私たちは、魚だ。
竜宮の使いは、滅多にその姿を見せない。
稀に、その死体や痕跡が発見され、人々の口にのぼるくらいである。
近頃、仲間のひとりが息絶えたという噂を聞いた。
亡くなった彼女とは、そう親しかったわけでもない。
が、やはり、仲間がひとりいなくなるのは寂しいものがあった。
私は、彼女が纏っていた羽衣を回収するため、彼女の死体を探していた。
幻想郷の隅々を探し回り、人里に程近い森の中で、小さく破れた羽衣の一部を発見した。それは、彼女が愛用していた羽衣だった。
探し物は、この近くにあると思った。
小さな村の、そのまた片隅にある小さな納屋に、不釣合いなほど多くの人間がたむろしていた。
そのひとりに、何事かと尋ねてみる。幸い、男はひどく興奮している様子だったから、私の素性を問われることもなかった。
「竜宮の使いが降りてきた」と、男は語った。
嬉しそうに。楽しそうに。
人の壁を掻き分けて、ささくれ立った畳の上に横たわっている、竜宮の使いを見る。
年老いた男が、跪き、彼女に手を合わせていた。
彼が村の長であることは、騒がしい人の声を聞いていれば、おのずと解った。
私は尋ねる。
「彼女を、どうしようと言うのです」
彼女が既に死んでいるのであれば、掌を合わせているのも、理解できる行為ではあった。
けれども、長が単に死者を弔う意味合いから、合掌をしているようには思えなかった。
長を含め、ここにいる人間たちは、彼女が竜宮の使いであることを知っているのだ。
長は、皺の深く刻まれた顔をかすかに歪めて、厳かに呟く。
「ここに、祀りたいと考えております」
その言葉を期に、人の声が鳴りやんだ。
竜宮の使いは、龍神と地上とを繋ぐ架け橋としての役割を担う。天から生み落とされた龍神の声を、地に足を根付かせて生きている人の子に伝える。龍を知り、人を知り、地を知り、そのどれにも深く干渉しない。
竜宮の使いもまた、人間から見れば、神に近い位置にある。それは知っている。
けれど。
「愚かな」
小さく、自分にさえ聞こえるか否かという呟きを、村長だけは聞いたろうか。彼は少し顔をしかめて、またすぐに私から目を逸らした。
「竜宮の使いの方が、役目を終え、ここに降りてこられた。そのことに、何か意味があるのだと思いたいのです」
私の返事など期待していないというふうに、村長は私に背を向けたまま、彼女に手を合わせ続けていた。
所々ほつれた羽衣が、担い手を失い、空に還ろうと彼女の背中から飛び立とうとしている。けれど、消え去ることも許されない彼女の肉体が、静かに眠ることを許さない人間たちの意志が、羽衣の帰還を遮っている。
いまや、雨粒さえ凌げないほどに脆い納屋が、彼女を閉じこめる頑丈な檻であった。
私は、彼女の枕元に膝を突き、きょとんとする村長の隣で、人の願いを伝え、彼女の思いを聞く。
人は、彼女を祀りたいのだという。
彼女は、それでも構わない、と答えた。
私は、確かにその遺志を聞いた。
「お引き取りを」
村長が、年嵩に相応しい厳格な調子でもって、宣告する。
もはや、私がここに留まる理由も失われた。
返すべき言葉も持たず、私は再び人の壁を掻き分けて、無慈悲な籠の中から抜け出した。
振り返れば、人々の声がやけに騒がしい。
その奥に、物言わぬ竜宮の使いがいた。
瞳を閉じて、まぶたの裏に映る在りし日の彼女を思い返す。
英雄願望も、喝采欲求も持ち合わせていなかった。寂しさも、苛立ちも、淡い微笑みさえ浮かべなかった。浮かべたことはあったのかもしれないが、それを私の前で見せたことは一度もなかった。
彼女の名前さえ、覚えているものは少なかった。
事実、彼女が彼女であるために必要なものなど、竜宮の使いであるための、緋色に輝く羽衣だけだったのかもしれない。
まぶたを開ける。人の渦は絶えることなく、同胞の亡骸を取り巻いている。
祈るように、嘆くように、天を仰ぐ。
真っ青な空には、雲の影すら見えない。
五年が経った。
雲の中から、地上の様子を窺い知ることは難しい。有頂天ならば、下界の様子を見て取れる。私は、有頂天の片隅に佇み、人の住む世界を見下ろしていた。
特に、何か変わった様子はない。
「あれ、衣玖じゃない」
「総領娘様」
「天子でいいっての」
面白くもなさそうに、比那名居天子は桃をかじる。彼女はいつも退屈している。私に話しかけたのも、他にすることがなかったからだろう。
「何してるの。面白くもなさそうな顔して」
「特に何も。地上の世界に異常がないか、確かめていたくらいで」
「真面目ねえ」
桃の汁を手の甲にまで滴らせながら、気だるげに呟く。
袖口まで染み込みそうになってようやく、彼女は慌ててその雫を舐め取る。
「で? 本当のところは、何をしていたの」
「ですから」
「知ってるわよ。竜宮の使いの羽衣、回収できなかったのよね」
「それは」
「それが、何か関係しているんじゃないかしら」
私は口を噤んだ。
言うべきか言うまいかを悩み、自慢げに微笑む彼女の表情が、少し恨めしくも感じた。
「地上の、ある村の様子を」
嘘ではない。
嘘ではないが、真実でもない。おそらくは、彼女もそれを察しているだろう。しかし彼女は、つまらなそうに「ふうん」と呟くだけだった。
「でも、初めて見たわ」
「何を、でしょう」
決まってるじゃない、と彼女は私の顔を指差して。
「貴方が、そんなに苛々してるところ」
そう言って、思いきり桃の種にかじりついた。
更に、五年が経った。
私は、地上に豪雨が降り注ぐという龍神様からのお告げを賜り、その報せを地上に届けるため、久々に下界へと赴いた。
早くも、地上では雨が降り始めていた。龍神様の警告がなされた以上、それは何らかの対策が必要な状態である。何もせずに手をこまねいていれば、必ず甚大な被害を及ぼす。
私は幻想郷を回り、人々に、時には妖怪にも、間もなく豪雨が訪れることを告げた。
人々の反応は様々で、疎ましげにされたり、謝辞を述べられたりもした。
その行脚の中で、竜宮の使いを祀っている村にも足を運んだ。
あの納屋は、見違えるほど立派な社に変わっていた。厳重に施錠が施され、使いの姿を拝むことは出来なかった。賽銭箱は底が見えないほどに入っていて、お供え物も、しばらく食うには困らないくらいに並べられていた。
村長は、既に亡くなったと聞いた。
そうして、雨は降り注ぐ。
収穫を前に、人々は田畑を守ろうとした。
十分な対策を行ったものたちは、被害を最小限に留められ、対策を怠ったものたちは、相応の水害を被ることになった。
私たちは、警告を伝えるだけの生き物である。警告を聞き、人がどう動いたとしても、それを見守る以上のことはしない。現象に立ち向かうのも背を向けるのも、全ては人の業であり、道であり、力である。
私たちは、ただの魚だ。
私たちに何かが出来るなどと、考えてはいけない。
考えてはいけなかったのに。
あの村は、無事に水害を乗り越えたようだった。
村人は、水神様のご加護があったからだと口々に呟いた。
無論、堤防に土嚢を積み上げ、家屋の補強も施した。それは純粋な人の力だ。竜宮の使いに過ぎなかった、彼女が何かをしたわけではない。
それとも、彼女に何か出来たのだろうか。私が知らないだけで、龍神様が危惧した現象さえ捻じ曲げるような、それこそ神にも等しい力を発揮したのだろうか。
水神と呼ばれて。
人の祈りだけで、神様になれたというのか。
遠い空から見下ろした彼女の社は、雨風に傾き、賽銭箱が裏返っていた。
それを懸命に起き上がらせようとしている、人々の姿が見て取れる。
五十年、百年が経った。
私は空の海を泳ぎながら、人々の様子を見るともなく眺めていた。
地震や豪雨などの災害は度々起こり、その度に私は危機を知らせに回った。
あの村は、水神の加護がある村として栄え始め、社も徐々に大きくなっていった。
お告げを知らせる名目で村に立ち寄ると、何回か代替わりをした村長が、丁重に出迎えてくれる。水神として祀られた竜宮の使いの仲間であるから、畏敬の念がひときわ強いのかもしれない。
何度か、彼女の姿を見たいと願い出たこともあったが、村長はやはり首を振るだけだった。
私も特に期待はしていなかったから、すぐさま村を後にする。
その後に起こった歴史的な暴風雨も、一丸となって結束した村人たちにより、大きな被害を出すことなく乗り切った。
水神様のおかげだと、村人は社に手を合わせた。
「また、下を見てるんだ」
背中に掛けられた総領娘様の声は、どこか呆れているような調子だった。
「気になるなら、見に行けばいいのに」
桃をかじる瑞々しい響きが、耳に心地良い。
「私は、竜宮の使いですから」
「だから、用が無ければ人の前に姿を見せない、と」
彼女は聞こえよがしに溜息を吐き、有頂天の崖っぷちに立っている私の隣にしゃがみこんだ。
口に含んだ種を舌で転がし、やがてそれにも飽き、地上に向けて種を飛ばす。
「総領娘様」
叱咤する意で声を荒げたつもりが、必要以上に粗暴な響きになってしまったことを悔いる。
だが彼女は別段気にしたふうもなく、私にしか聞こえない声で、静かに呟いていた。
「地震、起こしてあげましょうか」
天人らしからぬ意地の悪い笑みが、彼女の横顔に浮かび上がっている。
私は、静かに首を振るだけだった。
「やめてください。仕事が増えます」
「増えた方がいいんでしょうに」
一瞬、どう答えるべきか躊躇う。
「……そんなことは」
「わかってるわよ。わかってる」
悪戯をたしなめられた子どものように、開き直り、肩を竦めて、踵を返す。
遠ざかる彼女の背中に、何か言葉を掛けようとして、結局、何も言えなかった。
桃の種が落ちた地面は、ほのかに霞が掛かっている。
更に、百年が過ぎた。
巨大な台風が来ると、龍神様は告げられた。
私は地上に折り、未曾有の危機が訪れると知らせて回った。
水神が祀られた村は、村と呼ぶことが躊躇われるほど、豊かに栄えていた。
すれちがう人々に、これから起こる危機を触れて回る。しかし、昔と比べて反応が鈍い。みな、私の話は真剣に聞いてくれるのだが、危機感を抱いている様子は見られない。
地域差、個人差はあるにせよ、他の場所ならある程度の反応はあるのだけれど。
最後に、村長の家を訪ねた。
社の横に建てられた家は実に豪奢で、多少の災害ならば立派に防ぎ得るくらいの頑丈さを備えていた。
長は穏やかな笑みをたたえた老女で、突然訪れた私に動じる様子もなく、快く客間に招き入れてくれた。
「これから、他に類を見ない大きな台風が訪れます。十分に、お気を付けてください」
「そうですか。ご忠告、痛み入ります」
長は、そう言ったきり何も喋らない。ただ、静かにお茶を啜っている。
「ご安心を」
口を引き結んだ私に対して、年老いた長は柔和な笑みを返した。
「私たちには、水神様がついておられますから」
一片の不安も疑念も見せずに、長は窓の外にそびえ立つ立派な社を見た。
それにつられて、私も社を一瞥する。
長は、「水神様」と口にした。
私は、社の中を見たいと言ったが、長は、やはり残念そうに首を振るだけだった。
村長の家を出た後、村人たちに水神のことを尋ねてみたが、ただの一度も「竜宮の使い」の名が出ることはなかった。
目の前に、竜宮の使いである私がいるにもかかわらず。
見上げた空には、暗澹たる雲が立ち込めている。
龍神様の声は神託に等しい。
そして予告は実現し、幻想郷に、台風が訪れる。
川が氾濫し、山が崩壊する。
土石流が家屋を押し流し、実りかけた作物を蹂躙する。
悲鳴と怒号と慟哭と、祈りと、嘆きと、それ以外に、何も残されはしなかった。
村は死に瀕している。
社は影も形もない。
人は埋もれ、流され、立ち尽くし、掘り返し、泣き叫び、途方に暮れていた。
彼らは、みずからの手で村を護ることを怠った。
水神に祈りを捧げるだけで、みずからの力を振り絞ることもなかった。
加えて、ここ百年の間に大きな災害が起こっていなかったことも災いした。
私は今まで、龍神様のお告げを聞き入れず、不幸に陥った多くの人々を目の当たりにしてきた。
何がいけなかったのか。どこで道を違えたのか。
そんなことが、一体誰にわかるという。
わかっていれば避けられる道なら、はじめから、私のような生き物などいなくてもいい。
わかっていても避けられない道だから、私のような生き物がいるのだ。
私たちは、ただの竜宮の使いである。
私たちでは、神様にはなれない。
そんなこと、はじめからわかっていたはずでしょう。
台風が過ぎ去り、地上は晴天に恵まれている。
青空の下に、荒れ果てた土地が無慈悲に広がっている。
ちらほらと、人の姿も見えた。
崩れた家の前で泣き崩れる者、土に埋もれた家を掘り返している者、家に這い寄る土や水を掻き出している者、子を捜す親、親を捜す子、社に祈りを捧げる人。
村長の家で、見たことのある顔だった。
私は、ただ地面に突き刺さっているだけの社の柱と、それに向かって手を合わせる少女の、ちょうど真後ろに立っていた。乾いた風が髪を揺らす。少しだけ、前髪が鬱陶しい。
「何をしているのですか」
少女は、後ろを振り返ることもなく、寂しげに囁く。
「お祈りを」
私は問う。
「何故ですか」
少女は答えた。
「もう、私には何も出来ないから」
それ以上、何も言うことはなかった。
私は少女に背を向けて、物静かな村の痕跡を後にする。
あの柔らかい笑みをたたえていた村長の姿は、捜せども、捜せども、ついに見つかることはなかった。
何年かが過ぎた。何十年か、何百年かもしれないが。
とにかく、長い時間が過ぎていた。
有頂天の片隅から、地上の様子を窺うことも少なくなった。
下の世界は、何かが変わったようにも見え、何も変わっていないようにも見える。
総領娘様に尋ねても、「昔のことは覚えていない」と素っ気なく返される。
私も、そういうものかと納得するしかなかった。
特にすることもない日々だった。
そのせいかはわからないが、今は亡き昔日に置き忘れたやり残しを、潰してみることにした。
私は、遥か昔に息絶えた竜宮の使いが、身に纏っていた羽衣を探し始めた。
今なら、見付け出せるような気がしていた。
本当に、何の根拠もなかったのだけど。
小さな村の片隅に、朽ちかけた柱が突き刺さっただけの、ちっぽけな社があった。
おざなりに置かれたような平たい石の上に、お神酒と、季節の野菜がいくつか供えられている。獣にかじられたらしく、胡瓜も茄子も無残な姿を晒していた。
私はそこで立ち止まり、柱の下に掌を差し向けた。
「あ」
ふと、小さな足音を聞く。
隠れようかどうか迷っているうちに、小さな足音はすぐ側まで近付いていた。
「あ!」
女の子は、私の存在に驚き、その腕に抱えた笊いっぱいの野菜を取り落としそうになった。
すんでのところで、私は少女の手を支え、どうにか事無きを得た。
「ご、ごめんなさい!」
「いえ、お気になさらず」
私の腰までしかない背丈を懸命に折り曲げ、頭を下げる。
私は社の前から退き、その空いた場所に少女がゆっくりとしゃがみこむ。
笊ごと供えられた野菜は、また近いうちに獣に食べられるだろう。けれど少女は何の疑いもなく拍手を叩き、祈るように瞳を閉じた。
どこかで見たことがある女の子だと思った。
思い出そうにも、何百年も昔に会った村長の顔など、覚えているはずもなかったけれど。
「何をしているのですか」
代わりに、ずっと前から知りかった答えを、もう一度尋ねてみる。
少女は、慌しげに後ろを振り返り、きょとんと目を丸くしてから、屈託のない笑みを浮かべた。
「お祈り!」
元気なのは、その幼さゆえか、それとも生来の性格ゆえか。
「それは、何故」
続けざまに問うと、少女は答えた。
嬉しそうに。楽しそうに。
「今日が、いい日でありますように、って。神さまに、ちゃんと見ててください、って」
だから、祈りを捧げるのだと。
年端もいかない女の子が、竜宮の使いである私に向かって、神様に祀り上げられた彼女の前で。
いとも容易く、そんな言葉を口にする。
しばし、間が空く。
「そう、なのですか」
「そうなのです」
私の口調を真似て、女の子が自慢げに笑う。
それにつられて、私も力のない笑みをこぼす。
長い時が経っていた。
はじまりは彼女の死、そして朽ち果てた地で水神として祀られ、幾星霜が過ぎた。
彼女は神になれただろうか。
か弱き人の祈りは、地に落ちた竜の使いを、再び天の頂に還すことが出来たのだろうか。
そんなことなど、頭を抱えて悩まなくてもよかったのに。
「私も、お祈りをさせてもらってもよいでしょうか」
頷く代わりに、女の子は私に場所を譲った。
片膝を突き、柱に触れる。麗らかな春の陽射しを浴び続けた柱は、腐れ落ちそうな外見にそぐわぬ温かさを帯びていた。
瞳を閉じ、私から彼女へ、ただ一度きりの祈りを捧げる。
まぶたの裏には、優雅に空を漂っていた在りし日の彼女がいた。
「あ」
後ろから、呆けたような声が聞こえる。
瞳を開ければ、今にも崩れ去りそうなほど脆く佇んでいた柱が、日の光にも揺るがない淡い輝きを放ち始めていた。
そうだ。
「貴方は、ここにいた」
ずっと、眠り続けていたのね。
私は、音もなく立ち上がる。
振り返れば、どこか陶然と瞳を潤ませている女の子がいた。
折角だから、この子にも見ていてほしい。何もかもが変わり果て、それと信じた神様も、元々が何者だったのかさえわからなくなってしまった。けれど、それでも、今日のこの日を健やかに生きられるよう、ただ見守っていてくださいと、純粋に祈りを捧げられるのならば。
きっと、彼女がここに降りてきたことに、意味はあったのだと。
今は、そう思えた。
「おかえりなさい」
大地の下にまで木霊するような、ささやかな声で囁く。
掌は空に、瞳は大地に。地に落ちた者を憂うが如く、天に昇る者を羨むが如く。
乾いた土から木の芽が芽吹くように、光り輝く柱を抱くように、天の羽衣が姿を現す。
彼女の肉体は、今もまだ大地に眠っているのだろう。
彼女が選んだ、安らかな眠りを遮るのも忍びない。
羽衣の端は紅く輝き、天に還ろうとみずからを忙しなく振るわせている。
彼女の遺志を大地に残し、彼女の証を空に還そう。
私は、自分の羽衣の上から、彼女の羽衣を二重に纏う。
竜宮の使いがふたり、これでようやく、長きにわたる役目を終える。
羽衣の捜索と、そして、竜宮の使いであるという証。
羽衣を失えば、唯一彼女を縛っていた竜宮の使いという証も失せる。そうすればもう、ただの神さまでしかなくなるのだ。彼女は。
「ありがとう」
振り返り、気を抜けば空の彼方に誘われそうな体を地面に縫いつけ、呆然と立ち尽くしている女の子に話しかける。
はっと我に返った女の子は、あたふたと脈絡のない身振り手振りをした後、柱を背に浮き足立っている私をぼんやりと見つめて。
「……神さま?」
ふと、そんなことを言った。
胸に、何か熱いものが込み上げてくる。それがどういう感傷なのか、言葉にすることは叶わないけれど。
「いいえ」
私は目を細め、掌を自分の胸に添える。
「貴方が信じる神さまは、ずっと、ここにいるわ」
その仕草を真似るように女の子は、小さなふたつの掌を、小さな胸に重ねていた。
私の体は音もなく浮き上がり、ゆっくりと、乾いた地面から遠ざかっていく。
女の子は、天を仰ぎ見るように、私の行方を目で追っている。
視界が広がると、物寂しい土地のあちこちから、何人かの人影が見え隠れする。みな、一様に空を仰ぎ、空に帰ろうとする私をぼんやりと眺めていた。
まるで、神さまでも見るかのように。
貴方たちが信じた神さまは、今でも、貴方たちが生きているその場所に在るというのに。
眼下に映る大地の風景は、眩いまでの光を放つ柱の雄々しさと、土の色と、草木の色に彩られる。
やがて、その全てが空気の白に掻き消されて。
私は、何百年ぶりかの溜息を吐いた。
「聞いたわよ」
「何を、でしょう」
有頂天は常に変わらない。
同じように、総領主の娘である天子様も、全く変わる様子がない。
「羽衣、見付かったんですってね」
「はい。おかげさまで、ようやく」
「肩の荷が下りた?」
「そう、ですね」
素直に、頷いておいた。
今はもう、有頂天の片隅にしゃがみこんで、地上の様子を窺うこともない。恐れることもなく堂々と、だだっ広い空の大地の真ん中に座り、慈しむように、愛でるようにお酒を嗜む。
「でも、見たかったな。ちょっと」
「何を、ですか」
「衣玖が、贅沢にも羽衣を二つ羽織ってるところよ。いやなに、さぞかし綺麗だったんだろうなと思ってさ」
一瞬、声が詰まり、やや不自然な間が空く。
不覚だった。
「そんなことは……」
「あらやだ、照れちゃって」
頬を緩ませながら、彼女は私のお猪口にお酒を注ぐ。
零れ落ちそうになる水面をどうにか支え、慌しく唇に浸す。
ぬるい雫が舌にまとわりつき、焼けるような熱が喉を行き過ぎて、ようやく言葉を紡げるようになった。
「どうも、ありがとうございます」
「いいのよ。いつも相手してくれるからね、貴方は」
「こちらこそ」
「どういたしまして」
意味もなく、ふたりして微笑みを交わす。
私はごく自然に笑んだつもりだったのだけど、彼女はどこか驚いたように目を丸くしていた。
不思議に思って、問いかける。
「何か、おかしかったでしょうか」
「いや、おかしくはないけれど。初めて見たから、ちょっと驚いたわ」
くすくすと、意地の悪い笑みをこぼす。
いつかの日にも、似たようなやり取りを交わした記憶があった。
今の私は、その頃と何か変わっているだろうか。
変わっていても、変わっていなくても、私が私であることには違いないのだけど。
「何を、でしょう」
「決まってるじゃない」
彼女もまた、ずっと前にも似たようなことを言ったわね、と昔を懐かしんで。
掌に乗せた真っ白な杯を、高々と天の頂に掲げて。
比那名居天子は、永江衣玖に言う。
「貴方が、そんなに楽しそうに笑ってるところ」
SS
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