感を萃めてやれよ」
「えーめんどくさーい」
 頭の裏で手を組み、ぶちぶちと文句を垂れる萃香に業を煮やしたのか、魔理沙は掛けてもいないメガネの縁を上げるように、眉間に人差し指を掛ける。
 その動作が霖之助をそれを真似ているのだとしたら、何となく可愛げがあるようなそうでもないような、やっぱりどうでもいいような感情に萃香が囚われた一瞬のうちに。
「冗談で言うわけじゃないが、いい加減にしないと霊夢はそろそろ死ぬぞ」
 空が凍った。
 若干、落ちて来そうな勢いではある。
「マジで?」
「マジで」
「……え、あれ? 何だっけ、霊夢の胃袋は宇宙なんじゃなかったっけ」
「どういう意味で言っているのかは知らんが、何もない極寒の無間地獄という意味ならその通りだな」
 恐ろしい。
 萃香は戦慄した。
 やっぱり霊夢のおなかに食料を萃めた方がいいような気がしてきた。だがその場合、咀嚼も酵素分解もしていない原材料そのものを小腸にぶち込んでしまうことにもなりかねないため、卓越された知識と技量と愛しさと切なさと心強さが必要となる。
 やっぱり面倒だった。
 萃香は断念した。
「死んだら地獄に行くんだっけ、れいむ」
「そうだな。あの死神とかは死んだ後には天国も地獄もないぞくけけけけ、面白ッ! とか葬式みたいな顔してわけわからんこと言ってたけどな」
 それは多分違う死神なんじゃないかと萃香は思ったが、魔理沙がそういうものと遭遇して交流を深めているのならそれはそれで楽しいことのように感じられたので、とりあえず魔理沙が心臓麻痺でどうにかなるまで放置することにした。
 とにもかくにも、霊夢がお亡くなりになる方向で葬儀やら香典やら喪主やら墓石やらの話し合いを進めていると、社務所の玄関から虚ろな紅白の影がのっそりと現れた。
「あ、出た」
「……鬼肉、魔女肉、鴉肉、妖精肉」
 怖かった。
 二言目には肉だの骨だの呟いているのがまたこの上ない恐怖を誘う。
 山犬を思わせる低い体勢から、瞳だけをぎらぎらと輝かせて祓い串を振り上げんとする霊夢を、魔理沙が身体で止めにかかる。
 肘が鳩尾に入った。
「げふっ」
「霊夢! 落ち着くんだ! 草なら、草ならたくさんあるから! そうだ、もうすぐ裏の樹から蜜が出る! それに群がってセミとかカブトムシとかもいっぱい来るからな! だから、だから大丈夫だ! もういいんだ! 殺しは最後の手段に取っておくと約束しただろう!」
「ぃ……いやー! もういやー! 春じゃないのに七草粥ばっかりはいやー! にくー! おにくが食べたいー!」
「れいむ、れいむ……!」
「いやぁー! 炭水化物ばっかりはいやー!」
「れいむー!」
 壮絶だった。
 呆気に取られていた。
 死に物狂いとはこのことか、と萃香はスペルカードを食べながら思った。あんまり美味しくはない。ただちょっとハッカの味がする。
 空腹で極限状態にあるにもかかわらず、相手の攻撃意欲を殺ぐ的確なピンポイント攻撃で確実に魔理沙を追いつめていく霊夢。ぼーっとその戦いぶりを眺めていると、魔理沙が今際の際に放ったスターダストな弾丸が萃香に襲い掛かる。
「あ、危な――」
 ぼそりと呟いてしまった拍子に、くわえていたスペルカードがぽろりと落ちる。ミッシングパープルパワーがー、と悔やみながら拾い上げた刹那、その如何にもやる気無げな宣言にも律儀に呼応して、
「あちゃー」
 何の気なしに、霊夢と魔理沙を吹き飛ばした。

 

 

 きのこを初めて食べたものを尊敬する、という標語が魔理沙の家に掛けられているらしいのだが、魔理沙自身もどこにその掛け軸があるか分からないのだからあまり意味はない。
 とにかく、魔理沙は森で採取した新種らしききのこが食用かどうかを判断するため、頻繁に霊夢の家を訪れているそうだ。
 それは霊夢の並々ならぬ勘を頼って食用か否かを見極めてもらうのではなく、単に、貪欲な毒見係として霊夢を抜擢したに過ぎない。
 ただ、魔理沙は言う。
「でもなぁ、霊夢は毒性のある食物には耐性が出来ちゃってるから、あんまり毒きのこ食べても反応ないんだよなぁ」
 はははは、と屈託なく笑う魔理沙にも、霊夢は平然と対応していた。
 食べられるのなら何でもいい、乾いた瞳がそう告げていた。
 あるいは、食べられるか食べられないか、ではなく、食べるか食べないか、その違いでしかないのかもしれない。彼女にとっては。
 萃香は、息を飲む。
 お茶を飲まなかったのは、お茶として出されたものがごく当たり前のように何の変哲もない白湯だったからだ。
 哀しすぎる。
 愛でおなかが膨れるのなら、いくらでも萃めてあげようと思った。
 だったらお金や食料を萃めてあれば実用的なんじゃないか、とも考えられるが、萃香曰く
「重いからいや」なのだそうだ。
 愛は軽かった。
「ねぇ、萃香」
 布団に包まりながら、霊夢は問う。
 魔理沙は隣の布団で寝転んでいる。まだ半分くらいは意識が戻っていない。今頃は三途の中頃かな、と萃香は想像する。
「ん、なにー」
「鬼の角って、切ったらまた生えてくるわよね」
「なんで断言するの」
「いや、だって売るし」
 当然のように言う。
 目が真剣だから始末に終えない。
「切ったことないから分かんないけど、もし生えてこなかったらどうすんの」
「だって、たけのこですらにょきにょき生えてくるのに……」
「比較されても」
 哀願されても、こればっかりはどうしようもない。萃香は首を振る。
 あぁ、だから世界の終わりみたいな顔をしないでほしいのに。
 そんな顔をされると、何とかしてあげたくなってしまう。切りたくもないのに、少しくらいなら、角を切り落としてもいいのではとさえ思ってしまう――。
 て、そんなわけねえ。
「霊夢はさー」
「嫌だ」
「言う前から」
「萃香はきっと里に行ってお金を稼げと言う」
「いや、そうだけどさ。それの一体何が不満なのさ」
 霊夢は、少し言いよどむ。
 もしや、何か深く暗い事情があるかもしれない。萃香はその可能性を測る前に性急な質問をしてしまった己を悔やみ、結局はなるようになるだろと諦観した。
 時計のネジが何度かキリキリと軋んだ後、霊夢はその重い口を開いた。
「働くの……面倒くさいし……」
 生臭巫女だった。
 あぁ生臭い。
「なまぐせー」
「言うなよ」
 とても自業自得だった。

 

 

 霊夢が苦しげに寝息を立て始めたのを見計らい、萃香は炊事場に赴いた。このまま霊夢にのたれ死なれても夢見が悪いので、博麗神社に存在するありとあらゆる食料を萃めてみることにした。
 むーん、とそれっぽい効果音を鳴らしながら待つこと数秒。
 塩が届いた。
 米が届いた。
 草が届いた。
 液が届いた。
「……液?」
 硝子の小瓶に入ったそれは、見た限り透明な液体でしかなかった。側面に、小さく『イナバ印』と書かれている。
 萃香は無視した。
 引き続き食料を萃める。
 草が届いた。
 水が届いた。
 砂が届いた。
 埃が届いた。
 涙がとまらなかった。
「あれ……生きるのって、こんなに大変だったっけ……」
 膝が落ちる。次いで、肩が落ちて三和土に手を突く。
 お金、萃めてあげようかな。萃香は霊夢の凄惨な生き様を追体験し、不意に同情から不正を働こうとする。しかし。
「それは駄目だ」
 魔理沙が現れる。
 頭に氷のうを乗せたまま、柱に身体を預けながら彼女は辛うじて立っている。死相が出ているな、と萃香は思った。合掌する。
「縁起でもねー」
「ていうか霊夢が餓死しそうなのは完全に自業自得なんだから、なんかもう放っておいてもいいような気がしてきた」
 つまりは飽きた。
 流石は鬼である。
「お前はそれでいいかもしれん。だが、ひとり取り残された霊夢はどうなる?」
「痩せる」
「ぺったんこどころか針か糸になるな、近いうちに」
「笑い事にしてるのはむしろ魔理沙のような……」
「ともかく!」
 誤魔化した。
 萃香も思わず誤魔化された。
「我々は霊夢を殺してはならない! ならばどうするか!」
「自殺か事故死かってところに持っていく」
「なかなか上手いがこれは大喜利じゃないもんでな! 一応私は事故ってことにしたい気分だが」
 自分に正直な魔法使いだった。
 魔理沙は寄り掛かった大黒柱を叩き、意気軒昂に朗々と叫ぶ。
「よし! じゃあ行くがよい、幻想郷にその存在を許された唯一の鬼、伊吹萃香!」
「あいあいさー」
「ノリがいいんだか悪いんだかよく分からん応対、私は嫌いじゃないぜ!」
「ところでなんでそんなにテンション高いの」
「毒きのこに当たったみたいだな! 霊夢はあてにならんぜ全く! ふはははは!」
 踏んだり蹴ったりである。
 だが、さんざん霊夢に毒見させているのだから因果応報である。ああいつの世も醜きは人の業か。萃香は嘆いた。
「お大事にー」
 がんばれよー! と両手を振る魔理沙を置き去りにする不安はあったけれど、それ以上にさっさと博麗神社を立ち去りたかった。かくてその計画はいとも容易く完遂され、萃香は再び自由の翼を手に入れたのだった。

 

 

「ただいまー」
「早いな萃香! 五分しか経ってないぞ! まぁ計算してる私も私だが!」
 魔理沙のテンションはまだ戻っていなかった。失敗したな、と萃香は思ったが、今更引き返すこともできない。
 霊夢の隣で胡坐を掻いていた魔理沙は、萃香が持っている大きめの巾着袋を受け取り、空腹のあまり布団の中でぷるぷる震えている霊夢に戦果を報告する。畳をばしばし叩きながら。
「ほら、霊夢! 萃香が炭水化物じゃない食料を持ってきてくれたぞ! 喜べ!」
「わ……わあい」
「さすが、炭水化物の中に『すいか』って言葉が入っているだけのことはあるな! まぁ今気付いたんだが!」
「たんすいかぶつ……」
 萃香は呟いてみた。
 霊夢は乾いていた。
 魔理沙がすかさず彼女の口に薬缶の口を突っ込む。
 ひどい介護だった。
「冗談はこれくらいにして……」
 乾燥わかめに擬態していた霊夢は、適度な水分を得てそれなりの自我を取り戻した。布団から身を起こし、魔理沙が高々と掲げている巾着袋を取り上げる。
「萃香」
「なーにー」
 萃香は障子の端に背中を預け、頭の後ろで手を組んでいる。れいむ早いとこ回復しないかなー、と遊具の修理を待っているような萃香に、霊夢は今の彼女に出来る限りの優しい表情で、
「ありがとうね。面倒だったでしょう」
 簡単に、お礼を言った。
 ん、と萃香は少し口ごもり、珍しく頬を掻いたり顎を擦ったりなどして、
「張り合いがないとつまないからね。鬼とまともに付き合ってくれるような奴は、幻想郷広しと言えどもここらへんくらいしかないわー」
 あははは、と軽く笑い飛ばした。
 霊夢もまた、そうね、と頷いて、袋の中身に手を伸ばす。
 先程から魔理沙が開けろ! 開けろ! とうるさかったものだから、霊夢が寸勁で強制的に黙らせていたのだが、如何にも怪しげなレインボーきのこを食べた副作用は、にわか仕込みの発勁程度で抑えつけられるようなエフェクトではなかったらしい。
 やたらと顔を寄せてくる魔理沙を力ずくで退けながら、萃香が萃めてくれた食料を拾い上げる。
 それはやたら細長い形状をしており、とても霊夢や魔理沙の口には収まり切らないような太さと硬さを備えていた。上手く扱えば撲殺といかずも昏倒させることすらも容易く、斬れぬものなどあんまり無い! と宣言することもやぶさかではないかもしれない。
 試しに魔理沙を打ってみたらしばらく起き上がらなかった。
 やってみるもんである。
「萃香、これはなに」
「フランスパン」
「何故」
「米がなかったらパンを食べればー」
「それはもういい」
「炭水化物かよ!」
 魔理沙が復活した。
「さすがは炭水化物の中に名前が入っているだ!」
「それもいい」
 とてもやかましいので、魔理沙の口に硬くて太いフランスパンを咥えさせてやった。
 えろかった。

 

 

 後日、萃香は魔理沙に霊夢が何故あそこまで貧窮していたのかを尋ねてみると、とある生命体が巨大化したり大量分裂したりして博麗神社のそこいらを駆け回るから、土地が踏み固められ肥料が掻き乱され、社務所近辺の作物の生育状態が極めて悪かったことが原因なのだそうだ。
 そして、萃香は忽然と姿を消した。
 いつものことである。
 その後しばらく、霊夢はフランスパンを携えたまま萃香を探していたとかいなかったとか。

 

 



OS
SS
Index

2006年7月5日  藤村流
東方project二次創作小説





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