妹紅犯

 

 

 

 親の仇だとか、化け物だとか、誤解や理解の及ぶ範囲で襲撃を受けたことはあるが、偽物だと言われて攻撃されたのはこれが初めてになる。
 妹紅もまた、己が他者と一線を画した容姿や造形、能力を持っていることを自分なりに理解している。なればこそ、仇と疑われ、化け物と罵られても、ある程度は仕方がないと心を落ち着けることもできた。
 だが、偽物とは。
「……どういう意味?」
「きゅぅ……」
 地面に這いつくばり、敗北を喫した氷精を見下ろす。
 竹林。朝食のあと、「あ、にせものだー!」と叫び声を上げながら氷の弾丸を浴びせかけてきたので、火の粉を振り払うように氷の粒を消し飛ばし、その本体に軽く火を通した。
 こんがりと焼き上がり、ぶすぶすと煙を昇らせるチルノの頭を小突き、無理やりにでも覚醒を促す。うめきながら、きょろきょろと視線を巡らせるチルノをしばらく放っておいて、妹紅は適当な切り株に座りこんだ。
 程無くして、チルノの視線が妹紅に合う。
「……あ、にせもの!」
「名前くらい、ちゃんと覚えておきなよ」
 藤原妹紅、と億劫そうに呟き、弾いた指の境から剣呑な火花が散る。
 もこう、と確かめるように呟いた氷精が、土に手を突いて元気よく立ち上がった。
「よくもやってくれたわね……! 偽物のくせに、本物そっくりなワザ使うんだから!」
「だから、それはどういう意味なのよ。解るように説明しなさい」
「ふふん、その手は喰わないわよ。さっき湖にいたのは、あんたよりもずっとあんたらしかったんだから。背中の鳥がぼーぼー燃え盛ってて、目つきも極悪でさ」
「……なるほど」
 納得した。
 何故、妹紅の偽物が湖に出没したのか定かでないが、直情的なこの氷精が無意味な嘘を吐くとも考えにくい。悪戯と嘘は違うものだ。欺き、騙すのが妖精の根幹だとすれば、因縁をつけ、罪をなすりつけるのはいささか趣が異なる。
 腰に手を当て、小さな胸を張る妖精に対し、妹紅は同情の眼差しを送る。
「迷惑を掛けたわね。私の偽物が」
「迷惑じゃないし。こてんぱんにしてやったし」
「じゃあ、そいつはもう消えたのかな」
「でも、今日のところは小突くくらいで勘弁してあげた」
「そうかい」
 苦笑する。
 ばかにされたと気付いたのか、チルノは不満げに唇を尖らせる。
「さて」
 今日の予定も決まった。腹ごなしに氷精を転がして遊んだことだし、余裕をもって自分の偽物と対峙しよう。氷精に背を向けて歩き出すと、彼女は何やら大声で叫んでいた。
「こらー! 無視するんじゃないわよー!」
「またね。凍らせたバナナで釘が打てるようになったら、また遊んであげるよ」
「帰り方わからないじゃないのよー!」
「そうかい」
 ひらひらと手を振って、振り返りもせず歩みを進める。氷精の怒号は続く。追いかけるだけの気力は、残されていないようだ。
 徐々に小さくなる元気な声を聞き流しながら、己の偽物について思いを馳せる。不死鳥の真贋。蓬莱人だから炎が扱えるわけではない。永遠亭の策謀の線は薄いのではないか。ならば原因はどこにある。愉快犯、偶発的な現象、勘違い、誤解、不運。運命。
 考えても仕方のないことだけれど、暇なときはいつもこうして何か考えていた。
 答えがあるもの、ないもの、善悪があるもの、ないもの、様々だ。
「……偽物、ね」
 不意に、笑みがこぼれた。こらえきれず、手のひらで顔を覆い隠す。
 何も、こんな自分の真似をしなくてもいいだろうに、と。
 そう思ったら、笑わずにはいられなかったのだ。

 

 

 紅魔館を望む、広大な湖。そのほとりに、妹紅は佇んでいた。
 チルノの証言を受け、はるばる訪れたはいいものの、遭遇地点と造形以外の情報が全く無かった。せめて、どの方角に消えたかくらいは聞いておくべきだったかもしれない。前髪を掻きあげて、少し悔やむ。
 結局、しょうがないかと諦めて湖の外縁を歩き始める。紅魔館に出入りする人間も少なからず存在するから、それなりに道は出来上がっている。完全に整備されるのは、まだまだ時間が掛かりそうだが。妖怪は獣道でもお構いなしであり、空も飛べる。道が無ければ満足に歩くこともできないのは、人間くらいなものだ。
 そんなことを、どっちつかずの蓬莱人は考える。
「いないなあ」
 時に立ち止まり、きょろきょろと辺りを見渡してみても、水面を跳ねる妖精たちの姿が見受けられるばかりである。彼女たちですら、妹紅の視線に気付いた途端わらわらと逃げ惑う。やれやれと嘆息し、妹紅は散策を続けた。
 日差しも強く、歩いているだけでも肌が汗ばむ。炎を扱うといえども、どこぞの氷精みたいに終始冷気を振りまいているわけではないから、体温以上の熱は発せられない。それでも、同じ火なのだから親和性が高くてもいいのに、と益体もないことを考えもする。
 土を踏み、まだ見ぬ偽者を待ち焦がれる。
 一歩、二歩、三歩、数えられないほどの足跡を刻み、好い加減、自分の足音も聞き飽きた頃。
 ぷつり、と、肌を突き破る痛みが走った。
「――、つぅ」
 油断しているつもりはなかった。が、過ぎたことは全て言い訳だ。
 半径五尺に及ぶ範囲全域に展開された銀の刃のその数量を確認している余裕は無い。ただ一点、心臓の位置を正確に捉えたナイフが妹紅の肌をわずかに食い破ったことは事実。
「……火の鳥」
 身をよじりナイフをやり過ごす。血飛沫が衣装を汚す。一斉に覆い被さる刃の群れを迎撃すべく、妹紅は己の身体に不死鳥を纏う。
 炎が顕現する。
 けたたましく不死鳥は咆え、その翼を雅に広げて銀の刃を喰らい尽くす。熱気は太陽のそれと比較にならない。なのに妹紅は、その灼熱すら平然と受け入れられる。やはりこの身は炎によく馴染むらしい。
 焼け焦げ、推力を失ったナイフがぽとりぽとりと地面に落ちる。うち、ひとつふたつが妹紅の頭上に墜落し、妹紅はそのたび詰まらなさそうに煤を払った。そして己を傷つけるものが何ひとつ無くなったことを確認して、呼び起こした不死鳥を解く。
 妹紅は別に火の鳥を抱いていても構わないのだが、これと対峙する人間にすれば、熱くて熱くて仕方ないだろうという配慮ゆえである。
「いるんだろう」
 胸に刻まれた鋭利な傷口を押さえ、虚空を睨みつける。これで明後日の方向を睨んでいたら恥ずかしいな、と思いながら。
 予想通り、十六夜咲夜は妹紅の正面に現れた。
 銀の立ち姿。不死鳥が唸りを上げた現場であるにもかかわらず、汗のひとつも掻いていなければ、涼しげな表情も崩していない。余裕のある微笑みに、銀の三ツ編みがかすかに揺れる。
「失礼致しました」
 謝罪の言葉を聞くことになるとは、少々意外だった。
 妹紅が首を傾げていると、咲夜は先手を打って言葉を繋ぐ。
「どうやら、あなたではなかったみたい」
 それでは、と頭を下げてこの場を辞そうとする。
「……あ、おい! ちょっと待ってよ、ちゃんと私にも解るように話せ!」
「それもそうですね」
 踵を揃え、瀟洒に振り返る。
 代わり映えのしないエプロンドレス姿だが、本当は細部があれこれ異なっているのかもしれない。細かな差異はどうあれ、メイドであると解ればそれで構わないのだろうけど。
 彼女は、焦げたナイフを指の間に挟めて、瞳を閉じる。
「先程、紅魔館に賊が侵入致しまして」
「それが、私だっていうのかい」
「いえ――、まあ、姿形だけで判断すれば、そうなりますね」
 要領を得ないのは、妹紅も咲夜も似たようなものだ。だが、咲夜はチルノと違って「あなたではなかった」と断定した。その根拠が知りたい。
 咲夜は、軽く閉ざしていた瞳を開ける。
「門番ひとりでは苦戦を強いられていましたから、私も助太刀したのですよ。でも、手応えはあったはずなのに、死体は上がらなかった」
「……容姿は私と同じだったんだろう。よくもまあ、殺すのを躊躇わなかったもんだな」
「蓬莱人の特権と思って頂ければ。――それと、目つきが際立って極悪なものでしたから、つい」
「つい、ね」
 先刻のナイフも、つい妹紅の心臓を寸分の狂いも無く狙ってしまったのか。苦笑する。
 指に挟めたナイフを太もものホルダーに収め、咲夜は妹紅の赤い眼を窺う。じっ、と瞳の奥底まで見つめられ、さすがの妹紅にも照れが入る。
「やはり」
 青い瞳がわずかに逸れ、湖を越えた向こう、太陽に赤く灯るお屋敷を望む。
「眼が、違います。初めてあなたと会ったときのような、もしかしたら、それよりも鋭かったのかもしれない」
「――、そうかい」
 赤い眼を、まぶたの上からそっと触れる。別段、あれから心を入れ替えた覚えはないが、関わる人間は増えた。妖怪も、妖精も、神様も。死ぬ回数も随分と減った。それに伴って、何かを殺す回数も。心が荒むことも少なくなった。いろいろと、諦められるようになったせいかもしれないが。
「ちなみに、逃げた方角なんて覚えてないかな」
「さて、どうかしら。ちょうど、炎の渦に掻き消されて見えなくなっていたから」
 刃の欠けたナイフが残されていただけ、と咲夜は言う。実体のない影、というには手応えが強すぎる。
 あの日以前の自分。連綿と続く己の人生が、金太郎飴のように絶え間なく、薄っぺらく等間隔に切り刻まれていく。虚しいようで、意外にしっくり来る。やはり、達観と表現するよりは諦観の方が相応しい。
「何が目的なのか、それもはっきりしませんわ。ただ暴れたいのなら、お灸を据えるだけの話だけれど」
「ただ、暴れたいだけなんだと思うよ。それが、昔の私と同じなら」
 恥ずかしながら、そういう時代もあった。
 何もかもを憎み、挙句、何を憎んでいたのかも解らなくなっていた時代。
「では、次にお会いしたらそのように」
 慇懃に会釈をする咲夜。申し訳なさそうに、手を合わせる妹紅。
「面倒を掛けるけど、頼むわ。当ては無いけど、私も探してみる」
「そうですわね。でないと、余計なところに飛び火するかもしれません、し」
「同感、だ」
 ふたり同時に、湖の方を仰ぐ。
 太陽と異なる灼熱の気配に、天を仰げば一羽の火の鳥。そして。
 啄ばまれているのか、翼を背負っているのか、不死鳥を携えたひとりの影。銀よりは白、灰がかった髪には呪符か護符か知れない御札が結ばれ、瞳は赤く、視線は鋭く、闇は深い。
 妹紅は思う。
 あれが分身でないのなら、自分の方が幻だ。
「探す手間が省けました」
 焦げたナイフを数本、指の間に挟める。何度見ても、窮屈そうだ。
「僥倖、僥倖だよ。世はなべて事も無し。巡り巡って、帰れるところへ帰るんだ」
「……何とも、仰々しいですわね」
「年寄りなんだよ」
 自嘲する。
 スタンスを広げ、飛び立つ準備を整える。相手は宙に浮かんだまま、ねぶるようにふたりを見下ろしている。属性は同じ。良い相性とは言い難いが、闘いを避けることはできない。どうあっても。あれが妹紅の形を取っている以上、本当に対峙せねばならないのは同じ姿を持った自分だけだ。
 上空にて、分身が邪な笑みを浮かべる。
「――来るぞ」
 拳を固める。
 風向きが変わり、それぞれの髪が大きく煽られた瞬間、分身の放つ炎が激しく揺らいだ。
 ごお、と炎が渦巻く。
「派手にやってくれる……!」
 握り締めた拳を地面に叩きつけ、妹紅もまた火の鳥を呼び覚ます。二羽の不死鳥が狂おしく啼きわめく。そのたび燃え盛る紅蓮の炎に囲まれて、ふたりの妹紅はなお笑みを絶やさなかった。
 飛翔。
 近付けば近付くほど、相手の顔がよく見える。傷痕の走る肌、こけた頬、尖った鼻、炎を宿し、闇をたたえた赤い瞳。
 ぞくりとする。
「災難だったな。私も、おまえも」
 同じ高度まで舞い上がり、視線を合わせる。分身は何も語らない。うっすらと気持ちの悪い笑みを貼りつけて、ハリガネじみた細い四肢に、痩身が過ぎて肩からずり落ちそうな衣装を纏い、がらくたのように佇んでいる。
「おまえは一体、何百年前の私だ」
 答えない。
 彼女自身、わかっていないのだろう。ならば、それで構わない。
「じゃあね」
 妹紅が拳を前に突き出すと、相手もまたそれを模倣する。同じ構えから繰り出される技は、おそらく同じ威力を備えた技であろう。だが、オリジナルがコピーに負ける道理はない。根拠はないが、何故かそう思えた。
「――、……蓬莱」
 言いかけて、ふと、瞳を閉じていたことに気付く。
 そして瞳を開ければ、分身をぐるりと取り囲む、焦げたナイフの群れを見ることができる。分身はまだ動かない。逃げるという選択肢など初めから持ち合わせていないとでもいうように、彼女はナイフに貫かれるべくそこに留まっていた。
 だから、カッとなる。
「邪魔をするな!」
 炎に拳をくべて、妹紅は宙を駆ける。ナイフは次々と分身を貫き、その威力に流されて、彼女の身体は不器用な踊りを繰り広げる。血は零れない。貼りつけた笑みも変わらない。
「あれは、私のだ!」
 拳を広げ、掴んだ炎を残りのナイフに叩きつける。多くの刃は分身を貫いたが、叩き落されたナイフはひしゃげ、へし折られて灰燼に帰した。もとより妹紅に焦がされた刃だ、大した威力はない。だが、無傷でいられないのもまた事実。
 燃える。燃える。藤原妹紅が、藤原妹紅だったものが燃える。
 炎は服を焼かず、己が身を苛む刃だけを焼き焦がし、相変わらずの枯れ果てた痩躯を浮かび上がらせる。ただぼんやりと宙に浮き、胡乱でありながら凶悪な眼差しを、突進してくる本物の妹紅に向ける。
 その瞳に、ぞっとする。
「いいかげんに……!」
 技もへったくれもなく、妹紅は我武者羅に拳を繰り出す。恐れに背中を押され、寸止めすることもできず、声の震えを抑えることもできなかった。
 後悔するが、既に遅い。
 拳は呆気なく分身の胸を突き破り、硬く、柔らかい感触を交え、ケーキにナイフを通す感覚で、彼女を完膚なきまでに殺した。
 殺した。

「死ね!」

 死んでしまえ。
 おまえなど、過去の分身に過ぎないくせに。
 そんなものが、今生きている『私』の邪魔をするな。
「――、……」
 分身の唇が初めて動き、骨と皮しかない傷だらけの両腕を、本物の妹紅の腕に絡ませる。
 今際の際に何を呟いたのか、あるいは、断末魔の悲鳴をかすかに漏らしただけだったのか。わからない。
 ただ、触れ合った腕は確かな温もりを帯びていて、彼女が幻影でないことを妹紅に伝えた。
「……おまえ」
 そして再び、炎が巻き上がる。
 温もりに絆され、少なからず油断があったことは認める。だが、死に瀕していた偽物が視界すら遮るほどの炎を展開するなど、想像できるはずもなかった。
 絡まった腕は、押しても引いても微動だにせず、胸を貫いた腕は炎に巻かれて傷口の位置さえわからない。燃え盛る炎の音が轟き、全身がチリチリと焼け焦げていく。
 今まで幾度となく味わってきた、死の体感。
 だが、今までと何か違う。
 自殺とも、心中とも異なる。深みに落ちる喪失感は酷似しているが、触覚はむしろ研ぎ澄まされている。死に落ちるより、生まれ落ちる感覚の方が正しいか。
 いずれにしろ、よくはわからないことだ。
 ちッ、と舌を打つ。死に際の絶望も、悲愴も、憤怒も湧かない。そういう瑣末な感情に縋っても、いずれ自分は甦る。今回は下手を打ったが、次こそは上手くやる。
 また、やりなおす。
 そう思えば、辛いことなど何もない。
「う……」
 焼けただれていく身体の変調に身震いし、妹紅が死を覚悟した頃。
 偽物が、薄い唇をわずかに開ける。
「これは、おまえのだ」
 妹紅と全く同じ声音で、殊更に低く呟き。
 絡めた腕を無造作に外し、しわくちゃの手のひらを、傷ひとつない妹紅の額に押しつけた。
「―――、―――、あ」
 ぐるん、と、視界が輪転する。
 落とされた、と理解した頃には、視界は完璧な闇に覆われ、意識は完全に葬り去られていた。死んだかどうかもわからなかった。
 ただ。
 簡単に済むはずだった偽物退治が、あらぬ方向に逸れていく確信を得た。

 

 

 

 

 鞠をつく、幼子がいた。
 妹紅は、寂しげに遊んでいる女の子の前に立っている。女の子は妹紅に気付いていないのか、独り言のような歌を口ずさみながら、俯きがちに鞠をついている。
 そのうち、鞠は女の子の手から離れて、転々と地面を転がっていく。女の子も鞠を追わず、ただ鞠の転がる先を寂しげに見つめている。
 妹紅と、女の子の目が合った。
 襤褸を身に纏った女の子は、黒い髪を肩のあたりで切り揃え、澄んだ眼を妹紅に向けている。対する妹紅は、燃え尽きて色を失った灰色の髪と、炎を彷彿とさせる赤い瞳を携え、女の子と向き合っている。
 どちらも、それほど背丈は変わらない。鞠はちょうどふたりの間に転がっていて、同じ歩幅で歩いて行けば、ほぼ同時に拾い上げられそうだ。
 どちらも、同じ名を持つ藤原妹紅である。
 異なるのは、容姿と歴史くらいなもので。
 女の子が、妹紅から視線を外し、明後日の方を見やる。妹紅も、それにつられて白い景色の向こうを見る。ふたりの目線が同じ場所に重ねられたと同時、真っ白な風景はにわかに色を取り戻し始めた。

 

 不揃いの面子が、険しい山道を登っている。
 年端も行かない女の子が一人、他は宮仕えの男たちばかり。女の子は襤褸を纏っていて、何度か転んだのかあちこち擦り剥いている。今もまた転んで、先頭を歩く男に介抱されていた。女の子は、申し訳なさそうに男を見ている。
 そんな彼らの姿を、妹紅は強制的に見せられている。ふと気付けば、先程まで隣にいた女の子の姿はない。どうせ、男たちと一緒に歩いているのが例の女の子なのだと解ってはいたが。
 この後、何が起こるのか妹紅は全て知っている。胸が疼く。足の裏がびきびきと軋む。それでも、瞳を閉じてもまぶたの裏に景色は映る。彼らの前に立ちはだかり、押し留めようとしてもこの手は彼らを擦り抜ける。女の子は、妹紅の横を難なく通り過ぎる。
 歯軋りする。
 山頂に辿り着き、咲耶姫と出会う。この登山の目的、蓬莱の薬の処分が明かされ、岩笠以下の男たちが動揺する。その夜、岩笠と女の子を除いた男たちが死ぬ。何者かに殺された。妹紅は、その犯人が咲耶姫だと思っているのだが、その犯行までは映し出してくれなかった。
 歯噛みする。
 妹紅は映像を止められない。確定された過去がとめどなく流れ続ける。女の子は、一歩ずつ妹紅に近付いていく。蓬莱の薬を呑む以前、薬を手に入れる前の女の子が、今の妹紅になるための第一歩を踏もうとしている。
 踏み台は、岩笠の背中だ。
「やめろ」
 力のない台詞では、誰の足も止められない。
 もとより、止められるはずのない過去だけれど。
 傾斜のある山道、その下り坂。蓬莱の薬を抱えて、疲れ切った男の背中が目の前にある。女の子は、息を呑み、唾を嚥下し、意を決して、恩人である男の背中を蹴り飛ばした。
 岩笠の末期も見届けず、女の子は薬を抱えて山を駆け下りる。一方、妹紅は岩笠が岩肌に身体をぶつけながら落下していく一部始終を目の当たりにしていた。腕がひしゃげ、首が折れ、節々から血を撒き散らしながら、岩笠は途中で息絶えてもなお物凄い速度で山を転がり落ちる。
 そして、勢いが完全に殺されて、平坦な山肌の上に転がされた岩笠だったものを見下ろす。虚ろに飛び出した眼球が、未来の妹紅を見上げている。
 惨状を、見続けなければならない道理はない。
 だが、目を逸らせなかった。目を塞いではいけない気がした。
 これからずっと、こんな光景を見せられるのだろうと理解していても。

 

 何回死んだ。
 何回殺した。
 指折り数えて足りるだけの回数なら、短い時間で済むはずだった。だが千三百の歳月は妹紅に休む暇を与えない。
 初めの三百年。人から恐れられ、見付からないように隠れ住んでいた時代。
 この頃は、殺された数が多かった。崖から突き落とされたり、首を刎ねられたり、生き埋めにされたり、廃屋に閉じ込められて焼き討ちに遭ったり、散々だった。時を重ねるごとに傷は増え、結局は全て塞がった。蓬莱の薬の力である。
 生きるためにと、殺されまいと追手を手に掛けたことも少なくない。仕方なかった。たとえ死なない身体だとしても、何度蘇るとしても、痛いのは嫌だった。肌を裂かれ、胸を貫かれ、首を絞められるのは苦しかった。
 黒髪は白く染まり、瞳の色は紅くなった。
 死人みたいだ、と妹紅は泣いた。

 

 次の三百年は、世を恨み、妖怪でも何でも片っ端から退治していた時代。
 強さを誇示したかったのでも、快楽を求めていたのでもない。ただ、自分が妖怪ではないと知らしめたかったのかもしれない。死んでも死なない身体、傷を得ても生き続ける生命、人知を越えた存在、それはまさに妖怪と呼ぶべき生き物である。
 でも、そうじゃない。
 自分は違うと思い込みたくて、妖怪を傷付けた。仮想の敵として妖怪を選んだ。慣れないうちはよく返り討ちに遭った。死に方も凄惨なものだった。身体を喰われることも度々あった。千切れた四肢もいずれ蘇り、痛ましい経験として心に刻まれる。
 妹紅は殺す側の存在になった。
 妖怪の上位に立ち、ちっぽけな己を保つために力を振るい続けた。
 腕を振るうたびに、完治したはずの傷が痛んだ。目には見えない傷跡が、まだ魂には残っている。それはきっと、蓬莱の薬でも治せないのだろう。
 今宵の惨劇は、人里離れた森の中。
 腹を裂かれながら、妖怪の腹に腕を突き刺す。手のひらから生み出した炎が、妖怪の身体を内側から焼き焦がしていく。脂肪の焼ける臭いが鼻につく。この妖怪は、一体どんな悪事を働いたのか。当時を思い出せない妹紅には、知り得ないことであった。当時を生きていた妹紅は、地面に倒れていて答えようがない。
 燃える。燃える。妖怪が、妖怪だったものが燃える。
 人間だった妹紅は赤い血を流しながら地面に伏し、目の前で起こっている惨劇から目を逸らしている。
 傍観者の妹紅は、全ての惨事から目を離せないでいる。

 

 輝夜と再会するまでの三百年は、虚しさと向き合う時代だった。
 自分の行っていることが全て意味のないことのように思えた。妖怪を退治することも、善行ではなくただの憂さ晴らし。性質の悪い八つ当たりであることに気付いた。気付いてしまえば、もう前には進めなかった。自分に刃向かう妖怪はほとんどおらず、死にたくても死を選ぶこともできなかった。
 ただ、死んだように生きることはできた。だからそうした。
 傷を得ず、痛みを感じず、最小限の苦しみを味わって生きる暮らしは、その実平穏なものだったのかもしれない。
 輝夜と再会するまでは。

 

 何度殺した。
 何度死んだ。
 宿敵の存在は、妹紅の虚無感を容易く埋めてくれた。傷が増えた。痛みが増えた。しかし苦しみは少なかった。
 喜びすらあった。生きる目的を手に入れた気がした。
 輝夜を殺し続けるためなら、何度死んでも構わないと思った。
 歪んでいると知っていても、何度地面に這いつくばっても、妹紅は己を止められなかった。輝夜も楽しそうに笑っている。喜んでいるのだ。不死として生きるものが、たとえ傍らでなくても共に同じ場所で生きていることに。
 舌を、歯を、唇を噛みながら、妹紅は何度でも起き上がった。白い髪に飛び散った血は、人のそれと同様に鈍く赤い。握った拳から、無尽の火が噴き上がっている。対峙する輝夜は、悠然と構え口の端を歪めていた。
「やめろ」
 苛立ちを込めた台詞さえ、誰の足も止められない。
 握り締めた妹紅の拳さえ、如何なる過去も振り払えない。
 かくして、確定された昔話の緞帳が降りる。
 赤く染まった背景が、瞬く間に白く転じた。

 

 傍らに、鞠を抱えた黒髪の少女がいる。相変わらずの襤褸を着て、傷だらけの身体を晒して無表情に佇んでいる。
 妹紅は妹紅と向き合い、苛立たしげに質問を投げる。
「何がしたいんだ」
 一足飛びに通り過ぎ、味わわされた過去の記憶に顔をしかめ、妹紅は強く拳を握る。過ちだらけの人生だった。遠回りばかりしていた。今、進んでいる道が正しいのかも解らない。正しい道があるかどうかも解らない。始めの一歩が既に間違っていたから、もう二度と明るい道に帰ることはできないかもしれない。
 今更、それが悔しいとは思わないけれど。
「知ってるんだよ。私がやったことは、全部」
 後悔し、懺悔し、苦悶、煩悶、嗚咽を漏らし、悲嘆に暮れた。人の胸に刃を突き立てた感触を覚えている。胸に刃を突き立てられた激痛を覚えている。皮膚の焼ける臭い、喉を裂かれる痛み、苦しみ、手の中から心臓の鼓動が消えていく儚さ。哀れだと思う。傲慢だと思う。
 救われない。報われない。
 死んだって死に切れない。
 死に続けた自分の身体が、掬われずにずっと圧し掛かっていた。
「何なんだ、おまえは」
 問う。答えのかわりに、少女は力強く妹紅を睨み返す。真っ黒で、その中心に淡い光をたたえた眩しい眼差し。
 その額に、刃物とわかる傷跡がある。初めにこの空間に足を踏み入れたとき、女の子の肌にこれほど大きな傷があっただろうか。
 思い出そうとして、鞠を抱えている少女の手の甲に、手首に、お腹、膝、くるぶしに、火傷、裂傷、肉が抉られ、肌を貫かれた傷跡が見て取れた。
「……おまえ」
 何が起こっているのか、少しずつ、朧気に理解していく。
 痛ましい姿でありながら、それでも不器用に笑う女の子の歯は何本か欠けている。よく見れば、鼻の骨も少し曲がっている。舌には、焼き串を通した跡があるはずだ。首にある赤い痣は、今は亡き誰かの手のひらと同じ大きさだと思う。
 襤褸を取り払えば、無数の傷跡が少女の身体に刻まれているのだろう。
 妹紅の過去を経て、この少女は何度も何度も何度も何度も死に続けて、今の妹紅が持っていない膨大な傷を、妹紅の代わりに受け止め続けていた。
 ふたりの妹紅に差異があるなら、死んでも治る妹紅と、死んだら治らない妹紅の違いである。一方が得た傷を、一方が代わりに引き受ける。それは心と呼ばれたり魂と呼ばれたりして、表に出ている妹紅を陰から支え続けていた。
 残らない傷などない。
 与えられた傷は、傷のまま妹紅の内側に蓄えられていた。
「……そうか」
 みずからの額を撫でても、そこに刀傷を見出すことはできない。お腹にしても、首筋にしても、手首にしても同じことだ。身体は生き続けるために傷跡を隠した。消したのではなく、内側に秘めて見えないようにした。
 だから、妹紅の中にいた少女は、こんなにも傷だらけなのだ。
「それは、私の」
 ……いや、違うか。
「私たちの傷だ」
 得体の知れないものと対峙していた恐怖は、既に掻き消えている。妹紅は女の子に歩み寄り、あまり変わらない肩を並べて、黒く艶やかな髪を撫でた。
「ん、……」
 慣れない手付きのせいか、始めは少し窮屈そうに俯いていた女の子だったけれど、次第に表情も綻んできた。自分を慰めるというのも奇妙なもんだと自嘲しながら、妹紅は女の子の髪を梳く。
 もう戻れない過去、こんなに美しい髪をしていた時代もあった。
 嫉妬よりも、虚しさが先に来る。その感情も、すぐに消えた。
「ごめんな。本当は、私も抱えなくちゃいけなかったのに」
 女の子がぎゅっと抱え続けていた鞠を、妹紅の手のひらが触れる。女の子は、目を見開いて妹紅を見る。妹紅は小さく首を振り、硬く強張った女の子の手を包み返した。
「いいんだ」
 痛かったから、辛かったから、傷跡を見て苦しむのが嫌がったから、全ての傷を見えないところに押し込んだ。
 そうして、妹紅の内側にいた女の子が、妹紅の代わりに苦しみ続けた。千三百年ものあいだ、ずっと。休む暇もなく。
 その苦しみに耐え切れなくなったから、あんなふうに、偽物の形で妹紅の前に姿を現した。
 これは、おまえの傷だと。
 そう、妹紅に訴えかけるために。
「これからは、ひとりじゃないんだ」
 ひとり寂しく、傷を抱えて鞠をつき続けることはない。
 女の子が抱えた鞠と一緒に、妹紅は女の子を抱き締める。温もりは感じない。ただ、此処にあることは実感できる。傷跡だらけの妹紅の分身が、決して死なない妹紅の身体に解きほぐされていく。
「もこう」
「うん」
 女の子が、ぽつりと呟く。泣いていたのかどうか、妹紅の位置からは見えず、声が震えから察することも難しい。
「ありがとう」
「うん」
 少しだけ俯いて、妹紅は女の子の肩に顎を乗せた。
 風のない空間で、ふと鼻の先に女の子の髪がまとわりつく。
 懐かしい思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡り、胸が痛くて、妹紅は声もなく涙を流した。痛くて、痛くて、止めたくても、止めることはできなかった。
「よし、よし」
 今度は、女の子が妹紅の白い髪を撫でる。温もりはない。ただ、触れられている実感だけを得る。
 お互いに、自分で自分を慰め合って、最後には傷だらけの身体を抱えて、欠伸交じりに地面に立とう。
 だから、それまでは。
「うん……うん」
 どうか、このさもしい傷の舐め合いが許されますよう。

 どうか。

 誰にともなく、妹紅は祈った。

 

 

 

 

 額に乗せられた氷の冷たさで、妹紅は目を覚ました。
「あ。起きた」
「あら」
 気色の異なる声が、右と左から聞こえる。
 青い空を背景に、見知った顔がふたつ、不思議そうに妹紅を覗き込んでいる。心配する様子など微塵もなく、どうせ起きるのだからゆっくり待とうと悠長に構えていたらしい。
 起きたときに言う台詞など決まっている。妹紅は、喉の調子を顧みずに言った。
「……おはよう」
「おはよー」
「おはようございます」
 お昼も過ぎましたけど、と咲夜は補足する。まだ意識が朦朧としているから、空腹を認識するのは難しい。上半身を起き上がらせて、太陽の傾斜を確認する。その拍子に、額を冷やしていた氷の塊がお腹に落ちる。
 ひょいと拾い上げた黄色い塊は、あまり見慣れない果物だった。
「……バナナ?」
「どうよ!」
「どうよって言われても、なぁ」
「あたいと勝負しな! 今度こそぎゃふんと言わせてやるんだから!」
「はいはいぎゃふんぎゃふん」
「言われたー!?」
 よほど衝撃的だったのか、頭を抱えて地面にうずくまるチルノ。そういや凍らせたバナナで釘が打てるようになったら、なんて話もしていたような。妹紅が忘れていることを他ならぬチルノが覚えているのも、珍しい話である。
 一方、丁寧にスカートを折り畳んで草むらに膝を突いている咲夜は、何やら変なものを見るような眼で妹紅を眺めている。値踏みされているような視線に、妹紅の神経もにわかに毛羽立つ。
「何よ」
 牽制すると、咲夜は柄にもなく驚いた様子で、声を詰まらせた。瀟洒が服を着て歩いているような彼女も、時に少女らしい表情を見せる。収穫だった。何の役に立つのかは解らないけれど。
「あ、いえ。見たことのない傷が増えていたから」
「……あー、これね」
 額に浮き上がった刀傷を、傷跡に沿って指を這わせる。遥か昔に得た傷は、明確な悪意を持って切り裂かれたゆえだ。
 青褪めた空を仰いでも、偽物と揶揄された妹紅はどこにもいない。
 胸に手を当てる。心臓の他に、目には見えない、手には触れられないものが確かにある。
「私、あれからどうなったの」
 傷だらけの痩せこけた妹紅と対峙して、紅蓮の炎に撒かれ、呆気なく意識を手放した。目が覚めたら、介抱と呼んでいいものか不明瞭な拘束を受けていたから、自分の身に何が起こったのかよく解らないのだ。
 咲夜にその旨を問うと、彼女も頬に手を当てて難しい顔をした。
「私にも、詳しいことは。しばらく暑苦しい炎の中心におふたりがいて、十分ほど経ってから急に火柱が消えて、あなたひとりが落下してきたのです。お屋敷にお通しすればよかったのですけれど、ちょうどよくあなたに似た方がお屋敷を襲撃しておりましたので、こうして野ざらしにさせて頂いたというわけです」
「時間を止めて運べばよかったんじゃないの」
「人間一人を抱えて動くのは、かなりの重労働ですので」
 しれっと言ってのける。
 要は、面倒だったということらしい。正直者である。
「その際、通りすがりの妖精に協力を仰ぎました」
「またバカにされた……ちくしょー……」
 愚痴りながら、ぶちぶちと草をむしるチルノの背中に、いくばくかの哀愁が見て取れる。あるいは、幼子の仕草に感じる特有の可愛らしさ、無邪気さのようなものを。
「そうか。ありがとな、チルノ」
「え、なんか言った?」
「んや。何でもないよ」
「そっかー」
 一言二言、会話が続けば、謝辞の真意も愚痴の理由も頭から消える。刹那的であることも、別に悪いことではない。
「心なしか」
「ん」
「雰囲気が、変わって見えます」
 不意に、咲夜が妹紅の全身を一瞥して言う。炎に包まれ、妹紅の服はあちこちが焼け焦げて穴が空いている。そこから垣間見える素肌は、かの分身のように満身創痍の傷跡だらけだ。火傷、裂傷、蓬莱人ならば傷跡さえ完膚なきまでに消失するのに、今の妹紅はただの人間のように痛々しく映る。
 けれど、本来はこうあるべきだったのだ。
 蓬莱人であれ、人間であれ、妖怪であれ。妹紅が妹紅として生きるのであれば、重ねた歳月の数だけ抱えなければならなかった無限の傷跡。
 幾度となく折れた手の甲を返し、妹紅は皮肉げに笑う。
「今更だけどね。これが『私』だよ」
 胸を叩き、額に垂れた水を拭う。
 咲夜は、あまりピンと来ていない様子だった。それでも構わない。妹紅自身も、詳しい説明はできないのだ。咲夜も適当に情報を整理したらしく、考えるのをやめて静かに立ち上がった。チルノは既にこの場を離れ、湖の上で他の妖精と戯れている。この調子だと、勝負のことは完全に忘れているようだ。手間が省けて助かったとも言えるし、暇潰しの約束が破られて寂しいとも言える。とりあえず、手持ちのバナナは知り合いに譲るとしよう。溶けたら。
 だが、どうやら暇を持て余す余裕は無さそうである。
 妹紅の介抱を終えて、仕事場に帰るだけの咲夜が、妹紅の挙動をじっと監視している。囚人の如き窮屈さを覚え、妹紅はしずしずと立ち上がった。少し、関節が軋む。
「まだ、何か用なの」
「そうですね」
 答えになっていない。が、答えはすぐに告げられた。
「私が考えた結果、あの偽物はあなたの関係者ということで」
「まあ、そうなるかな」
「ともすれば、あれが破壊したお屋敷の修理に貢献して頂くのも、関係者であるあなたが最も適切かと思いまして」
「ごめん用事思い出した」
「忘れてください」
 無茶を言う。
 気付いた時には襟首を掴まれ、あまり力の入らない身体が無理やり引きずられている。重労働は面倒だと言っていたわりに、面倒を押し付けるためなら手段を選ばない徹底振りである。感心する。
 ナイフを突き付けられないだけ、気を遣ってくれているのかなと思いながら、妹紅は咲夜の手を振りほどいて自分の足で歩き始めた。咲夜も、無理に拘束しようとはしない。
「仕方ない。気張って働くとしますか」
「ちなみに、逃亡者は死刑です」
「あぁ、死ぬのは嫌だね。傷も増やしたくない」
「あなたが言っても、説得力に欠けますわ」
「同感だ」
 自嘲する。が、素直な想いではあった。
 足を進めるたびに、紅魔館の様相と、外壁を修理する喧しい音が大きくなる。妖怪と妖精メイドが、雑談を交えながら一所懸命建て直しに奔走している。妹紅の一部が行った所業といえども、そこはかとなく申し訳ない気持ちになる。
 頬を掻き、背中に浴びせかけられる無邪気な挑戦者の叫びを、妹紅は知らない振りをして歩き続けた。いつか、この背中に辿り着いた時には、勝負と称して外壁の修理を手伝わせよう。あの氷精のことだ、調子に乗せればきっと喜んで仕事してくれるし、終わった頃には勝負のことなど忘れている。
 それは、とても微笑ましい想像だった。
「待てー!」
「待たないよ」
 瞳を閉じても、まぶたの裏に過去の記憶は映らない。
 見えるのは、何の変哲もない今日の肖像。壊されて、懲りずに建て直される外壁。忘れかけて、また思い出し、懸命に追いすがる約束の残像。
「ふう」
 関節の痛みは、もう消えている。チルノの声が近付いてくる。現場を指揮している妖怪が、咲夜の存在に気付いて大きく手を振った。
 何度も何度も踏み固められて出来た道の上で、妹紅は、遥か昔に付けられた額の傷を撫でた。

 

 

 

 



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2010年4月20日  藤村流
東方project二次創作小説





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