追憶は遥か雨音の夢
天井から垂れてくる水滴の真下に、ガムテープで補強されたバケツが置かれている。
てん、てん、と短いテンポで奏でられる雨漏りのメロディに、ルナサは人知れず足でリズムを刻んでいた。背もたれを抱え込むように椅子に座り、ただ雨漏りとその音楽を聴き続けている。窓の向こうに映る灰色の空が、自分の心情を綺麗に投影しているようで、心地よかった。
「穴……だぁれも修理しないのね」
――そういう私も、直さないんだけど。
ぽつりと呟いた言葉が、背もたれを通してルナサの平坦な胸に反響する。だからこそ肋骨に響き、不快な振動に赤面しながら胸部を押さえた。
なまじ、常に顔を見合わせている次女が豊満な肉体をしているものだから、長女や三女はその方面で何かと揶揄されることが多い。近頃は、プリズムリバー揃いも揃って幽霊なのだから、別段気にしても仕方がないと思い込んでいるけれど、それでもひょんなことから自身の体型について思いを馳せることがある。
それは、成長しない幽霊にとって、避けることの出来ないジレンマでもあった。
「家も、随分古くなったなぁ……」
ふと、老朽化した家に思いを馳せる。
天井と、染みの目立つ壁、蝶番の錆び付いた扉を見る。それら全てに年季が入っていて、天井から滴り落ちる水滴も、この部屋の古さを端的に表しているように思えた。
ここは、かつて誰かが住んでいた部屋だ。
ルナサが気付いた時には既に個人を特定する物は無く、ただ古びた椅子と一冊の分厚い本があった。がらんどうの乾いた部屋に、誰かが座ったか、誰が綴ったか知れない日記があった。
リリカは心霊現象だ怪奇現象だと騒ぎ立てたが、自分たちの方がよっぽど心霊で怪奇だから放置しておいた。
ルナサは今、その部屋にいる。
扉に鍵は掛かっていないけれど、まるで施錠したように誰もこの部屋に入って来ない。きっと、妹たちも調律だの鼻歌だのに忙しいんだろう。こんなに雨が煩いから、雨音以外のことは気にならないのだ。
そんな気がして、笑みがこぼれた。
ルナサは、胸に隠していた分厚い日記を取り出す。
「……『親愛なる家族へ』」
題名は、そう記されていた。
家族。
懐かしい響きだ。
抱え込んだ背もたれを離し、今度はちゃんと椅子に腰掛ける。膝の上に本を置き、紅茶があればいいのになぁと思いながら、湿った部屋で読書を始める。
外から漏れ聞こえる雨音と、雨漏りが奏でる単調な音階をバックグラウンドミュージックに、ルナサは丁寧に紙をめくる。隅が変色し、日光で劣化した紙はめくるのも一苦労だったが、それすらも成長の輪廻から外れたルナサには羨ましく感じられた。
日記は、ただ日々の連なりを書き綴った他愛の無いものだった。よく晴れただの、雨が降っただの、お姉ちゃんたちが喧嘩しただの、背が伸びたとか、好きな人が出来たとか、悲しいことがあったとか。読んでいるだけで、書いた人の心根がわかるようなものだった。
顔が綻ぶ。
時が経つのも忘れて日記を読み耽っていたルナサも、最後の頁に近付くにつれ、終わりの寂しさを感じ始めていた。日記の終わりは、ただ単に書き手が飽きたのでなければ、もう書くことが出来なくなったことを意味する。
形あるものは、いつか滅びる。
人間の場合、それが死という言葉で一括りにされてしまうけれど。
だから、幽霊である自分が、共感できることはないはずなのに。
「……あぁ、終わりなんだ」
何故か、心にぽっかり、穴が空いたような気分になった。
天井から、またひとつ雨粒が落ち、バケツの底にちゃぽんと突き刺さる。
遺言のような言葉を記して、日記は唐突に終わりを迎えた。その後は空白の頁が延々と続き、この手記はわずか十頁を残したまま永遠に埋め尽くされることはない。日々を楽しみながらこれを書いていた人は、もういなくなってしまったから。ルナサがこれの続きを書き加えても、それはもう本来の日記には戻れない。
日記は成長を止めてしまった。
「家族……」
繰り返れば繰り返すほど、その言葉は虚ろに響く。
裏表紙を閉じ、本を抱き締める。
今は亡き誰かのことを想い、ルナサは、中空にヴァイオリンを浮かべる。
奏でられるレクイエムは誰に捧げるべきメロディなのか、今も、はっきりとは思い出せない。
けれどもこの胸にある本の厚み、日々が彩られた日記の体温は、ルナサの胸に深く埋まっている。
だから。
「私たちは……誰かを失ったんだね」
叶うなら、その誰かの名をこの胸に刻めるように。
消えて行った誰かの想いを、この世に移ろい留まり続ける自分の胸に残すことが出来るように。
――音楽を。
ルナサは、指揮者のように右手を挙げた。
「―― 『 pseud Stradivarius 』」
古びた家の古ぼけた部屋に、骨董品の弦楽器が舞う。
演奏は雨に掻き消され、雨音は音楽に乗り、粛々と、レクイエムは巡る。
SS
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