空の飛び方

 

 

 

「また転んだの?」
 私はしゃっくり混じりで泣きじゃくっていて、お母さんの言葉に頷くことも返事をすることもできなかった。でも、お母さんはそんな私の頭を優しく撫でてくれて、擦り剥いた膝小僧を消毒して軟膏を塗ってくれた。私はしばらく泣いていたけれど、そのうち痛みも引いて、お母さんの顔もちゃんと見れるようになった。
「元気なのは良いことだけど、周りには気を付けなくちゃね」
 私は素直に頷こうとして、その前に、ふと空を見上げてしまった。
 つられて、お母さんも空を仰ぎ見て、少し寂しそうに目を細めた。
「……わたし」
 幼いながらに、自分が他人とは違う存在であると自覚してしまっていた。
 かぜはふりとか、あらひとがみとか、肩書きなんてものよりもずっと先に、不思議な力を持っていることを認識していたのだ。
 だから、ただの人間には決して成し得ない所業を、絵空事を語るでもなく、夢の出来事を思い出すでもなく、いつか必ず叶えられるであろう願望として、私は口にしていた。
「わたしも、空を飛びたいよ」
 ――お母さんと一緒に。
 お母さんは、少し困ったような顔で、私の髪を撫でてくれた。





 そして、今。
「ふー」
 空から望む幻想郷は、地平に立って眺めるそれとはだいぶ違って見えた。雪化粧が掛かっているのは山の中腹までで、平野部は湿り気を帯びた地面が広がっているばかりだ。境内の様子を窺っていた朝は、手がかじかんで指が上手く動かせなかったのだが、陽が照っている今は手袋をしなくても問題ない程度である。山を覆っている雪も、今日中には溶けて無くなりそうだった。
 温もりを孕んだ風が髪をなびかせ、何度も頬を掠めては、ほんの少しだけ心をざわつかせる。
 神社から人里まで下るとなると、徒歩では流石に距離が開きすぎている。一度飛び上がって山を抜けてから、人里近くまで行くのが理想的である。妖怪ならずとも、魔力や妖力、あとはコツさえ掴めば人間でも空を飛べる。そして、それが許されるのが幻想郷だ。
 急ぐ用事でもないし、思ったほど雪の影響も少ないから、少し歩くのも一興だったか。だが、人里特製のラー油を求める諏訪子様の願いを無碍にするのも忍びない。神様のわりに俗っぽい舌をお持ちなのは、長らく外の世界に浸っていたから致し方ないところでもある。
「……外、か」
 何気なく想起した言葉で、私が幻想郷の住民であると思い知る。
 顔見知りの白狼天狗に一礼をして、妖怪の山を行き過ぎる。次第に視界も開け、首を巡らせば見知った顔もいくつか見付けられそうである。発見したところで、特別何か話すこともないのだけど。
 ――いや、正確には。
 昔のことを思い出して、妙な寂寥に襲われているせいなのだけど。
「……お母さん」
 少しだけ、速度を上げる。顔に当たる風が、少し冷たくなった。
 昔は下手くそだったけれど、今はこんなにも自由に飛ぶことができる。そのことを誰も褒めてはくれないけれど、褒めてくれた人が確かにいたことを私は覚えている。
「空、飛んでるよ」
 空を飛んでいれば、転ぶことはないだろう。躓くこともないだろう。
 だが、小石に躓いて転ばなければ、地面の痛みを知ることはない。空の痛みは誰が教えてくれる。墜落してしまえば、それは命に関わる痛みだ。
 お母さんが私に空の飛び方を教えてくれたのは、初めて空への憧れを呟いてから何年も経ってのことだ。
 向こうの世界では、空を飛ぶ必要はなかった。空を飛ばなくても生きていけた。同様に、風祝として、現人神としての力が無くてさえ、生きてはいけたのかもしれない。それでも、お母さんが私にそれらの使い方を教えてくれたのは、私がどこにいても生きていけるように、という配慮があったからではないだろうか。
 たとえば、幻想郷のように、妖怪が闊歩する世界であっても。
 信仰無き神々と共に、忘れられた者たちが集う世界に足を踏み入れても、その空気に溶け込み、時には抗える存在でいられるように。
 そう願って。
「……わたし」
 息が詰まる。空中に停止し、胸を押さえて目を伏せる。眼下に小さな妖精たちの姿が見え、静止する私を訝しげに見上げている。
 空の飛び方を教えてくれるという最初の日に、お母さんは胸を躍らせる私を抱き寄せて、震えながら「ごめんなさい」と言った。当時の私はきょとんと目を丸くしていて、お母さんを慰めるなんて選択肢も思い浮かばず、ただじっと抱きすくめられていた。背中に痛みが走るほど、強く。
 人ならざる力を持ってしまえば、もう人としては生きられまい。神と共に生き、神と共に朽ちるが定めの存在として、人と一線を画して生きなければならない。
 生まれを恨むことなどできないけれど、お母さんは私にその役目を与えた。お母さんも、その役目を与えられた。
 今でも、時折思う。思ってはいけないことかもしれないけれど。

 お母さんは、幸せだったのだろうか。

 あの日、お母さんが泣いていたから、今でもそんなことを考える。
 答えはきっと、生きてみるまで、死んでみるまで、解らないことだと知っていても。
「私、元気だから」
 顔を上げる。少しだけ高度を下げて、きゃあきゃあと逃げ惑う妖精たちの横をすり抜けて、人里に向かって飛んで行く。
 ここにいれば、人ならざる力を持っていても、人から離れて生きる必要もない。だからといって、誰しもがここを望む訳じゃない。ここに来れる訳じゃない。解っている――解っているのだ。
 でも、時折思う。
 お母さんと、一緒に飛びたかった。ここで、何の悩みも抱かずに笑っていたかった。
 お母さんも、ここに来ればよかったのに。
 別れの日に、そんな言葉が口を突いて出そうになったけれど、お母さんの顔を見たら、何も言えなくなってしまった。あまりにも複雑で、穏やかに、寂しそうに、儚く、優しく、全ての重荷から解き放たれたかのような、身体の半分を持って行かれたような、そんな姿を見てしまったから。
 お母さんは、幸せだったのだろうか、と。
 聞けずじまいの、二度と聞くことはできない疑問を、今でも抱え続けている。
「早苗」
 移り変わっていく風景の片隅から、誰かの声を聞く。
 急制動をして、身体に掛かる慣性をやんわりと受け流していると、声の主は音もなく私に近付いてきた。
「そんなに急いで、どこ行くのよ」
 霊夢だった。
 そんなに急いでいるつもりはなかったのだけど、ブレーキを掛けてもなかなか停止しなかったところを鑑みるに、知らず知らずのうちに速度が上がっていたらしい。事故が起きなくてよかった。もしかしたら、霊夢も私と激突しそうになって、慌てて注意に入ったのかもしれない。表情は、いつものように飄々としているけれど。
「ちょっと、里の方に、ですかね」
「ちょっと、程度の速さじゃなかったわよ。それこそ、異変なんじゃないかって思うくらい」
 異変というなら、霊夢の方が察しは早いだろうに。やれやれ、と言わんばかりに霊夢は肩を竦める。その仕草が相変わらずで、不意に頬が緩む。風に当たりすぎていたから、顔が冷たくなっていて、あまり上手には笑えなかったけれど。
 私のぎこちない表情を見て、霊夢は眉を潜める。
「あんた、本当に大丈夫?」
 あんまりといえばあんまりな台詞だが、実に霊夢らしい。
 その問いに私は、めいっぱい力強く答える。
「ええ。元気ですよ、私は」
 今度は、さっきよりも屈託のない笑みを浮かべる。霊夢は、諦めたようにこめかみを掻いていた。
 不思議なもので、誰かと話せる気分ではなかったはずなのに、話してみれば案外といけるものだ。相手が霊夢だからかもしれないし、私が勝手に思い詰めていただけかもしれない。
 一度立ち止まってしまえば、風は弱まり、空気の暖かさが身体に染みてくる。
「なんだかんだで、結構暖かいわね」
「そう、ですね」
 太陽の位置も、いい加減に高くなっている。少しだけ、お腹も空いてきた。下腹部を撫でていると、霊夢も私を真似てお腹を撫でた。奢れということだろうか。それとも、折角だから食べにいかないか、という意図だろうか。どちらかは判らないが、お遣いの同伴者ができたのは、きっと喜ばしいことなのだろう。
 そう思う。
「あ……」
 私たちの間を、一迅の風が舞って、髪を乱してどこかへ消えていく。
 不意に、空の彼方を見る。その向こう側にある、私が生きていた世界を想う。
 風が結界を越えて、世界と世界を繋いでいるというなら。
 どうか、伝えてほしい。
 遥か彼方の世界にいる、私のお母さんに。


 東風谷早苗は、元気でやっています、と。

 

 

 

 



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2011年3月11日  藤村流
東方project二次創作小説





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