天上のオリオン
暮れも押し迫った12月31日の23時45分、ひとの部屋の戸を綺麗に開け放ったまま、狭いベランダに出て星を見上げている友人に、今更気の利いた皮肉を告げる気も起きない。
年の瀬に独りでいるのも寂しいからと、蓮子が私の部屋に押し入って半日が経つ。大掃除をしている最中に酷い邪魔が入ったと思いながらも、独り身の暗い部屋に押し返さなかった私の器量は未来永劫称えられるべきであろう。主に蓮子の血脈で。
ソファに寝転ぶ蓮子は、土台を蹴っても窓を開けても微動だにせず、ずっと小説を読み続けていた。何読んでるの、と尋ねても威嚇されるばかり。官能小説でも読んでいるのかもしれない。
ひとんちで読むなと言いたい。
「今年も終わりねー」
炬燵に下半身を突っ込んで、頬をこすりながら言う。風が冷たいから早く部屋に戻れ、と言外に告げているのだが、彼女は手すりに体重を預けたまま動こうとしない。凍死しているのかしら。
みかんの山を崩し、付近の上にみかんの皮を積み上げていく。度重なる品種改良は、みかんの内側の白い筋がない品種をも生み出したが、今食べているのは筋があるタイプだ。値段はどちらも似たようなもので、腐りやすさもほぼ変わらない。味については言わずもがな、酸っぱいのが好きなひともいれば甘いのが好きなひともいるのだから、どちらがよいということもない。売れ行きには違いも出るだろうが、市場に出回っているのは私の好きな甘いみかんばかりだから、私はあまり困らない。対する蓮子は、酸っぱいのが好きみたいだから愚痴ることも多いけれど。
「みかん、なくなるわよー」
「ん……」
珍しく、反応が帰ってきた。スリッパの爪先で何度か床を蹴り、寒さか、苛立ちか、あるいはそれ以外の判然としない感情を表現する。わかりづらい。
彼女が外に出たのは、およそ20分前。それまでずっと小説を読んでいて、その他はご飯を食べたりお風呂に入ったりテレビを見たり携帯をいじったり、要するに何ひとつ手伝うこともない穀潰しと化していたのだが、何故か思い立ったように夜空を見上げ始めたのだ。
そのうち月に帰りますとか言い出しそうである。
「あの、とても寒いのだけど」
「ごめんね」
閉めはしないらしい。面倒な。
私も一緒に付き合ってあげれば、少しは気も紛れるかもしれない。だが、私と蓮子では夜空を仰ぐことの意味合いが異なる。重みと言い換えてもいい。
星を見て時を知り、月を見て己の居場所を知る彼女は、夜の空と深い関係にある。その輝きを見て美しいと思う以上に、蓮子は強い想いを抱いている。私には到底理解できない感情であるから、あまり手を伸ばしてみようとも思わない。
だからこうして、背中を眺めているだけ。
爪先で立ち、届かない星に向かって手を伸ばすのは疲れるから。
「冬は……そうか、オリオン座が見えるのね」
他にも様々な正座が夜空を彩っているのに、不勉強なために有名な名前しか出てこない。蓮子にも何度かご教授を賜っているはずなのに、私の耳は興味のあるなしに関わらずありとあらゆる話題を右から左に流してしまう。罪深きはこの耳である。
「メリーも、一緒に見ない?」
振り返りはせず、蓮子は白い息を吐き出しながら私を誘う。寒くないわけはないだろうに、声も身体も震えている様子はない。夢中になると周りが見えなくなるのが、宇佐見蓮子の性分でもあるけれど。ここまで来ると、感覚が麻痺しかけているのではないのかと不安になる。
記念すべき、年明けの瞬間に――正直、祝うべきこともあまりないように思うのだが――立ち会えない可能性もあるが、蓮子を放ったまま一人で騒いでも虚しいだけだ。
「もう……」
仕方なく、私は予備のスリッパを押し入れから取り出し、わざわざ音を立ててベランダに置いた。想像していたより大きな音が響き、自分でも驚いてしまう。
不意に蓮子の表情を窺うと、彼女は寒さに負けずにやりと顔を綻ばせていた。
「……何よ」
「いや、メリーも繊細だなって。そう思ったのよ」
「寒かったのは本当なんですからね」
「ごめんね」
笑いながら言っても、全然申し訳なさそうに聞こえない。
私もいい加減に諦めて、蓮子の横に陣取って夜空を仰ぐ。真っ先に、首が痛いと嘆きの声を上げなかった自分を褒めてあげたい。蓮子には、もしかしたら小さな呻き声が聞こえてしまったかもしれないけれど。
と、いうか。
「寒い!」
これは死ぬ。冗談抜きで。
肩を抱いて震える私の頬を、蓮子は何を思ってか軽く引っ張って離す。地味に痛い。
皮膚を刺激して肌を温めようという魂胆か。仕返しとばかりに、私も蓮子の頬を若干強めに引っ張る。引っ張ったまま、離さない。
「いたい、いたい」
「私も痛かったわ」
「だから、ごめん、ごめんってばぁ」
にやけ面がどうも引っ掛かるが、泣き出されると対処に困るから、適当なところで解放する。ゴムのようにばちんと弾けることもないが、うっすらと目に涙を浮かべた蓮子がそこにはいた。
この寒さなら、涙もいずれ凍るだろう。
朝までずっと佇んでいれば、の話だが。
「あなたは寒くないの」
「全然。……と、言ったら嘘になるけどね。どうしてかしら、夜空を見ていると、他のことはあんまり気にならないのよ。お腹も空かないし、眠くもならない」
「話しかけてよかったわ。凍死寸前だったんじゃない、あなた」
額に手を触れても、ちゃんと熱が返ってくる。お返しとばかりに蓮子も私の額を触るけれど、お互いに何をしているのか解らなくなって、どちらともなく噴き出した。
蓮子を真似て手すりに掛けようとした手は、無情にも冷徹な鋼によって拒絶された。熱伝導率が高すぎる。ここに来て、蓮子不感症説がにわかに信憑性を帯びてきた。
「でも」
蓮子はぽつりと呟く。
私は後ろ手に戸を閉めて、高い場所から地上を見下ろす。ぽつぽつと光る家の明かりに、ほんの少しだけ安らぎを抱く。
「こんなに寒いと、星が落ちてきそう」
根拠も確信もない、浪漫だけの台詞なのに、蓮子が言えば何故か真に迫った響きを伴う。
手を伸ばしても、爪先を立てても届かないなら。
飛べない私たちは、星が落ちるのを待つばかり。
「でも、激突したら大惨事よ」
「夢がないわね、メリーは」
「夢は叶えるものよ。見るものではないわ」
特に何も考えずに返してから、蓮子の反応がないことに気付いて急に恥ずかしくなった。私は何を言っているんだ、蓮子じゃあるまいし。
「無し。今の無し」
「いいじゃない、格好いいわよ」
「そりゃ蓮子が言ったんだから格好いいのは当たり前よね」
「ひとが言うと更に格好よく聞こえるのが名言の証」
「わかった、わかったから今のは無し」
火照った顔を丁寧に撫でて、真冬の寒さにはちょうどいいかもと不埒な誘惑に負けそうになる。ロマンチストにのみ許される発熱法だが、今代のロマンチストは何もしなくても悠然と佇んでいられるのだから、実に不公平だ。
蓮子は、見上げるだけで手を伸ばすことはない。時間を呟くこともしない。部屋の中の時計は、23時55分を過ぎている。今年ももうすぐ終わり、また新しい年が始まる。何回も、何百回も、何千何万何億と続いてきた年が。
そも、時間の単位など人間が勝手に定めたもので、単位が無くなれば時間の境界も曖昧になる。始まりも終わりも消える。一年が短く感じられることも、一日が長く感じられることもない。
朝と夜とを延々と繰り返し、始まりもせず、終わりもしない。
そんな、歴史とも呼べない経験を積み重ねていく。
「――また、変なこと考えてるわね」
横合いから声が聞こえて、はっとする。苦笑いを浮かべる蓮子を見て、また益体もないことを考えていたのだと思い知る。蓮子だって、私に話しかけられるまでは何か妙なことを考えていたくせに。
「こんな夜だもの。仕方ないわ」
「こんな夜だから、仕方ないわね」
反復する。からかわれたような気もするけれど、いちいち取り合っていたら時間の無駄だ。
あと3分。
幸い、一年は365日と定められているから、今年の終わりは確実に訪れてくれる。ありがたいものだ。
「星が綺麗ね――、……ていうのは、ありふれた感想かしら」
「いいのよ。それがメリーの心から出た本当の言葉なら」
「助かるわ」
「どういたしまして」
私たちは、同じ場所から遥か彼方の星々を見る。
遠い、と感じる。目を凝らさなければ、目を凝らしても見え辛い光の点が、架空の線を繋いで幻想の絵を描く。正直、私の眼には点と線以上のものを幻視するのは難しいけれど――適当に思い浮かべたオリオンの造形でも、冬の夜空を彩ってくれる。
幾星霜と輝き続けて、始まりも忘れ、終わりも知らない無数の星。私たちがその結末を知るのは、何百万年も後になってからだ。星の寿命を語るには、人の一年では捉え切れない。
でも、それでいいのかもしれない。
届かないのなら、届く気も起きないくらい未知の存在であってほしい。
月には手が届いてしまいそうだけど、あの星は、まだ。
「時間、呟かないのね」
あと2分。
正直なところ、蓮子の目を参考にして新年の挨拶を述べようとしていただけに、こう予想外の行動を取ってくれると肩透かしもいいところである。
けれど、私の訝しげな視線を受けても、蓮子は口を閉ざしてうっすらと微笑むばかり。気味が悪い。本当に月に帰るんじゃないのかこの宇佐見。
代わりに、蓮子は星を目に焼き付けながら、呟く。
「毎年、こうして空を見ている気がする」
蓮子が何を思っているのか、何を思っていたのか、私は知らない。理解したくて、できそうにないと半ば諦めて、核心に触れられない程度の質問を投げる。
「東京は、ここより寒いでしょう」
「でも、同じ空よ」
空は繋がっている。私たちが生きている場所も、蓮子が生きていた場所も。
同じように、空の彼方に続き、星の果てまで続いていく宙にさえ。
「綺麗だと思うのよ。私も」
あと1分。
「何度見ても綺麗だと思うけれど、でも、何度見ても、違っているの」
彼女が吐き出した息は白く、私が震えるように吐いた息もまた、際立って白い。
純白と言い切れないのが辛いところだ。
「昔と比べて、私の目が濁ってきたのかな。それとも、澄んできたのかな。空のせいにしたり、年のせいにしたり、星のせいにしたり、ね」
あと、30秒。
私はもう、時計を振り返るのはやめて、蓮子と同じ空を仰ぐ。
ちょっとぐらい首が痛くなっても、正月休みはまだまだあるのだ。悲観すべきことは何もない。
何もないのだ。
「今年は、メリーと一緒に見てる」
今は、蓮子と一緒に星を見ている。
「ここ最近じゃ、いちばん綺麗ね」
時計の針が、私と、蓮子の中の時間を刻んだ。
――カチリ。
「明けまして」
「おめでとう」
ございます、と。
私たちは、計ったように向かい合って、他人行儀に頭を下げる。
数秒ほど姿勢を固定させて、首を持ち上げた後は、堪え切れずにくふふと笑い始める。たまらない。何をやっているんだ、私たちは。
ああ、でも。
この始まりは、ひどく私たちらしい。
「うー、寒い! メリー、いい加減に中に入るわよ!」
「それは私の台詞……あーもう、あなたの分のお年玉ないわよ」
「えぇ!?」
残念でした、と肩を竦めて戸を開ける。抵抗の意を込めて肩を揉む蓮子を無視して、私は懐かしい部屋の暖気に顔を綻ばせる。
「そもそも、貰う気でいるんじゃないわよ」
「心はいつでも思春期ですから」
「何でも言えばいいってもんじゃないわよ。それなら、あなたの身体はいつになったら二次性徴を迎えるのかしらね」
背中をぐーで殴られた。あんまり馬鹿にすると、年甲斐もなくむくれるから程々にしておこう。
しばらくぶりに戸を閉めて、暖かい空気に包まれた部屋の中、見上げる空はあまりにも狭い。天上のオリオンは視界に映らず、想像しても武骨な半裸像が浮かび上がるのみ。
でも、その姿はどんなオリオンより美しい。
時計はちょうど午前0時を過ぎたあたり。
炬燵に滑り込み、天板に突っ伏す蓮子の肩を揉み、小さな声で「今年もよろしく」と。
蓮子はうにゃうにゃと呻きながら、囁くように「こちらこそ」と。
秘封倶楽部の新しい一年を祝うように、空の上から小さな雪が舞い降りていた。
SS
Index
2009年12月31日 藤村流 |
東方project二次創作小説 |