――斜陽は紅く、落陽は蒼く





 蓮子は本当に十分以内に現れた。
「お待たせ、メリー。……何よ、そんな鳩が豆鉄砲食べたみたいな顔して」
「食べないけど……。いや、今回は遅刻しなかったなぁ、と」
「しないわよ。緊急事態なんでしょ?」
 頷く。緊張をほぐすための軽口も、早い段階で神妙な声色に取って代わる。
 蓮子が胸ポケットから取り出した写真を再び確認する。昨日と同じく、竹林を切り裂くように紫の裂け目が広がっており、その向こう側には、薄ぼんやりと見覚えのある滑り台とブランコが写っていた。
「誤解しないてほしいのは、昨日の時点では結界の境目が綺麗さっぱり消えていたこと」
「じゃあ、それ以前には境目はあったのね。ふんふん……」
 私が指し示す位置を丸で囲み、しきりに頷いてみせる。勿論、蓮子に結界の境目は見えないはずだが、彼女なりにコツを掴もうとしているのだろう。霊的な要素を視認し続けていれば、そのうち念視能力くらいは身に付けてもおかしくはないし。
「でも、それって嘘のうちに入る? 必要ないから言わなかっただけでしょ?」
「……そう言ってくれると、助かるけど」
「助けるつもりもないけどね。謝る必要もないのに御免なさいとか言われても、背中が痒くなるだけだし」
 蓮子は結界の入口を探り求め、公園内を徘徊する。境目が何処にあるか教えていないから知りようがないのだが、滑り台とブランコが写真のように見える角度を、目測で測っているらしい。星を見て時刻を知る程に精密な演算能力を秘めた蓮子のこと、数秒後には境目のある位置にあっさり辿り着いていた。
「……うん。でもやっぱり、私は無かったことにしたかったんだと思う。内心は、消えてラッキーとか思ってたから」
「まあ、公私混同って言ったら身も蓋もないけど、誰にだって侵されたくない領域はあるからねー。なぁに、入口はひとつだけじゃないわ。ひとつ消えれば、また何処かに新しい綻びは出来る。……でも、こういう考え方自体が不謹慎なのかもしれないけどね」
 街灯に照らし出された植え込みの真下で、蓮子は私を手招きする。
 誰しもが、幻想の世界を求めている訳じゃない。今の生活に安堵し、幸福の最中に佇んでいる人間も少なくないだろう。無論、結界の境目に触れた人間の全てが神隠しに遭うとは限らないが、現に、女の子は消えた。
 これが、ただの風邪や買い物などの用事であれば何の問題もない。結界潜りは秘封倶楽部の十八番だから、行って帰って来るぐらい訳はないのだ。
 ただ、今回ばかりは少し勝手が違う。
 必ず往復できるという保証はなく、いつもなら戻って来れなかったらその時はその時だ、みたいな楽天的な思考でやり過ごして来たけれど、今回こそは絶対にこの場所へと帰って来なければならない。
 約束をした。最低限、その義務は果たさなければならない。大人だからとか、友達だからとか、そんなものは後付けに過ぎない。私はただ、あの女の子に笑っていてほしいから、そのために最大限の努力をするまでのこと。
 植え込みの高さは、私の目の高さとほぼ同じ。手を翳せば、真一文字に伸びた境界線の内側に触れることも容易い。私が結界を開けば、能力を持たない蓮子にも歪みの向こう側を覗くことができる。
 その前に、事前準備の確認。
 ……とはいえ、急がせた手前、有効な武器を用意できているはずもなく。
「まあ、何が功を奏するか判らないからね。いざとなったら、あるものだけでもなんとか乗り越えられるものよ」
「……だといいけど。私にしたって、ビー玉くらいしか持ち合わせが無いし」
「素足で踏んだらかなり痛いわよ?」
「今それを言われても……」
 それでも一応、ビー玉をポシェットの中に詰め込む。何かの役に立つのだとしても、お守り以上の効能は見込めないだろう。
 改めて、結界の前に並ぶ。
 蓮子は私の能力が拡張されている、といった。その実感はないが、結界をくぐる時のイメージは以前の探索よりも鮮明になっている気がする。
 紫の境界に触れる。
 一昨日より縮まった感のある線を撫でて、イメージを確かなものにするため、瞳を閉じる。
 以前は結界の境目に飛び込むという形を取っていたが、それは今にして思えば随分と無謀な行為だったように思う。視界は暗転し、意識は途絶、景色すら反転し、天地が逆転する錯覚を経なければ、結界の向こう側に立ち入れなかった。
 だが――。触れてみて、理解する。
 そんな危ない綱渡りをしなくても、もっと安全かつ確実に向こう岸へと渡れるのだ。遣り方を知らなかった頃はそれしか術はないと信じ切っていたが、振り返ればかなり無茶なことをしていたのだと実感する。
「……メリー。判ってるとは思うけど」
 蓮子の手が、私の空いた手のひらに触れる。結界の正確な位置を測れない蓮子は、結界を視認している私と接触していなければ、あちら側に渡れない可能性がある。
 だが、蓮子が言っているのはそんなことではなくて。
「――判ってるわ。何も、全部が全部、私の責任だなんて思ってないから」
「うん。何事も、思い詰めるのはよくないわよ。心に遊びが無くなったら、窮屈すぎて生きるのがしんどくなっちゃうしね」
「……うん。判ってる」
 蓮子の言葉も、その忠告を自分に言い聞かせているだけだということも。
 責任の所在を明らかにするのは、今でなくていい。何より覚悟は決めていたのだ、女の子が他ならぬ自分自身の意志で結界を越えたのなら、部外者である私がすべきことなど何もないと。その意志を尊重すると、確かに納得していたのだ。
 けれども、やっぱり駄目だった。誰かが消えるのを黙って見過ごすことなんか、初めから出来る訳が無かったのだ。下手に格好つけて後悔するくらいなら、見も知らぬ他人に挨拶なんかするんじゃない。
「自業自得とは、よく言ったものだわ……」
「得があるだけ良いじゃない」
「……たまには良いこと言うわね」
「そう? 私としては、頻繁に名言を輩出してると思うんだけどなぁ」
 指と指とを重ね合わせているだけでも、蓮子の熱を強く感じる。結界の彼方、広大な竹林の光景を明確に把握した私は、『跳べる』と確信した瞬間に蓮子の手を強く握り締めた。
 私は初めて、自分の意志で結界を越えようとしている。緊張感を胸に抱いて、差し出した手のひらで結界そのものを裏返し、更に強引に下方へ引き伸ばす。
「行くわよ――!」
 踏み出したのはわずかに一歩。
 瞬きをした一瞬のうちに、視認できる世界は一変していた。




 月と星と空、大地と草木と竹林は多分天然もの。
 触れるまでもなく、確かな現実と知れる。すなわち、ここが結界の向こう側。
 背後を伺うと、気味の悪い紫色の境界線が私たちを嘲笑っている。公園で確認した時よりもハッキリと笑みの形に刻まれた歪みの向こう側に、散らかされた砂場と錆びた滑り台が見えた。
「……あれ? もう来たの?」
 何度か瞬きを繰り返した後、蓮子が驚愕の声を上げる。
 それもそのはず、結界を越える際に付きまとっていた動機・息切れ・血圧上昇が今回に限って全く起こっていないのだ。試しに脈を測ってみるも、相変わらずのペースでリズムを刻んでいるらしい。……よし、とりあえず今日は成功したみたい。
「なんか、メリーが遠いところに行っちゃったみたい……」
 蓮子の寂しそうな視線が頬に突き刺さる。痛いようなむず痒いような。
「いきなり幼女趣味になったことも含めて……」
「なってないッ! いい加減にそこから離れる!」
 私が吠えると、蓮子は面白がってちょこまかと逃げ回る。
 はぁ、と軽い溜息を吐いて、目的地である広大な竹林を見上げる。屋根より高いというレベルではない。目算でも、大学の屋上を遥かに上回っている。そのくせ、竹の胴回りは男性の太ももくらいある。そんな化け物竹が、ところ狭しと地面を突き破って天井を切り裂いているのだ。
 生半可な生物では、踏み入ることすら出来ない天然の魔窟。これは、筍が取り放題でラッキーとか言っている場合じゃない。というか、私の後ろの方で蓮子がラッキーとか言っているせいなんだけども。
「……どうしよ。蓮子って、鼻が利く方だっけ?」
 ポーチからビー玉を取り出す。
「んー、残念ながら。代わりと言っちゃあなんだけど、納豆の消費期限の判定は奇跡的な命中率を誇るわよ」
「それは大分と難ね」
 もう一度、竹林を見上げる。空の彼方には、相も変わらず月と星が燦然と輝きを放っていた。幾千幾万も過去の光と、その実太陽の反射でしかない擬似的な光と。そのどちらがまともな光なのだろう。
 確実に言えることは、夜空の光は人を狂わせるという真理。
 元々が獣であったのならば、満月光線を浴びて何らかの変容を来たさないという保証がどこにあろうか。
「……場所は……、やっぱり駄目ね。何らかの遮蔽装置が空全体に掛けられてる感じだわ」
 蓮子が口惜しげに言う。遮蔽装置とは、すなわち結界のことだろう。現在地を把握しておけば、竹林に突入して道に迷った時の指標になる。それが当てにならないとなると、あとは行き当たりばったりで行くしかない。
 そもそも、女の子が竹林に入ったという確たる根拠もない訳で、そうなったら虱潰しに探すより他なく。それを言えば、この場所に来たという確証もありはしない。
 もしかして、自分の選んだ道は途方もなく長い遍路なのかもしれない。けれども、だからといって引き返すことも許されない。ただ待っているよりは、動き回っている方がずっと楽だ。
「町……、いや、村かしら。あそこで話を聞くべきだと思う?」
 尋ねても、蓮子は腕組みをして難しげに唸っているだけ。視線は短い丈の雑草に注がれている。まるでそこに、私の望む答えが隠されているとでもいうように。
 ふと、蓮子の視線の先にきらりと光るものを認めた。
 逡巡する余裕もなく拾い上げたガラス玉は、若干欠けた月の光を力強く反射していた。冷めるような藍は、この夜空をそのまま映し出したかのよう。
 私のビー玉は、きつく閉めたポーチの中にある。ならば。
「――居る」
「うん。私の勘だと、きっと竹林の中ね」
 これまた宛てにならない言葉を、蓮子は自信満々に口にする。
 しかし、重要なのは確証ではない。信頼だ。
 私は蓮子の顔を見て、頷く。最初からそう思っていたが、自信はなかった。もし間違いだったら、とんでもない無駄足を踏んでしまうことになる。その間に、あの女の子は――。そんな仮説が頭を離れなかった。
 やっぱり、隣りに誰かが居ると居ないとでは大きく違う。
「行きましょう。何にしたって、このまま何もせずに帰る訳にはいかないんだから」
「だね。せめて筍ぐらいは持って帰らないと」
 蓮子の軽口を聞いて、私は背中を押される。
 走り出した背中に、頼りがいのある友人の軽快な足音を聞きながら、私は遠く女の子の泣き声を幻聴した。




 無為無策に竹林を散策するなど、無謀というか言いようのない愚策だと思う。
 蓮子の話では、あの歪みがある場所を基点として、私たちが今居る場所をX線軸とY線軸から検証できるらしい。ここが日本のどこに位置するのかは不明瞭なままだが、とりあえず迷う心配はないという。
 すなわち、竹林に目印を付ける手間を回避し、探すことに専念できるのだ。
「……ところで、その筍は?」
「拾った」
 単刀直入に問えば、簡潔な答えが返ってくる。蓮子が小脇に抱えている立派な筍は、見ようによっては何らかの兵器に見えないこともなかった。あるいは、お菓子とか。
 とはいえ、蓮子にしてみれば物見遊山の気楽な旅なのだ。私ほど切羽詰ってはいない。……いや、私が思い詰めすぎているのか。
 植物に征服された地面を歩くには、現代人の足は強く出来ていない。さほど運動向きの靴でもないし、そろそろ足の裏に違和感を覚えてきた。私の斜め後ろにぴったり付いて来ている蓮子はといえば、常に走り易そうな靴を履いているので、こんな緊急時ですら何の問題もない。無論、私も秘封倶楽部のメンバーとして、それなりの体力は備えているつもりだが……。
 行けども行けども青い竹。月光がある程度は竹林の深い闇を照らしてはいるけれど、決して全てを明るみに照らし出してくれる程に強くもない。携帯電話の蛍光など言うまでもなく、たとえ懐中電灯があったにしても焼け石に水。
 ――途方もない闇。光の存在がこれほど愛しいと思えるのは、後にも先にも今日くらいなものだろう。
「あ、禍々しい色の茸まで生えてるわ……。見たことない種類ね」
「食べないわよ」
「誰も食べてくれとは言ってないでしょ」
「声がそう言ってる」
「えー?」
 不満そうな声と、地面から何かを引っこ抜くような音が聞こえる。筍だの茸だの、錬金術の実験でも始める つもりなのか。まさかとは思うが、食べることはないと思うけど。
 薄明かりの中、暗闇に慣れて来た目を凝らして、どこかに居るはずの女の子を探す。
 初めのうちこそ会話もあったが、時間と歩みが進むにつれ、次第に口数も少なくなる。
 草を踏み締める乾いた足音だけが聞こえ、徐々にその音すら耳障りになってくる。蓮子の顔を伺おうにも、見たら見たで無意味に愚痴を吐いてしまいそうな気がする。それだけ疲れているということなのだが、疲労が重なっているとはいえ、私には足を止めることなど許されないのだ。
 ……判っている。これが、強迫観念であることは。
「……ねえ、メリー」
 やや、重苦しい口調で蓮子が言う。
「なに、蓮子」
 名前を口にするのは、確かに相手が傍にいるのだという確認。
 薄暗い闇の中では、たとえ手を繋いでいたとしても安心はできない。目で見たものだけが真実であっても、その視覚が当てにならない場合だってある。
「もし、私の聞き間違いだったら申し訳ないんだけど……」
 蓮子には珍しい、躊躇いがちな物言いだった。
 私は振り向かずに歩を進めながら、その先を促すことにする。
「蓮子って、耳は良いほう?」
「うん……。昔っから、綺麗で色白で柔らかーいって近所でも評判だったし……」
「いや、手触りとかじゃなくて」
「あ、そうよね。……えーと、五キロ離れたところに落ちたTNT弾の爆音がわかるくらい……かな」
「誰にでもわかると思うけど……。て、冗談ならもうちょっと高いテンションで言ってほしいわ」
 つい、険のある言い方をしてしまう。しかし、蓮子はさして気にしたふうもなく。
「ギャグとかジョークの類じゃないんだけど……。て、メリーは聞こえない? さっきからずっと、人を小ばかにしたような歌声が……」
 不気味がる蓮子の言葉に感化された訳でもないが、なんとなく、私の足が止まる。
 ついでに、耳を澄ましてみる。女の子の声が聞こえるかもしれないという期待が八割、蓮子の言う謎の歌声が聞こえるかもしれないという、好奇心が二割。
 ここで期待が十割に至っていないところが私の矛盾だ。女の子を見付けるか、謎の声に耳を傾けるか。無論、比重は女の子に大きく傾いているけれど、それでも、怪しい歌声に興味を惹かれないと言えば嘘になる。
 しばし、虫の鳴き声も足音も聞こえない静寂に包まれる。
 ……あるいは、私はずっと興奮していたのかもしれない。だから、大して聴覚が優れている訳でもない蓮子の指摘で、ようやくその声の存在を認識するに至った。集中力が途切れれば、自ずとその歌声は耳に届く。
 誰に聞かせる訳でもないとはいえ、あまりにその声は印象的すぎた。
 ――否。正確には、その姿が奇抜すぎたと言うべきだろう。本人にとっては、酷く遺憾な評価ではあるにしろ。
 私たちが生きている世界には、兎の耳を生やした人間など存在しない。
「うーさーぎー、おーいし、かーのやーまー♪ ……と、うん?」
 兎にとっては悲劇的な歌詞なのだが、当の本人はご機嫌な調子で喉を震わせていた。
 ところが、いきなり目の前に見知らぬ人間二人がひょっこりと姿を現したのだ。そりゃあ歌もやめるし訝しげな顔もするだろう。こっちだって不審な顔なら負けてはいないが。
 ――ウェーブのかかった短い黒髪に、薄いピンクのワンピース。手と足の形、加えてこれぞ兎と言わんばかりの耳を見れば、彼女が兎っぽい人間ではなく人間っぽい兎ということがよくわかる。
 けれども、不思議と脅威は感じなかった。兎という小動物の変異系ということもあるし、何より彼女から悪意を感じない。もっとも、本当に性質の悪い生物とは、それを悪いことと知らずに平然と悪事を犯すものなのだが……。
「…………」
 兎がこちらの存在を気取る。横合いから突然顔を出されれば、誰だって気付くというものだろう。
 その兎は、小さな目をわっと見開いて、私たちから少し距離を置いた。両手の拳を胸の前でぐっと握り締めて、じっと睨み付けて来る。どうやら威嚇のつもりらしいが、あまり恐怖は感じない。というか、むしろ可愛いと言って差し支えないのではなかろうか。本人にとってはいたく不満だろうけど。
「う……。おねーちゃんたち、何もの?」
「それはこっちの台詞だと思うけど……。あなたは、やっぱり……」
「う……、兎だけど。わるい?」
「いや、悪いってこともないけど」
「う〜……」
 低い声で唸り続ける。眉間に寄ったシワも、なんというか愛くるしいという他ない。
 だがしかし、こんな時に限って蓮子は酷く冷静だった。
「まあ、精一杯威嚇してるとこ悪いんだけどさ。この辺りで、私たちみたいな服を着た、背丈はちょうどあなたくらいの女の子、見なかったかしら?」
「……よく、わからないなぁ。私も、そんなに詳しい訳じゃないから」
「あ、そう。……ところで、その耳って本物?」
「そ、そんなのホンモノに決まってるじゃ――きゃあッ!!」
 言うが早いか、蓮子は弾丸もかくやという速度で兎に肉薄する。そして、片手でその柔らかそうな耳を瞬時に掌握した。
 ……やっぱり、蓮子は蓮子だ。
「ん〜。耳触りは普通の兎と変わらないんだねー。……うりうり」
「あっ、あっ、あー! 変なとこ弄くるなぁーッ! へんたーい! レイプ魔ー!」
「人聞きの悪いこと言わないでよー。うりゃうりゃ」
「あっ、あっ」
 ……なんだか妙に官能的な雰囲気に包まれてしまった。蓮子はただ兎の耳を丁寧に揉み解しているだけなのだが、兎にとってその行為はなにやら致命的なことであるらしい。そのことを蓮子が知っていたのか、ただの偶然なのか知りうる術はないのだけど。
 一通り兎さ耳の感触を堪能した蓮子は、再び兎に問い掛ける。もしかして、蓮子なりに兎の警戒心を解こうという作戦だったのかもしれない。やりすぎて、ちょっと腰砕けになっているようだが。
「それじゃあさ。この辺りで、人間が誘い込まれやすい場所ってわかる?」
「……誘い込まれやすい? そんな、妖怪に都合の良い場所なんてあんまりないよ……」
 さっきとは違って、疲れた口調で兎は答える。
「でも、ちょっと開けた場所ならあるかな。もし良かったら、連れてってあげてもいいけど」
「本当に!?」
 咄嗟に声を上げてしまう。兎もいきなり割り込まれたことに驚き、ふにゃふにゃな耳をピンと直立させていた。
「あ……、うん。なに、おねーちゃんたちって人を探しに来たの?」
「ええ。竹林に居るっていう確証はないんだけど、竹林のどこかに居そうな気がするのよ。……勘、なんだけどね」
「あのさ。……気を悪くしたらごめんなさい」
 先に、兎はそう言って頭を下げた。
 その同情するような仕草に、少し、心の中がざわつく。
「もし竹林にその女の子が入り込んでいたとしたら、よっぽど迅速に見付けでもしない限り――、喰われてると思う」
 ――違う。
 そう言いたかったのに、蓮子にもそう言ってほしいのに。どうしても、声を前に出すことは出来なかった。代わりに紡いだ言葉は、自分でも呆れるくらい震えていた。
「……そんなこと」
「おねーちゃんたち、見た感じここの人じゃないよね? だったら、悪いことは言わない。すぐに帰った方がいいよ。……ここには、当たり前のように妖怪が棲んでるんだから。それを自覚しなきゃだめ」
 兎の目は真剣そのものだった。さっき、蓮子に弄くられて脱力していた兎と同じ存在とは俄かに信じがたい。
「女の子なら、私が探してあげる。おねーちゃんたちが危険を冒すよりも可能性が高いし、その方がよっぽど安全。でも、もし見付けられなかったら――」
 ――その時は、諦めて。
 悲哀に満ちた紅い瞳が、そう訴えていた。
 ……どうして、何も言えなくなってしまうのか。そんな筈はないと、女の子は必ず生きているのだと、なぜ声を大にして叫ぶことが出来ないのか。
 それは、薄々と気付いていたせい。
 もしかしたら、ではなく。おそらくは、確実に。
 女の子が、無事でいることはまずないだろう、と。
「……そんなこと、考えるな」
 舌を噛む。
 細かいことは後回しだ。最善を尽くす前にああだこうだと考えを巡らせていても始まらない。
 兎の言ったことは真理だろう。ここは妖怪の巣窟だ、自分たちが普段住んでいる世界とは百八十度違う。本当は昔の日本もこんな感じに人間と人外が向こう三軒両隣な感覚で暮らしていたのかも知れないが、その時代を知らない私たちにはなかなか実感しがたい。
 妖怪の脅威と恐怖を知る者ならば、兎の言葉に従うのが道理。でなくとも、素直に諦めるのが賢い手段に違いない。
 でも。
「わかったわ。その、人間が引き寄せられやすい場所に案内して」
「……おねーちゃん」
 辛く目を細めて、兎は私を見上げる。責めるでもない、ただの同情。そして悲哀。
 その全てを拒絶して、私は懇願する。
 保身のために自分で決めたことを覆すくらいなら、初めから賢者になろうとは思わない。これと決めたからには最後まで突き進めるような、そんな愚か者の根性が私には必要なんだ。
「お願い――。申し訳ないけど、私は後悔なんて絶対にしたくないの。大事な人の生き死にを他人に委ねてしまえるほど、諦めのいい性格はしていないのよ」
「……でも、後悔するかもしれないよ?」
 兎の言葉は、暗に女の子の死を印象付けるものだった。
 一瞬だけ、考えたくもない悲惨な光景が頭をよぎる。……ただ、それだけ。
「後ろ向きな後悔より、前向きな後悔の方が幾分かマシよ。さあ、行きましょう」
「……頑固だね、おねーちゃん」
 兎は小さく微笑んで、私たちの前に躍り出た。そしてワンピースの裾を翻して、丁重に頭を下げる。
 振りあがった時に見えた顔は、今までの兎と少し異なっているような気がした。
「それでは、改めまして。――私の名前は、因幡てゐ。ご覧の通り、かくも立派な地上の兎にございます」




 てゐと名乗った兎の足は存外に速く、付いて行くだけで精一杯だった。
 流石は兎、素足でも全く問題ない。上下に激しく揺れる背中を眺めながら、軋み続ける私の足を恨む。こんなことなら、有酸素運動がどうこう考えないで早朝ジョギングでもやっていればよかった。
 振り向くまでもないが、蓮子の足取りは異様に軽い。運動量は私と大差ないはずなのに、やはり鍛えているのだろうか。
 周りの風景が高速で過ぎ去っていく中、突如、景色が開ける。
 てゐが急に立ち止まったせいで、思わずつんのめってしまう。一歩、二歩とたたらを踏んで、体勢を立て直した後に振り仰ぐと。
「あ……」
 薄汚れているのは何のせいか。服が擦り切れているのは、剥き出しになった肌から紅いものが出ているのは一体何のせいだ。
 それでも、女の子は泣かなかった。必死に食いしばり、下唇を噛んで、瞼のたもとに雫を溜めながらも、なお嗚咽を漏らすことを良しとしなかった。
 少女をそこまでされるものは何だろう。泣いてもいいのに。叫んでもいいだろうに。誰も、それを責めることはしないというのに。
 女の子は、泣かない。
 もう動かない程に疲労しきって投げ出した足に、もう一度だけ力を込めて。
 震えて弾け散りそうな膝に手を乗せ、力強く踏ん張って前を見る――。
「……あ」
 視線の交錯に過ぎないものが、両者にとっては掛け替えのない邂逅だと理解する。
 正確には、失いかけた存在の再構築。お互いに、夢ではないかと疑いたくなる瞬間。ああ、そういえばこの世界は、私たちの世界からすれば夢のような空間なんだったっけ――。
「おねえちゃん!」
 駆け寄ろうとした足が挫けて、苦痛に歪んだ表情のまま倒れこむ。その身体を、まだ余力の残っている私の方から掬い上げ、堪え切れずに、固く抱き寄せた。
「……良かった」
「お、おねえ……、ちゃん?」
「本当に……、生きてて、良かった」
 心からの祝福。
 心臓に伝わる温かい鼓動とか、首筋に掛かる荒い息だとか、背中に回るか細い手のひらとか、小さく漏れ聞こえる女の子の泣き声だとか。
 その全てを腕の中に抱き寄せて、素直に泣き叫べない女の子の代わりに、私は声もなく涙を流す。
 ――本当に良かった、と。
 笑ってもいいはずなのに、やっぱりこんな時には泣いてしまうのだ。人間というものは、よく判らない。
「……感動のシーンを邪魔するのも、どうかとは思うんだけど」
 控えめに言葉を発したのは、てゐ。蓮子は腕組みしてにやにやとこちらを観察しているのみ。よっぽど性質が悪い、というか見るな。笑うな。ほくそ笑むな。
「もしかしたら、その女の子はずる賢い妖怪が化けた姿だ――なんて、考えたことない?」
「……そんな訳ないでしょう」
 きょとんと目を丸くしている女の子の手を、そんな理由で解くことは出来ない。喰われても構わないという自暴自棄に達しているのではなくて、ただ単に、私の勘がそう言っているだけだ。けれども、私はこの勘を信じられる。
 てゐは困ったように頭を掻き、
「私としても、案内したのにいきなり喰われてるんじゃあ後味が悪いから。ちょっとだけ、試させてもらうね」
 可愛らしくウィンクをして、ほんの一刹那、表と裏の顔を反転させた。
 ……細かいことを言いながら、それでも私は妖怪という存在をあまり真剣に考えていなかったように思う。目の前にいるてゐにしても、兎が変化した大して害のない生き物なのだと勝手に思い込んでしまっていた。
 いつか、秘封倶楽部として動く時、その甘い認識が私を殺すかもしれない。
 これは確認作業であると同時に、警告でもある。そのことを、私は何より自覚せねばならない。
 これから先、これ以上の後悔に身を刻まれることのないよう。
「――――」
 波動、殺気、衝動、妖気。
 一陣の風にも似て、全身を撫で付けるように纏わりつき、遥か後方に行き過ぎる。
 どんな言葉で表現するにしろ、てゐが放った空気は私と女の子を確実に戦慄させた。
 死ぬと思い、殺されると理解してもなお、指のひとつすら動かなかった。叫ぶための口は開いたまま閉じられることはなく、逃げるための足は固まったまま動かすことも出来ず。
 ただその目に射抜かれただけで、私の意識が兎の手に委ねられたと言っても過言ではなかった。
 紅い瞳。
 逢魔ヶ刻の幻影は、陽が落ちてさえも人間たちを苛む。
「……と、こんなもんでいいかな?」
 瞬きする間こそ与えられなかったが、私が再び呼吸する自由を与えられた時には、もう既に以前の微笑ましい兎であったてゐに戻っていた。目が赤いのは兎の特色にしろ、現在の紅色と妖気を放っていた紅色と、全く同じ色彩のはずなのに、醸し出す空気の差は暖色と寒色より際立っている。
「うーん、確証はないけど、とりあえずは大丈夫だと思うよ。妖怪っていうのは、他の妖怪が放つ妖気に敏感に反応しちゃう生き物だから。たとえどんなに小さいものでも、身体が自然に反応するの」
「なるほど。磁石みたいな関係ってわけね」
 蓮子が捕捉する。相変わらず腕は組んだままだが、額から垂れている汗が彼女の動揺が如何に大きかったかを物語っていた。
 く、と背中に微かな痛みを覚えて、ようやく女の子に意識が戻る。固く抱き締めすぎていたせいで、ちょっと苦しかったらしい。慌てて腕の力を緩める。
「ご、ごめんなさい。つい感極まっちゃって……」
 頬を伝っていた涙の残滓を、指の背で拭い取る。折角なので、女の子の顔に浅く刻まれている涙の川も、私の指でその露を払ってあげた。
「こんな時くらい、大声で泣いたっていいのよ」
「……でも、泣くのはいや」
「どうして」
 女の子は、擦り切れた上着の端をぐっと握り締め、躊躇いがちに言った。
「泣いたら、悲しむから……。悲しい顔を見るのは、いや、だから」
 嗚咽交じりの声で、必死に言葉を紡ぐ。
 自分のためではなく、他の誰かのためを想って、涙を流すまいと決めた。
 女の子の周りが、どんな環境であったかは想像するしかない。この気丈でも軽薄でもない、けれどもある一点においては金剛石よりも強靭な意志で貫き通す女の子を作り上げてしまった背景は、私などでは推し量ることも出来ない。知りたいとは思う。が、知ろうとしてはならない。
 だから、女の子が次に言う言葉も、なんとなく判っていた。
 こんなにも優しい少女なら、きっと、涙を流しながらでも言うに違いない。
「……ごめんなさい……」
 ――やっぱり、そうなのね。
 私は、もう一度女の子を抱き寄せた。その耳元で、今現在の思いを素直に告げる。
「あのね。よく聞いてちょうだい。今のあなたには、謝る必要なんてどこにもない。どうか謝らないで。私はあなたに会えて、本当に嬉しかったんだから……。それでも、あなたが何かを返したいというのなら。せめて、笑って」
 身体を離す。片腕に手を添えて、女の子に微笑みかける。
 やがて、私の表情に引きずられるようにではあったけれど、女の子は、確かに笑った。
「……うん!」
 涙の代償は、たった一人の笑顔ひとつ。
 それでも充分にお釣りは来る。これだけで危険を冒した甲斐はある。失くしたと諦めかけていたものが、腕の中に戻ってきた。それだけで、いくつ涙を零しても足りない程の喜びに満ち溢れている。
 破顔する私たちに掛けられたのは、一人の口笛と一匹の溜息。そのどちらも、私たちを祝福していることに変わりはないのだろうが、いや、なんていうかその。
「お熱いねー。こうも見せ付けられちゃあ、こっちとしてもなんかこう、しっぽりした気分になるというか?」
「ならないから! 大丈夫だからっ、て勝手に耳さわんなー! あっ、あっ」
 必死の抵抗を見せるてゐだが、蓮子の巧みなテクニックのせいで手も足も出ない。
 じゃれあっている彼女たちを見て、女の子は不意に、本当に何でもないことのように、笑った。
「あ……」
 ただ、吹き出したために蓮子とてゐに目を付けられてしまった。共に行動する以上は、どうしたって顔を合わせずにはいられないのだけど。
「そういや、まだ名前を聞いてないんだったね。この際だから、まとめて自己紹介しちゃわない?」
 てゐが人差し指を立てつつ提案する。渡りに船とはこのことだ。
「じゃ、私とメリーから始めるわね。
 本名は宇佐見蓮子、秘封倶楽部の代表として名を馳せ、超統一物理学の権威と言っても過言では」
「誇張しすぎ……。名も馳せてないし、基本的にはただの学生でしょう」
「で、そっちは、本名が無いただのメリー」
「あるわよ……。発音がしにくいからとか言って、寄ってたかって放ったらかしにしてるだけじゃない。本名は、マエリベリー・ハーン。でも、周りはみんなメリーって呼ぶわ。そっちの方が言いやすいみたい」
「メリー……おねえちゃん。蓮子、ねえちゃん」
 つたない発音で、女の子はそれぞれの名前を反芻する。胸に手を当てて懸命に覚えようとする少女を嘲笑うように、蓮子がやけに不満そうな顔で佇んでいた。
「……なんで私だけ『お』が無いのかしら」
「母音が続くからじゃない?」
 適当に言語学っぽいことを言っておいた。あながち的外れという訳でもないだろうし。
「でも、メリーだって母音が連続しているような気も」
「iとoだもの。oとoには及ばないわ。同じ要素には過敏に反応してしまう、てゐもそう言っていたじゃない」
「うーん……。判らなくもないけど、なんか理不尽な感じ」
「気のせいよ」
 女の子は蓮子の憂鬱も知らず、次なる登場人物の名を窺う。
「あ……。あの」
 人の形をした兎は、人懐っこい笑顔で女の子に擦り寄る。
「ん、わたし? 私はねえ、因幡てゐ。見ての通り、何の変哲もないただのウサギさんよ」
 嘘つけ。
 と、つい口を突いて出そうになった言葉は、女の子の指摘によって代替された。
「しゃべってる」
「んぅ? ああ、そうかもしれないねー。あまつさえ二本足で立っちゃってるし」
 認めるし。
「でも、ウサギさん」
「そうだよー」
 馴染んでいる。私たちも比較的未知なる存在へのアプローチは積極的に行っているだと思っていたのだが、女の子もあれでなかなか前向きだ。これも子どもの特権という奴だろうか。
 自己紹介に追われ、名前を覚えるのに精一杯な女の子。
 順番は、今回の騒動の発端となった女の子に至る。
「んじゃあ、次はあなただね。私の擬態を見破るくらいだから、さぞや仰々しい名前に違いない……」
「そんな訳はないと思う」
 今度こそ自分の口で訂正する。
 思えば、私が少女の名前を積極的に聞こうとしなかったのは、それに相応しい紹介シーンが用意されていたからではなかったか。真相は誰にもわからないところにあり、俄かには信じがたいことでもある。きっと、運命を操る能力でもない限り、こんなことは思いつきもしないだろうから。
 女の子も、今が言うべき時だと思っているのだろう、いつになく真剣に眉を尖らせている。
 まあ、それほど奇抜な名前でもないだろうから、そんなに身構える必要もないとは思うのだが。
 でも、やっと名前を聞ける。これでまた、ひとつの壁が取り払われたと言ってもいい。
「あ、あのね……」
 躊躇いがちに開いた口から、小さな声が漏れ聞こえ、

「――何よぉ。こんな時間に、騒がしいったらありゃしない……」

 更に不躾な声が、か細い独白を遮った。




 描かれていた絵の、最後の一筆がようやく動き出す。
 画竜点睛。
 嵌め忘れたパズルのピース。
 ずっとずっと解けなかった知恵の輪が、第三者に茶々を入れられて不意に解けてしまったような、虚無感と達成感。
 そうだ。
 物語というのは、完結に向かって走り続けているのに、いざ終末を迎えると途端に虚しさに襲われる。
 結末は見えた。私の物語は、女の子の名前を知ることで終わりを迎えるだろう。
 だから、ここを乗り越えなければならない。今の今まで絶え間なく駆け続けていたけれど、まだその歩みを止める訳にはいかないようだ。全く、何の因果があってこんな目に遭わなくてはならないのか。運命を操作している神がいるのなら、そいつに不幸の手紙を送ってやりたい。
 もっとも。
 こんな子どもじみた悪戯を仕掛ける奴は、悪魔と相場が決まっているけれど。




 その女性は間違いなく人間に見えた。多少なりとも凶悪な目付きはしているものの、それ以外に目立った特徴はない。
 大きな袴にサスペンダーを重ね、紅いリボンが透き通った銀髪を束ねている。
 でも、そんなことよりも、私は――。
「……ん? 珍しいわね、ただの人間がこんなところに来るなんて」
 女性は、目の焦点をてゐに合わせる。
 そして、合点がいったとばかりに「ふん」と鼻を鳴らした。
 意味はわからない、全く全然こちらの意思を介在しない不毛な遣り取りではあったが――。
 これは、まずい。
 絶対的に、決して良い方向になど進んでいない。誰にだってわかる。
 なのに、どうして私は気付かなかったんだろう。あれが夢だなんて思っていない、けれども現実だと悟るには漠然としすぎていた。けれども本当は、夢か現かなんてどうでもよかったのに。だってあれは、間違いなく私が実際に体験した物語だったんだから――!
 女性は動じない。両手をズボンに突っ込んだまま、斜に構えて私たちを観察している。
「なるほどねえ。……ったく、飽きもせずにまあ毎度毎度と送って来るもんね。こうなりゃ腹も立たんわ」
 幸い、誰もはぐれてはいない。もし女性が私と蓮子の間から現れていたなら、問題は更に複雑化していただろう。
 けれど、状況の不利は否定できない。もし、もし彼女があそこで出会ったはずの――いや、いい加減認めるべきだ――いつかここで出会った彼女だとすれば、私たちがどこに居て、どんな武器を持ち、どれほど速く走ろうとも、逃れ得ることなど千載一遇もない。
 それを、まず先に理解しなくてはならない。
 最後のピースが嵌まったのなら、後は額に収めるだけ。詰めを誤るな。トドメの一手にこそ、最も見誤りやすい地雷が潜んでいる。
「でも、憂さ晴らしには付き合ってもらうわよ。なぁに、輝夜が送り出した刺客なんだから、ちょっとやそっとの熱じゃあ泣き言は言わないでしょう?」
 笑いながら、彼女は嬉々として右腕を振り上げる。
 紅龍。
 不死鳥。
 フェニックス。
 名前など、どうにでもなる。今は考える時じゃない、彼女に対して何ら対抗できる手段がないのならば、あとはもう、これしか残っていない。
 自ら灼熱する不死鳥は音もなく炎を展開し眩いまでの閃光を撒き散らす。その輝かしい光に呑まれたが最後、二度と天然の陽光を浴びることはままならない。
 獣は炎を恐れるけれど妖怪は炎を喰らう。おぞましいまでの悪食。狂おしいまでの欲望。
 ……かなわない。
 ああ、もう勘弁してほしい。私が悪かった。あなたたちの住処を侵して、本当に申し訳ない。
 だから。
 どうか、その腕を下げてください。

「滅びし古鳥が司るは灼熱。――不死、『火の鳥、鳳翼天翔』」

 かくて、本能は警告する。
「逃げろ!!」
 蓮子の声と、私の足が動いたのはほぼ同時。女の子の手を引いて、てゐが駆け出した方向へ何の迷いもなく疾走する。
 走り去ろうとする私たちの背中に、紅き煉獄の炎は静かに問いかけて来た。
 さあ……。
 あんたの肝、試させてもらうよ?




 鼠が居ない、というところで異変に気付けなかったのが最大の失点。
 女の子を発見した時点で、すぐに引き返さなかったのも痛い。もっとも、これは仕方のない側面もある。再会に涙する瞬間ぐらいあってもいいだろう、私たちはそのために結界を超えたのだから。
 しかし。
「熱ッ!」
 容赦がない。一片たりとも気を抜いていない、真剣な闘争。私たちはただ奔走しているだけに過ぎないのだが、相手にとっては良い鬼ごっこなのだろう。遊びにしろ、本気でやらなければ相手に失礼なのだから。
 しかし。
「ねえ! てゐとあの女って知り合いなんでしょ!? なんとかなんないの!?」
 蓮子が叫ぶや否や、不死鳥の残滓が前方左斜め上に着弾、火花を散らす。
 傾いてきた竹を蹴り飛ばし、踏み付けて飛び越える蓮子。こんなにアクロバティックでも帽子は脱げない。不思議だ。
「妹紅がああなったら、もう私でも無理だよー! 逃げるが勝ちー!」
「そもそも勝負になってない気が……」
 私は小さく言葉を返すのみに留める。女の子を抱えながらでは、息を吐くことすら億劫だ。
 これが遊びなのだとしても、あの妹紅という女性と私たちではスペックが違いすぎる。ガスが無ければ火を起こすのに数十分掛かる私たちと、ボタンひとつ押す気軽さで炎を放つ彼女とでは、ベーシックな部分で相容れない。
 ……そうだ、勝負になんかなっていない。
 猫が鼠を甚振るような、狩りですらない遊戯に過ぎないのだ。それを、ここにはいない鼠の代わりである私たちは突破しなければならないという――!
「あ……、はぁ……」
 女の子の息が荒い。
 疲労の色は濃く、身体から発せられる熱も酷い。ただの風邪ならばいいが、何らかのウィルスに感染していないという保証はない。ここに住んでいる人間には何の影響も及ぼさない細菌でも、現代に住む私たちにとっては即効性の猛毒にもなり得る。
 急げ。
 また失うつもりなのか。あれだけ後悔したのに、二度と繰り返さないと誓ったばかりなのに!
「蓮子! 起点まであとどれくらい!?」
「く……、ちょっと待って! 空を確認してる余裕ないのよ!」
 時間がない。体力も無限ではない。
 そんな私たちを嘲笑うかのように、そして実際に不吉な笑い声を発しながら、妹紅は。

「賢人は未だ帰らず。――不死、『徐福時空』」

 吼える。咆哮の類ではないはずなのに、彼女の宣言は耳に突き刺さる。
 同時に、駆けている私たちの合間を縫って、数枚の御札が飛来する。
 それらは私たちを追い越し、闇の中に跡形もなく消え去り。
「……っ!」
 あろうことか、見えない壁に反射するように帰って来た。往復弾……!
 咄嗟の判断で、私は足をわざと崩して地面に伏せる。砂と枯れ葉が肌を切り、埃が唇の隙間から舞いこむ。咳き込みそうになるのを必死で押さえつけ、女の子を庇うように倒れこみ、呪符が行き過ぎるのを待つ――、が。
 その呪符は、私の真上ではなく私のすぐ傍を掠めるように飛んでいた。
 しまった、と思っても遅い。立ち上がるより早く、妹紅の足音が鼓膜を打つ。
「メリー!!」
 悲痛な声は、圧倒的な存在感に遮蔽される。しかし、呪符に当たってはいないらしい。
 半分だけ安堵した心を蹴散らすように、彼女が、私の足元に忍び寄る。地面からも感じられる灼熱の吐息で、ここが最も煉獄に近い場所だと否応無く判ってしまう。
 女の子は、動かない。私の腕は解けているから、一人だけ走り出そうとすれば出来ないことはないのに。
 けれども、たとえそれが可能だとしても、逃げないのだろう。
「……おねえ、ちゃん……」
 飛び交う呪符の真下にあっても、女の子の目は一身に私を見ていた。
 足音は、ない。もう既に妹紅は立ち止まっている。
「もう少し、食い下がると思ったんだけどね……。まあ、人間と言ったって、何もあいつらみたいなデタラメな機能を搭載した奴らばかりじゃないのは知ってるけど。それにしても、……軟弱ねえ」
 見下ろすように、見下すように。呆れ呆けた声で感想を述べて、私の襟首を引っ掴む。呪符はそこら中に行き渡っているが、なぜか私や妹紅には着弾しなかった。もう、効力が失せているのかもしれないし、そもそも、当てるつもりなど無かったのかもしれない。
 女性とは思えぬ程の力で引き上げ、強引に顔を見合わせる。女の子は、地面に伏せったまま。動かないのか、動けないのか。私を見上げる瞳は、片時たりとも揺るがない。震えながら、見詰める。
 こんな時でさえも、他人のことしか考えられないのか――。
 私も、あの子も。
「……解せないわね。あの性悪兎が暗躍してるもんだから、絶対何かあると思うんだけど。このまま終わらせるのも、締まらない。
 少し、燻り出してみるか」
 吊り上げた左腕に力を込め、唇の端で笑ってみせる。その様が、妙に堂に入っていた。
 首が痛いとか、身体が熱いとか、そんなことはどうでも良かった。帽子だってちゃんと頭に乗っているか定かじゃなかったし、目が焦点を合わせて明確に像を紡いでいるかどうかさえ判らない。
 ただ、薄らぼんやりと、能力が発動する実感だけを得る。
 彼女が振り上げたのは右腕。
 焔が纏わりつき、立ち昇った炎の紅が一匹の凶鳥を形作る。
 曰く、不死鳥は一度滅びを迎える時に自ずから灼熱し、その焼け跡より幼鳥となって再誕するという。
 しかし、それは死と同じではないのか。不老不死というには、お粗末過ぎる。
 ……そうだ。
 不死鳥伝説には隙がある。その不老不死には綻びがある。私なら、それを見ることが出来る。
 その境目を引っ張って、更に押し下げて、ついには引っくり返すことだって充分に可能なのだ――。

「再燃する灼熱は永遠。――『フェニックス、再誕』」

 だが、足りない。突き出す手、搾り出す声が足りない。
 意志がない。誇りがない。感情がない。なかばもうどうにでもなれと思っている。ああ、でも少しは肌が焼けたら一生もんなのに、この人はちゃんと責任を取ってくれるんだろうか、なんて下らないことを考えながら――。

「メリー!!」

 一瞬で、充足する。事足りる。
 後方から飛来した何の変哲もない玉が、私の頬を通過し妹紅の額に着弾する。
 些細な衝撃も動揺を生んだには違いない。右腕に装填していた炎の弾薬は、そのわずかな瞬間のみ微かに揺らいだ。……ほら、いくら永遠といえども、付け入る隙があるのならそれは可変なんだ。
 そんなもの、私から見れば砂上の楼閣でしかない。
 いくらでも、崩せる。
 ――さあ、面倒くさがってないで、腕を伸ばそう。
 もう、後悔するのなんて嫌なんだからね――。
「っ、小細工を……! まあいい、これで少しは張り合いが――」
 言葉を失ったのは、私が彼女から言葉を奪ったからに過ぎない。
 無造作に突き出した左手が、彼女の右腕に触れている。さっきと違うことと言えば、それくらい。
 しかし、変革する。変動する。
 無から熱を繰り出すように、熱を無に、結界の境目を反転させて、全てを飲み込む。
 炎自体がひとつの結界だとするなら、そこに境界線は存在する。境界があるなら、それをずらすことだって可能だ。
 裏返すことは大して難しくはない。結界をいくつか越えていれば感覚は掴める。黒から白に、闇から光に、陰から陽に。それぞれ対する概念に方向を定めて、握り締めるように、解き放つ。
 問題は、触れてしまうから少し熱いということ。でもまあ、顔面に火傷裂傷を残すよりは、左手の五指が一ヶ月くらい使えなくなる方が幾分かマシなのだろうけど。
「あ、あれ……!?」
 一転、困惑が彼女を包む。
 炎を展開しようとした矢先に、その熱が霧散する。不死鳥は再び形の無い火に舞い戻り、動揺からか襟首を締めていた手の力も緩まる。
 そこへ。
「ぅ、あぁぁぁッ!!」
 横合いから、不格好に白い足が飛び込んでくる。
 兎の脚力をもってすれば、己の体長ほどの高さなら問題なく跳躍できる。ただ、炎の核を目の前にして、一直線に目的へと向かって突進するかどうかは、当人の意志に左右されるだろう。
 てゐは、叫びながら妹紅の腕を弾き飛ばした。一瞬の隙を見逃さずに。
 なら、私がこのタイミングを逃す訳にはいかない。
「ねーちゃん!」
 地面に落下したてゐが起き上がり際に絶叫する。
 へたり込んでいる女の子の手を引いて――もう、抱え上げるだけの余力もない――、変な形の枝を持った蓮子が居る方へ駆け出す。
「走るわよ……!」
 頷きも返事も待たず、手のひらから伝わる熱だけを頼りに、私たちが住んでいた世界へと疾走を開始する。
「行かすかぁ!」
 背中に襲い掛かる筈であろう衝撃は、しかし。
「おっと……! あんたの相手はわ・た・し、なんじゃなかったっけ……!?」
「ふん、兎の皮を被ってられるのも今のうちよ……!」
 炸裂音と不敵な口調、そしてかつて味わった妖気を放つてゐによって遮られる。
 背中は見ない。今はもう駆け出すと決めたのだから。
 ただ一人、女の子だけがわずかに振り返り、てゐの勇姿をその目に焼き付けた。
 衝撃は来ない。
 疲労と鈍痛に苛まれながら、私たちは束の間の逃避行を再開した。




 X座標とY座標の値が一致する。後は、このまま一直線に駆け抜けて一気に結界の隙間を越えればいい。
 ただそれだけの作業だというのに、何故これほどまでに難解なのだろう。
「はぁ、あ……」
 蓮子が膝に手を付く。限界、という言葉が頭を掠める。
「蓮子ねえちゃん……」
「……あぁ、大丈夫よ。ちょっと、意識が遠のいただけだから」
 言って、遠い遠い空を仰ぐ。夜風がいくら涼しいとはいえ、加速を続ける身体と、炸裂を続けていた灼熱の影響から、頭を冷やす暇もない。
 ちっとも大丈夫そうではなかったが、私も女の子も、他人のことが言えないくらい消耗している。擦り傷、切り傷、火傷に打撲。骨折や内臓裂傷にまで至っていないのは不幸中の幸いだが、細かい部分は素人目ではどうしようもない。
 急ぐ、必要はある。
 けれども、理由があるからといって、無理を通せば唯一の逃げ道をも失うことになる。道理が引っ込むのは格言の中だけの話だ。
「少し、休みましょう……。まだ、音は遠いし」
「……そうね。下手を打つ訳にはいかないものね」
 ――てゐのためにも。
 誰も口にはしないけれど、目は自然と爆音が轟く方向に向けられていた。
 女の子も、私の提案に頷いてくれる。
 座り込んだら二度と立ち上がれなくなりそうなので、立ったまま、軋む背中を竹に預ける。荒れた地面を見れば、元の世界では合成ものしか拝むことのできない筍の姿がある。
「そういえば、蓮子。さっきの枝は……」
「ああ、これ?」
 ずっと握り締めていたらしい、Y字型に構成された木の枝。何の変哲もない枝だが、二股に分かれたところの枝と枝との間に、かなり太めの輪ゴムが括られていた。
「パチンコ?」
 随分と原始的な武器である。それで助かったのは確かなのだが。
「そ。メリーの後頭部に被弾しちゃったら洒落になんなかったけど、今回はちゃんと相手に命中して良かったわー」
 しかも命中率はそれなりらしい。いや、あははって笑うところじゃないでしょう。
「……でも、ありがとう。あそこで隙を作れなかったら、今頃は……」
「うん。お嫁に行けない身体になっちゃうところだったね。でもまあ、その時はお婿さんになったらいいし」
「慰めになってない」
 あはは、と豪快に笑い飛ばす。こんな状況下でも笑える気力があるなら、きっと大丈夫だ。最後まで心を折らずに済む。
 私は、繋いだままの手を強く握り返す。女の子は、力なく私を見上げる。
「帰りましょう」
 その他に、言うべきことなど見当たらなかった。
 力強く頷きを返し、休息の時間も終わりを告げる。
 残るは直線一方通行。気力が尽きるのが先か、結界を越えるのが先か。二つに一つのデッドレース。
「……来た!」
 爆音が、静かに動きを見せる。
 てゐは負けたのか。それとも――。
 不幸な結末に顔を歪ませる女の子の手を引いて、最後の奔走を始める。
 右足、左足、右足、左足。
 片方ずつ前に出しては地面を踏み締めて、荒くれの大地を蹴り飛ばして前進する。
 進んでいるのか、戻っているのか。忙しく目まぐるしく展開する風景も、全く代わり映えのしない緑色の幕では目に優しくない。走っていても歩いているように感じる。いや、実際に歩行するぐらいの速さしか出せていないのかもしれない。
 それでもなお、走る。
 爆音が迫り来る。あるいは、恐怖が生み出した幻聴である可能性も否定できない。けれども無視するにはあまりにも大きく、喧しく、熱苦しい。煉獄の灼熱とはよくいったもので、確かにこんな熱を始終感じざるを得ないのならば、さぞや劣悪極まりない地獄なのだろう。
「蓮子っ……!」
「わかってる! あと100メーター!」
 長い。永遠にも等しい15秒。結界の境目に辿り着くためには、まず背後に迫った永遠を越えなければならないようだ。14、13、永遠が徐々に伸縮する。
 振り返れない。もはや振り向けない。12、11。
 首を90度後ろに逸らしただけで、左の頬が焼け爛れてしまいそうな気がする。それほどまで熱は迫っている。8、7、熱いという感覚はないが、背筋が凍るくらいに冷たい波動を感じる。風前の前の灯火とは違い、灯火の前にはこの上なく冷たい風が吹くものだ。
 4、3、縮み続ける時間は有限。少しずつ開けていく視界の奥に、見慣れた紫色が滲む。
 ああ、どうしてだろう。目が潤んでしまうのは。
 2、1。
「覚悟は決めた?」
 0。
 いや、それはまだ。
「メリー!!」
「おねえちゃん!」
 気付けば、蓮子と女の子の位置が遠い。そういえば、肩に置かれている手はなんだろう、どうしてだか、かなり熱い。さっきまでは嫌な汗を掻いてしまうほど寒かったのに、今は、こんなにも熱い。
 蓮子は竹林を抜け、結界の境目を指し示している。良かった、二人はこの煉獄を突破したのか。それなら、いい。女の子がいれば、難なく結界を越えられる。これでようやく、過激な冒険記にもエピローグを記すことができる。
「良かった……」
「諦めるのはまだ早いんじゃない? もしかしたら、意地悪な兎が悪戯心で驚かそうとしているだけかもしれないし」
「声でわかるわ。全く違うもの」
「そう。いろいろと鋭いのね、あんた」
「お褒めに預かり、光栄ですわ」
 私は、服を焦がして燻り続ける彼女の手を、優しく払いのける。意外にも、その手は容易く退かすことが出来た。この際、拘束しても無意味だと同じだと思っているのかもしれない。……ああ、そうか。先程、私は一度彼女の腕を突破しているんだ。警戒されていてもおかしくはない。
「いいかげん、振り向いたらどう? まあ、それが出来たら次は弾幕のお稽古になる訳だけど」
「だって、方向だけは統一させないとまずいじゃない」
 何が、という問いを待っている義理はない。私は目を固く閉じ、イメージを固定化するために両の手を斜め下に突き出す。
 ――これが可能であることは、既に証明された。後は再現能力があるかどうか。
 答えの有無は問わない。式が成立しているのなら、数値を刻み込むだけで回答は弾き出される。
 真一文字に切り裂かれた空間の向こう側に、見慣れた滑り台とブランコが映る。まだ一日も経っていないのに、その酸化した鉄の色が随分と懐かしい。
「な、何を――」
 一瞬だ。彼女にとって、手を離したのが最短にして最大の油断。
 越える。
 引き伸ばし、突き降ろし、押し広げ、目には見えない紫色を強引に拡張する。
 裏返す。
 その実、踏み出すのはたった一歩に過ぎない。それと同時に、飲み込まれる。蓮子も女の子も私も。ここまで境目を広げておいて、最後の詰めがどうも上手くいかない。この辺りは慣れるしかないのだろう。カーテンロールにしては締まらないけれど、心の中は安堵で埋め尽くされていた。
 不意に、背中をわずかに掻く爪の痛みが、私の意識を露にする。
 紫色の向こう側、緑だらけの竹林に、一人の不死鳥と一匹の兎が取っ組み合いをしている様相を幻視した。




 目が覚めても、雀の鳴き声すら聞こえないというのは寂しいもの。
 けれども、目蓋を開けてすぐそこに満天の夜空が輝いているのなら、少しは淋しさも紛れるだろう。背中は砂利にまみれ、身体全体が埃っぽく、足はもうどうしたって動きそうにない。でも、こんな不出来な寝室に寝転んでいても、このまま二度寝してやりたいという思いが少なからずあるのだった。
 横槍から、ぶっきらぼうな溜息が聞こえる。
「……あー」
 身体を起こすのが億劫なので、声だけで人物を特定する。蓮子は、疲れ切った声で点呼を取る。
「みんなぁ、大丈夫……?」
「……うん」
 とりあえず、返事だけはする。女の子の声は聞こえないが、ぼやけた感覚の中にずっと残っている手のひらの温もりが、女の子の無事を教えてくれる。かすかな吐息から察するに、こんな場所でさえも深い眠りについているらしい。
 それが少しだけ可笑しくて、表情が不自然に緩んでしまう。
「はぁ……。行って帰ってくるだけなのに、なんでこんなに時間が掛かるのよぉ……」
 誰にともなく、愚痴をこぼす蓮子。文句を言っても詮の無いことだと知っていても、やはり彼女の性格からして言わずにはいられないのだろう。いくらサバイバル好きでも、実際に死の危険と隣り合わせになれば楽しいばかりではないのだし。
 それでも、恐怖、畏怖、戦慄、絶望、そんなあからさまな窮地に立たされても、蓮子はやはりめげていないに違いない。流石に今日くらいは骨抜きになっているだろうが、二、三日すればすっかり元の宇佐見蓮子に戻っていることだろう。
「でも、まあ、良かったじゃない。女の子、見付けられて」
「うん。蓮子と、てゐのおかげね。ありがとう」
「どういたしまして。この借りは、向こう一ヶ月の打ち合わせ費用代替権として行使させていただきますので」
「長い」
 せめて一週間にしてほしい。
 ……と、砂場に寝そべったまま他愛のない後日談に耽っているのも悪くないが、女の子をこのままにするのもまずい。とはいえ、私は女の子の名前も家も知らないから、自然と私のアパートに連れて帰るということになってしまうが。
「……何よ、その目は」
「別に」
 女の子を負ぶさった私に向けられた目は、好奇というか、下世話というか、何にしてもあまり良い気のしないものだった。
「というか、普通に家に帰せばいいのではないかと」
「だって、知らないもの。家」
「私は知ってるけど。家」
 ……はて、さしもの蓮子も頭がタイヘンなことになっているのか。
「こらこら、そんな哀れな生き物を見るような目をしない。別に変なこと言ってないでしょ、その子の家を知ってたって」
「変よ。名前も知らないのに調べられる訳が……。も、もしかして、ストーカー!?」
「もしかしない」
 何でも、蓮子が贔屓にしているお店の娘さんらしく、何度か会ったことがあるという。それにしては、女の子の方が初対面みたいな感じだったが。
 もう日付が変わっているので、親御さんは随分と心配しているだろう。警察にも連絡しているかもしれない。最近の子どもが早熟とはいえ、五歳児が夜遊びに耽っていたら世も末だ。もうとっくに末かもしれないけど。
 よっこらせ、と限界を通り過ぎた身体を動かして、蓮子が指示する方へと歩いていく。
 どことなく、見覚えのある景色のような気がする。私のアパートの近所だから別に可笑しくもないのだろうが、何か、符合しすぎていて違和感がある。
 もし、運命というものがあり、それを操っている存在がいるとするならば、きっと神や天使じゃなくて悪魔の仕業に違いない、と私はかつて考えた。そしていま、その仮説が確信に至る。
「ほら、そこのお店」
 このパチンコもそこで買ったのよ、ついでにビー玉も、と蓮子は注釈する。
 全てが仕組まれている、とは思いたくない。それでは個人の意志が否定されてしまう。私が私として生きている意味がまるでない。
 けれども、この時だけは信じてもいいような気がした。
 日付は変わって、一昨日の夕方。私が女の子のためにとビー玉を買いに行った雑貨屋。思えば、どうしてコンビニを選ばなかったのか。どうしてこんな辺鄙なところにある寂れた店に顔を出したのか。
「『九十九雑貨店』、ね……」
 ぽつり、呟く。
 ――運命。
 絡み合っていた紅い糸が、初めからそうであったかのように、一本に繋がる。
 小さな寝息を首筋に感じながら、唐突に、物語の終結を思い知った。




 ……ああ、最後にひとつだけ。




 喫茶店は混んでいる。如何な常連であっても、席がなければ立ち往生、マクドナルドにでも行って来いという放任主義体制を打ち出している頑固なお店。しかし私たちは悠々と席についている。それくらい暇なのか、店主にコネがあるのか、無論私たちは後者である。というか、半分くらい脅しと言ってもいい。弱みを握っているとでも言おうか、別に悪いことをした訳じゃないけど。
 まあ、それはともかく。
 席に着くなり蓮子が言い出したのは、もう一週間も前になる冒険活劇のことだった。
「メリー、あの兎のこと覚えてる?」
「ああ、因幡てゐ、だったかしら。最後に見た時は、なんとなく大丈夫そうだったけど」
 確信はない。が、正面切っていがみ合っている図を目の当たりにすると、さほど致命的なことにはならないような気がする。
 思い出に耽るようにカップを傾けると、蓮子が思いもしないことを口走る。
「私が考えるに、あいつって結構性格悪いんじゃないかなぁと思うのよね」
「そう?」
 確かに、妹紅とかいう焼けっぱちな女性は性悪兎などと表現していたが、ただの悪口と考えた方が自然ではなかろうか。しかし、蓮子の中には何か根拠があるようだった。
「うん。だって、竹林で妹紅とかいう焼けぼっくい女に遭遇したのも、元をただせばあの白兎のせいではないかと」
「……ちょっと待って。その話、出来るだけ詳しく」
 カップを置く。知らずと力が入っていたらしく、紅茶がカップの縁からわずかに溢れて、テーブルに零れ落ちた。
「とは言っても、確証はないんだけどね。
 メリーが最初に言わなかったから忘れてたけど、あそこはメリーが迷い込んだっていう竹林だった。その時には大きな鼠がうじゃうじゃ這い回っていて、メリーはずっと逃げ回っていた。で、最後にあの女が出て来た。……そこまではいい?」
「ええ。私も炎のサスペンダーに出会うまではすっかり忘れてたんだけど……」
 浅く、舌を噛む。いま思い出しても、あの時の判断が悔やまれる。
「でも、前回はともかく、今回は全く鼠がいなかった。それは何故か。
 可能性として、てゐが事前に鼠を追っ払ってたんじゃないかとも考えられるのよ。女の子が竹林に入ったことを確認して。
 ちょうど、遊びみたいなものだったんでしょうね。ほら、稲羽の素兎っているじゃない。鮫を騙して肌を引ん剥かれたあいつ。もしかすると、あの兎と何か関係があったのかもしれないわね」
「それにしたって……」
 蓮子の仮説は論理に飛躍が見られる。というか、前提の大部分を想像に任せているから、論理的ですらない。それなのに、説得力だけはあるから不思議だ。扇動者に向いているのかも。
「もちろん、あの子が結界を飛び越えたのは偶然だし、てゐにしたってその後に私たちがやって来るなんて思いもしなかったと思うよ。でも、あの子のために整えられた舞台装置は、私たちという飛び入りも巻き込んで、相当にややっこしい舞台を回すことになった。
 てゐが、妖気をあの子にぶつけたのも、妹紅を誘き寄せるための餌。妖怪は妖怪が発する妖気に反応せざるを得ない、という特性を利用して。てゐくらい派手に妖気をばら撒いたら、いくら鈍感な生き物でも怪しいと思うでしょ。てゐと妹紅は知り合いみたいだったし、またなんかちょっかいだしやがって、とかなんとか妹紅の方で自己完結してくれる。まあ、その分だけ危険も伴うんだから、遊びにしたって命懸けすぎよねえ」
 全く、と蓮子は溜息交じりにカップをあおる。
 ……凄い、というより、逸脱している。そりゃあ探偵みたいな格好してるとはずっと前から思ってたけど、ここまで鋭いとは思わなかった。まあ、正解なのかどうかは永遠に確かめようもないことだけど。
「けど、一体何のために……」
「妖怪のすることだからねー。人間でしかない私たちには、想像することしか出来ないけど……。そうね、人間を驚かすのが好きだったからじゃない?」
 あっさりと、答えを述べる。てゐの話は、それっきり途切れてしまった。私はまだ完全に納得していなかったが、細かい部分の齟齬など問題ではないのだろう。完全な回答が出たところで、あの兎に対する不信感が増すくらいなのだし。何かを嫌うために頭を使うほど、不毛な努力もない。
 後は、まったりとした午後の紅茶。休日ということも相まって、騒がしくも静謐な空気が店内を循環している。良い芳香剤でも見付けたのかなぁ、と無粋なことを考えてみる。
 次の話題を提供したのも、蓮子の方だった。
「そういえば、あの子とはどうなったの? まだ友達のまま?」
「いや、進展も後退もしないし……。その下世話な発想を取りやめなさい。頭が春になるわよ」
「妙な言い回しね。で、真面目な話、ちゃんと遊んでる?」
「ええ、特に問題もなく。……と、正確には、私じゃなくてあの子の方に進展があったわ」
 わざと回りくどい言い方をしてみる。
「うそ、あいちゃんにもとうとう虫がついたの?」
「虫じゃなくて、ちゃんとした友達よ。あいちゃんと同じ、と言ったら失礼だけど、公園の砂場仲間って感じかしらね。名前は……、あ〜、失念しちゃったみたい。よくある名前だったと思うけど」
「ふぅん。良かったじゃない、同年代の仲間が出来て、さ」
 そうね、と同意する。寂しい思いもないではないが、ずっと会えない訳でもない。保護者はあのおばあちゃんに任せて、私は私なりに親しい友人として振る舞えばいいだけの話。
 あい――漢字にすると、藍色の『藍』と書くらしい――は、ある事情でおばあちゃんの家に預けられた。それが一ヶ月ほど前。新しい幼稚園に通い始めても、なかなか馴染めなかったらしい。おばあちゃんは、あいに友達が出来て嬉しい、と言っていた。孫の喜ぶ顔が何より楽しみなんだと、皺くちゃの顔を緩ませて。
 初めてあの子に会った時、必死で作り上げようとしていたものは何だったのか。これもまた仮説に過ぎないのだけど、あれはやはり家だったのではないかと思う。
 ――砂上の楼閣。
 そんな悲しい言葉をあの子が理解していたかはわからないけれど、無意識のうちに、崩れ去った家の形を砂礫だけで建て直そうとしていたのではないだろうか。それはそれで、充分に悲しい推測だけれど。
 ガラスの向こう側に見える空は透き通るように青く、まだ夕闇が押し寄せる気配すらない。青から赤へ変わりゆく空の色を想像して、藍と紅を足すとちょうど紫になるんだっけ、と半ばどうでもいいことを考える。あいがいつも夕暮れ時に公園にいたのも、紅い色に自分の名前の藍を足して、概念の上だけでも自分が好きな紫色を作りたかったからなのでは――、ないな、絶対。凄まじいまでのこじつけだ。蓮子の推理には程遠い。
 ちなみにあの後に確認したが、もう結界の境目はなくなっていた。いずれまた表れるかもわからないので、しばらくは監視を続けるつもりだが、なんとはなしに、もう紫色の線が引かれることはないだろうと思った。本当に、なんとなく。
 今ごろ、二人はビー玉で遊んでいるのだろうか。紅茶を飲んでいるのもいいが、外で楽しく駆け回るのもいい。でも、しばらくは走ったり跳んだり駆けたりするのは嫌だ。身体が拒否する。
 はぁ、と包帯の巻かれた左手で頬杖を突く。溜息が出るほど嫌なことばかりではないが、まだ完全に疲れが抜けないのだ。
「お疲れのようですねえ、メリーさん」
「お疲れよ……。お疲れついでに言うけど、あの二人、秘封倶楽部に入りたいんだって。というより、竹林の話がきっかけで友達になったみたいなのよね」
「ふ〜ん。するとつまり、一気にメンバーが倍増したわけか」
「……て、採用する気?」
 マジか。
「戦力はあればあるほどいいのよー。で、名前は何が良いと思う? 秘封倶楽部の実動組織だから、秘封の二文字はどこかに入れたいんだけど」
 聞いてない。一人で盛り上がっている。
 まあ、楽しいならそれでいいのだが、どうか少女たちを危険な目に遭わせないでほしい。
 もう一度、深々と溜息をついて、藍色の空をぼんやりと見上げる。青は藍より出でて藍より青し、現代で言うなら、空の藍よりビー玉の青の方がよっぽど澄んでいるという意味だろうか。まあ、どちらにしてもそれなりに綺麗なのだから、細かい定義をつけるのも無粋な気がする。
 ……横顔に、ひしひしと蓮子の視線を感じる。構ってほしそうなオーラに耐えられず、仕方なく先程の提案に乗っかることにする。
 私は紅茶の中に沈んだスプーンを何度か掻き回して、思わせぶりにその名前を口にした。

「……それじゃ、『少女秘封倶楽部』なんていうのはどう?」




−幕−







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SS
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2005年4月18日 藤村流継承者

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