sky

 

 

 

 主に問う。この名に何か意味はあるのかと。
 主は答える。確かに意味はあるけれど、あなたはそれを理解できないでしょう。
 何故か。
 何故ならば、この世界には空がないから。

 (うつほ)
 それが、名前の意味さえ知らなかった私に付けられた、名前。
 その意味を、私はまだ知らない。

 

 ○

 

 青い。
 玉砂利を踏み締めるごりごりした感触と、横っ面を焼き尽くすような太陽の光は、どれもこれも初めて感じるものである。空が青い、などという一般的な情報でさえ、空が何であるか知らなければ、空のない世界に生きていたなら、それを感じることもままならない。
 手のひらを太陽に掲げ、身体を流れる赤き血潮を目の当たりにする。
 赤い。
「わあ」
 感嘆する。顔が綻ぶ。
 血が流れているから生きている、という実感には程遠い。だけれども、ここにあるのは人の形をした一匹の鴉なのだと、自身の存在を遠巻きに明らかにしてくれたような気がした。
 私はここにいる。
 この、見も知らぬ空の下に。
 自身と同じ名の付いた、果てしもなく広く青い天井の下に。
「何をしてるのよ」
「そんなに空が珍しいのか?」
 玉砂利を踏み締めて歩く少女たちの輪郭が、気だるげな響きを伴って彼女を襲う。半ば、胡乱に佇んでいた彼女は、はっとしたように振り返る。きっと、自分はとても阿呆らしい顔を晒していたのだろうなと、金髪の少女が浮かべているにやついた表情を見て思う。
 その後ろには、灼熱の太陽を思わせる赤い髪をした、一匹の猫が立っている。こちらもどこか忙しなくあちらこちらに視線を彷徨わせていて、鴉ほどではないけれど、少しばかり表情も呆けている。
「火焔地獄上がりだから、仕方のないところもあると思うけど……」
 霊夢が諦めた様子で告げる。神社に居着く妖怪がまた増えたと嘆いているのかもしれない。それが彼女の素養なのだと諭しても、あまり良い顔はされないだろうが。
「そういや、初めて見るのか。空は、空を」
 魔理沙は、お空と空を見比べて、漆黒の髪をたなびかせる鴉と、真っ青に染め上げられた天空に、屈託のない笑みを放り投げる。それは降り注ぐ無尽蔵の陽光に映え、生まれた時から青の下を生きていなければ、決して浮かべようのない笑みであるかのように思えた。
 陽の下と土の下と、位置の違いでしかないにせよ、価値観の違いはあってしかるべきだ。善悪を語ることに意味はない。ただ、人に地獄は理解できない。地獄も人を理解できまい。完全には。完璧には。
 だからお空は、人が生きている世界を、己が受け継いだ空という名前に憧れた。
 一体、空とは何だろうか。
 主は、何故その名前を自分に授けたのか。
「空は」
 きっと今から投げかける質問は、子どもが親にするような他愛のない話題なのだろうなと、その下らなさに苦笑しそうにもなるけれど。どうしても、お空は聞かなければならなかった。少女たちに向けて、その質問を投げかけたかった。どんな答えが返ってきても構わない。正解などない。ただ、興味があるのだ。地の下でなく、陽の下を歩いてきた少女たちが答えることに意味があるのだ。
 一体、空とは何なのだろうか、と。
「どうして、こんなに青いんだろうね」
 予想通り、彼女たちはきょとんと目を丸くしていた。
 その後ろで、人の形をした火焔猫が、じっとお空を見つめている。

 

 ●

 

 生まれたときのことはよく覚えていない。
 生まれてからの記憶もほとんどなく、辛うじて、主に拾われた頃のことを記憶に留めているくらいである。いつ、どこで、どういうふうに拾われたのか、どんな生活を送っていたのか、それさえも明確には覚えていない。
 唯一、確信を持って告げられるのは。
 主が私に名前をくれたとき初めて、私は私であることを自覚した。

 (うつほ)
 意味もわからない名前を抱きながら生き続け、ついには人の形を得るまでに至った。言葉を覚え、意志を交わすことに喜びを感じた。何もかもが新しい発見の中で、名前の意味を知ろうと思い至るまでに、そう長い時間はかからなかった。そこで初めて、私は私の名前が持っている意味を知ることになる。
 けれど。
 雪を知らぬものに雪の冷たさを知ることは適わぬように。
 身体を持たぬものに人の温もりを知ることは適わぬように。
 空のない世界を生きるものに、空の青さ、広さ、深さを知ることは適わない。
 初めから何も知らなければ、これほどに恋焦がれることもなかっただろうに。
 なまじ自分を表す記号として存在しているから、無視をするにも自分に占める割合が大きすぎる。空とは。何故、主はこの名前を付けたのか。意味さえわかれば、主の意図もわかると思ったのに。とんだ肩透かしだ。これでは、余計に恋焦がれてしまう。実際に、この目で見てみなければどうしようもないと、邪な思いを抱いてしまうほど。
 だから私はその願望に蓋をして、空という名に与えられた、もうひとつの意味を抱えて生きることにした。
 空っぽ。
 何もない、だから何にも憧れない。私であって私でなく、自我などなくて、記憶も自覚も意識もなしに、ただ生きることが当たり前のように生きていた頃に戻って。
 そういうふうに生きられたら。
 もう、そんなふうには生きられないことなど、とっくに解っていたけれど。

 

 ○

 

「それは」
 金髪の魔法使いが口ごもり、黒髪の巫女がふと空を仰ぐ。空の青さは何に由来しているのか。知識を持つものなら、正しい解を選ぶこともできるだろう。知恵を持つものなら、お空の問いをはぐらかすこともできるだろう。単純に解らないと答えるのも一理ある。空の青さに理由などないのだと、一片の曇りもなくそう言い切れるのなら、どんなにか幸せなことだろう。
 けれど、お空はその青さに意味を見出せずにはいられなかった。
 でなければ、自分は本当に空っぽなんじゃないかと疑いそうになる。
 そして、主がその意味としての空を自分に授けたのではないかと。
「あー……、なんていうのかな」
 口の中をもごもご動かして、魔理沙は何とか自分なりの解を導き出そうとする。霊夢は変わらず空を見ている。お空もつられて空を見る。青く冷め切った空を、何も知らない鴉が飛び行く。己もかつてはあの鴉と同じだった。時折、ああいうふうに生きていた頃を懐かしく思う。戻りたいと思うことも、稀に。
 お燐も、そう思うことがあるのだろうか。
 彼女は、頭の後ろに手を組んで、口笛でも吹きそうなくらい唇を尖らせて、ぼんやりと境内の風景を眺めている。
「空は」
 気まずい空気を貫くように、霊夢が不意に口を開く。かと思えば、気の抜けた欠伸を間に挟むあたり、自由奔放な博麗の思想が垣間見える。
「空は、きれいね」
 ぽん、と魔理沙が手を叩く。上手く言葉に出来なかったものを、霊夢がたった一言で形にしてくれたから、余計に爽快だったのだろう。
「きれい」
 鸚鵡返しに呟き、その響きを反芻し、再び天を仰ごうとして、霊夢が続きを口にしようとしていたから、やめる。
「青いだけが空じゃないわ。雲に覆われて太陽が見えないときもあれば、夕焼けに紅く染まる逢魔ヶ刻もある。夜には暗闇に取って代わられるし、雨上がりには虹も架けられる。そう考えれば、こんなに色鮮やかなものもないわね。お天道様の顔色も、変わりやすくて大変だわ」
 一雨来るかもしれないわね、と遠くの空に浮かぶ雲を見て呟く。霊夢の瞳は遠くを眺めている。
 次いで、魔理沙が口を開く。答えは人と違ってこそ意味がある。根っこの部分は霊夢の答えと同じなのかもしれないが、それを魔理沙の言葉で語ってくれるのなら、それは紛れもなく魔理沙だけの答えである。
「空は」
 もったいぶるように、言葉を溜める。早く喋ればいいのにと思いながら、急かすような真似はしない。彼女も早く喋りたいのだろうけど、戯れに霊夢の真似をしてみたいと思ったのかもしれない。根拠はなくても、そうであるような気がした。
「空は、私にとっての道なんだ」
 言って、鳥居の柱に立てかけている箒を見やる。彼女は箒に跨って空を飛ぶ。それが正しい魔法使いの在り方とでもいうように、徒手空拳で飛行する少女たちを尻目に、愛用の箒を携えて。
「気持ちがいいもんだぜ。風を感じるっていうのは」
 爽やかに、満面の笑みを浮かべる。おあつらえむきに、涼風がふたりの間をすり抜けた。
 純金と漆黒の髪がなびき、あまり手入れしていないお空の髪の何本かを解き放っていく。
「うむ。いい風だ」
「ここの風は、冷たいね」
 頬に張りつき、視界を覆う髪を掻きあげる。
「焼けつくような熱風ばかりが風じゃないさ。冬を待ってろ。きっと泣くぜ」
「へえ」
 今から冬の寒さに身を強張らせて、みずからの肩を抱く魔理沙。
 お空は、左の手のひらを空に向けて、そこに黒い太陽を生み出す。ギラギラと厭らしい輝きを放ち、漆黒の太陽は熱を撒き散らしながら燦々と燃え続ける。肌寒い風に何度吹かれても、眼前の太陽がお空の身体を暖めてくれる。架空の寒さに凍える魔理沙も、その熱気にあやかって手のひらをかざしていた。
 少女たちの答えは揃った。
 でも、どうせなら、もうひとりの答えも知っておきたい。
「ね」
 そう思って、お空はお燐に目を向けた。

 

 ●

 

 彼女たちはみずからを神と名乗り、私に力を与えてくれると言った。
 正直、あまり力など欲しくもなかった。ただ、この火焔地獄で最も強い地獄鴉は誰かと問われたから、それは私だと素直に答えただけの話。
 八咫烏という神の力が身体に組み込まれたとき、空っぽだった私の器が、少しだけ満たされた気がした。
 擬似的な太陽を生み出す力を得ることで、空の意味さえ解らない世界に、仮初の太陽と空が生まれた。出来損ないの空と、酷く禍々しい色彩を帯びた太陽。永久に飛び立てない地下にいるのなら、成る程、よくできた皮肉だと思う。

 霊烏路(うつほ)
 火焔地獄は過去の灼熱を取り戻し、偽りの太陽、空っぽの空を祀り上げ、いつか地上まで噴き上がりたいなどと淡く儚い夢を見る。
 いつか私は、地上の空に取って代わる。
 そして私は、本物の空を手に入れるんだ。

 

 ○

 

 ふたりの人間は、昼ごはんを食べるために社務所へ引っ込んで行った。
 ふたりの妖怪は、空を見たいと言って境内に残った。酔狂ね、と霊夢は笑った。魔理沙は風に震えが止まらない様子だった。そんなに寒いものかと思うが、それはお空の手のひらに未だ太陽が宿っているからかもしれない。戯れに作り上げた黒い太陽でも、これがなかなか簡単には消えてくれない。
「結局さ。さとり様が私に空って名前を付けた理由なんて、直接聞いてみないと解らないのよね」
「そりゃそうだ」
 何を今更、とお燐はほくそ笑む。敷石に散らばった小石はお燐に蹴飛ばされ、玉砂利の海に紛れてどれがどれだか判らなくなった。
 空に憧れて、空にはなれず。空っぽであることを望みながら、空っぽでいることもできない。
 本物の空のように、色とりどりの姿を見せ、風の中に佇み、見上げるほどに遠く、手を伸ばしても決して触れられない、そういうものになることを願い、主はこの名前を与えたのか。
 真実なんて意外と安易なもので、本当は大して考えもせずに思いつきだけでパッと名付けただけだったのなら、空回りもいいところだ。
 ……ああ、そういえば、ここにも空という字が使われている。
 いろんな意味があるものだ。空というものには。
「あんたは空だよ」
 お燐は言う。
 突拍子もない発言だったのに、お空は自然とその言葉を受け入れることができた。仲良しだから、同じ主を持っているから、妖怪だから、理由はいくらでも挙げられる。
 真実味があるものを見繕うなら、ふたりともが、この空の下に立っていたからなのだと。
 確信もなく、お空は思った。
「本物だとか偽者だとか、そういうのはどうでもいいのさ。あたいだって、空の意味なんて知りゃしなかった。それでも、空ってもんがあるんだとすれば、それはね、お空。あんたしかいなかったんだよ。あたいにとって、地獄の底にいた私たちにとって、地下にとっての空は、あんただったんだ」
 詰まることもなく、お燐は彼女なりの答えを口にする。
 再び、ふたりの間を風が吹き抜け、灼熱と漆黒の髪をなびかせる。ふたつの太陽はどちらも色褪せることを知らず、真も偽も隔たりなく、大地を暖め、お空をお燐を暖める。ふたつの空はそのどちらも俯くことを知らず、人を見下ろし、前を見据える。何色にも染まり、眩いまでの輝きを放ち、時には道標となり、時には障壁となる。
 右手を腰に当てて、お燐は含んだ笑みをたたえて佇んでいる。
 目から鱗をこぼすのはまだ早い。お燐はひとつの答えを提示したに過ぎない。それが全てではないし、かといって霊夢や魔理沙が出した答えのうち、どちらかが正しいわけでもない。最も限りなく正答に近い答えはあるのかもしれないが、それにしたって、お空自身が納得しなければ意味がないのだ。
 名前なんてただの記号で、他人を判別しやすくするための言葉の羅列に過ぎないのだと、諦めにも似た結論を導くことは容易いだろう。そうやって何も疑わずに生きていくことも、ひとつの正しさなのだろうと思う。
 空の意味を。
 己に空の名が付けられた意味を。
 知りたくて、求め続けて、いくつかの答えを手にして、もう一度主に問おう。
 そのときに、言うべき台詞は決まっている。
「ありがと、お燐」
「いいってことよ」
 手のひらに灯した太陽をそっと、雲がかかり始めた空に放り投げる。黒い塊は勢いよく上昇し、程無くして破裂した。引き裂かれた熱が、涼風に煽られて慌しく相殺された。
「私は、空」
 『うつほ』か『そら』か、あるいは何もない『から』なのか。
 けれどもやはり、自分はどこまでも『空』なのだと言い切れる。
 手のひらをたいように。
 空は天と地に分け隔てられ、地獄鴉は己に流れる赤き血潮を確かめ、ぎゅっと手のひらを握り締めた。

 

 

 ●

 ○

 

 

 主に問う。この名に何か意味はあったのかと。
 主は答える。確かに意味はあったけれど、あなたはそれを理解できないと思った。
 何故。
 何故なら、この世界には空がなかったから。

 霊烏路(うつほ)
 けれど今なら、あなたはその意味を理解するでしょう。
 そして、あなたがなりたかった空に。

 あなただけの空に。

 

 

 

 



SS
Index

2008年11月25日 藤村流

 



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