もみちん
「もみちん」
射命丸文が犬走椛の目を見てそんなことを言うので、椛はあまり関わり合いになりたくはなかったのだが、仮にも幻想郷最速を名乗る鴉天狗の脚、舐めてかかると痛い目に遭う。
とりあえず、太刀と盾を構えておいて、質問する。
「誰ですか」
「あなた」
指差されたよオイ。
全力で逃げ出したかったが、幻想郷最速はやはり伊達ではなく、気が付いたら椛を差した指が椛の眉間をしたたかに突いていた。
そこそこ痛い。
「もみちん……良い名だと思うんですが」
「渾名ですか」
正気ですかと言いたかった。
そんな声にならぬ声を知ってか知らすが、文はこくりと頷いた。
「文々。新聞で、募集をかけたんですよ。名も無き守衛、犬走椛の愛称求む!」
「ありますけど名前」
「もののたとえですよ」
「実名なんですけど……」
椛の突っ込みは留まるところを知らないけれど、文は彼女の言葉など全く聞かずに話を続ける。
椛も、文のそういうことは自覚しているが、やっぱり言わずにはおけなかった。
白狼天狗、犬走椛の根幹に関わるところでもあるので、特に。
「最終候補『もみちん』の他にも、愛すべき名前がいくつか候補に挙がってまして」
「なるべくなら実名の方を愛して頂けると」
「第三位!」
聞いちゃいねえ。
「幻想郷は魔法の森、香霖堂さんからのお便り。『梅雨の季節は物が腐りやすくて困ります。本も湿気るし、カビやサビなど、雑貨屋を営んでいると厄介なことが多いです』」
「前置き?」
「『犬走さんは、足りなくなった将棋の駒を探しに、ウチにやって来たことを覚えています』」
「ああ、そんなこともありましたか……」
懐かしむように、瞳を閉じる。
隙を突いて、文が椛の鼻を摘まむ。
やることが近所の子どもである。
「ふぎゅ」
「『彼女は、外の世界から入ってきた犬のえさに大変興味を持たれたようで』」
「持ってないです」
「『欲しいけれど手持ちがないということなので、三べん回ってワンと言え、と冗談半分に言ったら、尻尾を振りながら嬉しそうにぐるぐると回って、最後に大きな声で、ワン! と』」
「言ってないです」
「『ついでにちんちんもしてました』」
「してないです」
「ですよね。ないですもんね」
何言っちゃってんのこのひと。
「『なので、僕はもみちんが良いと思います』」
「て、結局もみちん一択じゃないですか!」
「やだ……椛ったら、もみちんだなんて……」
「あんたが言い出したことでしょう!」
赤面しながら叫ぶ椛と対照的に、文は不敵な笑みを緩めない。
「そして第二位!」
「やる意味あるんですか本当に」
「意味の有る無しじゃありませんよ。私が面白いからやるんです。具体的には椛の反応が」
「帰っていいですか」
「帰れるものなら」
これだから最速は嫌なんだ。
絡まれたが最後、骨の髄まで啜られる。
「人間の里、由緒ある稗田家から、稗田阿求さんのお便り。『こないだエサをあげました』」
「いや行ったことないですから稗田家」
「『しばらく庭に放しておいたら、いきなり外に走って行って通りを歩いている野良犬と交尾』」
「あんたほんと名誉毀損で訴えますよほんと」
「やだな、射命丸ジョークじゃないですか。だから刃を下ろしてください刃を」
首の皮を一枚だけ残して全部削いであげようかと思った椛だったが、文がかなり本気で懇願しているようなので、実力行使はやめておいた。
ただ、いつでも行けるように太刀は構えておく。
「ふう……、『ですので、彼女の愛称はオオイヌノフグリが良いと思います』」
「意味からすればもみちんじゃないですかねやっぱり」
「椛が……、いえ、もみちんがそう言うのなら」
何やら決意に満ちた顔をしている。
椛は、無駄に真剣な文の目を見て、しみじみと言う。
「あやちん……」
「誰ですか」
「あなた」
指差したら折られそうになりました。
これだから幻想郷最速は。
「お待たせしました、第一位!」
「いやだからもみちんなんでしょ」
「妖怪の山、河童の川流れ河城にとりさんからのお便り」
「ブルータスおまえもか……」
「『いやあ、椛は椛でいいんじゃない? 良い名前だと思うよ、椛。ちっと読みにくいけどね、椛とも読めるから。すぐに覚えてもらえるし、一度覚えたら二度と忘れられないんじゃないかな。ま、私がそうだってだけなんだけどねぃ』」
「……あの子」
眉間を押さえる。
今更になって、文に突かれた眉間が痛む。
「これは、思ったより良い話だったので没にしました」
「いやまあ何でもいいですけど」
開き直る。
他の誰にもみちんと呼ばれようとも、たったひとりでも、自分の名を愛してくれるひとがいるなら。
それだけでも、救いになるだろうと思うのだ。
椛は、水飛沫の舞う滝つぼから、河童がいるであろう滝の上を見上げて、ぽつり呟く。
「ね……、にとちん」
文がこけた。
もみちん2
SS
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