まあるさんかくしかく

 

 

 

 できたー、と天高く万歳をして、河城にとりはスパナを持ったまま仰向けに倒れた。ごとん、と重たいものが不時着する嫌な音が響く。無論、受け身など取っていない。
 倒れた拍子にスパナが手から離れ、からころと何処かに転がっていく。さすがに今はそれを拾う気にもなれず、にとりは己の疲労回復を優先させた。
「できたー……」
 繰り返す。感慨無量、といったふうである。
 妖怪の山の麓、大滝からこぼれ落ちる清流を下り、人の足も、妖の足も入らないような静かな川辺。時折、妖精が水遊びに来る他には、滅多に人影を見ることはない空間である。空き地を取り囲む木立は適度に熱を遮り、涼しげな風を通す。
 この場所を知っているのは、にとりを含む数名の河童だけである。
「あー……」
 にやにや笑う。不気味だ。
 いい天気である。太陽の日差しもそよぐ風も、さあ身体を動かせと爽やかに囁いているようである。が、にとりは茶と黒を掻き混ぜたような配色の油で身体のあちこちを汚して、機械いじりに一所懸命だった。ずっと背中を丸めていたせいか、首の後ろがやけにひりひりする。春の麗らかな日差しも、いずれは夏の灼熱に移り変わるのだ。春の陽光もまた、人の肌を焼き、黒く焦がす。
「うあー……まぶしいなー……」
 清々しい心持ちでありながら、疲れ切った表情でごにょごにょと呟く。
 汚れてもいいようにと灰色のツナギを着用しているものの、油汚れは腕にも顔にも髪にもこっぴどくへばりついている。水洗いでも石鹸を使っても、そう簡単には落ちてくれないだろう。その苦労を思うと多少は気も沈むけれど、ようやっと機械を完成させることができたことを思えば、これくらいの汚れはむしろ勲章になり得る。
 大の字になって、青すぎる空を見て、流れ流れて形を変える雲を見過ごす。
 どれくらいそうしていたのか、もしかしたら、疲れたあまりに眠っていたかもしれない。はっとして、身を起こし、機械が持ち去られていないことを知り、ほっと胸を撫で下ろす。日の高さを見ると、そう長い時間は経っていないようだ。一時間、あるいは十分も経っていないのかもしれない。
 その間に、変わったことはないかと周囲を見渡す。
「…………んとね」
 迂闊だった、というほかない。
 人間は盟友だと公言しながら、あまり付き合い慣れていないから話をするのも覚悟がいる。だからこうして、目と鼻の先に人間の子どもがいて、物珍しそうに機械と河童を眺めているのを見ると、もうどうしたらいいのか解らなくなる。
 油断した。
 十にも満たない女の子は、機械の傍らにしゃがみこみ、くりっとした黒い瞳をまっすぐ河童にぶつけている。あまりにも澄んだ眼差しを、見つめ返すべきかどうか逡巡し、ええい河童がこんな体たらくでどうする、と気を吐き、なかば睨みつけるように女の子を見る。
 それでも、怯えるかに思えた女の子は、まじまじとにとりを見つめたまま動かない。
「…………んと」
 根競べのような睨み合いは、時間にすると五分、にとりにしてみれば、一時間にも感じられる長い苦行であった。
 何を言うべきか悩んでいるうちに、女の子が先に話し始める。
「おねえちゃん」
 可愛らしい声だ。何故、子どもの声質というものは心を泡立たせるのだろう。にとりの場合、単に慣れていないから胸がざわついただけかもしれないけれど。
「な、なにさ」
 びびっていないぞと言いたげに、鼻息を荒くしながら応対する。
 女の子は、先程にとりが仕上げた四角い機械を指差して、「なにこれ」としつこく問い詰める。完成したばかりの機械を勝手に弄られては困ると、にとりは機械を庇うように女の子の前に移動する。それを不思議そうに眺める女の子に向かって、しどろもどろ説明を試みようとする。
「いやこれはね」
「なにこれー」
「いやちょっと待って」
「なにー」
「いやあの」
「ねー」
 たじろぐ。
 罵倒でも殴打でもないただの質問攻めなのに、にとりは女の子の言葉に意味のある文言を返すことができなかった。いやとかまあとかあのそのこのどの、一句を告げれば二句が返り、二の句を告げれば三の句が待ち構える。お互いに、一方通行のやり取りを放射しているだけ。この体たらくでは、意思疎通がままならないのも無理はない。
 程無くして、埒が明かないと察したにとりが、びっくりさせるようで悪いが唐突に柏手を打った。
「――――!」
 ぱぁん、と小気味よい破裂音が響き、何処からか鳥が飛び立つ慌しい音を聞く。
 しばし、沈黙が川辺を流れる。やっちゃったかな、とにとりの心にうっすら後悔の念が浮かび上がるも、女の子がまだ逃げ出していないのを好機と解釈し、今のうちに訊かれたことをつらつらと答えてみる。
 その前にひとつ、わざとらしい咳払いをして。
「こほん。……えぇとね、これは、あらかじめ声を録っておいて、あとで何回も聴くことができる機械だよ。似たようなものは外の世界から入ってきているけど、これは完全なオリジナル。部品の流用もしてない。幻想郷から調達できる材料で、全部を賄ったんだ。……まあ、たしかに、技術の応用はしたけどもさ。それくらいは大目に見てほしいよね。科学者だって万能じゃない。人間がどう作られたのか、それは人間を分解してみなくちゃわからないんだ。はじめに人間があった、ならば人間を応用するしかない、それと同様に、はじめに機械があったら、それを分解して考察して模倣して応用して、自分のものにするしかないじゃないか。……うん、何も間違ったことは言ってないな。さすがわたし」
 どうだい、と胸を張るにとりを前に、女の子はぽかーんと口を中途半端に開いたままにとりを見つめている。何やら様子がおかしいことを察したにとりは、おかしなことでも言ったかなと首を傾げるものの、特に妙なことを口走った覚えはないので、女の子が何か言葉を返すまで待ってみた。
「おねえちゃん」
「うん、なに」
 ちょっと落ち着いて返答することができた。進歩である。
「なに言ってるのかわかんないよ。もうちょっと、ゆっくりしゃべって」
 たしなめられた。
 進歩した直後に後退するというぬか喜び。恥ずかしい。
「あ、ごめん、あんまりさ、人間と話すの慣れてないから」
「おねえちゃん、おしゃべりしたことないの?」
「あるけど、周りは大概見知った連中ばっかりだしさ。人間はいない」
「おねえちゃん、人間じゃないの?」
「うん、まあ、そうだね」
 素直に認める。
 その後で、女の子が驚いて逃げてしまうんじゃないかと思ったけれど、女の子はさっきと変わらぬ好奇の視線をにとりに送り続けている。
「河童さん?」
「ん、そうなるかな」
 あまり格好を付ける場面でもないが、ひとまず優位に立てるところは優位に立つことを心がける。鼻の下を指で擦り、予想通り黒い油が付着しても、本人は全く気付かずに胸を張って偉ぶっている。滑稽なようで、けれど何処か微笑ましい。
「んしょ」
 女の子は、そんな彼女の髪の毛に触れようと、無造作に手を伸ばす。
「なんよ」
 その手をあっさりと振り払い、怒ってるぞと言いたげに女の子を睨む。だが、元が童顔なためかあまり迫力はない。女の子も、怖がっている様子もなしに、目的が達成できなかったことを残念がって唇を尖らせていた。
「……けち」
「けちもなんもないよ。勝手に女の髪を触らないこと。これ、世界の常識ね」
「髪じゃないよ。えっと、髪もそうなんだけど、おさら」
「……皿?」
 被っているというより、頭のてっぺんに引っ掛かっているという程度の帽子を指すと、女の子は頷く。
「うん。河童さんにはおさらがあるって、おかあさんが言ってた」
 なおも食い下がる女の子の手を次々と払いのけ、にとりは片手で帽子を押さえる。別に文字通りの皿があったりツルピカだったりはしていないにしろ、そうそう気軽に触らせるわけにもいかない。
 手を伸ばしては振り払い、掴み、抓り、逆に髪の毛を撫で返したりしているうちに、すっかり身体も温まってきた。機械の組み立てで熱くなった身体を冷まそうとして寝転んだのに、これでは元の木阿弥である。
 が、そのかわりに得たものがある。
「おー、髪の毛つやつやだねぇ」
 お互いに手を伸ばせば、どうしてもにとりの方が長い。それゆえ、髪の毛を触ろうとして手を伸ばせば、にとりは女の子の髪に触れても、女の子はにとりの頭にさえ手が届かない。
「……ずるい」
「ははっ、ここぞというときに年季が物を言うのだよ」
 両の手で、黒く艶やかな髪の毛をくしゃくしゃにして、むずがゆそうに身をよじる女の子を見て愉しむ。これも妖怪の悪戯のうちに入るかしらと、そういや指先にまだ油が付いてたなと残酷なことを思い出してみる。
「おねえちゃんのも、さわらせてよ!」
「ふっ、もうちっとおっきくなったらねぇ」
 笑い飛ばし、乱した髪の毛を手櫛で整え直す。頭の形を確かめるように、優しく撫でて、女の子が抵抗しなくなるまで、愛でるように解きほぐす。
 不機嫌の塊みたいな表情も、そうしているうちに少しずつ和らいでいた。がむしゃらに伸ばしていた手も、今では膝の上に落ち着いている。
「……鼻、よごれてる」
「汚れてるねぇ。ま、勲章みたいなもんさ。私にとっちゃ」
 四角い機械のてっぺんを、こんこんと叩く。中には金具やら配線やら管やらがごちゃごちゃと配置されているが、基本的には空洞である。素材が銅なので、音も手触りも折り紙付きだ。重量以外は。
 女の子の視線の行く先が、再び機械の造形に留まる。
「ききたい」
「……ん、これのこと?」
 にとりの手のひらを頭に乗せたまま、窮屈そうに頷く。にとりは名残惜しそうに手を離し、女の子の髪の毛の感触が残った手のひらを、一回、二回と、握っては開くを繰り返した。
 そういえば、前にもこんなことがあったっけな、と昔を懐かしんでみる。もう、いつのことだったかも覚えていないが。
「どうしたの?」
「んや。なんでもないよ」
 淡い思い出を振り切り、女の子に向き直る。
 今度は、女の子にもわかるようにきちんと説明をしよう。そのためにも、まずは始めに咳払いを。
「これはね」
 返事は首を縦に振るだけ、残りの神経は全て機械とにとりの言葉に傾ける。にとりにしても、こんなに集中して聞いてくれるのなら、これ以上の喜びはない。声も自然と弾むというものだ。
「もう音は録ってあるから、再生のボタンを押して、と――」
 三角形の旗を象ったボタンに指を当て、カチリと音がするまで深く押し込む。
 音が聞こえてくるであろう、昆虫の複眼にも似た斜め格子の部分に耳を近付ける。
 だが、しばらく経っても何の音も聞こえてこない。不思議に思った女の子が壁の部分をこんこんと叩くと、にとりも天井の部分をこんこんと叩く。反応がないのは相変わらずだが、女の子が叩くのをやめたのに対して、にとりはなおもしつこく機械を小突き回している。
「あっれ、おかしいなー……」
 一際強く、壁を手のひらで打つ。製作者であるから、ある程度の強度はわかっているのだろうが、傍から見ると機械に対する優しさが足りないようにも感じられる。
 けれど、それによって機械が正常に動き始めたとなれば、優しさもへったくれもあったものではないのだが。
「お、動いた動いた」
「おねえちゃん、乱暴」
「いいのいいの。この程度で壊れるような代物なら、いずれにせよ妖怪の山には置いてられないわ」
 機械からは、静電気が弾けるようなパチパチとした音が散発的に鳴っているものの、何か意味のある音声ではないらしい。それでも、にとりに不安の色がないことを見抜いた女の子は、これから何が起こるのか、その期待に胸を膨らませて待つことにした。
 そうして、誰かの声が聞こえてきたのは、ほんの十秒も経たない頃だった。
「お」
 これはにとりの声である。
 女の子は、身を乗り出して機械から発せられる声に耳を澄ます。
 その声は、四角い無骨な塊から漏れ出たとは思えぬほど、明白に、確かな温もりをもって響き渡った。
『……か、か、かっ、ぱ、ぱ』
 にとりの声である。
 女の子がにとりを振り返ると、何やら照れた様子で頬を掻いている。
『か、かっぱっ、ぱー、かっぱのきゅー、ちゃん……、ま、まるかじりー』
 恥ずかしい歌であるのは百も承知だが、歌っている方が恥ずかしがっていると、聴いている方にも恥ずかしさは伝染する。女の子は居たたまれなさと気恥ずかしさに頬を染め、自分の歌を聴き、照れながらも何処か誇らしげに笑みを浮かべているにとりを見た。
「おねえちゃん……」
「にゃはは、下手くそでごめんねぇ」
 照れ隠しに笑い、それでも再生を止めることはしない。かっぱのきゅーちゃんとも言うべき歌が終わり、自己紹介でも始まるのかと思いきや、今度はやや流暢に喉を震わせて次の歌を歌い始める。かっぱのきゅーちゃんは出オチだったようである。
 聞き苦しくもなく、かといって聞き惚れるほど上手いわけでもない。ただ、喋るように歌っているのは確かだった。もし、人が言葉を用いて饒舌に語ることが出来ないのなら、人は歌を使って自分の意志を誰かに伝えられる、その可能性を示唆しているのではないかと思えるほど。
 その歌は、ごくありふれた恋のメロディにもかかわらず、聞く者の心を撫でた。
「おねえちゃん」
「私はさ」
 何かを問おうとする女の子を遮り、にとりは話し始める。
「あんまり、人間と話すの得意じゃないからさ。考えても、考えなくても、いまいち通じてる気がしないのよ。今だって、ちゃんと伝えられるかどうかわかんない。でも、気にしすぎてもいけないからね、せめて声だけでも覚えてもらえるように、こんなの作ってみたわけだ」
 どうだい、と破顔一笑しながら機械を指し示す。
 じぃじぃ、と、夏に蝉が泣き喚くような低い駆動音と共に、にとりの歌は多少の揺らぎを伴いながら、川辺に満遍なく行き渡る。
 恋の歌から貴方の歌へ、悲しい歌から命の歌へ。
 この世の何もかもを歌い、ただひとつの小さな小さな石ころを歌う。
 一時間余り続いた歌は、全てにとりが歌い上げたものであり、その間に自己紹介や雑談は全く挟まれていなかった。たとえば、何も知らない人間がこれを聞いたら、河童が一所懸命歌ったものだとは思わないかもしれない。もし途中で「河童です」と名乗りを上げていても、信用してもらえるかどうかも怪しいのだけど。
「終わりー」
 歌が途絶え、空蝉の虚ろな鳴き声が吐き出される機械を、にとりは四角いボタンを押して停止させた。それきり、にとりの歌は消えて、水辺には涼しい音色が帰ってくる。
 お互いに、何かを言おうとして、言葉にならないもどかしさに襲われる。褒めるべきか、照れるべきか、適当にお茶を濁すには女の子はまだ幼く、話題を逸らすだけの話術をにとりは持ち合わせていなかった。だから、なんとなく視線を合わせ、陸に打ち上げられた金魚みたいに口をぱくぱくさせていた。
 不意に、草を踏み鳴らす足音が聞こえてくるまで。
「――――あ」
 にとりは、はっとしてその方向を振り返る。
 その人物は、目の前に河童がいても特に驚く様子もなく、当たり前のように頭を下げた。
「お邪魔します」
 顔を上げた彼女は、身長こそ低いものの、醸し出す雰囲気は成熟した女性のそれだった。肩の後ろで切り揃えられた艶やかな黒髪に、牡丹の花弁をあしらったものが飾り付けられている。目立たない染色でありながら、雅さを感じさせる着物は、おおよそ木立を掻き分けて入ってくるような格好でない。だが、そうすることが当然とでも言いたげに、彼女はこの秘密基地に現れた。
 女の子も、突然登場した意外な人物に目を見開き、歓喜をうっすらと滲ませて叫ぶ。
「おかあさん!」
 抱きつく。彼女もしゃがみこんで女の子を抱きとめ、優しく髪の毛を撫でる。なるほど、あの艶やかな髪は遺伝ということらしい。顔も髪型もそっくりで、ついでに背が低いのもよく似ている。本人に言ったら激怒するだろうけど。
 そして、彼女が来ることをすっかり忘れてしまっていたにとりも、反省の色を加えた苦笑いで。
「よく来たね。阿求」
 第九代阿礼乙女の名を、自分のことのように誇らしく呟いた。
「はい、お久しぶりです。……が」
 阿求は、ツナギの所々に黒い油を付着させた河童を見て、我が子の無茶振りを嘆くように嘆息した。それはおそらく、腕に抱いている娘のことも含めての溜息なのだろうけれど。
「相変わらずですね、にとりさんは」
「変わらないのも妖怪の仕事だよ。人間のためにもね」
 機械の天井をぽんぽん叩きながら、にとりは笑う。
 母親と河童が親しげに話していることを疑問に思い、女の子はふたりの顔を交互に見る。阿求の腕の中から少し身を離し、不思議そうに母の表情を窺う。
「おともだち?」
「……そう、ね。そうなりますか」
「盟友ってやつだよ。ちょっと難しいかもしれないけど」
 めー、ゆー、と女の子が反復する。
 よし、とにとりは親指を立てて、落ちていたスパナをリュックサックの中に詰め込んで、元気よく立ち上がった。
 つられて立ち上がる阿求と比較しても、にとりの背丈は低い。童顔の阿求に比べても、にとりはそれより幼く見える。どちらが年上かと言われれば、十中八九阿求を指すだろう。
「しかし、阿求もおっきくなったねぇ」
 髪の毛に触れようとしても、今はにとりが背伸びをしなければ手も届かない。
 阿求は、今ならばにとりの髪の毛を簡単に触れると解っていても、手を伸ばしはしなかった。
「人間ですから、こればかりは仕方ありません。それに、だからこそ得られたものもあります」
 かわりに、娘の髪の毛を撫でて、微笑む。それは母親の笑みだった。にとりが、遥か昔に見たことのある幼女の笑みではない。子を産み、育て、自分以外の誰かを護る強さを得た人間の顔。
 にとりは、手のひらに残る髪の毛の感触を確かめるように、手のひらを開いては閉じる。
 変わらずに在り続けるのも、妖怪の仕事だと。
 舌の根も乾かぬうちに、吐いた言葉を撤回する気にはなれないけれど。
「いつのまにか、子どもまで産んじゃって」
「やたら我がままで困ってますよ。全く、誰に似たんでしょうかね」
 にとりがそっと阿求を指差すと、阿求は無言でその指を下ろした。
「今日だって、急に姿が見えなくなって……何処に行ったのかと思ったら、前に教えたことのある此処だった、というわけです」
 言って、女の子の頬を引っ張る。泣き喚いたりはしないものの、いひゃいいひゃいと母親の足を叩いて抗議を続けている。微笑ましい。
「なるほど。阿求の差し金だったってわけだ」
「人聞きの悪いこと言わないでください」
 仏頂面になる阿求を見て、にとりは微苦笑を浮かべる。見た目は確かに成長しているが、根本的な部分はあまり変わっていない。それが嬉しくもあり、切なくもある。
 だが、妖は妖の本分を突き通すべきだろう。
 にとりは、完成した機械を阿求の前に押し出す。
「これが、約束の品だ。受け取ってほしい」
「はい。わざわざ、ありがとうございます」
 頭を下げる。女の子も、母親にならってお辞儀をした。
 ふたりの容姿と仕草があまりにもそっくりだから、ついつい噴き出しそうになるけれど、笑うのは後の楽しみに取っておく。
「三角のボタンを押して、しばらくすると声が聞こえてくる。止めたかったら、四角のボタンを押せばいいよ。ちなみに、消す機能は搭載してないから、飽きたら庭にでも飾ってねぇ」
「……その時は」
 阿求は、帰り支度を整えているにとりの背中に告げた。
「これをにとりさんにお渡しすれば、新しい声を吹き込んでもらえますか」
 女の子は、阿求の手をぎゅっと握り締めている。
 にとりは、リュックを背負い、鼻に付いた油を袖で拭い、なるべく綺麗な顔で答えを述べた。
「うん。楽しみにしてるよ」
 その返事に、阿求は「よかった」と胸を撫で下ろしていた。
 これもまた、果たされるかどうかも解らない約束である。先のことは誰にも解らない。でも、ずっと昔に阿求とにとりが交わした約束は、今ここで果たされた。
 いつかまた、こうして遊びましょう、と。
 あなたの声をずっと聴いていられたら、あなたを忘れることもないのに、と。
「おねえちゃん」
 女の子が、にとりに近付いて行って、手持ち無沙汰にしている彼女の手を、両手でぎゅっと包み込む。まだ小さな手のひらの熱が、にとりの身体に深く染み渡り、にとりは驚いて女の子を見た。
 いつかの日のように、蒼い瞳と、黒い瞳が混じり合う。
「また、いっしょに遊ぼうね」
 そう言って、当たり前のように笑うのだ。
 にとりは、女の子の髪をくしゃっと撫でた。またもや髪の毛を好き勝手に弄られて、女の子は不貞腐れる。それでも、にとりはからからと笑った。阿求もつられて、相好を崩す。
「んじゃ、私は帰るよ」
 あ、と呟いたのは誰だったろう。阿求か、それとも女の子か。
 後ろ髪を引かれるような思いで、にとりは清い流れに足を浸す。
「にとりさん」
「おねえちゃーん」
 仲のよい親子が、さよならの意味を込めて、声を掛ける。振り返れば、元気いっぱいに手を振る女の子と、何か言いたげに、でも何も言えずに佇んでいる阿求がいる。
 果たして、あの時は一体どんな顔をして別れたのだろう。
 思い出せないのが悔やまれるが、結局、何をしたって今も昔も変わらない。それが妖怪の仕事というなら仕方あるまい。
 覚悟を決めて、にとりは精いっぱい声を張り上げた。
「また会おう! 人間!」
 別れの言葉は威勢よく、水の中を駆けて、水深のあるところへ一気に飛び込む。
 奔流がにとりの身体を包み、はじめに水を弾く音が響いたのを除き、何の音も聞こえない。追いかける音も、さよならの声も、泣き声も、笑い声も。何もかも。
 泳いで、泳いで、ずっとずっと上まで行こう。そうすれば、きっと誰にも付いて来れない。妖の道は妖のままに、人の行く道とは凹凸が違う。
 喜んでくれるといいな、とにとりは思う。
 次に会う時は、あの女の子も大きくなって、にとりの手も届かなくなる。その時に、あの子がにとりの髪の毛を撫でるかは解らないけれど、どうされたってきっと嬉しい。
 そんな気がするのだ。
「――――、ん」
 水の中で、にとりは笑う。空気が漏れて、少しだけ苦しい。ほんの少し、ほんのちょっと。
 けれど、悲しむべきことは何もないのだ。
 にとりは水を掻く力を強め、動きを速める。水の底は深まり、川幅も広くなる。魚が併走する。流木が頭上を遮る。水の中には自分ひとりしかいない。取り残された空間にさえ、にとりは手のひらの温もりを確かめながら、更にその速度を増していった。
 水の底から見上げた水面は、光と風に煽られながら、きらきらと輝いている。

 

 

 

 



SS
Index

2009年5月5日 藤村流

 



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