月の目蓋

 

 

 

 鈴仙が迷いの竹林を歩いていた時のこと。
 天高く突き抜ける竹の根元に、黒猫がうずくまっていた。
 冬空の下、身体を丸めて目蓋を閉じている様子は、傍から見ても愛くるしいものだった。鈴仙もその例に漏れず、しゃがみ込んで指先をちらつかせてみる。
「ちー」
 どう呼んでいいものかわからないから、思い付いた声を発してみる。が、猫に目立った反応はない。あまりに寒いから、反応するのも面倒くさいのかもしれない。
 鈴仙も、短いスカートのためか脚が酷く冷える。野良猫に構っている余裕は、あまりなかった。
 ただ、里に薬を売り歩いた帰り、ふと寂しい思いに駆られて猫にじゃれ付いてみたくなった。
 そんな時もある。
「にゃー」
 定番の台詞を撒きながら、人差し指を揺り動かす。
 風の冷たさが身に染みる。空っぽになり、財布を突っ込んでおいた籠が腕に浅く食い込み、空を覆う灰色の雲が鈴仙から視界を奪う。
 その隙に、黒猫がぱっちりと目を開けた。
「あ、起きた――」
 歓喜か安堵か知れないが、不意にこぼれた台詞は実に暢気なものだった。だから、野に生きる猫の速さに対応出来ない。
 黒猫は、籠の中にある銀の財布を銜えると、素早く逃走を開始した。
「――あ」
 鈴仙は、駆け出す前に猫の行く先を目で追った。
 行き着く先は永遠亭、焦って叫んでも己が不憫になるだけだ。
 その分、自身を呪う余裕はある。
「……不甲斐ないなあ」
 立ち上がり、耳の付け根を掻く。
 雲は風に流され、傾いた太陽を束の間に解放する。
 兎の瞳は古来から赤く腫れ上がり、全てを歪めんと遥か彼方を見据えている。

 

 

 竹林を飛んでいる。
 思うことは、野良猫に財布を掠め取られたのをてゐや永琳に気取られていやしないか、という点だった。だが、猫と鈴仙が向かう先にあるのは永遠亭である。獣の勘に従い、身を潜める場所を探しているのならば、猫がそこに辿り着くことも考えられる。
 鈴仙にとって最も重要なのは、己の面子を守ることではなく、あるべき場所に財布を返すことだ。永遠亭の者が奪還すればよし、てゐや永琳に揶揄されるのはあまり好ましくない展開だが、最悪の事態を招くよりは百倍ましだった。
「――お。いた」
 見下ろせば、あくせくと地を駆けている野良猫の姿がある。
 銀の財布にしっかと牙を立て、それでも中身がこぼれないように財布の口を閉ざしているのは故意か偶然か。いずれにせよ、鬼ごっこは終わりに差し掛かっている。時間にして五分か十分、良い運動にはなった。
「さあ――袋の鼠ね。猫だけど」
 鈴仙は、健気に逃走を続ける猫の前に立つ。
 突如として――そう見えるのは、鈴仙が己の存在をずらしていたためであるが――出現した鈴仙に、猫は毛を逆立てて威嚇した。
 人は妖と対する時、抗いようのない恐れが脳裏をよぎる。
 だが獣は常に変わらない。人も妖も、自身の延長にある存在に過ぎないと知っている。立ちはだかるのなら、人も妖も関係ない。
 考えてみれば、筋の通った話だった。
 邪魔だから牙を剥く。
 鈴仙は、唇を歪めた。
「じゃあ、私も敵対するね」
 瞳は既に赤く、黒猫の瞳に鈴仙の能力を余すところなく叩き付ける。それは安易に媚びへつらうことなく牙を剥き出しにした獣への敬意であり、鈴仙自身の鬱憤を晴らす八つ当たりでもあった。
 全く、大人気ない。
「行くよ」
 瞳が揺らぐ。
 波長が変わる。
 猫が啼き、爪を振りかざす。
 それら全てが空振りに終わったのは、爪が鈴仙の身体を擦り抜けてしまったせいだ。鈴仙は位相をずらした。猫は、鈴仙の身体に干渉出来ない。
 混乱し、何度も何度も鈴仙の輪郭に爪を立てる。だが、結果は変わらない。鏡に吠えるように、水面に刃を突き立てるように、猫は過ちを繰り返す。
「今度は、こっちの番ね」
 無邪気に微笑む。
 成す術もなく途方に暮れる猫の目の前で、鈴仙は忽然と姿を消した。影も形もなく、一瞬のうちに、彼女の存在が一切合財消失した。
 猫が鳴く。
 初めて、獣の声に困惑が混じる。
 空に溶けた鈴仙が、誰にも見えず、誰にも悟られることのない世界の中で、くすくすと笑った。
 ――もう、このくらいでいいかな。
 位相が還る。
 鈴仙は、誰にも気取られることなく黒猫の背後を取った。
 元の姿を取り戻し、猫が察するより早く、その毛並みを強引に逆撫でする。
「おりゃ」
 ざらついた感触が、柄にもなく背徳の悦びを呼び起こす。
 若干、時が止まって。
 ……猫は、啼いた。
 最も激しく、最も悲哀に満ちた音色で。
「狼藉を働いた罰よ。次からは、相手を選びなさい」
 鼠とか、と付け足すと、野良猫はほうほうのていで脱兎のごとく逃げ出した。財布は地に落ち、鈍い光沢を放ちながら拾い上げられる時を待ちわびている。
「はい、おしまい。と」
 土と埃を簡単に払い、あっさりと籠に放り込む。呆気ない幕切れであった。てゐの干渉、永琳の暗躍も十分に考えられたが、彼女たちもそれほど暇ではないらしい。暮れも押し迫った頃合であるし、己の仕事を全うするので手一杯なのだろう。
 やれやれ、と嘆息する。背筋も曲がる。
 前方に垂れ下がった耳は、無理やり立てるのも面倒になるくらいの癖耳になっている。猫背のようなものかな、と耳の悪癖を呪う。
 それでも、己の耳をピンと立ててみる。
 そうするだけで、暗い気持ちが嘘のように晴れていくような気がするから。
「さて、帰りましょうか」
 腰に手を当て、凱旋を祝う。
 傾きかけた太陽が鈴仙に帰還を促し、吹き付ける北風は家の温もりを想起させる。追いかけっこで温まったのは上っ面だけで、芯の部分は凍えたままだ。
 今にして思えば、猫にも酷いことをしてしまった。財布を盗られたのも、鈴仙自身の不甲斐なさから端を発したものなのに。
 鈴仙は、また垂れ下がってしまった耳の先端を撫で、軋む首を空に向けた。
 風が運んだ薄ら黒い雲は、東の端に浮かんでいるであろう月の姿を丁度よく覆い隠していた。
「……見えないなあ、月」
 独りごちる。
 独り言が多いのは寂しい証拠かな、と夢想する。
 だから、猫に話しかけた。さんざ構ってほしいと願った。埋められたかどうか定かでない寂しさを紛らわすために、他愛のない遊びを求めた。
 月は、相変わらず遠くにあるのだろう。
 だが、鈴仙は地面に立っている。
 帰らなくては。
「帰ろ」
 身を翻し、永遠亭に足を向ける。
 身体が冷える。早く温めよう。心の芯からほっとするくらい、優しい温もりに包まれるんだ。外は寒いから、冬は寒いから、それくらいのことを求めてもいいはずなんだ。
 なのに。
 どこか、後ろ暗い。
「……帰ろう」
 言い聞かせるように、一人呟く。
 寂しくない、寂しくはない。
 心に宿る呪いのような祈りを繰り返しながら、帰るべき場所へ、温かい場所へ帰る。
 今は、そこが鈴仙・優曇華院・イナバの居場所だから。
 だから。
 いつか、そこから去る日は来る。
「……はあ」
 見上げた空に、流され浮かぶ月はひとつ。
 変わらぬ姿で餅をつく兎に、不確定な己の未来を預けてみる。
 そして、鈴仙は自嘲した。

 

 

 



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2006年12月29日 藤村流

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